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近藤 喜代太郎

こんどう・きよたろう


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%96%9C%E4%BB%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E

近藤 喜代太郎(こんどう きよたろう、1933年(昭和8年) - 2008年(平成20年)9月30日[1])は、医学者、公衆衛生学者、鉄道研究家、北海道大学名誉教授。
経歴
静岡県生まれ。1959年東京大学医学部卒業。69年医学博士。東大内科、新潟大学助教授(神経内科)、1984年北海道大学医学部教授(公衆衛生学)、1997年定年退官、名誉教授、放送大学教授(健康科学)、2002年同客員教授。

著書
『国鉄きっぷ全ガイド 国鉄きっぷ全券種の誕生から現在までの歴史と券面の変遷を徹底解説』日本交通公社出版事業局 交通公社のガイドシリーズ 1987
◇『健康科学――医と社会の接点を求めて』放送大学教育振興会 2002
『幌内鉄道史 義経号と弁慶号』成山堂書店 2005
『アメリカの鉄道史 SLがつくった国』成山堂書店 2007
◇『医療が悲鳴をあげている――あなたの命はどうなるか』西村書店 2007
共編著
『神経疫学』黒岩義五郎共編 医学書院 1976
『人類遺伝学の基礎』葛巻暹、吉田廸弘共著 南江堂 1990
『神経疾患のプライマリーケア 一般臨床医のための診療ガイド』鴨下重彦共編 診断と治療社 1991
『神経疾患の遺伝学』鈴木義之共編著 金原出版 1993
『医療・社会・倫理』藤木典生共編著 放送大学教育振興会 1999
『高齢者の心と身体』折茂肇共編著 放送大学教育振興会 2000
『循環器科学』藤島正敏共編著 放送大学教育振興会 2000
『母子の健康科学』日暮眞共編著 放送大学教育振興会 2000
『がんの健康科学』小林博共編著 放送大学教育振興会 2001
『公衆衛生――健康をまもる社会のしくみ』編著 放送大学教育振興会 2001
『ゲノム生物学 生物科学革命と21世紀の社会』岩槻邦男共編著 放送大学教育振興会 2003
『リハビリテーション』眞野行生共編著 放送大学教育振興会 2003
『感染症と生体防御』笹月健彦,岩本愛吉共編著 放送大学教育振興会 2004
『国際共生と健康』新福尚隆共編著 放送大学教育振興会 2004
『国鉄乗車券類大事典 115年の乗車券・運賃料金・旅客サービス』池田和政共著 JTB 2004
翻訳
ジーニー・ヘロン編集『左きき学 その脳と心のメカニズム』杉下守弘共監訳 西村書店 1983
脚注
1 近藤喜代太郎氏死去 北海道大名誉教授 - 共同通信、47news、2008年10月2日

 「近藤喜代太郎 こんどう・きよたろう 1969年東京大学医学部卒業。同大内科、新潟大学助教授(神経内科)を経て北海道大学医学部教授(公衆衛生学)、放送大学客員教授(健康科学)を歴任。北海道大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)」




◆近藤 喜代太郎 他 1988 「筋ジストロフィーの施設ケアの便益性(予報)」,厚生省精神・神経疾患研究 筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班(班長:西谷裕)[1988:5-8]* [125]
*厚生省精神・神経疾患研究 筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班(班長:西谷裕) 19880331 『厚生省精神・神経疾患研究筋ジストロフィー症の遺伝,疫学,臨床および治療開発に関する研究 昭和62年度研究報告書』  [125]

◆近藤 喜代太郎 1996 「阿賀野川流域における水俣病の発生動態――曝露の実態と患者の認定」,『日本衛生学雑誌』51:599-611

◆近藤 喜代太郎 20020320 『健康科学――医と社会の接点を求めて』,放送大学教育振興会,290p. ISBN-10: 459513326X ISBN-13: 978-4595133268 [amazon][kinokuniya] 1400

