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『こんな夜更けにバナナかよ』

医療と社会ブックガイド・27)

立岩 真也 2003/05/25 『看護教育』44-05(2003-05):388-389
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 予定を変更して、今回は1冊だけ、数日前に着いた本を紹介する。
 1959年に札幌に生まれて2002年に亡くなった鹿野靖明という人がいた。筋ジストロフィーの人だった。1983年に施設を出てアパートで一人暮らしを始めた。その後幾度か入退院を繰り返し、1995年には人工呼吸器をつけるのだが、結婚して離婚するまで2人で、後はずっと1人で暮らした。24時間の介助・介護でその生活を支えたのが大学生等のボランティア、有償の介助者たちだった。
 この本は鹿野とその周りの人たちを2年余り取材して書かれた460頁を超す本だが、すぐに最後まで読んでしまう。インタビュー、そして鹿野の入院の時に始まりその死によって終わった95冊の「介助ノート」の文章からの引用を重ね、著者の一人称の文章がさらに重ねられていく。私たちも第25回(本年2月号)で紹介した『生の技法』(安積純子他、藤原書店)で「自立生活」のことを書いたが、介助と介助者の世界の記述はかなり切り詰められていた。これだけの分量、広がり・厚みで書かれたのはこの本がまったく最初だ。
 筆者は1968年生まれの札幌在住のフリーライター。介助者には年上の人も年下の人もいる。1959年生まれの鹿野は約10歳上。この人たちはいったい何を考えているのか、鹿野の生活はどのように成り立ち、そこに何が起こっているのか、筆者はその世界に入いり、混乱しながら考える。
 鹿野ほど強力に扱いにくい人の、ではないにせよ、介助者だけの介助によって生きていく人の介助をしたことのある人にとっては、これは知らない世界ではない。実感、共感をもって読むだろう。そして知らない人にとっても、入れ替わり立ち替わりまずは相互に無関係な人が、そして本人とも無関係だった人がやってくる世界はたしかに不思議でもあるが、しかしみな知らないことではないように思えてくる。
 書かれているのは巨大な――ここまでのはさすがに少ない――葛藤である。世の中にはもっと「できた人」もいるが、鹿野は不安定で饒舌な人で、人工呼吸器をつけてからもしゃべり続けた。不眠症で「不安神経症」で、眠ったらこのまま死んでしまうと恐れ、導眠剤の「最強」(4:以下数字は頁数)のを飲んで夜中をとおに過ぎてようやく浅い眠りにつくという人でもあった。そしてその後も介助者は体位交換もあり安心して眠れるわけではない。しかし、にもかかわらず、そして時に、だから、その生活はなんとか続いた。
 「有名人」になりたい鹿野――有名になれば介助者も集まる――は、本が出来るのを待ち望んでいたのだが、このままで出すことを許可したかどうか。ほぼできあがった頃、彼は亡くなってしまったのだ。意外に、苦笑いしつつ、受け入れたかもしれないが、「あの人は、結局、自分のいいようにしか話さない人ですからね」(366)「私のことはいいですから、できれば鹿野さんのイイように書いてあげてください」(390)といった部分もあるこの本が出るまでには、少なくとも一悶着はあっただろう。鹿野は、例えば次のようにボランティアや筆者に描かれる。
 「虚勢の人」(7)「別にフツウの人」(103)「たまに勘違いして『オレはカリスマだ』みたいなこと言ったりするんですよ」(103)「いつも自分がタイヘンタイヘンって言ってる人」(113)「エロおやじ」(113)「緊張する人」(141)「うごめく自意識や欲望を持て余している人」(141)「まじめ一直線。甘えん坊だが、意外にシンが強い」(185)「生きるのにどん欲」(388)「『あれしろ、これしろ』のシカノさん」(301)「シカノさんの魅力は、弱い部分がどてもわかりやすいこと」(301)「寅さん」(302)「障害を抜きにするとシカノさんのキャラクターもなくなっちゃうんから難しいんですよね。」(303)「極端な言い方をすれば、鹿野の人格それ自体が、筋ジスと一体化してしまっているところがある。」(303)「自我のカタマリ」(395)
 筆者は、少し離れたところから、しかしそう離れることもできず、自分に問いを戻し、行ったり来たりしながら、鹿野本人は書かないし、彼を介助する人も書けない――調べて書くことはその人たちの仕事ではないのだ――ことを書いていく。
 介助の「意味」はどこにあるのか。「私って意外と優しい人間なのか?とか思うのさ」(115)「たまたまボランティア」(119)「生きる意味がほしい」(116)「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」(120)。「私探し」系もいるし、「理由はないですよ、気持ちですよ」(136)という「ケロッとした明るいノリのボランティア」(127)もいる。「ただの惰性」(103)「ホントはボランティアなんて、みんな半分以上はイヤイヤやってるんじゃないですか」(400)「結局ね、それはもうシカノさんに情が移ってたからじゃないかな」(400)「つべこべ言わずに、やんなきゃしょうがねえ、そう思っちゃったんですよね」(401)「あまり人の性格の奥というか、深みというか、そこのところを考えていくと、まったくわからないので、やめて、もっと現実の表面に出ている部分を見ればいいんじゃないでしょうか。」(392)「深夜の鹿野は、普段より少し素直な口調になって、本当にゆずれないことについて話し始める。[…]「一対一」だという気がする」(356)「才木美奈子の介助は、何よりもまず、徹底したリアリズムによって貫かれている」(312)「侮りや子ども扱い、おちょくりなども、ためらうことなく介助に同居している」(312)
