HOME > WHO >

横山 晃久

よこやま・てるひさ

Tweet
last update: 20200308




■プロフィール

「骨格提言」の完全実現を求める大フォーラム実行委員会委員長、DPI日本会議常任委員、施設の仲間の自立を促す日々の施設訪問、次世代の若者育成をつづける・・・など様々な場で活動している。


経歴

1954年8月 大阪 堺市百舌鳥で5人きょうだい(女4人、男1人)の末っ子として生まれる。
父親は鍛冶屋 父の仕事の都合で名古屋、静岡、千葉にも数カ月ずつ住んでいた。
脳性小児麻痺(CP) 自分で動くことも、話すこともできなかった。
〇1955年 森永ヒ素ミルク中毒事件  高度経済成長期
〇1956年5月 水俣病が公式に発見される
〇〃 年 イタイイタイ病発生 1955年発見。1968年日本の公害病第1号に認定。
1958年 大阪で3歳から5歳まで、週に2日、天王寺の「青い芝幼の幼稚園」に通った。(〜1960)
1960年 大阪府教育委員会から「障害者専門の学校」をすすめられ、光明養護学校に通うため家族で大阪から東京へ引越。
〃 年 世田谷でも豪徳寺の「青い芝の幼稚園」に通った(〜1961)
1961年 光明養護学校小学部入学 高等部卒業まで母親が毎日送迎。
1964年 養護学校での毎日の訓練によって小学校3年のころ自力で車椅子を動かせるようになる。 「そうそう。足こぎ、足こぎ」2017
〇1965年 新潟水俣病(第2水俣病)
1967年 光明養護学校中学部入学
水俣市まで被害者に会いに行く 一人で電車に乗った。 幼少期から社会問題に興味を持っていた。
1970年 光明養護学校高等部入学 母親が癌で倒れる。
1971年 森永ヒ素ミルク被害者の方々に会いに東京へ行く
1973年 高等部卒業  入所施設の空き待ちをしながら福祉作業所に3か月通う。
〃 年 重度障害者授産施設練馬更生園入所   母親への介護負担を減らすため自分から施設を選択。「志願した。そのほうが母親が長生きできると思った。」(〜1976)
〃 年 在宅障害者の個別訪問を始める(〜10年間) 練馬更生園から毎週土日に、家に帰って一人で始める。
〃 年 練馬に居た全障連の荒木さんとつながる。北区の都営住宅に居た新田さん宅に行く。光明養護学校卒業生の春田さんと知り合う。
1974年 『梅ヶ丘駅を誰もが利用できるようにする実行委員会』(梅実)発足・実行委員  「俺も一人で新宿に遊びに行きたいという言葉が実行委員会を作ったんだよね。」 遠藤滋らとともに1977年まで小田急線梅ヶ丘駅改善運動実施。「横山が言い出しっぺ」(遠藤HP)
1976年 練馬更生園退所  園長から言われた言葉をきっかけに退所を決意する。母親が間もなく亡くなる
1976年8月8日
〜10日
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成大会に参加 初代全国代表幹事に横塚晃一
この時の経験が、ぐるーぷ・たびだち(以下、「たびだち」)の運動に反映される。
このころに「新田と再会した」20120708
1977年 障害者の集いとして「たびだち」正式発足  梅ヶ丘駅改善運動実行員会の発展的解消から障害者40名ほどが集まり。 スローガン『我ら皆マヒの身を持て誇らしく、自立の道をひたに歩まん』【20181021】「梅ヶ丘駅にスロープが設置されたけれど、俺たちは呼ばれなかったんだよね。あれほど悔しい思いをしたことはないよ」20190119 駅改善運動で経験した屈辱がステップとなり、
・駅改善運動だけに固執するだけでなく介助に対する問題もおこなう。
・担当者を各自決め、地域の障がいのある者に対し、在宅訪問を行ない、月に一度「在宅障害者の集い」開催。
・地域で介助者を集めながら重い障がいのある人が民間アパートを借り、自立生活運動を進めている「関西青い芝」とも交流をもつようになった。」【20181021】
1979年 身体障害者介護人派遣制度の改善を求める会「以下、求める会」と自立の家をつくる会「つくる会」同時発足
〃 年(25歳) 自立障害者仲間の小佐野彰の家に居候をはじめる。発端は家族の反対だった。
〇1981年 国際障害者年
〃 年(27歳) 介助付きで自分のアパートに移る。小佐野氏の家に居候を始めて2年後。
1982年 あたりまえの生活を考える会発足  世田谷区の自立生活運動をつくろうとした組織
1983年 「求める会」解散
1987年 在宅ケア研究会発足 高齢者問題を中心に動いていたグループと一緒に将来的な介護・介助の在り方をつくり出そうとした
〃 年 合同介助者集めの会 24時間介助を入れているメンバー同士が一緒に介助者を集め一定のきやくをつくって互いの生活を支え合おうとした
1988年 公的介護保障要求者組合要求者組合が結成される(要求者組合)
〃 年 HZNDS世田谷設立
1989年 介助者派遣事業
1990年(36歳) 二日市、山口茂子(初代理事章)らとともに自立生活センターHANDS世田谷設立。現理事長
1997年 要求者組合分裂
→高橋修と運動・交渉団体として「全国障害者介護保障協議会」設立して代表に。
→相談・情報提供として「障害者自立生活・介護制度相談センター」
2015年夏 独自に、脳性麻痺者の会「一歩の会」設立
2018年 一歩の会の組織改革を模索
2019年 一歩の会の対象を重度障害者にひろげる