 「近年、同じ考えをもつ人々が集団で意思表示し、制度の新設・廃止などを求めることが多くなった。このような運動体には行き過ぎ、身勝手もあるが、多くの場合、激動する社会のなかで行政が硬直し、きめ細かい役割を果たせないことへの人々の告発でもあり、幅広い市民が共感を覚えるものである。/こうした運動体には目的を達すれば解散する「期成同盟」もあるが、多くの問題を抱える難治性の疾患などでは恒久的な患者団体がつくられる。一般に疾病ごとに国内の患者団体ができ、国内的には類似の団体と連合会をつくり、国際的にも同一疾病の団体が国際組織をつくっている。」(近藤[2002:188])
 「外国だけでなく、日本にも成功例がある。「日本筋ジストロフィー協会」は昭和30年代に「進行性筋萎縮症親の会」として発足し、結核病棟を全国展開させ、総理大臣への直訴によって国立精神・神経センター創立の原動力となり、多くの筋ジス関係の研究班に巨額の国費が投じられる圧力となっている。」(近藤[2002:188])

◆近藤 喜代太郎 20071205 『医療が悲鳴をあげている――あなたの命はどうなるか』,西村書店,246p. ISBN-10: 4890136150 ISBN-13: 978-4890136155 952+ [amazon][kinokuniya]

 「患者らの「アドボカシー(advocacy)」とは、自らの病気を理解してもらい、当局、医療界、世論などに希望を伝え、実現をめざすことである。
□患者が苦境を訴え、制度を求める時代になったようだ。近年、同じ考えをもつ人々が集団で意思表示し、制度の新設・廃止などを求めることが多くなった。このような運動体には行き過ぎ、身勝手もあるが、多くの場合、激動する社会のなかで行政が硬直し、きめ細かい役割を果たせないことへの人々の告発でもあり、幅広い市民が共感を覚えている。
 患者数の少ない難病などは、患者も座していては医療福祉政策が自然に増進するものでは△244 なく、行政、学界に自らの問題を知らしめ、望む成果を自ら闘いとる時代なのである。 
 こうした運動体には目的を達すれば解散する「期成同盟」もあるが、多くの問題を抱える難治性の病気などでは恒常的な患者団体がつくられる。一般に病気ごとに国内の患者団体ができ、国際的にも同じ病気の団体が国際組織をつくる例がある。
 患者団体の目的・意義は病気によって異なる点もあるが、@患者・家族の親睦、情報交換、慰め合い、A官公庁への制度要求、研究費の増額などの要求、B医療界への研究の振興、専門的医療の充実などの要求、C集会の主催、会誌の発行などの広報活動、などがあり、必要に応じてデモ行進、街頭募金、ビラ配りなども行われている。/外国だけでなく、日本にも成功例がある。「日本筋ジストロフィー協会」は、一九五〇(昭和二五)年代に「進行性筋萎縮症児親の会」として発足し、空床がめだつ結核病棟をどう転用するかを考えていた当時の厚生省に、筋ジス病棟を全国展開させた。また、その時点の総理大臣への直訴によって国立精神・神経センター創立の原動力となり、多くの筋ジス関係の研究班に巨額の国費が投じられる圧力となっている。
 最近の顕著な例にがん患者の運動がある。自身、がんを患う医師、議員が主体となって日本のがん患者のおかれた苦境を訴え、マスコミのカも借りて「がん対策基本法」という立法をかちとった。△245」(近藤[2007:244-245])

■水俣病関連

◇坂東 克彦 20000125 『新潟水俣病の三十年――ある弁護士の回想』,NHK出版,219p. ISBN-10:4140804920 ISBN-13:9784140804926 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34

