中山善人氏インタビュー
20180926 聞き手:
立岩真也 於:福岡県久留米市・久留米市役所内
◇聞き手:立岩 真也 於:福岡県久留米市・久留米市役所内
◇文字起こし:ココペリ121 20180926 中山善人氏 185分
◇中山 善人(1953〜)
◇青い芝の会
◇病者障害者運動史研究
中山 〔中山さんが書いてる本〕まだ書きかけなんやけど、ほとんどできあがってて。
立岩 これ、どういうふうに(質問?)されるつもりですか?
中山 立岩さんが必要やったらそれを使ってもいいです。
立岩 あ、本当にいいですか。それはすごいありがたいです。ちょっと、今、試してみていいですか?
中山 はい。
立岩 じゃ、事前にそれいただいてっていうのもあったんですけど、そこに書いてないことというか。今日、お話しなさりたいこと何でもと思いますけれども、一つ、この頃気になってるというか...ことを忘れないうちにと思うんですけど、中山さん、53年生まれでいいんでしたっけ。
中山 そうです。
立岩 1953年ですよね。この頃、50年代生まれぐらいの脳性麻痺の人に話聞いたりするんですけれども、子どもの時に親に連れられて脳性麻痺用のリハビリテーションというか治療というか、そういうのに結構行ったんだけどさ、みたいな…、
中山 はい。行ってますよね。
立岩 ええ、実は聞いて。で、今日、これから宮崎行くのも、宮崎の永山さんていう、ご存知ですかね、永山さんていう脳性麻痺の人が、54年生まれかな。で、何年か前に宮崎で話聞いた時に、その時もそういうお話なさってたんです。で、どうなのかなと思って。僕と同じ、僕もちなみに1960年生まれなんですけど、例えばDPIの事務局長やってた、やって…、終わりましたけど、尾上さんとか。
中山 尾上さん、はい。
立岩 うん、彼なんかも結構、施設でそういうことあったんだよねっていう話聞いてて。その辺、中山さん、ご幼少というか、その辺りの記憶というのがありますか。
中山 えーとね、そこに僕、書いてるように、
立岩 あ、書いてる、はい。あ、出てきました。誕生日8月11日なんですね。私、8月16日です。だからどうってことないんですけど(笑)。しし座ですよね(笑)。ちょっと拝見させてもらいます。(女?)兄弟3人末っ子。九大病院。ああ。「頭を手術すれば治るということで祖父が田畑を売り千葉県の病院に行きました」って書いてあります。それで、実は、福岡で全障連の九州ブロックの関係なのかな...の方で私の知り合いの荒井さんていう人が九州で、[00:05:07]
中山 荒井さん。
立岩 うん。荒井裕樹って、青い芝、横田弘のことで本書いてる人なんですけど、彼が、名前何て言ったかな、後で思い出しますけど、福岡で脳性麻痺の人に話聞いたと。したら彼は頭に手術受けたっていうんですよ。でね、それは順天堂大学で、
中山 はい、そうです。順天堂大学。
立岩 中山さんも順天堂って聞いたんですか。
中山 はい。
立岩 順天堂で頭の手術やってるよっていう話をおじいさんが聞いてきた?
中山 いや、自分の母親が。それまで、この近くの、療育施設があったんです。ユーカリ学園ていう施設なんですけど。そこに通院を。
立岩 自宅からそのユーカリ学園ってところに通ってた?
中山 はい。そこで(?)3人、親同士、3人が話をしまして、それで、まだ僕の祖父がいましたもんで、良くなるものだったら田畑売って、手術をしておいでっていうことで、3人、他の2人も行ったんです。
立岩 それは九州から、3人、子どもを連れた、親と子どもが順天堂に行ったんですか。
中山 はい。
立岩 順天堂って、僕が知ってるのは東京の御茶ノ水の辺りに順天堂大学病院ていうのがありますけど、それとは違う場所だった?
中山 そこにまず行ったと思うんです。
立岩 うん。それはいつ、小学校上がる頃ですか。小学校というか小等部というか。
中山 小学校、僕は3年遅れて行きましたから、ちょうど小学校1年生ぐらいだったと。
立岩 中山さんがそのぐらいのお年の時。
中山 はい。
立岩 そうすると九つとか、そのぐらいですかね。
中山 はい。
立岩 その頃行った。それでその、療育園ってそのユーカリっていうところで、そういう話を、職員の方とかから聞いたんですかね。お医者さんですかね。
中山 お医者さんの娘さんも。
立岩 娘さん。
中山 脳性麻痺者で。
立岩 お医者さんの娘さんが脳性麻痺だった。
中山 はい。
立岩 それはその、ユーカリっていうとこのお医者さんですか。
中山 いや。
立岩 そうじゃなくて。
中山 自分でその当時に開業されてたんです。
立岩 その当時、何されてた? 介助?
中山 病院を開かれてたんです。
立岩 あぁ。病院を開かれてたお医者さんがいて、そのお医者さんの娘さんが脳性麻痺だった。
中山 はい。
[00:10:54]
立岩 それはその、3人のうちの1人ってことじゃないんですか。
中山 3人のうちの1人。
立岩 ああ、そうかそうか。じゃ、その3人のうちの1人の娘さんの親が医者で。
中山 はい。
立岩 で、その人が、何かそういうこと聞いたんですかね。
中山 その人が聞いたんじゃないかなと。
立岩 うんうん。まあ、子どもだからね、分かんないっすよね、そういう、親が聞いてくる話だからね。
中山 うん。分かんない。
立岩 そんな具体的なことは分からないと思いますけど。それで、親が言った話でも何でもいいんですけども、その当時、何を、まぁ脳をってことだったんでしょうけど、何をするっていうふうに中山さんは理解というか聞いてたんですか。
中山 頭を開けて、何かを入れ、頭の中身いじくったら、良くなるよっていう話を聞いたことありますね。
立岩 頭っていうとほらロボトミーとかさ、そういうこう、脳の切除手術みたいなのもあるじゃないですか。それかよって思ったんですけど、どうもね、何か電極を差し込んで何かやるっていうことだったみたいですね。
中山 はいはい、そうです。それで3人の中の1人は手術を受けて。
立岩 あ、受けたんだ。
中山 はい。
立岩 それは、中山さんがいるでしょ、それからお医者さんの娘さんの人でしょ、もう1人の人ってことですか。
中山 はい。
立岩 ああ。男性? 女性?
中山 男性。
立岩 年としては似たような?
中山 3歳違うかな、3歳か4歳下。
立岩 例えば、5、6歳とかそんな感じですかね、その当時でいうと。
中山 はい。
立岩 5、6歳の男の子の、その子は手術を実際にした?
中山 はい。それで、僕は学習能力があるから、手術したら学習能力が落ちるかもしれないっていうことで。実際に手術した人は学習能力が落ち…。
立岩 ああ。やったところが、やったらそうなった人がいたっていうことですか。
中山 はい。
立岩 学習能力っていうか、知的能力っていうか、そういうのが。
中山 はい。
立岩 ああ。で、その3つ下ぐらいの男の子っていうのは、その手術して、どうなったんですか。
中山 今も、ずーっと施設に入ってます。
立岩 その子は、その手術は成功したというかうまくいったんですかね。
中山 いや。説明の時に、失敗するかわからないというふうに言われたんです。[00:15:08]
立岩 失敗するかもしれない、失敗するかもわからないっていうことを、順天堂の医者が言ったってことですか。
中山 はい。だから自分の親も、そんなことだったらやめて、リハビリをして帰るっていう、
立岩 やめて帰る?
中山 リハビリをして。
立岩 リハビリをして帰る。ああ。その子は、でもまあ受けて。そもそもその手術っていうのは、何がどう良くなるっていう触れ込みというか、ことだったんですかね。
中山 多分、麻痺が取れるとかっていう話じゃなかったんじゃないかなと思うんです。そこら辺はですね、久留米大学病院のリハビリ科の、志波直人(しば・なおと)っていう先生がおられるんです。
※https://www.kurume-u.ac.jp/site/branding/20190610.html
立岩 しばなおとさんっていう人が知ってる?
中山 多分知ってると。
立岩 その人はまだ久留米大病院に勤めてらっしゃる?
中山 はい。
立岩 じゃ、割りともう、ご高齢というか。
中山 60になるかならないかじゃ、
立岩 ああ。じゃその時の現役の医師っていうわけではないんですか。
中山 じゃない。
立岩 ああ。でもその、そういう経緯というか...をご存知の、
中山 いちリハビリ施設の先生だからですね、整形外科の中にリハビリ受けるとこある、大学病院の中にある。
立岩 うんうん。病院の中にリハビリの部門というか、
中山 はい。
立岩 があると。
中山 はい。そこにおられるんです。
立岩 なるほど。で、ちょっと知ってるかな、っていう?
中山 はい。
立岩 じゃ、ちょっと調べてみて、もしかしたらそちらの方にもと思います。なるほどね。いや、本当つい最近まで全然知らない話で、数カ月前まで。ちょっとびっくりもしたんですけども。まぁそれで一人…。結局、麻痺っていうか、不随とか硬直だとか、そういうのが緩むというか良くなるっていうそういう触れ込みなんですよね。
中山 はい。
立岩 で、その子はどうなったんですか。
中山 いやー、今…、言葉は言えるけども、車椅子にやっと乗ってるっていう感じ。
立岩 それは、中山さんが子どもの小さい時だし、覚えてるかどうかもだと思うけど、前後で、何か良くなったとか逆に悪くなったとかっていうような事あったんですかね。
中山 茨城の土浦に全国青い芝の役員だった、折本、
立岩 はいはい、折本さん。女性の方ですよね。
中山 はい。その方が受けたっていう話は聞きました。[00:20:01]
立岩 あ、その人も受けた。へえ。じゃあ、まあまあ、その…。いつの間にか廃れたんですかね。
中山 うーん。やっぱり成功してない。
立岩 うん、成功してない。ふーん。まあ、それ以上はやっぱり本当、子供の頃だし親はある程度聞いてたかもしんないけどね。中山さん自身がご存知ってことはないと思いますけど、もし可能であれば、私にしても、私の仲間というか、ちょっと少し調べてみようかなと思います。で、外科のほうの手術のほうはそんなんで、そういう話聞いて。3人連れ添って行ったんですか、一緒に。
中山 はい。
立岩 3人ていうか、3家族連れみたいな感じで。
中山 はいはい。
立岩 その当時、順天堂ってさっき言った御茶ノ水にあるけれども、そのリハ…、それの脳手術自体はちょっと別の場所でやってたってことですか。
中山 僕ら3人は千葉の病院に行ったけど。確か、山下清さん、そこにおられたっていうこと、
立岩 山下清。
中山 はい、画家の。
立岩 はいはい。え、山下清がいたんですか、そこに。
中山 はい。
立岩 その、施設というか、に、山下清が一時いたことがあるって聞いた。
中山 はい。
立岩 へえ。これ本当、調べたら分かるかもしれないですね。
中山 調べたら分かると思います。
立岩 うんうん。でそう行って、説明聞いてやった人は一人いるけれどもっていう、そういう話ですよね。
中山 はい。
立岩 へえ。で…。あ、すみません。あの、で、そのまあ、外科のほうはまた、ちょっと調べてまたお問合せするかもしれません。それはそれとして、ある種の理学療法的なというか、リハビリっていうのは久留米っていうか、その当時は久留米市だったんですか。
中山 そうですね。
立岩 久留米、でもさっき言った、千葉に行って外科手術はやんないけどリハビリやって戻ってきたと仰いませんでしたっけ。
中山 はい。
立岩 わりと長いこといた?
