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大阪青い芝の会

青い芝の会

last update: 20100417
■新着

大阪青い芝の会2009年定期大会

□生存学関係者による文章[PDFデータあり]

定藤 邦子「大阪における障害者自立生活運動――1970年代の大阪青い芝の会の運動を中心に『Core Ethics』Vol.3、立命館大学大学院先端総合学術研究科、2007年3月、pp.183-196 」[PDF]
定藤 邦子「障害当事者運動における介助者の役割――大阪青い芝の会の運動におけるグループ・ゴリラを事例として−」『Core Ethics』Vol.4、立命館大学大学院先端総合学術研究科、2008年3月、pp.119-130 [PDF]

■大阪青い芝の会の歩み(製作:定藤 邦子

19571103 脳性マヒ者の団体「青い芝の会」結成

196401  茨城県閑居山に脳性マヒ者のコロニー「マハラバ村」を創る

1967   全障研(全国障害者問題研究会)結成

197007  神奈川青い芝の会、障害児殺し減刑嘆願運動への糾弾闘争

197203  映画「さよならCP」上映運動が神奈川を中心に始まる。
197207〜 関西で映画「さよならCP」上映運動始まる *
 ・関西に点在していた様々な障害者解放運動を結集して、全関西で上映実行委員会をつくり、上映運動を展開してほしいという要請からはじまる
 ・第一回会合(大阪学芸大学天王寺学舎にて):@上映運動の位置づけ派とA上映派とで意見が分かれる→上映実行委員会ができる(@Aの紛糾は続くが、神戸大学の「山口君の聴講の闘いを支援する会」と「障害者の闘いを支援する会」を中心に上映実行委員会が組織される。事務所は新大阪駅前の第2地産マンション)(1)
 ・姫路で「さよならCP」上映会を開催。在宅障害者の結集で、グループリボン(後の青い芝の会)結成へと発展する。
197212  自立障害者集団グループリボン(後に青い芝の会になる)結成(姫路にて)

197301  映画「カニは横に歩く」制作開始。在宅障害者の急激な結集。
 http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/video.htm
 cf.河野秀忠「カニは横に歩くのメモリィ」
 http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/kaniyoko.htm
 自立障害者集団友人組織グループゴリラ結成
 在宅重度障害者訪問活動(こんにちは訪問)を精力的に展開
197302  高橋栄一さん、夜間中学入学闘争
197303  大阪青い芝の会準備会発足(当時のメンバー、高橋栄一、鎌谷正代、玉井聖美、山口宣子、井上憲一、川田、片平、中西、松井)
197304  国民春闘で障害者団体の要求が一定とりあげられる
19730429 日本脳性マヒ者協会大阪青い芝の会結成大会 新大阪にて
 初代会長 高橋栄一、副会長 松井義孝、事務局長 鎌谷正代
197305  優生保護法改訂案国会に上程、抗議行動により廃案に追い込む
197306  大阪市交通局交渉(高橋氏が市バスともめた)
19730715 大阪青い芝の会 第1回総会
19730726〜27 第1回障害者と健全者の大交流キャンプ(琵琶湖にて、150名参加)
197308  兵庫県における障害者去勢手術事件への抗議(5日間座り込み)
 ・「兵庫のある施設で、33才のCP者の男性が、同じ施設内の女性との結婚を申し出たが、施設からは重度であるからだめであると言われ、園長や医師によって去勢手術をさせられた」という新聞報道(73年夏)がされ、兵庫青い芝の会は指導行政の県民生部と交渉をもち、部長の謝罪文を勝ち取った。
 しかし、そのCP男性は施設に行くことを強要され、宝塚の山奥の施設(希望の家)で人間として、生きることを奪われた(2)。
197309  全国青い芝の会総連合会結成  初代会長に横塚晃一
197311  障害者問題資料センターりぼん社結成
  優生保護法改悪阻止全関西集会の開催

1974   優生保護法改悪阻止闘争の高揚
197402  兵庫県衛生部の「不幸な子供を産まない運動」への抗議 ★↓
197403  「カニは横に歩く」完成 上映運動の開始
197404  大阪青い芝の会第2回定期大会 2代目会長に鎌谷正代
197406  大阪グループ・リボン大阪民生部に介護料要求書提出
 大阪障害者教育研究会(大障連)結成
197407  和歌山青い芝の会結成大会
197410  兵庫青い芝の会結成大会
197411  関西青い芝の会連合会結成(大阪、兵庫、和歌山、奈良準備会、京都準備会) 会長 鎌谷正代、事務局長 藤田武司
 大阪青い芝の会臨時大会にて、会長代行に松井義孝
197412  第8養護学校設置反対闘争で関西青い芝と関西障害者解放委員会が初めて共闘する(全障連結成の布石)
197412  奈良青い芝の会結成大会