 「弁護団は原告全員が水俣病患者であることを立証すると同時に、認定基準は医学的なものでなく、患者を切り捨てるために運用されていることを明らかにしました。
 白木博次(元東大医学部長)、原田正純(熊本大学)、藤野糺(水俣協立病院)、大島義彦(山形大学整形外科)、斎藤恒(医師団)、関川智子(医師団)らが原告患者側の証人に立ちました。
 白木は国際的に優れた神経痛理学者です。白木は次のように証言し、認定審査会を厳しく批判しました。
 「体内に入った有機水銀は全身に行きわたるのであって、これを神経細胞だけを冒す神経内科病としているところにそもそもボタンのかけ違いがある。認定審査会は患者の訴え(自覚症)を無視し、数値化、客観化された症状だけを症状と見るが、それは正しくない。医学は経験科学であって実証△078 科学ではない」
 原田は幾度も新潟を訪れ、新潟の患者を診察しうえ、新潟の原告も熊本の患者と同じく水俣病患者に間違いないと証言しました。
 斎藤、関川は主治医として原告らの病状を明らかにし、全員が水俣病患者であると証言しました。
 これに対して国と昭和電工は、共通の証人として椿忠雄を最初に尋問する予定でいました。
 椿は新潟水俣病を発見した入物です。その後厚生省特別研究班の一員として県衛生部の北野博一、新潟大学の滝沢行雄とともに原因究明に加わり、いち早く「工場排液説」を打ち出しました。前にも述べたように椿は弟一次訴訟で原倍側の証人を引き愛け新潟水俣病の原因は昭和電工であると証言し、裁判勝利に大きく貢献しました。
 ところが、椿はその後環境庁の側に立ち、一九△079 七七年(昭和五二年)、一九七八年(昭和五三年)の水俣病認定基準の見直しに深くかかわったぱりか、環境庁水銀汚染調査検討委員会健康調査分科会の会長をつとめて、有明海、関川など一連の第三水俣病問題では積極的にこれを否定ずる側にまわり、さらに熊本水俣病第二次訴訟では、原者らは患者でないとの鑑定書を書きました。そして椿が会長をつとめる新潟の認定審査会では、認定申請をした患者のほとんどを患者でないとしました。
 国と昭和電工は椿を被告側のトップバッターとして証人に立て、新潟の患者に対峙させようとしたのです。しかし、椿は証人申請が行われる直前に亡くなりました。
 椿亡きあと、国と昭和電工は椿にかわる証人として滝沢行雄(元新潟大学公衆衛生、その後環境水俣病研究センター長、生田房弘(新潟大学脳研究所)、岩田和雄(新潟大学眼科)、水越鉄理(新潟大学卒、富山薬科大学耳鼻科)、福原義信(新潟大学卒、国立療養所犀潟病院)、湯浅龍彦(元新潟大学神経内科、東京医科歯科大学)、近藤喜代太郎(元新潟大学神経内科、北海道大学公衆衛生)らを立ててきました。
 椿にかわる医学証人はすべて、審査会での患者切り捨てを結果として正当化する証言をしました。
 このうち近藤喜代太郎は、認定審査会の仕事は患者を「カットオフポイント」で切ることだと公然と認めたうえ、「診定にあたっては高度な神経学的知識が要求される。真の水俣病は神のみぞ知るであり、真実と一番近いのが認定審査会の結論である」と述べました。
 診定というのは、患者が認定基準にあたるかどうかという判断であって、患者の症状から何の病△080 気かを判断する診断とは性格が違うものです。」(坂東[2000:78-81])

◇津田 敏秀 20040629 『医学者は公害事件で何をしてきたのか』,岩波書店,256p. ISBN-10:4000221418 ISBN-13:9784000221412 2600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34
◇近藤 喜代太郎 1995 「阿賀野川流域における水俣病の発生動態――曝露の実態と患者の認定」,環境庁委託研究費「水俣病の総合的研究」報告書
◇近藤 喜代太郎 1996 「阿賀野川流域における水俣病の発生動態――曝露の実態と患者の認定」,『日本衛生学雑誌』51:599-611

 「もう一つ根拠らしい論文が見つかった。近藤喜代太郎北海道大学医学部教授による「阿賀野川流域 > 0150 > における水俣病の発生動態――曝露の実態と患者の認定」(『日本衛生学雑誌』一九九六、五一、五九九―六一一)である。この研究は本人も『THIS IS 読売』という雑誌で自慢しているから、少しは自信があったのだろう。この論文の間違いを指摘するには少し時間がかかった。この論文を読まれた人が誰しも感じるように、何が書いてあるのかを理解するのに一苦労するからである。従って、近藤論文の誤りを指摘した私たちの論文は、近藤論文のちょうど良い解説書にもなっている。なぜ分かりにくいかというと、近藤氏は疫学分析の基礎を全く身につけておらず、我流の解析をやっているからだ。
 なお、衛藤・岡嶋論文も近藤論文も環境庁の研究費を用いて行われている。このようなお粗末な研究にどの程度の研究費が使われたのかは不明である。
 […]
 近藤喜代太郎論文の検証
 一九九六年五月末の北海道大学での日本衛生学学会における、「昭和五二年判断条件が医学的に誤った判断条件である」と筆者(津田)が発表した分科会の席上で、近藤喜代太郎氏はおおむね次のようのに主張してきた。

