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芦刈昌信氏インタビュー

20201219 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用

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◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 117分

 ※記録を2つに分けました。
芦刈昌信 i2020a インタビュー・1 2020/12/19 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用(本頁)
芦刈昌信 i2020b インタビュー・2 インタビュー 2020/12/19 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用


立岩:じゃあ、まあそのうち映ったら映ったで、映んなきゃ映んなくてもなんとかなると思うので、始めさせていただきますかな。あ、出ました。

芦刈:出ましたね、はい。

立岩:オッケーです。ありがとうございます。
 だいたいみなさんに、わりと昔のことっていうか、人生の前半ぐらいの話を聞くことが多いんですよ。昨日も、ここのところ、芦刈さんで6人目ぐらいかな、お話を聞いててみんなおもしろいんですけど。今日もよろしくお願いします。

芦刈:よろしくお願いします。

立岩:もともとは、誕生なんですけど、野津町っていうのは、今はないけど、そのときはあった町ってことなんですよね?

芦刈:今、合併して臼杵市になりました。

立岩:そうみたいですね、さっき調べたらそうでした。そこに生まれた。だから、ずっと大分県はずっと大分県なんですか?

芦刈:そうです、ずっと大分です。はい。

立岩:野津町っていうところに生まれて、1976年4月の19日ってなってますけど、それでいいんですね?

芦刈:はい、大丈夫です。

立岩:で、詩集※の奥付というか、そこのところ見て、だいたい何年に何々って書いてあったんですけど。79年に筋ジストロフィーを発症、発病ってなってますけど。

※芦刈 昌信 2018 『詩集 あなたと出会うために』,パレード,262p. ISBN-10 : 486522176X ISBN-13 : 978-4865221763 [amazon][kinokuniya]
1976年4月19日 野津町に生まれる
1979年 筋ジストロフィーを発病
1983年 野津町立野津小学校入学
1986年 国立療養所西別府病院に入院
・国立病院機構 西別府病院 http://www.nbnh.jp/
県立石垣原養護学校小学部に転入
1989年 県立石垣原養護学校中学部入学
1992年 県立石垣原養護学校高等部入学
大分県中央弁論大会にて『高文連会長賞』を受賞
第42回九州高等学校弁論大会(福岡大会)に出場
1993年 別杵地区大会にて最優秀賞を受賞
1995年 県立石垣原養護学校高等部卒業
文部大臣杯全国青年弁論大会にて、『福岡県市長会会長賞(優秀賞)』を受賞
1996年 第一詩集『君が幸せであるために』を自費出版、講演活動を始める
1998年 バリアフリーコンサート実行委員長を務める
2002年 野津町(地元)でおもちゃ箱コンサートを開催
2015年 十二支(詩)作品展を開催
2017年 五行歌作品展『虹のポケット展』を開催
2018年 第二詩集『あなたと出会うために』を出版

芦刈:わかったのが3歳のときで、たぶん生まれつきなんで、筋ジスは。

立岩:型でいうと何型っていう話になってるんですか?

芦刈:あの、デュシェンヌ型です。

立岩:デュシェンヌ型。3歳のときって微妙で、僕なんかはまったく何も覚えてないんですけど。芦刈さんって3歳、そのころのことってちょっと覚えてます?

芦刈:いや、まったく覚えてない。

立岩:だから親が言われたんでしょうね。

芦刈:なんかちょっと歩き方がおかしかったらしいんです。でまあ、心配して親が病院へ連れていった感じで、そこでは分かった感じです。

立岩:昨日聞いたのは、なかなか判断っていうか診断がつかなくてっていう人いましたけど。芦刈さんの場合はどこの病院、大分の病院ですか?

芦刈:別府の、西別府病院ってとこ、

立岩:じゃあ後に入院する、入所する病院のところに親が連れてったってことですか?

芦刈:そうですね。うち、大分はそこしかないんで、総合病院が、うん。そこに紹介された感じですね。

立岩:私実は、血縁はないんですけど、親戚で臼杵に住んでたはずの人がいたりして、だけど行ったことなくて。あと別府も、同じ学校法人でアジア太平洋大学っていうのがにあるんですが、それも行ったことがなくて、ぜんぜん土地勘がないんですけど。野津町っていうのと西別府っていうのは、距離的にいったらどんな感じなんですか?

芦刈:まあ40キロ以上ありますけど。臼杵は県南のほうなんで。佐伯とかわかります?

立岩:わかんないっちゃわかんないし(笑)、名前は、

芦刈:宮崎の県境を、それをもうちょっと一個上ぐらいですね。

立岩:もう県境に近くなるわけですね。

芦刈:はい、海沿いのほうに。野津とか山沿いなんでね。

立岩:そうすると、どうも歩き方っていうか、親が連れてって西別府病院で、3歳のときに診断されて。

芦刈:あ、そう言えば最初に、太陽の家つくった中村先生ってわかりますかね。

立岩:はい、太陽の家※ってはい、有名なところですよね。

※社会福祉法人太陽の家(別府市)http://www.taiyonoie.or.jp/
芦刈:うん、うん、中村太郎※先生。そこになんか相談に、その先生に親が相談にかかってて。それで「西別府病院で診てもらって」って言われて。[00:05:00]

※→http://www.nakamura-hosp.or.jp/about/director/

立岩:太陽の家の人に先に行って、「じゃあ西別府に診てもらえよ」っていうことになって、西別府に行くと。なるほど。それが3歳だから、自分的に、さっきも言いましたけど私はほんとに小学校前半までほぼ何も記憶がないぼーっとした人なんですけど。芦刈さんは83年だから、普通に小学校に上がるわけですけど。この小学校あたりのこと、入る前、入ったあたり、何か記憶に覚えてることっていうのはありますか?