197503  重度障害者金満里の自立生活に取り組む(自立運動の開始)
19750403 京都で映画「カニは横に歩く」京都上映実行委員会を結成(京都青い芝の会準備委員会と京都教育労働者連絡会議が中心となる)
19750428 京都青い芝の会準備委員会による京都理容組合への抗議
 ・3月23日に理容店をしている兄が寝たきりの脳性マヒの弟を殺した事件で、その兄を弁護する運動(良い弁護士をつけるためのカンパや、署名活動)が京都理容組合によって行われていたことに対する抗議(3))
197504  大阪青い芝の会第3回定期大会 3代目会長に斉藤孝文
  厚生省の身体障害者実態調査への阻止闘争
 グループ・ゴリラ郵政委員会(郵政ゴリラ)結成
197507  大阪ゴリラ、第1期障害者解放講座の展開
197508  映画「何色の世界?」完成 上映運動の展開
197510  関西青い芝、各府県「心身障害児・者実態調査」阻止行政交渉
19751018 大阪市立大学障害者解放研究会結成(学内での差別事件糾弾闘争きっかけに)
 ・74年3月に理学部院生Yに指導教官Sが、@ペースが遅いからペースを上げるか、留年するかの選択を迫った。さらに、A女性で足が悪いから就職は絶望的なので、留年して大学に残ることをすすめた。B就職先として、愛知県の身障者コロニーの付属研究所なら、拒否されないだろうという理由ですすめた。すなわち、身障者であるあなたのいける所は身障者関係ぐらいしかないといっているのと同じで、障害者を一般社会から排除し、隔離していくものである。以上の3点は障害者差別であるという理由で、大阪市立大学の学内で糾弾闘争が行われた(4)。
197511  青い芝の会全国大会・障害者差別を許さない全国健全者交流会
197512  関西青い芝の会・関西ゴリラ大会 勤労者、学生ゴリラ運動の開始
19751214 全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成準備大会
19760126〜27 和歌山県立身体障害者福祉センター糾弾占拠闘争
 ・障害者で被差別部落出身だった人が、身体障害者センターでいじめられて自殺した。自殺する前夜に本人から事務所の留守電に「松葉杖を隠されたり、『青い芝』からの手紙を破られた」というメッセージが入っていた。彼は被差別部落出身ということと障害者であるということに対する2重の差別を受け自殺した。その事に関して施設に謝罪させるための糾弾闘争。施設長や職員が事務所から逃げ出したために、事務所を2日間占拠する事になった。3日目に機動隊が入ってきて、和歌山の青い芝の会の事務所に護送された(5)。
197602  車イスの教師を創る会結成
197603  市教委に中東頼子の採用を求める交渉
 在日朝鮮人障害者グループ・イムジン江に集う会結成
197604  被差別統一戦線実行委員会 集会
 自立障害者集団友人組織・全国健全者連絡協議会(全健協)結成
197605  堺市に南部事務所開設 以降各地区活動の本格的開始
197606  大阪市役所に丸二日間座り込み 以降団体助成金の獲得
19760808〜10 全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成大会
  初代全国代表幹事に横塚晃一 大阪市立大学にて
19761216〜21 中東闘争(車イスの教師をつくる運動)市教委に座り込むが敗北
 AZ福祉工場設立準備会発足

