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芦刈昌信氏インタビュー・2
20201219 聞き手:
立岩真也
於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用
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◇文字起こし:ココペリ121
https://www.kokopelli121.com/
117分
※記録を2つに分けました。
◇
芦刈昌信
i2020a
インタビュー・1
2020/12/19 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用
◇
芦刈昌信
i2020b
インタビュー・2
インタビュー 2020/12/19 聞き手:立岩真也 於:大分・西別府病院間 Skype for Business使用(本頁)
立岩:平地だったら出てたかもしれない。なるほどね。
そんな感じで小学部は終わり、中終わり、高等部か。それで太陽の家に行こうっていう行く気もあったけど、行ってみたらちょっと無理だ。そうするとわりと、行政用語的には加齢児とかっていうんですかね。18なら18過ぎても実際には特にどうこう言われず、残ろうと思えば残れたみたいな感じだったんですか?
芦刈:うん、残ってる人が多かったです。出る人のほうが少なかった。なんかもうそれがあたりまえみたいな感じ。
立岩:18、高等部終わって、そうか。そのときにご両親は何か言われたとか言ったとかってありますか?
芦刈:いや、特になかった、
立岩:そういう感じで、自然とっていうか流れで、高等部終わってもそこに暮らすことが続くと。そうすると、でも学校には行かないわけだから、昼間とか時間が空きますよね。それで、それからのまあまあ長いあいだってどんな具合だったんですか?
芦刈:まあ一応患者の自治会があって、夏祭りだの忘年会だの行事があって、僕あの、卒業してすぐぐらいから役員やらされて、けっこうそれで行事の計画立てたりして、そういうのでけっこう追われてて。まあ、ある意味充実してた。
立岩:そうですよね。行事を仕切るっていうか、それなりの手間かかりますよね。
芦刈:そうなんですよ。で、うちの母が弁当屋に行ってるってことで、まあコロッケ揚げたりとか、焼き鳥焼いたりとか、そういうの主にやって。
立岩:お母さん弁当屋で働いてるから、お母さんそういうのはできるじゃないですか。で、その施設の中でお祭りみたいなときに、コロッケ揚げたり焼き鳥焼いたりを誰がする? お母さんもしたんですか?
芦刈:親たちがです。入院患者の親たちが。親の会というか。
立岩:あ、親の会ね。親の会の人たちが来て、だからそこには自分の親も含まれてるわけね?
芦刈:そうですね、あとOBの人たちも。
立岩:ああ、そういう人がそういう料理やったりとか、そういうものを、じゃあ誰が何をするみたいなことを決めるような仕事っていうことですよね?
芦刈:そうですね。それでけっこうなんか親とも交流。親もなんかやりがいがあって、まあ行事手伝ったりとかして、うん。なかなか来ない親とかもいるんですけどね。
立岩:そりゃそうですよな。来ない親は来ないですよね。
芦刈:そういうときにまあ集まって、わいわいやって、
立岩:そんなに暇持て余してしょうもなかったというよりは、わりとその施設内のことで忙しく働くというか活動してたって感じか。で、高等部が終わるのが95年。でも今2020年だから、それからでも25年は経ったのか。長いっちゃ長いじゃないですか。その施設内のそういう活動っていうか仕事はいろいろあったんだと思うんですけど、その間(かん)、施設の外とのつながりであったり付き合いであったりっていうのは、そんなにその前と変わらなかったのか、何かこう変化があったのか、どんな感じでした?]
芦刈:えーと、二十歳のときに、詩集を1冊は出したんです。
立岩:二十歳。76年だから、96年ですね。そうですね、「第一歌集」って※。
※1996年 第一詩集『君が幸せであるために』,自費出版
芦刈:卒業して。それで本出してから、けっこうマスコミ関係に出て。うん。だからそれで、まあ本を最初、千冊作ったんですけど。で、あっという間に1か月ぐらいで3千冊。2回増刷して。すごい勢いで売れて。
立岩:千冊刷った、それがなくなった、でいいんですよね?
芦刈:はい。
立岩:で、増刷したってことですか?
芦刈:はい、2回増刷して。
立岩:2回増刷した。ちなみに何冊ずつ増刷したんですか?
芦刈:千冊ずつ。
立岩:千? 千、千、千ってやったの?
芦刈:はい。
立岩:じゃ、3千ってことですよね?