―――――

1954年8月 大阪の堺市百舌鳥で5人きょうだい(女4人、男1人)の末っ子として生まれる。
父親は鍛冶屋 父の仕事の都合で名古屋、静岡、千葉にも数カ月ずつ住んでいた。
脳性小児麻痺(CP) 自分で動くことも、話すこともできなかった。
生まれた地域と森永ヒ素ミルク中毒事件が起きた地域が近いことから、幼少期より社会問題に興味を持ち、公害問題や薬害問題の勉強をするようになる。
http://www.arsvi.com/ts/20172343.htm1960年代初めの脳性麻痺
脳性マヒは英語ではCerebral Paralysisといい、略してCPという。大部分は出産時の障害による、頭蓋内出血による先天性のもので、ヴィールス性の小児マヒとは全く違う。普通いわれる小児マヒは脊髄性小児マヒといい、患者は運動筋が弛緩してダラダラした感じになるが、CPは反対に硬直する。しかも、これがほとんど全身を襲うので肢体不自由児の中でも悲惨な例が多い。重症者であればあるほど、施設や保障の恩恵から見はなされている。
〇1955年 森永ヒ素ミルク中毒事件…高度経済成長期https://ja.wikipedia.org/wiki/
〇1956年5月 水俣病が公式に発見される
https://ja.wikipedia.org/wiki/水俣病20181103
http://www.arsvi.com/d/m35.htm森永ひ素ミルク中毒20181103
https://minamata195651.jp/pdf/tishiki/10tisiki_all.pdf水俣病10の知識20181103
〇1956年 イタイイタイ病発生 1955年発見。1968年日本の公害病第1号に認定。
1958年  大阪で3歳から5歳まで、週に2日、天王寺の「青い芝幼の幼稚園」に通った。(〜1960)
「僕はもともと脳性まひだからね、青い芝の教えというのがあってね」20160405 △
〃 年 4 5 青い芝の会 未就学脳性マヒ児のための塾を開設 子供7人
この塾は5年ほど継続されたが、養護学校の増加とともに自然消滅する。初のレクリエーションとして、バス旅行を行う 以後毎年1・2回のバス旅行を行うhttp://www.arsvi.com/o/a010.htm青い芝の会・歴史(結成から横塚晃一死去まで)【20181112】
1960年 光明養護学校入学のため一家で大阪から東京へ引越。
「大阪府教育委員会から東京にある障害者専門の学校があるとすすめられたのが光明養護学校。親は就学猶予にはしたくなかったみたいだよ。」△
〃 年 世田谷でも豪徳寺の「青い芝の幼稚園」に通った(〜1961)
「近所の子どもが通っていたんだよ。『健常者と共に学び合う場所をつくろう』と。それが光明の近くにあったわけ。豪徳寺にありました。もちろん無認可だけどね。障害者が5人いたかな。そのうちのひとり。もちろん教えるほうも障害者だよ。当時、若林っていたんだよね。その若林が園長だった。若林さんも今から13年前に亡くなったから。僕がいたのは、5歳までの障害児だけの幼稚園と、5歳から入学までの障害児と健常児が同数の幼稚園」2018070三井絹子講演会in関戸公民館 △
1961年4月 光明養護学校小学部入学。 高等部卒業まで母親が毎日送迎。
先生から「体に障害があるので頭で勝負しなさい。いつも明るくにこにこ」など言われるままにしていたが、小学2年頃から、真面目な子でいることに徐々に疑問を持ち始める。
1964年 養護学校での毎日の訓練によって小学校3年のころ自力で車椅子を動かせるようになる。 「そうそう。足こぎ、足こぎ」20170706