19770110 自立障害者 野中忠夫さん死去
197702  養護学校義務化阻止全関西共闘会議結成
197703  長沢香代子 福岡へ派遣(福岡青い芝の会を結成し事務局長に)
 松本孝信  広島へ派遣
197704  川崎バス闘争 乗車拒否に抗議して車イス障害者百名バスを占拠
 大阪青い芝の会第5回定期大会 第4代会長に森修、副会長 松井義孝
 このころ甲山闘争
19770424〜25 養護学校義務化阻止全国総決起集会と文部省交渉
197705  梅谷尚司くん富中入学を実現しみんなで教育を考える会結成
197710  「緊急アピール」出される 以降、運動の混乱が続く 〜79年
・関西青い芝(鎌谷)、関西ゴリラ(三矢)、リボン社(河野)の3者連名で提出された。
 その内容は、主に次の3点の批判である。@能力主義によるランクづけ、A組織の没個性による馴れ合い主義 B一部人間による組織の私物化。また、一部の人間だけに情報が集中するなどの専従体制や運動の中での障害者の引き回しなどの批判があった。アピールで批判された内実は、77年の1年をかけて、顕在化していった(6)。
19771107 自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ連合会役員会「緊急アピール 関西ゴリラ連合会に集うすべての兄弟・姉妹へ」
19771203〜04 関西ゴリラ定期大会
 ・神戸ゴリラから、@アピールを生みだしてきた情況の総括の欠如、A一部の人間だけ情報が集中し、ゴリラの一人一人が運動全体をみることできない様な体制(リボン社・専従体制)の放置、Bゴリラの無責任な参加(各地での討論の不備)などが提起された(7)。
19771209 関西ゴリラ定期大会、総括不充分で流会

19780129 関西ゴリラ続開大会、関西ゴリラ「新」体制発足
 ・続開大会のスローガン:@会議をやめよう A個々、組織者としての主体を確立しよう B専従者が占める完全無欠な役員会運営を排し、誤りだらけでもよい、それを皆の誤りとし、そして正す事のできる我等の役員会をつくり、支えていこう。このスローガンは、地区ゴリラでつくる関西ゴリラというのを目指した形になっているが、活動方針は、課題の羅列にしかすぎず、アピール以前の情況に関して対処できるものではなかった。そして、アピール提起の中の専従者問題のみ取り上げただけで、現状を生みだした最大の要因である人手が足りないということやそこから生れた個々の想い、生活に対する批判も無視したものであったので、アピールに実質的に答えることができなかった。関西ゴリラ新体制は、一応形づくられたが、全くきのうせず、3月の関西青い芝、葦の会の関西ゴリラ解散決定へ情況は流れていく。障害者と健全者の間の疑心暗鬼はアピール後益々深まる(8)。
197802  大阪青い芝対大阪ゴリラ 本部氏自立問題に端を発した、大阪青い芝への要請文で、青い芝、ゴリラの溝が深まる。
197802  淀川区役所交渉、甲山闘争で大阪ゴリラ・関西ゴリラが糾弾される。
 ・ゴリラと関西青い芝、葦の会の関係の悪化は決定的になる
19780202 甲山闘争糾弾共同学習会→関西ゴリラ糾弾
19780213 淀川区役所行動反省会→大阪ゴリラ糾弾
19780310 兵庫青い芝が兵庫ゴリラの解散を決定
19780313 関西青い芝が関西ゴリラ解散を決定。大阪は反発
19780320 葦の会が関西ゴリラを解散
19780322 全国青い芝が関西ゴリラ解散を承認。関西ゴリラは全健協より除名勧告される。
19780325 関西ゴリラ役員会→事態を静観(3.27関西青い芝役員会の決定待ち)
19780327 関西青い芝役員会 →大阪青い芝、途中で総退場
 関西青い芝VS 専従者 →関西青い芝が専従者を全員解雇する
 大阪青い芝はゴリラ解散に反対して、関西青い芝の会から脱会宣言をする。
197804  松井(大阪青い芝)が全国青い芝の会の組織部長を降りる
19780413 第1回大阪全体会議 →問題が未整理のため、有志会議。
 ・リボン社、大阪青い芝、大阪ゴリラで運動再建のための会議。
19780430 第一、第二事務所を解約し、リボン社は新事務所へ移転 
197805  全国青い芝が全健協を解散 →青い芝の手足となる全健協(健全者集団)を解散
197805  関西青い芝連合会解散(関西青い芝−関西ゴリラ運動の崩壊)
19780512、22 第一次大阪ゴリラ準備会議
 ・個々の想いを伝えあう事が大事であると判断し、大阪ゴリラの再建への具体的取組みは見送られた(9)。
19780603 大阪ゴリラ第3回全体会議。
 ・各組織(大阪青い芝、大阪ゴリラ)の再建が先決であるので、全体会議は第3回をもって解消し、各組織の再建が話し合われる(10)。
197807  運動の再建に向けて「バラの花計画」が出され、大阪青い芝、大阪ゴリラ、リボン社の三者共闘の開始
197806  第1回新聞編集者会議 →内部統一、原則、方向を明確化させるため
19780720 青い芝運動のリーダーであった横塚晃一さん(全障連全国代表幹事、全国青い芝の会会長) 死去
19780803 第1回大阪ゴリラ準備会議
 ・大阪ゴリラ再建への話しあいが行われた。そして一方では、内部統一のための意見交流の場として、新聞『がしんたれ』の発行が行われ、また、有志によるバラの花計画がすすめられた(11)。
19780805 障害者解放新聞編集委員会『がしんたれ』創刊号刊行
19780905 障害者解放新聞編集委員会『がしんたれ』第2号刊行
19780910 「バラの花計画」全体集会
 ・大阪青い芝、リボン社組織決定、ネックは大阪ゴリラのみ
19781005 障害者解放新聞編集委員会『がしんたれ』第3号(終刊号)刊行
19781008 大阪ゴリラ再誕大会
 ・@差別者として障害者に対しているという自覚の上で、主体的に個々の障害者と関わり、自己の変革を目指す事、Aお互いに地域社会の一員であるという観点にたち、青い芝との共同行動として介護保障、行動保障を追求していく事等が話し合われた(12)。
1978秋  より多くの障害者の生活要求に根ざした運動づくりを目指し「生活相談行動」を展開、電話相談の多くは働きたいという要求
197812  差別の狭間で出産に臨む女性障害者を囲む会結成
1978冬  盲・聾・養護学校義務化阻止闘争の高陽