芦刈:はい。
立岩:それはすごいですね。
芦刈:ほぼ完売で。
立岩:私も本書く人間なので、だいたい本っていうのが今どきどれだけ売れないかっていうのはよくわかってるんですけど。僕らで、そうなんですよね、市販されてる本とかでもだいたい2千とかで、増刷しても多い場合でまあ千とか、普通は500とか300とかそんなんで細々とやってるんですけどね。増刷で初刷りとおんなじ冊数刷るって、まあないですね。へー。今、坂野さんって院生聞いてますけど、大学院生とかが書く研究書のたぐいって、今、初版、初刷り500とか、500出りゃ多いほうですね、300。それでもたぶん普通売れなくて、それで終わりっていう(笑)。だいたい今、出版業界ってそうなんですけど。そうか、それで詩集売れちゃったんだ。それで講演とか頼まれるようになったと。
芦刈:はい、そうです。
立岩:どういうところで講演してまわってきたんですか?
芦刈:まあ特に中学校。うん。中学校、小学校ですね。
立岩:それは依頼が来るわけ?
芦刈:そうですね、依頼が。
立岩:それは、依頼は直接に芦刈さんに来るの?
芦刈:まあ直接って感じか、家に電話かかってきて、
立岩:ご実家に。
芦刈:はい。今は病院のほうにもかかってきたりしてるかな。
立岩:病院のほうにもかかってくる。そうすると、その学校行って講演するんだ。
芦刈:そうですね。
立岩:僕も講演っていうのをやるっちゃやるんですけど、わりと学校で講演するの苦手で(笑)、けっこう、はい。それは私の愚痴なんでどうでもいいんですけど。芦刈さん、その中学校の子どもというか生徒っていうか、何をしゃべってきた? それは時と場合によって違ったかもしんないけど。
芦刈:まあ自分の生い立ち話して、3歳で病気がわかって、そこからどういうふうに自分が悩んで成長してきたかっていう話。
立岩:悩んで、で、自立してきたか、そういう自分の生活の過程っていうか、そういうのを語るっていう。
芦刈:うん、それでその病棟の仲間が亡くなった話とか、まあ命について。まあ「自殺はよくないよ」みたいな。
立岩:そうか。自分の周りの友だちっていうか先輩同輩が、別にね、死にたいわけじゃないけど亡くなっていくってようなことがあった中でってことか。そういうね、うん。それって間隔的にはどのぐらいの頻度で講演とか行ったですか?
芦刈:えーと、12月がちょうど人権週間があるんで、で、12月には4件とか5件とか集中して来ることが多くて。僕はその間にもちょこちょこは、月1回ぐらいは行ってたみたいな。
立岩:12月は多いにしても、4回ってそれは確かに多いですね。
芦刈:そうなんですよ、12月はけっこう。
立岩:そのときの移動とかってどういう?
芦刈:それは全部親がやってますね。
立岩:親がね。それで主にというか、基本、大分県内ですか?
芦刈:大分県内ですね。まあ福岡に行ったこともあるんですけど、主に県内で。
立岩:それは今でもずっとその講演、年に何回もっていうのは。
芦刈:いや、もう今は講演全然やってない。
立岩:全然やってない。いつごろまでやってた?
芦刈:28ぐらいですかね。
立岩:28。二十歳のときに第一詩集が出て。そうか、その20代っていう感じですか?
芦刈:そうです。
立岩:今、僕、その第二詩集の奥付のところの著者紹介みたいなとこ見てるんですけど、96年が第一詩集、98年「バリアフリーコンサート実行委員長を務める」って書いてあるんだけど、これはどこのバリアフリーコンサートですか?
芦刈:これ、大分市で。
立岩:大分市が主催したってこと?
芦刈:いや、これは実行委員を集めて、
立岩:場所として大分市でやったってことね?
芦刈:そうです、大分市の場所でやった。もともとは障害者団体のつてがあって、まあ1回目はやったんですけど、もう2回目は完全に実行委員集めて、なぜか僕に白羽の矢が立って、「実行委員長やって」っていう。
立岩:このときのコンサートは、大分の第2回のコンサートだったってこと?
