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「安楽死尊厳死について」(インタビュー)
立岩 真也
2017年7月23日MXテレビ収録,於東京・MXテレビ 放映は8月
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◆2019/01/02
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1080404500915998720
「安楽死尊厳死についての2017年のテレビインタビュー再発見→
http://www.arsvi.com/ts/20170723.htm
「死にたいという気持ちはわからないでもない…けれども、そのかわりに…死にたくない人、死ななくてすむ人が死んでしまう。可能性だけじゃなくて、実際にそういうことが起こってきた。だから賛成できない。まず」」
◆2019/01/02
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1080405898621706241
「インタビュー続。「自分は安楽死したいとか尊厳死したいと言ってる人って、特に若い人ね、やっぱりかっこつけてるんだと思うんですよね。自分は今そういう状態で、ああなったら俺も終りだなみたいな。…自分のことだと言いながら自分じゃないことを想像したり見たりして…」→
http://www.arsvi.com/ts/20170723.htm
」
◆2019/01/03
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1080596499329732608
「続2「大切にしている自分の命というものを、そうなったら差し出していいと言ってるわけだから、かなり強力な否定ですよね。ああなったら俺は死んだっていいんだぜと言ってるわけだから。」→
http://www.arsvi.com/ts/20170723.htm
病障害の「よしあし」については『不如意の身体』→
http://www.arsvi.com/ts/sale2018.htm
」
■
◆立岩 真也 2017/08/16
『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』
,
Kyoto Books
◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009
[amazon]
/
[kinokuniya]
※ et. et-2012.
◆立岩 真也 2009/03/25
『唯の生』
,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209
[amazon]
/
[kinokuniya]
※ et.
◆立岩 真也 20080905
『良い死』
,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193
[amazon]
/
[kinokuniya]
※ d01.et.
◆
立岩 真也 2020/**/**
『(本2)』
インタビュアー:よろしくお願いします。
立岩氏:よろしくお願いします。
インタビュアー:今日は番組で、尊厳死、安楽死について、いろんなご意見をうかがいたいなと思っておりまして、先生のお考えを教えていただけますでしょうか。
立岩:少なくとも、法律とかそういったもので、それを積極的に認めることに関しては、反対という立場でずっとそういうことを言ってきた、書いてきたり言ってきました。
インタビュアー:それはどういう理由をちょっと、もう深くうかがうと、どういう理由で。(発話そのまま)
立岩:端的にいえば、簡単にいえば、まだ死ななくていい人、死にたくない人というのが、結果的に死にいたる、ということがありうるし、ありうるというだけでなくて、実際に起こってしまう。起こってきたから、ということになります。
だから、死にたいという気持ちはわからないでもないし、それはそれでだめだとは思いませんけれども、そのかわりにというか、死にたい、死にたくない人、死ななくてすむ人が死んでしまう。可能性だけじゃなくて、実際にそういうことが起こってきた。だから賛成できない。まずはそれに尽きます。
インタビュアー:今、おっしゃっていた…ちょっと勉強不足で申し訳ないんですけど、その死にたいという希望がある人だけじゃないというところを、くわしく教えてほしいんですけど。
