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『良い死』『唯の生』続

医療と社会ブックガイド・96)

立岩 真也 2009/07/25 『看護教育』50-7(2009-7):
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http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


 この2冊の本、とくに『唯の生』で書いたことの一つは、短い間のことではあるのだが、歴史についてである。30年ほどの間に何が起こったのか。第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」。
 何が起こってきたのだろう。世の中が、と大きなことは言わないとしても、とくに高齢者の生活がだんだん悪くなっていると語る人もいる。私自身はそのようにばかり言うと、以前はよかったということになって、そういうことでもないだろうと思うから、そうは言わない。とくに医療施設や福祉施設の現場で働いている人たちが、依然として、とてもていねいに根気よく仕事をしていると思う。
 ただとにかく「限界」はある、それは仕方がない、そんな気持ちが広まってきたように思う。そして働き手たちは、しなくてよいことをしているかもしれないと自分たちのことを思うようになっているところがある。受け手の方も、控えめであった方がよいと自分について思う。思わなくても言う。
 どんな具合にそのようになってきたのだろう。ただお金がもったいない人が、足りない足りないと言いふらしたからというのではない。様々にもっともなことが言われてきた。良心的な人、まじめな人たちが、事態をよくしようと思って言ってきたこと、行なってきたことが関係していると思う。そのことを書こうとした。
 その一つに、医療と福祉の間の関係の変化、またそれぞれに起こった出来事があるだろう。結果、どちらとの関係でも、うまく暮らして行けない人たち、両者の間の溝に落ちてしまう人が現れる。
 もちろん、すべての人が「医療と福祉の連繋」を言うし、すべての人が賛成する。けれども実際にはどうか。まず、関係者が知っているべき制度を知らないとか、具体的な様々な事情がある。このことについては4月号で紹介した雑誌『生存学』創刊号に掲載されている「独居ALS患者の在宅移行支援」という4本続きの論文に記されている。こんどの私の本では、1970年代以降起こったいくつかのことを追っている。
◇◇◇
 たとえば「キュアからケアへ」という標語がある。もっともな言葉である。だが、あきらめなくてちよいことをあきらめてよいとされる時に使われることもある。
 「なおす行ないとしての「キュア」とそれが断念された後に用意される「ケア」という図式があって、この二つともたしかに大切なものであるのだが、しかし、この二つだけではない、あるいは両方でもあるような営みは、実際にはいくらもなされているのに、この図式のもとでは浮かびあがってこない。[…]
 しかしそれは大切なことではないだろうか。」(p.165)
 福祉施設に移った(移された)人が、そこで、完治するとかそんなことにはならないとしても、生き続けるためにはあった方がよい処置を受けることができないといったことがある。それはないだろうと思うこともあるのだが、他方では、それは仕方がない、それでよいのだともされる。そんなことが起こってきた。起こっている。
 なおらないものをなおそうとしてもむだだ。それはその通りだ。私自身も、なおらないのになおそうとされて迷惑を被ってきた人たちのことを書いてもきた(『生の技法』、藤原書店)。しかし、なおらなくても生きていくことができることがあり、生きていくために必要なものがある。それを医療と言おうが福祉と言おうが、当人にとってはどうでもよい。しかし「延命措置」「無駄な延命措置」「たんなる延命」などという言葉が使われる時、その当たり前のことが忘れ去られている、とまでは言わないが、後景に退いていく。
 「不治である病を抱えているとして、その状態で生きていることに価値がないことにはならない。このことは障害のことを考えてみてもわかる。それはなおらない[…]。しかしなおらない状態を抱えて生きていることに価値がないとはならない。とすると、生きるために必要なことがなされることに価値がないともならない。
 もちろん、なおらないにもかかわらず、なおすための――しかし結果として何も得られない――行ないをすることは無駄であり、副作用が起こってかえって苦しむことになるのであれば有害である。しかしそれは、その行ないが不要であるということであり、「延命措置」が無駄であり不要であるということではない。
