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岩崎航氏インタビュー

20191208 聞き手:立岩真也 於:仙台市・岩崎氏宅

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岩崎 航 i2019 インタビュー 2019/12/08 聞き手:立岩 真也 於:仙台市・岩崎氏宅 ※
◇文字起こし:ココペリ121 20191208 岩崎航氏_131分
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録

立岩:その〔インタビューを文字にした〕記録を見ていただいて、省きたいとか、あるいは場合によったら書き足したいとか、そういうこともあると思うので、それを見ていただいて、それをそのままというか、みなさんがホームページで読めるように、っていうようなことを今やってるんですね。

岩崎:はい。

立岩:で、あ、そうだ、やっぱり仙台だ。この間、全国自立生活センター協議会っていう所の集会がやはり仙台でありまして、それに出たおりに…、沖縄、鹿児島、岡山、北海道、東京、みたいな、そんな人に5人ほどお話を聞いて、それが今みんな読めるようになってます★。それからこないだ東京に行った折に東京に住んでる人3人に話聞いたり★。それからこないだは徳島に講演で行ったので、ついでに徳島に住んでる、それは女性ですけど、やっぱり筋ジストロフィーの、お話を伺ったりして★、そうしたものを集める。なんでかっていうと、お聞き及びかもしれません、ていうか知ってると思いますけれども、今特に旧国立療養所に暮らしてきた人がもうずいぶん長く、ていうこともあり、なかには出たい人もいると。出たい人は出られるようにしようと。それからずっといる人は住む環境をもっとよくして…っていう、そういう目的で動いている人たちがいて。私も少しそれを手伝ったりしているものですから。そういうときに、僕もいろいろ話聞いててだんだんわかってきました。やっぱりいろんな経緯というか、のがあって、それで、それなりに一人一人の違いと共通性みたいなものが見えてきて。数やれば参考になるものができていくんじゃないかなと。そんなことをここ、特に1、2年やってるんですよ。で今、岩崎さん、しゃべるのって体調的にどのぐらいの時間、

岩崎:けっこう喋れますよ。

立岩:そうですか。それはありがたい、ありがとうございます。それで、お話を伺いたく参上しました。

岩崎:わかりました。

立岩:それでですね、主には二つあって。一つはちょっと昔話というか。実はこの青いほうの本◇を、今日おみやげっていうか持ってきましたけど。この本に書いたんですが、そもそも筋ジストロフィーの対策っていうのは1965年とかに始まるらしいんですけど、その前に、1960年に、後に「ありのまま舎」って作って活動する山田富也さんとそのお兄さんたち、山田三兄弟っていう、その人たちを受け入れたのが西多賀病院で。今日初めて地図で確認したら「ああ、このへんにあるんだ」って思いました。お兄さんもそこにいらっしゃるというふうに聞きまして。そういうこともあって、西多賀が60年に、それは、で、なんとですね、その時に西多賀病院の院長だった人っていうのが、研究所を作りたいとかいろいろ運動するんですけど、定年になって郷里の徳島に戻られた。その元院長の近藤文雄さん(1916〜1998)と一緒に徳島で活動してきて、その彼のことをよく知ってるって人が、僕がこの間徳島に行ったら会ってくれて、ちょっと昔話を聞いたりとか◇そういう因縁もありまして。それからお二人ともというか、少なくともお兄さんは長く、それから、いられるっていうこともあって。そういったあたりのことも一つあるんですけど。ただメインは、僕はこの間(かん)、仙台での集会に一緒に出た時◇に来られてた、今『BuzzFeed』に、
◇立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※
◇杉浦 良 i2019 インタビュー 2019/11/08 聞き手:立岩真也 於:徳島市・阿波観光ホテル
◇立岩 真也 2018/09/24 「唯の生」,みやぎアピール大行動 於:仙台

岩崎:ええ、岩永〔直子〕さん。はい。

立岩:彼女とも知り合いではあって、それで岩崎さんのことも聞いて来たっていうのがあるんですが。彼女がまだ読売にいた時に書かれたものとか読んできて。2016年から17年ぐらいにかけていろいろ苦労しつつ、制度を使うようになってきたと。

岩崎:ええ、そうですね。

立岩:主にはそっちの話を聞ければな、と思って来ました。

岩崎:そうですか。わかりました。

立岩:だいたい趣旨説明みたいなのはそんな感じなんですけど。

岩崎:そうですか。

立岩:だいたいけっこう「最近のことから始めますね」っていうと、結局は昔の話に戻って語り直してもらったりってことにもなるんですが。とはいっても、2016年、17年、制度を使おうとして、重度訪問が最初ゼロ回答、マイナス回答っていうか、そんなことがあって。そのあとなんとかそこはクリアして。その状態は基本的には変わらない? 重度訪問の時間ていうのは。

岩崎:そうですね。はい。時間はすでに1回もらっていて、1日24時間、2人制での介助や外出時の介助をふくめて、重度訪問介護799.5時間っていうことになります。そこは動いてないんですけど。

立岩:それは18、19と、今年も完全に同じ時間でって?

岩崎:そうですね、減らされるとかはないです。制度的には通って。そうすればヘルパー介助が使えるようになるので問題はクリアしたんですけど。あとは入ってくれるヘルパーさんをどうやって確保していくかとか、今もそれも全部は埋まっていないので。そこのあたりで苦労があります。

立岩:けっこうそういう人も多くて、二通りっていうか、両方組み合わせなんですけどね。制度がまず出ないっていう、

岩崎:どちらが先かっていう話ですよね。見聞と自分の経験から分かったことですが、これは本来、順序が違うと思うんですが、「制度で介護を支給するからには、まず来てくれるヘルパーが揃えられるかどうか」みたいなことを最初に持ち出されたり。人が揃おうと揃うまいと、制度ではこの人にはこれこれこの介護時間が必要ですよと、個別の状況を見て決定するっていうことが本来のあり方なのですが、そうではない感じがあって。それから、家族がいるのだから「介助は家族がやってください」的な考えが根深くあるようで、当初、仙台市でもそこで難色を示されてしまって、っていうところで。

立岩:その16年から17年にかけてのすったもんだというか、

岩崎:ええ、大変でしたね、それは。

立岩:その大変さはその記事で、記事というか文章で、ある程度見てきたんですけれども。そのあとっていうのは、もう時間が固定されてからは、特に行政のサイドは何も言ってこないっていう感じなのか、あるいは何か、

岩崎:特に何も言わないですよね。

立岩:やって来たりは、

岩崎:もう、来て調査とか検討とかそういうことは特になくて。今後なんか言われるかもしれないところもないように、決める時にきっちり詰めて始めたので、よほどのこと、私の身体能力が奇跡的に大きく回復して介護度が軽くなったりしないかぎり、減らすとか、そういうことにはまずならないと思います。

立岩:これはこれで、そこはいけそうっていう感じなんですね。

岩崎:はい。ただいろんな人に話を聞いてると、つねに呼吸器を使っているような人はわりと必要性がわかりやすいところがあるんだけれども、そうじゃない人については、まだ十分に支給がされてないような。例えば脳性まひとかで、呼吸器は使ってないけど24時間介助が必要だというような人もいますが、そういう人についてきっちり、必要に応じて支給されてるかというと、まだ不十分なところがあるんじゃないかなっていうのはあると思うんですね。気管切開してる人、常時吸引が必要だとか、私のように鼻マスクでも常に呼吸器着けているような人には出ているので、あとに続く人はたぶん大丈夫だと思うんですけど。ただもう一方、そういう人たちについてきっちり支給されているのかというと、まだできてないのではないかなっていう感じがする。

立岩:そうなんですよね。京都なんかでも…、私京都なんですが、やっぱり24という形で取れてるのは、呼吸器使ってるALSの人なんですよね。これ岩崎さんが、仙台市大きい街ですけど、こういう形で24時間というのは最初って言っていいんですか? そうではない?

岩崎:ALSの患者さんには、すでに出ている人がいたんじゃないかな。

立岩:それは、そういう形であるにはあったんだ。

岩崎:そうですね。そう聞いています。

立岩:で、取材されたもの、書かれたものを見て思ったのは、かなり強力な支援があったなっていう。

岩崎:そうですね。相談支援事業所を利用していたので、まず担当の相談支援員に相談しました。それまでメインで介助してきた家族も高齢と持病の悪化で介助できなくなってきているのと、親元から独立して自立して生活するため「24時間のヘルパーさんの介助で暮らしていきたい」ということ、「そうじゃないと現実的に難しいです」というようなことを言って相談したんですけど、そこで一緒に動いてはくれなくて。なんか「前例がない」とか。

立岩:すでに相談員はいたが、その相談員はそのラインではやってくれなかったっていうことですね。

岩崎:「今までに前例がない」とか、例えば「ヘルパーさんは見守りはできません」とか、

立岩:ああ、書いてありましたね。しかし「そんなはずはなかろう」と。

岩崎:そんなことはなかろうと。重度訪問介護では「見守り」ができるでしょ う、ていうふうなところで、たまたま私も自分で知っていたので内心、「いや。 そうは言ってもそれはちょっと違うんじゃないかな」と思って。それでまた今度 は別な支援者に相談していって、それで、あらたに担当の相談支援員も替え、別 の方に。

立岩:最初いて、替わってもらったその相談員は、どういうふうにその人にして たんですか? あるいはどっかの事業所の誰かとか?

