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楠敏雄さんへのインタビュー(その4)

2011/03/06 聞き手:岸田典子 場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

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last update:20220220


◇2011/03/06 楠敏雄さんへのインタビュー(その4)
語り手:楠 敏雄
聞き手:岸田典子
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録



※下記インタビューは、当時、楠氏が語ったままの 内容を基本としており、(三療業界の記述などにつきましては)客観的に検証されたものではないことをご承知おき下さい。

なぜ札幌を離れることにしたのか

岸田)楠さんのインタビューを始めます。2011年3月6日、午後2時33分です。お久しぶりです。よろしくお願いします。前回は札幌盲学校の高校3年生までで、今日はアルバイトなさったことと、話しづらいかもしれませんが、視覚障害者の、楠さんの時代は1960年代の初めは主に三療業が主だったと思うのですが、知らない人がいるかもしれないので、質問させていただきますがよろしくお願いします。まず、当時楠さんが高校3年生の時は1963年、64年ですよね。夏にアルバイトをなさったと聞きましたが、当時視覚障害者がアルバイトをするというともちろん三療関係? あんまのほうですか、鍼ではなくて。
楠)あんまです。鍼は免許持ってないからね。
岸田)だいたい、三療でアルバイトするというと、どういうとこに行くんですか。
楠)その頃は盲学校の先生がけっこう業者とつながってたんだよね。
岸田)業者とは。
楠)すでに開業してる人たち。とくに大きな業者で、人を10人とか20人とか、30人使ってる業者ね。そこが学校に次誰かいい人いませんかとか、卒業生でいい子送ってくださいというのを頼んでるから。そういうつながりで、盲学校、とくに理療科の先生と三療業者がつながってる。
岸田)それは卒業生の人が経営者?
楠)必ずしもそうではないけどね。卒業生のつながりは深い。大きな業者だと適当に挨拶に来て紹介してくださいという顔つなぎをしてた。そういう先生からこういうとこに行ってみないかと紹介された。僕は、札幌では免許がないからバイトはしてませんよ。札幌行った時には、先輩にマッサージの業界業者はどんなところ、あ見学を兼ねて日曜日に連れてってもらうんです。先輩の顔で。その時にマッサージの業者の様子を見て、愕然とした。だいたいみんな3階に待機部屋みたいなのがあって、何人かずつ部屋に待機して寝泊まりしてる。
岸田)宿泊も兼ねてる。
楠)もちろん通勤の人もいるけどね。男女は一応分かれてるけど、自由に出入りできる、壁もないし。昼間から男女が戯れてる様子を見てがっかりして、自分もこんなところで働かなきゃいけないのかと。まだその頃は純粋無垢な青年だったから、そういう男女関係にびっくりして、こんな業界なのかと。こんな業界で仕事したら、もうぐちゃぐちゃになってしまうと思った。でも、免許は取らなきゃいけないので、一応札幌で試験を受けて。マッサージの免許は取った。大阪で、盲学校の先生になりたいと思ったので、当時の教育大学、今の筑波大学はけっこう競争率が高いので、大阪に出た方がいい、通りやすいという話を聞いて、思い切って府立盲学校に転校した。その府立盲学校に来た夏休みと冬休みにアルバイトした。
岸田)なるほど。今の感覚からいうと、八時間労働でちゃんと休憩時間があって、休憩では拘束されない、外に出てもいいし遊びに行っても自由という感じ? それはないんですか。
楠)当時はまったくそんなんはなかった。年中無休。労働基準法なんか完全に違反。そういう問題は僕らもよく討論してたけどね、どうやって改善するか。だってさ、患者はいつ来るかわからない。だから待機してなきゃいけない。八時間労働しても、実際にマッサージ一時間してたら一時間とカウントされるけど、待機時間は厳密に言ったら拘束されてるんだから時間数だけど、実働はしてない。ごろごろ寝てたり、女の子といちゃいちゃしてたり。それは誰も監視してない。自由に外には出てはいけない。待機だから。タクシーの運転手みたいなもの。実働はしてないけど、労働時間ではない。それが難しいところ。
岸田)それと、業者というのはホテルとか、遅い時間…。夜はどれくらい遅いんですか?
楠)僕らの頃は、終わったら2時、3時。ごはん食べるのが2時やね。ご飯食べて寝るのが3時やな。
岸田)患者さんというか、そういう人たちは慰安…。
楠)そう、半分以上慰安。
岸田)治療、疾病治療より慰安。私が習ってたお琴の先生に聞いたのですが、女性は慰安が多いのでセクハラもあって、働きにくいというのを聞いたんですが。
楠)それは実際、いたずらされたり、そういうケースはたくさんあった。
岸田)でも、それしかない。
楠)ないから。とくに地方の温泉旅館なんか行ったら、そういう対象として位置づけられてて、マッサージするのといわゆる遊ぶのと同じ感覚で女性を呼ぶ男はけっこういて。全盲なんかとくに逃げられないでしょ。知らない旅館やホテルに来たら。少々のことは我慢せえ、仕事やる以上、そのくらいは覚悟しろと言われてた。もし何かあったらホテルに通報した人もあるけど。みんながみんなそうじゃないけど、そういう悪質なのもあった。泣き寝入りさせられた女性もいたし。
岸田)五番町夕霧楼牢とか、そういうイメージが。待機してお客を自分の個人部屋に入れて仕事をするという感じになるんですけど、食事も出てそこに住んで、暮らしながら働くという感じ。1963年とか64年になると、ちょっとは労働事件が悪いんちゃうかという声はないんですか。