中山 いや、1、2カ月ぐらいしか。
立岩 ああ、でも1、2カ月はいたわけだ。
中山 はい。
立岩 じゃ、そこどっか借りて、親たちがとか、家借りたりして?
中山 はい。
立岩 ああ。ちなみにその、おじいさん、田畑売ってっつったけど、お金はいっぱいかかるよってことも言われてたんですかね。
中山 はい。
立岩 ていうことは何だろう、保険診療じゃなかったってことですね。
中山 多分ですね。
立岩 自由診療的なものだったんですかね。
中山 その当時は(?)、
立岩 うん。
中山 (給付?)無かったんじゃないですかね。
立岩 お金がかかるっていう話は聞いてたから、おじいさん、家の田畑売ってもやろうかなって一時はお思いになったと。で、まあ、手術はしなかったけど、千葉で、そこ行ってやってたリハビリっていうのは、どんなもんだったんですか?
中山 起立。ここまで着けて、起立する、
立岩 起立する? 何、こう、補装具的な物を足に着けるやつですか?
中山 はい。
[00:24:59]
立岩 ああいうのを着けて、それで自分で立てるようになる訓練みたいなものですか。
中山 はい。それを買って、持って帰ってきました。
立岩 ああ、その補装具を買って持ってきた。それあれですか、ここにこうなって、こういうような。よくあるっていうか。
中山 はい。
立岩 それは実際、どう…どうだったっていうかね、まあ、あれがその、使えるっていうか役に立つ人もいるじゃないですか、その、脳卒中とかね。あれで訓練すれば機能回復っていう。でも僕が知ってる限り脳性麻痺でそれは無いよっていう気はする。
中山 それはないと思います。
立岩 うーん。何かそれで、一時的にでもできるようになったような気がしたっていうことはあったんですか。
中山 そうですね。
立岩 それはあった?
中山 うーん、あんまり無かったと思います。
立岩 うーん。それは例えば、ドーマン法とかねドイッタ法とかボバース法とか何か、僕も区別はよく分からんのですが、そういうのが流行った、今でもやってる人はやってるみたいですけどね。その当時、これはなんとか法だっていうようなことで、その、名前というかそんなの聞いた記憶はございますか。
中山 ドーマン法っていうのを聞いたことありますね。
立岩 それは千葉なり久留米なりでやったと、自分がやったやつがこれはドーマン法だよとかそんなこと誰か言ってたっていうようなことですか。
中山 はい。
立岩 そうなんですか。
中山 はい。
立岩 じゃあ、一般的に言葉を聞いたやつじゃなくて、自分がやってたのがそうだよっていうふうに、
中山 いや。
立岩 そうではない?
中山 そんなリハビリがあるよっていう。それで、小学校を卒業する時かな、まだ九大の教育学部の中に心理療育、
立岩 心理療育。こころの心理の、療育なんですか。
中山 はい。そこの教授が、成瀬悟策(なるせ・ごさく)。
立岩 成瀬悟策さんていう九大の心理療育? そういう教授がおったと。
中山 はい。そこに、また、月に何回か行って。
立岩 それはお母さんならお母さんと一緒にっていうことですか。
中山 はい。それで体を動かすリハビリをやって。やすらぎ荘ってありますよね。[00:30:05]
立岩 やすらぎ荘。
中山 はい、この近くにね。筑前市。
立岩 筑前市の、やすらぎ荘ですか。
中山 そこで学生を使ってリハビリを、夏休み1週間とか、
立岩 1週間とか。
中山 やってたから、何回か行きました。
立岩 その、久留米のユーカリでしたっけ、っていうところでやってたリハビリと、1カ月か2カ月か千葉でやったのと、それから九大のそこで、それはこう、やったことっていうのは結構違うんですか、似たようなことだったんですか。
中山 似たような。
立岩 ああ、やっぱこう、運動機能を上げようみたいな。
中山 はい。
立岩 やっぱ九大の時も、補装具とかそういうの着けてやったんですか。
中山 いや、そうじゃなくて、吐く息とか。
立岩 吐く息をどうするんですか。
中山 吐いたら力が抜けるでしょ。それを利用して。
立岩 ああ。体の緊張をほぐそう的な?
中山 はい、はい。
立岩 ああ。それは何回か行ったけど、っていう感じなんですか。
中山 はい。
立岩 母親と一緒に。それは1回行くとその日のうちに帰れるようなものなんですか。
中山 いや、泊まり込み。
立岩 1泊2日とか?
中山 いや、1週間。
立岩 あ、それがさっきの1週間ってことか。いっぺん行くと、九大の先生が学生使ったりしてやってる、それは筑前市の施設の場所でいっぺん行くと1週間ぐらい続けてやる。
中山 今も、
立岩 今もやってる。
中山 教育大で。
立岩 はいはい。
中山 福岡、
立岩 福岡教育大学ですか。
中山 教育大学で。そこの先生がやってるみたいです。
立岩 ああ。同じようなことをやってる?
中山 はい。
立岩 へえ。福岡教育大って、実はうちの大学院生だった人〔韓星民〕が、彼は弱視なんですけどね、聴覚障害の教育っていうことで今行ってるんで、彼に聞いたら知ってるかもしれない。へえ、そうですか。
中山 名前が何やったかな、あの先生の名前。ちょっと、ちょっと忘れた。
立岩 それはその九大の、成瀬さんっていう人とは違うわけですか。
中山 違います。
立岩 ああ。で、行ったけど顕著なというか効果があったわけではないので結局それっきりっていう、そういうことですか。
中山 いや、親がそれを持って帰ってきて、
立岩 それって、どれ?
中山 リハビリを習ってきて。
立岩 ああ、そうか。やり方を、そこで教わってきて、自宅でもできるっていう。なるほど。
中山 それ、そこにちょこっとだけ書いてます。
立岩 ああ、それも書いてある。読みます。で、それでその、親がやり方教わってきて、で、しばらくというか、やった。あ、本当だ、ふーん。「庭で厳しくリハビリをさせていました。3輪車をこぐことなど、座ることができない僕に座るように木の机や椅子を作り座らせていました」。やっぱり体的な。[00:35:05]
中山 はい。
立岩 庭で、って、具体的にはお母さん、何をなさるんですか。
中山 そこに写真がある。その中に。
立岩 この中に。それ見ると分かる?
中山 はい。
立岩 ああ。
中山 歩行器を使ったり。
立岩 歩行器って、こういう丸いやつにこう、中に入って、こうやってやって、機械に車が付いてみたいな? ああいうやつですか。
中山 はい。
立岩 ああ。丸い中に入るやつ?
中山 はい。
立岩 ああ、はいはい。
中山 それとか、子どもの3輪車がありますよね。3輪車に靴を…、ベダルが、
立岩 ペダルありますよね。ペダルに、靴をくっつけるんですか。
中山 靴をくっつけて。
立岩 そこん中に足入れて。
中山 はい。
立岩 ああ。で、こう、自分で動かせて。
中山 はい。
立岩 それ、そういうの、まあ結構、お母さん熱心になさってたと思うんですけど、自分的にはどうでした?
中山 嫌やった。
立岩 それ、毎日のように、そういう庭出て、そういう…。
中山 はい。
立岩 嫌だった。まあさっきの話ですとそれで何か特に機能が改善されるということでもなかったんですかね。
中山 段々大人になってきたらやっぱり、障害が重くなってくるからね。だから、今、自分で座ることも食べることもできなくて、全介助になってしまったっていう。それはそれで介助してもらうこと自体、そこに人間関係を作っていけてるから、それはそれでいいと思ってるんです。
立岩 うんうん。その、リハビリっていうのは、どっかで、もういいやっていうか、終わりになったんですかね。いつの頃からか。
中山 ちょっと待って。
立岩 はいはい。
中山 いしださん。
立岩 何か、呼ばれてるんじゃないですか。
女性 あ、いしださん。
中山 いしださん。
いしだ氏? こんにちは(笑)。お疲れ様です。ちょっとお邪魔します。
中山 よろしくお願いします。
いしだ氏? 分かりました、お電話いただいた(件?)。はい。で、山田さんから昨日お電話あって、少し元気そうでした、声が。少し、今までよりも。通院に変えたそうなんですよ。だからちょっと声がよかったです。はい、また。
中山 はい、また。
女性 すみません、この間、新聞見ました(笑)。
中山 はい。
立岩 ああ、なるほど。うーん、中学校、そうか。「中学校は家族からもう少しリハビリをするようにと言われたので家から離れた県立新光園」ですか?
中山 はい。
立岩 「施設に入所しました」と。これ、中学校は、家族から「もう少しリハビリをするように」って、もう少しリハビリをさせたいって家族が言ったってことですかね。
中山 そうです。[00:39:59]
立岩 ああ。家族が言ったんで、
中山 あるけども、中学校がちょっと遠かった。
立岩 学校行きたくなって学校行きたいっつった。2年遅れで小学校入った。自転車の後ろに乗って通学していた。ふん、ふん。お母さん、車の免許取って学校行くようになって。で、小学校が終わって中学校行きたかったけど、そうか、遠くなるっていうこともあって、無理だっていうことで、体のほうを治させようと、
中山 はい。
立岩 そういうことで、なるほど。それで、県立新光園っていうところに入所した。なるほど。あとでちゃんと読みますけど。じゃ、結構長くリハビリの、だって小学校上がる前から始めてたっていう、で、もう中学生ですから。2年遅れぐらいだからもう14、5、ですよね。で、それから中学校、中学校は3年?