〇1965年 新潟水俣病(第2水俣病)
1967年4月 光明養護学校中学部入学
1968年(14歳) 熊本の水俣市まで一人で電車に乗って被害者に会いに行く 幼少期から社会問題に興味を持っていた 「人生を変えた出会いのひとつめが、水俣のおじさん」
〇1968年 都立府中療育センター開設
1969年 中学3年のとき父親が脳溢血で亡くなる  「親父が亡くなってすぐに役所の職員が府中療育センターのパンフレットを持ってきたけど、あと1年で中学卒業になるってことで、母親が断った」
〇1968年
〜1970年代
学生運動、社会運動
〇1970〜74年 府中療育センター闘争
1970年4月 光明養護学校高等部入学  母親が癌に
光明時代に機関紙作成・発行する。
〇1970年以降 関西では「そよ風のように街に出よう」をスローガンとして外出運動が繰り広げられる
1971年(17歳) 森永ヒ素ミルク被害者の方々に会うため東京へ行く
「森永ヒ素ミルクとか、イタイイタイ病とかっていうのは原因が限られているわけだ。原因が限られているから、はっきり言って闘いやすい、相手にしやすいんだ よね。僕ら、どこに訴えるの?ってね。僕ら、国しかないんだよ、訴えるところは。社会全般だと思っているわけよ、差別を受けているのは。」【20120708】
「森永ヒ素ミルクやイタイイタイ病は訴える相手が明確だが僕らは国しか訴えるところがない。」『差別されてる意識はあるか』(荒井2017)
〇1973年01 自立障害者集団友人組織グループゴリラ結成
在宅重度障害者訪問活動(こんにちは訪問)を精力的に展開http://www.arsvi.com/o/a01-27.htm(青い芝の会)20181211
1973年3月
(18歳)
高等部卒業  入所施設の空き待ちをしながら福祉作業所に3か月通う。
〇 〃年4月 全国介護要求者組合設立
故新田勲委員長が「在宅障害者の保障を考える会」として重度障害者の公的介護を国に求める団体として設立。現在は、新田委員長の意思を引き継ぎ三井委員長が中心となって、どんなに重度の障害を持っていても地域で当たり前の生活を後れるように活動を行っている。要求者組合HP2018102
1973年 重度障害者授産施設練馬更生園入所(〜1976) 入所して間もなく母親が入院。
母親への介護負担を減らすため自分から施設を選択。「志願したんだよ。そのほうが、母親が長生きできる
と思った。高校2年の時に20か所くらい見学した中から決めたんだよ」 施設でも機関誌を作成する。 人生を変えた出会い:中途障害のひとたち
(補)授産施設とは、着替え・トイレ・移動など日常生活の基本的なことは自分でできなければならない。
幼少期から何もできなかった横山が授産に入所できたのはなぜか。
「小学校1、2年生の時の言語指導で言葉が出るようになり、3、4年生で何とか自分で食事が、中学のとき自分でトイレや着替えができるようになっていた」など。「たまたま訓練の成果があった。同じようにやってもできるようにならないと思います」◇
〃 年 個別訪問開始(〜10年間)  施設で生活しながら在宅障害者の個別訪問を一人で始める
「仲間を募るために、(練馬更生園から)毎週土日は世田谷の実家に帰って、在宅障害者の個別訪問をしていた。大阪のやり方でね。僕は大阪だから」
人生を変えた出会い:「27歳の美少年」 CPで発語もできず意思表示も難しい重度障害の少年と出会い、「介助保障」の重要性に気づかされる。現在の運動思想につながっている。