楠)なかった。労働組合つくろうとしたグループもいたけど、つぶされてしまう。攻撃されてね。その首謀者には仕事をまわさないという協定結んで。その業者を首になったら、次の業者に行っても、昔で言うと「あいつはアカだから気をつけろ」とか仕事をまわしてもらえない。最低賃金保障なんかないからね。やった分の四分六。
岸田)六は管理者、四は労働者。
楠)三千円もらったら1800円が経営者で、1200円が働いた人。
岸田)住んでるわけだから、寮費みたいなのはとられるんですか。
楠)言い分としては、六の中に寮費やら食事代が入ってるんだと思う。だから、マンションとか借りてといったら、七三。自分で通える人は七三。食事代とか入ってない。食事代とられたら六四とか、五分五分。そんな時代、マッサージ業界はそれが普通。
岸田)あんま業界だけでなく、今も問題ですが、送り迎えはどうなんですか。全盲の人とか。
楠)僕がバイトしてたところは個人業者だから、1回は親方の奥さんが連れていってくれるけど、あとは自分で探して行けって。どぶに落ちたり、犬に吠えられたりしながら。道に迷ったり。1回で覚えられないですよ。札幌の大きな業者なんか、運転手が何人かいて、運転手がホテルなんかへ注文が来たらマッサージャーを派遣して連れて行く、終わったら迎えに行くという送迎はしてたね。
岸田)その方が安全な気がする。
楠)安全だね。
岸田)親方と言いましたが、それは昔のあんまの徒弟制度の名残があるんですか。みんなそこで何年くらい働いてたんですか。一生働くということはない?
楠)その人によるけど。甲斐性のある人は3、4年くらいで独立するけどね。お金たまってね、資金ができたら。そうじゃないと独立しようにも、まず敷金がいるでしょ。マッサージする適当な店舗が見つからないと独立できない。そうすると親方のもとでずっと働き続ける。あるいは業者を転々とする。
岸田)昔のそういう徒弟制度の名残があったら、保険とかは。
楠)全然ない。
岸田)病気になったら、どうなるんですか。
楠)国民保険ですね。
岸田)五番町夕霧楼牢とかそういうとこは病気になってもよほどひどくならない限りはずっと仕事させて、病気になって使い物にならなくなったら、死人部屋に放り込んで死ぬのを待つみたいな感じなんですけど、やっぱりマッサージの仕事も、肉体労働だから病気になる人も当然出ると思うんですけど。
楠)個人で国民保険に入ってれば…。僕らは親指の仕事だからね、マッサージは。親指が腱鞘炎になっただけでも仕事できない。
岸田)そしたら、自分の始末は自分でつけるというか。厳しいな。
楠)70年代は、もう、僕らもなんとか組合つくる議論もよくしたけど、盲界にも業界に労働組合つくるべきだとか、労基法守らせるべきだというので。僕らが京都の盲学校で卒業式に乱入したのも、盲学校の教員が業界の体質を改善しようという働きかけをしてないということに対しての抗議。
岸田)札幌でも京都でも、なあなあになって人を流していくことへの抗議…。
楠)そうそう。業界と教師が、僕らは癒着だと言ってたけど。教師は親方を知ってるからね。教え子だったり友人だったり。親方に頼まれた、はいはいと、労働基準法なんか教えるわけじゃないし、僕らも習ってない。労働者じゃない。70年代のその頃でも年中無休で休みもとれない。強く言えばとれるけどね。毎週何曜日が休みと決まってるわけじゃないし、いつまでも働かなきゃいけない。
岸田)70年代でも、京都のようなとこですらも、体質が変わらないというか。ずっと江戸時代からずっと続いてた。人権という感覚は。
楠)その頃はまったくなかった。
岸田)変わってくるのは80年代くらいですか。
楠)そうやね。80年代以降ですね、ちょっとずつ変わって近代化して。大阪なんかで業界が提携して毎週金曜日は休みにしようというのが80年代くらいからやっと。
岸田)楠さんが札幌でそういうことに遭遇して。夏休み中働いてたんですか。
楠)バイトしたのは大阪でね。大阪では、専攻科1年と2年のときバイトした。
岸田)1日何人くらい…。札幌は都会だったんだけど、平均すると患者さんというかお客さん、どれくらいこなすんですか。
楠)だいたい3、4人平均、1日。多かったら7、8人。腕のいい人とかね。
岸田)7、8人はすごい。
楠)1時間から1時間半治療くらいして8人はすごいね。
岸田)大阪府盲の時は12人したことあると…
楠)あの時は指が痛くて。堺の時ね。
岸田)あのへん工場が多いから。
楠)いわゆる肉体労働者でね。兄ちゃんもっと力入らんのかって。こっちは一生懸命やってるのに。
岸田)強いのを希望しはるんですね。結局、自由であったのは学校時代だけで、今でも勤めだすと閉ざされた世界に押し込められている。でも、それは高校の時も先輩から聞いたりして薄々は知ってたんですか。
楠)そうやね。だけど実際現場に行くと、それ以上にシビアやなと。
岸田)感覚的によくわからないけど、今の時代なら男女は別の部屋にしてるだろうし、行き来しても遠慮があるだろうと思うけど、ぶっちゃけ娯楽がそれしかない。外も出て行かないし。
楠)そうやね、野球するか。休みの日は週1回とか2回とかは、パチンコするか家でごろごろ寝てるかやね。
岸田)その時代は三療しかないから、それ以外のことは考えられないから盲学校の教員になろうかと。
楠)実際経験したり聞いたりして、マッサージ業界に入るんだったら、盲学校の先生になろうと思って勉強したんだな。
岸田)教員養成所を出て、どこかの盲学校に行っても、業者とつながるから同じこと。
楠)ま、そうやね、まして新人の教師なんか文句言ったり改善なんかできないね。しきたりに、先輩教員の。