  近藤 私は、昭和五二年判断条件を作成した椿忠雄教授の下で、議論に加わっていた者です。あなた[津田のこと]は、昭和五二年判断条件が医学的に誤っていると言うが、あれは、元々医学的△163 な基準でも何でもなく、誰に優先して補償するかを決めるための基準ですよ。
  津田 先生、環境庁はそのようには言わずに、昭和五二年判断条件があくまでも医学的判断条件と言ってますよ。
  近藤 あれは環境庁が勝手に言っているだけだ。
  津田 それをご存じなら、なぜそのことを公にしないのですか。なぜなら、水俣病のこの二〇年間は、昭和五二判断条件が医学的な判断条件か、そうでないかを争ってきたんですよ。みんな、この問題に振り回されてきたのですよ

 近藤氏は私に対して「水俣病の判断条件(昭和五二年判断条件)が医学的に誤っていることを、津田は熱心に日本衛生学会で発表している。しかし昭和五二年判断条件が医学的な判断条件でないことは、椿忠雄氏の周辺にいた人たちなら皆知っていることで、別にここで熱心に発表するほどのことではない」とでも言いたかったようである。しかし、近藤氏がここで言っていることは、そのまま患者側の主張であり、そのことを、椿忠雄氏を含めて国・熊本県・新潟県が認めないから、数多くの水俣病裁判が継続していたと言っても過言ではない。私は、唖然とした。学者は当事者でありながら、当事者意識が全くないのだ。「環境庁が勝手に言っている」ことが誤っているのを知りながら、それを決して公にはしなかったのだから。」(津田[2004:149-150,162-163])

◆津田 敏秀 20091106 「水俣病問題に関する解説的意見書」 https://www.okayama-u.ac.jp/user/envepi/dl/13_20120217.pdf

■言及

◆立岩 真也 2018/07/01 「七〇年体制へ・上――連載・147」,『現代思想』46-(2018-07):-

 「■近藤喜代太郎――研究における研究前からの施設の肯定
 医療や看護に関わる人たちがいる。これから具体的に関係した幾人かの人物についてごく簡単に幾つかの挿話を示す。事実だけを示してわからせる、皮肉が伝わるといったことが意外に難しいことを感じるので以下、すこし強い表現を用いる。
 すくなくとも幾人かは正義の人たちであった。朝日訴訟に関わったり、スモンに関わった人たちがいる。その人たちのさらに幾分かは、その自らの立場は終生変わらないと自認しているだろう。そのように自らの出自と現在を語るだろう☆。ただどのような場から出発しようと、その人たちには自分たちの仕事がある。その仕事をしている限り、以前『造反有理』☆でとりあげた造反派の医師たちもそうだったが、仕事と生活は維持できる。正義や使命を職業にすることができる人たちである。さらに、いま述べた政治との関わりがある。そこに参入し、貢献することはよいことであると思われる。民間団体・家族会の協力を得て、研究体制を作っていく。看護師たちは、医師の協力者として、さらにその後では「在宅看護」「訪問看護」に自らの職域を得て参与するようになる。その信条はそのまま、その職域を発展させ、また護ろうとする。自らの職場・職域を維持さらには拡大することはよいことであり、そのために尽力することもよいことであると思われる。そうしたことごとのためにしばしば「本庁」と呼ばれる厚生省他、政治との関係を維持し発展させることもよいことであるとされる。実際その方向で働くことになる。
 これまで、ときにいやいや、しかし施設を存続させるためには余儀ないこととして、経営者たちは筋ジストロフィーや重症心身障害児を受け入れたことを見てきた。既にある施設がなくなることはなく、続けて使われた。その施設長は医師で、医学部から移ってきた医学者であったりもする。医学者でもあるその経営者たちは、研究によって拠点となるのだと言う。研究班が形成され、研究費を受け取る。それはその人たちの結束・連帯の場でもあった。その成果は、普通は人の目にふれない毎年の報告書として出される。ただ、筋ジストロフィーの研究については、研究のまとめが公刊されたこともある☆。まったくの自然科学の素人にはどう理解してよいかわからず、きっとそれほど解明の困難な疾患なのだろうと思う他ないのだが、残念ながら今日にいたるまでさしたる成果は得られてはいない。得られていないが、長く多くの研究(報告)がなされてきた。
 その報告書の一つに奇妙な報告がある。筋ジストロフィーについて八四年度から八六年度の第一期の後、第二期初年度の研究班の報告書☆で、主任研究者は国立療養所宇多野病院院長(当時)の西谷裕☆。他のすべては医学研究の報告だが、最初に置かれる「T遺伝・疫学」「A疫学」の冒頭に「筋ジストロフィーの施設ケアの便益性(予報)」という、とても不思議な、報告がある。ちなみに徳田篤俊は以前紹介した日本筋ジストロフィー協会の設立に関わった人。