 ここで抜けたらこの人はどうなる、という杞憂と言えない予想がある。自分にもいろいろとしなければならないことはあり、そんな義理はないのだが、比べれば自分の方が楽しているかもと思う。それにしてもこの人には問題ありすぎ、と思うのだが、しかしそれも無理のないことかもしれないと思う。不眠症も不安神経症も、暗くて規則づくめで筋ジストロフィーの子どもだけが集められ、多くの死がすぐ近くにありながら、それはけっして口に出されることがないという中で12歳から15歳までを過ごしたからだと言われるとそれはそうかもしれないと思う。ICUに入ると死ぬと言って拒んだのもそこに入った友人たちがみな死んでいった経験から来たと言う(245)。そうかと思う。しかしなかにはそんなことと関係ない理不尽としかと思えない感情の爆発もある。しかし…。ぐるぐる考えて、あるいはそんなことを考えることをやめて、続く人は続く。そんな部分もあるし、たまたまか、のほほんといける場合もある。
 きりがないからいったんはここまで。この本の紹介を次回も続ける。以下は鹿野の生活にとっても切実であり続けた一つのことについて。
◇◇◇
 この時期にこの本をとりあげることに「政治的」な意図はないが、意味はある。つまり、ご存知のように、痰の吸引等の「医療行為」とされるものを「介護」をする人にも認めさせてもらいたいという動きがずっとあり、昨年もその運動がALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たち等によって活発に行なわれ、その解決が今年に持ち越されている。そして、これに、唯一と言ってよいかもしれない、反対しているのが看護職の人たちである。個別の人たちは違うかもしれない。しかし厚生労働省の委員会に「代表」として出ている人たちは反対している。先日も看護の世界で大変高名な方と2、3分話をする機会があったのだが、吸引がいかに危険な仕事であるか(ゆえに看護職がやるしかない)という相変わらずのお話だった。看護の側は訪問看護を増やすことで対応すべきだと言う。他方の側は、基本的にそれはけっこうなことだが、しかしそれではいつになったら家族に頼らず、あるいはその負担を減らし、在宅で暮らせるのかと言ってきた。加えて私が確認しておくべきだと思うのは、長ければ鹿野のように24時間の介助を必要とし、必要な時に「医療行為」とされる吸引等を要する人の生活に、訪問看護では対応できないということだ。そういう人は病院にあるいは施設にいればよい、とは言わないとしよう。とすると、看護職の人が24時間いればよいということになるか。「「医療的ケア」のできる医師や看護師を、自宅で24時間雇うことなど誰にも不可能である。その結果、家族が死にものぐるいで介助にあたらざるをえない」(43)。この不可能を、本来は、可能とすることによって対応すべきだと言うだろうか。言うとしよう。仮にそれが実現可能だとしよう。するとこんどは、そうして24時間その人の傍にいて介助――もちろんそれは「医療行為」だけでない――する人は看護師の資格を持っている人でなければならないという理由がどこにあるのかが問われる。
 私は「資格職と専門性」という文章(進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想社,1999年に収録)で、仕事をさせる/させないを資格により制限するのは、その仕事を利用する側が直接にその仕事のよしあしを判断し選択できないために不利益を受けてしまうことを防ぐために採用される次善の策であること、同時に、資格は自らの既得権の確保や拡大のために利用されてしまうことがしばしばあることを述べた。前者について、この仕事(を一部に含む介助)のための技術を習得することは必要だがそのために看護の資格が必須だとはどうしても言えない。とすると、後者の利害が絡んでいるのではと、あらぬ疑いをかけられても仕方がない。

[表紙写真を載せた本]

◆渡辺 一史 20030331 『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』,北海道新聞社,463p. 1800

[関連文献]

◆立岩 真也 2003/06/25「『こんな夜更けにバナナかよ』・2」(医療と社会ブックガイド・28),『看護教育』44-06(2003-06):(医学書院)


UP:20030407 REV:0507,0605(誤字訂正)
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