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天畠 大輔

てんばた・だいすけ
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http://tennohatakenimihanarunoka.com/

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last update: 20190617

■新着

・「聴覚だけ頼りの37歳、博士号を取得 話せず読めずとも」『朝日新聞』2019年4月12日
 https://www.asahi.com/articles/ASM3V6GWQM3VUTIL04Z.html

■著書

・2012/05/10…『声に出せない あ・か・さ・た・な――世界にたった一つのコミュニケーション』生活書院

■はじめに

 まず、私と障害学の出会いは私自身が障がい者となったことから始まります。私は14歳の時、急性糖尿病で倒れ、その際の医療ミスにより四肢麻痺になってしまいました。視覚にも障がいが現れ、立体や色、人の顔はなんとか認識できますが、文字の認識がほとんど出来ない状態です。また、発語はほとんど不可能で、アウトプットには人の何倍もの時間を要します。コミュニケーションの方法は、介助者に自分自身の手を握ってもらい、介助者が五十音で一字一字を確認していく、「拡大代替コミュニケーション」といわれる、私が腕を引くサインによるコミュニケーションです。
 前述した私のコミュニケーション方法は聴覚走査法と呼ばれています。聴覚走査法とは、例えば聞き手が「あ、か、さ、、、」と読上げていき、「た」で「Yes」のサインがあれば、今度は「た、ち、つ、、、」と読上げ、「Yes」のサインのあったところで文字を確定する方法です。このように、私の場合は介助者が一字一字解読をしていきます。長文を作成する際は、一人の介助者がメインとなり、作成します。作成方法は、私が単語を挙げていき、介助者がその単語をうまくつなぎ合わせて大まかに文章化していきます。私は介助者が作成した短文を組替えていき、筋道が立った文章になるように整えます。介助者に前後を流して読んでもらいながら、ニュアンスや前後関係、口調などが整合するように私が言葉を選び直していきます。
 自らが障がいを負ったことで、障がいについて研究することが私の生活そのものになりました。

■研究テーマ

「障がい者とコミュニケーション」を専門に研究しています。大学院では、「『発話困難な重度身体障がい者』の新たな自己決定概念について――天畠大輔が『情報生産者』になる過程を通して」と題して、博士論文を執筆しました。

現在の研究テーマは、「『発話困難な重度身体障がい者』と『通訳者』間に生じるジレンマと新『事業体モデル』です。「発話困難な重度身体障がい者」は、その障がい特性ゆえに自己と他者の切り分け難さからくる様々なジレンマを抱えています。しかし、既存の介助モデルでは、彼らの支援を捉える枠組みがありません。そこで、新たな当事者と介助者の関係性モデルを研究し、提案していきたいと思っています。

これらの研究を通じて、将来的には「発話困難な重度身体障がい者」の方を支援する財団を設立したいと考えています。また事業所経営という実践を通して、障がい者のための介護政策についても考察していきたいと考えています。