芦刈:そうです。そこから実行委員長に。
立岩:どうでした? どうでしたって言われてもね。
芦刈:まあ、実行委員まとめるのが大変でしたね。そういう経験まったく、ほとんどないので。
立岩:そうか、それまでは組織を、人々を束ねる的な…、そうですよね。
芦刈:まあ自治会っていっても知れてるので。
立岩:何人程度?
芦刈:いや、自治会のそういうまとめるてるのはもう知ってる人ばっかりなので、全然普通にできるんですけど、まったく知らない人をまあそういう感じでまとめていくっていうのは大変で。コンサート自体はすごい楽しくて。企画するのは好きなんで。だからいろんな人に、障害者の音楽やってる人に、いろんな人に声をかけて、「こういう企画でやりませんか?」みたいな感じで。企画するのは好きなんです。そういうのは楽しい。
立岩:それはわりと県内のアマチュアっていうか、音楽やってる人たちが代わりばんこに出て、何か演奏するとかそういう感じのコンサート?
芦刈:そうですね。普通の健常者の人とまあ障害者の人、いろんな人がまあ混ざりあって、
立岩:それを頼まれて、実行委員長をやってとか、
芦刈:うん、そうなんです。
立岩:それ以来、たとえばここに見えてるのと、そのあとやっぱりコンサート、もとの野津町か、だったりとか、そんな感じ?
芦刈:そうですね、そのバリアフリーをやりながら、まあ地元でもやりたいってことで。まあ地元の高校生とか中学生と一緒に。まあボランティア講座っていうのやってたんで、その延長でなんかコンサートやろうかって感じで。まあその内容的にはバリアフリーコンサートと変わらない感じで。障害者と普通の健常者の人が地域で集まって音楽やるっていう感じで。たまに有名な人呼んだりも、ちょっとしてたんです。
立岩:わりとじゃあ、なんだかんだいって忙しいってうか。
芦刈:そうですね。けっこう病院にいながら、外との、社会とつながりがけっこうあったから。かなりコンサート活動で自分も勉強になったし、それで知り合いも増えたりして。
立岩:そうか。けっこう25年長いっちゃ長いけど、その間(かん)することあったよねって感じか。
芦刈:そうです。
■
立岩:病院の中での生活っていうものは、この25年間あんまり変わんなかったって感じなのか、状況っていうのかな、待遇っていうのかな、それは自分の実感としてはどうです?
芦刈:えーと、まあ28ぐらいから、けっこう痰がからむこと多くなって。自分でなかなか出せないので。そこから2、3年痰が出始めて。だから夜間だけ呼吸器つけはじめて。僕はその痰出すのに、30ぐらいからカフアシストっていう機械があるんですけど、それを使って出すようになって。まあ昼間は、呼吸器はずしてるときはほとんどカフアシストしてて。もうなんか自分の時間がどんどんなくなってきて。で、だんだん気力もちょっとなくなってきたりして。で、そのコンサートとか講演活動なんか、もうやめていって。うん。でも呼吸器を1日つけるのが嫌で。けっこう3年ぐらい、けっこうぎりぎりな状態で。
立岩:つけるのが嫌で、つけるまでにそのぐらい時間が経ったって、そういうことですか?
芦刈:そうですね、うん。けっこう我慢してて、ぎりぎり、
立岩:けっこう、じゃあ、つけるぎりぎりは苦しかった?
芦刈:そうですね、息するのにお腹のとこ押してもらったり、息しやすいように補助してもらったり。
立岩:でもしょうがないからかなり我慢したけど、今さっき写真っていうか画像見せてもらいましたけど、ああいうタイプの呼吸器を、30ぐらいですか?
芦刈:いや、8年前ぐらいだから。
立岩:じゃあかなりつけないで暮らしてたんだ。ちょっと待てよ、20代そうやって詩集を出して講演して、コンサートをやったりしてて。それがさっき、僕ちょっとちゃんと聞いてなかったかもしれないですけど、30代になったときに体がしんどくなってきてって聞こえたんだけど、それはそれでいいの?
芦刈:はい、大丈夫です。
立岩:1976年生まれで30だったら、2006年とかそのぐらいかな?
芦刈:はい。
立岩:だとして、そのぐらいから体がしんどくなってきて、ちょっと対外的な活動をするのやめたっていうか、
芦刈:そうですね、体力的に、
立岩:それが30になったのが2006年だとしてですよ。そうだと思うんですけど。それでバイパップっていうか呼吸器をつけたのが何年ぐらいですか?