19790122 養護学校義務化阻止全国総決起集会
197902  おおさか行動する障害者応援センターの結成
197904  文部省、養護学校義務化強行実施
 障害者の出産・育児をめぐって豊中市交渉始まる
197906  会員の長沢香代子 長男正也くんを出産
197908  ビックコミックオリジナル「夜光虫」糾弾闘争
197909  『そよ風のように街へ出よう』0号発刊

1980春  実態調査阻止闘争 この総括から障害者自身の調査の必要性を導き出し生活要求一斉調査活動の準備に入る
198006  豊中市にAZ作業所開所(AZ粉石けんの製造と販売)
1980秋  生活要求一斉調査活動開始
  国障年を機に障害者の自立と完全参加を求める大阪連絡会結成
  大阪府の母子保健総合医療センター建設に対する反対運動

1981   国際障害者年
198108  生活要求一斉調査実行委員会生活小委、生活ハンドブック発行
198112  在宅重度障害者野々村隆弘さん生活問題東住吉区交渉の開始

19820125 会員尾池幹子、真弓ちゃん出産
1982春  大阪青い芝の会第10回定期大会 森会長、松井副会長、事務局長 坂本博章
198209  富山市行政差別文書発覚 糾弾闘争の展開〜83年
・富山市が「障害者運動グループの生活保護」に関してという差別文書を全国の各市町村に送ったことに対する糾弾闘争。その文書には、障害者運動に関与する車イス等身障の生活保護受給者の背後には介護人グループがあり、そのグループの集団的威圧の下で、各種要求が出され、対策に苦慮していると述べられ、各市町村のそのことに関する状況を参考にしたいという目的で、調査票を各市町村に送った。差別の問題点としては、次の2点があげられる。@「障害者は半人前、役立たず」として人格を有する主体として社会の中に位置づいてこなかったという一般的社会通念に基づく差別意識のあらわれであり、障害者運動の主体を否定している。A障害者が地域で生きていくための要求闘争を「集団的威圧のもとで」というように、無謀な要求をだしているかのように述べ、障害者の団結権、要求権を真っ向から否定している(13)。
 この年の秋から大阪全体会議準備会スタート 運動の転換に着手する

19830321 日米障害者自立生活セミナー(大阪)開催
1983春  AZ作業所拡大移転大バザーの開催
19830729〜31 全障連第8回東京大会にて「障害者解放基本要求要綱」提起される
198309  生活プロジェクト、労働小委員会、学習運動委員会を軸に運動の転機に具体t的に取りかかる
 ・生プロ−制度研究・実例研究・構想作り、労小−労働パンフづくり 学連−公開学習会の開催と機関誌「うねり」の発行 など 〜84年
198312  AZ作業所拡大移転

198402  高橋栄一さん(大阪青い芝の会 初代会長)死去
1984春  生活プロジェクト、生きる場―作業所訪問調査の展開 
198404  ノーマライゼーション研究会(N研)結成
198408  生活プロジェクトの新構想を受けた第12回大交流キャンプ開催
19841209 中部障害者解放センターオープン記念イベントの開催

