◇桐沢 正弘
◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
※2つに分けた記録の1です。
◆桐沢 正弘 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:桐沢氏宅(新潟市)(本頁)
◇桐沢 正弘 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:桐沢氏宅(新潟市)
【rmk05】20220522桐沢正弘(於:新潟市・桐沢正弘氏御自宅)_137分
~このように表現しています~
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
■
栗川:生まれてからここまでのところを存分に話してもらえるといいかな、ということで。
桐沢:生まれてから?
A:いいよ、好きなことしゃべりな。
(録音の確認など)
桐沢:生まれてからの話は63年間。
立岩:誕生年月日からおうかがいしていいですか?
桐沢:1958年12月1日です◇。
栗川:じゃあ僕より一つ上の学年ですね。僕は59年10月なので。
立岩:僕は60年なので二つ先輩みたいな。
栗川:どこで生まれたんですか?
桐沢:生まれたのは柏崎。柏崎で。どこまで話せばいいのかな。
ようこ:話したいところまで。
A:柏崎で。
ようこ:生まれて。
A:親の職業はなんだっけ?
桐沢:警官です。
栗川:警察官。が、お父さん。
A:そうですね。もう10年ぐらい前に亡くなられたんだけど。
桐沢:ちょっとマスク***(00:02:03)。
A:じゃあ自分の家だからはずしとけ。
桐沢:マスクが***。(00:02:19)。私あの、簡単になると、柏崎で生まれて、そっから、よくありがちなんだけど、はまぐみの療育センターの中の母子入院てところにいて。長いあいだに。いつだかわかんないんだけど、母親と半年ぐらい入院して、母がこれを***、***兄貴と。あのときには子供のころから迷惑はかけてますね。
母親は無理ないのかもしれないけど、母親は母子入院ってかたちで半年間いっしょに柏崎行けなかった。母親と私は***と二人で、家族は半年間***、きょうだいが三人で末っ子だったんですよ、うちの家族っていうのは。三歳違いで。だから俺が入院…そのはまぐみに母子入院になった時には、兄貴は三歳で姉が六つのころかな。
立岩:お姉さん、お兄さん、自分って、三つずつ離れてるってことですね。
桐沢:はい。むこうにうちの兄貴も姉も甘えたかったろうけど、私のために半年間ね、必要な半年間をというわけでして。
立岩:ちょっとおうかがいしていいですか? その母子入院っちゅうのは、わりかたはまぐみではあるようなことなんですか?
桐沢:早期発見っていうのが言われてたのかわかんないんですけど、あの時。早い時期に、こう【***とか関節とか】(00:01:50)、それどんな理由わかんないんですけど、俺の時に。ほんとうに2、3歳のころの記憶だから、なんとも覚えてないね。
立岩:はいはい。そりゃそうでしょう。
山口:年表を見ると、60年に「母子入園部開設、定員10名」◇って書いてあるんで、たぶんはまぐみの、母子入園部開設は、
立岩:っていうのがあったんだ。
山口:「60年に開設した」って書いてあります。
桐沢:そこに入ってたんですね。
山口:だから、すごい早い。開設してすぐ入った。
立岩:子どもがそのはまぐみ学園ってのはわかるっちゃわかる話なんですけど、お母さんはそこで何のためにというか。
桐沢:遠くから集めてたわけですね。なんていうかな、リハビリをやる。小さい時からリハビリをやる。
立岩:リハビリ?
桐沢:そう。その頃は理学療養施設ってのはあんまりなかったんだと思うんですよ。「どっか家庭でリハビリしなさい」っていうことで。***(00:03:25)ですよねえ。
立岩:家庭に帰ってリハビリするのは親だと、母親だと。だから、一緒に入院させて、そのやり方というか、そういうものを覚えさせるというか、習わせるというか。そういうことだったんですかね?
桐沢:はい。
立岩:それはほかの地域でもあったみたいですね。
桐沢:だからその頃は俺はまったく、まったく子どものね。だから何やってるのかわからなかった。
立岩:そりゃそうでしょうね。
桐沢:ちゃんと覚えてるわけじゃねえ。小さい時のことで。
立岩:その「母子で」っていうのは、たぶんだから、お母さんからあとでお聞きになって記憶に残ってるってことだと思うんですが。
桐沢:断片的に記憶にはあるんです。
立岩:そうですか。私は五つよりも前のことは何にも覚えてないっすね(笑)。それはすごいな。覚えている部分もある。
桐沢:はい。何でかと言うと、俺風邪ひきやすいやつだったんで。高熱をよく出してたので、父も。
立岩:お母さんと一緒に入院してたけど、熱出したりするとお父さんもっていう、そういうことですか?
桐沢:そういうことですね。
立岩:柏崎と新潟ってどのぐらい距離があるんですか?
桐沢:どのぐらい距離あるんだろ。
ようこ:その頃は車の移動だった? それとも、
桐沢:いや。
A:80キロぐらいあるんじゃないですか? 直線でもね。7、80キロはある。
立岩:けっこうな。
桐沢:越後線で【いうならここを】(00:05:09)。[00:05:07]
ようこ:越後線で行くとすごいかかるよね。こないだ帰ってきたもんね、越後線で。
A:新潟から終点までだな?
桐沢:そう。
A:3時間かかるよ。
立岩:えー、そんなにかかる。じゃあでも3時間かけてお父さん、熱出したら、
桐沢:いや、なんだかわかんないけどとにかく来てたなあっていうのは。
立岩:来てたのは覚えてるんすよってことですよね。どうやって来たかは知らんけどっていう。
桐沢:そう。だって子どもの時だもんで。そんな感じですかね。
立岩:親になんかそういう、療育法っていうの? 訓練法っていうのは、私、九州の人に聞いたことあるんですけど★、やっぱりなんか似たようなことがあったみたいですね。たぶんちょっと流行りっていうか、ね。その年にできたってわけでしょ? だから、
★中山 善人 i2018 インタビュー 2019/08/25 聞き手:立岩真也 於:福岡県久留米市・久留米市役所内
山口:その直前かその年かですよね。
立岩:その頃からそういうのがいいっていう話になったんですかね。それはその、入院っていうのはどのぐらいの期間?
桐沢:俺明確には覚えてないんです。半年いっぱいぐらいかな。
立岩:なるほどね。ほいで柏崎に戻られるわけですか?
桐沢:はい。
立岩:それからのこと、とにかく覚えてるとこだけでいいっていうか。私たとえばその、聞かれたらほんとにしゃべることがない。
桐沢:どこまで話せばいいのかわかんないっていうか。
立岩:それはやっぱり、たとえば学校のことであるとかね、そういうことはお聞きしたいなとは思ってるんですよ。たとえば、保育園とか行かれたのかとか。
桐沢:保育園は行ってませんよ。
立岩:行ってない。
桐沢:学校は小学校【しか】(00:07:01)行ってない。でも今ではもう、***(00:07:08)言いますよ。俺は小学校中退だって言ってます。
栗川:小学校中退?
A:中退ってことは小学校行ったことあんの?
桐沢:だからはまぐみ学園に2年半ぐらい行ってたんです。
栗川:中学生になってから?
桐沢:いえ。そこでたしか国語とか算数とか理科とかあったけども、なんかね【それはなんでかなんか】(00:07:40)、それでもぼくは、だからあの、【さっきのなかさん、***さんがよろこんでくれたからね】(00:07:57)。
■
ようこ:そうだよ。だってさ、「次頑張れ」って何回言ったかわかんない、私。
住環境福祉コーディネーターっていうのがあって、それに挑戦して、13回目に受かった。だから嬉しかった。すごい今うれしかってわくわくしちゃってる。
立岩:何に受かったって?
山口:住環境。福祉環境福祉コーディネーター。
A:福祉住環境コーディネーター。そういう試験があって。
立岩:そういうのがあるんだ。
ようこ:道具とか家の改装みたいな。
A:年2回あって。13回目の受験じゃないんですよ。年2回あるから、20回ぐらい受験しちゃって。
栗川:13年目?
A:13年目ですね。
ようこ:すばらしいでしょう? しつこいというかね、ねちっこいというかね。ほめてんだよ。
A:なんだっけ? 介助者が代筆・代読を許されたのが…彼が合格する5年ぐらい前に代読・代筆が許されたんですよ。それまでは問題用紙が与えられて、彼は脳性麻痺だから、問題1個読んでる間に顔ぴょーんといっちゃうから、そこへ戻る間にもう時間どんどん過ぎちゃって。3問か4問でもう終わり。
立岩:はい、はい。それは何年前? その13年目に当たる、合格したの。
A:合格したのは5年ぐらい前か?
桐沢:もっと前だよ。
A:いしまつさんがいた時代だね。いしまつさんが受験勉強してた。5、6年前だね。5、6年前に合格して。
■
立岩:その話はあとで戻ってくることにして、またいっきに50年ぐらい前に戻るんですけど。
その、保育園だの幼稚園だのには行かず、
桐沢:行きません。
立岩:今聞けた範囲で、そのはまぐみにまたというか、小学校の時にいたってことですか?
桐沢:はまぐみ学園にはけっこうお世話になって。計3回ぐらいかなあ。計3、4回はお世話になってんのかな。はまぐみ学園とか、あと親の関係上、「うちの子が帰ってこられちゃ困る」っていうことで。半年間ぐらい入院とかあったけども。入院すればとにかく、学問っていうのはそこでしか受けてないんで。[00:10:29]
立岩:当時も今もね、病院があって、渡り廊下か何かで、となりの建物があって、そこが学校だっていうのはよくあるパターンなんですけど、そういうことですか?
桐沢:いいえ。
立岩:そうではない?
桐沢:俺らがいたときは、重度病棟って言われてたところのもんで、【***というかね】(00:11:14)。はまぐみの分校があったんですけども、そこには第一、第二、第三なんていうか、区分けされてたんですよね。
立岩:なんか昨日その話聞いたね。
山口:第二が重度の人だとか。たしか、第三ですね。
桐沢:だから第一・第二までは車いすとか松葉杖とかついて動ける人たちがいて。第三になると、床にはいつくばって動いてるような、そういう人たちが第三で。だからそこは学校へ行くんじゃなくって、先生が学校に、
立岩:先生が来る?
桐沢:はい。
立岩:訪問学級みたいな感じ?
桐沢:訪問…ちょっと違うんですけども。
立岩:そこの所属の先生がその第三病棟っていうか、そこにまで、そこに来るっていうか、訪れてきて教えるみたいな。
桐沢:はい。
立岩:なるほどね。
栗川:動ける第一・第二の人たちは廊下を渡って学校まで行くけど、桐沢さんは第三?