立岩:そうですね。たとえばいろんなパターンがあるんだけれども、ある一時期にこうなったら死にたい、とたいがい元気な時というのは、元気じゃなくなる、元気じゃない時も元気じゃなくなると嫌ですし、重い病気であるとか障害をもったり、それは嫌ですよ、ふつうね。そういったときにそうなったら死にたいという。"Living Will"とか事前指示とか言いますけどね。実際にそういうふうになる。そういうときに、それを書いたものをひるがえせるかといったら、事前指示とかを支持する人はひるがえすと言う、言っている。でも、ひるがえすことができるのだったら、別に事前に言っとかなきゃいいわけで、そのときに言えばいいわけで。実際には、言葉がでないであるとか、意識がはっきりしないであるとか、意識はあるけれども言葉が出ないであるとか、そういうことがけっこうあるわけですよ。そういうのを終末とかいうわけだから。そういったときに、それを例えばくつがえせない。やっぱり本当に素朴な死、こうなったら死にたいと漠然と思っていたりしても、いざとうときに、人はそんなに死にたいかといったときに、そういう人はそんなにいないと思うんですよね。数の問題じゃないかもしれないですけど。そういうときに、それをくつがえせないということはありますし。
インタビュアー:実は街のインタビューして、いろんな方はほぼ自然に安らかに、中には安楽死、だめだと思うけど安楽死を選ぶ人がいたんですけど。たぶん、でも、怖いと言っていたんですね。元気なときでも安楽死を想像しただけでも怖い。たぶん、そのときになったらもっと怖いということですよね。
立岩:多くの人はそうだと思いますよね。一方で怖いということと、他方で安楽にというか安らかにというか、それはそれもまたもっともなことだと思うんですよ。だれも苦しいのは嫌だし。安らかにというのはその通りそうであった方がいいと思います。ただ、それがまぁまぁ可能、うまくやればですよね。日本はわりと痛みをおさえるという医療があまりうまくやれていなくて、まだ。けっこう痛いということは事実なんだけれども、それはうまくやって、そこの中でお薬を使ったりということもあるだろうけれども。痛みはある程度、かなりのところまで取ることはできます。
他方は安楽のためにといわれている、例えばその、栄養を補給しないだとか水分を補給しないだとか、それが安楽にという言葉のもとにやられるわけですよ。これはやっぱりそこもふつうに考えた方がよくてね。つまり人間、末期であろうがなんであろうが、のどが渇きゃけっこう辛いですよ。栄養で身体の状態が悪くなるというのは事実なんです。そういうことはあるというのは。でも栄養のコントロールが上手じゃないんだ、医療とかはね。身体が動かなくなってれば、そんなに栄養はいらないじゃないですか。だけどそこのところの計量の量というかな、そういうのを間違えていて、そうすると過剰になりますから身体はちょっとおかしくなるわけですよ。だけどその弱っているなら弱っているなりに、動かなくなったときに、そんなに苦しくないぐらいに水分を補給し、栄養を補給するということは、それこそ安らかにということになるんだと思います。ただ今、尊厳死という言い方で正当化されようとしていることっていうのは、こういう状態になったら栄養補給はやめよう、水分補給はやめようということで。それがほんとうに安らかであるのかと言ったら、その証拠があるのかといったらないと言っていいと思いますし、そういう証拠があろうがなかろうがふつうに人間考えたら、苦しい。水分は最期?だね、ちょっとずつ適度に取れたほうがいい、それだけのことだと思うんですよね。だから、尊厳死なりなんなりを認めないという話を、それを例えば法律で認めるとかということじゃない、という話と、安らかに穏やかにという話は別に矛盾しないと思うんですよね。
だから、管入れてる患者さんとかいますけれども、スパゲッティ症候群ということは昔からありますけれども、そんなに何十本というわけではないし、だいたい人間、栄養と呼吸して、場合によっては血液をコントロールする、そんなぐらいで。そんな上手じゃなくて痛いとかね、それだったらそれは嫌ですよ。だけどそれを上手にというか下手にじゃなくやって、最期にそんなに苦しまずに、腹減らし喉乾かさず死んでいった方がいいんじゃないかという、それだけの話だと思いますね。
インタビュアー:そのためには、病院で適度というのか治療をうけながらが、たぶん一番…。
立岩:うん、病院もひとつだろうし。今は在宅の医療をちゃんとやっているようなお医者さんもよくいるけれども、かなりのことが在宅でもやろうと思えばやれるそうです。そういう意味でどっちが、ぜったい在宅の方がね、最期は在宅という気持ちもわかるけれども、でも必ず在宅で畳の上で大往生とかいうけれども、どこまでそれって強い欲望なのかなって気がするんですけれどもね。でも、知っているところにいれて楽にというか、気持ちがいい方がいいことは事実ですよ。そうしたら在宅でやれることはかなりあるだろうし。だから必ずしも病院にずっと閉じこもってということではないわけです、それは可能だと思うんですよね。
インタビュアー:どっちにしろ、最期は管とか抜いたら苦しんじゃないかというのをやめて、医療をしつつ痛みを緩和してというのがあるということですね。