1985春  南部障害者解放センター開所
1980512 東住吉広がりフェスティバル(第1回)中部主催
198505〜06 全障連第10回大会実行委員長坂本博章全国キャラバン行動
19850726 会員の斉藤昌子、一郎くんを出産
19850726〜28 全障連第10回記念大会―生きる場ネットワークづくりの議論盛り上がる
198511  全国青い芝第6回全国大会(東京)で全国執行部に対して現実的な方針への転換を求めたが、容れられず、全国青い芝を脱会宣言
198512  大阪障害者情報センター開所 情報誌コミュニティーズ発刊
198602  長年の青い芝の要求を受けて大阪市全身性障害者介護人派遣事業、スタート (初年度は月12時間、 87年−24時間、88年−48時間)
198604  障害者基礎年金が創設され、1級の障害者で月6万5千円になる
19860504 自立セミナー・プレ企画開催 渡辺鋭気講演
19860601 大阪青い芝の会第13回定期大会 第5代会長に松井義孝、森 修
19860615 高槻障害者解放センター・広がりハウスオープン
19860630〜0701 身体障害者更正援護施設の入所者に対する施設費用徴収強行実施への反対運動が全国的に盛り上がり、全国行動として厚生省前を500名の車イス障害者が取り囲む
19860801 全国行動に連動して大阪青い芝の会が、大阪市が反対の声を振り切って強行実施したこの日、100名規模の抗議行動を展開
19860920 障害者の自立を考える連続セミナー第1回「歴史」開催、パネラー:二日市安・楠敏雄・松井義孝
198611  全国青い芝全国委員会(福山)にて、全国組織として再建するための提議を行うが、容れられず、再度脱会を表明
19861206 自立セミナー第2回「今後の展望」開催、パネラー 田中克博・李幸宏・森野和子

19870216 会員の野々村隆弘さんの母、美代子さん死去
19870314 自立セミナー第3回「生活」開催  パネラー:三沢了・室津滋樹
19870510 会員の小畠義晴・伊藤としゑ結婚パーティー盛大に開催
19870613 自立セミナー第4回「労働」開催  パネラー:五十嵐光男・野崎博史
1987077〜10 南部、対堺市行動と交渉(24日)
19870715  国障年大阪連絡会対府オールラウンド交渉
19870725  ケア付き住宅講演集会に150名参加  講師:定藤丈弘
19870828 大阪府庁舎総点検行動とシンポジウム開催
19870926 自立セミナー第5回「社会的自立を実現する行動を共に」
 パネラー:太田修平・八木下浩一・白石清春・共同アピール採択
19871106 国障年大阪連絡会対市交渉
19871123 国障年中間年イベント開催

1988春  南部障害者解放センター、堺に障害者6名のグループホーム開所
19880508 大阪青い芝の会結成15周年記念第14回大会 松井会長、森名誉会長、
 坂本副会長、入部副会長、新事務局長に尾上浩二
19880525 大阪青い芝対大阪市交渉−介護人派遣事業、ケア付き住宅
19880701 第1回ケア付き住宅研究会−大阪市民生局障害福祉課と共同
19880707 第1回国障年対市施設問題協議会
19880726 施設費用徴収問題対市抗議行動と交渉
 ・親からの徴収は撤廃されたが、本人負担は何ら施設での処遇が改善されていないにもかかわらず、強化されようとしていることに対して
19880729〜31 全障連第13回滋賀大会
19880820〜21 第16回障害者と健全者の大交流キャンプ 琵琶湖  

 ※この年表は、1988年に大阪青い芝の会会長であった松井義孝氏の話をもとに野谷靖によってまとめられた年表(尾上浩二編(1988)『大阪青い芝の会結成15周年記念 第14回定期大会 報告集』102−106頁)に加筆したものである。

