『がしんたれ』創刊号
障害者解放新聞編集委員会 1978年8月5日
再録:定藤邦子
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共同して困難にたちむかい共同して未来をかたちづくろう!
世界はデタント以来の新たな再編過程を歩みつつある。接近した米中とソ連との確執は、例えばアフガニスタンでベトナムで南イエメンでといった具合に第3世界におけるそれぞれの勢力圏拡大のための帝国主義的策謀として表面化している。
★それと対応して、福田政権は、ソ連に対する逃げ腰的な挑発(栗栖・中川発言等)をくり返す一方、アメリカの指示のもとに、日中平和友好条約−米中日同盟−の早期締結をもくろんでいる。そして。労働戦線の側はといえば、労働者の経営参加要求や青年労働者を中心とする組合ばなれに象徴される左翼労働運動の体制内化がめだち、それは例えば、自ら積極的に「過激」労働者を処分ことに手をかすことによって、大単産の外に、無数の未組織下層労働者、被差別者等の真に社会変革をになう人々を結集させていく役割の一端を課せられているのは、そうした人間解放を要求する勢力の、より緻密な組織化であり、その先兵のひとりとしての障害者解放運動の強力な組織体の確立である。
★関西における過去6年間の青い芝の会を主軸とする障害者解放運動は、施設・在宅障害者の掘り起こしを通して、幾多の自立障害者を生み出し、社会に厳然たる障害者の存在をうちたててきた。だが、一方で、充分な大衆化や共闘関係をかちとることができず、うんどうそのものが閉塞情況に追いやられてきたこと、特に健全者の部分が差別者たる位置から、主体的に自らを変革する力量に欠けていたことも、率直に認めなければならない。そのことによって、運動を共に創出し行動し責任をとってきた我々の内部にすら、共同性の欠如した責任のなすり合い、個々の想いへの逃避がみられ、現状以上のものを見ようとしない傾向も根深く存在している。だが我々は、河を上流に向かう舟人なのだ。カジを放棄し、カイをこぐ手を休めたらその運動は明らかだ。少なくとも新たな流れをつくりだそうとするものにとって、立ち止まることは後退を意味(16頁) するということを肝に銘じなければならない。
★「がしんたれ」は、表面弱々しく実は根性もちの人間をさす大阪弁である。この新聞も外見はごらんの通りだが、我々のいだく障害者解放の理念は、確固とした筋金入りである。アンドレ・ビアスの友情の船には、嵐の時は一人しか乗れぬが、我々は困難なときであればあるほど、その困難を引き受ける団結の必要性もまた増大することを確信している。意見・情報交換の場を通じて、全ての仲間の共同作業所の結実として、この新聞をつくっていきたい。個人の地区の争の想いを明かにし、それを又、それぞれの場に持ち帰ることによって、内部の団結を高め、外に茫洋として拡がる大地にむけた確かな武器として、「がしんたれ」を発展させよう!(1、16頁)
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意見交換・自己主張・提言
私が想う事 長沢 香代子
福岡でいろいろな人々との出会いがあった。最初に出会ったのはセクトに属し、三里塚闘争に関わっている人だった。彼は24才、父親はなく、母が教師、妹が一人。小さい頃は親のエコヒイキが嫌だったとか。とにかく頭の切れる人だった。まず、質問されたことは「長沢さんは障害者解放運動をやっているが、その他の運動をどう考えているのか?」私は今まで「そんなん関係ない!」と切ってきたが、彼があまりにも真面目に話しかけてくるために、単に障害者どうこうだけでは通らない。私は逆に「なぜ三里塚に関わっているの?」と聞いた。彼は三里塚住民との関わり方を言う。私は「なぜ住民にならないの?それだけ?と再度尋ねた。彼は「三里塚住民の怒りをいろいろな所に広めるのも1つの運動だし、新空港が建つのも羽田空港が狭いからという問題ではない。戦争がからんでいる。地域住民だけの問題ではなく全員の問題だ」etc.とムツカシイことを言う。『戦争反対!』という感じで運動をやっている。「三里塚農民も単に住んでいる土地を離れたくないという想いだけではなく、戦争がからんでいる点でも反対している。」と言う。私は「そこに障害者がいているのか?」と聞いたら「いない」という答え。障害者の関わりは全然ないらしい。彼は「三里塚闘争の為なら障害者を放っておいてもいく。行かざるを得ない。」 私は「障害者はおれへんと言うて放ってきたやないか。その上、今障害者に関わっているのに放っておくのか」と聞く。