立岩:わりと単純な話ですよ、苦しいよりは苦しくない方がいい。管さすと、苦しいんだったらそれは苦しくないにした方がいい。そこで逆転みたいなことが起こっていて、苦しいというイメージでけっこう語っているんだけれども、それはなんか下手だったりね、やり方間違ってたり、そういうことがけっこうあると思うんですよね。
インタビュアー:また繰り返しなんでけど、だからといって管を抜いたら楽になるかといったらそうでもない。
立岩:栄養とか水分というのは、だんだんですけど、だんだんだからそういう感覚はずっと続くわけじゃないですか。他方、息とか入れればというか、たとえば呼吸ができなくなればそれは数分内に死にますけど。最期、呼吸できなくなって息詰まって死にたいかといったら、わたしは嫌ですね。というかたくさんの人が嫌なんじゃないですか。実際に先ほど、死にたくない人ってどういう人ですかって聞かれたじゃないですか。ひとつは、前はいいと言ったけど今は違うよ、でも今違うと言えないよねという人だけれども、たとえばいわゆる難病と言われている人たちと、付き合いがまぁまぁあるんですけど。そうすると呼吸がだんだん弱くなってきて、呼吸できなくなる。呼吸ができなくなればそれは死にますよね。でも呼吸器つければ生きていける。呼吸器つければその後、知ってる人だと20年と30年とか生きている人、生きた人を知っていますけど。それはALSという難病と言われている、身体が動かなくなってくる病気というか障害のひとつですけれども。だからつければ、20年とか30年とか生きられるのに、その手前で亡くなっている人、7割とかちゃんとした統計ないんですけど、6割とか7割とかいると言われている。ということは、その手前で死んでいる。中にはやっぱりそういうことをしなくていいとは言うわけですよね。それを望みますかと言われて、望まないっていう選択もありますよ、とまさに尊厳死の事前死とかそういうことですよね。そうした時に、つけません、わたしの知り合いにもそういうふうに言われて、いったんつけないと言った人を何人も知っていますけれども。それは結局、自分がこれから生きてても仕方がない、生きてたらお金もかかる、介護も大変だ、家族に迷惑をかけるお金がかかる、そういうことを考え考えて、それでやめると言ってやめて実際に死んだ人もたくさんいるし、一歩とどまって周りの人から死ぬことはないだろうと言われて引きとめられる。それって回り道して立派に自分で決めてるわけじゃないですか、死にたいんだといって。実際そういって死んでる人がいる。それをそういうことは認められていいことだという、ある種の公認というのかな、そういう話になっていくわけです。今でも、いろんな環境とか、端的に言えば、お金があって人手があって生きられる人が、今だって死んでる中で、そういう行きたい人が生きられる前に、だったらまず生きられるようにする。お金のことにしても人手のことにしても。それで、そうなったら生きられると、かかるお金はかけて、人手はかけて生きられるというふうにして、それでも、どうしてもというか断固として死にたいという人がいたら、それはまぁどうぞとわたしは思いますけれども、でも今、ぜんぜんそういう状態じゃなくて、わたしは死を希望しますと言わざるをえない状態で死にたいといったらどうぞという決まりをつくるというのは、それはまずい、危険だろうとそういうふうに思うんで、違うだろうと言ったんですけど。
インタビュアー:それはシンプルでそれはごもっとも、なるほどという…今うかがって。特に日本だからというところもあるのですか。
立岩:日本だからと言うよりは、実際には北米とかねヨーロッパ、ヨーロッパでも西の方とかね、どっちかというとヨーロッパの人でも、なんというのか、ラテン系とか、スラブとかそっちじゃない方ですかね、割と先端的と言うか先進的と言うか、事態は進んでいて。最初はわりとね、穏健なところから、積極的安楽死といって薬飲んだり、注射うったり、それはちょっとねという、呼吸器外したりとか呼吸器つかないこととか、そういうところから始まってきたんですけれども、そういってる中で何十年かかけて、薬飲んだり注射うったりそういうことが認められてくるというのは、むしろ世界的な一部ですけど、ヨーロッパ、北米の一部ですけれども、そういうのがオーケーになってきて、しかもかつては心の病というのかな、たとえば鬱であったり、すごいしずんじゃって自殺念慮とかそういうのがあるわけじゃないですか。そういう人に関しても、もう死にたいといってるんだったらどうぞということになって、精神疾患というか精神障害というか、そういう人も死ねるようになって、実際死んだり。それから子ども、やっぱり成人前はそれは別扱いだというふうだったのがそうでなくなったりという形で、世界の一部ですけれども、かなり事態は進んでいる。それはだんだんと進んできたという、その中で日本であったりアジアのいくつの国であったり、北米西欧以外ではまずいんじゃないかっていう、そういう二つの流れというような、せめぎ合っているというか併存している、両方あるというのか、そんな感じじゃないかな。
インタビュアー:やはりそれは宗教の関係?
