『日本の名医30人の肖像』
ドクターズマガジン編 20031113 阪急コミュニケーションズ,373p.
■ドクターズマガジン編 20031113 『日本の名医30人の肖像』,阪急コミュニケーションズ,373p. 1800+ ISBN-10: 4484032236 ISBN-13: 978-4484032238 [amazon]
■内容(「BOOK」データベースより)
日野原重明、黒川清、鎌田実…「患者さんのために」という一心で道を切り拓いてきた医師たちの生き様。
内容(「MARC」データベースより)
日本の医学界で知らない人はいない『ドクターズマガジン』選定の日本の名医30人が、自身の生い立ちから「医療の今」を語る。日野原重明、黒川清、鎌田実、柳沢信夫、漫画「Dr.コトー診療所」のモデル瀬戸上健二郎他。
■目次
「よど号」の中で3泊4日をすごし、生と死と老いを突き詰めて考える境地にいたる。― 日野原重明
UCLAの教授の地位を棄て、日本を変えるために戻ってきた。― 黒川清
魂に寄り添う医療。丁寧であたたかな医療を取り戻したい。― 鎌田実
かつて国に棄てられた子どもが成長した今、日本を救う。― 黒岩卓夫
少年のころと変わらぬ純酔な志が、出雲の地に医療の「神話」をつくった。― 瀬戸山元一
日本の神経内科の基礎づくりから長寿医療のナショナルセンター創始へ。― 柳沢信夫
看取ったガン患者への想いを胸に日本のゲノム研究を支える。― 中村祐輔
己と民衆の弱さを認める強さを持ち、医療の民主化のために闘った55年。― 若月俊一
教えを請う若者をひとりも拒まなかった、偉大な教育者。― 宮城征四郎
一介の小児科医でありたいという本懐と、歪んだ医療界を見すごせない反骨精神のはざ間で。― 武弘道〔ほか〕
■引用
◆福永秀敏 20031113 「難病とともに生きてこられたのは患者さんから勇気とやさしさ、耐える心をもらったから。」,ドクターズマガジン編[2003:165-176]
「難病とともに生きてこられたのは患者さんから勇気とやさしさ、耐える心をもらったから。」
国立療養所南九州病院院長 福永秀敏 165-176
「昔通に生まれて昔通に生きている。特別な目で見ないでほしい
美しい人に会った。
たぶん福永秀敏という人は、「難病に取り組む立派な医師」という紹介のされ方を望まない。実際、彼は悩みながらここまで束たし、現在し迷っている。筋ジストロフイーやALS(筋萎縮性側索硬化症)などの神経難病の治療を専門とする彼の患者に、完治して退院する者はいない。治せない患者への医師としての無力感、健常者の難病患若への誤解、両立し難い病院経営と満足度の高い医療……。しかし、悩みつづける人だからこそ、その姿は美しかった。
[…]▽167
[…]
患者たちの秀でた能力に自然界の公平の妙を屈じる
[…]▽168
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たとえば、1998年にデュシェンヌ型筋ジストロフイーのため35歳で亡くなった轟木敏秀さん。[…]▽169
筋無力症候群の病態解明で注目を浴びなからも臨床医に
筋ジストロフイーをはじめとする難病患音とのかかわりをもとにした福永氏の著書『難病と生きる』(かごしま文庫)。難病の世界を一般人にもわかりやすく解説し、その対象についしても言及した秀逸の1冊だ。
この本のタイトルにもあるように、まさに福永氏の半生は難病とともにあった。日本においては、1960年代に問題化したスモンの歴史が即難病の歴史であるとも言われるが、福永氏が難病を専門とするきっかけになったのは、この奇病の発生に深くかかわっている。
「スモンの発病がウイルスなどと言われていたとき、恩師の井形昭弘先生は東大の出張病院で、スモン患者に緑舌、緑尿の人が多いのに気づき、その尿を東大の田村善蔵教授に持って行ったところキノホルムが検出された。結果的に、この発見がスモンの解明に結びっきました。当時、井形先生は東大の助手でしたが、これが契機になって私が在学していた鹿児島大学医学部の教授に抜擢、神経疾患と難病を主テーマとする第三内科学講座が開設された。すでにスモンにおける井形先生の功績は知っていましたし、実際に赴任されてから先生の崇高な理念に触れ、どうしてもこの人のもとで勉強をしたいと新設された第一三内科の門をたたいたのです。井形先生が来られなければ、難し▽170 そうな神経内科を専攻することもなかったかもしれません」