芦刈:あの、その筋ジスの検査をするときに、そのころって筋肉をちょっと採って検査してたんです。足の太ももとか、ちょっと筋肉採って。でなんかその、すごく痛かったし、なんかかすかに記憶があって、うん、うん。

立岩:あれはみんな痛いって言いますよね、当たり前ですよね。筋肉採ってくんだからね。

芦刈:なんかその採ったほうの足のほうが、筋力が弱くなった感じ、うん。

立岩:診断を確定させるにはあれをやるってことに、今でもなってるのかなあ。

芦刈:今はたぶん、しなくて大丈夫。

立岩:今はしなくていいんだ。

芦刈:うん、筋肉採らなくてもわかると思う。

立岩:前はやったみたいですね。それは、芦刈さん小学校入る前だったか、あとだったか? でも前か。

芦刈:入る前ですね。3歳か4歳ぐらい。

立岩:そうですよね、そのころってことですよね。

芦刈:うん、うん。

■小学校

立岩:学校入る、小学校、もちろんその地元の野津町の学校、町立の学校に行ってってことですけど。その学校で途中までいらっしゃるってことですけど、そのあたりのことで何か覚えてることってあります?

芦刈:いつも母が送り迎えしてくれてて、でも帰りは、けっこう友だち多かったんで、そのまま友だちの家に遊びに行ったりしてて。帰るときは自分で歩いて帰ってた感じ。

立岩:そうなんだ。行きはお母さんが?

芦刈:車で送ってくれた。

立岩:その野津町立野津小学校と、その芦刈さん生まれた家っていうのは、距離的にはどんなもんなんですか?

芦刈:あ、車で2、3分ぐらいです。

立岩:じゃあ車だったらすぐだけどっていう距離か。じゃあお母さんに車で、行きはお母さんに連れてってもらったけど、帰りは学校の友だちと、

芦刈:はい。

立岩:そのころはまだ歩けるは歩けるって感じ?

芦刈:1、2年のころはまだちょっと走れるぐらいやったんで。だから全然、歩くなんて支障はなかったぐらい。自転車にも普通に乗ってたんで。

立岩:あ、自転車にも乗ってた?

芦刈:そうですね。

立岩:そんな感じだったから、そうか、学校帰りに友だちとってのもありだったわけね。

芦刈:そうです。

立岩:学級は普通学級ですか?

芦刈:そうですね、普通学級で。

立岩:普通学級に。これって、83年に小学校入って、86年に西別府病院ってなってるんだけど。そうすると、小学校の2年、3年までやって、

芦刈:4年の10月から。

立岩:10月。4年の秋か。3年プラス半年ぐらいやって、4年の半分ぐらいから西別府病院か。

芦刈:はい。階段の上り下りがけっこうきつくて。教室、5年生になったら3階になるから、それだったらきついなと思って。

立岩:よく小学校、学校って1・2年生は1階、3・4年生は2階とか、そんな感じだったんですか?

芦刈:うん、そうですね。

立岩:3、4年で2階は行ったけど、5年生になったら3階だと。これはしんどいと。

芦刈:そのころはかなりもう階段登るのがきつかったんで。うん。

立岩:階段、これもいくつかパターンあるってのが僕わかって。ある人は、自分がそうやって上がらずにすむように、高学年になっても教室を下にした学校があったとかね。あと先生がおぶっていったとか、友だちがやったとか、昇降機をつけたとか、いくつかパターンあるんですけど。芦刈さんって小学校3、4年で2階へ上がるとき、どうでした?

芦刈:まあでもほとんど1人で。友だちがちょっと見守るぐらいで。

立岩:じゃあその2階までは独力というか、自分で上がってたけどっていう感じ。

芦刈:今考えたら、もうちょっと闘って1階にしてもらえばよかったなとは思うんですけどね。そのころはそんなことは全然頭になかった。

■西別府病院

立岩:思いつかないっていうかね、言うっていうことを考えつきませんよね、たぶんね。で、その3階に上がるの大変そうだっていうので、その西別府〔病院〕※へっていうのは、誰が言いだしたとか、誰の提案だったとか、そういうのあったんですか?

※国立病院機構 西別府病院 http://www.nbnh.jp/
芦刈:もう自分で「入院します」って言って。

立岩:自分のほうで。

芦刈:ていうか、あんまり筋ジスってよくわかってなくて。けっこう友だちがこう、「足とか手術したら治るんやろ」って言われて、

立岩:手術、うんうん。

芦刈:ちょっと入院して手術でもしたら、またすぐ退院できるわ、ぐらいの感覚で。

立岩:それは芦刈さん自身が?

芦刈:うん。ただもう軽く入院を決めた。

立岩:筋ジストロフィーっていう名前、名前っていうのは親からとか聞いてました?

芦刈:いや、特にはっきりしたことは聞いてなくて。

立岩:はっきりは聞いてなかったんだ。

芦刈:うん。そのころほとんどわかってなかった。

立岩:でも親は筋ジストロフィーだっていう名前も病院で聞いたわけですよね?

芦刈:うん、もちろん知ってるでしょう。まああの、自分が病気っていうのはわかるけども、何の病気で、これからどうなるのかっていうのはまったくわからない。これからのことが全然知らなくて。

立岩:これもいくつかあるなと思って。カルテを盗み見たっていう人と(笑)、自分には言わなかったけど親が近所の人に言ってたっていう話と、なんかいろいろ、これもいくつかあるんですけど。芦刈さんが「自分は筋ジストロフィーだ」ってなったのは、西別府に移ってからってことですか?

芦刈:そうです、入院してからですね。

立岩:そのときに病院で言われたの?

芦刈:いや、言われてないです。自分とおんなじ病気の先輩とか見て、寝たきりで、けっこうもう弱ってる人とか見て、「ああ、自分もああなるのか」っていうのがわかって、

立岩:体の状態が似た先輩。その先輩が筋ジストロフィーのデュシェンヌ型のっていうのは、どうやってわかるんですか?

芦刈:それはもうなんとなく、みんなおんなじ病気だみたいな感じで、

立岩:ちょっと年上の人たちは自らの病名っていうか、障害名を知ってるっていう感じだったんですかね?