桐沢:そう。
栗川:そういう重度の人のところへは、先生が来る。
桐沢:そう。だからその、【食卓】(00:13:27)の机が勉強机になるわけ。
山口:その66年重度の病棟、たぶん第三が開設って書いてありますね。66年に重度病棟開設って。篠田さんが68年に一回来てる。
桐沢:ぼくはその前ですね。
立岩:じゃあけっこうみんな、「はじまりのはじまり」みたいなところに、たまたまなのかどうかわかんないけど。
桐沢:たまたまだけど。
立岩:じゃあ母子病棟つうの? 母子入園ってのができたあたりで母子入園をし、その第三病棟ができたつうあたりに第三病棟でっていうことか。
桐沢:だからそのへんのことは俺はよくわかんないけど。
立岩:そりゃそうですよね。本人的にはね。
桐沢:親がどう動いてたかわかんないし。親なんか何動いてたかわかんないし。父親【当時は警官で】(00:14:23)こんなことをやってないだろうし。どっちかというと父親は出したくないほうだったから。父親はできるだけそばに置いときたいタイプなんで。
栗川:お父さんは、桐沢さんをそばに置いときたいタイプ。
桐沢:そう。母親がどんどんどんどん、ノナカさんのようこさんみたいな感じで。[00:15:07]
ようこ:なになになに?
栗川:お母さんはようこさんみたいな感じ。
ようこ:私みたいに優しくていい人だったんだね?
桐沢:ちゃうちゃうちゃう。
ようこ:何が言いたいんだ? 何が言いたいんだい(笑)?
桐沢:強引だった。ある意味ではほんと強引で。【けいすけくん】(00:15:32)みたいな感じで。
ようこ:うちの実の息子が、一時期ここで自薦ヘルパーをやっていて。そうなんです、それを知って、私は大急ぎでここの仕事を降りました。親子で来るわけにはいかないと思って。
立岩:そうなんですか。それもいいような気もしますけどね、だめなんですか?
さっき「小学校中退」とおっしゃったと思うんだが、ぼくけっこうこの間(かん)話聞いた人たちって、やっぱり小学校入るのと同時期ぐらいに施設のほうへ入園し、そこで暮らしつつ昼間はその小学部っていうんですか、そういうところに行ったり来たりみたいな、話は聞くんですよ。そういう人たちはだいたい、少なくとも小学部というか、6年間そこにいて、でも同じ敷地のやっぱ中学部に行くとかっていうような話はこの間(かん)何人か聞いてきたんですけど。そこさっき聞いたのが正しければ、桐沢さんは何? 中退っていうか、たとえば6年とかそういうふうに長い期間いたわけじゃないってことですか?
桐沢:ええ。
立岩:どのぐらい? いつからいつまでいたみたいな感じなんですか?
桐沢:だから合計で1年半です。
立岩:1年半?
桐沢:2年半。だから2回入院、2度入ってるんですけども。
立岩:小学校の時期に2回。
桐沢:2回入ってるんですけど、片一方は1年で片一方は1年半ですけど、後半の1年半は親が何やかんやでもめてた時期なんで半年に延びたというだけの話で。いちおうそんな感じで、義務教育的なものはないです。
栗川:入院してる時にはまぐみの分校の先生が病棟に来たけども、入院が終わって家に帰ると、柏崎では学校には、
桐沢:いや、その頃は新潟には来てるんです。親父の転勤で新潟に。
栗川:家がもう新潟に来てたんですか? その小学校入るころには。
桐沢:はい。
栗川:じゃあ退院した時にはもう学校には?
桐沢:学校へっていうか、
栗川:行かない?
桐沢:いや、行きたかったんですけど、ちょっと親、その頃は親がついていかなきゃ行けなかったんで。私の場合だって行きたかった。***(00:18:08)ついてくれる人がいないといけなかったんです。行けないけども…まあそんな感じだったんですよ。
立岩:お父さんは警察官なさっていて、その頃お母さんは…これもいろいろですよね、だけどなかにはそういうふうに送り迎えやら何やらかんやらで一日中学校へ行って、みたいな人もいたように聞きますけど。そういうんで「学校に行かせたい」って言いにいったけど、「来るんだったらこういう条件だ」みたいなこと言われて、それは無理だって、そういう感じだったんですかね。
桐沢:それはわかりません。
立岩:そうですね、わかんないですよね。
桐沢:いちおう教育免除っていうのを親はいいただいてるんですから。
立岩:あれは「免除の願い」みたいなものを出すんですかね。
桐沢:それはわかりませんね。
立岩:それはちょっと、うん。こっちで調べることなんで。それは子どもがわかってるはずがないと思うんですよね。とにかく、学校には行きたかったけど、そういうわけがあって行けなかった、行かなかったっていうことですかね。
桐沢:行かなかったっていうか、行けなかったですね。[00:20:00]
立岩:行けなかったってことですよね。
その小学校っていうかその時期っていうのは、一家は新潟市内におったんですか?
桐沢:おりましたよ。
A:いつ転勤したの? 親父さん。
桐沢:俺が6歳のころには転勤してるから。転勤で【中央署】(00:20:16)に行ってたから。だからもうじき一年が終わるって感じでだったからこっちに来たのかなあ。わかんないけど。
栗川:新潟のどこでした?
桐沢:新潟の中山ってご存知ですか?
ようこ:東区。
A:東区と中央区の間ぐらいだな。
ようこ:そうだね。
立岩:はまぐみは、母子入園の時と、時期的には小学校の時の1年、プラス1年半と。それで、はまぐみとの縁は、それはそれで終了みたいな感じですかね。
桐沢:はい。
立岩:ちなみにその、学校の先生は来てちょっと教えてくれたっていうこと以外に、はまぐみ学園で何かこういう訓練をしただの、何かどういう生活だったのっていうことで、1年足す1年半のことで何か覚えてらっしゃることってありますか?
桐沢:何を話せばいいんですかね?
立岩:たとえばその体、訓練とかをしたっていう人もいると思うんだけど、桐沢さんの場合はどうだったかっていうようなことは覚えてらっしゃいますかね?
桐沢:覚えています。簡単に言いますと、***(00:21:59)っすよ。なんでかというと、まったくリハビリの途中で、***(00:25:15)。俺らがやってきたのは、ぜんぶ途中まででしょ? 完全に「これでリハビリが終了だ」というとこまでやったことないし。それでなんだ、ちゃんと座れる、ちゃんと正座ができるようになりましたっていうと、そう思って、***(00:23:12)できるんじゃないかとか、ちゅうことで、***(00:23:21)。そのたびに入退院ですから、けっこう大変なんですわ。
その間に俺たちもいやいや言うてた。何がいやだったかっていうと、夜、子どものころ、ちょうどナースステーションの横に俺たちのベッドがあるんですよね。で、夜***(00:24:13)しても…子どものころお腹減るじゃないですか。横で看護師さんが起きて話し声が聞こえるのはしょうがないんです。お菓子の匂いがするわけですよ。で、俺が【見てんのにこっちで】(00:24:41)。【歯も磨いたりするからトイレ行ってん】(00:24:40)だけど、それをみんな子どもたちは、俺もふくめてだけど、我慢して眠ってるわけです。
子どものころ、いくらリハビリのためだって、食べたいもの食べれないで、眠いときには寝れないです。眠たくないのに***(00:25:25)。こりゃあなんだと思ったよね、リハビリっていうのは。あのときはね、ほんとにこう、いくら病院的なあつかいだって、そりゃあねえだろと思いながら。なかにはいい看護婦さんもいて、それなりにちょっとわけてくれる子もいたけど、ほとんどの子はまだわからない。そんなことがあったけどね。
長いと【4、5か月…、違うか、5、6か月、ちょうど俺が二十歳ぐらいの時に】(00:26:12)そういったのを味わってましたもんね。そんな感じですね。[00:26:26]
立岩:ちなみにその、一部屋には、たとえば4つとか6つとか、同室っていうのかな。何人部屋みたいな感じだったんですか?
桐沢:何人部屋っていうか、もう【覚えてるわけねえなあ】(00:26:54)。こういう感じ。たとえば今コロナは関係なかったからね。
立岩:そりゃそうだろう。
桐沢:ベッドが入るだけ入って。ちょっと待ってくださいね。12とかそこらかな。
立岩:じゃあけっこう詰め込まれたつうか、たくさんいたちゅうことやね。
桐沢:はい。
立岩:それで訓練ってのはね、けっこう役に立ったっていうか、体ほぐすことになってよかったっていう人もいたり、痛いばかりで役に立ったってことはなかったっていう人がいたり、けっこういろいろなんですけども、そこんところは何か覚えてらっしゃることはありますか?
桐沢:訓練で痛かったことない。今は俺の体かなり硬くなってるし、もう座ることもできないし。そう考えれば昔はかなりやわらかかった。
栗川:昔はやわらかかった。
桐沢:そう。だから、リハがだめだってことじゃなくて、
A:痛みとかなかったんだよな。
桐沢:うん。俺からするとよかったんですよね。俺からするとちょうどよかったんじゃないのかな。
立岩:ちょうどよかった。それ何? けっこう1日そういう療育っていうか訓練つうかは、わりと長い時間やったって記憶、
桐沢:いや、長くないです。日にだいたい20分か30分ぐらい。
立岩:そんな感じか。それは何? 体を曲げたり伸ばしたり的な感じですかね?
桐沢:はい。
立岩:なるほど。
桐沢:俺らはそれよりも、自然と遊びながら、取っ組み合いしながらね、リハビリやってたから。
立岩:遊びながら。[00:29:14]
桐沢:遊びながら、だんだん「こうやりたいな」って思ったことは、そのうちできるようになって。たとえばね、座ってちょっと膝立ちができるようになって、手が机の上にかかるようになったと。【立てたと】(00:29:45)。すると、その机の上とかに乗りたくなるもんで、それをしてると、もう俺らなんかが、俺の場合だけど、***(00:30:10)本人のやる気が芽生える。本人の、それはやっぱり好奇心っていうのかね。好奇心が勝(まさ)って。たとえばね、滑り台なんかでも、乗りたくても途中から自分で上がってそっから滑ったりとか。それは意外とこれはこれで楽しかったですよね。だからみんなそれは危ないっていうのは知ってても、やっぱ楽しさっていうのは。楽しさには関係ねえからね、けがしてみてはじめてわかる。それがリハビリといったら、リハビリ。
立岩:ちょっと戻しますとね、最初の時にお母さんと一緒にしばらくいて、お母さんにそういうやり方をお母さんが教わるみたいなことだったと。その時に、家に戻られた時に、お母さんは習ったやり方でリハビリっていうか、訓練っていうか、そういうことをなさってたっていう記憶はありますか?