立岩:宗教の関係はあるとは思います。どっちかというと、そのプロテスタントのある国はわりといさぎがよいですよね。死んでも大丈夫だと思っているのか、よくわからないですけど。それとやっぱり生きてなにかできるということが大きな価値があるという信仰、それも信仰だと思いますけれども、そういうものを持っているところでわりと死に対して積極的。だからさっき日本で難病の人が3割か4割しか生きられないと言いましたけど、アメリカであるとか合衆国ではですね、向こうだと10%切る、数パーセントしかというふうです。それはその信仰の問題もあるけれども、端的に言えばお金の問題もあって、いっぱいお金を持っている人はやっぱり生きているわけですよ。だけどアメリカって国はオバマケアとかなんとか言ってますけれども、満足な公的な医療政策さえないような国ですから、そうやって呼吸器をつけて生きようと思ったらすごいお金がかかる。お金が払えないから死にたかろうが死にたくなかろうが、死ぬんですよ。そういうところをモデルにするのがいいかといった時にそれはそうは思わない、ちっとも思わないです。
インタビュアー:あと、うかがいたいと思っていたのは、海外のニュースでイギリスで障害をもっている乳児を尊厳死、裁判で判決で死なせた方がいいんじゃないかという、でもアメリカに移って治療したりして、賛否別れているニュースをご存知ですか。
立岩:そういうことは時々ありますね。
インタビュアー:すごい難しい、いろいろ絡めて難しい。知識もないもので、相手についてはどういうふうに思います?
立岩:今回のテーマはね、安楽死、尊厳死という話だったんだけど。安楽死にしても尊厳死にしてもね、安楽死と尊厳死とどう違うかという話もありますけれども、それは置いておいて、基本的には本人が死を望んで、それでそれが行われる、あるいは行わせることです。子どもの、特に生まれたての新生児だったりというのは、当然、自分がどうこしたいということを言葉で伝えることはできませんから、それはふつうの意味でも安楽死でも尊厳死でもないということは、おさえておいた方がいいと思います。
となると、結局まわりの他人たちが子どもの死を決めているわけです。それはふつうにまずいんじゃないか、というか、だめなんじゃないかとわたしは、わたしはというか思いますね。そんなに死なせなきゃいけないほどの理由ってなんだろうということですね。わたしは痛い苦しいというのはかなり嫌な部分があって、非常に嫌ですけれども、でもどうなんですかね。痛いと言っても生きてる、ふつうは痛くても生きる方をふつうは選ぶ。多くの方は。いろんな時に、メディアで話題になったりするのは、超痛いとか、すごく辛いとかいうんでもなくて、でもやっぱりその子どもを殺しちゃう、死なせちゃうという話ですよね。その時に、ほんとうに局限的な苦しみみたいなものが仮にあるとしたら、その人の苦しみを死によって取るということはありえなくはないかもしれないけど、考えられてそのくらいだと思うんです。それ以外になにか理由があるとは、ぼくは思えなくて。やっぱりでもそうやって、死にたいと言って死ねる。それがいろんなパターンがありますけれども、親は死なせたくないけど病院がとかね、病院は死なせたくないけど親がとか、いろんなパターンがありますけど、いずれにしても親であろうと病院であろうと、あるいは国家であろうと、生まれてきてしまった生きている人を殺すということは、ふつう基本だめって思います。なんて言えるというか、そりゃそうだろうと思っていますね。
インタビュアー:そりゃそうですね。ちょっとまた関係ないのかもしれないんですけど、まだお腹にいる時でまだそんなに大きくなっての時の判断なら、今生むかどうかあると思うんですけども、それをでも生まれているというところですもんね、もう。それをまず権利ないですよね、人の命を…。
立岩:実際にはそれは最近のことではなくてね、ずいぶんたとえば、去年7月26日あと数日ですけれども、去年、相模原で障害者がたくさん殺された事件があったとき、そのあとぼくは原稿を書いた本にして、そこの中に出てますけど、1960年代の始めだからもう50数年前ですけど、サリドマイド児って昔いたんですよね。母親が飲む薬の副作用で。というか、手が肩のあたりからこう生えているというか。だからアザラシっ子といわれたんですけど、外形的な奇形がある子が生まれたことがあって、それを親が殺した事件、それが裁判になって。有罪になったけれども、でも親は一定の支持をうけたりとか、そういうことが結構あったりして。歴史はあるんで、ずっとそういうことは続いてきてる。最近の医療技術がというだけの話じゃないんだけれでも、でも、薬の副作用で身体がつらくなったりとかそれは嫌ですよ。だけれども、奇形というのは確かに見てびっくりするというところはある、それは分かる、分かるというかそれは良しあしですけど、しかしそういうところはある。だけどそう言う人が子どもが生まれてきたら、それを親は殺していいのかといったら、そりゃだめでしょう、それだけの話なんですけど。そういう話が何十年と、いやでもいいんじゃないという話が蒸し返されているということです。そういった中でやっぱり、かわいそうを人はそれは、どういうかわいそうかよくわからないんですね。手足が短くて、手がこの辺からついてないからかわいそう、かわいそうな人は殺してあげてもいい、というので、あの事件が起こった時に、殺した人、ずいぶんとりあえずはみんな忘れているかもしれない。あの時は、非難されましたよ。でもあの人だって、あの青年だとかだって、そういう人がかわいそうだから殺してあげるという、それで殺しちゃったわけなんですけどね。そんなに極端にちがうかというと、そんなに大きなちがいはないんじゃないかと思います。彼は別にかわいそうだって思ったんだと、それは別にうそじゃない、本心そう思ったと思いますよ。だったら違いはないんですね。