岩崎:私が相談員の無理解に困って途方に暮れていて「誰に相談しようか」と 思った時、思い浮かんだのが、伊藤清市さんでした。その方も障害者で、車いす を使っている人なんですけど、前から私も面識があって。仙台では当事者の立場 から長年、障害福祉のいろいろな活動をされている方です。

立岩:その界隈では、

岩崎:ええ、よく知られています。その方にまず相談をしました。

立岩:岩崎さんは彼のことはなんで知ってたの?

岩崎:たまたま姉の同級生で、そこで姉を通して知り合いでもあったんです。普 通の高校に行かれていて、そこでたまたま同級生だったということもあって。こ の問題が出て、相談する前にも何度か会ったりしていた方なので、よく障害者の 生活や介護制度のことに通じていて、社会福祉士でもあるので。そういうふうな こともあって、まず相談をしてみたんですね。それで、その人は仙台市の障害者 相談員って、またちょっと別な、

立岩:仙台市の制度というか、

岩崎:計画相談支援のほうではなく、当事者や当事者家族といった方が障害者の 相談にのってもらえる制度ありまして、その障害者相談員も勤められている方 で。姉から「清市さんに相談してみたらいい」と勧められて、まず相談してみた んですね。そうしたら窮状をわかってくれて、計画相談の相談員との間に立って 理解を得られるようお話ししてくれたりして。それでも、どうしても事態が変わ らなかったので「このままの相談員さんだと申請自体すら難しいので別な人に変 えることも考えたい」っていう私からの申し出で、そこで及川さんを紹介してく れたんですね。2016年の4月でした。

立岩:そういう順番っていうか、経緯だったんですね。

岩崎:ええ。それであの、「じゃあ直接やり取りしてみます」ってことでコンタ クトして、そこから及川さんの関わりが生まれてきました。最初は個人的な相談 する感じだったんですけど、その時に及川さんは、ありのまま舎にも所属してい て、相談員としての仕事もされていたので、そこで引き受けていただくことに なったわけですね。

立岩:あの、名前出てきたからですけど、及川〔智〕さん(1978〜)★、脳性ま ひの、プロレスやってる人ね。プロレスは見たことないんだけれども。この間仙台で会った時に少しお話できて。それからありのまま舎の白江〔浩〕さん★。仙 台としてはというか、最強の布陣だなあと思ったんですけど。

岩崎:本人の意思や切実性も分かったうえで、一緒になってこう動いてくれ る…、引き受けてくれたので、だからそれはちょっと大きかったんじゃないかな あと思います。

立岩:と思いましたね。けっこう強いというか、強力な援護というか。

岩崎:そうですね、まずそこが得られて。

立岩:そこがないとけっこう厳しい場合もあると思うんですよね。

岩崎:当事者の側に立って一緒に動いてくれる相談支援員がいないと、申請が難 しくなってくると思うので、手続き上。

立岩:及川さんは「たすけっと」★っていうね
★CILたすけっと:http://www.arsvi.com/o/ctt0.htm

岩崎:ええ、前に「CILたすけっと」の代表をされていた人です。

立岩:うん。ありのまま舎に…

岩崎:ええ、当時は「ありのまま舎」に勤められていました。

立岩:そこに勤めてて、そこの相談支援員みたいな、

岩崎:はい。

立岩:役所行ったり、って時は、

岩崎:及川さんとともに所長の白江さんも一緒に支援に当たってくれました。役所に行って折衝したり、家にも一緒に来てくれました。

立岩:二人ともっていうことだったんですか?

岩崎:二人とも訪ねて来て、一緒に関わってくれました。

立岩:そうか。僕この青いほうの本書いてて、やっぱりありのまま舎っていうのが、いろんな意味で、でも仙台って筋ジストロフィーのこれまでの動きに関わってきてて、一つは西多賀病院ですけど。やっぱりそこから出て、山田さんがありのまま舎作ってっていう、両方ともね。で、僕らの、よく知らない人のイメージでいうと、ありのまま舎っていうとケア付き住宅っていうかそういうのをやってて。けど、けっこうそうやって、地域で暮らす人の支援もそういう形でしてきてるってことなんですね。

岩崎:そうですね。理解があります。そこで、難しい案件なんだけれども引き受けてくれた。

立岩:その理解っていうのは、例えば脳性まひとは違う、筋ジストロフィーのことを知ってるっていう感じの理解ですか?

岩崎:それも含めてですけど。でも私が家族介助じゃなくてヘルパーさんの介助で暮らしていく、その切実性とかも知っていて。白江さんは山田さんのケアにも関わっていたそうなので、そういうのもあって。家族がどのように困るかとか、本人がどのように大変かっていうことは知っている。理解のある方だと思うんですね。そういうのもあって、難しい案件というか依頼ではあるけど、それも含めて、担当になって引き受けましょうと、いうようなことで乗り出してくれたんじゃないかと。ある意味、誰も拾おうとしない火中の栗であろうことも承知した上で。

立岩:なるほどね。そういう意味で言えば、60年になんかいろいろ経緯があったと、ありのまま舎っていうのが仙台にできて、もう何十年もやってきて。で、その体験もあれば経験もあるっていう人がいて。っていう意味でいうと、けっこうその流れが続いてきて、岩崎さんのほうに繋がってるっていうとこはある気がしますね。

岩崎:そうですね。で、そこで初めてありのまま舎と直接的な接点を持ったわけですけど。

立岩:その前からありのまま舎っていう、そのものは知っていた?

岩崎:名前は知っていました。有名なので。宮城は地元ですから。

立岩:そうですか。じゃあそうやって、ありのまま舎、及川さん、ていうのは、元の元を辿れば、お姉さんの同級生の方が、

岩崎:たまたまそういうことで、こう私が良い支援者に知り合えていたのは幸運だった、相談できるところ…、ほんとうに困ったときに誰に相談するかと。誰にも相談できなかったら難しい。及川さんにも辿り着きませんし。

立岩:そうですよね。いやほんとにそういうことって、京都でもそういうことってあって。

岩崎:ありのまま舎の及川さんに相談支援をお願いしながら、同時並行して、最終的には介護保障ネットの人にも相談しました。介護保障ネット(※介護保障を考える弁護士と障害者の会 全国ネット)ってご存知ですよね? 制度の介護支給交渉の支援をする、

立岩:僕が今日見た記事だと、弁護士のネット〔介護保障を考える弁護士と障害者の会 全国ネット〕があるじゃないですか。あれが途中っていうかわりと初期から入ってますよね。

岩崎:はい。

立岩:それはどうやって知ったか記憶にあります?

岩崎:それはネットで出ていたのと、あと本『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』(山吹書店)★を出していたんですね。その本を読むと、
介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット 編 2016 『支援を得てわたしらしく生きる!――24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち』,山吹書店,発売:JRC

立岩:その本を入手したって書いてありましたよね。

岩崎:そう、実例が載っているんですね。すごく具体的で本当に役に立ちます。

立岩:藤岡〔毅〕さん★たちのとこですよね。

岩崎:はい。

立岩:でもあの本だって、そんなにそこらじゅうにあるような本じゃないじゃないですか。

岩崎:ないですね。調べないと出会えないです。

立岩:それはどうしたんですか?

岩崎:自分である程度調べられた。基本、ネットですね。

立岩:ネット調べたら、検索したらその本が出てきた的な?

岩崎:だからいろいろ調べてきて。それをまず読んでみて、ああ「これはすごいな」と。実例もしっかり書いてあるし、すごく参考になっていったんですよ。「ほんとに埒が明かなかったら相談しよう」と、それは頭の中にもあったんですね。

立岩:そうか。全国の弁護士のほうと、それから仙台ローカルと、両方見ながら、

岩崎:そうですね。制度の介護支給を申請するのには介護サービスの利用計画書とかを用意しないといけないので。それはそれで相談員に作ってもらいつつ、そこで断られるとかでうまくいかないときに、行政に必要性を理解してもらえるように申請するにはどうしたらいいのかってことで手助けしてもらうという両方の支援を受けました。

立岩:わかりました。それは具体的には、「うまくいかなくなったら繋ごうと思ってた」っておっしゃったけれども、具体的にやってもらったことっていうか、それはどういう感じなんですか?

岩崎:なので、支給の出し方についてやっぱり説明するっていうのかな。理解してもらえるように、「なんで自分がこれこれこういう介助が必要であるのか」がわかるように詳細な資料を用意するのに助言をいただいていたんですね、いろいろ。申請までに準備を整えて、「これでどうですか」ということで、しっかりわかってもらえる資料を用意して、それで申請を通すという。

立岩:ああ。書類作る時に、その弁護士、

岩崎:書類作りってすごく大事で。なので相談したんですね。

立岩:そうですよね、この件に関してはね。

岩崎:最初は軽い相談的な感じだったんだけども、途中からは正式に支援を依頼しました。

立岩:コミュニケーションの手段はメールで?