芦刈:そうです、はい。

立岩:でも西別府病院に移るときは「手術したら治るかな」みたいな、そんな感じだった?

芦刈:うん、そうです。甘い考えでした。

立岩:それは誰かに…、まあそうか、友だちに言われたってか。

芦刈:そう、友だちに言われて、それで、

立岩:その西別府病院って、筋ジス病棟っていうか国立療養所で、まあ専門っちゃ専門の病院じゃないですか。そういうこともあんまりピンとはきてなかった?

芦刈:そうですね、きてなかったです。

立岩:でも移る先の病院っていうのは、どうやって決まったんですかね?

芦刈:ようあの、検診とか行きよった、何か月かに1回。まあ入院するんやったらここになるんやろうなと。

立岩:じゃあ3歳以来ときどき検診で。これはやっぱり親が車で連れてくわけ?

芦刈:そうですね、けっこう距離があるんで。5歳のときに検査入院もしてたんで。

立岩:5歳で検査入院したことはある?

芦刈:はい、そうなんです。

立岩:それはどのぐらいの期間の入院だったんですか?

芦刈:それはでも半年ぐらいは入ってたかな。

立岩:じゃあまあまあ、短くはないよね、半年だったら。

芦刈:うん、そうですね。

立岩:まったくなじみがないということではなくて、まあ知ってるところだったと。その検査入院のときは別として、1年に何回ぐらい診察っていうか行ってた、記憶にあります?

芦刈:まあ2か月か3か月に1回は行ってたと思う。

立岩:じゃあ年に5回とか。

芦刈:うん。

立岩:昨日聞いた人は、病院まで車で2時間半かかって往復5時間だったから大変だったって言ってたけど、そこまではかかんないか?

芦刈:そうですね、1時間ちょっとです。

立岩:車運転して行ったのは、お父さん? お母さん?

芦刈:親父ですね。

立岩:小学校の送りはお母さんだったけど、そこの病院行くときはお父さん。

芦刈:病院行くときは、だいたい両親と、

立岩:昨日聞いた石地〔かおる〕さんっていうSMAの人は、送り迎えがこれからあったりするからっつって、お母さんの親に商売替えをさせられてっていうか(笑)。

芦刈:えー!

立岩:「スーパーマーケットをやれ」ってなって、で両親がスーパーマーケットの経営者になり。そうすると自営業じゃないですか。だから確かに送り迎えはずっとそれからってことだったっつったけど。もしよければ、芦刈さんちって親たちというか両親はどういうお仕事なさってたんですか?

芦刈:ああ、母はあの弁当屋に、弁当屋さんに。朝から夕方までけっこう忙しかった。

立岩:お弁当、作るほうね。

芦刈:そう、作るほうです。父はあの、新日鉄わかります? 新日鉄。その下請けの会社で、機械整備とか溶接とかの仕事をずっとやってて。だから土日休みで、平日は毎日普通に働いてました。

立岩:年に4回か5回か病院行くときは、土日だったんですか?

芦刈:いや、そのときは休んで行ってた。

立岩:お父さんが休んで、

芦刈:はい、はい、休んでもらって。

立岩:じゃあ、そんなにこう行ったことはないっていうよりは、最初に診断を受けて検査入院して、年に何回か行ってた病院に、でも特に筋ジスの病院っていうか病棟だっていう意識なく行くのか、4年生の半ばから。でそれは、病院があって、病院の併設の養護学校があって、っていう話だろうけれども、そういう感じですよね?

芦刈:はい、そうです。

立岩:どっちからでもいいんだけれども、病院のほうに暮らすわけですよね?

芦刈:はい。

立岩:それは、6人部屋とか?

芦刈:そのころは8人部屋ですね。6人部屋ぐらいのところを8人ぐらい押し込んでたんで。

立岩:6人部屋だけど8人いたって、そういう話?

芦刈:うん、広さ的には6人ぐらいがいいかなって感じ。8人詰めこんでいたんで、ベッドとベッドの間隔けっこう近かって。うん。

立岩:その8人部屋体制っていうのは、けっこう続きました?

芦刈:けっこう長かったです。高校までは続いたかな。

立岩:高校まで8人部屋っていうか、実際8つベッドがあって、8人埋まってるって感じ?

芦刈:そうですね。そのころはもう学生が多かったんで、だいたいみんなもう学生で、年が近い。

立岩:筋ジストロフィー系っていうか、そういう人が多かったですか?

芦刈:もうそのころは、ほとんど筋ジスだけ。

立岩:みんな筋ジスっていうか。で、男部屋っていうか、ですよね。

芦刈:そうです。

立岩:ちなみに女性って、たとえばデュシェンヌの方にはならないわけだけれども、だから人数的には少ないけど、いないことはないわけで。女性、

芦刈:そのころでも、うちは2人しかいなかったです、女性。40床で2人だけだった。

立岩:2人は1部屋にいる、みたいな?

芦刈:そう、一応女性部屋みたいな。

立岩:それ以外はみんな男たちで。

芦刈:そうですね。であの、小学生とかが女性とまあ一緒にされてた。一緒にいてみたいな、はい。

立岩:どのぐらいの人数っていうの? 1部屋は8人だけれども、

芦刈:40床です。

立岩:筋ジス病棟って言われてるのが40床で。

芦刈:そのころは小児科病棟って言ってました。

立岩:小児科病棟って言ってた。

芦刈:はい。

立岩:40人か。そうすると病室っていうか、8人部屋なりっていうのが何個あったってことだ?

芦刈:中には観察室みたいなとこもあって、で4人部屋のところもあったりして、3つぐらいがたぶん8人部屋みたいで。

立岩:その8人部屋だったところは、年齢的には似たような年齢の人だったのか、けっこう幅があったのか?

芦刈:いや、近かったと思います。小・中・高、

立岩:小・中・高、は、分かれてる?