盲学校理療科教員を目指して、大阪府立盲学校理療課専攻科に入学

岸田)ムラ社会みたいなもの。楠さんとしたら、夏のバイトで悲惨な状況やったから、これは教員になろうと。
楠)教員になろうと思ったのは札幌の見学して、すさんだ状況を見学した段階で、教師になるしかない。業界で働くのは嫌だと思って大阪府盲へ転校を決意した。
岸田)でも、大阪府盲でもバイトしたから、大阪で一日12人も治療して。
楠)その時はあくまでバイトでお金ほしいというのがある。親方にもがんばって仕事せえと言われて。逆に大阪府盲では個人経営が多い業界だから、札幌のようにいかがわしい状況はなかったけど、労働者としての条件は一緒。親方に、徒弟制度で、通勤保障なんかないし、努力してやるしかない。
岸田)今の若い人には想像がつかないというか、三療業界も変わったから、こういうことがあったということを知らない。
楠)知らない人が多い。
岸田)そういうことがあったからこそ、今のように近代化してきた。
楠)遅すぎる。60年代というと、昭和の30年代でしょ。高度経済成長に入って労働運動も盛んだった。マッサージ業界は完全に取り残されて放っておかれたわけだから。それこそ江戸時代の徒弟制度、吉原みたいな環境のところに視覚障害者がいたという現実があったから。
岸田)それはやっぱり、視覚障害というのが関係してるんでしょうかね。前近代的な、なかなか改革ができなかったというのは。
楠)視覚障害というより、三療業の特殊性というか。もちろん、労働者としての意識も遅れてたし。徒弟制度でしょ。この業界の特殊性というか。
岸田)芸事の世界も同じようなもんですよね。してることが体を使わない、夜遅くまでやらないけど、あとは師匠に仕えてやっていくのは同じですよね。お相撲の世界も似たようなもんやから。楠さんは、関西障害者解放委員会の時のことが記憶にあるんだけど、札幌時代から、これはおかしいと思い続けて。
楠)関西障害者解放委員会の中に盲人問題委員会というのを作って、1カ月に1回ずつ5、6人で集まり持って、どういう問題があるのか、どこから改善したらいいのかという議論をしたり。
岸田)それは業者で働いてる人?
楠)当事者、病院で働いてる人とかね。そういう人たちが集まって、業界を変えていかなあかんというので出し合って議論したり、ビラまいて呼びかけたり。そういう活動はしたけどね。関西障害者解放委員会を70年に作って数年やったけど、70年代半ばでもそういう実態は存在してたし、組合なんかできないし、作ろうとしたらつぶされる。
岸田)何かのきっかけにはなってたでしょうね。
楠)まあ、どうかな。しかし、そういう動きがあるということは、点毎にも1回くらい取り上げられた。
岸田)点字毎日の盲界なんたらかんたらに。
楠)そういうやつね。
岸田)その時手引きした覚えはありますけど、やってはることがわかってなかた…。1960年代の三療業界は江戸時代の名残があってなかなか改革には至らないというか。それで、大阪府盲に移るというので、こんどは札幌と違って政治的な、共産党の人が幅をきかせてはった。
楠)大阪府立盲学校とか大阪市立盲学校は、共産党の下部組織の民主青年同盟というのがあって、学校の支部があって。けっこう強かった。そういう支部があるから学校同士で交流したり。
岸田)一般の高校とも。
楠)そう。その、民主青年同盟で生徒会同士の交流とか、そんなんで、けっこう問題意識の高い生徒が多くて。
岸田)札幌とはまた…
楠)全然違うよね。
岸田)在日の方も多いから、差別とか。
楠)そうやね。
岸田)部落差別問題、いわゆる被差別部落の人も大阪は多いですよね。
楠)被差別部落の問題までは部落研は盲学校にはなかったな。
岸田)大阪府盲に変わっていちばんびっくりしたことは何でしたか。
楠)前も言ったけど、生徒会の選挙がある度に役員に対立候補が出て立ち会い演説会をするわけね。学校をこう変えたいとか訴える。今の社会問題とか。そういうことに対してとくに中途失明で来た人が、そんな政治的なことやったらあかん、それより勉強してマッサージのことを一生懸命やるべきだと、いわゆる民青を批判する人たちが対立候補に出て選挙運動するわけ。それで、生徒会長あいつ入れてくれとか。それはびっくりしたね。
岸田)それは札幌時代にはなかったですよね。