中山 はい。
立岩 その期間ずっと体のほうは、まだやってた? それも、どう、その時は何をしたっていうか、させられ、訓練ていうのは。
中山 中学校時代ですか。
立岩 うん。その、体的なね、いわゆるリハとか療法とかいったものをいつ頃までなさってたのかなっていうこと、ちょっと気になる。
中山 今も週に2回通院して。
立岩 通院して。
中山 一時(いっとき)体をほぐして。よくなることはないけれど、やっぱり障害をずっとなるべく、(?)させようと思って行ってるけども、最近は年をとったから、やっぱりあんまり効果無いみたいな感じがして。でも、できる限りは自分で動いたりこうやってしゃべったりできることとかに、(?)。
立岩 結構、お知り合いが多いみたいですね。まあ、それは分かるっていうか、やっぱ体が緊張とか、こう何かなった時にほぐすって、それは別に脳性麻痺じゃなくても必要な時っていうか効果が、気持ちがいい時とかあるじゃないですか。それはその通りだと思うんですけど、やっぱ子どもの時って、よくしようと親もそう思うだろうし、そういう感じで始めるじゃないですか。そういうこう、何か改善して良くしようみたいなのと、そういうのはあるところまでで何かあきらめるっていうかこう段々終わりになるっていうかそういうことではなかったんですかね。[00:45:19]
中山 そうですね。こっち、久留米来て、
立岩 久留米、来て。
中山 自立生活始めて、人との関係が、大切な(?)、
立岩 最優先。
中山 青い芝が言ってる、
立岩 青い芝が、はい。
中山 あるがままの姿で生きて生活していくっていうところで、僕は、それでやってきたんです。それで、1回やれるようになれてたんです。でも40ちょっと過ぎになって、やっぱ体が、(?)になったから。
立岩 ああ。それは特に二次障害的なということでもなくて、
中山 はい。
立岩 ですかね。やっぱり、体、年もとって、体ちょっときつくなってっていう。で、その、やわらげるっていうかほぐすっていうか、再開みたいな、ってことですよね。
中山 あの、さっき久留米大学の、志波先生、
立岩 それはさっき、名前出した先生、はいはい。
中山 すごく優しい人で、世間話をしながら。
立岩 その人は理学療法の人ですか。
中山 医者です。
立岩 ああ、リハ医ってやつか。
中山 はい。
立岩 リハビリテーション医という、へえ、なるほど、分かりました。今ちょっと見てるんですけど、今日は多分、人生全部語ったらえらいことになると思うので、あと読ませてもらって。今、僕だいたいこれ、ちらちら見ながら話して聞いてるんですけど、詩人だったっていうの全然知らなかったですね。横田弘さんが詩人で、やっぱあの人は本当に学校どこにも行かなかったんですけど、しののめ会行って、入って、詩をずっと書いてたっていうのは、それは知ってたんですけど。そうか、へえ、中山さんも、詩書いてたんだなとか思ったんですよ。
中山 でも、やっぱ自分の中だけずっと(?)、たまってしまうから、そこで止めました。[00:49:20]
立岩 それは止めたの? ふーん。あの、何かね、横田さんは生涯の怖い先生みたいのがずっといたらしくて、それに叱られながらずっと書いてたみたいですね。で、今日はだから多分、治すっていうかリハビリの話は、これからちょっといろんな人に聞いて回って。で、僕は物書くかどうか分かんないですけど、まあ誰か書いてもらおうと思ってるんですけど。それとね、それから、割りと初期の70年代辺りの活動始めた辺りの話とそれから全国青い芝に関係というか代表...会長なさいますよね。あの辺が何だったのかっていう辺りを、まあ後で読んだりしながらなんで重複することもあるかもしれませんけど、その辺をお聞きすればいいのかなと思って。で、やっぱり例えば僕らも時々いろんな、この間も仙台行ってその前は郡山行って、言い訳してまわってるんですけど、僕が90年に本書いた時やっぱり大学院の学生で、まあお金も無かったんで(笑)、まあ東京だと200円ぐらいで行ってインタビューして戻ってこれたんで資料集めたり人の話聞けたんで、やっぱ東京中心になっちゃうんですよね。で、まあプラス関西、でも関西、本当にそういう話あんまりできなくて。でもまあようやく僕も京都住んで15年ぐらいなるんで、この頃京都の人たちと付き合いもあって、まあ関西のこともある程度、っていうのはあるんですけど、やっぱり…。で、今やってるのがね、福島。白石さん、ご存知?
中山 白石さん。はい。
立岩 あ、よく知ってますか。あの人が3つ、4つ、上ですよね。彼は1950年生まれか。
中山 えー…、
立岩 脳性麻痺者列伝みたいな、列伝(笑)っていうかリストみたいなのを作り出したら50人ぐらい、年齢順に並んで...年齢順っていうか生年順に並んでて。自分でも何やってるかよく分かんないんですけど。白石さんは、やっぱ50年ですね。白石さんも橋本さんも福島。
中山 はいはい。
立岩 50年。だから、そうか3つぐらい上ってこと。
中山 そう。
立岩 それで、福島もこの間(かん)、震災もあったし色々あったじゃないですか。それで、まあ長いことやってるんで、白石さん、橋本さん辺りに話聞いて。それは僕よりも若い連中が結構調べてくれてて。でうまく行けば来年ぐらい本出そうと思ってるんだけど。で、福岡のこともちょっと分かってきた、分かってきたっていうか分かるんですよ。九州ってなかなか気合入れないと来れない(笑)ってとこあって、やっぱ九州のことまずよく分かんない。で、九州で福岡で青い芝って何よって、どういう感じで入ってきたのかっていうね。それからやっぱり地方にいてっていうか東京から遠いところにいて、で、青い芝、例えば白石さんにしても会長代行やってた頃っていうのは、わざわざ福島から秋田県にオルグに行ってたのが神奈川に来てやってたりしたわけじゃないですか、とかね。そういうことも考えた時に、中山さんが九州でっていうこととかね、あるいはその、まぁ言うたら、白石さん辺りは3つぐらいしか違わないからほぼ同年代に近いと思うんだけど、例えば横田さんなんていうのはもう年も違うしね。そういう人と比べれば、今はベテランだろうけれども、当時からいったらまだ若手っていうか、じゃないですか。その時の感じっていうんですかね、そういう人たちとの付き合いとか。その辺りの話をお聞きできればなっていうぐらいのことなんですよ。(しばらくの間、会話なし) でも、結構、53年、4年、生まれぐらいだと、今、世田谷にいる横山さんて、
中山 はいはい。
立岩 知ってま…、知って?
中山 はい。[00:54:36]
立岩 大体、あの世代からとか。で、今うちの大学院生で横山さんにインタビューしてるのがいます。で、何か書いてるんですけど。あの世代がきっとね、何でこんなことみたいな話って。必ずしも最初が障害者運動っていうわけでもなくて、53年だから物心つく頃って公害の問題があったりとか、ベトナム戦争があったりとか。まあ、そんな事で、横山さん、そういうことに最初に関心を持って、そういう流れで今の…、っていうふうなことをインタビューでは言ってるんですよ。で、中山さんはどんな感じ? そういう社会的な問題みたいなものに関心というか関わりというか、そういうものをお持ち…。
中山 えー、中学校の時に、地元の、
立岩 地元。
中山 同じ年代の学生が施設を訪問してたんです。
立岩 施設を訪問してた。
中山 はい、サークルで。
立岩 同じ年代っていうのは、例えば中学生?
中山 いや。だって、3年遅れてるから。
立岩 ああ、そうかそうか。年は同じぐらいだけど、例えば高校生とか? サークルって、大学のサークルも?
中山 高校じゃなくて大学。九州大学とか西南大学とかありますよね。
立岩 西南学院ね、はい。
中山 あそこで、サークルで、(?)。
立岩 ああ。
中山 その時に、(?)話があって、その人たちが学生運動とか、ちょっとだけやってたり。
立岩 はいはい。
中山 はい。
立岩 うん。やっぱりあの、お年になってからだと平井誠一さんて、
中山 はい。
立岩 全障連、やってた人も、彼も53年じゃないかな。多いんだよね。52、3年生まれっていうの。
中山 はい。
立岩 で、その人に金沢で話聞いたんだけど、やっぱり金沢大とかで学生運動やった人たちとの関わりみたいなものがあったりっていうようなことは仰って。
中山 それで施設出て、何にもすることが無かったから、
立岩 それは何年ぐらい、あるいは何歳ぐらいってことですか。
中山 19歳です、(?)、26まで。
立岩 26というと26…、79。73、79とか、その辺ですかね。
中山 それで、その間が、在宅障害者だったんです。
立岩 在宅障害者やってた時に、特に何するっていうこと…すること無いと。で、同年、73年、79、まああれですよね学生運動が段々盛り下がってはきたけれどもまだやってたっていう、
中山 (京大?)とかが(?)。
立岩 そうですよね。
中山 ちょこちょこ、まだ、(?)から。
立岩 うんうん。
[01:00:02]
中山 それで、僕が町に、障害者も町へ出ようということで、
立岩 はいはい。
中山 僕の中学校時代の仲間、障害者、仲間がいたから、それで町へ出ようっていうことで、あなたも出ないかっていうことで誘って、それで、学生が自動車とか持たないから、バスとか電車に乗らなきゃいかんやったから、そこで乗車拒否があったり、車椅子に対して。で、自分の相手が、(?)って言われて、
立岩 うん。
中山 駅でも交渉したんです。
立岩 うんうんうん。
中山 でも、交渉するけども、介護に入ってる学生ばっかりに話を持っていったりするから、それは違うんじゃないのと。
立岩 ああ、ああ。
中山 何で、障害者の(ほか?)は見なくて、見ないのかという。こっちだと、こっちが乗れないんだなぁということだから、当事者抜きじゃないかというような話で。それは神奈川青い芝が川崎バス闘争やったけど、でもその前から福岡ではずっと抗議活動やってたっていうこととかあって。
立岩 ああ、じゃ、川崎バス闘争より前に福岡で、俺たちはそういうことあったっていう、そういうことだよね。
中山 はいはい。
立岩 で、中山さん的なこう歴史観ていうか振り返って言うと、70年代のまあ前半ですよね。その頃、学生は学生で施設訪問みたいのをやってた。その、割りとそっち側からやってきてそれに自分たちが同調というか、ていうのと、そういうのとは関係無く、ちょっと音を切って、自分たちが、こう…、まあどっちが先みたいの分かんないかもしれないんですけど、中山さん的な意識の中では自分たちが仲間集めてやってたっていう、そういう気分、気分ていうか、そっちは強いですか?[01:05:29]
中山 学生のアパートを転々として泊まってたんです。
立岩 学生のアパートに泊まってた。それは何、中山さんが泊まってた?
中山 はい。
立岩 学生がこっち来たっていうよりは、中山さんがそっち行って、大学生のアパートとかに?