「もともと障害者運動いっぱいあると思うんだね。教育問題とか差別の問題とか人権問題とか、交通問題とか 、街づくりの問題とかいろいろあるわけよ。でも俺は、そうゆう問題より、介助保障が無いと…、特に重度障害者は生活が成り立って行かない。だって介助者が居なければさ、街にも行けないし、飯も食えないし、ウンコもできない。俺がそこらへんを味わったのが17のときかな」【20120708】
〃 年 練馬に居た全障連の荒木さんとつながる。北区の都営住宅に居た新田さん宅に行く。光明養護学校卒業生の春田さんと知り合う。
1974年 『梅ヶ丘駅を誰もが利用できるようにする実行委員会』(梅実)発足
「俺も一人で新宿に遊びに行きたいという言葉が実行委員会を作ったんだよね。」【20190119】
遠藤滋らとともに1977年まで小田急線梅ヶ丘駅改善運動実施。「横山が言い出しっぺ」遠藤滋HP
1976年 練馬更生園退所。
園長から言われた言葉がきっかけとなり施設を退所する。入所から2年半。自宅では末期の母親が療養、間もなく亡くなる。
〃 年8月8日
〜10日
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成大会参加 初代全国代表幹事に横塚晃一
この時の経験がぐるーぷ・たびだち(以下、「たびだち」)の運動にも反映される。
〃 年:夏 「梅実」から在宅障害者の集い「たびだち」へ
〃 年(22歳) 「新田と再会したのがこの頃かな」【20120708】
1977年(23歳) 「たびたち」正式発足
梅ヶ丘駅改善運動実行員会の発展的解消から障害者40名ほどが集まり障害者の集い結成。
スローガン『我ら皆マヒの身を持て誇らしく、自立の道をひたに歩まん』HANDZ20181021
「梅ヶ丘駅にスロープが設置されたけれど、俺たちの実行委員会の名前は全然出なかったわけ。あれほど悔しい思いをしたことはないよ」【20190119】
駅改善運動で経験した屈辱がステップとなり、
・駅改善運動だけに固執するだけでなく介助に対する問題もおこなう。
・担当者を各自決め、地域の障がいのある者に対し、在宅訪問を行ない、月に一度「在宅障害者の集い」開催。
・地域で介助者を集めながら重い障がいのある人が民間アパートを借り、自立生活運動を進めている「関西青い芝」とも交流をもつようになった。」HANDS20181021
〃 年 「甲山闘争」 大阪青い芝の会甲山学園における4日間の抗議・占拠
〇1978年2月 淀川区役所交渉、甲山闘争で大阪ゴリラ・関西ゴリラが糾弾される。
〃 2日 甲山闘争糾弾共同学習会→関西ゴリラ糾弾http://www.arsvi.com/o/a01-27.htm(大阪青い芝の会)
1979年 身体障害者介護人派遣制度の改善を求める会「以下、求める会」と自立の家をつくる会「つくる会」同時発足 「つくる会」も「求める会」も関西青い芝の運動を参考にしながら始められている。
介助制度の改善を中心課題として取り組むために発展的解消をして「求める会」を結成。20181021  介助保障要求運動を始める運動を、梅ヶ丘駅スロープ設置運動で集まった障害者が始めた。呼びかけ人かつ代表は遠藤滋、当時7人。介護人派遣事業の回数を年度ごとに2回ずつ増やした。重度脳性まひ者介護人派遣事業が月7回から8回。【20120708】および遠藤滋HP「メンバーは、俺と、S、H、J、亡くなった小佐野彰っていうのと、その奥さん。親分が遠藤滋で。その奥さん。当事者が8人ぐらいで支援者含めて30人くらいかな」【20190119】
重度障害者の小佐野彰が自立生活第1号としてアパート生活を始める。