楠)まったくなかった。
岸田)民主青年同盟に入ってる人もいれば、それとは違う人もいたでしょ。
楠)盲学校では政治的勢力ていうのは、共産党以外に入る余地もないし。
岸田)共産党がそういうところにも力入れてた? 今聞くところによると公明党なんかは障害者部というのがあってよくやってはりますが、共産党も盲学校にも支部を作って共産党とつながってた。
楠)それで、集会にいたということを理由に、休学とか処分されてね。反対する署名運動とかもあったくらい。教師、管理職は露骨だった。もちろん共産党系の先生方の組合も強かったからね。組合も管理職の処置に抗議したりして、けっこう政治的に派手な時代だった。
岸田)共産党の先生と生徒と…。
楠)もちろん、誘ったり。
岸田)そんなふうだったのに、三療業界は改善できない。
楠)理療科の人たちというのはね、やっぱり横のつながりもないから共産党の影響もわりとない。業界のつながりが多い。ということは、業界を変えるということはあまりしない。頼まれて素直な良い子を送り出すということが続いてた。
岸田)今の感覚だと、下世話だけどリベートもらってるのかなとか。
楠)そんな噂もあったね。
岸田)楠さんが北海道から来て、いちばんびっくりしたことですか。生徒会のことが。学齢からいうと、昭和40年に大阪府盲を卒業したんですか。
楠)41年。
岸田)1966年。そしたら、当時の日韓条約、安保が終わって日韓条約締結。
楠)日韓条約を討論しようと、共産党系の学生たちが。当時、社問研といって、社会問題研究会があって。
岸田)そんなんあったんですか? 高校に。
楠)社問研とか、新聞部とかあった。そういうところで日韓問題とか安保の問題とか取り上げる活動とかけっこうやってたね。学校改革とか。それに対して、中途失明の連中は政治的なことはすべきじゃないと。教師の上の方からも圧力かかったと思うね。そういうところに巻き込まれて、いちばん驚いたね。
岸田)ちょっと厄介…
楠)僕自身社会問題への意識はあったから、おもしろかったけど。安保とか日韓問題について討論するのは大事なことじゃないかと素朴に賛成したら、右翼系の連中から、楠は民青系だと攻撃されてね。生徒会で共産党まるまるじゃなくて考え方が進歩的だったので、生徒会の議長に楠さんを推そうというので僕が議長になった。右翼の連中は僕のことをあまり知らなかった。転校してきたから。それで、民青と反対派がすごい野次りあうのね。僕がうるさいって怒鳴ってね。いい年してそんなヤジ飛ばすな。日韓条約について討論することは大事やって。悪いことじゃないじゃないかって言って採決したら、あいつはいい年してると引っ張ってきてね。朝礼で謝罪しろというので、壇上に駆け上がってきて、彼らが。そんなのが学校であった。
岸田)それ、高校生がやるんですか。今の時代と違う。
楠)それで僕のクラスの右翼がかけてきて、民青関係ないんだけど、クラスメート守らないかんというのでね。右翼の連中とケンカして、おもしろい時代だった。楠を守れって。
岸田)右翼もいたんですね。
楠)中途失明のおじさん連中ね。反民青。
岸田)共産党とか右翼とか色分けの中で、楠さんは?
楠)僕はどこにも入ってなかったし、学校にそんなんあるとは思ってなかったし。ノンポリの学生は多かったと思うよ。クラスメートもほとんどノンポリで。
岸田)大阪府盲で社会問題に遭遇していくというか。京都より大阪の方がいろんな立場の人がいて格差もすごいというか。そういう社会問題に関心を持つには土地的にはあれやったと思うんですけど、勉強はどうなったんですか。教師になるための。
楠)週に1回か2回補習授業をしてもらったり。東京の附属をめざす人たちが、補習を受けてた。
岸田)補習授業もあったんですね。大阪、東京、京都は受験校と言われてたから。大阪はまた、職業でも当時も調律科もあったし、リハビリもあったんですか。
楠)PTもあった。
岸田)職業教育もさかんで。一般大学じゃなくて、みんな東京をめざす。大阪府盲には当時はいわゆる大学に行くという人はいなかった?
楠)いなかった。ほとんど情報が入ってなかったし、そんなことは夢にも思わなかったんじゃない。せいぜいがんばって附属に行くか、業者に入るか。・・(聞き取り不能)に入るかっていう。