 ▼幼小児期の筋疾患は事実上、無対策の状況にあったが、DMD児の父、徳田篤俊氏の主張で、空床が増していた結核療養所の転用が図られて現在の療病態勢がつくられた。これは典型的な「施設ケア」であり、国療筋ジス病棟で(1)生涯にわたる生活、(2)診断・治療・リハビリ、(3)教育が有機的に結合され、患者は全国に分布する二〇数ヶ所の施設のどれでも無料で利用できる。
 これは外国に例をみない高度・総合的な態勢であり、昭和三〇年代の患者、患家を悩ました多大の問題が解決されたが、その反面、近年、つぎのような問題点がおきたといわれている。
 (1)ほぼおなじ程度に重篤な他疾患の対策とかならずしも整合しない。/(2)同一の進行性疾患のみを集めた専門的施設ケアであるため、医師、職員とも一般診療とはやや異なる使命感が望まれ、志気の維持に特別な努力が必要である。/(3)同じ理由で、患者や家族にも種々の心理的問題がおき、他疾患と混合した施設での療育を希望するケースがある。/(4)障害者も対等に社会参加すべきであるとする最近の思潮に反する。/(5)DMDは男児一〇萬当り二〇〜二五人発生するが、最近の産児数の減少で患者の実数が減り、(3)、(4)の影響もうけて一部の施設では空床が漸増している。/(6)すべての行政分野が効率の面から見直される現在の状況と、(1)、(5)に掲げた傾向のために、筋ジスの施設ケアの便益性、とくに我が国の国民性、社会経済的特性からみて、当初考えられていた通りに本症に適した施策であることを再確認する必要があるかもしれない。/(7)近年、DMDの分子レベルの研究がいちぢるしく進み,本症自体の治療はとにかく、保困者診断、出生前診断など遺伝対策の基盤となる技術が従来とは異なる原理に立脚する可能性がたかいが,「施設ケア」はその母体となる有効な枠組である。(近藤他[1988:8])▲

 問題点をあげつつ、(6)「当初考えられていた通りに本症に適した施策であることを再確認する必要があるかもしれない」、(7)は全体として意味がとりにくいが、「施設ケア」はその母体となる有効な枠組である」として、予め肯定されている。

 ▼プロジェクトTでは表記の課題を検討するが、どのような方針で、どんなモデルに従い、どんな項目を取りあげるか未定である。「費用便益分析」の適用もひとつの手段であるが、その結果をどんな原理に照して解釈するかも未定の重要問題である。ただ、現時点でも確言できることは、本症の特性からみて、昭和三〇年代の状態に逆行することはあり得ず、
 (1)施設ケアは診療、リハ、教育、生活維持などの多岐にわたる問題を一元的に解決し得た、きわめて優れた対策であること。
 (2)在宅ケアは、本症の場合、施設ケアと対等に並ぶ選択肢にはならず、進行性経過のなかのある期間に、個々の患者、家族の考えやおかれた状況のもとに選択されるものであり、終末ケアをふくむ総合的対策に代り得ないこと。
 である。その意味で、本症の場合は施設か在宅かという選択ではなく、施設を中心に体系化されている現行対策のなかに、在宅ケアまたは専門施設以外の施設ケアを関連させ、患者にとってよりよい体制をつくるのが大切であると思われる。(近藤他[1988:8])▲