中山 そう。はい。1回家から出たら、3、4日帰らんで、お金が無くなった時に家に帰りよった(笑)。
立岩 家を出て、金が無くなったら学生のところに泊まるみたいな、そういう話ですか。
立岩 外に出て、金無くなるまで外にいて。で、金無くなったら家帰って、で、金また持って。で、その泊まる先が学生のアパートとかだった、そういうことですか。
中山 はい、そういう。だってあの当時、ウイスキー持って行ったら、ただで泊めてくれたりしよったからです。
立岩 ああ。ウイスキー、酒、酒持っていくと、それだったらみたいな。
中山 うん。
立岩 でもさ、っていうか70年代でしょ。私もまあぎりぎり70年代、79年入学なんですけど、学生のアパートったって、僕は最初4畳半だったし、そのあと6畳だった。4畳半とか6畳とか、2人泊まるんですか。
中山 そう。で、社会の話とか。
立岩 ああ、ああ。
中山 で、音楽、ビートルズとかね。そんな曲を初めて聞く。学生が聞かせてくれて。それが楽しみだった。それで、その当時Gパンが欲しかったから、Gパン買ったりして。学生がGパンはいてるから、自分もはきたいなと思って買ったものの、母親に「何でこんなに(古い?)、こんなんはきにくいやん」て言われて。
立岩 ああ。あれだよね、この辺が結構しまってて、ベルボトムでしょ。裾がちょっと広がってるやつでしょ。あの頃流行ったやつって。
中山 はい。
立岩 確かに、はきにくいっちゃあ、はきにくいですよね。
中山 でもね、いつもジャージみたいなやつ、寝間着みたいなやつを着せられて、福岡まで行ったり来たりしよったから。[01:10:33]
立岩 ああ、ああ。まあ多いよね、いわゆるジャージっていうかさ。
中山 そう。
立岩 ああ。まあ、そうですよね。格好が気になりだすと、あれ嫌ですよね。
中山 嫌です。
立岩 で、ジーンズ、学生、はいてたからジーンズみたいな。
中山 はい。
立岩 あ、じゃ、結構、時間もあったし金も無かったしみたいなのも含めて、福岡辺りの学生さんたちとは仲良くし、というか。
中山 はい。
立岩 して、音楽の話したり社会の話したりなんかっていう、そんな付き合いっていうか。
中山 それで、その人たちがまた自分の友だちに介護してみらんかって言って、大学まで連れて行って。友だちを紹介して、そのまんま新しい介護者に介護任せて、大学の授業に出たりしてたんです。
立岩 ああ。例えば金沢大って、まあ平井さんに聞いた時にね、金沢大なんかだと、障害者問題研究会的なものがあって、数は少ないけどそこの学生たちとそういうところで活動したりとか付き合いがあった。それは、中山さんが70年代の半ばぐらいに付き合ってた学生たちっていうのは、いわゆる障害者運動に加担ていうか、そういうものに加わってたような人たちなんですか。
中山 福岡やから部落解放運動が盛んで、解放研、
立岩 部落解放、解放研ですね。
中山 はい。その人たちがたくさんいたんで。そんな感じで。
立岩 そうですね。割りと、うん、関西、もっとそういうとこ強いでしょうし、関東でも部落研と障害者問…研究会とか、あとは在日、
中山 在日、はい。
立岩 うん。その辺が結構つるんでるっていうか、3つとも関わってるみたいな学生って、まあ当時いましたよね。
中山 それと米軍の飛行機が九大に落ちて、
立岩 はいはい。ありましたね。
中山 それから、また反戦運動があって、その人たちもいて、ていうようなことで。
立岩 ああ、そうか、その時期ですね。学生は学生でそういう感じで割りと学生運動というか社会運動とかやってる。で、中山さんもそういうのに関わって。
[01:15:08]
中山 それで、青い芝の運動に出会ったのは福岡で「さようならCP」の上映会があったんです。
立岩 ああ。多いんですね、「CP」で知ったっていうのは。その上映会っていうのは誰がやった上映会だか分かりますか。
中山 学生。
立岩 九大の学生ですか。
中山 はい。
立岩 何年に…、まあ、あとで文章、拝見しますけど。
中山 だからですね、この話をしてきたのはね、福岡の小児科の医者で、岡本茂樹、っていう。その当時、九大医学部の学生で、それでその当時、(大腿恥骨筋肉痛?)っていう、
立岩 はいはい、ありましたね。
中山 事件があったですよね。
立岩 はいはい、ありました。
中山 あのことをですね、取り上げて、大分の松本文六(まつもとぶんろく)、天心堂病院の理事長の、松本文六という人がいるんです。
立岩 松本文六、知ってます。知ってますっていうか会ったことはないですけれども、僕は5年ぐらい前に精神病院のっていうか精神医療の本書いた時に色々書いてる人っていうこともあって、それからその時の本も出てますので、ちょっと知ってます。
中山 そうやって。
立岩 ああ、じゃあ九大の、まあ言ったら、医学部って、あの頃割りとそういう運動やってる人っていましたよね。青医連とかそういうので。
中山 それとかね、佐賀のバスジャック事件がありましたよね。その青年の主治医の村上、下の名前が分かんない。
立岩 ああ。佐賀のバスジャック事件があった時に、その少年というか青年を支援した、佐賀の、佐賀の人なんですかね、その人は。
中山 今、どこか行った。
立岩 ああ。まあ、九州の人では。その時は福岡とかですか。そうではない?
中山 九大の学生です。
立岩 九大の学生ね。あ、そうか。福岡も、九州も色々あったっちゃあったんだ。で、まあそういう医学部系の運動やってたような人たちが九大で上映会やったんですかね。[01:20:05]
中山 多分、九大だったと思います。
立岩 それに、じゃ、学生たちがそういうのをどっかから聞きつけてきて、で上映会。僕、前からちょっと不思議に思ってることがあって、『母よ!殺すな』っていう横塚さんが書いた本の後ろのほうに、上映会の記録があるんですよ。
中山 はい、はい、ありますね。
立岩 あの上映会ってね、多分、多分じゃなくて確実に全国でやったはずなんですよね。だけど、上映会の記録って、山口ぐらいから始まって、九州じゃないですかね。だいたい出てくる場所って。何でかなってちょっと思ってるんですけど。
中山 それはね、今沖縄にいる、えっと土の宿、
立岩 土の宿、木村浩子さんとかですか?
中山 はい。木村さんがいるんで、その上映会をやったんじゃないですかね。
立岩 ああ、そういうことですかね。まあ、いいですわ。その、九州で上映会あって、その時までは全くその青い芝っていう名前も知らなかった?
中山 知らなかった。
立岩 ああ。行きました? 行って行ったと。誰かに案内されてというか知って行った?
中山 それで、上映会が終わって、横塚さんが来てて。
立岩 あ、横塚もいた? 現場に。
中山 はい。
立岩 はいはい。
中山 で、「君、まだ若いから神奈川に来ないか」って誘われたんです。
立岩 へえ。何年か覚えてらっしゃいますか。75年…、まあ横塚さん、78年に亡くなってしまうでしょ。でも映画は72年ですよね。だからその間のどっかですよ。
中山 75年ぐらいかな。
立岩 多分、そんな辺りだと思います。横塚さんに神奈川来ないかと言われたんですか。
中山 はい。
立岩 行ったんですか。
中山 いや、行ったらここにいないです。
立岩 そうか。神奈川行ったら、神奈川の人になっちゃったかもしれない。
中山 はい。
立岩 ああ。来ないかとは言われた。それは、呼び止められたんですかね。
中山 はい。
立岩 上映会終わった時にまだその会場にいたら、
中山 はい。
立岩 横塚さんに声かけられたっていう、そういう感じですか。
中山 神奈川の青い芝に入らないかとかいう。そして、神奈川に来ないかと。
立岩 その時は神奈川青い芝でメンバーで来てたのは横塚さんだけ?
中山 はい。
立岩 横塚さんの支援者みたいな人みたいな人もいた感じする? あん時多分、室津茂樹さん、っていう健常者っていうか支援者が多分横塚さんに付いて上映会やってたかなっていう感じがする。それは記憶にないですか?
中山 それは記憶に無い。
立岩 うんうん。えっとその、映画ですけど、あの映画ね、去年か一昨年か、原一男監督に来てもらって、うちの大学で上映会やったんですよ。で、結構色んな人に聞くと、映画見たけど何言ってるか全然分かんなかったっていう人、脳性麻痺の人でも多くて。今、DVDで出てるやつは字幕か何か付いてるらしくて、
中山 字幕が付いてる。
立岩 だから言ってること分かるんですけど。あれ、何かよく、まあいくらか不思議な映画じゃないですか。
中山 はいはい。
立岩 あれって何かその、どういう受け止め方っていうか。[01:25:04]
中山 何かと闘ってるなと思った。それとか、脳性麻痺者の生活はこんなものかっていう感じを受けたんです。
立岩 うん。はい。じゃ、あれ、例えばその姿はまあ映画だからある種インパクトあるじゃないですか。横田さん、裸になってるしさ。で(笑)、言葉はよく分かんなかったっていう気がします? それはあんま覚えてないか。
中山 言葉はほとんど理解できなかった。でも、その姿を見て、こういったこと言ってるんじゃないか、
立岩 ああ、こんなこと言ってるんじゃないか。
中山 あくまで僕の想像であって。
立岩 結構インパクトあったんですね、神奈川は行かなかったけど。それで、福岡青い芝を作ろうつったのは、中山さんなんですか。
■
中山 いや、作るつもりは無かったんです。でも、関西の鎌谷さんとか、亡くなった三矢さんとか、
立岩 関西、鎌谷正代ですね。亡くなったのは誰だって?
中山 三矢。三矢英子。これ、震災で亡くなった。その人たちが、
立岩 関西の、そうですよね、兵庫の人たちですよね。
中山 福岡まで来て僕の家まで来て、青い芝、作らんかという働きかけを。
立岩 じゃ、関西の人たちが来て、九州で作れと。
中山 はい。
立岩 福岡青い芝を作れって言ったんですか。
中山 はい。
立岩 家まで押しかけてっていうか。
中山 はい。
立岩 そん時はもう一人住まいですか。
中山 いや。
立岩 親の?
中山 はい。
立岩 ちなみに、もしよろしければですけども、中山さんちってのは、例えば横田さんちは畳屋さんなんですよね。ですけど、中山さんちは何が家業?