一般大学(健常者が通う大学)への進学を希望して、京都府立盲学校普通科専攻科に入学


岸田)今日お伺いするのは、大阪府盲から京都の盲学校に行って、そこから龍谷大学に行くということで、受験を中心にうかがいたいと思います。大阪府立盲学校に行かれたんですが、今の筑波大学附属理療科教員養成所に行くという目的で大阪府盲に行かれたということですが、そこではあまり勉強せず、野球の方が忙しくて、レギュラーにスカウトされて、近畿大会で入賞して全国優勝はできなかったけど活躍された。受験もするということで、専攻科ですね。鍼と灸の免許を取るため、プラス筑波大学の教員養成所の受験もあって、寮の社会の先生が英語を見てくれたということですが。いよいよ受験となって、惜しくも不合格となったということで、その段階でもう一度筑波大学の教員養成所に行こうとは思わなかったんですか?
楠)そうですね。もうその段階で自分がそんな気持ちも入らないのに行っても無理だろう。マッサージ嫌いな人が先生をするというのも、どうみてもおかしいと思って。その段階で大学受験しようと思ったんですよ。同志社を受けたんです。
岸田)じゃ、京都に来る前に一回受けたんですか。
楠)そう。
岸田)筑波と一緒に?
楠)筑波の後にね。で、同志社を受けられるというので、どのくらい自分が通用するのか受けてみようと思った。受けさせてくれるというので、英文科を受験したんですよ。
岸田)盲学校事情をお聞きしたいんですが、京都には受験するためのコースがあったんですか。
楠)そうですね、普通科専攻科。
岸田)じゃ理療科と音楽だけじゃなくて、普通科専攻科というのがあった。
楠)それがいわば、大学行く人や筑波を受験する人で普通科目が弱い人が入った。
岸田)今は制度が違うから難しいですけど、いろんな盲学校から来てもよかったというか、行けた。
楠)そう。
岸田)それで、そこにはもちろん試験もあって。
楠)ありました。
岸田)全部数学からあったんですか。
楠)ありました。一応ね。
岸田)じゃ、その試験に合格して京都府立盲学校の普通科専攻科に入学できるということで。
楠)ハットリカズミツ(カツミツ?)とかね理科の、シバハラていう生物のおっちゃんとか。タニグチさんという国語の先生。
岸田)ああ、現国の。
楠)古典の先生はコマツかなんかいう。英語はナガイマサヒコ。
岸田)あ、あの先生、できない人にはすごい厳しいんですよ。
楠)すぐ机たたいてな。「こんなこともわからんの。ふんっ?」って。
岸田)できる人が大好きなんですよ。
楠)そうそうそう、だから僕は好かれた。英語できたからね。
岸田)今の人から考えたら、予備校のような普通科専攻科に入ると理科系、文化系とか分かれるんですか。
楠)分かれません。みんな教えてもらいますよ。もちろん普通科だけですけど。
岸田)筑波の教員養成に行く人も教えてもらえる?
楠)希望したらね。
岸田)楠さんは科目は英文科やから。
楠)英語、国語、日本史。かな。数学も少しやりましたけど。
岸田)そこでね、今でも厳しいと言われてるけど参考書とか、そういうのはまずどうやって揃えたんですか。今ならパソコンでテキストデータとかありますけど。
楠)そういうのは全然ない。手打ちで、問題集さがしてきて、問題集を日赤の、日本赤十字の学生、それから京大の看護学校の学生が時々ボランティアに来てくれて、週1回か2回くらい来てくれるので読んでもらって、それを全部点字で打って。
岸田)そしたら、学校側はプリントとか点訳してやってくれるとかは。
楠)全然なし。
岸田)あの、当時の教科書というのが、一般の盲学校が使っているものが遅い、古いものを使ってると聞いたんですけど。受験生としては困りますよね。
楠)でも、英語はたしか、別に教科書が1つあったね。
僕は普通科専攻科の実際の勉強は普通科3年のクラスに机をおいて勉強する、つまり集中的に普通科勉強したい。理療科はしない。そのためには単位数が多くないと困る。普通科のクラスに入る。知ってる? クロキとかね。タカハシ。
岸田)その人は、看護師さんと結婚した人。
楠)ああ、そうそう。
岸田)有名や。
楠)ホソカワキヨコとか。
岸田)大阪府盲でも、いわゆる大学というか健全者が行く大学に行く人は少ないということだったけど、普通科専攻科の時は志望者はいたんですか。
楠)女の子が1人いた。僕と二人。ナカムラなんとかいう校長の娘。
岸田)あとはみんな理療科。参考書がないのはすごいハンディですよね。私は予備校行ったことないんですけど、予備校はしょっちゅう模試やってますね。そういうことはできない。
楠)できないね。

1960年代の視覚障害者の大学進学における学習環境と受験環境

岸田)こんど、いよいよ大学を決める。今はセンター試験でだいたいどこ行けそうやとかあるんですけど。当時、立命の工学部に行きたいとか、薬学部に行きたいとか思っていても、自分の思う通りにはいかない。
楠)だって当時は受験させさせてなかったからね。僕が立命の文科受けた、いや、願書出しに行ったんだけどね。その段階で先生の面接があって、あんた入っても1人で暮らしていけないやろ。大学としてはあんたにご飯食べさせてあげることはできない。階段から落ちたらどうするのって。そんな無茶苦茶偏見に満ちたことをいっぱい聞かれてね。
岸田)学業とは関係ないところで、まずバリアがある。そうすると楠さんはずっと英語でと思っておられたけれど、立命の薬学に行くんだと言っても、学校が。
楠)試験日が違うし。立命は英文か産業社会学部くらいやな。それまでに進路の調整があるけど。
岸田)そうすると、大昔、戦前は関学と同志社、関学は行けたというのは資料に載ってますが、それから何十年も経った1960年代前半においても、やはり自由には大学を選べない。たとえば受験したいと希望するのは、盲学校の先生が交渉するんですか。
楠)そう。交渉して、受験問題を作る時は協力しますよとか。
岸田)結局、楠さんはどこを受験したんですか。
楠)1回目は同志社だけ。筑波大学と一緒に。それから2回目は同志社と立命受けて、両方ともだめで。