芦刈:いや、混ざってた。

立岩:小学校4年生で入ったときも、上の世代っていうか、高校生とかそういう子が、

芦刈:あ、なんか小学生のころはちょっと小学生でまとめられてました。はい。だんだん上になるにつれて混合部屋になって。

立岩:上のほうに年齢が、

芦刈:うん、中学校からね。

立岩:一応加齢児って呼ばれるのかな、高等部出てもほかに行くとこもっていうんで、大人…、芦刈さんも今、十分な大人ですが、そういう人たちもだんだん混ざるっていうか、

芦刈:そうですね。

立岩:中等、高等行くとそんな感じか。

芦刈:そうです。けどだいたいもう、25、6で体調が悪くなって観察室に行く感じですね、その当時はね。

立岩:観察室っていうんだね。

芦刈:うん。ナースステーションのすぐ近くなんだけど。

立岩:ナースステーションのね。

芦刈:うん、すぐ近くの、はい。

立岩:先輩たちがそうやって体調悪くなったりっていう、そういう環境。周囲がそうであるっていうのって、ってことも含めて、その小学校、小・中っていうときのそこに暮らしてる感じっていうのは、どんなようなもんでした?

芦刈:やっぱりこう亡くなったりするのを見たりして、朝起きたらベッドなかって、どうしたんかなって思ったら、あとで、向かいの友だちが「亡くなったって聞いた」】って、けっこう震えながらにしゃべってきて、うん、うん。よけいに自分の病気の怖さを知ったって感じです。

立岩:その病室は病室で「それなりに雰囲気がよかった」って思い出してる人と、「そうでもなかった」って、いろいろいるんですけど。芦刈さん的には病室暮らしっていうのかな、その仲間がいなくなったりってのはショックで、そりゃそうだろうなって想像はするんですけど。それ以外の暮らしってことについてはどんな感じでしたか?

芦刈:ああ、まあ世代が近い子が多かったんで、ちょっとまあ一緒にゲームしたりとか、そのころ野球とかもやってたので。

立岩:野球?

芦刈:野球。あの、普通に打ってワンバウンドで、ノーバンで体に当たるとアウトで、ツーバウンドで当たったらそしたらまあヒットみたいな感じで。

立岩:それは校庭っていうのかな、そういう、

芦刈:まああの、室内です。

立岩:室内ってどの室内? その8人いる、

芦刈:いや、体育館とか、ちょっと広めの部屋が、広い施設があったりして、そこでよく集まってみんなで野球大会があって、集まってやってました。

立岩:そのとき、まあ今とその小学校のときはだいぶ違うと思うけど、1日の生活、そろそろ学校のこととかも含めてお伺いすることになるんだけれども、起床、何時起きとか決まっている?

芦刈:えーと、6時起床です。

立岩:6時起きて、それで食堂でごはん食べてたんですか?

芦刈:食堂で食べてましたね。

立岩:食堂で食べて。で、その学校と病院のあいだは屋根のついてる廊下みたいな?

芦刈:ああ、廊下でつながってます。

立岩:廊下があって。それでそのときは移動手段っていうのは芦刈さんの場合はどうしてた? 車いすですか?

芦刈:えーと、6年生まで歩いてたんで。

立岩:6年生まで歩いてた。

芦刈:そこも歩いて毎回行ってて。中学校ぐらいから車いすです。

立岩:その車いすは職員の人が押したっていうような感じですか?

芦刈:いや、自分でこいで。

立岩:自走で。そうですか。

芦刈:まだかなり動けたんで。うん。

立岩:車いすなり、最初は歩いて学校に行き、で学校で授業を受けて。お昼はその、

芦刈:お昼は病院に帰ってきて、

立岩:戻ってきて、っていうことね。そのときにいた養護学校っていうのは、入院してる子どもたちだけのためのものだったのか、通院の人もちょっといたのかっていうのはどうですか?

芦刈:通院の人も、あ、でもそのころは主に入院患者さんですね。

立岩:主に入院の人だから、みんな授業受けてお昼は戻ってきて、で、また学校行って。

芦刈:そうです。

立岩:みたいな生活ね。クラスっていうのはどのぐらいのサイズの大きさの学級でした?

芦刈:ああ、僕のクラスは2人しかいなかったんで、2人だけで。

立岩:2人で。それは同学年っていう分けかた? 学年で分けてるの?

芦刈:そうですね、同い年っていうか。はい。

立岩:同い年の。じゃあ2人で。

芦刈:多いとこは6人ぐらいいるっていうクラスもあって。うん、うん。僕の学年は2人だけだった。

立岩:そこでの暮らしっていうか勉強っていうか、それは今、それは小・中・高ってずっとしゃべってもらってもいいし、小学校のときはっていうのでもいいんだけど、どんな感じでした?

■訓練

芦刈:そうですね。まああの普通に授業をやってて、まあ行事とかがけっこう多かったんで。でまあステージに出てなんか劇やったりとか、歌を歌ったりとか、そういうのがけっこうあったりして。あとまあ療育っていう時間があって。なんか箸で豆をつまんでこう皿に移したりとか、そういうまあリハビリ的な要素もあるのかな。そういうやつ、けっこうやってて。

立岩:それはわりと大丈夫でした? 好き、嫌いで言ったらどんな感じでした?

芦刈:まあ、可もなく、不可もなく。

立岩:その学校と病院の生活のあいだにというか、学校が終わると病院に戻る前に、訓練室みたいなところで訓練みたいなのがあったよっていう人もいたんだけど、芦刈さんはどうでした?

芦刈:そういうのは学校終わってから。リハビリ室があって、そこに通ってた。あまり好きじゃなかった。たまにさぼったり。

立岩:さぼろうと思えばさぼれる?

芦刈:そうです。「調子が悪い」とか言って、リハビリさぼったりは。

立岩:覚えてるところでは、芦刈さん何を、どういうことしたっていうか、させられたっていうか?