中山 兼業農家。
立岩 農地も持たれていて、兼業っていうことはサラリーマンとかそういう?[01:30:01]
中山 僕の親父が農業やりながら農業生活組合、あの、JAですね、いわゆる。祖父と僕の母親と祖母で農業をやってて、っていうようなことで。
立岩 ああ。じゃそうか、片手間に農業をやるっていうよりは、割りとちゃんと農業を一家総出で農業をやりながら、お父さんは農協のほうにも。でもう、お金っていうか。
中山 はい。でも退職してからずっと農業ばっかりやっとる。
立岩 ああ、じゃそういう割りと半端な農家っていうわけじゃなくて、ちゃんと農家っていう感じですね、兼業とは言っても。
中山 いや、やっぱり兼業は兼業で。
立岩 まあ、そう…、農家だけで食うっていうのはね。
中山 だから、姉貴は福岡大学に、進学して。
立岩 進学して。
中山 姉は、高校卒業したら就職して。それで親父は地元で朝から晩まで仕事して、農業と仕事と、一緒に、(?)たり。だから晩めしとかは一緒に食ったこと無かった。
立岩 忙しくしておられた。
中山 はい。
立岩 でもそれ例えば一週間に福岡市まで出たりっていうのはお母さんが連れてって、さっきの話に戻すと。その、幼き頃。
中山 そうです、そうです。
立岩 やっぱそうか。忙しいけど農家なんで勤め人とは違って、野良仕事の合間にというか子ども連れて今日は病院とか、そんな感じやったってことですか。
中山 はい。
立岩 それで、時代があと10年ぐらいまた行って、それで関西の人たちが来て、まだ親の家にいた時に、何人もまとめて来たんですか。
中山 2人。
立岩 さっきの2人。
中山 はい。
立岩 が、来て、作らないか…作れみたいな…まあ作りましょうみたいなこと言った時に、中山さん的にはどうだった?「はい」二つ返事ではなかった?[01:34:44]
中山 二つ返事ではなかったけども、でもそれまでやってた会があったから、そこの、さっき言ったようなバスの交渉とかやってた人たちが「青い芝やる」って言い出したから、だから僕もやっていこうっていうことだった。
立岩 うん。すでに福岡でそういう交通関係の運動であるとかそういうのがあって、そういう人たちもやってもいい的な感じだったので、じゃやれるかなっていう。
中山 はい。だって、健全者に向かって話された時、来たからですね、だからそれで、それは差別じゃないかっていうこと感じたから、それでやっていこうっていう。
立岩 俺たちに話せと、俺たちが話すっていう、そういうところでは、青い芝の思想っていうか主張っていうか、と一緒というか。
中山 はい。
立岩 だからやれる、というか。
中山 はい。
立岩 九州って、青い芝って、福岡、できましたよね、それで。ほか、九州ってどこがあったんですか。
中山 福岡と長崎と鹿児島にあったんです。それもその関西から来て、その前に長崎大学に(行って?)、大阪の教員、車椅子の障害者の人が、
立岩 大阪の車椅子の教員が、
中山 いや、長崎大学の車椅子の教員、
立岩 ああ、長崎大学に車椅子の教員がいた?
中山 いや、教育学部にいて、それで大阪で教員になろうと、
立岩 うーん、そうか。それが、え、ちょっと待って。僕が今、年表見てるんですけど、兵庫でできたのが74年の9月。で、福岡が77年の3月だと書いてあります。ということは、5年、6年、だから、2年半ぐらい、多分兵庫ができて2年半後ぐらいに福岡ができる。で、長崎も、これ見るかぎりでは同じ77年の3月ってなってますね。
中山 確か同じやったと。
立岩 で、何? その、長崎大学の教育学部を学生で出た人がいたっていうことですか。
中山 そう、車椅子の人。出て、大阪で、
立岩 で、大阪で教員になろうとした。
中山 したら、就職試験を受けたけども、教員採用に受からなかった。それが、中東(なかひがし)闘争と言って、それを知った長崎大学の学生がおったから、それで長崎の青い芝を作っていったっていう。[01:40:47]
立岩 なるほど。それは77ね。
中山 77年。
立岩 養護学校義務化の2年前。
中山 はい。それと鹿児島。
■
立岩 私も、これずっと前に調べたんでもう何にも覚えてないんですけど、鹿児島出てくるかな。鹿児島、出てくるには出てくる。そっか、そういうことで。それで、中山さんが全国のほうの、
中山 はい。
立岩 って、いつからいつまで、でしたっけ。会長っていうのは。
中山 えーっとね、何年やったっけ。
立岩 えっと待てよ、横塚でしょ、横田でしょ。あ、横塚で、横塚さん亡くなって、それで会長代行みたいなかたちで白石さんでしょ。で、まあ色々すったもんだあった末に、横田さん。その次でいいんですか。
中山 はい。だって、それと横田さんはなってなかったと思うな。
立岩 あ、そうか。ちょっと待って。
中山 白石の後に僕が。
立岩 白石さんのすぐ後ってことになるんですか。
中山 いや、横田さんが2年間やって、その次に僕になったんです。
立岩 それは、最初のほうで言いましたけど、っていうか、それのいきさつっていうのは、何だったんですか。
中山 あのね、これ、今年亡くなったけども、広島の松本孝信って。それとか長谷川良夫とかが、福岡に来て、「お前、全国の役員になれよ」と。
立岩 うん。やっぱ関西ですよね、の人たちが来て、役員になれよって言う?
中山 うん。全国の事務局に入ってくれと。
立岩 って言われた?
中山 いや、初めは松本からね、福岡の温泉に連れて行けって言われたんですよ。
立岩 松本さんから連絡があって、俺を...松本を福岡の温泉にっていう連絡がまずあった?
中山 うーん、松本と長谷川と。福岡に来るから温泉に案内してくれと。
立岩 福岡に行くから九州の温泉に俺たちを案内しろっていうふうに連絡があった。
中山 それがまんまと引っかかって、ただ温泉に連れて行くだけかなと思っとったら…、[01:45:09]
立岩 まあ、ありがちですよ。オルグだったっていうか勧誘だったと。
中山 そう。
立岩 温泉で会ったんですか。
中山 いや、久留米まで来て。
立岩 久留米まで結局来て。
中山 それから車で筑後川の上流の、去年豪雨にあった杷木(はき)町っていう所がある。
立岩 杷木町。
中山 うん。そこに連れていったんです。
立岩 うんうんうん。彼らが久留米へ来て、久留米のとこまでやってきて、で、車乗って、で、みんなというか行って、そのとこの温泉まで行ったと。
中山 うん。それで、その時の話は、僕は1回断ったんです。
立岩 うんうん。それは何になれっつったんですか。事務局に入れっつったんですか。
中山 いえ、事務局と役員になれって。
立岩 事務局にも入れ、役員にもなれってこと。
中山 はい。
立岩 で、役員になるの、断ったんですか。
中山 それで、何で断ったかっていうと、まだ自立生活が始まって3年目ぐらいだったから筑後地区で障害者運動が無かったから、筑後地区で運動やりたいからっていうことで、それができなくなるからというふうに話して。でも、介護者もいないからっていう話で。介護、どうにかなるっていうような話で。
立岩 「介護者いない」って中山さんが言ったら、向こうが「それはなんとかなる」っていうふうに言ったってことですか。
中山 うん。それで、まあやってみようかっていうことで、それから20年やったんです。
立岩 そうか。長い。[01:49:02]
中山 松本、長谷川、横田、中山、(?)。これが九州の時になっていった(経緯?)。で、会って、僕はほとんど顔だけみたいなことだったんだけども、やっぱり優生保護法の問題とか、79年養護学校義務化反対の中で、自分は地域の小学校に行ったから、やっぱり地域の学校行くべきやっていうことで、そんな中で、全国教研とか参加し始めたっていう。
立岩 結構その、遠いっちゃ遠いじゃないですか。
中山 遠いですよ。
立岩 平井さんにも同じこと聞いたんだけどね、平井さん金沢でやっぱり遠いじゃないですか。で、どうしたんですかって。でも結構通ったって言ってましたけど、中山さんは割りと外出(そとで)っていうか、さっきローカルなというか地元の運動重視したいって、そういうことはあると思うんですよ。当然だと思うんですけど、とは言ってもというか。割りと九州でやってて、例えば尾上さんだったらあそこもDPIは忙しいからね、結局あの人は大阪にいたかったんだけれども、結局あの人10年も東京にいたんだけどね、東京に住んじゃったじゃないですか。DPOI日本会議の佐藤さんはメインストリーム協会、彼もやっぱり兵庫のほうが好きなんだけど(笑)、東京に住んでる。そういう人もいる。あれはまあ本当に忙しい組織だからそうなんでしょうけど、中山さんの場合はそうやって時々どっか役員会なり何なりで、こう、出ていかなきゃいけないっていうような感じだったのか、青い芝ってそういう感じでもなかったんですかね。
中山 いや、毎月。
立岩 毎月? それは会議がある?
中山 はい。
立岩 それは大体、どこでやってたんですか。
中山 初めは相模原だったけども、
立岩 神奈川の相模原。
中山 でも、それから埼玉の南浦和に。
立岩 埼玉の南浦和って。相模原は分かるんですよ、白石さんとか。南浦和ってのは、何ですか。
中山 交通の便がいい、なんていうの(何て言う?)、
立岩 交通の便、いいのか。誰にとって? だって、中山さん、ここから南浦和まで大変じゃないですか。
中山 みんなにとって。役員。
立岩 そっか。そこに事務所っていうのは存在してたんですか。
中山 はい。
立岩 借りて?
中山 はい、一軒家借りて。
立岩 それは会費で出したんですか。家賃なり、なんなり。
中山 カンパ活動で。
立岩 カンパで。そうか、そういう事務所がそういうかたちであり、月に1回役員会、ハードじゃないですか。
中山 はい。ハードです。
立岩 めっちゃハードじゃないですか。それって、いつ頃まで続いたんですか。
中山 えっとね、17年間続いたんですね。
立岩 それは中山さんが会長を始めてから17年間てことですか。
中山 全国に入ってから。
立岩 中山さんが全国青い芝に入ってから、
中山 はい。
立岩 入ってから数え始めて17年間続いた。
中山 はい。
立岩 その、月1ペースの、
中山 はい。
立岩 いやー。私、今日、京都から来て、割りと楽だなと。新幹線取ったんで。今日は僕は新大阪で乗り換えたんですけど、博多で、まああるじゃないですか。いずれにせよ1回、京都だったらですけど。今はまあね、まあ金はかかりますけど割りと便利っていいますか。
中山 はい。はい。
立岩 でも、そうじゃなかったんでしょ。
中山 無い時代です。[01:55:03]
立岩 ですよね。やっぱ新幹線ですか。博多まで出てっていう感じだったんですか。
中山 福岡の事務所があったから福岡の事務所に泊まって。
立岩 福岡に、福岡青い芝の事務所があった?
中山 あったからね。
立岩 福岡の事務所にいて。
中山 はい。
立岩 住んでんのは久留米なん…。
中山 住んでんのは久留米。
立岩 久留米なんだけど何かそういう、外、出なきゃいけない時は福岡の事務所に泊まって、で、福岡から電車乗ってったんですか。
中山 始発の新幹線乗って。当時は7時間ぐらいかかったから。
立岩 東京まで7時間。始発に乗って7時間で、まあ昼頃ですよね。
中山 はい。
立岩 昼頃着く…、いや新幹線が7時間だから、南浦和ってもっとかかるの?