インタビュアー:そうですよね。本人が希望してない時点で。
立岩:安楽死、尊厳死を賛成する人は本人がいいって言ってるからというのが一番大きな理由なんです。仮にそれを認めたとして、そのときに子どもにせよ、あるいは場合によっては認知症であったり、本人はいいと言ってない、言えないわけですよ。そういうときに、本人がいいと言ってるんだから認めましょうという根拠はなくなるじゃないですか。でも、ということですよ。
インタビュアー:向こうの言い分としては、多分しゃべれなくなった時のために先に意志を書いておく、そういう状況になったら、管をはずして死にたいというしゃべれなくなる前に、書いておこうという言い分なんですよね。でもそうなってみないと、本人の気持ちなんてわからないですもんね。
立岩:いろんなパターンがあるじゃないですか。言えるんだけれども口が動かなくなって言えなくなってるみたいなそのパターン。ぼくは大学院で教えてますけど、大学院生でそういう目にあった人を知ってますよ。
天畠
というんだけど。三鷹に住んでますけど。運動してて、倒れて、脳に血液か何十分かいかなくなったんですね、脳死だって言われて、でも生きのびたには生きのびたけれども、コミュニケーションできなくて、でも意識はあるわけですよ。という中で、結局、彼は身体がわずかに動くようにはなって、今コミュニケーションできて大学院で博士論文を書いてますけど、書こうとしてます。やっぱり言えない半年間とか、一年間ていうのは、ほんとうに怖かったという人もいるし、一方で自分が今、明確な知性というかはっきりした意識とかなくて、うちの親父なんかもそうですけれども、いわゆる認知症ですよね。認知症になると、そのときにはっきり、自分で死ぬということってどういうことなのかとか、かつてそういうことを言ったとか、そういうことも忘れていることがあると思うんですよね。場合によっては言葉としてはちゃんとしたことが言えなくなっているんですよ。そうなったときに、健康で健全で意識がはっきりしてて立派で、自分のプライドを大切にしたり家族のことを慮ったりする、そういう健全なおとなの精神の男性の、女性でもいいですけれども、というのがああなったらと思って、俺もういいわって思ったとして、実際ああなって、意識がないわけじゃないけれども、あるけれども、でもいろんなことを忘れてて。いろんなことを忘れた中には、かつて自分がこうなったら死にますということも入っているわけですよ。そうなったらたとえば自分の父親なら、父親、かつてそう言ったんだから殺していいというか、死なせていいと言えるかなってときに、それは違うだろうと思いますけどね。
インタビュアー:健康なときの意見と、健康じゃなくなったときの意見は違う。
立岩:違う。違うのがふつうで。そのときに、健康であったときの自分の決定というものを、すでにそうじゃなくなっている人間、それも自分ではあるけれども、今の自分はかつての自分では違うというか、違うか同じかもたぶんうちの親父なんかもそうなんだけれども、分かってないと思うんですよね。でも、同じ人間がかつて言ったということはあるんですよ。それっていいですかね?ぼくはよくないと思いますけれどもね。
インタビュアー:確かに。どっちを尊重するかという。その現時点の人の意見を尊重しないと。その人の意見がしゃべれなかったら分からないですからね。難しいというか、健康なときの意見なんて元気だから言えることですよね。
立岩:実際の調査とかでもね、そういうことになってんだけど、やっぱり4、50になってまだ元気に働けて、でも例えば親のことで苦労したりとかね、そういうときに自分がああなったらって思うわけですよね。で、言うわけですよ。それは気持ちは、というかそのときにそう言いたくなるというのはそれは分からないでもない。だけれども実際はやっぱり違うと思います。
(SDカードの入れ替え)
立岩:さっきの話の続きですね、結局、自分は安楽死したいとか尊厳死したいと言ってる人って、特に若い人ね、やっぱりかっこつけてるんだと思うんですよね。ああなったら俺も終りだなみたいな。俺は今、ああなってないじゃないですか。ああなっているのは誰かといったら、自分が実際に知っていたり、あるいは想像していたりする認知症なったりとか、身体が動かなくなったりとか、そういう人ですよ。自分のことだと言いながら自分じゃないことを想像したり見たりして、それに対してすごいネガティブなイメージをもっているから、ああなったら死にたくないと言うわけですよ。それは自分のことかもしれないけど、でもそういった周りの人をそういう目で見てそう思っているから、ああなったら死にたくないと言っているわけで、それは自分のことというよりは、そういう人たちというのをすごいネガティブに見るから自分はと言ってると思うんです。それっていいのかな?少なくとも公言していいことなのかといったら、わたしは、はしたないと思いますね、そういうかっこつけというのは。それはやめた方がいい。でもたぶん気がついてないと思うんですよ。そういうこと、そういう効果があるというか、それとやっぱり蔑視という部分って確実にあると思うんですよね。でもそれに気がついてないかもしれないけど、よくよく考えてみれば、そうじゃないとたいがい大切にしている自分の命というものを、そうなったら差し出していいと言ってるわけだから、かなり強力な否定ですよね。ああなったら俺は死んだっていいんだぜと言ってるわけだから。それは人に言っていいことなのかということを考えてほしいというのが、それが今日、一番言いたかったことかな。
今、キャスターをやっていらっしゃる方はおいくつぐらい?