桐沢:うーん。あんまないなあ。
立岩:あんまない。そうだろうなって気がしますけどね。
桐沢:明確にはその時の憶えてないけど、あんまり、いや、手はいちおうもんでくれたらしいけど。子どものころの記憶だからね。あんま起きて立てないし。俺はやってたと思うけど、俺***(00:32:39)。たぶん記憶的にはあると思う。記憶的には残ると思うんだよね。けどそんなん、***(00:32:48)、***(00:32:52)ってことはないからね。そんなにやってないしね。
これを聞いていったい何になんですか。
立岩:そう言われるとつらい。いやでもね、今聞いてる限りだと桐沢さんに関してはそんなに少なくとも、つらいっていうか、シビアのことはなかったっていうふうに思うんですけど、ほぼ同世代の人でけっこう整形外科的な手術であったり、あげくにというか、果ては脳に穴開けて電極差し込んで手術みたいな。
桐沢:はい、それはあったらしい。
立岩:それははまぐみというんじゃなくて、「どっかではそういうのやってるらしい」みたいなことを噂で聞いた的なことですか?
桐沢:いや、それははまぐみでもやってたみたい。
立岩:はまぐみでもやってた?
桐沢:らしいです。
栗川:電気を?
桐沢:それはちょっと不確かなんです。聞いた…なんとなくこう、話ってのは流れてきますからね。そういった話がなんとなく流れてきます。
立岩:なんとなくね。それはなんとなくその同級生っつうか、一緒に入院っていうかしてる人の間ではちょっと怖い話みたいな感じでこう噂がっていう感じですかね?
桐沢:怖いっていうか、何ていうんだろなあ。そう怖い話っていうよりかは、ちょっとしたおばけ、四谷怪談みたいな。[00:35:08]
A:怪談話?
桐沢:怪談話として。「夜、職員室の前通るとおばけが出るぞ」って。
立岩:今の、脳性麻痺、人間やってる間、ある一定の割合で生まれる。数は減ってるにしてもね。そうすると、じゃあ生まれて、それからどういうふうなことをするのがいいのかとか、しないほうがいいのかってやっぱり今でもある問題で。そんなこともあって、昔はどうだったのかとか、そういうのをちょっと聞いてまわってるっていうとこもあるんですよね。だから今日のは今日の話で、「なるほど」っていう感じでぼくはおうかがいしましたけど。
桐沢:俺はなんとなくやってるけど、そのなかにほんとに、新潟ではわかんないけど、はまぐみでやってたかどうかわかんないけど、筋肉の筋をひっぺがえして伸ばす手術はやってるらしいですけどね。筋肉が硬くなってるところを切除してっていうのをやってるらしいですけどね。
立岩:今日もそこにいたお医者さんっていうか、黛さんですけど、話を聞いて、腱を切るっていうか、伸ばすっていうか、そういう手術はやったし、やってるのを見たけど、どうなのかな? って思ったみたいなことをおっしゃってたんだけど、桐沢さんはこれまで外科的ことっていうのは、今にいたるまでもなかったってことですかね?
桐沢:ないです。
立岩:わかりました。ぼくはだいぶ聞けたので。それから長いあと50年分ぐらいあると思いますけど、それはちょっと誰かちょっと交代してうかがっていただけると。
■
栗川:じゃあ栗川にじゃあ交代でいいですかね?
立岩:じゃあはい、栗川さんお願いします。
栗川:そうすると、学校というものに行ったのは、小学校時代の1年と1年半っていう感じですか? そのあと中学校とかぐらいの年齢の時って?
桐沢:いえ、もう1年半だけ、2年半だけです。
栗川:あとはじゃあずっと家にいる感じ?
桐沢:ずっと家にはいなかったですね。
栗川:家じゃなかったとすると。
桐沢:14歳のころですかね、新大のとこに民間の施設が。千草の舎◇っていう。
立岩:千草の舎ですね。
桐沢:そこに。そこの***(00:38:48)のほうにも私入ったんで、そこから15年間ぐらいいました。
栗川:千草の舎に15年間ぐらい。
山口:14歳だと1973年ぐらいですか
桐沢:はい。
立岩:それっていうのは、「入りたい」って言って入るもんなんですか? どういういきさつで入ったのかなと思って。
桐沢:たまたまですね。発起人の本間さんが、父母の会っていうのを通して。
立岩:何の会? [00:39:35]
桐沢:父母の会。障害研の障害児者の全国的な父母の会っていうのがある。そこで俺の親の名前が出たのかなあと思った。わかんないけど、その関係は。で、本間さんと会って。その頃俺たしか14歳のころで、ちょうど友だちがほしい時期だったんですよね。で、やっぱその頃っていうと家にしかいなかったもんで。家の中だと何もあのころ、何もない、友だちもいねえし、なんもねえっていう。テレビが友だちって言うけど、テレビは一方的に自分のことは話すけど、こっちの話は聞いてくれるわけではないです。いちおうそんな感じで、やっぱ友だちはいいってことで、千草の舎に見学に行って入りました。
A:本間さんに誘われたの? ほんで親が応じたわけな。
桐沢:父親は「いやだ」って。母親は、俺の面倒みないですむっていうことで、さんざん言ってたんだけど。
A:桐ちゃんが強く希望したわけだ。
桐沢:そう。そこで何やかんやで15年間いました。そこで、ちゃんと教員試験を持ってる人じゃないんだけど、そこの職員さんから国語・算数とか教えてもらった。
栗川:千草の舎の職員の人から、国語・算数を教えてもらった。
桐沢:はい。理科は無理だけどね、理科・社会は。
栗川:理科も。
桐沢:社会はみれないんだけど。
A:理科・社会は無理。国語・算数は教わった。
桐沢:そう。
立岩:昨日も、その「家」っていうか「舎」か、何回か出てきたんですけど。たとえばぼくはまったく建物つうか見たことないわけですが、
桐沢:ここにアルバムが。
立岩:ああ、アルバム。
A:写真が?
桐沢:古いアルバム。
立岩:どのぐらいの人数…そりゃ時期によっても違うでしょうけど、人が暮らしてたんでしょうかね?
桐沢:えっとね、いや、3、4人ですよ。すごい家庭的なところ。
山口:篠田さんが1976年に「千草の舎」って、メモのとこに。
立岩:千草を去ってって言ったの?
山口:いや、に「入ってる」。入ったのが篠田さんが76年になってる、メモに。
桐沢:***(00:43:32)古いアルバム。
A:これか?
栗川:桐沢さん14歳からだと1972ぐらいから。
山口:73年から。88年ぐらいからですね。見てもいいですか?
A:こういうわさわさいるやつ?
桐沢:そう、これです。
A:このへんが千草の舎。
山口:見てもいいですか?
栗川:ありました、これね。
桐沢:これぜんぶ私。
ようこ:これ?
桐沢:はい。
ようこ:若っ。窓がおっきくて明るい感じがするね。
山口:なんか大きいですね。民家だけど。
桐沢:えっとね、ちょうどこの、今で言うと2DKか。
ようこ:2DKぐらいある、ふーん。床は畳ですね?
桐沢:畳と床があります。
ようこ:あ、両方あるんだね。
山口:こういう人たちがボランティアですか? 職員さん。
桐沢:いや、職員のやつもいれば、
黛:職員も学生もいるの?
桐沢:そう、アットホームな感じの。
ようこ:和室が二つなの? 和室と洋室みたいなとこあがって、壁一面になんか本がいっぱい。本棚があって、本があるよ。テーブル囲んでみんなでごはん食べるのかな? [00:45:12]
桐原:そう。
山口:ちょっと高台にあるんですかね。
桐原:ええ。
ようこ:新大の国道口からこう入ったところの、あのあたりだよね?
桐原:はい。
ようこ:あのあたりだよね。
栗川:新大のわりと近くなの?
ようこ:近く。ほんとに近く。
A:はい、このあたりか。千草の舎はこっからはじまった。
はい、こんな感じですね。
立岩:その***(00:46:30)のそのとこって、たぶん人それぞれ…人それぞれったら身も蓋もないですけど、「それなりに良かった思い出が」っていう人と、でも最初はそうでもなかったけど、だんだん不満っていうか、そういうのがあってやっぱりまたそこを出たりとか、それもいろんな人がいたように聞くんですけど、そこはけっこう長いこといらしたわけですよね? 最初のころと最後のころはまた違ったかもしれませんけれど、自分にとってはそこはどんな場所だったかっていう。
桐沢:いろんな意味で言うと、そこに入ったのをまとめて言いますと、俺は人間的に一番よく育ててくれたとこだ思うけれど。何でかっていうと、どんなことを聞いているかわかりませんが、それもふくめて誤解されることもふくめて言うと、ぼくはこれでほんとに、どう言ったらいいんかな、ほんとにいろんな問題があったんです。あって、なおかつ、行って損はなかったなと思います。
立岩:いろいろあったけど、そういうこともふくめて、損はなかった、よかったっていう。
桐沢:はい。悪いとこではなかった。何でかって言うと、今の時代でもそうだと思うんですが、一つのとこで満足できるような世の中ではけっしてないと思うんです。そのなかで、自分がどの道を歩むかによって…そんなね、今後の生き方について自分が自信をもって話せるようになっていくかが問題だと思ってます。誰かのために生きるのかというのが問題になってくると思うんです。なんてかっこのいいこと言っちゃったけど。[00:50:43]
立岩:全体的に、トータルで言うとプラスだったと思うんだけど、いろいろあったほうの、プラスじゃないっていうか、「あれはけっこう大変だったな」とかっていう、そっちのほうの記憶っちゅうか経験っちゅうか、そういうのってあります?
桐沢:ありますよ。
立岩:それはたとえば、一位で、
桐沢:それはたとえば一位で言うんだったら、友だちの死よ。
立岩:友だちの死?
桐沢:はい。自殺。それは俺自身が止めれなかったっていうか、俺自身がわかってて止められなかったっていうことも。
立岩:わかってて止められなかった。アベさんって人とはちがう?
桐沢:そう、そうです。
立岩:アベさんでいいんですか。
立岩:そうやって彼がつらい状況であったりとか、そういう思いを持ってたっていうことを桐沢さんご存知だったけれどもってことですか?
桐沢:いや、あとで聞いて。ただ、俺の、ほんのちょっとの行き違いで。行き違いでしかないんです。死んだかたを悪くは言いたくないんですけど、ほんの言葉の一つのちょっとしたずれが、【ショック】(00:52:25)を受けるほどの。大変なことだったんだろうなとは思います。ましてその亡くなったあべさんのことに関して言うんだったら、彼は彼なりに我慢をして、我慢をして我慢をして、やっと我慢…やっと自分の判断で、判断したものが買えると思った瞬間、その瞬間的な行き違いで彼は亡くなっちゃったわけですよ。
立岩:また聞きのまた聞きみたいなもんですけど、カセット…、
桐沢:いや、ホームビデオデッキですね。
立岩:ホームビデオデッキを、彼が買った? 買ったことは買ったわけですか?