岩崎:基本はメールで、あとは対面での話でも。

立岩:メールのやり取りで書類を作っていく時に、

岩崎:そうですね、助言をいただいていましたね。

立岩:ネットワークに所属する弁護士、でいいんですかね?

岩崎:その介護保障ネットの弁護士さんたちから、アドバイスをもらっていたんですね。

立岩:金沢の古込〔和宏、1972〜2019〕さんの場合は、金沢ってほんとに重訪ゼロだったのですよ。それで、もうその時は紹介してもらった弁護士さんが直接に市のほうに乗り込むっていうかなんていうか、交渉するようなことがあったんですけれども。岩崎さんの場合は書類作りのところでっていうことですか?

岩崎:助言があったり、本を読んでもいたので参考にしながら、自分なりに細かい資料は用意していて、それを出して最終的には通ったわけなんですが、通らなかったら、弁護士さんたちと一緒にもっと徹底した細かい資料を作って積み上げていくことになったと思うんです。

立岩:ローカルの力でうまくいかなくなったら使おうとは思っていたけれどもっていう。

岩崎:最終盤には、実際正式な依頼もしたので。地元の弁護士さん二人。地元で動いてくれる、

立岩:そうなんですね。

岩崎:相談者の地元で理解して動いてくれる弁護士さんに、介護保障ネットの弁護士さんがアドバイスを送ったりしながら、一緒に動く感じです。

立岩:何? 全国ネットに連絡した、メールでやり取りしたっていう相手とは別に、仙台市の弁護士さんがいたってこと?

岩崎:ええ、そうですね。

立岩:ネットに紹介してもらったんですか? その仙台の弁護士さん。

岩崎:そうですね。その方に受任してもらったんですね。介護保障ネットの方は名前を連ねてもらって。それは大詰めになってきたときですね。実際そうやって依頼をしたのは。だけどそこで仙台市のほうが、もっと難航するかと覚悟していたんですが、あちらのほうから理解を示してくれて。

立岩:それは、岩崎さんの感触だとね、最初はけっこう、けんもほろろ的な感じじゃないですか。

岩崎:最初は親身によい感じに聞いてもらえたのかなと思ったけど、けど実際に返ってきたのが、まったく理解のない話だったので、「これは大変かな、難しいかな」と思いました。そこで正式に依頼をして、一緒にやってもらおうということになったんですね。予想が外れて、ほぼ入口ぐらいのところで決着したのは幸いでした。

立岩:その態度変換みたいなものがね、なんだったのか?っていう感じなんですよ。いろんなパターンがありえてさ、

岩崎:なんだったのでしょうね、仙台市。私がかなりアクションを起こして動いたり、あと連載で外に発信したりもしたので、それもあったのかどうなのかは、わからないですけど。実際、その介護保障の弁護士さんとかが乗り出してきて、普通ならあまりないケースだと思うんだけれども、これは諦めないなっていう感じで。根拠に弱さのある理由で断るとかそういうことはちょっとできないんじゃないかと思ってくれたのか、そういうところで、少し態度が当事者寄りになったのかなと。

立岩:バックにけっこう強力なというか、弁護士であるとか、及川さんたちが、

岩崎:あと、相談…、記事にも書いてあったけれども、市会議員の方にも相談しました。そちらのほうは友人に紹介してもらって。障害福祉に理解のある議員さんなので、

立岩:友だちの知り合いの市議会議員さん?

岩崎:そうですね。佐藤わか子議員です。その人にも相談して市政の改善ということで動いていただいたんですね。市の障害者支援課長に会ってしっかり話されたと聞いています。だから相談支援にも相談し、介護保障関係の法律家にも相談し、だからいろんなところに相談をし。あと自分で連載の中で発信したりもして。岩永さんも障害者の介護保障がなされていない社会問題として市の方に取材をしたと聞いています。多方面からですね。

立岩:そうですね。見たら、「ガーン」ってなった時に、「こんなえらいことになりました。みなさん、なんか知恵ありませんか、情報ありませんか?」みたいな、呼びかけですよね。

岩崎:そういう呼びかけをして知恵を集めて立ち向かおうという考えになれたのは、ヨミドクターでの連載で担当編集者だった岩永さんの影響が大きいです。そういうふうなことをして、いろいろ情報をそこで得ることができたんです。まあだからそうやって。それ一人でやっていたらちょっと難しかったと思うんですね。ただいろんなところに相談するなり、呼びかけるなりをして、それでいろんな力が集まってきて。まあそれで動かせたんだと思うんですね。

立岩:行政もその、この人はもう一人じゃないと、いろんな力というか、人がバックについてるよ、みたいなところで、

岩崎:そうですね。あと市の担当者も「本当にこの人に介助が必要なのか」を確かめるために主治医に聴き取りをおこなって。役所は、行政ってこうしたときに医師の意見は重んじる傾向があるので。客観的に医師からレクチャーされて呼吸器患者への理解がちょっと深まったところもあると思うんです。

立岩:それは行政の担当者が、自発的っていうか、行政として医師のほうに確認しに行ったみたいな。

岩崎:そう、だから、再度、勘案事項の調査をするというのか。ただ「前例がないのでだめ」とかじゃなくて、もう一度役所のほうで考え直すっていうのか、「手続きをもっと丹念に進めましょう」みたいな感じで、それで役所の、区役所のほうですね、

立岩:調べ直すというか。

岩崎:もう1回私の主治医、川島孝一郎先生に聞きに行ったわけなんです。

立岩:岩崎さんの主治医に行った?

岩崎:そうですね、私のことわかっているので。そこで常時呼吸器を使っている人は、気管切開の患者でも、鼻マスクで使っている患者でも、介護の必要度は高いと。

立岩:気切のほうが、ってわけじゃなくて、鼻マスクは鼻マスクの、

岩崎:鼻マスクで障害度は軽く見えても、吸引の困難度は気管切開者より高いため、実際の生活における危険度というのは低くないて、逆に高い面もあると。

立岩:かえってそっちのほうが、っていう話ですよね。

岩崎:だからそういうことを主治医が説明をしてくれて、それで役所の人もわかったと思うんですね。「あ、これは必要だよな」ってしっかり分かってもらえた要素もあったと思うんですね。私はそう思っています。

立岩:そんなことがあって、

岩崎:だからそれも全部周りの、やっぱりいろんな力が合わさった

立岩:そんな感じですよね。

岩崎:なので、そこまでやっぱりもっていくと壁が動いたりするのかなと。

立岩:それだけ力を合わせないとだめだっていうのも、それ自体問題なんでしょうけれども、

岩崎:そもそも問題ですね。

立岩:現実にはそういう力が。だからたぶん、本当にまさにそうなんです、京都も僕らみたいな大学の教員も含め、弁護士もいたり、それこそ京都だと京都新聞ですけどね、そういうメディアの人がいたり、医療の関係者がいたりとか。

岩崎:やっぱりそうですよね。

立岩:それがまあ、あん時僕らは10人ぐらいだったかな。直接に京都市の市役所まで、僕も行きましたけど、交渉に行って、それで、ってことが京都の場合ありましたね。でもそこまではなかなか、そんなにいろんな人が、たまたまじゃないですけど、いるっていう地域のほうが少ないじゃないですか。

岩崎:そもそもそんなことまでしないと通らないのかと。たぶんそういうことできたのは、私はたまたまいろいろ書いたりなんだりしてるのと、制度のこともある程度知っていたりもしたので。ただそれを他の人に全部やれって言うのかっていったら、厳しいですよね。本来は、普通に窓口に申請に行き、しっかり来てもらって聴き取りをしてもらい、その人の今置かれている生活の状況や介護の必要度を見てやると。そうすれば普通に通るはずなんだけど。だけど運用が硬いというのか、理解が浅いっていうのか、それが機能しないので。それで、「福祉の役所の人が言うから、そうなんだろうな」と思って、たいがいの人は役所の人が言う解釈が間違っていても、運用が狭くても、やっぱり「ああ、こういうもんだな」っていうふうになっちゃって、それで終わってしまう。

立岩:たいがいの人は、

岩崎:そうなりますよね。でもそれでは運と条件の違いによって、受けられる支援の量と質が決まってしまうことになるので、社会の方であらためないといけません。

立岩:岩崎さんは、相談員を超える知識っていうかさ、そういうのを初発の時点で持ってたわけじゃないですか。だけど「もうこんなもんだ」と思ったら、ゲームセットみたいな感じですよね。

岩崎:だから非常に恐ろしいというのか。たまたま不勉強で知らなかったのか、

立岩:けっこうね、僕が知ってるかぎりだと、相談員っていうか、あるいは病院のMSW、医療ソーシャルワーカーも含めて、制度を、悪意というより、知らない。無知な感じがするんですよね。