医局時代の福永氏のあげた功績でもっとも大きなものは、神経内科のメッカであるアメリカのメイヨークリニックに3年間留学し、その間に成し遂げた世界で初となる筋無力症候群の病態解明。世界神経学会で発表されて注目を集めたばかりか、一流国際誌に掲載されたこの論文は、神経内科の教科書に永久に残るものとなっている。そのまま研究の道を進んでいても大成していたに違いないが、福永氏は日本への帰国後、筋ジストロフィーやALSなどの神経難病、肺ガン、重度心身障害の治療など、国の政策医療を担う国立療養所南九州病院に井形教授の命を受けて1984年に赴任(現在院長を務める)、臨床医としての己を見出していく。
「南九州病院へ来たばかりのころは、病院長が電子顕微鏡などのハードも整えてくれて、しばらくは研究を継続していましたが、日本のシステムではとても臨床の片手間にやる研究で成果をあげることはできません。しかも私自身が、病棟に人りびたりになってしまいましたから(笑)」
死について敏感だか、死を克服するカも患者たちは持っていた
[…]▽171
[…]
ある家族との出会いをきっかけに、在宅医療をスタート
[…]▽172
[…]
「経営・管理といった分野は、私のいちばん苦手とするところ。病院長となったときも、井形はその方面をもっとも心配してくださいました。経営では収入を多く、支出を少なくが大前提です。今の出来高払いの保険制度で収入を多くするには、在院日数を短縮して1件当たりの収益を上げることが何より。しかし、そうなると、どうしても難病や手のかかる病人は後まわしにされます。難病医療はかなりの補助金でも出ない限り、今の状況では誰もがやりたがらない分野でしょう。だからこそ、いろいろなバランスをとりながら、当病院を地域の中で競争力のある病院にしていく意味は大きいと感じています」
今の経営が順調なのは、「以前から取り組んでいた在宅医療が在院日数を短くするのもまた高齢化社会の到来という時代背景の中で、病院の収益に結びつくようになったから」と、福永氏は時流につまく乗れた点を強調する。
彼が在宅医療を始めたのは南九州病院に赴任してすぐのこと。ALSで呼吸が困難な父親の胸押しを2年間つづけている家族をなんとかしてはしいと相談が持ち込まれ、そのとき見せられた子どもの作文がきっかけとなった。
[…]▽173
[…]
最初はボランティアでスタートした在宅医療。その実績が評価され、1994年に厚生省(現厚生労働省)にできた「在宅医療推進の研究班」の班長への福永氏の指名を機に、南九州病院でも組織的に取り組むこととなる。結果、在宅医療が今の病院経営に大きく貢献するようになったのは、時代の流れに乗ったと言うより、患者やその家族の意思を尊重した医療を行う福永氏に、やっと時代が追いついたと言うべきであろう。
[…]
難病と闘う将には、鹿児島出身の勇将たちとの共通点が
[…]▽174
◆これほどの試練を経ても、彼の献身はまだ、尽きない。
原因不明のスモン解明に緑色物質の分析で迫る
人が大事を成すのに、いちばん大切なものは何か。筋道の通った論理か。抜きん出た行動力か。実現に向けた強い意志か。
現在、名古屋学芸大学学長であり、あいち健康の森・健康科学総合センター長でもある井形昭弘氏のたどってきた経歴は、ひとりの医師のそれとして語れる範瞬のものではない。どうして、井形氏は多くのことを成し遂げられたのか。インタビュー時間はわずか2時間。しかし、その答を知るのに決して短い時間ではなかった。徳、孤ならず。取材後、すっかり彼の笑顔に魅せられていた。「いっしょに飛行機に乗ると落ちる気がしない。万が一落ちても、先生となら本望。そう思わせる人です」
かつての教え子のひとりである国立療養所南九州病院院長の福永秀敏氏の井形氏についてこう語っていた言葉が、埋もれていた記憶の中から鮮やかに浮かび上がった。
難病の歴史のスタートとも言われるスモンが、井形氏にとって最初にかかわった大事。1955年ごろに出現した、「腹痛、下痢などの腹部症状の後に神経症状が続症する原因不明の病気」で、患者数は1万人を超えた。
「集団発生として起こったのでウイルス説が浮上、うつる病気だとされて多数の自殺者も出た。悲惨な病気でした。でも私は最初から、病理所見などを見て感染症の可能性は低いと考えていた。やがてスモン患者の舌に暗緑色の舌苔が見られることが注目され、この緑色の物質の究明を急いでいました」