桐沢:購入したことはしたんです。ただ今と違って、同じ障害者が8万もするものを、電気屋で買えるかっていうとね、【一般的な人からとってみたら】(00:54:35)…今から30年前ですよ? 30年前の8万っていったらすごい金額ですよね。
立岩:それはその、ビデオテープを映せる器械ですか?
桐沢:器械。
立岩:器械っていうか、その、見られるものなんですか?
桐沢:そう。[00:55:00]
立岩:テレビにビデオデッキをつなげるみたいな? そういうもんですかね?
桐沢:そう。
立岩:じゃあビデオデッキってことか。なるほど。
桐沢:だから電気屋さんからしてみれば、親が許可なしに***(00:55:25)、親の確認がとれてないんですね。確かにふつうの考え方からしてみたら、20代前半の年齢の人が買いにいくんだったら、売ってはくれるでしょう。ただ、その時の、障害を持ってる人の側からの目から見たら、周りから見たら、【アベさん】(00:56:10)のを買う、平気で買えるような俺たちの身分じゃなかった。あくまでも…何ていうんだっけな、許可をとらなきゃならなかった。「許可をとらきゃ」って、ちょっと言いかたおかしいんだけど。言い方ちょっとまちがってんだけども。
何が言いたかったっていうと、それだけ世の中が進んでなかった。時代背景のなかとかで俺たちが正しかったことをやってきたのかっていうと、そうではないよなとは思います。俺たちのやることがぜんぶ正しいというのはありえません。権利とかそういったの、権利擁護だったら正しいものもあります。権利擁護でも間違ったものはあります。「あります」っていうのが俺の意見です。
だからアベさんの死んだ背景は、私は、ちょっとのすれ違いって言ったんです。ほんとに電気屋さんが彼に品物を持ってきてくれたんだったら、アベくんの命は保たれたでしょう。ただ、たまたま電気屋さんと親と責任、施設側の責任、施設側の【商品配達の時】(00:58:00)に三者の意見がまとまってなくて、それがなんかてんでばらばらの方向でやったから、アベくんが亡くなっちゃったっていうことなんです。【だいたいそんなことだと思ってる】(00:59:38)。そう思ってます。
障害者問題的に言うんだったら、すごい差別的なのはわかりますよ。ただこれは、差別とは言えるのかどうか。人間的に考えたときに、いろいろなことを考えると、どっちが正しいのかわかりません。今でも欲しいのはありますけど、何十万とか何百万するやつを買うかっていうと、買えませんよね。それと同じことで、身分相応のものを買うしかないです。ってことですかね。
はい。あとは何ですか? [01:00:54]
立岩:それがやっぱり記憶に残ってるいちばん残念っていうか悲しいっていうか、
桐沢:いや、まだまだありますよ。そんなんいっぱいありますよ。数えきれないほどありますよ。ただ、俺はそれをふくめてぜんぶ楽しみに、楽しさに変えてきてるだけです。そうしなきゃ人間なんて生きてらんないですから。違いますか?
立岩:そうかもしんないすね。
桐沢:立岩さんだってそうでしょ?
立岩:なかなかそこまで人間できてないんで。(笑)
桐沢:自分だってできてないです。
立岩:難しいですけど、気持ちは、そういう気持ちもあります。
桐沢:そうやって気持ちがない限り、こういった本なんて書けませんよ。とくに、障害者の介護なんてさ、ほんときりがないぐらい。横塚さん本だって、俺ぜんぜん読んでないけど。【読みきれない】(01:02:22)。ただ、横塚さんのぼくのなかでいちばん好きだったのは、「なるようになるよ」って、そんなかんじで明るくふるまうような様子。障害者【だって】(01:02:46)怒るときは怒る。仲間にも厳しくなれる。俺はふだんのほほんとして、悪い人には、そこへくってかかれるような人間でありたいと思ってます。それがぼくの生き方です。
立岩:今、横塚さんの名前出たけど、じかに知ってる?
桐沢:ないです。
立岩:それはそうではない。
桐沢:はい。
立岩:それは何? 彼が書いたものを読んだっていう。
桐沢:はい、読んだし、『さよならCP』も***(01:03:31)。
立岩:『さよならCP』は観た?
桐沢:観ました。
立岩:それはどこで観たとかいう記憶はありますか?
桐沢:ビデオでも観たし。本間さんが「これを観ろ」って。
栗川:あ、千草の舎の本間さんがこれを観ろって。もうビデオになってたんですか? その頃は。
立岩:『さよならCP』がビデオになったのはだいぶあとじゃないですかね? 違うかな。
桐沢:俺たちが入ったときじゃなくて、だいぶ経ってからです。それこそビデオ化されてから。本間さんはその前に映画館で観たとか言ってた。
栗川:あ、本間さんは観たから。
立岩:そうか、本間さんは映画として観た。で、それをそのあと「あれは観るもんだ」みたいなことを言ってたみたいな。
桐沢さんに聞くことじゃないけど、それはどういうなんか施設だったんですかね? たとえばお金のこととかさ、その月々のものを利用者が払うみたいなかたちだったのか。
桐沢:月々、あのですね、俺たちの年金を。年金月々8万円ですかね。それをぜんぶ預けて。あとは、今違いますけど、今はちゃんと法人格されとって財団法人になってますから。[01:05:04]
栗川:今でも千草の舎はある?
桐沢:はい、あります。
立岩:ネットで検索したら出てきたよ、さっき。
ようこ:なんか「千草の舎」って書いた車とかスーパーのとこで買い物して…。
A:「福祉郵送運送」っていう車が走ってますもんね。
桐沢:その頃は俺たちの年金と、後援会の援助者たちからの。
立岩:あ、後援会ね。しゃべるほうじゃなくて、後押しのほうね。
桐沢:寄付と、あとそれから、協力金。寄付金とかぼくらに賛同してくださるかただとか、その年間の寄付。
桐沢:はい。何やかんやで、そうですね、年間百何万…、月々百何万でやってましたね。
立岩:そのなかの話をもっと聞きたい気もあるんだけど、その長い14年だっけ? けっこう長くいたところをやがて出るわけじゃないですか? それは、なんかこう、思いであったり、きっかけであったり、事情であったり、そういうものはあったんですか?
桐沢:そうですね。それはもう、言い換えれるとわがままみたいなかたちですか。何を言いたいんんだかわかんないです。私はそこの千草の舎に入ってよかったと思ってる。***(01:07:17)なーんもよかったって思いもないんですけど、***(01:07:25)的に言うと、いいところっていうのかな、【っていうような判断です】(01:07:36)。べつにふつうのアパート生活を…アパート生活っていうか、そういった生活を送ってみたいっていう、なんとなく強くなったからですかね。そっちのほうが大きいです。
立岩:そうすると何年ぐらいになるんだ?
山口:73年に入って、それが14歳の時で。わかんないですけど、15年いたら88年です。
立岩:88年。それは、転居先っていうか、今はこちらに住まわれてるけれども、なんかアパートを探して物件が見つかって引っ越そうっていうんで引っ越したっていうか、そんな感じだったんですかね?
桐沢:はい。ただ親、みんな千草の舎のっていうか、応援してもらってません。ぜんぶ学生さんと私っていう。
立岩:その学生さんってのは、千草の舎に入ってたボランティアの学生さんってこと?
桐沢:ちがう。私が千草の舎に誘い入れたボランティアです。
山口:だいたい新大生の?
桐沢:はい。
立岩:それは…「誘い入れる」っていうのは、どうやって誘い入れるんですか?
桐沢:大学でビラ撒いて。
立岩:千草の舎としてビラまくっていうよりは、桐沢さん個人が「俺を、自分応援してくれ」みたいな、そういうのを新大のとこでビラ撒く? [01:10:07]
桐沢:はい。
立岩:そうすると時々は人は来るもんですか?
桐沢:来ます。
A:千草の舎にお手伝いに来てくれっていうことで募集するわけでしょ?
桐沢:そう。たとえばお風呂の介助とかね。たとえば外出の介助とか。個人でお願いします。
立岩:俺、新大のキャンパスってよくわかってないんだけど、みんなかたまってあるんですか? 新潟大学って。
山口:医学部だけあっちにあるんです。
桐沢:今は…。
立岩:医学部は別だけど…その頃80年代後半ぐらいってどうだったんですか?
ようこ:五十嵐キャンパスに。
A:今と同じですよ。たぶん。医学部は医学部で、それ以外はぜんぶこっち。
ようこ:昭和四十何年ですよね、ぜんぶ集まったのはそのぐらいで。でも工学部とか教育学部はまだ長岡と上越にあったんですけど、それも何年とかかにぜんぶまとまって。
立岩:じゃあその千草の舎で桐沢さんがビラ撒いたりしたころっていうのは、医学部以外はたいがいそこらにあった。
桐沢:そうです。
ようこ:医学部・歯学部も医学進学過程、歯学進学過程の人たちが2年間教養課程を五十嵐で学んでたんです。
立岩:最初の2年間ね。
ようこ:そうです。そこをクリアできないと上にはいけないと。素敵なシステムでしたね。
立岩:それじゃあ、わりと何? 各学部まんべんなくボランティアに来たぞっていう感じ?
桐沢:はい。
立岩:ああ、そうですか。
桐沢:それからこう、学生のアパート一軒ずつまわって。
ようこ:入学式では必ずビラ撒いたよね。入学式にビラ撒いてたよね。
桐沢:そう。
山口:それは68年に集まってきたみたいですね。68年から。
立岩:キャンプ…いろんなところから。
山口:千草に入ったころにはもうぜんぶだいたいが集まって。
立岩:そっか。ビラ撒いてだれも来なかった話とかいうのほうぼうで聞いてきたからさ。私が二日前に聞いたら、東京だと中央線のあたりのね、学芸大とかそういうところでビラ撒いてるけど「いやー、ほんとに来なくて来なくて」みたいな話。そうか、新潟大学ではわりと来たのかな。
山口:二人は「とくしゅ」ってその教育学部ですけど、教育学部の人がいっぱいいたとか、そういう感じなんですか? ちょっと興味がある。
桐沢:いえ、私はいろんな学部が。教育とぜんぜん関係ない、いろんな人がいた。
ようこ:いろんな人がいたよね。法学部の人とかね。
立岩:そうか、千草の舎っていうとこ自体はっていうよりは、そこに住んでいる個人がっていうか、自分のっていう感じで募集をして、なかにはそれに応じてくれる人もいたと。
桐沢:そう。
立岩:なるほど。それでそういう人たちに手伝ってもらってアパートを探して見つけてっていう話か。わりと大丈夫…それもわりあいすんなりいく場合と、いろいろ断られたり何やらかんやらして、
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立岩:なるほど。それでそういう人たちに手伝ってもらってアパートを探して見つけてっていう話か。わりと大丈夫…それもわりあいすんなりいく場合と、いろいろ断られたり何やらかんやらして、
桐沢:いや、断られたくないんですよ、私なんてけっこう、
立岩:断られて「ない」?