大学の入学試験と視覚障害学生を受け入れる態勢

岸田)タニアイアススムという人が書いた日本盲人史という本に書いてありますが、当時は、楠さんが受けた時間延長がない。漢文が全部零点になる。
楠)そう。読みくだしがね。漢字を平仮名でくくりなさいという問題、晴眼者なら誰でも取れるやつね。それでもどうしようもない。零点になる。
岸田)すごい不利ですね。私は自慢じゃないけど社会福祉士2回落ちてるんですけどね、あれで1と2の問題を見て関係のあるものを結びなさいというのは、点字だとすごい時間かかりますよね。時間延長がないから。
楠)最初一所懸命やってたけど、半分もいかないうちに時間終わってしまったもの。読んでるだけで。だってA群B群を読んで正しい答をC群から選びなさいとか、A郡、B群読んで、あー、何番だったかなというと、1問解くだけで10分20分かかるから。
岸田)私が社会福祉士受けた時は時間延長あるんですが、それでも大変でした。ページをめくって、あっち行ったりこっち行ったり。社会福祉士の時はテープがついてたんですよ。早く点字が読めなければテープをまわせたけど、そんなのもなしですよね。
楠)ない。
岸田)はあ。いやあ、それで…。同志社というと問題数も多い。
楠)英語でも長文解釈の長文が、空白にあてはまる単語を下の語群から選べとか。どこに空白があったか、読み返さないといけない。
岸田)ああ〜。それで、点訳というか、今はセンター試験は某福祉施設がちゃんとやってるんですけど、その当時はもちろん手打ちですよね。パソコンがないから全部点字のタイプライター。それは盲学校の先生が打つ。そうすると前の日かに打ってくれてるんですか。
楠)いや、あのね、問題がもれたら困るというので、一般学生の受験と同時にやる。僕らはそれで、できてくるのを待ってる。できてたきた順にくれる。わかりやすいからこっちから先にやろうなんてことはできない。
岸田)同志社の時は何人受けておられたんですか。
楠)3人やったかな。みんな問題ができるまで待っとかなあかん。1番できた、やってくださいとか。
岸田)そしたら、国立大学なんてのは、たしか全教科ありますよね。
楠)19科目ある。
岸田)ちょっと不可能に近い。
楠)筑波大はもちろん、ちゃんと点字受験認めてたけど。
岸田)でも、大学は、今は大学入試センターもあるし、視覚障害の方いらっしゃるけど、点訳する方も大変やし、それを読んで…。一般学生に比べたら遅くなりますよね。
楠)くたくたになる。30分くらい待ってから出てくる。みんな4時半くらいに終わるのが僕らは5時半。
岸田)中に、手打ちでやるから時々間違う。手を挙げて試験監督によくわからないんですけどと言ったら、点訳した先生が飛んでくるとか。
ちょっと今では考えられない。
楠)それでも、認めてくれたらまだましで、ほとんどの大学は受験さえも認めてなかった。
岸田)それで、同志社というのはさっきのナガイ先生が出て、視覚障害者も何人かおられた。立命は変な人いましたよね。寺の息子。
楠)シンドウさんね。
岸田)あの人は、楠さんの前?
楠)哲学で、全然科が違うからね。英文科は受験は初めてだった。
岸田)すでに学生を受け入れてるとこはOKやけども、新しく学生をとるのはなかなか難しい。龍谷というのはどういう縁で受験することになったんですか。
楠)タムラユキオというおっちゃんがいたでしょう。
岸田)あ、覚えてる。
楠)あの人がね、龍谷だった。当時の学長でホシノさんを知ってて、その人にかけあった。最初同志社と立命すべって、もうあきらめかけてた。もう1年だけ浪人させてくれと北海道帰って親父に頼んでた。龍谷の二次試験があると聞いて、二次試験受けてみようと願書出しに言った。そしたら、障害者受け入れる態勢もないし、無理ですと。願書も戻された。で、タムラさんに相談したら、学長に電話してかけあってくれて。もう一回再審査してくれ、受験だけでもと。
岸田)受かってからどうこうじゃなく。
楠)そう、まず受験だけでもさせてみよう、それでだめだったらと。受験したけど、もうだめだろうと俺もあきらめて田舎帰ってた。北海道で、もう1年だけ浪人させてくれ、もう1年でだめだったら、あきらめて筑波行くからと。そうしたら、龍大から合格通知が来て。大学からこんどは特別面接するから来てくれと。行ったら、合格点は取ってたと、だけど条件がありますと。うちの大学は、あなたが目が見えないからといって、特別なことはしません。平等に扱いますよと。
岸田)平等がちょっと違う。
楠)何もしないことが平等。
岸田)それって、青い芝の大阪の初代会長の高橋っていう人が、夜間中学行く時に、あの時代というのは平等が配慮するということではなくて、同じように試験受けさせたるということで。同じようにすることが平等だと。そしたら、楠さんとしては、同志社、立命があかんかって、最後に龍谷を受けることになった。試験の方法もパソコンもなくて、手打ちのタイプライターで盲学校の先生がしてくれた。その試験問題でやりはった。二次試験は3月。