中山 はい。
立岩 まあ昼過ぎに?
中山 はい。
立岩 着いて?
中山 はい。
立岩 会議やって、
中山 ええ。会議やって、カンパして。厚労省とか文科省とか、母体保護法についてってなって、見解書とかいろんなものを作成して...3人で作成して。
立岩 うん。その3人っていうのは、中山、
中山 松本、中山 長谷川。それで時々、ご意見番として横田さんが来て。
立岩 来て(笑)、はい。
中山 それで、こういうふうにしなさいよとか言われて。だから、本当の横田さんは、色々言われたけども、あんまり口を...口を出さない人であって、決定的なところは言うけども、やはり僕から言うと静かな人だったと思うんです。
立岩 うんうんうん、そうですよね。運動家っていうか実務家っていうタイプじゃないよね、少なくともね。
中山 はい。
立岩 そうだったと思います。僕、3回あの人とは対談ていうのをさせてもらったことがあって。まあ、怒っちゃいますけど、少なくとも実務家じゃないですよね。
中山 はい。
立岩 じゃ、年も離れて、20ぐ…、あの人30年代か。花田春兆が25年で横田さんたちが35ぐらいですか、35年ぐらい。だからやっぱり年も20近くというか離れて。
中山 はい。
立岩 だから実際は、同年代というかその3人で、青い芝を回してたっていうそんな感じなんですか。
中山 はい。
立岩 その辺はやっぱり実際やってた人じゃないと分かんないですよね。
中山 分かんない。
立岩 僕らだってもう70年代超えてるから、ある意味リアルタイムで分かってた部分あるけれども、やっぱり声明なり質問書なりっていうのは青い芝の名前で出るから、実際に具体的に誰がそれをやってたのかっていうのは分かんない、分かりにくいですよね。
中山 はい。
立岩 でもそれは…、分かりました。じゃ…、
中山 決定的に作ってたのはやっぱり横田さん。重要なのは横田さんが来て、まとめてくれたりしてたから。[02:00:17]
立岩 この時、そうか、重要な時は来て。だから、それなりに決定には関わってた部分はあるってことですよね。
中山 だって全国大会とかは必ず。やっぱり強く言ったり横田さんが言ったりして。
立岩 もう2時間20分になったので、いつでも、もう、お疲れになったらというか、あの…、
中山 いや…、
立岩 結構なんです、まず一つね。で、全部聞いたら本当きりないんで。今ちょっと、さっきも言いましたけど、福島の関係の人たちで本を作ろうと思っていて。で、白石さん…、
中山 立岩さんは何時まで?
立岩 僕は4時ぐらいまではいられるんですけど、いや本当、それはありえないので、本当に好きな時間で。
中山 それだったら3時まで付き合います。
立岩 もし、(笑)よければですよ。おかわりとかもオッケーです。
中山 いや、いや。
立岩 それでね、こちらから、で、全部聞きたいですけど全部聞くのは大変なので。横塚さん亡くなって、それでまあごちゃごちゃしてた時に白石さんが代行というか、というかたちで入った数年間があって、その間、東京の人たちが色々あって。結構ごちゃごちゃしてっていう数年間、ありますよね。それの時、中山さん、それをどうご覧になったのかなっていうか。
中山 あれはですね、何でごちゃごちゃになったかっていうと、関西のほうの、健全者組織、通称…、
立岩 ゴリラの、ですか。
中山 はい。ゴリラの解散、全国青い芝がやったから。それは何でかというと、介護者が障害者の嫌なものを...嫌なものを食べたり、
立岩 ちょっと待って。今、ゴリラの話ですよね。介護者が障害者の、
中山 介護に行って、勝手に食べ物とか食べたり、そして余計なことを口にしたから、それで切った。
立岩 切りましたよね、はい。
中山 その辺で、段々、大阪青い芝が、生活重視の運動になって、
立岩 そうですね。[02:04:49]
中山 しまって。京都も組織がなくなったり。そして、和歌山...和歌山も組織解体。だって介護者がいなければ活動できない(ものなので?)。特に (資格?)付きの重度の脳性麻痺者は活動ができなくなっちゃった。それで福岡も厳しい状態になっていったっていうのがあって、会員離れがあったりしたんです。その辺のことで、でも松本さんや横田さんはやっぱり優生思想との闘いをやらなければいけないということで、介護者がいなくてもやらなきゃいかないと。
立岩 介護者がたとえいなくても、やんなきゃいけないということで。
中山 うん。だって、その辺の、そこに書いてますけども、今だから言えることなんだけども、行動綱領と現実ていうのは違いますよね。
立岩 行動綱領と現実は違うって言ったんですよね。
中山 はい。その綱領に近くしていくことは大事やけども、
立岩 綱領に近づくことは大事だけれども?
中山 はい。そこで矛盾点が出てきますよね。
立岩 はい。ああ、そうか、ここら辺ですね。「再建委員会代表に白石氏が選ばれた。私も再建委員会に入り…」、うん、うん、うん…。これですか、この辺の「しかしこれより、(?)組織になってしまいました。脳性麻痺者の現実的な生活の要望とは違い…」辺りが、結構、今になって言える的なことですか?[02:10:01]
中山 はい、はい。
立岩 その時は、それは言わなかった?
中山 言えなかった。
立岩 そうでしょう、そういうことあったと。で、その時の東京の人たち、磯部さんであるとか、あの辺とのごちゃごちゃっていうか色々っていうのは、ある程度見てたんですか? 中山さんは。
中山 それは全国大会で、やっぱり生活重視に障害者の所得保障っていうことでさんざん言われてきたっていうのはそれはありますけども、磯部さんとか寺田さんは、やっぱり優生思想のことが大事やけどもっていうような、発言をしてました。だからって喧嘩をするっていうような話じゃないので。
立岩 だからといって?
中山 喧嘩をするっていうようなことじゃなかったんです。組織離れをするっていうことじゃなかったんです。
立岩 ちょっと待てよ、東京青い芝の人たちですよね。磯部さんであるとか寺田純一さんであるとか、ある程度ずっとそういうこと言ってましたけど、年金とか所得保障、話をする。でも別に優生思想のことが大切じゃないと言ったわけではないと、そういう話ですよね。
中山 うん、うん。
立岩 で、そこの中で、今の中山さんの見方では、当時の東京青い芝と、ほかの、ちょっと違う流れの人たち…、
中山 うん。
立岩 っていうのは、そんなにそこの中に大きな対立っていうものは無かったっていうことですか。
中山 大阪青い芝は
立岩 どこの青い芝?
中山 大阪。大阪と全国青い芝。
立岩 大阪の時は、健全者組織を残す残さないみたいなところで、大阪とほかは、かなりぶつかるわけですよね。
中山 大阪がぶつかったわけ。
立岩 ですよね。その時はかなり、中山さんが見た感じだとかなり深刻なというか大きな対立だったと。
中山 はい、はい。
立岩 それに比べれば、その時の東京の、
中山 東京の青い芝。
立岩 と、それ以外のところはそんなにこうクリアな対立ではなかったっていう感じですかね。
中山 はい。
立岩 ただ、それはそういうんだけれども、それとは別に優生思想っていうところで健全者の組織を切った上で、つまり健全者の支援が困難な状態で優生思想っていう、まあすぐには生活にそのまま結びつかない闘争って(?)、
中山 はい。
立岩 で、やってたんで、その時期に人の組織離れが進んだっていうのが中山さんの見方っていう。
中山 それが現実です。
立岩 それが現実だったと。
中山 はい。
立岩 っていうのが中山さんの当時についての見立てというか。
中山 はい。
立岩 そういうふうに見えたっていうことですよね。
中山 はい。
立岩 そうだったんだろうと思いますけどね。[02:14:45]
中山 だって、全国青い芝の行動綱領、いうような時に、非常に哲学的なものであるということも言えるし。まあこんなこと言えるのは、今言えるのは僕しかいないだろうね、こんな話を。
立岩 まあ、横田さん亡くなって、松本さん、そうですよね。ちょっとずれますけど、昔、僕、誰かに中山さんは、一部屋、青い芝の資料がある部屋を持ってるとか何か聞いたことがあるような気がするんですけど。
中山 はい、あります。
立岩 それは本当にあると。
中山 はい。
立岩 それは久留米のご自宅というか。
中山 はい。
立岩 今はどういう形態で住まわれてるんです? 生活というか、してるんですか。
中山 妻と、
立岩 奥さんと、
中山 はい。一緒に生活して、就労支援B型を...B型を経営していて。
立岩 それは何だっけ、ごろりん、
中山 ごろりんハウス。
立岩 ごろりんハウスか。ごろりんハウスって何か秋田にも同じのがあんだよね。
中山 はい。
立岩 検索すると出てきました。それは毎日行くっていうほどではないんですか。
中山 いや、ほとんど毎日行ってる。
立岩 今日は、こういう仕事が別途入ったから?
中山 はい。
立岩 週5ぐらいで行ってるんですか。
中山 はい。
立岩 で、奥さんと二人住まい?
中山 はい。
立岩 二人で住んでて、そのごろりんハウスに行って戻ってっていうのが基本の生活。
中山 はい。
立岩 資料庫っていうのは、本当に一部屋分あるみたいな感じ?