結局、三里塚闘争と障害者問題との接点がわからないのだった。彼は悩んでいた。私は「よく考えてみて、色々な運動があるけれども現実の社会は健全者がつくり出した社会であって、障害者がつくり出した社会ではない。その社会の問題を障害者は全部ひっかぶっている。日照権の問題にしても生れた時から閉じこめられて、マトモに太陽の顔を見たことのない障害者がいる。公害問題にしても健全者が勝手に企業つくって生れてきた公害やないか。(5頁)私ら障害者は何も関わってないのに公害は私らの方に流れてくる。こういう風にいろんな問題があるけれど、障害者は全部ひっかかえている。障害者ヌキで運動やっても、それが本当の運動かといえばそれは健全者のみの運動であって表面的な運動にすぎない。」最終的に彼は「今、戦争になったらどうなる?」と聞く。私は「今、戦争になったら皆が敵になる。健全者だけの運動やから健全者は私達に銃を向けるだろう。今まで車イスを押していた者が逃げだし、障害者運動は死ぬ他なくなる。」 彼は「戦争を防ぐ為に反対運動をやるのであれば障害者は何をするのか。」と聞く。私は「今やっていること。外へ出ていくことになる。具体的に言えば、養護学校・施設・コロニーを破壊すること。皆の障害者は施設へ入って当たり前いう意識がなくなり、地域で暮らすことが当たり前となる。私はそこから始まるとおもうし、そこからしか障害者はできない。」とこたえた。
福岡では障害者解放運動は健全者にとって始めての運動だから、自分の今までの意識を問うてゆくという気持ち、自分なりに問題を捉えようとする意識が強かったからこうした話し合いになったのではないかとおもう。この辺の話が中心になるため、私も健全者社会に学ぶものが多くあった。『』つきの言葉・運動とかいう内容一辺倒では相手に通じない。自分から相手の中に入り込まないと話しができないこともわかった。これまで青い芝の論理・運動一辺倒でやってきたが、それだけでは通らない。地域で生きようと思えば、地域の中に入りこまないといけない。こういったことが自分が頭デカッチであったことと共によくわかるようになった。
今年の4月帰阪してし、福岡で学んだものを今後の運動の土台にしてゆこうと努力したが、それが大阪では通らない。大阪へ帰ってきてよく想うことは、障害者と健常者の相互関係があたかもできたような言葉を使い行動しているような所が健全者にも障害者にも見える。一例をあげれば介護の健全者の女の子がきらびやかに着飾って歩いて女の子を見て「もうあんな女の子には戻れないはね。」と言う。何となくジーパンをはいて車イスを押していると「自分は普通の女の子ではない」と思ってしまっている。問題の捉え方がズレている。又、良く感じるのが実際何もやっていないのに、やっていることが何か特別のことをしている様な錯覚に陥っているようだ。更にいえば障害者の生活と自分の生活を比べてウラヤマしがる。例えば「この家イイネ」ご飯を一緒に食べても「長沢さんの食生活イイネ」といった発想が出てくる。そこでは健全者と障害者の関係をとってみても何も捉えていない。その友達が障害者であるというだけでしか捉えていないような気がする。逆に自分のしたいこと、思っていることを障害者におしつけるような関係でしかない。(6頁)自分のことより障害者のことをよくみている。「自分のことは?」と問われたらこたえられない。「一体自分はなにものなのか?」という話になってしまう。今の状況では何もできなと居直っている姿勢でもあるし、在宅障害者・施設障害者がでてくる時に保障しきれない現実がある。こうしたことを重度寝たきり障害者の視点で考え、又、こうした現状に眼をそむけがちな健全者の風潮を見ると単なる介護人でしかないような現在の健全者との関係(つきあい)事態が非常にシンドク感じられる。
今の大阪の状況でもっとコワイのは、障害者が一人死んでの「こら、エライことや!」と心から感じ言う人間が一人もいないということ。美佳氏、御香典が と言うばかりであることだ。このままいけば障害者・健全者とも今まで何をやってきたのかわからなくなってしまう。この状況下で居直ってしまうのか、立て直そう(新しく運動を創り出す)とするのか二つに一つしか道はない。居直ってしまうということは、これまで運動が目指してきた障害者解放を否定してしまうということである。