小佐野さんを支える「介助者グループ4.25」結成。具体的に自立生活するための介助者を地域で探したり先輩たちがそのノウハウを伝えながら自立を支援する拠点。HANDZのHP20181021
・バザー開催…地域の人々に障害者の存在を認識してもらう活動から開始した
・小佐野さんの住まい…宿泊生活体験の場となり「自立の家」として活用。共同生活を行う者がいた。
〃 年(25歳) 自立障害者仲間の小佐野彰の家に居候をはじめる。 発端は家族の反対だった。
「自宅に介助者を入れて1年後、転がり込んだんだよ。2年くらい居たよ」【20190412電話あり】
(補)アパートの一室が自分の名義になっていたので、その部屋で介助者と自立生活を始めるが、姉夫婦の反対があり、自宅を飛び出している。
(補)青芝の先達の言葉から学び得る。(新田、三井、猪野、高橋らとの運動から学ぶ。)
〇1981年 国際障害者年 ノーマライゼーションの理念
〃 年(27歳) 介助者と一緒に自分のアパートに移る。居候から2年後。
1982年 あたりまえの生活を考える会発足  世田谷区の自立生活運動をつくろうとした組織
1983年 「求める会」解散
今後の組織の在り方について統一した見解がもてず、障害当事者主体の組織をつくるのか否かということについても意見が分かれた。
〇1985年2月 大阪では介護人派遣事業の発足を確約させる
東京の「脳性マヒ者介護人派遣事業」の要綱を取り寄せ具体的な検討を行う
1987年 合同介助者集めの会発足
24時間介助者を入れているメンバー同士が、一緒に介助者を集め、一定の規約を作り、お互いの生活を支え合おうとした組織。
〃 年 在宅ケア研究会発足 高齢者問題を中心に動いていたグループと一緒に将来的な介護・介助の在り方をつくり出そうとした
〇1988年 公的介護保障要求者組合要求者組合結成
〃 年 HZNDS世田谷設立
1989年 介助者派遣事業
1990年(36歳) 山口茂子(初代理事長)、二日市(「あの人(山口茂子)が二日市さんを誘ったんだよ」)らとともに自立生活センターHANDS世田谷設立、現理事長【20180706】
1996年 HANDZ世田谷で介助派遣事業スタート
北海道の「札幌いちご会」が書損じはがきを集め換金し、資金作りを成功させているという話題がメンバーの耳に入った。しかし、当時自立の家には力のある出版物が無く、検討を重ねた結果『自立のゆめ基金箱』を住んでいる地域に設置するに到った。HANDZのHP20181021
1997年 要求者組合分裂→高橋修と運動・交渉団体として「全国障害者介護保障協議会」設立して代表に。
→相談・情報提供として「障害者自立生活・介護制度相談センター」
2015年夏 独自に、脳性麻痺者の会「一歩の会」設立
「さようならCP映画会とか、友達100人できるかなとか、ぜんぶ障害者を扱った映画ね。それにみんなで感想を言い合って。2部では、差別とは何かとか、養護学校とは何かとかね。そういうふうにだんだん若い人たちと交わる中で、もう一回、僕たちCPの運動を作ろうと。僕ら集まると言語障害ばかりだからね。それが落ち着くんだよね」【20160405】
2018年 一歩の会の組織改革を模索
2019年 一歩の会の対象を重度障害者にひろげる
「メンバーを脳性麻痺者に限らず、『重度障害者』という括りで活動していきたいと思っているんだよ。」【20190112電話あり】「HとKさんと(2人ともと重度脳性麻痺の仲間)3人で会って、『これから先どうしようかねぇ』って話をしていてね」【20190119】