桐沢:ます。
A:ます。断られてるんだな?
桐沢:けっこう断られてますよ。
A:アパートってこと?
桐沢:そう。
A:アパートはもう大家とか不動産屋が相手にしてくんないもんな。
ようこ:いっぱいまわってたよね。不動産屋とかね。
桐沢:そう。【不動産屋の場合は】(01:14:07)ガラスを割ったりして。
栗川:不動産屋のガラスを割るわけ? 桐沢さんが。抗議して?
A:故意にじゃねえだろ?
桐沢:故意に…。
A:電動車いすが当たっちゃったんだろ。
栗川:ああ、と言いつつね。
桐沢:そう。と、言いつつ。
ようこ:と、言いつつ飛び込んだみたいな。
桐沢:***(01:14:20)だけです。
栗川:ちょっと「このやろう」と思いながら当たっちゃったみたいな。
ようこ:わざとじゃないけど。
桐沢:決してわざとじゃありません。故意です。
立岩:88か。
山口:それはもう千草の舎からここに来たってこと?
桐沢:いえ。
A:ここが当たったのはね、2000年で。その間にアパート転々としてるよな?
ようこ:最初松美台?
桐沢:最初はたぶん五十嵐。
A:五十嵐のほうだった?
桐沢:大学村の。
山口:千草の舎のほんと近く。
桐沢:そう。なんでかというと、何かあった時にすぐ千草に、[01:15:00]
ようこ:行けるようにね。
栗川:千草の舎を出る時は、円満に出たんですか?
桐沢:はい。
栗川:けんかわかれじゃなく。
桐沢:いえ…。いや、本間さんには悪いことしたなと思ってたんですけど、あの人も最終的にはわかってくれて。***(01:15:30)、今でも***(01:15:40)て、もう千草の舎出る時に言われた言葉は、「あなたいつでも帰ってきなさい」っていう。ここはいつでもだれでも受け入れると言われて、思わず涙が出て。それは置といて。
栗川:千草の舎に近いから安心はあった。
桐沢:はい。ただ、安心はしていたけど、ただ、千草の舎はあくまでも緊急避難所であって、そういったとこには頼らずにやってみたかったから。
栗川:結果的には頼ったんですか? 頼ってないんですか?
桐沢:あんま頼ってないです。
立岩:まだその本間さんっていう人がどういう人だったかわかってないんですけど、そういう居住のところでも、わりとこう、「出ていく」とか「次のところに移行する」とか、そういうことに肯定的というか積極的なとことそうでもないとことあると思うんだけど、千草の舎ってのはどんなこうポリシーっていうか。
桐沢:ポリシーは、今はわかんない。ただその当時は、来た人はどなたでも出入り。「出たい人は止める権利はないよ」と。「ここで満足するんだったら満足してださい」って感じで自由だったんですよ。
立岩:いたい人はいればいい、出たい人は出ればいい、そんな感じだった。
桐沢:はい。
A:職員もいたんだろ? そういう入浴とか。
桐沢:いたよ。
A:ほかに学生を集めるわけ?
桐沢:はい。ただ、本間さんは「自分たちでやる」って言ったんだよ。
A:言ったんだけど、
桐沢:俺のほうは断った。
A:あっそ。
桐沢:「あっそ」でないんだ。
A:いやいや、学生の手を借りたほうがいいと思ったわけだよね?
桐沢:そう。だって男性いねえんだもん。
A:女性しかいないんだったら。
栗川:ああ、その問題もあった。
立岩:確かにそれはふつうの施設とはちょっと違いますよね。基本的には施設で、介助なり何なり完結するっていうのがふつうだからね。一人ひとりが人を入れてっていうのが。そうか、そういう感じのとこだったっていうわけだ。
ほんで、出るじゃないですか。そのあとの暮らしってものは、暮らしってもっと具体的に言えば生計。お金のことと介助のことっていうのはどういうふうに回していくわけですか? 年金はずっととってたわけですよね。障害年金の1級ですよね。生活保護は?
桐沢:生保はとりました。そうじゃないとやっていけませーん。
立岩:そらそうですよね。
桐沢:とらなきゃ資金がありませーん。
A:親が反対したんだろ?
桐沢:そう、親が反対しました。
立岩:親は最終的には了承したっていう感じなのか、最後まで嫌がってたっていうか。
桐沢:最終的には了承するでしょ。
立岩:じゃあ世帯分離っていうか、「自分とこは自分とこで」っていうんで。生保、「それでも親が生きてんだから」みたいなことを言われる自治体とかケースワーカーとかもあるじゃないですか。それは大丈夫だったんですか? [01:20:11]
桐沢:いやだから、こっちは親にがんと言ってもらいました。
立岩:ああ、関係ないと。
桐沢:そう。関係ねえと。ただ親父がね、警察官で***(01:20:25)。
A:警官だからな。国民の世話になんかとんでもないっていうか。
桐沢:それからなんだ、生活保護受けるんだったら俺は辞めなきゃいけないって。
A:警官辞めなくちゃけないって。
桐沢:そう。
立岩:そのお父さんであってもけっきょくは、生計別にしてんだと。養ってないんだってことは言ってくれたってことですね。
桐沢:はい。
立岩:なるほど。で、生保はとりましたと。で、今にいたる介助というか、そういうところはどんな感じで調達というか。
桐沢:昔の介助者もビラです。
ようこ:そこにあるんですけど、あれを撒くんですよ、介助者募集っていう。
立岩:そこら中に? 新大中心っていう、わりと、
桐沢:いや、新大中心っていうか、
立岩:でもない。
A:でもないな。
ようこ:いろいろ専門学校とか、ほかの大学とかも。
A:大学、専門学校、あと公共の施設とかな。血液センターとか。
桐沢:とにかく置けるとこはぜんぶ置いてきてます。
立岩:基本置きビラ? 撒くのと置くのといろいろあるじゃないですか。撒いたりすることも、こうやって道行く人に渡すみたいなのやったことある?
桐沢:俺自分じゃできないんで、***(01:21:54)
ようこ:一緒に行ってね。
A:学生たちとな。それはもう10年ぐらい前だね。青陵大も新大ももう厳しくなって。学生が来るところにそういう部外者がビラまくとかものすごく制限されてるみたいで。
栗川:その大学自体がね。
A:どこのへんもそういう感じで制限があって。だから、学務行って、「学生が目につくようなところにこれ置かせてもらいますか?」っていうかたちでいろんな学校へね、まわって。そりゃ「預かります」っていうね。
立岩:それはいいわけ。それはいいけど、そこらで撒いちゃったりすると、もう怒られるからだめで。
A:それはもうまったくできなくなったね。
ようこ:前、入学式なんてはりきって出かけていったもんねえ。
A:昔はね、県民会館なんかのところはサークルもそうだし、ほかの団体やいろんな宗教団体もふくめてもう、ぶわーっとビラ撒きが。そういう時代だったっていうね。
立岩:そうだよね、だいぶ変わったよね。ぼくはだいたい79年学校入って、80年代、または…。まあそのときはまだありましたよね。今でもどこの大学でももう立て看だって立てられない、時代っていうかね、大学になっちゃったからね。
桐沢:俺らも立て看立ててたけど。
A:立て看持ってたよな、小さい立て看。
立岩:自分の? マイ立て看みたいな。
桐沢:だからそれ撤去されそうになってて、大学の学務と大げんかした。
立岩:何?
ようこ:学務と?
桐沢:大学の学務とけんか。
立岩:けんかした。なるほどね。
栗川:人の看板を勝手に撤去したとかいって。
桐沢:違う、そうじゃなくて、こっちは介護ボランティア募集中っていってるから、看板立ててんだからちょっとぐらい、大学だったら公共の場所なんだから、置いとく【のは当たり前だろと】(01:24:19)。とか何やかんや言って、学生がそんなこんなって言いながら【通っていったな】(01:24:25)。学務と俺のやり合いを聞いて学生が「がんばれー」って言いながら。
A:学生が応援してくれたわけね。
桐沢:そう。
ようこ:「がんばれー」って。
立岩:そうか。新大いいかもしんないな。もうちょっと冷たいっすよ、ふつう。
桐沢:いや、今はわかんないでけど、今はね。
立岩:それで、ちょうど80年代って、たとえば、今ぼくは京都なんですけど、京都もけっこうもう90年代とか2000年越えてもボランティアはほんとのボランティアみたいな感じやってた人もいるし、いろいろだった。東京だとそれが有償のほうにだんだんシフトしていくみたいな時代だったと思うんだけど、今は、基本あれでしょ? お金払ってっていう。ぜんぶですか? それは。[01:25:25]
桐沢:いや、半分。
A:学生はけっきょくな、資格持ってない人ばっかりなんで、その段階では有償ボランティアだな? 金はいちおう出すんだよな。
桐沢:そう。
A:そりゃ2000年以降はそうなってるんだけど、それ以前は。だから90年代ってのはボランティアだけだったよな? まったく無償のボランティアだけで支えられてた。90年代はまったく金が出てない。新大障問研っていう障害者問題研究会っていうサークルがあって、そこががっちり支えてくれたもんな。
桐沢:そこじゃないよ。いろんなとこだよ。
A:いろんなとこな。
立岩:たとえば70、80、90だと、生活保護とってる人で、たとえば他人介護加算とかさ、そういうのを使ってお金出してって人もぽつぽつ出てきた時代でもあるんだけど、それはあえてっていうことだったのか、知らないっていうか、そういう知識のことだったのか。そのへんは、だんだんと有償の部分が増えてきたってことだと。おおまかに言えばね、だと思うんですけど、そこのへんのこう流れっていうか。
桐原:いや、俺は今でもこだわりがあって。やっぱり俺は、基本はボランティアだと思ってる。
立岩:そっちが基本だっていう感じね?
桐原:なんでかというと、ボランティアのほうが、私たちの変な感覚で、技術的なこととかそういうのじゃなくて、何ていうかな、人間的なところが介護の職員とかが***(01:27:40)さ、こんなのはようこさんの前で言う…、
ようこ:いやいや、大丈夫だよ。私もうしてないもん。
桐原:だから、***(01:27:48)な。
ようこ:辞めたところには興味がないので。
桐原:***(01:27:54)っていうか。なんか、ヘルパーとかなんか、なんとなーく***(01:28:12)、どう言えばいいんだろ。なんか背筋が凍るっていうか。
栗川:背筋が凍る?