インタビュアー:44、43、そのぐらい。
立岩:一番なんかそういうことを言う時期ですよ。親のこととか気になったりだとか、でも若いころだったら考えもしなかったことでしょうけど、ちょっと気になりだした。でもまだ自分はバリバリやれてて、ああなったらみたいな。そういう季節というか時期というか、そんな気がしますよ。ぼくはでもちょっと立ち止まって、自分はなにを言ってるんだろう、思っているんだろうということをやっぱり考えてみるというか、それは必要なんじゃないかと思いますね。
インタビュアー:ぼく自身もすごく考える。たしかにそういう方たちを蔑視しているという、そういうことですよね。
立岩:ああなったら死んでもいいと言っているんですよね。一番強いですよ。たいがい一番大切なものは自分の命だから、その命を捨ててもああなりたくないと言ったときに、これはかなり強力な蔑視、蔑視というか否定ですよね。
インタビュアー:そんな中、その尊厳死協会に登録している人が11万人ぐらいいるそうなんですけどね。
立岩:一時すごい増えて、かなり急激に増えて、この頃、頭打ちにみたいな感じですかね。らしいです、ぼくはくわしくは知らないけれども。やっぱり不安というものはあると思いますよ。さっき言ったようなね、こうなったら自分はという、きれいなというか、潔いというところから自分を離れたくないという、そういうこともあるでしょうし、そういうことはあまり思わないけれども、でも、やっぱり多くの人、50代、60代女性、これっていうのはひとつの典型的な形ですよね。そうする、とたとえば親を看取った、配偶者を看取った、そういった中で苦労した人たちが一方にいるわけです。だから、30代、40代男性みたいなね、元気でああなったらと思っているような層と、それから50代、60代とかで親を看取った、配偶者を看取った、今現に介護している認知症と、認知症って介護大変ですよ、やっぱり確かに大変ですよ。で、ああなったら自分は、わたしは親を介護するけれども配偶者を介護するけれども、ああなったら自分は身を引きたいと、そういうところからきている人はいっぱいいる。そういう人たちが、事実として高齢化が起こっていてそこの中でそういうふうにして老後を暮らす、それにかかわる人たち数多くなってるから、そこの中の一定の人たちが、そういうしんどい思いをしてそのしんどい思いを他の人に伝染というか、伝えたくないと。自分は自分で終わらせたいというのは、それはわかりますよ。そういう意味で数が増えていく、増えている。かなりのところにまで増えてきたというのは、ぜんぜん分かりにくい話ではなく、その気持ちはもっともだと思うんです。でもそれは、その思想というのがよいと、正しいということではないし、先ほどの話の繰り返しになりますけど、認知症になったってやっぱり人は生きたいと思っているし、少なくとも死にたいとは思ってないですよ。そういったときに、それをじゃぁ死によって、ある種、それは解決されますよ、人が死ぬわけだから介護の負担もなくなるし、お金の負担はなくなるし。そりゃそうですけれども、それでいいのかと言ったら、それで解決しようと言ったら、それはやっぱり人間の社会というものはおしまいということじゃないですかね。どうしようもなかったらしょうがないのかも知れない。時々、倫理学者ってそういう話するけれども、タイタニック的な状況というか、だれかボートに乗らないと、ボートから降りないと共倒れだと、そういうことであればね、くじ引きとかせざるをえないかもしれない。
そういうときに年を取った人から、若い人に身を譲ってというのは美しい話であるかもしれない。美しいとか哀しいというか、辛い話であるかもしれないけど。でも、実際にはある人たちはたしかに辛い、その辛さってものは無くすことはできないと思いますけど、減らすことはできる。それはわりと簡単にできる。お金使えばできるということなんだね。さっきの話ですけど、そうやって死にたくないと思う人、思っている人、少なくとも死にたいということを言えない、言ってない人が、死なずにすむようになってから、それでも死にたいという人がいるかもしれないし、わたしはいていいと思います。それで死んでいいと思います。でも、話は順番がちがってね、とりあえず死にたくない人が死なずにすむようになって、純粋にというか、主義としてわたしは死にたいですという人が死ねるようになったらその人たちはどうぞ、という、そうなったらいいんじゃないかなと思います。
インタビュアー:たとえばですけど、いろんなパターンがあって、しゃべれるけど胃ろうがいやだ、呼吸器とか管を入れるのがいやだと、それから治療はここでストップして、あとは家でという、中にはパターンがあると思います。それは、オッケーとしてですか?