中山 あのね、箱詰めになってるからね、一つの押入れに上から下までいっぱい入ってる。
立岩 1間(けん)の押入れの上から下まで、下から上までみたいな、ぐらいの感じですか。
中山 はい。
立岩 そうか。いや、今、ここんところ、結構色んなところで預かってほしい的なことがあって、一番最近はビギンていう、80年代にあった(情報?)集めたやつを段ボール20箱ぐらいポンと来て。それをこれから整理せな、まああれは元々整理されてるんでそんなまあ大変じゃないですけど。それとか今ちょっと受け入れたりしてるんですけどね。よくこぼすんですけど、普通の本屋さんで売ってるような本だったら並べりゃまあなんとか格好がつくけど、やっぱビラの類いって本当整理っていうか難しいじゃないですか。[02:20:14]
中山 難しい。
立岩 だから結構そのままになってるのもありますけど。
中山 そのままになってるの。機関紙があったけれども、どっかに行ってしまって。
立岩 今ね、ほうぼうで言ってるのは、所有権は移転しないと。だから返せっつったらいつでも返すと。返すったらいつだも返すけど預からせていただいて、こちらで時間かかっていつとは約束できないけどリストを作ると。で、それを持ってもらって、何か用がある時はこっちの責任で送る。そういうのいかがですか、みたいなことをちょっと言ってみたりすることはありますね。
中山 でも完全なものじゃないからね。
立岩 完全なね。それ、今、どこにも無いと思いますよ。どこにも無くて、いくつかつなぎ合わせると何かね、あ、揃ったとかいうことはあるかもしれないですけど。平井さん時にも金沢行った時も「いやー、俺んとこも一部屋」ていうか、物置きに一つつったかな。「全障連の関係の資料があんだけどさ、整理してないから」みたいなこと仰ってて、まあそりゃそうだろうなと思って。資料って整理するだけでもえれえ手間がかかりますからね。
中山 だってこれを書くのでも、大事なところは斜め読みして、スキャナで取って...取ったやつもあるんです。
立岩 うん。これ、今日は初めてというか拝見しますけど、長いですね。
中山 はい。
立岩 僕は一応物書く立場なんで大体見当つきますけど、普通に本屋さんで売ってる本の半分ぐらいの分量ありますよ。だから100、普通の本にしても100ページは超える分量あると思うんです。
中山 そうですか。
立岩 ええ。で、これ、もう一つ、最初にインタビューのことで申し上げましたけれども、今、どういうものであってもホームページに載せるようなかたちで、ちゃちゃっと編集して載せると。で、もしどっか変えたくなったりとかあるいは削除したくなったりとかあるいは全部取り下げとか、それは言われたら言われたとおりにするという前提で、まあ今日は資料、参考ということで私、持ち帰らせていただきますけれども、まあ直したからこれでいいよとかね、直すの面倒だからこれでいいよとか、どういうかたちであっても多分、今なかなかこう…、まあ横田さんなんかはまあなんだかんだ言って物を書く人だったので結局本になったものは残ってますけれども。それをまんべんなくみんなって難しいじゃないですか。結局、数多くの人が見れるのって、結構ホームページだろうなと思ってて。
中山 うん。
立岩 で、今後のことも含めて、随時、よろしければこっちのサイトのほうに載せていきますので。
中山 これね、まだ、九大の学生だった人が出版社を開いたんですよ、福岡で。それでそいつに、一応まだ未完成だったけどもっていうことで、それで本にしたいんだけどねっていう話の中で、これをちょこちょこ(?)。[02:25:12]
立岩 あ、そういう話があって、
中山 いや、僕が持ちかけて。
立岩 で、その方は、できたら見るみたいな感じだったんですか。
中山 手伝い、っていうこと言ってるから。
立岩 ああ、そうなんですか。いや、それならそっち、それがいいと思います。
中山 いや、ホームページでも結構ですし。
立岩 本当にこっちはどっちでもあれです。だから両方でもいいですし。ホームページ基本ただですから、っちだと本の売り上げに響くとかっていうことであれば、紙の本が出てる間はそれだけでもいいですし、どんなかたちでも構わないので。またそれはお考えいただいて。でも、本になるなら、しちゃったほうがいいと思いますよね。その出版社、その福岡の出版社、いいと思います。
中山 介護しよったからね、そういった関係で。
立岩 何さん?
中山 藤村っていう。
立岩 ていう、九大の学生だった人で、知り合いで、今、出版社を立ち上げて。
中山 はい、介護者。僕の介護やってた。
立岩 ああ、中山さんの介護やってた人。ああ、そうですか。はい。それはいい話だと思うので、そうして、でもまあ何か。今、結構やってるのは、広告みたいなのをホームページ載せてね、例えば全体の何分の一かを、とか十分の一とか載せて「続きを読みたければ本買え」みたいな、そういうのもありますし、色々、何でも、それはしますので、よろしかったら。
中山 はい。
立岩 それで、私はもうこれで十分なんですけど、今回、最初に、中山さんのツイッターがあるよね。だいぶ長いこと、
中山 1回。更新してないけど。
立岩 そうそうそう(笑)、あって、フェイスブックありますよね。
中山 はいはい。
立岩 そっちで最初連絡取ろうとしたんですよ。それが結局届かなかったかまあとにかくそういう感じで。そのあとごろりんハウスのやつの検索すると、いくつか出てきて。それでアドレスが二つぐらい出てきたのでそれで送ったんだけどすぐリターン来たんです。で、多分、昨日、障害学会の事務局にいただいたアドレスは生きてるんですか、gmailは。
中山 はい。
立岩 あれは、じゃ、着く?
中山 はい。
立岩 何故かっていうと、今後、電話は電話で大丈夫だと思うんですけど、そういうファイルのやり取りとかそういうのって結局メールじゃないですか。その場合は昨日いただいたごろりんのgmailのアドレスで大丈夫ですか。
中山 はい。
立岩 ありがとうございます。そういう場合はそれ使わせていただきます。僕からはそのぐらいかな。そのぐらいもこのぐらいも、もう3時間に近づいているので、ごめんなさいっていうか、ありがとうございますなんですけど。無理も申し上げられないので。でも何か3時間にもかかわらず、これはちょっと言っとくぞ的なね、これまだ書いてないとか、これはちょっと言っときたいみたいなものがあればもう、何でもお聞きしますけど。
中山 まあね、僕、人権、いわゆる人権活動やってきた中で、希薄になってるなっていうのが、[02:30:05]
立岩 何になってるのが?
中山 人権が希薄。
立岩 希薄ね。
中山 はい。そんなことを感じる。何で感じるんかって、虐待防止法とかできたけども、差別解消法とかできたけども、法だけの話であって、全然現実はつながってませんよね。
立岩 法律はできたけど、現実とはつながってない。
中山 うん。だから人権意識っていうものが無いかぎり、いくら...いくら法律を作っても、条例を作ってもだめなことであって。確かに差別が見えなくなってきて、何で差別が見えなくなってきたかといえば、やはり福祉サービスとかそんなのができていって色んなものができてきた結果、差別が見えなくなってきてるっていうのがまぁあって。そこに僕は危機感を感じてるんです。表面的なものはできたけども、その裏はまだ解決するまでにはいってないなっていうのがあって。まあ、そんなのもそこに書いてますけども。
立岩 多分、それは少なからぬというか長いこと関わってきた人、思ってること、あると思います、そう思ってる人、思ってることはあると思いますけど。例えば長いこと、中山さんやってこられて、じゃ、そういう現状認識の上でというか、これから自分としてはどういう方角というかどっち向いてどういうふうにやっとこう的なことっていうのは、何かおありでしょうか。
中山 まあ、こんなことで伝えていく、語っていくしかないんじゃないかなって。反戦とか、僕、30の時から沖縄に10年ごとに行ってるんです。
立岩 30歳の時から、沖縄に行くって、しばらく行って、戻ってくる的なことじゃなくて。[02:35:46]
中山 いや、2、3日、行ったりして。
立岩 ああ。2、3日、逗留というか行って。
中山 3年前に辺野古の反対のところに行ったりして。そういったものがやっぱり反戦、人権の問題じゃないかっていうことで。まあ、そんなところで。やっぱり語り続けなければいけないっていうようなことが言えます(が?)。
立岩 辺野古、座り込みしてるじゃないですか。
中山 うん。
立岩 ああいうとこにも行かれたり。
中山 はい。
立岩 そうですか。うん。あの、まあ結局私らもなんだかんだつって、そうですね、ここんところ50年生まれの人たちっていうのはたまたまなんで別にこだわってないんですけど、今、話聞いて回って。あの、一人ひとりが自分のこと書いて、さっき仰ったように出版してもらうっていうのはそれはそれで非常にいいと思いますけども、そういうものを集めたりなんかして、こう、やっていくっていうのは、せめてというか、私たちでもできるのかなと思って、ちょっとやってみてはいるんですけど。あ、結構、写真ありますね。これ、さっきテキストデータで、データだけ見てたもんだから、写真をさっき見てなかったんですけど、ふーん。写真がね、日本の運動って、あんまり写真とか動画とかあんま残してないっていう気がしてて。あるのはちゃんと取っとかなきゃなって思ってるんですよね。僕はこの頃、韓国の人たちとちょっと付き合いあって、韓国行ってしゃべったり話聞いたりしてるんですけど、韓国の人たちはめっちゃ写真とか、まあ動画が好きですよね、皆さん。尚且、あの人たち派手なのが好きなんで、そういう派手な動画をいっぱい持ってて見せてくれるんですよ。これから日本もそれはそれでと思うんですけど、古いものはもうあるものしか無いに決まってるので、そういう写真とかも、何かの形で人の目にというか、残る形で集めていきたいなと思って。この頃、僕らもそうやって動画作ったりホームページ作ろうとする時に、やっぱビジュアルっていうかそういうのがあんまり残ってなくて苦労するんですけど。本当に写真なんかもいいなと思ってます。3輪車も出てきました、確かに。これ、だけど中山さんが文章書く時っていうのは、どういうふうにやってるんですか。
中山 パソコンで、
立岩 キーボード、自分で押すんですか。[02:40:00]
中山 いや、画面にキーボードが出てくるから、それを使って。
立岩 画面にキーボードが出てくるのを、どういうかたちで触るっていうか、その、
中山 クリックして。
立岩 画面に50音が出るみたいなタイプのやつですか。
中山 はい、はい。
立岩 画面に50音出ますよね。マウスをこうやって、ポチっていう感じでやっていくっていう?
中山 はい。
立岩 じゃ、手間はかかるけど、自分で入力してるってことですよね。
中山 はい。
立岩 メールなんかもそれで?