芦刈:えーと、8年、9年前ぐらい、
立岩:9年前、そうすると2011年とか12年とか。
芦刈:うん、もう24時間つなぐようになってきた。
立岩:そのぐらいか。そうすると、30越して、だんだん体しんどくなってきて、12年ぐらいに呼吸器つけるあいだに、まあだいたい5年ぐらい経ってると思うんだけど。そのあいだの5年間てさ、体的っていうかもひっくるめて、体はだんだんしんどくなってきたけど、まだ呼吸器つけないっていう5年間ぐらいですよね。
芦刈:はい。
立岩:その30代前半の5年間ってどんな感じでした?
芦刈:いやあ、本当、日中とかは痰出しに追われてて。だからほとんどそれで1日が終わることも。まあそのころからちょっと彼女ができて、付き合いだして、まあ一緒に外出とかも、けっこう体調いいとき見計らって行ってたんですけど。いつでも好きなときに出ていいって言われてたんで、そのころは、うん。よく2人で出かけたりとかもしてて。まあ近くに買い物行ったりとかは、遠出はできなかったんですけども。ただその24時間つけると、そういうことも外出も、ちょっと「もうできなくなる」みたいな感じのこと言われて。うん。だからそれが嫌で、まあつけなかった。
立岩:そうか。「呼吸器つけると外出できなくなるよ」っていうのがあって、
芦刈:「病棟からも出れなくなるよ」って言われて。
立岩:そういうことか。
芦刈:車いすに呼吸器を載っけて移動できるってまあ、あ、やってた人もいたんですけど、それはあんまり考えてなくて。僕は寝たきりになるって思ってたんで。でかなりぎりぎりまでがんばってしまった。
立岩:そういうことか。2006年、カフアシストはそのころからやってた?
芦刈:はい。
立岩:それってそんなに時間かかるもんなんですか? さっき、「1日ずっとやってた」みたいなふうに。
芦刈:あの、出しても出しても出てくるんです。で、1日に何回も、何十回もやって。上がってくるたんびに機械出して、まあ口開けてもらってやってたんですよね。うん。
立岩:ということはだよ、彼女と出るにしても、そのカフアシストするためには戻ってこなきゃいけないってことになるわけ?
芦刈:まあ何回もやって十分出してから、まあ出ていく感じ。
立岩:なるほどね。でもカフアシスト自体は病院にあるわけだから、そこでいっぱい取ってから、なんとか。でもやっぱりその日のうちには戻ってこなきゃいけないとか、そんな感じか。
芦刈:そうです。うん。もうなかなか外泊とかも難しかった。
立岩:ちなみに、もし聞いてよければですけど、その彼女はどうなったんですか?
芦刈:え、今も続いてます。
立岩:長いですね。
芦刈:うん。もう、なくてはならない存在になってます。
立岩:そのなくてはならない存在は、どこにいる人っていうか?
芦刈:大分市に住んでるんですけど、コロナの前は毎日電車で通ってきて、
立岩:彼女がその西別府病院に通ってくる?
芦刈:はい、毎日来てました。
立岩:ちょっと待って、毎日、毎月どっち?
芦刈:毎日。ほぼ毎日。うん。2人でけっこう外出の許可をもらってたので。
立岩:そうやって付き合いだしてから、じゃあ何年経ってるってこと?
芦刈:もう11年、2年ぐらいかな。
立岩:けっこう付き合い長いじゃないですか。そうするとね、11年、12年だったらその途中ぐらいに、「それだったら彼女もいるし、彼女と暮らそう」的なことって、そういうのは考えた? 考えなかった?
芦刈:いやあそれがね、けっこう病院で、僕の場合は自由にやらせてもらってて。夜遅く帰ってくるときは、病院の中に家族室ってあるんですよ。病棟に帰るのは時間制限あるので、やけ、夜11時ぐらいになるときは、もうその直接、家族室に帰ってきて、そこでまあヘルパーさんなり友だちなりにベッド上げてもらって、まあそこでまあ一晩寝るっていう感じで。
立岩:え、ちょっとわかんなかった。11時に帰ってくるじゃないですか。で、家族室があると。家族室に送ってくるのは彼女でいいわけ?
芦刈:と、まあ友だちとかヘルパーさん。そう、抱えれないので。
立岩:帰れないでしょ?