(注)
(1)障害者解放新聞編集委員会編『がしんたれ』創刊号、1978年8月5日号、13頁。
(2)関西青い芝の会常任委員会編(1975年)『関西青い芝の会連合 No.2』リボン社、55頁。
(3)同上誌、82頁。
(4)『3.13障害者差別について』3.13差別発言糾弾会議(76年5月12日)の資料より、(連絡先:大阪市立大学理学部210号教室)、3頁。はじめにで、矢野恵子は次のように述べている。
 「3.13障害者差別糾弾の闘いは、すでに2年を経過しました。糾弾という言葉すら知らずに、ただ障害者である私の『苦しい』の一言を出発点として始まったのがこの闘争です。その中で、障害者のあるがままの存在を決して許さず、健全者なみに出来ない者はダメと切り捨てるのが、現在の差別社会、大学教育であることが、より鮮明に私の前に浮かび上がってきました。すなわち、同じ距離を人の何倍もかかって歩く私に、常に早く歩く事を強いているのです。そして、3.13発言は、まさに『ペースが遅い』という事によって障害者を切りすてるものでありました。私は早く歩けとむちうたれることを拒否します。堂々と私のペースで歩きましょう。3.13闘争の歩みを知って頂く中で、私達の日常にある、そして私自身もそれに埋没している、障害者への差別を知って下さい。そして、理学部の差別教育が生んだ3.13差別糾弾を共に闘って下さい。」1976年5月21日。
(5)全国自立生活センター編(2001)『自立生活運動と障害者文化』現代書館、330-331頁。
(6)〜(12)『大阪ゴリラ再誕大会議案書』(1978年10月8日)を参照。
(13)馬詰富保「障害者差別の実態と基本的人権」世界人権宣言中央実行委員会編(1984)『人権白書・1984年版 −被差別者の立場より−』解放出版社、206、210-211頁。


 

■■197402  兵庫県衛生部の「不幸な子供を産まない運動」への抗議

◆関連論文
 松永 真純 200112 「兵庫県「不幸な子どもの生まれない運動」と障害者の生」
 『大阪人権博物館紀要』5:109-126

■兵庫県「不幸な子供の生れない運動」に対する公開質問状

   兵庫県知事殿
   兵庫県衛生部長殿
   兵庫県不幸な子供の生れない対策室長殿

 兵庫県における、県衛生部を中心とした「不幸な子供の生れない県民運動」に対して、我われ、障害者の立場から、県責任に対する抗議と疑問点を明らかにし、公開の質問状を発することになりました。以下、この質問状に誠意を持って回答されんことを質問致します。
 1.様ざまな事実
  我われ、障害者に与えた、貴対策室の影響は、はかり知れない物があります。そして、それは、現行、優生保護法に基づき行われて来た事は明白です。
  A.昨年開かれた「不幸な子供の生れない県民集会」に対して、障害者の問題に関わる集会であるからと、参加を要求したのにもかかわらず、拒否された。我われの眼の届かぬ所でなにをしようと言うのか。
  B.県当局は、対策室を制度化することによって、行政の責任としての、障害者を、不幸と言われる状況においやっている原因をとりのぞく努力を放棄し、障害者の存在そのものが不幸であるとするキャンペーンを自ら行っている。
  C.ある県経営の施設を舞台に、障害児をモデルとして、対策室のキャンペーンフィルムを作り、ハレンチにも、各界の反対を押し切り、テレビで放映したこと。
  D.現実に、県経営の施設において羊水チェックを行っていること。
 2.我われの基本的な考え方
  現在の日本は資本主義の社会であり、そこで必要なものは、高率的な生産力であるし、それを統轄しているのが行政と言えるでしょう。かつて、ナチス・ドイツで行なわれた、民族の純粋性の名による障害者殺しを原基形態として、日本は、優生保護法を作りだし、今日の近代合理主義を完成させた。つまり、障害者に、生産力たりえない、劣悪者の地位をあたえることによって、今日の社会はなりたっているのです。優生保護法は、それの、国家的、法的、表現です。そして、これは、現実の障害者殺しを頂点とする情況によって支えられているのです。秩序総ぐるみによる、このような障害者をあってはならない存在とする運動に対して、人間の未来を要求する人びとからの批判の声はたかい。
  県当局は、広はんにある「障害者は、かわいそう、気の毒」とする差別意識をたくみに利用し、「不幸な子供の生れない運動」を展開することで、実質的な優生保護法改悪の先取りを行っている。1個の人格を「幸」、「不幸」とたやすく決める事が、この運動によって、社会的に浸透し、それが、観念としてうえつけられて行く、障害者は、不幸な存在ではなく、不幸にされてしまった存在なのです。
  「福祉、福祉」と全国で叫ばれているが、そして、あたかも障害者がすくわれて行くような幻想がふりまかれているが、しかし、それは、健全者の「愛」と「正義」につつみこまれた、障害者のまっ殺を意味する。兵庫県における「不幸な子供の生れない運動」のもつ意味を問いかえし、そのいつわりのベールをはぎとることによって、我われの「生」を幸いなるものとしなければならない。
 3.我われの決意
  県当局は、この質問状が、ただの紙きれであると考えてはならない。この内には、まっ殺され続けてきた、我われの、兄弟の想いがこめられている。誠意ある回答のない場合、我われは、決意をもって行動する用意のあることを表明する。
 4.質問
   1.「不幸な子供の生れない運動」とは、いかなる考えによって、実施されているのか。
   2.昨年の県民集会に、なぜ、我われ、障害者を参加させなかったのか。
   3.我われを「不幸」とする根拠はなにか。
   4.優生保護法を、どのようにとらえているか。
   5.優生保護法改悪を、どのようにとらえているか。
   6.貴対策室をなくす意志はあるか。
  以上、県当局の責任ある回答を要求する。なお、この質問状は、発行と同時に、公開されます。
  3月10日までに、書面で回答されたい。