しかし、障害者の自立と解放を求めて運動を再建しようとする時、具体的に何をやっていけば良いのか分らない。なぜかといえば健全者にこれまで自分のしてきたことを点検する姿勢が乏しく、問題(現状)と正面から取り組まず、場当たり的・投げやり的に差別の問題ヌキになる個々のツキアイに逃げこもうとしている健全者の風潮が強い状況下、こうした状況(すべての問題)を適格におさえ判断する訓練を社会的にも許されずこれまでの運動において蓄積の少なかった障害者は健全者の押しつけで問題(差別)の本質を見据えようとしない真の障害者運動とは無縁の悪しき流れに流されてゆくしかない。私達は、こうした運動内の悪しき流れに立ち向かって真の障害者運動を皆の力を合わせて創り出していかねばならない。
(7頁)
現在も専従者として生きる(西谷悦子)
専従者と言うことについて、ずっと頭をしぼって考えてみると、障害者解放というものに向かって、(8頁)自分らはどういう風に運動を展開するのかという事にも、かかわってくるが運動の中に専従を置くという事は、明らかに今は、小さいけれど、社会的に何らかの運動の位置をしめていこうとする事のあらわれであるとおもう。(みんなは、どこか雲の上で勝手に、専従者は決まっていたかの如くにいうが、私はそうはおもわない。みんなが専従者を置いた事に関して、無関係、無関心であったのではないかと想う。)
それでは、専従者の位置とか任務は、何だったのかというと、今まで、専従者が健全者の代表(関ゴリ役員)となっていた。しかし、実際の関ゴリ役員会は、健全者サイドの事務的な仕事を好んでしていた所であった。そのことは、結果として、専従者の任務を曖昧にして、専従者自身をナレアイ的にしてしまった。しかし、専従者の位置とか任務をあいまいにしていたことを利用して、根本的な自分の運動姿勢・なんで自分が運動してきたのかということをおおい隠すように専従の問題が、もちあげられてきた。
専従者、個々に対する不満が、そのうち運動の種々雑多な間違いの本体は、あいつら(専従者)のせいやということになった。(本当に青い芝運動を経験してきた青い芝の仲間や、実際地区の健全者運動を担ってきたゴリラの中から、健全者に、または、専従に引き回されたという言葉が出てきたような現状だった。)
その後組織に、幻滅した者や運動そのものに幻滅したものが、自分のやり方で運動を続けるという名目で個にもどる現象が始まった。ある者は生活へ、ある者は自分の気のあう者の中へ、昔の自分と同じ世界へ戻ってしまった。それは、まるで運動すること自体が、間違いであったかのように誰も彼も自分自身のことを理由に、個に戻ってしまった。みんな自分自身のことで必死なのかもしれない。特に障害者は、ちょっと油断するとバカにされるし、直ぐ裏切られる。だから、みんな賢い者は黙ってしまう。それに、青いしば・ゴリラの日々の生活はパターン化し、運動総体のことを忘れさす。しかし、なんで運動というものが存在するのか、何で自分の運動をしているのかということを、忘れきらなくてもイイのではないかと思う。
今、私らの見えている範囲は青い芝運動の中の、関西の中の大阪の状況しか見えてないかもしれない。その中ででも3ヶ月前まで居ていた人、半年前まで関係を持っていた人が居てないかもしれない。しかし、私らだけの世界がすべてではないと思うし、私らが障害者運動を形成していくにだと思う。だから、その場その場で、その地区その地区で皆がなにかを形づくっていかなければならないと思う。(7〜8頁)
(9頁)
地区情報
(東部) 大歳 正
東部地区は、青い芝・ゴリラとも目立った動きは、あまりない。
軽度障害者柴田氏の自立が問題になっているが、彼の場合、今までの自立障害者とタイプが異なるだけに、もっと話し合う必要がある。高槻では、上映後、行動委員会が結成されたわけだが、細々と話し合いがもたれているにすぎない。枚方は、障害児保育を進める会との関係がもたれ、9月頃枚方市に対して、質問状を出す予定である。四条畷における動きはないといってよい。キャンプに向けて、我が地区としては集中して在宅訪問を行っている。
(中部) 中村 範久
地獄的介護状況の中、みんなの疲労が、飽和状態に向かって蓄積中。中部青い芝VS中部ゴリラの定期化(毎週月曜日)も、参加者がじり貧で、内容ももうひとつ。中青の事務所当番も、事務作業の押しつけすぎという反省の声が出始める。
中G 会議や中青VSちゅうGでぽつりぽつりと本質的な話がでるが、出っぱなしで、それを整理し、行動に移していくことが必要。とにかく企画を。みんな創造力をふりしぼってユニークな企画を。みんなで打ち込める結集軸を。
(北部) 山口 浩志
「北部今どんなん」と聞かれる質問ほど困るものはない。とにかく答えようもない、いつもの北部です。