芦刈:うん。
立岩:彼女が帰れないんだよね?
芦刈:彼女も一緒に泊まる。
立岩:そういうことだよね、ようするに。
芦刈:僕は1人で泊まれないので。もう友だちとかにベッド上げてもらって。だから泊まるのは2人で。
立岩:それが病院内でできちゃったというか。そうか、それはあんまりほかじゃ聞かない話だな。ほかでもやってるのかな?
芦刈:いや、やってないと思う。
立岩:僕それは今日初めて聞いた気がする。
■
芦刈:ちょうど重度訪問を病院で利用できるようになったんで、それで利用して、できたので、あまりこう自立しても、病院におっても、まあ僕病院におっても全然快適だったので、まあそういうのを考えなかった
立岩:なるほどね。ちなみに病院で重度訪問っていうのは、だけれども、普通に暮らしてる分には重度訪問っていう言葉も、ましてやその重度訪問が病院で使えるとか使えないとかっていう話も、普通は知りませんよね? それはどういうふうにして? 芦刈さん自身が知らなくても病院が知ってりゃいいって話もあるだろうけれども、どういう経緯でそうなった、あるいはそうなったことを芦刈さんが知っているのか、それはどうなんですか?
芦刈:あの、別府にですね、自立支援センターおおいた※ってとこがある。そこ今あの、ILPをやってくれてる
押切〔真人〕
くんっているんですけど。
※自立支援センターおおいた(大分県別府市)
http://jil-oita.sakura.ne.jp/777/
立岩:押切さん、あ、知ってるな。はい。
芦刈:うん、よくプロジェクトにも参加してる。うん、うん。と、たまたま病院で、まあ彼、用事で来てて、そこでたまたま知り合って、まあ話をしてて、まあこういうセンターに行ってるって話聞いて、それからそのセンターと付き合いが始まって。ヘルパーもそこでお願いしてて。
立岩:押切さんに初めて会ったの、いつごろだか覚えてらっしゃいますか?
芦刈:7年ぐらい前だったと、
立岩:それ、最初はたまたまで。
芦刈:うん、ほんと偶然。
立岩:押切さんが何かの用で病院に来てた?
芦刈:病院の行事に参加しにきてくれて。まあ押切と芦刈で、「名前似とるなあ」ていうことで。
立岩:なんか妙に似てますね。ちょっと不思議な感じで似てますね。
芦刈:それでなんか話がちょっと盛りあがって、「うちのセンターに、ちょっとイベントに参加しないかい?」って言われて。
立岩:その話と、病院で重訪使えるっていうのはどういうつながりっていうか、結びつきなんですか?
芦刈:いやもう、押切くんに聞いたんです。
立岩:押切さんが「病院の中だって重度訪問って制度が使えるんだよ」って言ったってことか。
芦刈:そうですね。
立岩:言っても、病院によっては「いやあ、なんだかんだ」って言って使えない病院もあるわけですわ。けどその西別府っていうのは、まあ今まで聞いてる限りでは、他と比べてもかなりこう融通がきくっていう印象はあるんですけど、そういう感じなんですかね? [01:35:19]
芦刈:まあ、たぶん僕も最近いろんな病院の状況調べて、まあうちはほんと融通はきくなと思った。
立岩:そう思いますね。それって「芦刈さんが思うには」っていう範囲でいいんですけど、誰かわりと理解がある人がわりと上のほうにいるとか、現場の働いてる何とかとか、いくつか考えられると思うんですけど、要因というかな、何か思いあたることってありますか?
芦刈:なんでしょうね。指導室…、療育指導室の保育士さんとか指導員とか、行事とか主にやってて、まあその人がいいのか。まあ院長はけっこう、まああのリスクをすごい避けたがる人で、あんまり融通きくほうじゃないんですけど、僕はたまたまあの、高校のときの担任の先生と院長が親戚で、よくまあ声はかけてくれるんです。
立岩:わりとリスクを気にするから、わりと制約する…。高校の担任の先生って僕、最後の理科の先生のことしか(笑)。国語の先生も高2のときの担任だったんだっけ?
芦刈:いや、それは中学校です。インターネットを病院にひいてくれた先生です。
立岩:インターネットをひいてくれた高校のときの担任の先生が、今の院長と、何だっけ?