■経歴


■論文


■執筆・賞与等


■発表・講演等


■紹介・言及等


■研究・活動助成


◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社 文献表

 ■3 存在証明という方角もあるが
 このように見ていくと、それと対照的な方向であると気づくのだが、もう一つ、自分が作ったと言いたい思いが(すくなくとも一方では)あることがある。そしてそれも言われればもっともな思いではある。天畠大輔がそういう思いの人である(自伝として天畠[2012]、論文として天畠[2013]、天畠・村田・嶋田・井上[2013]、天畠・黒田[2014、天畠・嶋田[2017])。彼は、世界で一番?、かもしれない身体障害の重い大学院生で、発話できず、身体の細かな動きはできないので、通訳者が「あかさたな」と唱えるのを聞いて身体を揺するのを通訳者が読み取り、次にあ行なら「あいうえお」と唱え、「う」で確定といった具合に話す。想像するよりはずっと早く進むが、しかし時間はかかる。視覚障害もある。長い文章、とくに博士論文といった長く面倒な文章を書こうとなると、どうするか。
 彼には長い時間をかけて育ってきたきわめて優秀な通訳者が複数いる。普通の意味での通訳にも熟達しているが、長年付き合ってきて、何を天畠が考えているかもわかっているし、この通訳という仕事がどんなものであるかもよくわかっている。だから、このコミュニケーションを主題に書かれるその博士論文について、本人の意を察するという以上のことができることがある。それで天畠はかなり助かっていて、それがないよりはるかに楽ができていると思うとともに、そして依存する気持ちの△088 よさを味わうとともに、自分の仕事が自分の仕事として認められたいと思う。そういうジレンマを抱えているのだと書く。
 それをジレンマと言えるのかどうか。自分でやっていると言いたいが、手伝ってもらってもいる。そしてそれはそれで心地よく、楽でもある。他方、彼自身が寄与しているのも間違いない。そもそものアイディアを出すということもあるし、そのチームを作ったのも、彼、彼の身体である。どれだけと確定はできないが、彼は寄与している。同時に手伝ってもらってよくなっている。それだけのことである。だから共著ということにしたいのであれば、すればよい。論文も学会報告も、ほとんどすべてがそのようにして発表可能である。
 ただ学位は個人に対して与えられる。個人を評価したその結果が学位であって、その成果には、もちろん環境があり、人との関係があったうえであること等々を承知しつつ、一人に一つ出すというものである。その合理性はあるか。例えば職を得る/与えるための指標であるとしたらどうか。普通は、人は一人採用するということになるから、その際の指標は、一人について一つということになりそうだ。このように一人につき一つが必要とされる場合があり、そのように求められることにつきあってもよいという人はその世界の流儀に従うことになる。これ以上つついても仕方がない。他方、同時に、仕事は共同で行なったといって何も問題はない。
 ときに自分がやっているか誰がやっているかが曖昧になる。それは当然のことであり、それ自体はよいことでもわるいことでもない。主体性が常に大切であると決まったものではない。本人と介助者の間のそんな、自律であるとか依存であるとかのマイクロな部分を記述することがなされてきたが、もうだいたいのことはわかっているように思う。たいがいのことはまかせてなんとかはなる。その範囲で支障なく生活が成り立っているなら、問題はない――ということは他方では、自分の身体の痛みが他人には△089 看過されやすいといった看過すべきでないことがあることも認めるということだ。それをさらに繰り返すことにどれほどの意味があるだろうか。
 ただ天畠の場合は、言語が関係しているから一定の複雑さがあり、種々の工夫もなされているだろう。それは十分に稀少な珍しいできごとではある。それを調べて書き出すことにまず意義はあるだろう。それをきちんと行なえば、それはそれでよい。
 そこでいったんこの話は終わり、止まるだろう★15。ただ、仕組みをどのようにしていくかという問題は残るはずだ。誰かと組むことによって仕事ができるという場合はある。教員の場合であれば、客である学生に伝わるものとしては一人分のものである。学位取得においては、仕方なく一人が取り出されるとしても、二人で一人分なのであれば、二人を一人分の仕事をする二人として雇ってもよいはずだ。それは二人でいっしょの方が、他の一人ずつの人たちよりも勝っているからだと言うことになるか。そこまでがんばって言う必要はないだろう。一人分ができればそれでよしとする。すると、二人なら雇う費用が倍かかることになる。それを雇用主の側が支出することになると、そうした場合の雇用差別を禁じても、密かに、差別は実行されるだろう。とするとどうするか。一つには、もう一人分の給料は雇い主が支出しなくてすむように別途公金から支出するといったやり方だ。するとこの場合には、本人がいて誰かがその介助者でいる――すると、介助に対する費用は、現在の制度はとても不十分にしか対応していないが、出させることはありうる――というより、二人(以上)で一つであることを十全に示せた方が説得力が増すということになる。そしてその時、天畠(たち)の論文で示される、その仕事の製造過程の記述は人々の理解を助けることになり、再び意味を有することになる。それは、天畠が(一方で)望んだ自らの名誉と自尊心を獲得するという方角とは少々異なるかもしれない。その気持ちはわからないではないが、それは自分で言いたいように言えばよい。わかってくれる人はいるだろう。それも言いな△090 がら、傍目からは不思議に見える共働を詳細に描いた方がまずおもしろいし、職に結びつくかもしれない。ではこのような仕事の仕方、させ方は、あらゆる職種に及んでよいことであるのか。簡単にはそうは思えないとするとどうしてか。次にそうした問いを考えていくことになる。

★15 「(介助者)手足論」がしばしば取り上げられてきた。まず、この言葉がどんな文脈にあったかについて小林敏昭[2011]。そして、後藤吉彦[2009]、熊谷晋一郎[2014]、石島健太郎[2018]、等。日常の生活において自律をどれほど求めるかと、社会運動において誰が主体となるべきかはまずは分けられる。後者について、あくまで本人たちが主体であるべきだという主張と行動がなされる由縁は理解できるしあってよいだろうし、同時に、それと異なる方針の組織・運動もあってよいとまず言えるだろう。前者については、専ら手段として位置づける場合とそうでない場合と、これも両方があってよいとまずは言える。そして一つ、いちいち細かに指図すること自体がとりわけ大切だというわけではない。また天畠のように、そんなことをしていたら手間がかかってよくないという場合もある。その上で、一つ、介助者自身が人であり、手段に徹することが困難であること、またそのように振る舞うことを求めてはならないこともある。△096


UP: 20100318 REV: 20100416, 0519, 0728, 0905, 20110412, 0912, 0503, 0518, 20120521 1115, 20130416, 20151215, 20180910, 1107, 20190615, 0617
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