芦刈:リハビリですか? まあストレッチと、畳の上に降りてこう四つん這いであったり、いざったり。主にほんとストレッチが多くて、うん。あとはもう半分遊びみたいな感じで。

立岩:それはそれなりに体伸ばして「わりと気持ちよかった」って人と、「痛かった」って「嫌だった」っていう人とそれは分かれるんだけど、芦刈さんはどうでした?

芦刈:あの、歩いてたときは起立訓練っていうのがあって、台に縛られて、うん、20分ぐらい立ってました。

立岩:起立訓練ね。「起きる」っていう起立の訓練ね。

芦刈:うん、はい。

立岩:なんかそれも聞きました。体縛ってっていうか、立位を保つみたいな?

芦刈:あれ20分ぐらいやらされて、けっこうきつかったです。

立岩:20分こう、ひもっていうか縛って、立った状態を保たさせるみたいな? あれはどこが、どういうふうにきついもんなんですか?

芦刈:たぶんあの、長時間立ってるとふくらはぎが、筋肉が痛くて。筋肉痛みたいな。

立岩:ふくらはぎの筋肉痛みたくなるんだ。そのへんは痛くて、そんなに、さっきおっしゃったように好きではなかったと。だからときどき「調子悪い」とか言ってさぼって。

芦刈:そうです。そのころはそんなに重要性はわかってなかったんで、リハビリの、うん。何も考えてなかった。



立岩:それは基本さぼったりはするにしても、学校と、毎日あったみたいな感じですか?

芦刈:毎日ですね、はい。

立岩:それ終わって戻って来て、で、やっぱり食堂で夕食か。

芦刈:はい。夕食が早かったです。4時やった。

立岩:4時にごはん食べて。ほんで、あとはどうなんの?

芦刈:あと、自由時間で。小学生のころは6時から自習時間で、まあ30分ぐらい。で、6時半におやつが出て、いろんなおやつが。夕ごはんが早いっていうことで。そこでまた食堂に集まってみんなで食べたり。

立岩:おやつ食べて。消灯っていうか、消灯の前にそうか、ベッドに上がるっていうか。

芦刈:ベッドに上がるの8時ぐらいですね。8時ぐらいにベッドに上がって、で、消灯は9時ですね。

立岩:それが小学部に入った86年、中等部が89年、高等部が92年、95年に高等部卒業だから、普通にというか、3年3年っていう感じで、同じ中等部・高等部へ行って出てっていうことですよね?

芦刈:そうです。

立岩:その間(かん)、生活なり自分の体なり、周囲っていうかあるいは学校も含めてですけど、どんな感じでした?

芦刈:まあ6年の終わりに歩けなくなって、まあ車いすになって、ちょうど思春期を迎えて、かなり病気のことでこう悩んでて、こう落ち込んでる時期があって。こう歩けなくなったってことが自分的にはショックで。けっこう中学校2年ぐらいまではけっこう引きこもってた感じで。うん。あんまりしゃべるほうでもなかったですね。

立岩:引きこもるっていうのはさ、どんな…、周りの人としゃべらないとか、そういう感じ?



芦刈:まああんまり外に出ないとか。外に遊び行ったりとかなかったし。

立岩:そのころっていうのは、外出っていうのは、親が来るときにみたいな感じですか?

芦刈:あの、僕は毎週土日に帰ってました。

立岩:土日に自宅に帰るってこと?

芦刈:そうです、自宅に帰る。

立岩:土曜日に家に泊って、日曜日に戻るっていうか。

芦刈:はい、そうです。そのころは夏休み1か月ぐらい帰れてたんで。

立岩:じゃあ長い休みのときは実家で過ごす的な感じか。それで小学校高学年ぐらいのときと違うかもしれないけど、自宅に帰れば、小学校の最初、中学年までいた友だちっていうかも近所にいるわけですよね。そういう人たちとの付き合いとかそういうのがあったのか、わりとうちにこもってた感じだったのか?

芦刈:あの、1人すごい仲のいい友だちがいて、土曜日帰ると必ず遊びに来てくれて。だから2人でゲームばっかりやってたんです。その友だちがたまにほかの友だちつれてきたりとかして。で、ほかの友だちとあんまり会う機会はなかったですね。

立岩:その仲のいい友だちっていうのは、小学校に最初に入ったときに友だちになった友だち?

芦刈:幼稚園のころからです。

立岩:じゃあ小学校の前から、

芦刈:そうです。

立岩:友だちだった人が1人いてっていう、そんな感じか。

芦刈:けっこうかばってくれたりしてて。けっこういじめられたりとか、そういうときにかばってくれたりとか。今でも付き合いがあるんです。

立岩:そうなんだ。じゃあ長いですね。

芦刈:長いです。

立岩:76年…、そうか、長いですね。40年とか?

芦刈:ああ、それぐらいですかね。

立岩:田舎ってそういうとこ、田舎っていうか、僕もど田舎なんですけど、そうするとやっぱり小・中・高とあんまり周囲が変わらないじゃないですか。そうすると、僕もやっぱり小学校前からの友だちでずーっとっていうのはいますね、確かにね、近所のね。
 さっきの話に戻すと、6年生のときに車いすになって、それがけっこうショックで引きこもってたっていうときの引きこもり方って…、たとえばそういうときも土日に家に戻るっていうのはしてたわけでしょ?

芦刈:はい、ずっと。

立岩:ですよね。そうするとそのときは、でも前からの友だちとは会ってた?

芦刈:友だちとは会ってたんです。

立岩:でも、引きこもりな感じっていうのはどういう…、誰としゃべんないとか?

芦刈:あのー、外に出ると他人の視線が気になるというか。歩いてたころは全然感じなかったんです。車いすっていうことでなんかすごい見られるなとか、そうされるのが嫌で。

立岩:じゃあ、土日にうちに帰っても、こう、

芦刈:家にいるだけ。

立岩:外に出るっていうのはしなくなったっていうこと?

芦刈:はい、めったに出かけたりとかは。

立岩:それは、いつかどっかでその心境が変わったっていうか? さっきの話だと中1、中2とか、ためらう感じっていうのはどっかで変化してくわけですか?