芦刈:親戚。
立岩:そのインターネットひいてくれた担任の先生の担当教科は何だったんですか?
芦刈:社会です。
立岩:社会科か。そういうこともあって、院長さんは声をかけてくれると。
芦刈:うん。けっこう気にはしてくれる。
立岩:その人、長いんですか? 院長さん。
芦刈:ああ、長いですね。副院長からいるので。
立岩:副院長と院長足すとけっこう長いっていう人、なるほどね。それ、何かあるのかな? わからない。ちょっとほんとにたとえば、どことは、このインタビュー公開するので言いませんけど、けっこう大学病院のそういうところを長いことやってきて、定年終わって最後の、第二の定年まで何年かみたいな、そういう院長とかけっこう全国にぱらぱらいるわけですよ。そうすると経験もないし実質的には権限もないし、みたいな中で、まあたいしたことできずに終わるというか、っていうのは聞くんだよね。それよりは、わりとそこに長居してるっていう人なんですかね?
芦刈:そうですね。
■
立岩:だんだん雰囲気がちょっとわかってきましたけど。彼女いて、長く付き合ってる彼女いるけど、でもそうやって家族室を融通してもらったりなんかして、病院の中でも重度訪問使えるし、まあまあやれるかなっていう。
その上でですけど、近頃こないだもオンラインのやつやったんですよ。あれはみなさんがやってるので、僕らは入っちゃいけないことはないのかもしれないんですけど、何をしゃべってるのか知らないんですけど。これからはそういうんでやれるかなって思ってきたわけだけれども、どうなりそうなんですか?
芦刈:まあコロナによって状況が変わったので、まったく会えなくなったので。まあいつまで続くかもわからないんで、なんかこのままずっとこう会えない時間っていうか無駄な時間っていうか、体力がだんだん弱っていくの嫌だなと。でもうこの際やけ、思い切って出てみようかなと。
立岩:なるほどね。もしかしたらコロナなかったら違ったかもしれないけど。じゃあもうだいぶ長いこと会えてないんですか?
芦刈:もう2月終わりからですね。
立岩:長いですね。10か月か。
芦刈:3、4回ちょっと対面面会ができたときもあったけど、ほとんど会えてない。ドア越しになって、やっぱり。うん。毎週来てるのは来てるんですけど、洗濯物取りに。
立岩:来ることは来てる、彼女は?
芦刈:うん。
立岩:それは今どういうかたちで? 来るときに、たとえばオンラインで何か画面で見るとかなのか、それとも差し入れをもらう、どんな感じなんですか?
芦刈:まあ病棟の入り口まで来て、洗濯物入れ替えたり、差し入れを持ってきたりとか。で、ドア越しも今、だめなんで、ドア越し面会もできないっていう。やけ、かなり距離離れたところで、遠くから見てるだけ。
立岩:なんかすごいですね、遠くから見てるってすごいですね。音声は電話?
芦刈:もうそんときは、ほとんどしゃべれないので。
立岩:しゃべらない?
芦刈:ほとんどしゃべれない。
立岩:遠くから見つめ合ってる的な感じですか?
芦刈:自動ドア開いたときにちょっとしゃべるぐらい。でも途切れて聞こえないことがあります。
立岩:そのぐらいの距離感なんですね。「だったらいっそ出ようか」と。それはどうなんですか? まあまあ具体的なところまでいってるんですか? その話は。
芦刈:一応今、自立生活プログラムを始めてて。
立岩:それはさっき言ってた大分のセンター?
芦刈:そう、その押切くんとこで。で全国の在宅してる人、5人ぐらい講師になって、そういう話聞いたりしてる。
立岩:そのプログラム自体も、まあそりゃそうでしょうけど、オンラインでやってるわけだよね?
芦刈:オンラインですね。
立岩:ですよね。そりゃそうですよね。彼女さえ入れないんだからね。たとえば今12月だけど、来年何月にはとか、そういう話になってるんですか?
芦刈:一応8月ごろって、
立岩:住むとしたら、彼女は大分県の大分市ですか?
芦刈:はい、彼女はそのまま大分市に、
立岩:じゃ大分市かな、みたいな?
芦刈:いや、僕は別府に。
立岩:別府。
芦刈:はい。その自立支援センター、事務所とマンションが一緒になってる、で、そこに入って。
立岩:ちょっと待って。大分の別府市のマンションの一つにセンターの事務所があるってこと?