岩崎:そう、たぶん悪意とかじゃなくて、知らなすぎる。

立岩:ほんとに知らないんですよね。

岩崎:知らなすぎるので、結局それが、専門の人が言うこととして、やっぱり広まってしまうのと、あと役所の人も、わかれば話が通ると思うんだけど、知らないのとわからないのとで、それで無理解なまずい対応をしてしまう感じで。知ってもらうとわりと、まあよほどの人じゃないかぎり、道理が通れば、「制度的にもこれでいいんだ」「こうすべきなんだな」ということが了解されれば、そんなに難しくないはずなんだと思います。ただ、そこで難しくなっちゃう感じで。

立岩:現場の相談員っていうか、まあ介護保険だったらケアマネージャーみたいな人が介護保険のことは一定知ってるけれども、障害の関係の重度訪問だとか知らない、

岩崎:たぶん最初の相談員が「見守り」を知らなかったのは、そういう部分で知識不足なところ。介護保険の話で見ちゃうとか、居宅介護の話だけで考えてるのか、ていうふうなところがやっぱりあって、それで適切なことが言えない。もしくは、言ったとしても現状では前例を見ても通らないに決まっているから、通るほう、現実的な方向でやらないということで。だから居宅介護で細切れにして支給を求めるっていう手法を言ってきました。重訪で申請しても、介護報酬単価の低さもあって、引き受けてくれる事業者が少ないので、十分に介護が受けられないですよ、という論理で。

立岩:その事業所っていうか、人の話に関しては、これもいろいろあると思うんですよ。「自分でそれはなんとか、これからするから」っていうような言い方もあればさ、そこはどういう? あるいは行政に対して言っていった話と、現実に2017年以降どういうふうに人をっていうのと、両方聞きたいんですけど。

岩崎:そうですね。24時間介護支給が通ったので、さっそくヘルパーの確保を「急がなきゃなりませんね」ってことで、相談支援の及川さんに新規の時間増の部分を引き受けてもらう介護事業所を見つけてもらいました。それで担当者と顔合わせの訪問をセッティングして、それでその方たちも来て「やりましょう」ということで進めていきました。

立岩:最初から複数の事業所の利用っていうか、

岩崎:はい。複数の事業所から派遣を受けて24時間をカバーする形です。自分としては、公私にわたって、もっと活動的に動きたい。たとえば、夕方以降の外出、県外など長距離の外出もしたい希望があるので、その体制を作るために、今も試行錯誤しながら進めています。

立岩:この頃あんまり健康状態よくない人に会ってるからかもしんないけど、パッと見、「ああ、なんかお元気だなあ」と思ったんですよ、今日お会いした時。

岩崎:ええ、体はなんとか元気です。

立岩:顔色とか、いい感じですよね。

岩崎:たまに具合の悪い時もあるんですけど、私の場合、だいたいは疲れからくる頭痛や吐き気症状が多いですね。症状が強くなると気持ち悪くなって、胃腸が水分や栄養注入を受けつけなくなってしまうんです。それがドカンと来ると、点滴で維持することになります。不調は最近も1回ありまして、点滴までにはならずに済みましたが、短期間、栄養注入の一部を水分吸収重視でポカリに換えてみたりとかして乗り切りました。おおむね健康状態はいい感じではあります。



立岩:だいたい2年前、3年前からこれまでっていうのは、いろいろ書いたもの、それから岩永さんが記事にしたものとかあったからですけども、だいたいわかったかなっていう。ありがとうございます。
話疲れとかはないですか?いつでもストップして休み入れるなり、介助なりもなんやかんやしてください。それは言って下さい。でまあ、がらりっていうこともないんですけれども、岩崎さんの場合、学校って

岩崎:私は学校は普通に地域の学校に行ったんですね。

立岩:それは小…、

岩崎:小・中がそうで、高校は地元に通信制の高校があったので、そこに入りました。兄は中学1年の途中から養護学校に転校して、卒業しました。私はずっと地域の学校で通したので、支援学校の関わりとかはなかったんです。[01:05:15] 

立岩:けっこう学校体験っていうのも面白い…、面白いって言ったらなんだけど、人よっていろいろで。誰だったっけな、階段が上がれなくなったんで、3年生になるまで学校のほうが、1階に、1年生も2年生の時も3年生の時もクラスをっていうとこも。とか、同級生がおぶってくれたとか、いろんなのがあったんですけど。岩崎さんの場合、小・中の時の、体のことも含めて、

岩崎:小学校までは歩行はできてました。小6ぐらいからやっぱり不自由さが現れて…、身体能力の差がはっきり障害として出てきたというのはあったんだけど、なんとか自力で歩行したりもして。大変なところは、友だちにおぶってもらって助けてもらったこともあります。それで小学校はわりと乗り切ってきたんですけど、中学になると障害がまた進んでいくので、中1ぐらいまではなんとか自力歩行もしていたのと階段もなんとか昇れていたんですね。だけど手すりがないと昇るが大変だということで、それで中学校のほうで手すりを、私が昇る所に付けてくれたりとか、そういう理解は地域の学校もしてくれて。先生やクラスメイトが介助もしてくれました。それで、中1ぐらいはそれでなんとか乗り切れたんだけど。やっぱりどんどん障害が進むので歩きにくくなってきて、トイレまで自力で行くのが難しくなって、その時間に親に来てもらったりとか。あと送迎、行き帰りの登下校は、ちょっと遠かったので、両親に送迎してもらったり。家族の助けを得ながら、なんとか通学していました。

立岩:送迎はご両親、

岩崎:どちらかがやるっていう感じで。トイレまで自力で行くのが大変になってきた頃には、その時間帯に母が来てくれて、それで済ませるみたいなことが、途中から始まりましたね。

立岩:ずっと、ってわけじゃないけれども、

岩崎:そう、助けに来るというようなことで。クラスメイトに、教室移動や階段をおぶったりもらったりはしてもらったんですけど、でもトイレを介助してもらうっていうことについては、頼めばできたのかもしれないけど、私自身も人にそうものを頼むっていうことがあまり上手にできなくて、っていうのか、私のほうでうまく言えなくて。だからそういうふうなのもあって、家族にやってもらうっていうようなことに。

立岩:そうすると何? 送り迎えの時と、1日に何回か、みたいなそんな感じですか?

岩崎:そうですね、1回だったり、昼休みの時とかにちょっと来てもらうとかがありましたね。

立岩:それは定刻とかではなくて?

岩崎:基本は定刻ですね。なので、なので水分調整までしてやってましたね(笑)。

立岩:そうだよね。難しいですよね。

岩崎:だから何時以降水分取ると、途中で尿意をもよおすので、そこまで計算してやってましたね。

立岩:じゃあお母さんが来るまでは大丈夫なように、水は飲まなかったりして、

岩崎:事前に水分調整したけど、だけどやっぱり、そこまでしても人間の体なので(笑)、やっぱりちょっと厳しくなった時もありましたね。

立岩:その厳しくなった時はどうしたんですか?

岩崎:そういう時は、人に頼むとかもありましたけど。先生に言って手伝ってもらうとか、けれど、途中からクラスメイトが見かねて心配してくれて、トイレまでの移動も助けてくれました。ありがたかったですね。

立岩:それもあった? 人によって、体の状態とか地方の地域差とかいろいろあるんでしょうけど、学校入ること自体けっこう厳しかったっていう人もいますけど、岩崎さんの場合は、

岩崎:門前払いはされなかったです。受け入れてくれました。

立岩:小学校はもう。で中学校も特に、入る時になんやかんやっていうことはなかった?

岩崎:そうですね。その時点である程度のことは自力でできていたので。

立岩:それもあるんでしょうね。

岩崎:小学校、中学校についてはやっぱり一定の理解がないと、たぶん、門前払いもありえたかもしれないけど、まあ理解してくれた。

立岩:理解があったっていう気がしますか?

岩崎:そうですね。中学校では副担任制とかもあったので。

立岩:それは最初からそういう副担任がいるような学校だった?

岩崎:そういう学校でした。とくに中1くらいまで、入学間もないころは、その副担任の先生も気にかけてくれたのもありますね。担任は担任としているけど、副担任は少しこう補助するというのかな、手伝う。気にかけてくれるというのかな。

立岩:小・中は仙台市立?

岩崎:仙台市立の学校。

立岩:仙台市立の小学校と、

岩崎:ええ。中学校でしたね。

立岩:市立の中学校に行って。特に中学・高校になるとだんだん状態が重くなっていく。

岩崎:そう。だんだん重くなっていって、車いすに乗るように。中3の頃に車いすに乗るようになった。そうするともう移動がすごく大変。だから基本、階段移動は友だちにおぶってもらったりとか。教室移動しなきゃなんない時に。その頃は友だちにやってもらったりとかもして。その頃はもうかなり友だちに依頼しないとできない状態になっていたので、それでかなり助けられて通えたところがありますね、3年間。

立岩:で、3年終わるじゃないですか。次っていうか、「これからどうしようか」的なことになるじゃないですか。その時のことってどういう流れで?