芦刈:そうですね、そのあいだずっと詩を書いてたんです。で、こう日頃の鬱憤をぜんぶ詩にぶつけてて。それでけっこう自分的にはすごい落ち着いて。詩を書くことで。

立岩:詩っていうのはさ。僕は一昨年インタビューさせてもらったのだと、仙台の岩崎さんとかも詩書く※

岩崎 航 i2019 インタビュー 2019/12/08 聞き手:立岩 真也 於:仙台市・岩崎氏宅

芦刈:ああ、知ってます。

立岩:岩崎さんとかだけじゃなくて、けっこういっぱいありますよね。それは誰かから詩書くの勧められたとか、何かあったんですか?

芦刈:いや、詩とか書くの嫌いだったんですけど、入院して、まあたまに学級新聞とかで、たまに遊び半分でちょっと書いてて。それがだんだんなんか自分の中で生きがいになってきたんですよ。けっこう書いて褒められるのはうれしかったですし。で、その苦しいときに、まあ思いを詩にぶつけて、かなり救われてた感じが、

立岩:けっこう書いたり、発表したりしてますよね、この間(かん)。

芦刈:そうですね。

立岩:自分の中で、だんだんそういうのがおもしろくなってきたっていう変化があったってことかな?

芦刈:そうですね。

立岩:弁論大会的なやつって全然苦手っていうか、だめな人もいるじゃん。だめっていうか、いるじゃない。でも、何回も出てますよね。

芦刈:そうですね、けっこう、

立岩:「大分県の弁論大会で」とかって書いてあるんだけど、それは学校にそういうポスターが来たりとか、どんなふうにしてそれに参加していくわけですか?

芦刈:なんか学校で弁論大会っていうのがあって、そこでまあ先生に勧められて、「ちょっと別府の大会出てみないか」って言われて。

立岩:学校であって、そこの中でちょっと先生「これいいな」みたいになると、「県の大会出ないか?」みたいになるわけか。

芦刈:はい、そうです。まあ僕、作文を書くのが嫌いで、だからすごい最初は抵抗あったんですけど。でも中学校のときの担任の先生だった、がやっぱ国語の先生だったってこともあって、意外…、けっこう詩の書き方とか文章の書き方を教えてもらって、まあ徐々に書けるようになっていった。

立岩:そうか。けっこう書くっていうことに、熱心になっていくわけですね。

芦刈:そうですね。



立岩:そのころって90年代、高校だと93、4、5ぐらい。90年代の終わりだと、まあ80年代の後半ぐらいにパソコン通信っていう遅いメールのやりとりができるようになって。90年代になるとそろそろインターネットみたいな、だいたいそんな感じだと思うんだけど。そういう芦刈さんと、今はまあ、昨日とかもそうですけど、ばんばんメールとかネットでやってるじゃないですか。そういう下界っていうか外とのやり取りみたいなのは、どんな感じがああなってこうなってって、どうなんですかね?

芦刈:ああ、最初は高校のときにけっこうパソコン詳しい先生がいて、学校ではパソコン通信みたいな感じでまあやってて。でまあ病棟に回線つながってなかったので、ただその担任だった先生がまあ病院に働きかけて、まああのインターネットを導入してもらって。うん。それがちょうど高校3年ぐらい。

立岩:94年とかそのぐらいか。まだネットは遅かったけど、そろそろっていう時代ですかね。それは病棟の中のパソコン室みたいな感じなのか、一個一個の部屋、病室に回線が引かれるのか、どうだったんですか?

芦刈:そのころはまだプレイルームってとこがあって。そこに行って使うっていう感じで。まだ1人テレビ1台持てない時代で。だから一緒のテレビをみんなで観るっていう感じだったので。

立岩:病室に1個みたいな感じ?

芦刈:そうです。テレビが1台あって。

立岩:プレイルームには、パソコンが何台かあったんですか?

芦刈:自分持ちのパソコンが、まだあんまり持ってる人少なかったんですよ。

立岩:自分が持ってるパソコンをプレイルームに置くって、そういうこと?

芦刈:そうですね、机を貸してもらって。

立岩:そのころだとまだ、どう? ラップトップみたいなやつなのか、デスクトップ?

芦刈:デスクトップですね、はい。

立岩:それで何してました? っていうのも変だけど。通信はしてた?

芦刈:はい、通信はしてました。してたけど、あんまりこう、そのころは文字ばっかりだったんで。

立岩:そうですよね、最初はね。

芦刈:うん、うん、だから全然おもしろくなかった。あとはメールのやりとりとか、そっちを主にしてたかな。

立岩:メールのやりとりってどういう? 誰とっていうか、どういう人たちとやりとりしてました?

芦刈:まあそのころやってる人少なかったんで。その学校の先生だったりとか。
 あ、カメラが出なくなった。

立岩:え? 何が何になった?

芦刈:いえ、カメラが出なくなった。

立岩:そうですね、今、見えてませんけど。まあだいたい顔わかったのでっていうか、僕は全然大丈夫です。僕もひげ剃ってないから消したほうがいいのかもしれないんだけど。
 わりとパソコン通信でメールのやりとりも、直接に知ってる人っていうようなことが多かったってことですか?

芦刈:そうですね。外部とのつながりっていうのは、まだそのころそんなになかったです。

立岩:そうなんだ。

芦刈:だから、そこまでのネット環境じゃなかったので。うん、うん。

立岩:そうだよね、Facebook(フェイスブック)とか全然まだまだの時期ですよね。

芦刈:Windows(ウィンドウズ)の前から使ってるので。

立岩:そうですよね。で、そんなんで、勉強はどうだったんですか? 勉強はどうだったってのも何ですけど、好き嫌いとか、これは好きだけどこれは嫌いとか、そういうのは?