>TOP

■執筆



>TOP

■聴き取り文字おこし

インタビュー

〈抜粋〉

◆青い芝の会との出会い
青い芝が、『健常者と共に学び合う場所をつくろう』と。それが光明の近くにあったわけ。豪徳寺にありました。当時の関係者は、もうほとんどいないんね。青い芝が幼稚園つくったの。もちろん無認可だけどね。障害者が5人いたかな。そのうちのひとり、1期生だよ。もちろん教えるほうも障害者だよ。当時、若林っていたんだよね。その若林が園長だった。若林さんも今から13年前に亡くなったから。
僕がいたのは、3歳から5歳まで障害児だけの幼稚園と、5歳から入学まで障害児と健常児が同数の幼稚園。【20180701三井絹子講演会in関戸公民館】

◆「僕は自分が障害者だと思ってなかったからね(笑)。僕が生まれた54年ていうのはさ、水俣とかね森永ヒ素ミルクとか公害病とかあったわけよ。でね、そういう時代で生まれて来たから、当然そういう社会背景がおのずとあってね、僕もひょっとしたら森永ヒ素ミルクの患者かな〜と思ってたわけよ、自分の中では。だけど出方が違うんだよね、ヒ素ミルクの患者とちがうわけよ。【20180705電話あり】

◆森永ヒ素ミルクと僕らの訴える相手のちがい
「森永ヒ素ミルクとか、イタイイタイ病とかっていうのは原因が限られているわけだ。原因が限られているから、はっきり言って闘いやすい、相手にしやすいんだよね。水俣だったら水銀をばら撒いたチッソが悪いんだと。チッソによってこんな身体んなっちゃったんだと。森永ヒ素ミルクだったら森永を訴えればいいとか、いう限定なんだよね。じゃあ、僕ら、どこに訴えるの?ってね。僕ら、国しかないんだよ、訴えるところは。社会全般だと思っているわけよ、差別を受けているのは。」【20120708】

◆水俣で「おじさん」から
「水俣のおじさんに言われた言葉がね、『お前は障害者だろう。なんで自分の問題をやらないのか?』と。僕ん中ですごい突きつけがあったわけよね。俺なんか、そういう気なかったからさ。そこで、ハッ!と思ったわけね。で、そのおじさんがもうひとこと言ったわけ。『自分の問題をやりながら水俣を見てくれ』と。で、僕はそっから目覚めたわけよ。それがきっかけなの、自分の障害問題をやるようになった。【20180705電話あり】

報告書・あいさつ等々

◆2010年 HANDZ20周年記念誌 ハンズと私から
「今私の悩みは自立支援法後の障害者の地域生活なのです。私たちの頃のこだわりとかやり方は今では通用しないことです。地元を見れば、親はあの時と比べて理解はあると思いますが、本人のやる気が無いように見えてきています。周りに対しての依存度が多くなって本人が何をしたいのか、どういう生活にしていきたいのかが、時間をかけてもはっきり見えてこないのがこの頃の現状なのです。私は、今までに26人の障害者の仲間を施設から出してきました。そして25人の仲間を在宅から一人暮らしをサポートしてきました。これからも時間をかけてあせらずにサポートをしていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。」

◆20181030 UPLAN【日比谷野音集会】『骨格提言』の完全実現を求める 10.30大フォーラム 集会& 厚労省前アピール行動代表挨拶(介助者代読と自身の声)
「私がまず言いたいのは、国は骨格提言を無視して弱いものいじめばかりしています。やまゆり園事件から二年半が過ぎようとしています。事件当初はヘイトクライムの問題や優生思想の問題がマスコミで取り上げられていましたが、いまはほとんど取り上げられていないのが現状です。
 障害者権利条約や差別解消法が出来、私たちの武器に使えると思ったのですが、国は蔑ろにして、虐待やいじめがますます多くなっています。
知らず知らずのあいだに年金の額は減らされ、生活保護の基準額もどんどん減らされています。一方、病院では医療費の削減という名目で、地域ケアの充実などという曖昧な言葉を使って重症患者を放り出しています。施設では相変わらず暴力事件が絶えません。
 大フォーラムでは10月5日に厚生省交渉をおこないました。テーマは、難病者の補償問題と、地域のヘルパー不足の問題にしぼっておこないました。なんの具体的な方策なども出ていませんでした。厚生省交渉は年に3回ほど企画しています。
地域ではヘルパー不足が深刻化しています。このままの状態では、重度障害者の地域生活ができなくなると思います。国が示している地域包括ケアシステム、『我が事、丸ごと』は、ぜんぜん当事者の問題を無視しているどころか、安上がり福祉を強制しようとしています。
 個人的な想いとしては、国会の前で無期限の座り込みをおこない、国の責任を追及していきていと思っています。『もう、これ以上、障害者いじめをやめろ』ということをスローガンにしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。」(ここまで介助者代読)
「最後にですね、優生思想の名の下で強制不妊手術がやっと仙台・東京で裁判をおこしています。今日はその原告の人が発言しますので。皆さん、ほんとに国はひどいことやっていますので、国には注意していきましょう。よろしくお願いしまーす。」(横山さんの声)


>TOP

■言及

◆立岩 真也 2018/06/01 「連載・146」,『現代思想』46-(2018-06):-

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


*作成:小井戸 恵子小川 浩史
UP: 20190718 REV: 20200307, 0308
(NPO)自立生活センターHANDS世田谷 脳性麻痺/脳性マヒ/脳性まひ(Cerebral Palsy)  ◇小井戸 恵子  ◇WHO
TOP HOME (http://www.arsvi.com)