 これから研究するという、その方法も定まらないのだが、「施設ケア」は、予め、強く肯定されている。この不思議な文章を書いた近藤喜代太郎(一九三三〜二〇〇八)という人は椿忠雄(次回)の東京大学から神経内科が新たに設置された新潟大学への転任に伴い、やはり東京大学から移った医師・医学者(後に北海道大学)。
 その著書では(「患者本位の医療の仕組み」といった題の章で)「患者の団体活動」を肯定的に述べている。

 ▼近年、同じ考えをもつ人々が集団で意思表示し、制度の新設・廃止などを求めることが多くなった。このような運動体には行き過ぎ、身勝手もあるが、多くの場合、激動する社会のなかで行政が硬直し、きめ細かい役割を果たせないことへの人々の告発でもあり、幅広い市民が共感を覚えるものである。[…]
 外国だけでなく、日本にも成功例がある。「日本筋ジストロフィー協会」は、一九五〇(昭和二五)年代に「進行性筋萎縮症児親の会」として発足し、空床がめだつ結核病棟をどう転用するかを考えていた当時の厚生省に、筋ジス病棟を全国展開させた。また、その時点の総理大臣への直訴によって国立精神・神経センター創立の原動力となり、多くの筋ジス関係の研究班に巨額の国費が投じられる圧力となっている。(近藤[2007:244-245]、近藤[2002:188]にもほぼまったく同じ文章)▲

 これまで見た多くの文章のように、この種の、多く施設経営者でもある医師・医学者は民間の(親の)組織を肯定する。それは施設を作らせ(使わせ)、研究の場を使わせ、そして「巨額」の研究費をとってくるのに貢献したからだ。
 この人の上役である椿は新潟水俣病を「発見」した人だが、その後認定基準を厳しくすることに関わった。近藤はそれを引き継ぎ、それを維持した。この二人、そして東京大学からやはり神経内科が新設された鹿児島大学――新潟大学と鹿児島大学の医学者は今でも国の難病政策に関わる重要な位置にいると聞いたことがある――に行き、後に国立療養所南九州病院の院長他を務める井形昭弘たちはこの立場を取り続ける。その人たちが、認定がどんなものであるべきかについての普通の科学知識をもたず、しかし反論に答えないままその主張を維持したことについては津田敏秀の著書等で詳しく示されている☆。このことは、水俣病に関わった一部の人たちには知られている。ただ他方の同業者たちは、そのことにはふれることなく、互いに讃えあい続ける。その一人である近藤にとって、一部の団体には「行き過ぎ、身勝手」があると言うのだが、そうであるかどうかはおのずと決まる、つまりは自分が決める、そして自分が決めていることに気づいていないようなのだ。自分が思っていることを隠さず言うという意味ではすなおではあるが、無思慮ではあり、そして文章としても論理として良質と言えないものがそのまま、報告書という「うちわ」の媒体だけでなく、文章となる。そうした研究・言論の水準が、先輩を讃え互いに肯定しあう空間の中で維持される。他方で肯定的に紹介されるのがどんな団体であるかはいま見て、再唱した通りだ。そうして讃えられる団体の人たちもまたこの医師たちを讃え続け、他で、例えば水俣病について何を言い何をしたかは知らないか言わない。
 こうして六〇年代から始まった動きから七〇年代以降の体制が作られていく。次回にそれを確認する。椿忠雄、白木博次☆、井形昭弘☆といった人たちが出てくる。やはり水俣病に関わった人たちでもあり、難病に関わった人たちでもある。なぜ椿が水俣病について厳しい態度に転じ、井形・近藤らがそれを継いだのか。それは水俣病への対応だけみてもわからないと思う。その人たちが占めることになった位置に関わるはずである。そのこと等を見る。」


◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b3)』,青土社 文献表


UP:20180404 REV:20180409, 0614
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