中山 はい。ほとんど、就労B型の書類も、法人の理事会とかいうようなこともそれでやってます。
立岩 はい、はい。そうなんだ。うちの、今度10月、つい1週間前に博士論文出した、天畠ってのがいるんですけど、その人は中学生かの時に、一時期、頭に血が行かなくなって、それを医者が放っといたか何かで脳死に近い状態までいって、半年ぐらい全然体が動かなくってもう意識が無いって思われてたんだけれども、意識はあって。でも外から全然分かんない状態だったんですよ。で、それがある日、そうでもなさそうだってお母さんが思って、っていう長い長い話があるんですけど途中を端折ると、今、彼は視覚障害も残って目がほぼ見えなくて、体動かないんだけど、手先とか全然動かないんですよ。でも体が大ざっぱに動くんですね、肩を揺らすみたいな。それで、介助者が「あかさたな」で、「こ」って言おうとすると、「あ、か、」っていうところでこうやってクリッてやると、
中山 はい、はい。
立岩 で、「こ」になるじゃないですか。で、こういうふうに、そうすると「かきくけこ」って言ったとこの「こ」ってこうやってまた打つと。で、1音、1音確定みたいな。
中山 はい。はい。
立岩 すごい手動型っていうか人間的なっていうか、ので、しゃべってますけど。今度、博士論文出して、ご苦労さんでしたって感じですけど、大変でした、でも。でも彼は、かなり気心が知れた介護者...介助者がいるんで。やっぱり中山さんなんかカーソルでやるから、より、遥かにかかるじゃないですか。あるけどね、パソコンで、こうやって、こうやって、やるやつって。あれよりもさらにかかるので。でもまあ彼の場合は気心知れた介助者がいるので、割りと一言言えば、1字言えば、推定でみたいな感じで出力されたりするので、それで色々手間を省いてなんとか博論までこぎつけました。これから審査ですけど、まあそんなのもあります。彼はまだ若いんですけど、今、彼はやる気満々で自分で書くっていう感じだから放っときゃいいっていうか、放っとくというかアドバイスすればいいっていう感じですけど。やっぱり人間、たいがいの人は僕らみたいな特殊な人間除けば、ものを書くのが仕事じゃないから。それでも中山さん、結構すっげえ書いたなと思うんですけど、書いたほうだなと思うんですけど。まあ、書かない人のほうが多いから、やっぱりそれは話していただけるなら話していただいてと思って、今、やってます。
中山 こうやって話すことで、逆に文章に残っていくっていう。
立岩 そうだと思うんですよね。僕らでさえもというか、
中山 大切なことじゃないの。
立岩 書くのが億劫…、それから何かね、人にもよると思うんですけど、[02:45:01]
中山 はい。
立岩 しゃべると面白い(笑)。僕は一緒に、青い芝の中でも、白石さんとも関係してた安積遊歩ってのがいるんだけど。
中山 ああ、はい、はい。
立岩 彼女も書ける人ではあって、本、3冊も4冊も書いてるけど、まあでもしゃべったほうが面白い、って言うと彼女は怒るかもしれないけど。しゃべってもらって誰かがそれを起こして、それに脚色っていうかな、何かこれ言い忘れたとかってあったら加えていくほうが面白いものになる人もいますよね。そんなことも含めて、集めるもの、ここ、ね、そんなに時間があるわけではないので、集められるうちに集めとこうと思って、時々やってみたりしてます。ああ、いっぱい貼ってありますね。さっき僕言ったの、これ、文字換算、文字のところだけで200キロバイトっていうんですけど、200キロバイトだから10万字かな、あるので。そうですね、ちょっとした薄い本だったらもうすでに1冊分になってますよね。さっきの図版をカウントしてないので図版入れればもっと長くなりますね。全然本題と関係ない、ちっちゃいことですけど、全障連の九州ブロックって、全障連ほとんど今、開店休業中がもう長いんですけど、
中山 はい、はい、はい。
立岩 九州ブロックって、まあ、やってるみたいですけど、僕にちょっと声かけてきたことも昔ですけどあったりしたんですけど、これは何か聞いてますか。聞いてますかって大ざっぱな聞き方ですけど(笑)。
中山 あれはね、えーと、社青同解放派に、
立岩 やっぱりね。いやもう明らかにホームページとか見てもそれなので、そういうことなんだろうなって思ったんですけど。どうなんですか地元的には「まあ、やってらあ」みたいな感じなんですか。
中山 うーん、まああんまり、やってなかったんじゃないかな。
立岩 それだけっちゃそれだけです。ちなみにさっき言ってた、穴開けて電極刺す手術を受けたっていう人は福岡の人で、名前だけ分かるかな。
(ブザー音)
女性の声 外しとったほうがいい?
中山 いや。手を…。
立岩 うん。出てきますね。
中山 大丈夫かな。
立岩 ちょっと待ってくださいよ。えーっと、荒井裕樹さんていう、今、東京にいる、僕よりだいぶ若い研究者が福岡で会ったっていう人で…。ちょっと待ってください。あったはずなんだがなあ。その時は、荒井さんからはお名前は聞かなくて。[02:50:24]
中山 (あらき?)さん。
立岩 それでちょっと調べたら、検索したら出てきたんですよ。
中山 (あらき?)さん。
立岩 違うか…、まあ、分かりました。またちょっと確認すれば出てくると思うので。
中山 はい。
立岩 ああ、ちょっと待って。あ、順番が違うのかな。分かりました。ちょっと今、名前出てこないですけど。メールは、じゃ、職場というか、
中山 はい。
立岩 行く時は、ついでに見るみたいな、そんな感じですか。
中山 はい。
立岩 あと、中山さんに、携帯の電話番号は今日朝ごろりんに聞いたら教えてもらったし、この前も教えてもらったんで分かったんですけど、基本さっきのメールのアドレスで連絡はできるって考えていいですか。
中山 はい。
立岩 分かりました。あと、大学のほうの、その書類ですかね、違うか。
中山 こんなのが送られてきた。
立岩 そう、謝礼を支払うための書類なんですよ。[…]一応、最初電話差し上げた時に言って、遠慮していただいたんですけれども、結構3時間人間がしゃべり続けるのってえらいことなので、っていうのもあるし、そちらのほうはほんとに随意ですけれども、インタビューの結果、記録を載せていただくようなことがもしあれば、そのお手数もありますから、っていうことで。あと、お土産ってほどのもんじゃないですけど、これは差し上げてよろしいですか。
中山 あ、これ買おうと思ったら無かっ…。
立岩 そうですか、じゃあよかった。これは、相模原の事件の後、横田さんの「障害者殺しの思想」が復刊になって、その前にあったもう一つ、対談集は今も品切れで無いんですけど、それに入ってないバージョンで横田さんと話したのが…、のと、でもそれがメインじゃなくて、この、臼井さんてご存知ないと思いますけど、ご存知かな、横田さんなんかの友だちですね。神奈川の県の職員を長いことなさっていて、それでそのあと、神奈川県立保健福祉大だったかな、何かそういう大学の立ち上げに関わって今そこの大学の教員やってる臼井さんていうのが、最初はだから、まあそういう人は時々どこにでもいますけど、行政で交渉して交渉相手の奴といつの間にか友だちになる的なことって、時々あるじゃないですか。
中山 はい。
立岩 そんなんで、臼井さん、もう長いこと横田さんの敵から始まって友だちみたいな。で、彼がそれなりの思い入れがあったんでどうしても、一つ本作りたいっていうんで、まあ一緒にじゃあ、つって。僕のほうは、ものは書かないで対談だけ入れさせてもらったっていう、そういう作りの本ですんで。持ってまいりましたんで、受け取ってください。
中山 はい。[02:55:03]
立岩 本当に3時間経ってしまいました。本当に長い時間ありがとうございます。もし聞き足したいことあったら、メールを差し上げますので、大概の場合急ぎません。…(略)…大概の場合はこの書類も含めてそんなに急ぐものではなので、メールを差し上げたいと思います。ただまぁ急ぎではないけれども、見てるよぐらいな感じで、いただければ(?)。
中山 ほんとはねぇ学会に行きたいけども、ちょっと浜松だからね。
立岩 あ、今年はね。
中山 うん。
立岩 でも九州の、例えば熊本学園の人とかが、
中山 はいはい。
立岩 昔からの関わりも含めて、何人かいたりしますけれども、九州ローカルでそういう研究者であるとかつながりっていうのはあったりするもんなんですか。
中山 あの、全国、障害児を普通学校へ、全国連絡会の時の集会。
立岩 全国集会。
中山 はい。あれが(?)、3年前に熊本学園で、
立岩 ああ、全国集会を熊本学園で。
中山 はい。やって、熊本学園の、
立岩 堀さん?
中山 堀さん。
立岩 堀さん、大阪の出身で視覚障害で、
中山 はい。
立岩 ずっと、長い関わりがある人ですよね。
中山 はい。それくらいしか。
立岩 あ、そうですか。堀さんは、前からっていうことでじゃなくて、その時に会った。
中山 はい。
立岩 3年前のその全国集会に出かけられたんですか。
中山 はい。
立岩 あ、そうですか。僕はだいぶ前に松山で集会あった時に話させていただいたことがあるな、確か。まあ何人かと。今回も就学運動のことをずっとやってる人とかに、僕じゃないんですけど、関係…一緒に今仕事してる人たちがインタビューとかしてて。就学運動の記録っていうのも、あるところには…あるところにもあんまり無いみたいな状態なので。あとね、今度またご紹介差し上げるかもしれませんけど、廣野俊輔、っていう僕よりは20ぐらい若いかな、同志社の社会福祉のほうの大学院出て、今、大分大学の、教員やってる、廣野俊輔っていうのがいて、彼は60年代の青い芝のことで論文いくつか書いたりしているので、興味はある。今回の科学研究費のメンバーの一人でもあるので。今回のも、少なくともメンバーの中ではデータ共有しますのでまたその、廣野がお伺いしたいというようなことがあると思いますけれど、その節はよろしくお願いします。
中山 はい。
立岩 ありがとうございました。長…、お疲れだと思いますけど。
中山 いやいや。役に立ってる(?)。
立岩 いや、役に立ちます。はい。うん。最初にお伺いした、本当に、頭、開ける…。頭、開けるっていう話は本当に初めて今年聞いてね、でも早速何人目かで、同じ話が出てきたっていうことで、ちょっとびっくりしてるんですけど。だからどうしたって言われるかもしれないけれどね、そういうことっていうのは。でも、今ああいうようになっても、そういうあやしい療法みたいの、無くならないんですよね。[03:00:18]
中山 そう。
立岩 だから、単なる昔話ってことじゃなくて、そういうことも覚えとくっていうか、ていうのはありやなと思ってて、(?)けど。今日会う宮崎の人は、何か温泉、別府だったっけどこだったかな、そういう所にずいぶん長いこといて、なんやかんやしたけどっていう話を、前聞いたことがあって、ちょっとその話聞ければなと思って来たんですけど。はい。どうも本当に長時間ありがとうございます。
中山 いや。
立岩 今日はこれからごろりんに行くんですか。今日は無し?
中山 1回戻って。
立岩 久留米駅からはどのぐらいの距離感なんですか、ごろりんハウスって。
中山 こっから…、
女性 20分…、
立岩 車で?
女性 はい。
立岩 行くとしたら、車? バスとかは?
女性 車ですね。バスが(ある?)?
中山 バスがあるよ。バスもJRも行けます。
立岩 バスでもJRでも行ける?
中山 久留米駅から久大線乗って。
立岩 久大線っていうのがあるんですか。それはJR?
中山 はい。御井(みい)駅で降りて。そっから歩いて10分ほど。
立岩 歩いて10分、じゃあ、便利。
中山 でも、バスのほうが近いんです。
立岩 バスのほうが近い。
中山 はい。バスが、あれ、田主丸(たぬしまる)行きとか。田主丸っていうとこがある。
立岩 た、たの?
中山 田主丸。
立岩 たのしま? 地名ですか?
中山 はい。(?)から10分。
立岩 うんうん。分かりました。そのうち見学というか。はい。…(略)… どうも本当に長いことありがとうございました。また、何かありましたら。
[音声終了]