立岩:胃ろうというか、なにかをしない、なにかをするという選択というのはその時々あって、それは多くの場合は本人の希望とか、本人の良さというのが優先される、そこはいいと思います。ただ、胃ろうにしても、呼吸器にしてもね、経鼻栄養とかいろいろありますけれども、それにしても結構イメージと言うかな、で語られていて、端的にはまちがった語られ方というかイメージが流布しているところが結構あると思います。胃ろうって、たしかに安易につけられているという部分はなくはない。というのは、口で人間はやっぱり食べる時はとりあえず、慣れてしまえばちがうかもしれないけど、やっぱり食べる喜びってあるじゃないですか。だから食べたいと、食べられる限りは口で食べて味わってというのは分かるじゃないですか。だけど一時期ね、とくに今もそういうところがあるけれども、胃ろうだったら介護の手間がかからないから、やっぱり口が動かなくなってる人に飯食わせるの、たしかに大変ですよ。手間がかかるし。そういう手間をはぶくために胃ろうでやっちゃって。そうするとやっぱり食べるということに対する執着もなくなるし、ある種の頭の働きもなくなるから、認知症なら認知症の度合いが進んでいくみたいなこともあってね。そういうこう、人が楽する手立てとしてやっていたというところがあって、それは場合によったらよろしくない。だけどそれでもギリギリまで胃ろうつけないで、今度はどうなるかといったら、むせてしまう。誤嚥とかそういうことが起こって。誤嚥って苦しいですよ、気管にようするに物がはいるわけだから、苦しいし身体に悪いですよね。そうしたらやっぱり口で食べるということにこだわらずに、胃ろうを入れていいじゃないかって、そういう話になると思うんですよね。そういう、どっちがその人にとって自分にとっていいんだろうという、そういう話をディテールというか、細かいところ、具体的なところをすっとばして、なんか胃ろうって最後の手段みたいなふうに語られてしまう。呼吸器にしてもそうですし、それから管入れる。管入れるのってやっぱりほんとうに下手な場合が極端にあって、下手に入れられたらこんなに苦しいものはないですよ。だけれども苦しくないように、入れる、使うというやり方はいくらでもあるのに、なにか苦しいものだ、痛いものだというイメージが先行しちゃう。胃ろうというものは付けるものじゃないんだと。付けるものじゃないんだというふうにある人たちが言ったとき、なにを言ったかというと、まだ食べられるのに、人手さぼって勝手につけるのはよくないという話でもあったんです。そういう話をすっとばして、なんか、そういう意味じゃやっぱり実際は胃ろうってそんなに勝手につけていいもんじゃないと思うんです。だけど、誤嚥で苦しくなるよりはいいだろうとか、そういうことをすっとばして、あれはダメだ、よくないものだというところで語られてる部分って、結構あると思うんですよね。だからそういうときは、やっぱりは胃ろうつけて呼吸器つけて、経管栄養して、いろんな形で生きている人っていっぱいいて、胃ろうから酒飲んでる人もいれば、いろんな人がいるわけだ。たしかに喉ごしはよろしくないというか、喉ごしというのはなくなるわけだけれども、でもビールを胃ろうから飲むとなんかぽーっとなるらしいんですよ。それはそれで、いいなぁと思っている。そういうことが知らされない。「」付きのイメージが先行して。さっきの話ですけれども、スパゲッティってふつう何百本って思いますよね。でもちゃんと必要最低限のものをつけてくっていうことであれば、たとえば2つとか3つとか、せいぜいね。そういうことであるわけですから、それを痛がらない、それはすべきことだし、ネガティブに語るべきことでもないと思いますけれども。
インタビュアー:これはそこらへん、たぶんあまりよく考えてない人が、先ほど「」付きでじゃないですけど、健康状態での想像だからというところもあると思うんです。それでも、それでも、もうどうしてもイヤだからということは、まぁまず実際しょうがないですよね。
立岩:どうしても、どうしてもイヤだったら、やってもらえばいいんじゃないですか。だれかに。その人はもしかしたら、捕まるかもしれないけど。そのぐらいの人を殺すんだからね。死にいたらせるんだから。そのぐらいの覚悟はと思いますね。
インタビュアー:死ぬ権利みたいなのを言っている人も自分の死も自由に決める権利があるんだみたいな人こそ、よく考えていないという感じ?