楠)3月の末ですね。
岸田)入学までぎりぎり。準備も何も…。今みたいに、9校も10校も受けることはできない。
楠)できない、できない。
岸田)今、視覚障害者でも工学部とか行ってる人もいますよね。東京芸術大学なんかも絶対あかんと言われてたけど、楽器というか、理論は行けたらしいけど、今はバイオリンでもピアノでも実力があればいけるということになってる。当時は、40年以上前は大変なことやったんですね。
楠)まず、受験の門をこじあけるだけでも大変で。そういう時代ですね。
岸田)それで、見事合格されて。不安はなかったですか。盲学校からいよいよ、視覚障害者のいない一般の大学に行くことに。
楠)そりゃ不安でしたよ。親父は帰ってしまうしね。1人で、まったく右も左もわからない広い大学の構内に一人取り残されてね。どこに行ったらいいかわからない。その頃、京都の竜安寺の近くに下宿してた。
岸田)立命の近くの。
楠)そう。あそこから通ってた。遠くてかなわんので、龍大の近くにアパートさがして変わった。
岸田)前後しますが、いったん寮を出るんですよね。下宿して勉強ひとすじ。
1人で暮らすのはイメージがつかめるというか。寮ならごはんもみんな用意してくれるし、京都の場合は校舎と寮と、男性はちょっと離れてましたもんね。
楠)ほとんど同じ敷地だけど。
岸田)でもこんど、下宿したらバスか電車。市電じゃなかった?
楠)市電。
岸田)通ってはったから大学入っても1人で下宿して大丈夫だった。
楠)最初は下宿生活も、こんなん言ったら何やけど、いけずなおばちゃんが管理人でな。嫌みで。なんでこんな目が見えへん人の世話までせなあかんの、私は特別料金もらってないよって。こぼして汚いとか。嫌みばっかり。
岸田)昔の人って、あけすけ(笑)。でも、ちょっと社会とのふれあいというか、寮とは違う…。寮では男性の寮はいろいろやってはったらしいけど。
楠)通学でも、寮出て盲学校に通うのは、洛北高校前から烏丸車庫で乗り換えて千本北王子。途中でどぶへ落ちるは、雨の日なんか大変。あの時代はようがんばったと思う。ほんと、泣きそうになった。どぶに落ちて、点字の、やっと読んでもらって作った問題集ぬらしたり。点字がつぶれたらおしまいだから。
岸田)それで、今度大学に入って、まず入学式。お父さんが来てくれはったんですよね。入学式が終わるとオリエンテーション、ガイダンスがありますよね。その時大学は配慮をしてくれたんですか。
楠)いや、全然。その時は、前も言ったけど学生課に飛び込んで、同じ郷里、北海道から来てる学生はいませんかと聞いて呼び出してもらった。二人だけ英文科にいて。呼んでもらって、1時間くらい待ったけど来ない。これはもう無理なのかなと思ってね。しばらく竜安寺から通わなしゃあないかなと。まず友達作らないとどうしようもないしね。そしたら、その人がたまたま来て、呼ばれたけど、何ですかって。実はこうこうで、同じ北海道なんで目が見えないもので、近くで下宿さがしてほしいと。そうしたら、彼が、今の下宿うっとしいから、一緒に住んでも良いですよと。で、学生専用のアパートがあったんだ。西洋館。キンチャンやタケシタとかが入ったとこ。
岸田)そしたら、まったく大学は入れただけで。
楠)もちろん。
岸田)何も協力しない。
楠)一切。
岸田)その時にね、某仏教大学においては誓約書みたいなのがあって、学校が何もしない、できないがそれに対してOKかというのを書かされたと思う。
楠)たぶん龍大もあったんちゃうかな。でも、自分で書けないから。要求しませんね、何もできませんよ。それでもいいですか、ハイと言って入った。大学はそれでサインしたんちゃうかな。
岸田)今の人では想像はできない。私も4月に成績表もらいますけど、ちゃんと読んでくれますし、書類なんかは、これはこういう書類ですと説明してくれる。そういうこともなかったんですか。
楠)もちろん。ない。他の学生と一緒にワンセットぽんと渡して書いておいてくださいと。
岸田)それで同じように学費とってというのは、今ならちょっと…
楠)権利という発想じゃなくて、入れてあげるということだから。恩恵で。ほんとは入れたくないんだけど、入れてあげる。そういう時代、まだ意識が。それで立命の面接に立ち会った先生なんか、なんで目の見えない人が大学なんか来るんですか。マッサージしてたらいいじゃないですかって。平気で言ってたよ。
岸田)大学の先生でさえ…。
でも、今の時代と、わずか半世紀も経ってない40年ちょっと前でそんなんだったんですよね。意識というか、全然。その中で、楠さんは勉強人生を歩むわけですが。