芦刈:そうです。マンションになってて、
立岩:そこに住もうと思ったら住めるってこと?
芦刈:そうです、1階部分が事務所で。けっこうみんな住んでるんですけれど。
立岩:それはでもセンターが別に、センターは借主じゃないの? 借りてるから、おんなじ、
芦刈:センターがそれを運営してる。
立岩:建物全体を運営してるってこと?
芦刈:そうです。
立岩:へえ。じゃあその建物の、センターが運営してる建物の居住部分に住むことができるってことか。
芦刈:そうです、全部バリアフリーなんで。
立岩:すごいですね。別府か。別府いいっていうから、いっぺんぐらいと思うんだけど、そうか、行ってみようかな(笑)。8月過ぎたら行ってみようかな。
芦刈:なんで8月かというと、そのセンターが新しくまた建て替えるんです。それが8月にできあがるっていう。
立岩:じゃあ今建ってる建物とは別のものができるってこと?
芦刈:そうです。
立岩:敷地は同じ?
芦刈:いや、敷地も違う。
立岩:もう移転というか、新たに。
芦刈:うん、そう。今の、西別府の近くになるので、
立岩:今の何に近くになる?
芦刈:西別府病院。
立岩:病院に近くなるってこと?
芦刈:うん。5分ぐらい、車で5分ぐらい。
立岩:ちなみに西別府病院って、別府の市街地からどのくらいの距離感なんですか?
芦刈:ああ、駅からどのくらいかな? 10分かぐらいかな。10分か15分ぐらい。
立岩:そんな離れてないですね。わかりました。そういう流れなんですね。
で、もう2時間なのでそろそろと疲れてるんじゃないかと思うんですけど、1点そのあいだを埋めるんで聞きたいのは、呼吸器つけるまでカフアシストも大変だったって言ったじゃないですか。つけてからまあまあの時間が経つんですけど、それをつけてから今までのあいだっていうのは体調面を含めて、どうです?
芦刈:ああ、あと呼吸器つけだして、痰もまったく出なくなって、たぶん呼吸状態よくなったからだと。こう、すごい体的に楽になって。またちょっといろいろやろうって気力がなんか出てきて。それで2年前に、こいつは詩集出そうっていって、クラウドファンディングに挑戦したんです。
立岩:この2018年の詩集っていうのはクラウドファンディングやったんですか?
芦刈:そうなんですよ。で、200万ぐらい集めたんです。
立岩:すごいですね。
芦刈:そのコンサートのときの知り合いとか、まあ友だちとか、まったく知らない人も、いろんな人が寄付してくれて。
立岩:本出すの、200万集まったら十分でしょう?
芦刈:そうですね。
立岩:じゃあまたちょっと復活みたいな感じなんだ。今はバイパップというか、今のタイプの呼吸器は1日中つけてるんですか?
芦刈:もう1日つけてますね。で、あの、11時からまあ3時半ぐらいまで車いす。呼吸器つけたまんま。
立岩:今、一瞬音が切れて。11時から3時半って言った?
芦刈:はい、そうです。
立岩:のあいだは車いすに乗ってる。その残りの時間はベッドに乗ってるっていうか?
芦刈:そうです。ずっとベッドです。はい。
立岩:なるほど。僕、なんかそれってけっこうあるのかなと思ってて。呼吸の状態が悪いと二酸化炭素の濃度も上がるだろうし、酸素は減るし、気分とか頭の状態とかにかなり実は効いてる人いるんじゃないかなと思うんだよね、この頃。だから、諦めてというか思い切ってつけて、すっきりしたっていう話はわかる気がします。
芦刈:でもそれ、去年ちょっと甲状腺に癌が見つかって、去年の12月に手術したんです。けっこうあの、気管切開になるかもしれないって言われてて。
立岩:言われた? 言われてる?
