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福永 秀敏
1947〜
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■著書
◆福永 秀敏 19990810
『難病と生きる』
,春苑堂出版,227p. ISBN-10:4915093638 ISBN-13:978-4915093630
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※ n02. md.
◆福永 秀敏 20040819
『病む人に学ぶ』
,日総研出版,190p. ISBN-10:489014966X ISBN-13:978-4890149667 欠品
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※ md. n02.
◆福永 秀敏 20090710
『病と人の生き方と』
,南方新社,276p. ISBN-10:4861242231 ISBN-13:978-4861242236 1524+
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※n02. md
◆福永 秀敏 20110710
『病と老いの物語』
,南方新社,185p. ISBN-10:4861242215 ISBN-13:978-4861242212 1500+
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※ md. n02.
■
◆福永 秀敏 199703** 「政策医療としての神経・筋疾患の治療・療養――神経・筋疾患の『在宅ケア』のシステム化」,『神経治療学』14(2): 131-136
◆福永 秀敏 2002 「推薦のことば」,
石川玲他編[2002]
※ [126]
◇石川 玲他 編 200209 『筋ジストロフィーのリハビリテーション』,医歯薬出版,322p. ISBN-10: 4263212649 ISBN-13: 978-4263212646 9400
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※
◆井 充・多田羅 勝義・福永 秀敏 200305** 「筋ジストロフィー死亡年齢と死因――国立筋ジストロフィー担当27施設における分析」,『神経治療学』20(3): 322
◆20031113 「難病とともに生きてこられたのは患者さんから勇気とやさしさ、耐える心をもらったから。」,ドクターズマガジン編[2003:165-176]*
*ドクターズマガジン編 20031113
『日本の名医30人の肖像』
,阪急コミュニケーションズ,373p. 1800+ ISBN-10: 4484032236 ISBN-13: 978-4484032238
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■引用
●スモン/井形
◆福永 秀敏 19990810
『難病と生きる』
,春苑堂出版,227p. ISBN-10:4915093638 ISBN-13:978-4915093630
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※ n02. md.
「この病気〔スモン〕が最初に学会に報告されたのは昭和三十三年であるが、社会的に大きな閏心が持たれるようになったのは昭和三十九年である。世は東京オリンピックを前に興奮のさなか、ボート会場に予定されていた戸田市付近でスモンが集団発生した。このほかにも岡山県をはじめ全国各地で集団発生したのである。そのため一部の学者から、原因としてウイルスなどの伝染説が発表されたため、患者や家族は社会から白い目でみられたり、悲観して自殺する人も出たりして、大きな社会問題となった。
昭和四十四年には「全国スモンの会」も結成され、このような患者を救済し、原因の究明を早急に図るべきだとの世論の後押しもあって、同年、▽023 全国の研究者を集めた「スモン調査研究協議会」が組織され研究も本格的に開始された。昭和四十五年、新潟大学の椿忠雄教授や東京大学の井形先生(当時)など多くの研究者の共同研究により患者の胃腸症状に使用されていた整腸剤のキノホルムによる薬物中毒であることが判明した。厚生省の指導により販売を即刻中止した結果、以降患者は激減してスモンの原因解明は終結した。