岩崎:そうですね、中学校通って、「じゃ、次にどうするのか?」って。そこで、普通高校で通える高校、エレベーターとかもついている高校もあったんですけど。そこを受験して落ちたのもあって。じゃあそれで、他に進路として通信制の高校があるので、そちらのほうで続けようということになって。その通信制に入って、自宅で勉強するようになりました。それで普通の学校に通っていた時と違って、通信制の高校だと基本自宅での自学自習で、友人や同級生との交流がやっぱりどうしても少ない、得られないっていうふうなこともあったので、だんだん人との関わりが希薄になってきた。家族とか、ごく限られた知り合いとかの間だけで暮らすようになって。それで、いろいろ本とかにも書いていますけど、そこでちょっと落ち込んだりもして。それで、「この先自分がこう」、なんでしょう、「このまま、障害を持ったまま、こういう形で生きていても仕方がないんじゃないか」っていうことで「未来が開けないんじゃないか」っていうふうなことで、自殺を考えた時期もあったんですけど。そういうようなことも、なんとか自分の中で消化して、今は、死にたいとは思わなくはなっているんですけど。でも当時、そこで苦しんだ時期もあったので、病気を受け入れるとかそういう感じのことですね。ただ障害を持った筋ジストロフィーのまま、自分で、例えば「その病気がなくならないと自分の人生が開けない」とか「将来がない」とかっていうふうに思うんじゃなくて、自分の体のままで生きていくっていうふうなことを、自分の中で消化するのに苦労もあったんですけど、こう本心で「病気を含めたそのままの自分で生きていこう」と納得できたので、それで今に、至っているわけなんですけど。



立岩:それからまたずっと飛びますけど、2016年でしたっけ、「これから何したい?」って言われた時に「一人で暮らしてみたい」と。それから始まった部分もあるじゃないですか。

岩崎:そうですね。そこに至るまで、自分で詩を書く、創作活動するというようなことを、25歳ぐらいの時から始めたわけなんですけど。そこで、短歌とか俳句とかいろいろやってみて、それで、五行歌という詩の形ですが、自由律で五行の詩を書くのが自分のなかでしっくり合う気がしまして。それでずっっと書き続けていたなかで、本を出版することもできて。そこで文章を書くとか詩を書くというふうなことが自分の仕事といいますか、ライフワークのような感じになっていって、自分がやりたいことになっていきました。出版を境目にして、より仕事の要素が加わることで、編集者や表現する人とも出会うことができて。また新聞、雑誌、テレビの取材者も来まして。それで、その人たちといろいろ話したり、出会ったりとかするなかで、自分のなかでも刺激を受けるというのか変わっていくようなところがあって。それで視野というのかな、世界が広がってきたような流れがあって。そこで自分で、自分の意思で、自分の暮らしたいように暮らしていくと。もっと活動的に動いて暮らしていきたいっていうような、そういうところまで、そういう気持ちが自然に出てきたっていうのがあるんです。それが「一人で暮らしてみたい」という思いにも繋がっていくわけですね。

立岩:詩って、読むの好きだったとかそういうことってあったんですか?

岩崎:最初から詩を読んだり、書くのが好きとかはなくて。それまで自分は特に何も創作的なことは一切してこなくてきたんですけど。21歳から4年くらいの間ですけど、すごく体調が悪い時期があったんですね。よくわからない吐き気のような。筋ジスの影響もあるとは思うんですけど、それよりもストレスとかそういうものが原因としては大きかったと思うんですが、いろいろあって、それで定期的にこう具合が悪くなって、普通に暮らせないようになって。病院に入院してはまた戻ってきて。

立岩:その時の病院っていうのは西多賀だったんですか?

岩崎:西多賀病院です。筋ジスの診断を受けて以来、診てもらっていて、定期的に経過観察的な形で通院をしていました。そこで、夜に呼吸器を着けるようになり、鼻から経管栄養するようになりと、病状の進行が重なって。そういうことで自分の体に負担というか、ストレスがあって。ほんとに具合が悪かったので、ちょっと他のことを考えていられない状態でした。それがあまりにも苦しいので、それに飲み込まれてしまって、何か自分の将来のことを考えるとか、何か楽しみを見つけるであるとか、そういうふうなことまでできなかったんですね。毎日そのことでいっぱいになってしまっていて。だけどその具合の悪かった体調がおさまってきたのが、だいたい25歳ぐらいの時。そうすると少し落ち着いて自分のこれからのことを考えられるようになったんですね。それで、こういう寝たような状態の自分でも、何かできることはないだろうかと。それで自分から模索を始めたんですね。それで短い詩を書くということに行き着きました。すごく好きだったからとかじゃなくて、できそうなことを始めるという、

立岩:なんか、やってみちゃったっていう

岩崎:要するにもう最初から「俺にはできない」とか「僕には無理っぽい」とかっていうふうに思わずにまあ、とにかく。手がかりも何もないので「少しでも心が動いて、関心を持ったのからやってみよう」ということで、いろいろやってみたんですね。それで、五行で詩を書くということに。

立岩:じゃけっこう、ソロでっていうか始められた。例えば谷川さんとお話もされてるけれども。僕、「ええー」とか思って、

岩崎:最初は全然あの、とても、なんていうんでしょう、「詩人です」とか「作家です」とかそういう感じではなくて。なんか気が付いたらそういう方とお会いできるようになって。

立岩:僕ね、高校の時谷川俊太郎好きだったんですよ。このぐらいの厚い詩集が二つ出てますけど、あれ僕高校の時買って、今でも持ってる、後生大事に持ってるんですけど。そういう先輩みたいな、手本みたいなのがあって、それに影響されてっていうのじゃなくてもう、始めちゃったっていう感じなんだね、そういう意味ではね。
★ 『谷川俊太郎詩集』(1965、思潮社)、『谷川俊太郎詩集 続』(1979、思潮社)。
立岩 真也 2020/06/00 「『谷川俊太郎詩集』」,河合文化教育研究所編『2020 わたしが選んだこの一冊――河合文化教育研究所からの推薦図書』,河合塾教育開発研究本部,p.23

岩崎:そうですね。五行で詩を書くって、五行歌というマイナーなジャンルがあるんですけど、それ…、それも自分で調べてわかった。

立岩:そういうスタイルの詩があるんだっていうことを。

岩崎:そういうのがあるんだなと。短い詩だと、だいたい短歌とか俳句とかメジャーですけど。それ以外にもそういう五行で自由に書くという形式の詩が。

立岩:で、自分的にはそれがはまったっていうか、

岩崎:そういうことですね。種田山頭火って自由律の俳人がいますけれど、その句集を読んで衝撃を受けてというか、感動したんですね。それが、詩の世界に踏み込んでいくきっかけになりました。

立岩:山頭火は書きだしてから読んだ?

岩崎:短歌や俳句をやり始めたような時に山頭火の句に出会って、それで。自分でも試しに書いてみて、ということです。

立岩:種田山頭火、いいですよね。(笑)

岩崎:いいですね。(笑)



立岩:ああ、そうなんだ。それでね、またバーッと飛びますけど、例えば岩永さん★とかって、あの人はどうやって、こう。突然?

岩崎:岩永さんから、ヨミドクターの「編集長インタビュー」でぜひ取材をさせてくださいとメールをもらったんです。

立岩:作品を読まれてたってことですか? 岩永さんが。

岩崎:詩集『点滴ポール』を読んでくれていました。今度、ヨミドクターの編集長に就任することになり、そこで「編集長インタビュー」という連載をはじめるということで、一番最初に私に取材をして、話を聞きたいと思ってくれて。それで取材の依頼があって出会ったんですね。
その後、自立生活への道を実況的に書いていくコラム『岩崎航の航海日誌』の連載を岩永さんが担当編集で一緒に発信をさせてもらいました。

立岩:その連載が10回ぐらいでしたっけ? 読売であって。その後岩永さん、『BuzzFeed』行ったよね。で、その続編っていうのは、僕1回は見たんですけど、あれは続きはあるんですか?

岩崎:今は一時中断しています。

立岩:止まってるのね。だからシリーズ1が10回ぐらいで、シリーズ2が始まったけど、1回でいったん中断みたいな。

岩崎:そういうことになってますね。いずれ再開したいと思っていますが、いったん仕切り直すかもしれません。

立岩:探し方が悪かったのかなと思ったんですけど、そういうことじゃなくて、今のとこ1回までなんですね。それでね、僕そんなに岩崎さんのこと知ってたわけじゃないけど、ここん中にも筋ジスの人が今までどういう本を書いてきたのかっていうリストが実はあって、よろしかったらあとで。あとこれ、岩崎さんって本読むときって、やっぱこういう本って厚くて重いじゃないですか。手で持たないでしょう?