 ここまでも誰もが認める。ただ、一九八〇年代から一九九〇年代を経て「たんなる(単なる)延命」という言葉が普及していった時、このことがさほど明瞭にされていたのではない。」(p.163)
◇◇◇
 「医療から福祉へ」という言葉もある。「施設から地域へ」という言葉もある。そのことに私は、基本的に、反対ではない。しかしそのような言葉のもとに何が起こってしまったのか。書いたのは一つにそのことである。そして、どうして、どのようにして、そうなったのかである。それはそれなりに複雑な過程だったと思う。そして、その記述・分析はそうない。とくに「終末期医療」に即したものは意外なほどない。これからの研究者にもっときちんとした仕事をしてもらうためにも、とりあえず書けることを書いた。
 まず、移っていったというその先の福祉の方が、どれほどのものだったかということだ。2000年に公的介護保険が始まる。それはけっこうなことだった。しかしけっこうなことであったと同時に、そこには、新しくそして相当に大きな制度として、一定数の人々の同意を得て、なんとか立ち上げねばならないという事情があった。医療からのシフト、在宅への移行でお金が節約できると言われた。そして合意を得るための戦術というだけでなく、それは、誰もが等しく有する「要介護」の可能性――そのこと自体はおおむね間違っていない――に対して、一人ひとりが同じ備えをするものとして、具体的には、おおまかには――財源としては税も使われている――各々が同じだけの金を払うものとして、つまり、まさに「保険」として始まり、そしてその枠内で存続してきた。もちろんそういう仕組みのもとでも今よりずっときちんとしたことはできる。けれど、それが難しいように思ってしまう私たちの心性を、この枠組が作ってしまったのだとも言える。一方はこのような具合だ。
 他方、医療の方はどうか。たしかに、出来高で払われる仕組み――私は基本的にはこれはよい仕組みだと考えている――のもとで医療の供給側がなんでもできてしまうようになっているなら、過剰、というより加害的な供給がなされてしまう。1970年代の「老人病院」にそんな状況があった。それに対して正しく批判がなされた。むしろんその多くは医療の削減を意図したのではなかったが、「過剰」という理解は社会で一般的なものにもなった。そして、そんな声・意識も受けながら、「無駄」を減らさねばならない、正確には、医療費は自然に増えていくのだから増える分を減らさねばならないと言われ、多くの人がそういうものかと思ってしまう。
 そうして実際に減らされる。その仕事にお金がつかなくなると、その仕事を控えるようになる。仕事を守ろうとする力が衰える。
 このようなことを言うと、怒る人がいる。その怒りはもっともだと思う。「私たちはお金のことを考えてやっているわけではない」と言われるのだ。その通りだと思う。しかし、全般的な傾向というものはやはりある。病院は、営利を追求してはいないとしても、しかし経営のことは気にせざるをえない。これもまた事実である。
 こうして、医療からの撤退が起こっていくのだが、その代わりに用意されたという福祉の方は、最初から「そこそこ」のものとして作られている。
 そこに明白な悪意があったわけでもない。高齢者についてなにもしなくてよいという人はまずいない。みながそれぞれに真面目に、様々を心配して語り、それらが組み合わさり、現実ができてきている。いま記したのはその一部であり、まだいろいろなことがあり、いろいろなことが言われた。十分に調べもせずに書くのはためらわればもしたが、まずは書いておこうと思って書いた。
 しかしそれでも、足りないからには仕方がないではないかと言われる。その真面目な思いはそれとして受け止めよう。しかしそう暗く真面目になる必要はないのではないか。ずっとそのように私は思ってきた。そのことは『良い死』の第3章「犠牲と不足について」で書いてみた。間違ったことは書いていないと思う。もっと具体的にどうするか、この章のもとになった『現代思想』での連載をまだ続けいて、そこで税の話をしている。それももうしばらくで青土社から出る本になるはずだ。

■表紙写真を載せた本

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.

『唯の生』表紙



◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,


UP:20090527 REV:20090531(校正)
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