ようこ:背筋が凍る思いだった。
桐原:そう。
A:いちおう彼はね、他人介護加算の大臣基準っていう、いちばんの、それは持ってるんですよ。それで、ボランティアの時代でもいろんなイベントなんかにそういう金を使って、それが大きな支えになっててね。今でももちろん他人介護加算出てて、職員登録して、その資格とって職員登録した人はもう金が出るんだけど、そうじゃない何の無資格の人たちも、いちおうそういうイベントなんかは、やっぱりその他人介護加算をね、いちおう頼りにしてると。
立岩:そうね、お金で来るから、そのへんのどれだけをどういうふうにっていうのは自分である意味決められるっていうのはありますね。
A:彼がこだわってんのはけっきょく、介護っていうのはその、世話するというか、友だちであるべきであって、商品化されたくないと。だからそこに金が介在したくないっていうのは彼の気持ちなのね。商品化されたヘルパーってのはいやだと。
立岩:それが基本だとしてですよ、基本でありつつ、やっぱりどうなんだろ。だんだんその有償というか、そういう部分がこの10年とかね、あるいは20年とか増えてるっていう現実っていうところはあるんですか?
桐沢:あると思うけども、
A:しょうがないっすよね。だから90年代の終わりに全身性障害者介護人派遣事業って行政から金が出るようになった時、そもそも「金出せ」って要求してたわけだから。
桐沢:俺はしてないぞ。
A:学生はやっぱりバイトしたりって、なかなか時間つくれないと。だからほかのバイト行かない程度のものを出せは介助者を確保できるかなっていうことで、それはしょうがないだろうなということで、お金出すようになったんですね。
立岩:そこは温度差あるでしょうね。人によってだいぶ考え方違うでしょうね。
そんなに積極的じゃなかったけど、いちおう要求はして、制度はそこそこ走り出して。そうであるから、からにはというか、「使うところは使って」というとこですか。[01:30:12]
A:介護保険始まって金がぼんぼーんといきなりいっぱい出るようになったんだよな。そんで桐ちゃんはもうなんか「こりゃまじーなあ」とか言ってたんだけどな。びっくりするぐらいの金が出るようになったんだよね。だから、介護保険の始まりと同時に。ほんで、金でヘルパーっていうのが、それでいいのかっていうんで彼は反対したんだけど、きっかけは何であれとにかく来てもらえればね、そのなかでいろんな関係つくれるじゃないかっていうことで、やむをえず認めていったっていうな。本人はなーんとなくわだかまり持ってんだけど。未だにね。
立岩:納得してないわけだな。
今は制度が。さっきおっしゃったのは、他人介護加算まだっていうか依然とおっしゃってるけど、たとえばその本っていうのは、基本的には『介助の仕事』って書いてあるけど、重度訪問っていう全体のなかのある部分の話に焦点を当てて書いたっていうか。実際その重度訪問の研修の授業をまとめたっていうか、それを使った本なんですけど。今、どうなんですか? 使ってる制度、他人介護加算は使ってる、プラス、どんな感じで回してるっていうか、制度を使ってるんですかね?
桐原:えー、重度かな。
A:重度訪問介護で基本的にこの事業所はね、みんな重度訪問介護の資格とってもらって。有資格者になった場合にはもう事業所登録できるから、他人介護加算の対象じゃないんだけど、その前の段階のまったく無資格の段階でここへ来てくれる人たちを、いろんなイベントとかそういった要所に参加するときには、他人介護加算、そのへんをやっぱり有効に使っていくというふうにしてるんですけどね。だから基本的にはもう重度訪問しかないという。だからそういうふうにして来てくれた学生をいっしょうけんめいに、春休みだとか夏休みだとかに重度訪問とってくんないかってことでね、とっていただいて。それで、職員登録してもらう。
立岩:今、重度訪問ぶっちゃけ…月でも週でもいいんですけど、何時間出てる感じですか?
A:1日19時間かな。19時間で…607時間か。1日24時間介護必要なんだけど、「夜も介護者ったって、泊まりの介護者だって寝てるでしょ」みたいな。「4時間だめよ」みたいなこと言われて、24時間のうちの20時間。そのうちの1時間はまだ社協さんと1時間分契約してるんで、重度訪問でぼくらが契約してるのは19時間なんですね。
立岩:そうか、脳性麻痺だから。介護保険っていうのは必ずしもひっかからないな。はい、了解。
私はだいぶ聞きましたよ。みなさん何か追加というか。俺はこれ実は聞きたかったんだ的な。お二方あれば。
栗川:そうですね。ぼくはその、桐沢さんが自立生活始めて、そのあとの社会運動っていうか何か、そういう障害者運動っていうか、そのへんのあたりはどういう関りでどうだったのかとか。新潟だと、篠田さんとかいろんな人がいろんな動きをそれぞれしてたみたいだから、そのあたりとの絡みがどういう感じか。一緒にやったとか、一緒じゃなかったとか、そこへんを教えてもえます?
樹沢:どう言えばいいんだろなあ。
A:あの、何だっけ。彼は今でこそ首から上と言葉しかしゃべれない、下はまったくコントロールできないんだけど、ここに2000年に入居するんで、それまでは電動車いすで彼はふつうに日中は動けたんですよね。それも97、8年ぐらいまではまだ、夜の介助者だけが必要で、昼間は彼は電動車いすで1日かけてて。その時篠田くんたちと一緒に何かやってたじゃん。そういう障害者の集まりみたいなところに日中は出かけてると。で、夜帰ってきてヘルパーさんが迎えて、学生が夜泊りに入ってくれると。で、朝またヘルパーさんが来て、送り出しやってくれて、桐沢さんまた電動車いすで行くわけです。だから完全に介助者いないとまったくだめっていうのは、2000年以降ですよね。それ以前はほとんど一人で動いてたから。[01:35:47]
栗川:自分で電動で。
A:その頃篠田くんたちと一緒に何かやってたじゃん。
桐沢:やってたけども、
A:CILだったっけ? あれ。CILはCILだったんかな。そっから飛び出したんだよな。
桐沢:はいはい。
立岩:たいがいどっかでいろいろ、飛び出すやら、分裂やら、なんか消滅するやら、いろんなことが起こるんですけど。
桐沢:分裂っていうか、みなさんどう言ったかわんないけども、俺から言うと、けっきょくなんか俺、切られてっちゃったって感じなんです。
栗川:切られた。
立岩:ああ、自分が。
栗川:とつぜん切られた。
桐沢:なんかいっしょうけんめいやってたのに、とつぜんなんか事務局長から、
A:事務局長だったんだよな。
桐沢:急に格下げになっちゃって。どういう話でどうなったのかわかんないんだけど、なんか「お前は、桐沢は格下げだー」っていうんで、***(01:36:55)辞めるかなあと思ってたからいいんだけど、一般の会員の***(01:37:00)しちゃって、なんか【自分でも】(01:37:07)役に立ってんのかなあと思いながら***(01:37:10)考えまとまんなくなっちゃった。【辞める1か月前。】(01:37:18)。でも何かあればやっぱり【組むことはあるんですよ】(1:37:25)。大きな市の交渉とかね。市の交渉やってみたりとか、交渉とかは、篠田くんなんかと組むことはあったもんね。根本的にちょっと合わないんだったら、組むことはないと思う。
栗川:そこはなんか、主張が違うっていうとこもあるんですか? さっきのその「有償か無償か」みたいなとことか。
桐沢:ええ、そういうことですね。あと考え方の差ですか。
ようこ:CILのメンバーもだんだん変ってきたよね。それも大きかったのかな?
桐沢:大きかったのかもしんねえけど、わかんねえなあ、それは。
立岩:その考え方の違いっていうのをさ、もうちょい詳しくおうかがいできればと思うんですけど。どっち向きとこっち向き、そのへんの、東なのか北…なんかわかんないけど、どういう違い方なんですかね。
桐沢:よく言われるのが、青い芝か、極端な青い芝と、どっちでもいい青い芝があったとしたら、俺は極端な青い芝寄りなのかも。
栗川:桐沢さんは極端な青い芝寄り。
立岩:それがこっちだとするとね、こっちは、もう一方の、もうひとかたはどこに寄ってるんですかね?
桐沢:それはやっぱり、行政と闘わなくなった。
栗川:行政と闘わなくなった。
桐沢:青い芝です。
立岩:たぶん脳性麻痺の人のなかでも、どっち向いていくかっていうので、ほんとにすったもんだいろいろあったんですよ、けっこうね。それはそれだけど、ぼくは新潟についてちょっと聞いてる話っていうのは、やっぱり生まれながらの脳性麻痺的な障害者と、20、30まで健常者やってきて、事故って障害者。たとえば口は達者っていうか、あるいは頭は健常者っていうか。そういう違いみたいなものがいろいろと違いを産んでくみたいな話も聞くんだけど、それはどうなんですか? 新潟の場合。[01:40:20]
桐沢:それは違いはありますね。まあ***(01:40:21)ってのもあったけど。今亡くなられたのかな、頓所さん。
栗川:頓所さん。
立岩:うん、そうらしんですよ。ぼく19年に新潟来た時、実は栗川さんに頓所さん紹介していただける…だけど、ちょうど都合が合わなかったんだよね、たしかね。で、お話うかがうことできず、亡くなったんだよね。だからぼくはけっきょく、何かの集会でぼくが話さしていただいた時にお会いしたことはあるけど、じかに話をしたのはないんです。
A:おととしの暮ぐらいだったかな。
栗川:2020年の暮れぐらいですね。。
桐沢:頓所さんと、生まれつきの天然障害者と、違うんです。天然には天然の意地がある。どこがどう違うんだって言われたら困るんだけど、頭の回転が。頓所さんのほうがきれるんです。
栗川:頭の回転とかきれる。
A:頓所さんが関わってきたのがいつぐらいなの?