そして1970年、当時、東大医学部第三内科の助手であった井形氏は、三楽病院で2例のスモン患者に緑尿を見っけ、その分析から緑色物質がキノホルムと鉄の錯化合物であることを発見。スモンがキノホルム服用による薬害である可能性を示唆する端緒となった。
「キノホルムを服用しただけでは、普通尿は緑色を呈しません。たまたま患者さんが貧血で鉄剤が静注で投与され、緑色の錯化合物が尿中に排泄された偶然の発見が、キノホルムにつながりました」
緑色物質を形成するための2要素が稀な確率で結びつき、井形氏の前に。まさに、天運ともいうき偶然だったと言えよう。
その後の疫学調査の結果から厚生省(現厚生労働省)は、キノホルムの販売中止の行政措置をとり、患者の発生は激減、新しい患者の出現は終馬したのである。しかし、この発見が即、スモン問題の解決とはならなかった。医療界でもウイルス説は根強く、スモンとキノホルムの因果関係について疑問視する声が起こる。
「学会でも反論を浴び、当時の新聞などでは、『スモンをめぐる激論、混迷の度をいっそう深め▽224 る!』などと書かれました。教科書にはキノホルムは吸収されず、無害だとあったので多くの人は疑いさえ持っておらず、「あんたは、大学で基本的な勉強もしていないのか」と嘲笑されたこともあった」
一方、訴訟においては製薬会社のみならず、投薬医師が被告に加えられる場面も。
「私は率直に、患者さんやその家族の立場で考えれば、医師が製薬会社の言うとおりに投薬しただけと言うべきではないという見解を主張しました。患者さんの立場から、そう信じたのです」
製薬会社、同業の医師を向こうにまわした訴訟の場で、たとえ正論とはいえ、それを主張するのには勇気がいっただろう。当時の立場はとても厳しかったのではないかと問うと、意外にも穏やかな笑顔だけが返ってきた。
その後、一連のスモン訴訟の中で、スモンとキノホルムの因果関係は立証され、すべての被害者か救済されるという全面解決にいたる。
第三内科にある3つの”ない”
スモンの原因発見で世界的にも注目される存在となった井形氏が、1971年に鹿児島大学第三内科に赴任したのには、いかなる理由があったのか。もちろん、助手から教授へという異例の昇進▽225 ではあるにしても、鹿児島はやはり東京からは遠い地だ。
「スモンの原因解明で多少マスコミに出る機会は増えましたが、それまでは、医局の中で影が薄かった。一方で出張先の長野や静岡の病院では、医師として評価されていると実感ができた経験から、活躍するなら東京以外という気持ちがありました。たまたま、鹿児島大学で第三内科の創設に際した教授公募に応募したら選んでいただけたのです」
第三内科では神経疾患を中心に診療と研究を始めたが、当時、神経疾患は一般に「わからない」「治らない」と言われていた。
「しかし、学生から『この第三内科には、3つの”ない”がある。それは”わからない””治らない”、でも”あきらめない”だ』と言われました。最後の”あきらめない”を評価してくれたのはうれしかったですね」
「私自身が専門に神経内科を選んだとき、先輩から『循環器や消化器を選べば、治して感謝もされる。神経内科は診断をつけるまでで、治せない病気ばかりなのだから、誰も感謝してくれないよ。そんなところをよく選ぶね』と言われましたが、私はむしろ、そういう領域だからこそチャレンジに値すると思いました。治らない病気を治るようにしてみせる。そう誓って神経内科を専攻したので、新しい医局でも、医局員たちにそ、ついう気持ちを持ってほしいと強く願っていました」
そして、ヒエラルキーを排除した民主的な医局づくりを実践。「教室の若い方たちが伸びるのを▽226 邪魔しなかっただけ」と謙遜するが、彼の医局から多くの医学部教授と地域医療にたずさわるすぐれた臨床医が育ったのは、教育者としての井形氏の功績にほかならない。
地域の問題を地域の大学か担当せねば誰かやるのか
自身は明言しなかったが、赴任先を鹿児島に決めた背景に、スモン同様に社会性のある水俣病問題を解決に導けないかという思いが少なからずあったのではないかとの推測は、その後の彼の活動を見ると必ずしも間違っていない気がする。
水俣病は工場排水中のメチル水銀に汚染された魚介類を大量に食べて起こったメチル水銀中毒で、1986年に国がチッソによる公害病と認めた。症状は手足の感覚障害、運動失調、視野狭窄、難聴など実にさまざまなうえに、個人によって軽重も千差万別。患者の認定作業は困難をきわめていた。