芦刈:基本、勉強は好きじゃなかったので。まあ国語の時間とかはけっこう好きだったんで。そういう授業のときは、けっこうまじめに勉強してた。あと、書道とかほとんど遊んでて。うん。まあ一応授業的にも普通校みたいな感じの授業をしてて。まあ授業数、時間が少なくて、1時間、45分ぐらいだった。

立岩:1日何?

芦刈:1時間がまあ45分ぐらい。

立岩:45分。1コマっていうか、1限が45分で。たとえば高等部っていうかそこらへんて、45分かけるいくつだったんですか?

芦刈:は、6。6です。

立岩:じゃあまあまあ普通というか、特にすごく短いわけではないんか。国語はそうか、途中からというか、だんだん詩書いたり文章書いたりするのが好きだった。

芦刈:はい。あとなんか数学とかけっこう遅れたりとかもあって、だからまあ高校3年全部を終わらなかった、

立岩:どっちかっていうと文系人間なのかしらね?

芦刈:そうですね。小さいときから数学嫌いでした。

立岩:理科、数学、はい。

芦刈:理科はあの、先生が嫌いだった。

立岩:(笑) それって大きいよね。どういう教師にあたるかでその科目が好きになったり嫌いになったりって、ありますよね。

芦刈:高3のとき、その先生が担任になって、最悪で。

立岩:何、嫌いな理科の先生が?

芦刈:うん。担任になっちゃって、

立岩:それは不幸ですね。

芦刈:もうほとんどマンツーマンみたいな感じになって。

立岩:人数少ないからね。そうだよね、40人ぐらいいると大衆の陰に隠れられているけど、2人じゃ隠れようがないですよね。たとえば生徒2人でさ、教師嫌いなときってどうなんの?

芦刈:もうまじめに授業についていくって感じです。

立岩:え?

芦刈:授業に集中する感じで。

立岩:「もう授業やるしかない」みたいなことになるわけ。

芦刈:うん。いや、その先生、黒板ばっかり見てたら、「ちゃんとノート取れよ」って言うんですけど、今度ノートばっかり取ってたら「黒板を見れ」ってよく言うわけですよ。

立岩:ノート取ったら「黒板見ろ」と言い、黒板見てると「ノート取れ」と言い、みたいな?

芦刈:はい、そんな感じ。けっこう年配の人だったです。

立岩:やっかいですね。それは何、「もうしようがない、言うこと聞くしかないから言うこと聞いてた」ってことですか?

芦刈:そうですね、「はいはい」って感じで。



立岩:なるほど。でさ、高3とかなると、なるとっていうか、学校終わるじゃない? 終わりそうじゃないですか。そうしたときに、養護学校終わるよっていうころに、「さあどうしよう?」みたいなことってちょっと考えたんですか?

芦刈:ああ、でも進路っていうかは、一応、高3ぐらいのときに、太陽の家を見学に行ったことがある。ちょっとなんか働いたりできるかなと思ってまあ見に行ったんですけど、なんか生活をこう自分でしないといけないって感じで。けっこう筋ジスの人にはちょっと難しいかな、みたいな。今みたいにヘルパーは使ってないし。そこでまあちょっと現実的に無理かなっていうことで、まあ「これはもう病院おるしかないのかな」って。

立岩:太陽の家に行こうっていうのは、自分で考えついたんですか? それとも養護学校で言われたっていうか?

芦刈:いや、自分で考えついて。

立岩:一番最初に診断がつく前に、親が太陽の家へっておっしゃってたけど、それとは関係なく?

芦刈:あ、それは、そういうことは僕もほとんど知らなくて。

立岩:じゃあ自分が…、わりと大分じゃ有名ですよね。そういうものがあるのは知ってたから、

芦刈:はい。僕、障害者の人が働くとこは太陽の家っていうイメージがあったんです。

立岩:なるほどね。で、行ってみたけど、そこはやっぱり自分の身の回りのことはとりあえずできるぐらいの身体障害の人しか働けない感じだったから、まあ自分じゃちょっと無理だと。ほんでまあ病院に残るっていうか、かな? っていう、そういう流れですか?

芦刈:そうですね、それでちょっとあきらめた感じです。そのころまだすごい元気で、かなり動けてたんで、今みたいな制度があったら病院出てたかもしれない。

立岩:そうね。そのときは、高等部のときもまだ車いす自走ですか?

芦刈:そうです。卒業してから電動に変わった感じで。

立岩:じゃあ手の指とかも、たとえばパソコン、キーボードとかも自分でやるっていう感じだった?

芦刈:キーボードは直接手で打って。まあ手も上がってたんで。まあそのころ野球でピッチャーでボール投げたりしてたんで、けっこう手とか上がってて。

立岩:小学校のときに始めたっていうか、みんなでやってた野球は、高等部にも入ってもまだ続いてたっていうか、

芦刈:そうです、学校でもやってた。で、投げれるやつがいないんで、

立岩:何する人がいない?

芦刈:ピッチャーできる人がいなくて。2、3人しかいないんで、いつも駆りだされてて、ピッチャーやらされてたんです。

立岩:そのピッチングっていうか投球って、ちなみにどういうふうにして投げるんですか?

芦刈:あの、ゴムボールなんですけど、手を持ち上げて、それを普通に投げる感じです。それで振り下ろして。

立岩:振り下ろして。

芦刈:はい。

立岩:ゴムボールは軽い?

芦刈:そうですね、軽いです。で、プラスチックのバットで。学校では生徒と先生と対決して。

立岩:でもそしたら、先生たち勝ちそうですけど、そういうことでもないんですか?