桐沢:90年代後半かなあ。
A:後半か。
桐沢:頭はきれるのはわかるんだけども、やっぱり何ていうかな、途中から、どう言えばいいんだろ。「中途のほうが大変だ」って言うんですよね。中途障害者が大変だっていうのはわかるんですけど、ただ、天然からいうとなんかこう…一味も二味も違うというか。どういうふうに言えばわかってくれるのか、なんか違うんだ、とにかく。感覚が違うんです。
栗川:闘わなくなったのもじゃあ頓所さんたちって感じ? そうすると。
桐沢:そうだと思います。俺が知ってる範囲ではね。篠田くんが闘ったっていう話はあんまり聞いてない。けんかやったって話は聞いたことない。
栗川:なるほど。
A:頓所さんはな、学生の無年金訴訟とかでな、けっこういろんな場面でなんかその主張を聞いたりしたことあったけど。
栗川:そうですね。無年金の裁判は、裁判としては闘ってるけど、桐沢さんが考えるような「役所と闘う」みたいな、そういう感じではなかった。
桐沢:はい。
■水戸事件
A:90年代はね、彼、私も関わってるんだけど、水戸事件という、その傍聴にずっと長いこと関わってましたよね、桐沢くんと。学生さんたちも誘って。
栗川:水戸事件。
A:うん、水戸の段ボール工場か何かで雇ってた従業員の知的障害者に対して、性的暴行だとかな、そういったことで原告の人たちが損害賠償を求めて訴えたっていう事件があって。それに傍聴に行って、そこで茨城の里内さんとか青い芝の人たちとか、そういうグループみたいなところで、水戸事件に関わるグループとずっと活動してきたと。
栗川:水戸まで行ったんですか?
A:水戸までしょっちゅう。年に3回も4回も行ってたな。
ようこ:よく行ってたね。水戸の納豆のポスターずっとあって。
立岩:彼、実は大学つくばなんで、茨城青い芝の里内さんとか、知ってるんですよ、この人は。
山口:里内さん12か月ぐらい前に亡くなって。
A:あ、亡くなったんですか。知らなかった。あららら。里内さんな、新潟に***(01:44:57)な。
山口:心臓ちょっとしばらく悪くしてて。朝起きたら…朝起きたんだか何か、寒い日で、朝起きたらなんかちょっと動かなくて、病院運んだんだけども、みたいな感じで。それでぼくもすごいショックというか。里内さんもう74とかだったと思います。[01:45:29]
立岩:水戸アカスですよね。ぼくはあの、あれの弁護やってた副島さん…副島さんも亡くなっちゃったけど、わりと関係あって話したりしましたよね。
A:そこにずっとな、民事の判決までいたよな。東京なんかでそういう集会なんかもあったりして、ずーっと関わってきたよな。その段階ではもうぜんぜん、篠田くんたちの運動とはまったく別の肌色だったよな、完全にな。
立岩:学者っていうのはそこんとこへらへらできる、コウモリみたいなヌエみたいな。こっちに行けばこっちの話聞き、こっち行けばこっちの話聞きってできちゃうとこもあるんで、いろいろ聞いてますけどね。ただ…まあいいわ。何かべつにみんながみんな仲良くなるべきだとはぜんぜん思ってないんですけど、でもやっぱり社会運動は社会運動で一定のサイズっていうか、力っていうのが求められ場合もあるじゃないですか。そういうときはなんかね、こうまとまってつうか、力を、
桐沢:新潟でやるんだったら、貸しますよ。呼ばれれば私はどこでも。行かないってことじゃないんです。新潟で呼ばれないから行ってないだけ。
ようこ:呼ばれればどこにでも行く。
桐沢:そう。どこでも行ってどこでもけんかしますよ。
ようこ:けんかするんだね。
桐沢:けんか大好きだから。
A:あとやっぱりあれですよね、支援費制度っていう「措置から契約」へっていう時に、
ようこ:あの時のハンガーストライキみたいなあれを今でも忘れられない。一日ふて寝してんの。
栗川:なんでハンガーストライキしたんですか?
ようこ:措置から契約になることに反対して、契約をずーっと拒んでたの。
桐沢:そう。
ようこ:半年ぐらい拒んだかね?
A:2003年の3月31日で終わりということで、だからみんな支援費へ移行するからっていうんで、「障害程度区分も申請して受けてください」「支給量の決定もどんどん進めてください」という、そういうお達しがどんどん来て。どんどんそうやって周囲が進んでるなかで、彼はその、その申請をいっさいしないという。契約制度に移行することは認めないということでがんばろうとしてね。で、3月31日を迎えてまだ申請しないと。新潟市が1週間いちおう措置を続けるっていうことで対応してくれるんだけど、4月10日ぐらい過ぎても、全国で十数人だったんだな、申請しない人が。
栗川:ああ、その、契約拒否の闘争をする人がね。全国に十何人もいたわけね?
A:うん。そしてさらに進んで、もうむこうと話もなかなか進まなくて、4月、どんどんどんどん契約延ばしていって。新潟市としては「じゃあ5月1日から契約してくれ」と。4月いっぱいは措置で対応するということをして。1か月も措置対応を延ばしたっていうことで画期的だったんだけど。それで、その段階で全国で二人になっちゃったんだな。新潟の桐沢と板橋のホリさんだけになっちゃったんだな。それで5月1日。5月連休入ったんで、「連休明けまで待ってくれ」っていうふうに、「もうちょっと考えさせてくれ」って言ったら、行政は介護打ちきりっていうことでね。自薦ヘルパーで入ってた人たちも、そういう何ていうかな、…手当もすべて打ちきるっていうね、何の裏付けもないまま自薦ヘルパーだけが入ってくれるという。それをけっきょく続けていって。で、最終的には5月31日をもって終わりにして。そのなかでは全国1人だけどな。で、6月1日にいちおう行政と仲良くなったという、いちおう手打ちをしたと。で、5月1日にさかのぼって申請したことにしようということで、記録もぜんぶ。その間5月いっぱい入っていたヘルパーの給与もぜんぶ保障したと。いうようなプロセスがあったんです。
もう最後の最後で自薦ヘルパーの給与もいっさい保障しないちゅうんだったらもう誰が介護の面倒みるんだってんで、桐沢くんを市役所に連れてって、ぼーんと障害福祉課の前にね、置いてくるというか。[01:50:18]
栗川:でもやったんですね?
A:彼は私に連れてってもらって、私に「帰れ」って。私帰らされちゃったんですよ。彼は障害福祉課の前にどーんと居座ってね、歯ブラシとタオル持って障害福祉課の前に行って。で、俺に「帰れ」って言って。俺はだから帰っちゃうという。あとは行政が責任持てと。桐沢の生存権は行政がやれっていうふうにやったんだな。
栗川:それ何日間ぐらいやったんですか?
A:だからけっきょくその場でさすがに障害福祉課の課長とばしばしっとやったんだけど、係長がひょひょひょひょって出てきてね。ふあふあふあって(笑)。いちおうその決裂はなくてね、ぜんぶ認めるからね、じゃあ6月1日に申請してくれと。5月ぜんぶ保障すると。どうだ? という。で、こちらが要求してたいろんな資格問題だとか、サービスを低下させないだとか、みなし資格の永久資格化だとかそういう要求についてはね、ぜんぶ認めるという。それでこっちもオーケーしたんだな。
ただ、資格要件についてはもう、新しい資格要件ができて予算組んでるから、市としては対応できないと。次の年度からはそのための予算つけるから、今年はもうしょうがないからこれで何とかしてくれっていうんで、ほんで打ちきったのかな。ほんでいいと。
それからもう約束守ってくれましたよ、市は。資格とりたい学生を優先的に。しかもね、何度も…、
ようこ:また来られると困るもんね。また置いてかれるとね。
A:もうそれも2、3年で終わっちゃったけどな
まあ大きくはその、運動的にはその2003年の措置から契約へっていう時に彼は、行政の責任、国と行政の責任が措置制度の中身じゃないかと。ほんでDPIの人たちは、自分たちでやるほうがかゆいところに手が届くんだっていうんで、そういう規制緩和の市場にあたかも参入するかのごとくね、どんどんどんどんそこに自分たちが名乗りを上げて事業所を作っていくと。
で、桐沢くんたち、その水戸事件の関係のグループで「怒りネット」っていうのを作って、あくまでその行政の責任、障害者の支援なんていうのは国と行政の責任だと。そんな契約なんかで期限区切って生存権延ばすってのはおかしいっていうようなことで怒りネットっていうのを作って、そこで活動してたんですよね。
立岩:横山〔晃久〕さんとかいたとこ。
A:うん、横山さんと一緒でしたね、
立岩:そうだね、HANDS(ハンズ)世田谷のね。
A:コヤマさんとかな。誰だろ、あと、里内さんもいたしな、ノマジリさんたちも、茨城の人たちいっぱいいたし。東京の人たちいたし。ノマジリさんとかご存知ですよね?
山口:里内さん、ノマジリさん、あと、大仏の和尚の息子とか。
A:あの、東京の人たちとか、まだ車いすの脳性麻痺の人たちもいっぱいいたんだけど。視覚障害の人たちもいっぱいいたよな。
栗川:ああほんとに。どういう人たちですか、視覚障害は。
A:視覚障害はね、怒りネットの中心的な人たちはね、古賀さんとかね。
立岩:古賀さんか。
A:うん、古賀典夫とかね、
立岩:あの人たちが中心になって、今でもなかなか難しいけど年に一回日比谷で集会やってるよな。
A:やってますよね、骨格提言の実現を求める、そういう集会で。
立岩:そうそうそう。それ私もアジったことありますけど★。そうですよね、日比谷で集会やって、そのあとデモるっていうか、ちょっとやるっていう。まあいちおう何だかんだっていって1年に1回やらんとしている。でもコロナでちょっとまたそれもできなくなってるかな。
★立岩 真也 2014/10/30 「安楽死尊厳死に対して来た人たちと」,「骨格提言」の完全実現を求める10.30大フォーラム 於:日比谷野外音楽堂
A:今オンライン化しちゃって、オンラインでちょっとやってるみたい。
立岩:さすがにあの手の集会はオンラインちょっと迫力出ないですよね。
いや、わかるっちゃわかるし。いや、私は何つうかな、話のどっかですれ違った部分もあると思ってて。行政というか政治というかが人の生活を保障する、そりゃそっち側に義務がある。つまり本人に権利があるってことは、社会に義務があるってことと同じですから。それはもう義務と権利としか言いようがないわけですよ。それを認めさしたうえで実際にどういうものを使うかっていうのは契約だっていう話のたて方、私はできると思っていて。そこのところで、そこまでも言わないで、なんか契約契約っていう話が一方にあり、一方でまた違う話があって。そこはもうちょっと何とかならなかったのかなあって今でも思うところはあります。
でも、怒りネットの連中のっていうか、私の知り合い何人もいるし、[01:55:29]
A:そうなんですか。
立岩:うん。気持ちはっていうか、それはようわかるって感じです。やっぱりその、この間(かん)だからあの人たちと、やっぱり安楽死・尊厳死とかさ、そういうことに関して、やっぱりわりと反応がいいというか、話をわかってくれるっていうのが、あの人たちがわりと早い反応っていうかな、そういうのもあって。で、付き合いはあるっていう感じですかね。
A:その古賀さんたちとも、ちょっとなんか今は一線を画しちゃってんだよな。
立岩:そうなんですか。
A:相模原のね、あの事件があってから、あれでけっきょく多くの障害者団体なんかが「被害者の名前を匿名にしたのは差別だ」っていうふうに言いだしてて。まさか怒りネットもそんなこと言うとは思わなかったんだけど、古賀さんたちも差別だって言い始めたから、「いや、そりゃおかしいだろう」と。やっぱりその実名報道という問題については一貫して反対してきたはずだと。被疑者に対しても、ましてや被害者なわけだから、警察発表のまま実名をね、たらたらたらたら垂れ流している日本のメディアに対して実名報道ってのはおかしいじゃないのかっていうのが、ふつうの民主主義的な勢力は実名報道反対っていう主張だと思ってたんですよ。だけど、古賀さんたちもふくめて「被害者の一人ひとりの人生をやっぱり知ってもらわなくちゃいけないんだ」みたいなことで、「匿名報道は差別だ!」って言い始めたから、とんでもない話だと。何でそんなこと言ってんだって話して、決裂しちゃったんだよね。
むしろ警察発表のまま垂れ流してる、そういうメディアのほうが問題なんじゃないかと。「なんで障害者だけ匿名すんだ、これは差別だ」っていうんだったら、何でも同じにすりゃあいいのか! っていう、そういう話になってね。桐沢くんは怒りネットに「自分は障害者でよかった」という、「何でも健常者と同じにしてればいいのか」と。「だから徴兵検査でも通らせろ」っていうのが障害者の主張になんのか、みたいなね。で、「そんな戦争なんかしないほうがいいよ」っていうんで、「障害者でよかった」っていうのを彼は投稿したわけですよ。そして事実上決裂しちゃったの。
で、いっしょうけんめい追及したんだけど、古賀さんは「答えない権利がある」とか言って逃げちゃったから。で、兵庫の高見さん。
立岩:ああ、精神障害のほうのね。
A:高見さんがなんかね、黙っちゃってさ。それ以来決別しちゃった。
立岩:そうか。外野的には若干残念な気がするんですけどね。まあ、それは俺が言うこっちゃないです。
まあ、なるほどなるほど。はい。なるほどそうですか。
さてと。えっと何だかんだいってけっこうな…、どのぐらい経ったんですか?