芦刈:言われてて、執刀医の先生が、「本人が気管切開希望してないから、鼻マスクに戻れるようにしてくれ」ってまわりを説得して、うん。それで手術、気切しないまま、あとは鼻マスクに戻れたんですけど。
立岩:手術はした。
芦刈:甲状腺、半分取ったんです。
立岩:甲状腺を取る手術したけど、
芦刈:全身麻酔で、全麻にして、で、挿管5日間ぐらいしてて。で、「これ以上長くなると、もう気切になる可能性があるって言われて。まあそこでなんとか外してくれて、鼻マスクに戻れたから。
立岩:それでうまいことなんとか管取れて、気管切開せずに今の状態を。そうですか、甲状腺癌やりましたか。
芦刈:自分的にはあの、筋ジスって癌とかならんと思ってたんで。
立岩:それってそういう説があるんですか?(笑)
芦刈:いやいや、「もうこれ以上病気にならんやろう」みたいな、
立岩:ああ、そうか、「もう一個大きいのやってるから、ほかなんねーだろう」って、まあ、
芦刈:はい、っては思ってたんですが、
立岩:なんとなく気持ちはわかる気がするけど。でもなる人は、結局なるよね。なりますよね、なるときは。でもそういう意味では、手術のあとの予後っていうか、いいんですか?
芦刈:まあ一時期はやっぱり、ちょっとごはん食べにくかったんです。そういうのはもうほぼなくなりました。
立岩:じゃあ、うまくいったってことですよね?
芦刈:そうですね。
立岩:手術いつ? 去年の?
芦刈:去年の12月です。
立岩:ある意味いいときにやりましたね。これ、それが3月4月にとかになるとさ、面会にも来れないわ、場合によったらほかの「優先」とかいろいろ出てきて、ややこしいことになったかもしれないですね。
芦刈:けっこうICUも、融通きかしてくれたんで、いい時期にして良かったです。
立岩:それでコロナぎりぎり前に甲状腺の癌やって、そしたら病院入れなくなって、それはとっても困ったけど「だったらいっそ」っていうことで、来年の8月っていう、そういう流れか。僕はほんとに、メールではしょっちゅうね、このごろいろいろ各地に面会の状況とか調べていただいたり。またそのへん、今僕のところでバイトしてくれてるのが中井さんっていう大学院生で、そのへんを介してお金のことであるとか書類のことであるとかまたやり取りさせていただきますけど、どうもありがとうございます。っていうあたりの活動のことは、頻繁にメールが行き来してましたのでわかっていたんですけど、こういう、やっぱり聞かないとわからないというか、聞いてみるもんだって改めて思ってる次第です。長い時間どうもありがとうございます。
芦刈:いや、こちらこそ。
立岩:あと、たとえば10分とかは大丈夫ですか? もうマックスですかね? 時間。
芦刈:ちょっと厳しいかもしれない。
立岩:はい、わかりました。
芦刈:体的に。
立岩:体的にね、はいはい。じゃあ坂野さん、ちょっとだけ顔出しして、ちょっとだけ挨拶する?
坂野:こんにちは。坂野といいます。
芦刈:こんにちは。
坂野:今日はありがとうございました。
芦刈:いえ、こちらこそありがとうございました。
坂野:いろいろ違うんだなっていう、すごいなあっていうの思いましたけど。ナースコールが鳴っていたり、なんかまわりの状況が見えて、ちょっと気にはなりましたけど。途中から消えちゃったんですけど、大丈夫だったですか?
芦刈:いや、なんかこれは全然、設定の問題なんです。
立岩:ああ、そうですか。
坂野:そうですか。なんか見えちゃだめなのかな、とか思ったり。
芦刈:いえいえ、今設定が、変えても切り替わらなくて。あんまりSkype(スカイプ)使わないんで、初めてぐらいなんで。Zoom(ズーム)が多かったんで。うん、うん。
立岩:わかりました。また記録が出たら見ていただきますので。ちょっと僕が聞き直せきれなかった部分とか、自由にというか、加筆とかも全然オッケーですので、必要であればやってください。
芦刈:また先生がお暇ならいつでも、今度はリモートできるので。
立岩:わかりました。ちょっと2時間10分、もう休みなしでってのはちょっと負担、体大変だったと思いますけど、長い時間どうもありがとうございました。
芦刈:ありがとうございました。
立岩:それじゃあとりあえずといいますか、今回これで終わらせていただきます。ありがとうございました。
芦刈:ありがとうございました。
立岩:では失礼いたします。どうも。
芦刈:はい。お疲れさまでした。
UP:20210208 REV:
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芦刈 昌信
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こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす
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筋ジストロフィー
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生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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病者障害者運動史研究
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