原因解明は終結した。この教訓をもとに、国は後遺症に悩む患者の救済と、スモン以外の他の難病に対する研究組織を▽024 推進していくことになった。
井形先生は昭和四十六年に鹿児島大学に新設された第三内科(神経内科)の教授に招聘され、その後の活躍は鹿児島県民のよく知るところである。私も昭和四十八年に第三内科に入局し、難病とともに歩むことになった。」(福永[1999:22-24])
→◇
薬害スモン
◆20031113 「難病とともに生きてこられたのは患者さんから勇気とやさしさ、耐える心をもらったから。」,ドクターズマガジン編[2003:165-176]*
*ドクターズマガジン編 20031113
『日本の名医30人の肖像』
,阪急コミュニケーションズ,373p. 1800+ ISBN-10: 4484032236 ISBN-13: 978-4484032238
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「この本のタイトルにもあるように、まさに福永氏の半生は難病とともにあった。日本においては、1960年代に問題化したスモンの歴史が即難病の歴史であるとも言われるが、福永氏が難病を専門とするきっかけになったのは、この奇病の発生に深くかかわっている。
「スモンの発病がウイルスなどと言われていたとき、恩師の井形昭弘先生は東大の出張病院で、スモン患者に緑舌、緑尿の人が多いのに気づき、その尿を東大の田村善蔵教授に持って行ったところキノホルムが検出された。結果的に、この発見がスモンの解明に結びっきました。当時、井形先生は東大の助手でしたが、これが契機になって私が在学していた鹿児島大学医学部の教授に抜擢、神経疾患と難病を主テーマとする第三内科学講座が開設された。すでにスモンにおける井形先生の功績は知っていましたし、実際に赴任されてから先生の崇高な理念に触れ、どうしてもこの人のもとで勉強をしたいと新設された第三内科の門をたたいたのです。井形先生が来られなければ、難し▽170 そうな神経内科を専攻することもなかったかもしれません」
医局時代の福永氏のあげた功績でもっとも大きなものは、神経内科のメッカであるアメリカのメイヨークリニックに3年間留学し、その間に成し遂げた世界で初となる筋無力症候群の病態解明。世界神経学会で発表されて注目を集めたばかりか、一流国際誌に掲載されたこの論文は、神経内科の教科書に永久に残るものとなっている。そのまま研究の道を進んでいても大成していたに違いないが、福永氏は日本への帰国後、筋ジストロフィーやALSなどの神経難病、肺ガン、重度心身障害の治療など、国の政策医療を担う国立療養所南九州病院に井形教授の命を受けて1984年に赴任(現在院長を務める)、臨床医としての己を見出していく。
「南九州病院へ来たばかりのころは、病院長が電子顕微鏡などのハードも整えてくれて、しばらくは研究を継続していましたが、日本のシステムではとても臨床の片手間にやる研究で成果をあげることはできません。しかも私自身が、病棟に入りびたりになってしまいましたから(笑)」」(169-170)
「昔通に生まれて昔通に生きている。特別な目で見ないでほしい
美しい人に会った。
たぶん福永秀敏という人は、「難病に取り組む立派な医師」という紹介のされ方を望まない。実際、彼は悩みながらここまで来たし、現在し迷っている。筋ジストロフイーやALS(筋萎縮性側索硬化症)などの神経難病の治療を専門とする彼の患者に、完治して退院する者はいない。治せない患者への医師としての無力感、健常者の難病患若への誤解、両立し難い病院経営と満足度の高い医療……。しかし、悩みつづける人だからこそ、その姿は美しかった。
[…]▽167
[…]
患者たちの秀でた能力に自然界の公平の妙を屈じる
[…]▽168
[…]
たとえば、1998年にデュシェンヌ型筋ジストロフイーのため35歳で亡くなった轟木敏秀さん。[…]▽169
筋無力症候群の病態解明で注目を浴びなからも臨床医に
筋ジストロフイーをはじめとする難病患音とのかかわりをもとにした福永氏の著書『難病と生きる』(かごしま文庫)。難病の世界を一般人にもわかりやすく解説し、その対象についしても言及した秀逸の1冊だ。
死について敏感だか、死を克服するカも患者たちは持っていた
[…]▽171
[…]
ある家族との出会いをきっかけに、在宅医療をスタート
[…]▽172
[…]