栗川:2時間。
立岩:2時間経ちましたね。
栗川:いっぱい話を聞かせていただいて。
立岩:ありがとうございますなんですけど。でも何か「これは言っとくぞ」みたいな、「お前たち聞け」みたいな、そういうのがあったら。
桐沢:俺はあの、よく言われるんですけど、何だったっけな、戦争の話で言ったら悪いんですけど、いろんなときに、ソ連から、
A:ウクライナの話?
桐沢:あれもちょっとやりすぎなんじゃねえかなって。
A:ロシアのこと言ってんの?
桐沢:そう。ほらやっぱり、殺す側よりも殺される側の立場があれだって感じかな。なんでか、殺される側の立場でありたいっていう気が***(02:00:14)[02:00:15]
A:あと、ご存知かと思うんですけど、『こんな夜更けにバナナかよ』という映画にもなったんだけれども、渡辺かず…、
立岩:作者のほう? 本のほう?
A:本は私読んでない、映画しか観てないんですけど、彼は本読んだんかな? なかなかあれ学生なんかにもね、いろいろ薦めて観てもらったりしてるんですけど、今Amazon Prime(アマゾンプライム)とかいろんなとこで簡単に観れるので、ぜひ観てくれるといい。
あのなかで、何ていうのかな、あれ筋ジスの鹿野さんっていう人の話なんだけれども、けっこう似てるというかね、いろいろ介助者を自分で集めて。あれは完全なボランティアで集めてる。よく似てるなっていうふうに見てて。で、やっぱり何ていうかな、障害者そのものっていうよりも、介助者が変わっていく、介助者もいろいろ変わっていくところがおもしろいっていうかね。だから障害者に焦点をあてるよりも、介助者に焦点をあてて、介助者が自ら変わっていくみたいなところが非常にいいなっていうふうにぼくなんか思っててね。健常者論っていうかな、障害者に焦点をあてるっていうことと同時に、やっぱり健常者の立場性みたいなものを変革してくようなね、そういったなんか流れが、あの映画観ていてすごく感じたんだよね。【障害の受容***】(02:01:40)。
立岩:俺、映画実は観てないんですけど、本が日本で最初に紹介したのぼくだと思ってて、ちょっと自慢★。送られてきて。その時連載持ってたんです、本の紹介の。ほいで、「あ、これだ」と。これをまず次のでやんなきゃつって、2回続けて、けっこう長い紹介して、それが…そうです。だから最初、結果的にかなり売れたけど、最初誰もそんな、北海道新聞社ってそんなに本をいっぱい出すようなとこじゃないじゃないですか。そっから出て。でももらって、渡辺さんっていう著者と電話してっていうのが最初だった。
それ以来だけど、ずっと会ったことなかったんだけど、このごろ渡辺さんっていう「20年の間に本3冊ぐらいしか書かないフリーライター」っていうんで、どうやって暮らしてんの? お前…みたいなやつですけど、このごろちょっと付き合いありますね。おもしろいちゃあおもしろいやつです。
あれもね、でも単純にボランティアでってわけでもないんですよ。そこがちょっとみそな…。でもあの本のなかではそこは書いてないんですよね。だからそこに焦点が当たってるわけじゃないから、あの本は。だから今、渡辺さんはわりとそういうこともこみこみで、もちろんそこのなかで変わっていくとかっていう可能性…可能性というか現実ですよね。実際変わっていくから。も、込みだけど、そこ、たとえばその鹿野さん自身も国立療養所に長くいて、それがもう究極的にいやになって札幌出てくるんですけど、そういう人たち、全国で二十何か所国立療養所あって、鹿野さんも筋ジスですけど、筋ジスで「出たい」っていう。それを支援するプロジェクトみたいなのがあって。新潟もあれですよ、新潟病院にもいるんですよね。そこをなんとか変えていくっていうの、もう何だかんだ4、5年やってて、そういうところの企画とかにも渡辺さん呼んだりとかしてて。
でやっぱりそこはやっぱり、人も変わるけど制度も変えないとっていう。ぼくはそうほんとにそう信じていて。だからその筋ジスプロジェクトの話はその本のなかにちょろっと出てきますけど、まあそんなんでちょっと渡辺さんっていう…。でも彼もあれ書いてから20年ぐらい経ってるかな。その頃は若かったけど、今はそんなに若くはないですけどね。いますよ。
何回か大学にも来てもらって、ものを書くつうかな、取材したり書くっていうことについてしゃべってもらったり、それからその筋ジスの国療をどうしようっていうのでしゃべってもらったり。やっぱりちょっと映画とかでこうね、注目するじゃないですか。そういうこともあって、ぼくとセットで講演したりしてきたことがあります。よろしかったら。まあでも本はほんとにいい本だったと思います。[02:05:00]
★立岩 真也 2003/05/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』」(医療と社会ブックガイド・27),『看護教育』44-05(2003-05):388-389(医学書院)
立岩 真也 2003/06/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』・2」(医療と社会ブックガイド・28),『看護教育』44-06(2003-06):(医学書院)
A:彼から教えてもらったんです。彼、Tシャツも持ってたんだよな。
立岩:ああ、夜バナ。
A:「これなあに?」ってんで、で、映画で、ビデオで見せてもらって「あ、これいいな」って。
立岩:ぼくだと、新潟で『夜バナ』のその筆者呼んだ講演会が2004年に新潟であったらしい。上越市・新潟市。圓山里子って、知らんか。ちょっと同業者なんですけど、新潟で長いことやったり。また新潟に戻ってるらしいんですけど。彼女がたぶん知らせてくれて。新潟でもやったみたいですよ。本が出て2年後ぐらいですね。2年後じゃないのか、1年半後ぐらいですか。やったって言ってました。
よしきた。ありがとうございます。
栗川:どうもありがとうございました。
山口:ありがとうございます。
A:これ、あの、何ていうか、桐沢くんのなんか。私たちのなんかね、これまでの主張みたいな、ちょっと資料なので。
立岩:ありがとうございます。
A:で、いちおう去年のうちの事業所の事業報告も、「こんなんやってます」ってんで最後につけときました。
立岩:おう。ほしいですか?
山口:見たいですね。
栗川:資料係が。
立岩:とりあえずじゃあ山口さんに預けることにします。
あ、電車通ってんだ。
山口:越後線です。
栗川:桐沢さんの名刺。メールアドレスとか書いてあるのかな?
ようこ:あるよ。
栗川:山口さんとこにも、
山口:あ、今持ってます。
立岩:じゃあ本二つあるんで、もし余ったら学生さんとかにあげてください。
A:はい。
立岩:私の本のなかじゃあ読んでわかるって、みなさん。ぼくはけなしてるってことですね。ひどい話だとぼくは思いますけど。これがわかんなくて…まあいいや、大丈夫だと思います。よろしくお願いします。
というとこで、ほんとに2時間10何分話していただいてありがとうございます。[02:07:17]
(謝礼についての話等)
[02:07:52]
よろしかったらというか、ぜひ、言いたいことあるならやっぱり言ったほうが得、得っていうか言わないと損っていうか、気持ち悪いんで、もしあれだったら。なんか足してもらってもいいですよ。なので、そうしていただければなと思います。
またあの連絡、メールで連絡できますか?
ようこ:名刺にアドレスが。
立岩:こちらで連絡できるということで、
A:そうですね。
立岩:はい、わかりました。
コアラだれか好きなんですか?
A:コアラってのはね、彼のあだ名なんですよ。コアラってのは1日24時間のうち20時間寝るという、しょっちゅう寝てる。自分でコアラって。この事業所の名前もね、彼がつけた。
立岩:昔からどうだったかしれませんけど、コアラに似てるとか言われませんか? いやその、20時間寝てるほうじゃなくて、顔が。
栗川:顔がコアラに似てる?
ようこ:そんなかわいいかな? どうですか? そういうふうに、
立岩:言われるとそう思わない? ちょっと強制的に今言わされてんね。
A:なんかまあ、言えるかも。そう言われれば。
立岩:似てるよぜったい。ぼくはそう思う。
ようこ:朝ちゃんと起きてますか?
桐沢:はい、ほんとに。
A:起きてます、起きてます。
ようこ:ほんとに?
B:でも起こすこともある。
A:ちょっと目を離すと寝てる。
C:ごはん前から***(02:09:00)寝てます。
ようこ:私ヘルパーで朝とか入ってたの。「寝てるんだね、じゃあ帰るよ」とか言ったら、「帰らないでくださいー」とか言って。「起きるか、私が帰るか、どっち!」とか言うと、「起きますー」…、
[02:09:17]
音声終了