                           1974年2月25日

 *出典:大阪「障害者」教育研究会『大障研』1:25-27


■要求書

  兵庫県知事
  衛生部
  母子保健課殿

  兵庫県母子保健課に、対して「不幸な子供の生れない運動」の持つ、差別的な意味について、私達、大阪青い芝の会は、度々の抗議行動の上に立って、要求書を提出するものです。
  先般、私達の公開質問状に対して、県当局からの回答がありました。そして、その中で明らかにされたのは、「不幸な子供の生れない運動」とは、「五体満足に生れてほしい、健康な子供を生みたい。」という気持ちこそが、私達、障害者を差別する具体的な表現なのです。
  この気持ちを表現する言葉が、健全者の言葉であり、健全者の発想です。母親もふくめた健全者が優生であり、優生こそが、この世にあるべき存在である。つまり、劣性障害者は、この世にあってはならない。と考え、劣性を生む事をイミキライ、その気持ちが、上記の願いとして結実するのです。
  そして、また、回答中の別項にある、「世に、母性なり、家族があるかぎり、母子保健の問題は、重要な問題であり、核家族化が進む現状にあっては、経験者による指導、助言がうすれ行く昨今、若い母性に正しい知識と、理解をふかめ、不安をなくして行く事が大切であり、県民大多数の支持を受けている事もあり、廃止する意志はありませんが、名称については目下、検討中であります。」については、全的に、私達に対する差別そのものです。これは、「世に健全者があるかぎり、あってはならない障害者と考える、一般的差別意識によりかかって、健全者の不安をとりのぞく事に重点をおき、健全者エゴを貫徹します。」と言っているに等しいのです。私達は、このような、名称を変えても、どんな事をしても、なりふりかまわず、障害者の存在を否定し、合理的(?)な社会を維持する事を言明する、差別宣言を許す事は出来ない。母子保健課のパンフレットには、「心身障害児を生まないようにしよう。」とハッキリ書いてある。
  私達は、「健康な子供を生み、健全に育てよう。」「働く婦人の健康をまもろう。」「母子保健の推進体制を確立しよう。」とする母子保健課の運動こそが、名称が変わっても、障害者差別の国家的表現である。優生保護法改悪の行政レベルでの先どりである事を、ふたたび明らかにし、兵庫県に対する、百年戦争の名を持って、次の事柄を要求する。

        1974年4月26日
 (1)障害者差別である、羊水チェックを中心とした、母子保健の名による行政指導を中止せよ。
 (2)その中止時期を明らかにせよ。
 (3)先般の回答にみられる様な、障害者差別に充ちた県行政の姿勢を改め、総合的な福祉行政計画を作成せよ。
 (4)計画作成にあたっては、障害者の参加を保障せよ。
  具体的には、当面、等級に関係なく、医療費の全額免除を実施せよ。
 私達は、この要求に対する、県当局の誠意ある回答を、この交渉の場で要求する。即答出来ぬ場合、文書で持って、4月30日までに回答される様、要求する。

 *出典:関西青い芝の会連合会『関西青い芝連合』1:98-99


■関連

◇大阪「障害者」教育研究会 (発行年不明、推定1974年) 『大障研』(創刊号),障害者問題資料センターリボン社,創刊号,57p.


UP:20050520 REV:20050907,20100417
青い芝の会

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