岩崎:はい。紙の本は自分で読むことができるように、その用途でスキャンにかけてデータにしてパソコン上で読みます。

立岩:必要であればテキストファイルとかもありますので、言ってくださればお送りします。

岩崎:ありがとうございます。

立岩:でも〔この本〕面白いかつったら、まあ…。それでね、100とか、筋ジストロフィーってけっこういっぱい本書いてるのあって。僕的には、岩崎さんって文人(ぶんじん)っていうかさ、作品集が出てるわけじゃないですか。そういうのあったんですけど、そういう時の自分って、特にこの2016年ぐらいから制度交渉みたいなそういう社会活動っていうか、それをやってるっていうかやらざるを得ないっていうか、その自分と完全に連続している感じなのか、「なんかちょっと俺も変わったかな」みたいな感じなのか、そのへんはどう思ってます?

岩崎:最初はそういった社会的になんか踏み込んだ発言をするとかしてこなかったところがあるんですけれど。変わったというよりも、新たに要素が加わったっていう感じですね。自分自身、行政から24時間介護支給を一時退けられたり、介護の問題に直面をして追い込まれた状況もあったので。自分から社会的に何か発言していくことを併せてやるようになったっていうのは〔20〕16年のその問題があって、そういう意識というのかな、発言するというふうなことは私のなかに加わったっていうところがありますね。

立岩:その加わった、自分の足したぶんっていうか、加わったぶんに関して、「けっこうこれもいいかな」っていう人もいればさ、「しょうがない」っていうか、「まあやってるよ」という人もいれば、

岩崎:どちらかといえば、必要に迫られてそうならざるを得ないと。なんていうんでしょうね、これまでいろいろなことを詩やエッセイに書いてきて、いろいろ外に向かって言ってもきて、もう自分がそれに何も言わないというふうなことはできないなと。違う事件とか障害者についていろいろ、

立岩:相模原の時も書かれてますよね。

岩崎:はい。そこで黙っていることもできるわけなんですけど。ただそこで何か言葉を出していくっていうふうなことに、自然にそうなっていったという感じですね。

立岩:自分がそうやって他人の介助使ってって、交渉とか申し込みとかしだして、それがうまくいかなくて、「これはどうしたらいい?」って話になる、それは好き嫌いとは別に、ある種続けざるを得ない部分もあると思うんですけど。他方、例えば昨日会ってくれたALSの人たちであれば、一段落ついてからっていうのもあるんでしょうけれども、そういうライフスタイルというか、コツとかね、そういうのを今、岡部〔宏生〕さんなんかは人に伝えようとかそういうようなことをやってるわけじゃないですか。

岩崎:やっていますね。

立岩:そういうこともそのうちしていくのかな的な、未来予測ってあったりします?

岩崎:それは「誰かができれば、自分にもできるんじゃないか」ということで。私もそうやって、全国で障害者の人が24時間のヘルパー介助で、自分の暮らしを作っている実例というのか、先輩たちがいて、それを見て自分でもやってみようって気持ちにさせてくれるわけなので。全国でそういう人が増えてくれて、いろんな形でやり方は一通りでないかもしれないけれど、実現を積み上げていけば、少しでも何か変えていけるようなところもあるんじゃないかなと思います。結果的に、そうなればいいなっていうのはありますね。

■医療

立岩:まあ当面はそうだよね。自分の生活を軌道に乗せてくっていうか、そっちのほうがもちろん優先でしょうけどね。
 西多賀は通院だけですか、今まで?

岩崎:入院した時はやっぱり具合が悪くて、インフルエンザになったとかで入院とか、経管栄養が入らなくなって点滴をするというようなことで、最初は西多賀病院にかかっていたので。途中から胃ろうをつけ始めた時期に、在宅医療の専門の先生に訪問診療してもらうようになりました。先日のケアのシンポジウムにも、学会にも来られていた川島孝一郎先生、そこの仙台往診クリニックに今はかかっています。そこで在宅医療をしっかりやってくれるので。その後は、ほとんど入院はしないで済むようになりました。自宅での点滴もできますし。在宅でたいがいの医療は受けられます。

立岩:今の主治医は川島さん、みたいな感じなんですか?

岩崎:はい。川島先生を含めて常勤・非常勤の複数の医師や看護師によるチームでの訪問診療です。

立岩:川島さん、いい感じの先生だよね。

岩崎:そうですね、理解があって。在宅の患者さんに理解が深い先生なので。困った時もいろいろやってくれますし。頼もしい良い先生ですね。

立岩:東京で何回か会ったことあって、1回はテレビの生番組の時でした◇。だいたい東京来る時も長靴履いてくるよね、ゴム長。
◇立岩真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya]Kyoto Books
 「二〇〇七年「四月二二日 フジテレビ・報道二〇〇一「代理母・延命治療中止――生と死 渦中の医師・当事者が語る」。日曜朝の生番組。私は後半に出た。記憶に残っているのは、番組の後、司会の竹村健一ら出演者が一休みする部屋での、仙台で在宅医療を行なう医師の川島孝一郎(仙台往診クリニック、川島・伊藤[2007]、川島[2008]他)と医師で作家でもある久坂部羊(著書に久坂部[2007])の対話だ。久坂部が、命を終わらせるしかない具体的な幾つかの状況を語り、大きな病院であればそれでも延命は可能であるとしても、といった趣旨のことを述べ、▽272 それに対して川島が、それは運搬可能な小さな機器を使って在宅医療で容易にまた十分に対応できることだと強く反駁したことだった。」(pp.271-272)」

岩崎:ええ、トレードマークみたいな。

立岩:そうだね。あれはたぶん、楽しんでるね。

岩崎:ベストみたいなのを着ていますね。白衣ではないのがいいです。どこにでも動いていけるような服装で。

立岩:そう。楽しんでますね。「ああ、また来た」「俺、長靴だぜ」って。でも、ああいうタイプの在宅医療できる人って日本中にいるわけじゃないから、けっこうそれもいい条件だなと思うんですよ、相対的にね。

岩崎:そうですね。そうです。

立岩:今回いろいろ聞いてる人の中では、医療との関係、医師との関係が、工夫したり難しかったりっていう人けっこういて。例えばさっき名前出した古込さんなんかだと、そんなに在宅ですぐ見つかんなくて。そうすると、そんなに好きではなかった医王病院との縁が切れないということもあるし。そこはうまく、結局はうまくなんとかはやって、状態悪くなったら医王病院でヘルパーつけながらっていう状態に持っていったんですけど。でも、であるがゆえに、例えば病院の、旧国立療養所のお医者さんと、あまり強いこと言えないとか、いろいろみんな苦労してるんですけど。そのへんは今、岩崎さんはそんなでもない?

岩崎:在宅で暮らしたいという患者本人の意思があり、そのために必要な医療と介護のケアが得られれば十分に家で暮らしていけるという考えを持っている先生なので、その点についてお医者さんで困るとかは全くないです。以前、在宅では治療できないようなこと、臍の部分から膿が出て、膿瘍ができたことがありまして、それで、これは「手術が必要になるかもしれませんね」と。ただ筋ジス患者って全身麻酔の手術を行うと、麻酔から二度と覚めないことがあったり、病状が悪くなってしまうというリスクがすごく高いです。それでリスクがとてもあるんだけど、腹膜炎とかになれば、命に関わるので、それで入院して治療をっていうふうなことで。そうした手配についても先生がしっかりと連携してやってくれるので、だから具合の悪くなった時に医療的には困らない。実際に在宅の患者側に立って考えてくれる人がいるので、その安心感はとても大きいと思いますね。

立岩:その時はそれで、手配してくれて、入院して手術してもらったんですか?

岩崎:はい。通常であれば全身麻酔をかけるんですけど、全身麻酔しないで手術してもらいました。

立岩:えっ、できたんですか?

岩崎:部分麻酔でできたんですね。短い、12、3分ぐらいでやってくれました。普通は30分ぐらいかかるんですけど。腕の立つ先生だったみたいで。まず切って開けて見て、それで腹膜にまで達していた膿瘍を取ってくれたんですね。最初は、開けて見て、全身麻酔をかけての手術が必要なくらいひどいようだったらリスクもあるので深入りは避けようという方針が事前にあったのですが、執刀医の先生が取れると判断してそれで部分麻酔のまま取ってくれたんですね。

立岩:部分麻酔ってことは、それを見てたっていうか、「ああ、やってるな」って感じだった?

岩崎:そうですね。見ることはできないですが、今、腹部の奥でなにかやっているなという感じは、もろにありました。

立岩:痛かった?

岩崎:はい。それはもう、はんぱないすごい痛みでして。後で「手術室の外に叫び声が聞こえました」って他の先生に言われりしました。だけどそれでうまく取れたので。

立岩:でも全身麻酔でリスクっていうよりは、

岩崎:全身麻酔でそのまま目が覚めないとか、そうなったら手術する意味がなくなってしまうので。それで幸運にもなんとか部分麻酔でできたのは、本当に良かった。そういう在宅では治療が困るとか、難しいようなときになったとき、治療できる病院、先生にしっかり繋いでくれて、

立岩:そういうのを、そうか、川島さんとこがやってくれるんだね。

岩崎:それでちゃんと知ってる先生じゃないと、そこまでうまくできないと難しいですよね。

立岩:その手術が何年っていうか、いつ頃だったか覚えてらっしゃいますか?