混乱の幕が引きかけた時、北部G内の動揺は、すでにおさまりかけていた。でもそれは、Gから一人去り、二人さる所で、または去らなくても己自身をGと規定しない所で成り立つものだった。中傷とデマがとびかう中で、今までやってきたことがデマによって崩れていくものでしかなかったこと。それに何言うてんねんという健全者の優位性を見せつけることで、何とかもたせてきた。でも、そんな時期も終わった。
北Gいうても、多くの人達を除いた所で成り立つ。これを「鈍化」というのかもしれないけど。ますます何を基盤に毎日動いているのかわからないところで、このままいけば又同じあやまちを繰り返してしまう。(10頁)とにかく、今は混乱を乗り切る?形として行動を打っていくというよりも、これから長い共同を創るためにも、障害者、解放運動を担っていく健全者同士の信頼が、仲間意識が必要だと思う。
だけど、信頼関係って、どこからやっていけばいいのかな。個と個との話し合うところからかな。
南部 沼野 淳一
南部ゴリラは、個別分散状況で、南部ゴリラ会議も持てない現状です。その上細井氏は、過労で倒れ、他のゴリラは日々の介護に追われ。オレグさえできず、介護不足になり、そのしわ寄せは、障害者のほうにいっています。この危機的状況を打開すべく、南部青い芝VS南部ゴリラを定期的に(週1回)開いてきましたが、現在中断しています。今後は、在宅障害者を含めた南部全体会議のようなものを月1回持っていこうとしています。
8月から解放大学開講・南部新聞発行などに向けて討論を重ねていこうとしています。
松井氏も引っ越し、新たに松井解放塾を、8月1日より開校しています。小畠君も月2回の小畠軸を定期的に行い、地域住民との交流を図ろうとしています。
南部ゴリラは、もう暑さにも負けず、危機的状況にもめげずに統一と団結に向けて、奮闘する心構えです。
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非凡の友人 全国青い芝の会会長逝く
私達の共通の友人であり、障害者解放運動という人間の本質に迫る運動の旗手でもあった横塚晃一さんが7月20日午前11時45分、私達を残して逝ってしまった。
春の別れは藤の花、人の別れはただ涙、という。私達と横塚さんの付き合いは長い、私達が第2地産マンションで運動の拠点を築き上げて以来、変わらぬ友情と共通の闘いに支えられて、それは駒込病院の最後の病床まで続いていきました。横塚さんが逝かれたいま、何をも語る言葉を持ちません。
打ちひしがれ、差別の谷間に身を置かざるを得ない障害者として、支配と分断の中、無数に分立し孤立した全国の兄弟姉妹、仲間をまとめ、全国青い芝の会総連合会、全障連を創り上げた業績は、人間の歴史の中で消えることはありません。私達は、横塚さんの正しい後継者として自らに任じ、厳しい覚悟を持って横塚さんを送らねばなりません。
最後の面会の時、横塚さんが私達に残された言葉は「もう一度大阪に行きたい」というものでした。
ご家族の深い悲しみに、ただご冥福を祈るばかりです。 合掌
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記・後○編
・クソ熱い夏です。編集も油汗をたらせて創刊号発行にこぎつけました。
・混迷を打ち破る斧を求めて有志が集い、新聞発行を期したのが梅雨入りの頃であり、カビのように所かまわずはびこる様々な中傷を乗り越え、障害者解放運動の羅針盤を創り出すべく編集委員会に結集した各々がこの2ヶ月間頑張ったつもりです。
・しかし編集だけ頑張っていたわけではなく、もちろん各地区の障害者、ゴリラも日々の介護・生活のなかでなやみ、もがき、解放への道を捜し求めていたことを信じます。
・この障害者解放通信『がしんたれ』が運動の航路を正しく示す羅針盤・暗闇の行手を照らし出す灯明となるには、私達編集委10数名の努力だけではいかんともし難いのが、現実の差別のかべです。
・『がしんたれ』は編集委だけのものでは決してありません。また、作り手、読み手の関係にとどめるものでもなく、障害者差別を憎むすべての人の手によりつくられるものです。
・各個の意見・想いを全体に反映させ、外にたいしては、冷徹に差別を見据えて闘い、内においては熱烈な同志愛のみなぎる運動を築く為に皆の意見・主張の投稿をお願いします。皆の投稿が今後の『がしんたれ』の主軸となり、方向性をも決定します。
・『がしんたれ』とは大阪弁でアホ・アカンンタレと皆からバカにされるが芯には強い"いちずさ"を持った者という意味です。現在、巷では単なるアカンタレという意味でしか使われていないようですが、私達はホンマモンの『がしんたれ』を目指したいものでおます。
(うえにし)(16頁)