「当初、鹿児島大学は紛争に巻き込まれるのを恐れて関係することを蹟踏していましたが、私は『地域の問題を地域の大学が担当せねば誰がやりますか』と主張し、紛争になったら辞めるとの約束で患若の堀り起こしのため、県と一斉検診をスタートさせました」
井形氏らの懸命の活動で、初め12人しかいなかった鹿児島県の認定患者数は、その後700人以▽227 上にまで達する。
患者認定は、補償問題も関与し、実に困難な課題を抱えての作業となったが、井形氏はそこにコンピュータを取り入れ、公正さを保証する方式を提案。また、多変量解析という科学的な手法で患者かどうかの線引きを行うとともに、確定にはいたらない「ボーダーライン層」の設定を提唱した。「汚染が連続的な以上、ボーダーライン層の設定なしにこの問題を解決する方法はなかった。今でもこの信念に間違いはなかったと確信しています」
1995年、井形氏の主張に沿った方向で政府の解決策が示され、患者側がこれを受け入れることで長かった水俣病の補償問題は全面解決へとこぎ着ける。それぞれ異なる裁判判決でもわかるように、置かれている立場によって議論の多い問題であるのは確かだが、彼以外にこの問題の幕引きのできた人物はいなかっただろう。
限りなくローカルなものを限りなくインターナショナルに
当然のように、井形氏のまわりには信棒者の輪が広がった。彼の生き様、考え方は「井形イズム」と呼ばれ、医局内にとどらまず、若い教授たちの間からも共鳴者が現れる。結果、学部長を経ずに1987年、58歳という若さで学長に就任した。地元出身者ではない若い学長。いくら支持者が多▽228 かったとはいえ、各学部の教授会をまとめるには苦労が絶えなかったはずだが……。
[…]
試行錯誤の一歩を日本も歩み出すぺき▽229
[…]
高齢化社会への貢献という点では、介護保険導入における井形氏の活躍にも言及しないわけにはいかない。医師会、歯科医師会、各福祉団体、薬剤師会、看護協会など各代表の意見がぶつかり合う一方で、世論も賛否両論。百家争鳴の体をなす中、医療保険福祉審議会の部会長という立場で、実施への牽引力となった。
「北欧やイギリスなどの制度も高く評価されていますが、最初から完壁な制度を準備して導入した▽230 国などありません。どこも血みどろの試行錯誤のうえに今日があるわけで、そういう意味では日本が介護保険の導入で一歩を踏み出したことにはきわめて意義があるのです。『欠陥だらけの介護保険』『保険料を取ってサーピスがほとんどないなら詐欺』などの反対論がありましたが、それなら現状でいいのかというとノーだという。物事に絶対ということはありません。決断して一歩を踏み出せばいろいろな問題が明らかになります。大切なのは、その明らかになった問題を柔軟に解決し。そういうステップを踏んでいけば事態は必ず前進するはすです」
20002年4月からは新大学の学長併任。尽きない情熟とパワー
1997年より現職のあいち健康の森・健康科学総合センター長に就任し、健康づくりの総合実践にあたっている井形氏だが、2002年の4月からは、新設される名古屋学芸大学の学長も併任。また、屋久島環境保全、尊厳死運動、スべシャルオリンピックス(知能発達障害児の国際交流を促進するボランテイア活動)にも請われて尽力している。
多忙な日々の中にあって、いったいどこにそんな時間があったのか、井形氏は国際内科学会の運営にもたずさわっており、1995~1998年の期間には理事長も務め、バルト3国や台湾の学会加盟の実現にも一役買った。2002年、国際内科学会議が18年ぶりに日本で開催されるにいた▽231 った背景にも、当然、井形氏の存在が大きかったと言われている。
「どこに行っても社会性のある問題ばかりに遭遇し、来る日も来る日も激動のテーマが押し寄せてきた。でも、まわりの方々が盛り立ててくださり、実力以上の仕事ができました。これまでも、そして今も最高にハッピーな人生。感謝しています」
激動のテーマをいくつくぐり抜けても、笑顔を忘れることはなかった。たぶんその笑顔と叡智の前で、誰もが波を盛り立てないではいられなかったのだろう。社会に尽くすという点において、わずかなぶれもなかっか井形氏の人生。これほど多くの試練を経ても、なお彼の献身は尽きない。
(2002年6月号)」
瀬川昌也 持ちうる愛情をすべて医学へ。
筋ジストロフィー
*作成:横田陽子・立岩真也