岩崎:何年だったかな。2007年ですね。

立岩:川島さんが代わって、主治医的になったっていうのがだいたいいつ頃ですか?

岩崎:胃ろうつけた時と同じなので、2005年、29ぐらいかな。

立岩:齢(よわい)29ぐらい。じゃあ川島さん、付き合いけっこう長いんですね。

岩崎:そうですね、もう長くなってますね。途中でこうした山があったりもしましたが。

立岩:それはけっこう好要因ですよね。けっこう病院とか医療との関係でみんな苦労なさって。

岩崎:病院問題大事ですね。呼吸器の問題とかもあるので、やっぱり。

立岩:気切もだいぶ迷われて、今のとこ、これ大丈夫ですか?

岩崎:今はこれで大丈夫な形になりました。訪問看護で呼吸リハビリを入れて、カフアシストの機械も使えるようにして。

立岩:カフアシストを使って、

岩崎:使ったりもしながら、当面これで十分やっていけるっていうことなので。

立岩:お兄さん気切されてて、相談されたら「ちょっとやめとけ」みたいなこと言われたって。

岩崎:ええ、そうですね。相当やっぱり大変な思いもして。経験者なので。

立岩:お兄さんは西多賀、長いんですよね。

岩崎:長いですね。

立岩:何かそのことについて言われたりってことはあります? 聞いたりした。

岩崎:そうですね。以前は、兄弟二人、在宅で暮らしていたんだけれども、ともに障害が重くなってくるのと、私もそうですけど、両親に介助を頼ってやってきたので、このままだと共倒れになってしまうなっていうこともあったり。それで兄が考えた末に地域の病院に暮らしの場所を移して今まで続いています。兄も私と同様で、「何か自分にできることがないか」って模索した時期がありまして。兄の場合は絵を描くということを自分でいろいろやってみて見つけたんです。今も描き続けています。

立岩:僕なんとなく思うんですけど、西多賀って、全国で最初なんですよね。それで、そういうありのまま舎作ったりした人も関わったってこともあるんだろうとたぶん思うんですけど、やっぱりそのあとできて、政策として筋ジスの人を受け入れていった病院より、初期のいくつか、下志津とかも千葉にあるんですけど、最初の一つ二つってそれなりの気合いっていうか気持ちっていうかそういうものが病院にあって。他の「ルーティンでもう、ずっと」っていう病院とは性格違うのかな、っていうような気もちょっとするんですけど。そんな気はしますか? どうなんですかね。普通の病院なのかな、やっぱり。基本普通だと思うんですけど。でも今、ずっとかかられてるわけですよね?

岩崎:そうですね。

立岩:今、ほんとにそれも、もう一つこのところインタビューしてきて思うんだけど、例えば国立病院っていっても、おんなじ予算でやってるはずなのにけっこう千差万別っていうか。一日中ベッドの上から出られないっていうか、ずっといたままっていうところもあれば、わりと自由に外出であったり院内の移動であったりってこともありで、けっこう違うなと思ったんだよね。お兄さん、でも絵描かれてるってことは、絵はどうやって描いているんですか?

岩崎:パソコンで描いているので、

立岩:そうか、パソコンで描いてるって言ってましたよね。じゃあ自分のところの、

岩崎:絵筆を持ってはできないので、自分でパソコンで絵を描くために、マウスの設定なども自分に合わせて工夫して、描き続けてます。

立岩:お兄さんって、お話というか、聞けば答えてくれる人?

岩崎:そうですね。会話はできます。最近は体力的に疲れやすくなっていますが、この間展示をやりました時に、

立岩:二人でやったわけでしょ? 大学で。

岩崎:そう、二人で参加しました。それで6年ぶりにちょっと外に出て。例えば人前でそうやってお話しするとか、

立岩:彼、気切されてるじゃないですか。声はどうしてる?

岩崎:声はわりと、まったく聴き取れない感じじゃないんですよ。話すとなんかコショコショコショっとこう、かすかに聞こえる。静かな場所で、近づいてよく聴かないとわからないですけど、集中するか、慣れれば8割方は聴き取れて声での会話ができます。

立岩:そんな感じなんだね。普段のコミュニケーション…、なんか文字盤使ったり、いろんな人いるじゃないですか。

岩崎:兄は文字盤までは使ってないですね。

立岩:じゃあこう、ひそひそと。

岩崎:それでコミュニケーションはできてますね。

立岩:もし西多賀のことって言ったら、今それで僕らは…、って僕はなんかおまけみたいなもので、京都の人とか兵庫の人とか全国の人たちが旧国立療養所のことを聞きに行ったりとか、アンケート調査やったりとかしてますけど。その病院なり、病院にいる人と地域との関わりっていうのもけっこう違いもあるなって思っているんですけど。

岩崎:はい。

立岩:西多賀っていうのは、そういうんで、少なくとも川島さんの前は病院として利用してたって感じだと思うんですけど。病院てものの位置付けっていうか、位置付けっていってバクッとしすぎてて質問になってないですね。例えば僕が古込さんに会いに医王病院、金沢に行ってたんですけど、たぶん近所の人もあそこに…、ま病院があるのはもちろんわかってますよ。でもどういうタイプの病院でどういう人がいるのかって、たぶん大方の人は知らないと思うんですよ。それは西多賀にしてもそんなに変わんないんですかね、今は。

岩崎:そうですね、患者さんがいろんな活動、絵描くのもそうですけど、音楽をされたりする方もいて、そうしたことが、地元紙で紹介されたりとかもあって。それは患者さんごとにそれぞれ違うんじゃないかと思います。

立岩:完全にシーンと、こう閉じてるっていうことでもないってことですね。

岩崎:外からボランティアの学生さんも来たりしますし、そういう関わりとかもあるみたいです。あと、院内行事の文化祭で、外から人の訪れがあったりして、しんと閉じているというわけではないですね。

立岩:それの有る無しっていうのも違いますよね。そんなことがあって、それで病院出たよっていうのが、この間聞いた沖縄の人で。沖縄の場合は、琉球大だったっけな、の学生さんが来てて、それで一緒に外に出て飲み屋行ったりなんかしてて、でそれが病院出ることに繋がった、とか言ってたけど。全然そういう地域とのっていうか、学生が来るとか来ないとかっていうことがほぼほぼないようなとこもあると。そうするとそういうチャンスもね、だいぶ違ってきますよね。西多賀のことは、もしその西多賀のお兄さんに限らずというか、そういうチャンスがあればまたお伺いすることがあるかもしれませんけど。

岩崎:はい。

立岩:だいたいわかりました。始めて2、3年でけっこう壁というか、ほんとに困ってるっていう人もいるものだから、正直ちょっと心配して来て。でも、「いや、なんとかなるんじゃないかな」って今日思ったので。そういう意味では、僕が安心したってしょうがないんですけど、ちょっと安心、安心ていうとちょっと言い過ぎかな。言い過ぎでしょうけど、なんとかなるような気がして、そうなってほしいなと思ってます。

岩崎:ありがとうございます。なんとかしていきたいです。

立岩:いや、ほんとドツボっていうか、ほんと大変で、暗くもなるし、実際生活が回んなくなるし。でイライラするし。ねえ。そういうのがぐるーって循環しちゃって、介助者に当たったりとかもあるし。

岩崎:24時間介助で生活をする、しようとしている人って、全国でみれば何人もいると思いますが、個別にはそれぞれ状況も違って、なかなか簡単ではないところもありますよね。

立岩:だいたいお伺いしたかったことは聞けて。たぶん詩の話っていうか、「人生とは」みたいな、そういうのはいっぱいこれまでインタビューを受けたりして記事になったりしてたと思うんですけど。僕はもっとずっと形而下的なっていうか、地べた的なというか、そういう話を、

岩崎:生活基盤がないと何にもできないですから。その基盤があって、そこからどう暮らしていきたいのかっていうところが、やっぱりあると思うので。

立岩:僕はもうそういう立場に徹することにしていて。お金の話と、人の話と、そんな話ばっかり聞いて回ってるんですけどね。

岩崎:ええ。だけど前にあの、講演を聞かせていただいた時も、やっぱりああいうお話を聞くと…、なんだろう、世の中が、制度とか、そのためのお金や人のことで、「困った、困った」って言っているような流れに、当事者たちも、どうしても飲みこまれがちになるけど、そうではないんだと、

立岩:そういう話させていただきましたね。

岩崎:「困った、困った」って言うけれども、制度も、お金や人のことも本当は、そんなに絶望的な、まったく光がないとかそういう感じじゃないよ、っていうことを、当事者が知ってるのと知らないのとでは、かなり心持ちが違ってくると思います。