芦刈:いや、けっこういい勝負で。先生たちけっこう悔しがって、それを見るのが楽しかったですね。

立岩:そのころって芦刈さんって…、まあ音楽好きな人、スポーツ好きな人、泳ぐの好きな人、いくつかあるじゃないですか。で、詩書いてたり何やらかんやで、詩は書くっていうのは、書いてきたっていうのは知ってるんですけど。読んだりするっていうのはどうでした? 詩でも小説でも。

芦刈:僕、あまり本読んでないです。けっこう本読むの遅かったんで。途中でもう断念してたんで、そういうことが多くて。これね、ほんと自己流っていうか。


立岩:じゃあ書くほうも誰かの真似っていうんじゃなくて、けっこう自分でっていう感じか。

芦刈:そうですね。今考えたらもうちょっと勉強しときゃよかったって。苦労してますけど。

立岩:なるほど。じゃあ文字のほうはそんな感じで。野球やってたから野球好きだったとか、そういうのは?

芦刈:まあ野球好きだったけど、そんなにはまって観に行くとかはなかったです。

立岩:観に行くのはなかった。テレビ観るぐらい?

芦刈:僕は日本シリーズを観たりとかはしてましたね。

立岩:九州の人って、どこのファンになるんですか?

芦刈:どうなんですかね。僕は全然関係ない広島が好きなんです。

立岩:それは特にきっかけもなく?

芦刈:なんか、なんとなく山本浩二が好きで、オープン戦とかは観に行ったことがあった。

立岩:山本浩二、そうね、渋いっすよね。じゃあけっこう広島ファンは長いんですか? 今もそうですか?

芦刈:いや、もう今は違う。広島と近鉄が好きで、けっこう日本シリーズで西武にやられるから、西武が勝って悔しかったりする。

立岩:そんなめちゃくちゃ熱心じゃないけど、まあまあ野球を観たり、テレビで観たりとか。

芦刈:今はサッカーのほうが好きです。

立岩:大分ですか、トリニータですか?

芦刈:そうですね、トリニータ。

立岩:ファンですか?

芦刈:もう何回か観に行ったり、

立岩:スポーツのほうはまあまあ。ほら、消灯9時っていうのは、たとえば中・高のときはどうだったの? やっぱりおんなじようなもんなんですか?

芦刈:ああ、もうずっと変わらないですね。

立岩:そうすっとさ、まあ電気消されるから、でも寝るってわけにもいかず、ラジオ聞いてたりとかさ、

芦刈:友だちとしゃべったりとか。

立岩:しゃべってる分にはまあ、そこそこ大声出したりしなければ許されるっていうか?

芦刈:そうですね。「そろそろ寝ようね」とは言われるけど、それぐらいです。うん、うん。

立岩:友だちとしゃべったり、あとたとえばラジオ聞いたり音楽聞いたりってのはありだったの? なかったの?

芦刈:ああ、音楽聞いたりはできてましたけど。そのころラジカセ、電池でつけて。コンセントがなくて、電池を買ってきて、まあそれで聞けって言われてて。あんまり電気使うなとか。

立岩:コンセントはあるけど、つけちゃいけない? それともないの? そもそも1人分、

芦刈:いや、あるんですけど、あんまり使ったらいけんと。特に中学校のころはそれ言われてた。

立岩:そうすると、乾電池で動くっていうか鳴るラジオとか?

芦刈:ラジカセ、乾電池で動くのあった。

立岩:ありますよね。

芦刈:うん。ただ、僕は煩わしいので持ってこなかった。あんまり音楽興味なかったので。

立岩:じゃあ音楽のほうに走った系ではないのね?

芦刈:うん、そうです。

立岩:じゃあ夜は友だちとなんかこうしゃべったりっていう、そんな感じか。

芦刈:あの、歩けてて動いてたころは、昼間親が持ってきたっていう差し入れの食べ物とかを、隠れて寝て食べてました。うん。焼き鳥とか。ちょっとみかんとか食ったときは匂いでばれたんです。こうお腹が減って、まあ食べ盛りだったんで、隠れて食べたりしてたんです。

立岩:外に出るのって、小学校入って週末に実家っていうのはさっき聞きましたけど、中等部、高等部とかになったときに、たとえば買い物行ったりとか、そういうのはありだったんですか? なかったんですか?

芦刈:売店に買い物に行くっていうのは全然大丈夫。

立岩:それは病院の中にある売店?

芦刈:はい、そうです。病院から出るのはだめなんですけど、許可がいるんで。

立岩:「病院から出るときは誰か同行者がいないとだめ」的な条件ってことかな?

芦刈:そうですね、1人では出られない。

立岩:僕、西別府病院って全然わかんないんだけど、市街地っていうか人がどのぐらい…、たとえばスーパーでもコンビニでも何でもいいんだけど、そういうお店に行こうと思えば行けるぐらいの距離にあったんですかね?

芦刈:あの、すぐ…、坂が多いんですよ。こうあの、扇状地なんで、広がってる感じで、坂が。地形的に扇形みたいな扇状地っていう、

立岩:扇状地ね。扇状地の上にあるってこと?

芦刈:けっこう山の上のほうにある。うん。だから移動するのにも車いすで坂を下りないといけないんで。けっこう危ないんで、自由には出れなかった。

立岩:それに、下りたら上がんなきゃいけないですよね。

芦刈:そう、また上がらないといけないので。すぐ下にスーパーあったんですけど、こう行ったら戻って来れないので。まあ病院的にはいいかも、地形的には。脱走しなくていいから。

立岩:じゃあ実質行けない。誰か付き添いっていうか、車いす押したりしてくれる人がいない限りは、そんなに距離的に遠くはないんだけど、坂下のコンビニ、スーパー行けないっていうか。

芦刈:平地だったら、こそっと出てたかもしれないです。

立岩:平地だったら出てたかもしれない。なるほどね。
 そんな感じで小学部は終わり、中終わり、高等部か。それで太陽に行こうっていう行く気もあったけど、行ってみたらちょっと無理だ。そうするとわりと、行政用語的には加齢児とかっていうんですかね。18なら18過ぎても実際には特にどうこう言われず、残ろうと思えば残れたみたいな感じだったんですか?

 ※続き↓
芦刈昌信 i2020b インタビュー・2 インタビュー 2020/12/19 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用


UP:20210208 REV:
芦刈 昌信  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇筋ジストロフィー  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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