立岩:だからたぶん尊厳死協会の人にしても、積極的に死ぬ権利があるとは今は言わないんですよね。前の尊厳死協会って安楽死協会と言ってて、その時はわりと積極的にそういうことを言ってましたけれども、ある意味マイルドになったというか、そういうことを言うと論理的に反論されるとなって、いや、個別に死ぬわけじゃないと自殺を認めているとか、積極的安楽死、安楽死を認めているわけじゃないと、ただ…、というふうに。ある意味、後退したところで論陣をはっているんだけれども。でもよくよく考えたら、やっぱり息がつまれば、息が止まれば死にますし、それを認めていいということと、積極的とか安楽死ということと、どこまで距離があるかといったら、五十歩百歩というか、少なくとも地続きでつながっているということは言えると思います。それはすごく違うということを、ちゃんと言えていないということです。
インタビュアー:一応、個人の考えるのは自由だけれども、公に公言して、法律で決めるとかはしない方がいいということ?
立岩:そうですね。公言というのは、「俺はさ」というふうにね、だいたいそう言う人って、俺はそうなんだよという。俺はというのはなにを意味しているかということは、考えた方がいいですね。俺はと言いながら、俺のことは言ってないですよ。俺は今?大丈夫なんですよ、でも大丈夫じゃなかったら?と言ってるんですよ。
インタビュアー:これをもっとみんな、よく考えた方がいいよというとこなんですかね?
立岩:自分がなにを言ってるんだろうというか、なんで言ってるんだろうって、なにを思って言ってるんだろうって。それは考えた方がいいと思います。
インタビュアー:実はちょっと最後になりますけど、ジャーナリストの宮下さん、海外事情を知ってる人がすごく言っていたんですけど、海外はすごい歴史観がいろいろ議論された中で、スイスとかもやっと今現在、安楽死とかなってると。日本ではそういう議論がまったくされていない。日本人のみんながそういうことは、あまり死については、安楽死とか、尊厳死とか考えていない中で、いい悪いなんて言えるレベルじゃない。だからみんなよく考えないと、いけないよというふうには言っていた。なるほどそれはそうだなと。
立岩:そうですね。ただ、今2017年ですか、2004年ごろに安楽死、尊厳死を認めさせるという動きって、戦後でも3回ぐらいあって、わたしは2004年のとき、そのときは今みたいな学者家業をしてましたから、いろいろ人に言われたりして、厚生科学倫理?に関わっていたんです。だから、ぜんぜんないわけでもないんです。あるにはあるんだけれども、煮詰まらないまんまというか。なんとなくその時は、やっぱりまずいんじゃないのという声が一定あったと思いたいんだけれども、いっぺん終わって。10年ぐらい経ったころに一回という感じで。ぼくが関係している中だけでも、二回ぐらいある。だから宮下さんがおっしゃるようにね、議論をすべてつくしたかと言ったら、やっぱり途中で終わっているというかなということは言えると思います。今回はこういう形で一人ずつ居座って、言いたいことを言ってる、そんな感じだと思うんですけれども。ぼくは中尾さんと会ったこと二回ぐらいありますけれども、そういったところで、それこそ議論をつくして双方で思っていることを突き合わせて、ちゃんと詰めるところ詰めてね、ということがもちろん前提となることがあって、そういうものにはこの媒体に限らず、どういう場合であれ、わたしは応じますし、そういう意味であれば忌憚のない議論がされるということはいいことだと思う。いいことというか、必要だと思います。
インタビュアー:ありがとうございます、以上で終わります。
了
UP:20180123 REV:20190102
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安楽死・尊厳死:2017
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