立岩:そうですね。心配しだすと、「やっぱり24時間もったいないんじゃない?」的に周りもなるじゃないですか。

岩崎:そういうふうに傾く世の中になりがちなので。そういう危険なところをやっぱりわかって知っておくというのは、当事者的にはやっぱり、飲まれないようにするっていうのかな。

立岩:そういう仕事はひとつ、僕の仕事だと思って。来年、短いっていうか、あんまりでかくない、こんな重たくない本とかでそういう話をしようかなっていうのは、ひとつ願望としてありまして。ちょうど今日の昼まで校正してたんですけど、僕は東京に16年とかいたもんですから、その時に知り合った高橋修(1948〜1999)っていう、99年だから、もう20年前に亡くなった人の話をずっと書かなきゃと思ってて。で、それをようやく書けて。私の2冊目の本が『弱くある自由へ』っていう本なんですけど、それの第2版という形でできて◇。その先人たちがどういうふうに制度作ったりとか、作ってきたのかとか、そういう仕組みのある社会はほんとに大変なのかみたいな話も含めて。その次に、高橋さん亡くなった後の20年間、僕は僕なりにどう考えてきたとか、また動きが続いてきたとか、そういう話をちょうど今日、ほぼさっき2時間前までやってたんですけど終わったので。本が、奥付的には24日、クリスマスイブに出るので、それはお送りさせていただきます。谷川俊太郎の詩集のようにですね、読んで気持ちいいかっつったら、僕は気持ちいい本は書けないので、気持ちよくはないんですけど。
◇立岩 真也 2020/01/10 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』,青土社,536p. ISBN-10: 4791772261 ISBN-13: 978-4791772261 [amazon][kinokuniya] ※

岩崎:いえいえ、どうもありがとうございます。

立岩:ありがとうございます。僕は今日満足しました(笑)。ありがとうございます。

岩崎:じゃあよかったです。

立岩:なんかひと言、「これ忘れたかな」的なものがもしあれば、お伺いしますし。

岩崎:そうですね、忘れたというのか、なんていうのか、またちょっとこうやって機会とかがあれば、なんでもお話しできることはさせてもらいたいなとは思うので。今とくにこれだけは言いたいというのは。

立岩:そうですか、わかりました。僕、でも2年前でしたっけ、仙台で集会でお会いした時より顔色というか、身体状態よくなった感じがしますね。

岩崎:あんまり変わらないですけど。

立岩:そうですか、そうなんですか。今日はなんか一目見た時にツヤツヤしてるっていうかさ(笑)、思いました。

岩崎:そうですか(笑)。まあ元気で過ごせているので。それがないとちょっと何もできなくなっちゃうので、それはありがたい感じですね。

立岩:…で、ほんとに、ここから出て行く的なことって真面目に考えてるんですか?

岩崎:そうですね。体制ができたら。いちおう目標にしているので。

立岩:お父さん、お母さん、なんとおっしゃる? あんまりこういう〔ご両親がいらっしゃる〕場では聞きにくいかもしれませんけど。

岩崎:それは大丈夫です。

立岩:「そしたら仕方がない」ぐらいの感じですか?

岩崎:いや、まあそういうことですかね。基本的に応援はしてくれているので。

立岩:まだまだお元気そうで。

岩崎:そうですね。まあ年も取ってはきてるんですけどね。

立岩:及川さんたちとは、まだ付き合いはあるんですか?

岩崎:そうですね。フェイスブックとかでも。

立岩:彼らは今けっこう優生保護法の訴訟ことであるとか、

岩崎:支援をされてますね。及川さんご夫妻でされていますね。

立岩:そうそう。あの人★昔、そんな昔じゃないけど、京都にいたんですよ。京都にいたんだけれども、結婚して亭主についてというか、及川さんについて仙台に移っちゃったんです。京都にいた時からちょっと知ってて。ていうか、彼女自身が立命館の国際関係学部かなんかの出じゃないかな。たぶんそんなんで。

岩崎:お二人でここに来ていただいたこともあるので、

立岩:そうですか。どっちもいい感じのキャラですよね。

岩崎:はい。すごくいいです。

立岩:うん。あの及川さんのキャラってちょっと得難いなあ。ジェイソン・ステイサムていう、ごっつい役者ご存知ですか? ガンをぶっぱなしたりするアクション系映画ばっかり出てる役者なんですけど。坊主頭のずっこい奴。それにちょっと似てるなって、この間及川さんに言ったんですけど、「そうですかあ」って。

岩崎:そうですか(笑)。

立岩:「そうですか」って言ってましたね。彼は脳性まひで。この間聞いたのは、なんかちっちゃい頃、いつ頃って言ったかな、腱を伸ばすとか言われて手術をして、それからビローンてなっちゃって、脚がうまいこと…、都合がよくないんだよねーっつって。そういう話も一方で聞いて回ってるんですよね。リハビリテーションのほうとか、治す話とかっていうのも聞いたりすることもあるんですけどね。

岩崎:なかなか無理なリハビリになって、かえって負担になってしまったとか。

立岩:そういう人けっこういらっしゃいますね。

岩崎:そうですね。やりすぎて。

立岩:それはない? そうか。そういう場には行ってないわけだ。

岩崎:筋ジスの医療もやっぱり、だんだん考え方が変わってきたりもしているんで。最初はぎりぎりまで立って歩かせるとか。

立岩:60年代末とか70年代とか、かなりやばいこと、

岩崎:「筋を無理に使い過ぎると、かえって壊れてしまう」ってことがわかってから、体の姿勢を保持するだとか、車いすで長く座っていられるようにするとか、今はそういう流れになってる。

立岩:一時期はかなり乱暴な、乱暴なっていうか、きついっていうか痛いっていうか、ことさせられたみたいですね。

岩崎:ぎりぎり筋を伸ばすとか。まあそれは今はちょっとやってないと思いますね。

立岩:誰だったっけな。国立療養所の隣に養護学校があって、その間に廊下があって、そこを行き来して暮らしてるんだけど、その真ん中ぐらいの所に訓練室みたいなのがあって。学校終わると夕食の前はそこ行って訓練っつって、「いやあ、痛かったあ」って言ってた人がいました★。そうか。でもまあ今のところ、ずっと在宅は在宅でっていうことですよね。

岩崎:そうですね。昔は時代の流れというか、当時の医学で分からなかったのもあるので、いたしかたないところもあるけれども、今は、最初からリハビリを小さい時から適切にされると、その後がえらく違って。きちんとそういう方向でケアしていくと、大人になった時にかなりいい状態を維持していけるっていう。

立岩:この間会った人だと、東京に梶山さんっていう人がいるんですけど、彼の母親かな、看護師だったかなんかで、彼が言うには適切な身体管理をされたんで、俺は今でも丈夫なんだっつっておっしゃってましたね◇。
◇梶山 紘平 i2019 インタビュー 2019/08/25 聞き手:立岩真也 於:東京都武蔵野市・梶山氏自宅 ※

岩崎:そういうことが最初っからうまくできていれば、たぶん。あと研究も進んでるので、薬ができるかもしれませんし。わりと療養環境は良くなっていくっていうことはありますね、これから。

立岩:そうですね。「なんもしなくていい」って話じゃなくて、

岩崎:そう、なんも、はしたほうがいい。

立岩:なんかしたほうがいいんですよね。

岩崎:車いすに長く座っていられるっていうことができないと、座っていられないとか、ていうふうになると、私もですが、やはり不自由さが増しますよね。

立岩:そうですよね。それも多様だなあ。

岩崎:必要ですね。

立岩:でも多様って…、まあそうですね、必要ですよね。お兄さんといくつ、7つ? そのぐらい離れてますよね。

岩崎:兄は50歳ですね。

立岩:50。そっか、43ですよね。

岩崎:ええ、私は43ですね。もうすこしでまた1プラスしちゃう。

立岩:仙台、こっちまで来たの初めてだなあ。やっぱり仕事とかだと、東北大で集中講義やったりとか2回ぐらい来て。でもせいぜいそこらへんまで。駅前か、仙台駅周辺か、行っても東北大ぐらいなんですよね。今回初めて。でもこういう仕事してるとよくて、この間新潟で、やっぱ新潟市でインタビューした、僕新潟出身なんですけど、新潟市ってもこれまで行ったことないとこ行ってインタビューさせてもらったりして。それはそれで面白いなと思ってます。仙台って、このへんわりと落ち着いた住宅街って感じですよね。

岩崎:そうですね。

立岩:なんかみんな一戸建ての、立派っつうか、ちゃんとした庭があったりする家が並んでいて。なんじゃこれは。なんじゃこれはっていうことないんですけど、ちょっと思いました。

岩崎:私の家があるあたりは、そうでもないのですが、周辺はそうですね。

立岩:ほんとに長い時間ありがとうございました。

岩崎:こちらこそ、どうもありがとうございました。

立岩:どうもありがとうございました。




UP:20200914 REV:20200915
岩崎 航  ◇筋ジストロフィー  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
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