「経営・管理といった分野は、私のいちばん苦手とするところ。病院長となったときも、井形はその方面をもっとも心配してくださいました。経営では収入を多く、支出を少なくが大前提です。今の出来高払いの保険制度で収入を多くするには、在院日数を短縮して1件当たりの収益を上げることが何より。しかし、そうなると、どうしても難病や手のかかる病人は後まわしにされます。難病医療はかなりの補助金でも出ない限り、今の状況では誰もがやりたがらない分野でしょう。だからこそ、いろいろなバランスをとりながら、当病院を地域の中で競争力のある病院にしていく意味は大きいと感じています」
今の経営が順調なのは、「以前から取り組んでいた在宅医療が在院日数を短くするのもまた高齢化社会の到来という時代背景の中で、病院の収益に結びつくようになったから」と、福永氏は時流にうまく乗れた点を強調する。
彼が在宅医療を始めたのは南九州病院に赴任してすぐのこと。ALSで呼吸が困難な父親の胸押しを2年間つづけている家族をなんとかしてはしいと相談が持ち込まれ、そのとき見せられた子どもの作文がきっかけとなった。
[…]▽173
[…]
最初はボランティアでスタートした在宅医療。その実績が評価され、1994年に厚生省(現厚生労働省)にできた「在宅医療推進の研究班」の班長への福永氏の指名を機に、南九州病院でも組織的に取り組むこととなる。結果、在宅医療が今の病院経営に大きく貢献するようになったのは、時代の流れに乗ったと言うより、患者やその家族の意思を尊重した医療を行う福永氏に、やっと時代が追いついたと言うべきであろう。
[…]
難病と闘う将には、鹿児島出身の勇将たちとの共通点が
[…]▽174
◆福永 秀敏 19990810
『難病と生きる』
,春苑堂出版,227p. ISBN-10:4915093638 ISBN-13:978-4915093630
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※ n02. md.
「筋ジストロフイー
概要
身体を構成する主要な組織の一つである筋肉が、何らかの原因により筋萎縮や筋力低下をきたすときミオバチー(筋肉病)と呼ぶ。その中で、遺伝性で進行性に筋力低下を認める病気が、進行性筋ジストロフイーである。
筋ジストロフイーと呼ばれる病気にも、臨床像や遺伝形式などによりさまざまなタイプ一病型)がある。このなかで患者数が多く、また最も重症であるのがデュシャェンヌ型筋ジストロフイーである。デュシェンヌ型は幼少時に発病後、全身の筋力は進行性に低下し、約十歳で車椅子の生活と筋力は進行性に低下し、約十歳で車椅子の生活となり、十五歳で電動車椅子に移行、二十歳をまたずして呼吸不全で死亡することが多かった。
呼吸が苦しくなり、食べ物がうまく喉を通りにくくなった二十三歳のある青年は、「このまま進行が止まってくれたら」と、どこまでも進行していく病気への思いを、悲痛な表情で表現している。ところが昭相六十年以降、人工呼吸器が装着でき▽101 るようになり、その生命予後には格段の進歩が見られ、今では三十歳をこえる例もめずらしくない。当初呼吸器を装着するかどうかについては賛否両論があった。「呼吸器を着けての延命は幸福といえるか」ということであったが、「二十歳で死ぬのはどう考えても早すぎる、健常者の論理だけで患者さんの幸不幸を付度していいものか」との思いで当病院(国立療養所南九州病院)では呼吸器使用を決意した。そして十数年が経過するが、彼ら見事にその解答をだしている。二十歳を過ぎ、終日呼吸器を着けての生活の中で、多くの患者が感動的な歌を詠み、詩を書き、自分史を綴っていなのである。」(福永[1999:100-101])
■言及
◆立岩真也 2014- 「身体の現代のために・9〜」,『現代思想』
文献表
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◆立岩 真也 2018/08/01
「七〇年体制へ・下――連載・148」
,『現代思想』46-(2018-08):-
↓
◆立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
UP:20160203 REV:20160719, 20180427, 0707, 12
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「難病」
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病者障害者運動史研究
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HOME (http://www.arsvi.com)
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