休憩

龍谷大学への入学


岸田)大学に入って、なんとか同郷の人、北海道の人をさがして。私には想像できない(笑)。単位登録は、今はパソコンでやるし、事務室に頼んだらやってくれるんですけど、自分でやらなあかんけど、知らない人に頼むんですよね。
楠)同じアパートの同郷の人と、もう一人、同じアパートの中で友達になった人も手伝ってくれたし。
岸田)前に聞いたお話では、その人が、学校が始まったとたんに、あまり学校に行かなくなった。
楠)その同郷の奴がね。麻雀ばっかりして。あの頃はテツマン、徹夜麻雀が流行っててね。今はやらないけど、昔は雀荘とか学生は入り浸ってたから。
岸田)でも麻雀って、うるさくないですか。
楠)じゃらじゃらと。隣からも聞こえてくるしな。
岸田)いい人なんですよね。
楠)いい人だよ。でも、学校には行かない。
岸田)楠さんは、それでどうしたんですか。歩行訓練もないし。アパートから大学まで10分くらいはありますよね。
楠)ありました。
岸田)1人で通ったんですか。
楠)通いましたよ。最初は何回も間違えてね。
岸田)授業が始まりますよね。英文科は宿題が出たりドリルがあると聞いてるんですけど、それはどうやってこなしてたんですか。
楠)やっぱり、宿題が出たら読んでもらって、写して。まず点字にするのが。他の科目はカセットでもまだ聞けてやってたけど。英語とドイツ語だけは点字がないとね。ついていけないし、当たった時に読めないでしょ。負けず嫌いで、読めませんというのが嫌だったから。なんとか読んでやろうと思って必死になって点訳して。
岸田)でも、先生は僕も手伝おうかとか…
楠)そんなことは全然。
岸田)言うてくれないんですか。
楠)全然。
岸田)配慮して、点訳できたら来週はここをやってくださいねとかは。
楠)言ってくれない。だから、先生、すいません、今日はテキスト間に合わなくてできてないと言ったら、しゃあないな。今度やってもらおうかという、
岸田)クラスメイトは? クラス制だったんですよね。お友達とかは、見るに見かねて読みましょうかとか、みんなでやりましょうとか。
楠)そんな…。だいたい、1クラスで何百人だからね。
岸田)でも、そうしたら、なかなか勉強は大変ですよね。段取りが。
楠)だから、英語のグラマーとリーダー、ドイツ語のグラマーとリーダー、この4科目を点訳するのが必死で。点訳したのを辞書ひいて訳して、次の時間に発表したりする感じね。最初はそれで必死やったね。
岸田)1年生、2年生がいちばん忙しいですよね。一般教養があって、英文科はドリルもあって。その中で常に90点をキープするのはすごいと思いますが、どういうふうに…。塙保己一に始まる視覚障害者の記憶の良さがありますけど、やっぱり記憶でもいくんですか。
楠)もちろん、記憶もいくしノートもとるし。1年生、2年生の頃はほんとに集中して聞いてた。だからね、僕のノートは英語だけじゃなしに、試験前になったら、みんな必死になるやん。試験勉強に。そうすると楠さんのノートがいちばんよくできてるからって、ノート写させてくれって言われた。自分らが書いたノートさっぱりわからんと。ただ黒板を写して書いてるだけで。僕はやっぱり、自分で理解して点字を打つでしょ。
岸田)私なんか、年でもうなかなか理解できないんですけど。集中力?
楠)そう、集中力やね。今でもそうやけど、どこが大事か、大事じゃないか、判断する。ポイントを。
岸田)テープレコーダーとか、パーキンスブレイルとか、アメリカの点字タイプライターはひじょうに早く書けるんですけど、そういうのは使ってたんですか。
楠)いや、使わせてくれなかった。タイプライターは困る、みんなに迷惑かかるからと。点字版でガタガタガタガタ、一所懸命打ってた。途中から手がだるくなって。
岸田)でも、ニシオカさんなんか、1年生から。
楠)北海道の同郷の人の次の次くらいに友達になった。僕のうしろのうしろくらいにたまたたま座ってた学生がいてね。これが、今黒板になんて書いてるんですかって聞いたら教えてくれて。点字って難しいんですか?って。福井の兄ちゃんで。その人が、じゃあ僕も点字やってみようかなって言ってくれて。
岸田)よく、サポートしてくれたんですよね。何回か見てますけど。
楠)サポートというより、俺の部屋の入り浸ってた。今週は7打数6安打だとか。つまり1週間に6回俺の部屋に泊まってた。自分の部屋に帰れって(笑)。今日は帰るっていう感じ。また来て、ちょっとレコード聞こうとか、俺が作った料理をな、200円出すからって食べる。北海道の奴でも、みんなカレーなんか作ると200円で食べてた。
岸田)それで点訳を手伝ってもらいながらも、点訳サークルはみんなで楠さんを支える、点字をしようという組織的な動きはあったんですか、学生の間で。
楠)それはね、6月くらいにニシオカさんと、栗木さんという、1回社会人になってから入った女性がいて、その人が手伝ってくれた。二人で点訳サークルを作ろうということで。その時でも僕は、問題意識はかなり強かったから、単に点字だけ覚えるだけではおもしろくないというか、続かないから。盲人の、視覚障害者の抱えてる問題、あんまマッサージ業界の話とか一緒に研究してほしいというので、最初は盲人問題研究会というのを作ったんですよ。その時に、ビラまいて。
岸田)やっぱりビラまきしたんですね。
楠)最初、集まったのが6人かな。それで一応盲人問題研究会を始めた。そこでみんなに点字を覚えてもらって。でも、語学を打てるというのは、なかなか。ニシオカさんはやってくれたけど、語学はなかなか打てなかった。
岸田)龍谷はちょっと、本願寺のキャンパスじゃなくて深草は遠いでしょ。ライトハウスも盲学校も遠いし、離れてるから。
楠)伏見からライトハウスに行こうと思ったら、バスに乗って1時間半かかる。
岸田)今ならすぐ行けるけど…。
楠)通ってた。週2回。ライトハウスのボランティアにも本読んでもらってね。
岸田)自分たちの学校でなんとか。マツイさんて脳性麻痺の人いはったけど、亡くなりはった…。マツキ、マツモト? 男性で。
楠)いたな。
岸田)井上さんかな。近大に行きはった人。
楠)ああ、井上憲一な。
岸田)あの方が、やっぱりはじめ車いすなんて通信教育は入れてくれたけど、全然配慮がないから、4階までおぶってあげてくれた人とかノートとってくれた人とか出てきたというけど、楠さんもそれに近いものがある。組織的にするというのもないし、今でもないけど、制度やバックアップするものもないし、全部自分でするしかないというか。そのあたりから、楠さんも保障されないといけないというふうに。
楠)そう思い始めましたね。最初の約束、それでも1年目はね、なんとかがんばってやるしかないと思ったけど、途中からこれは持たないなと思って。盲人問題研究会として実態を話し合って。他の大学の状況も見てみようということで同志社の、当時盲友会というのがあって、これは伝統もある。盲友会のボックスにはちゃんと点字の辞書も置いてあるしね。けっこう、同志社はまだましだったね。そんな状況を知って、龍谷にも要求していかなあかんのちゃうかと言い出して。2年の時だったかな。初めて要求したのは。要望所を出した。
岸田)部落解放研究会のことは前に聞きましたが、はじめに、盲学校でがんばらなあかんみたいな、そういうのをすりこまれるというか。当時は。
楠)お前が失敗したら、盲人はみんなだめだと思われることになるんだからなって。盲学校の先生に怒られる。
岸田)プレッシャーになる。これが今の人たちとは違う。今は今で、教科書が相変わらず難しいですけど、楠さんの時は、学校が承認しないというか、配慮することを前提としていないから。善意に頼ってた。
楠)そういうことやね。
岸田)盲人問題研究会で、かなり皆さんの意識が変わっていくということはあったんですか。研究会に入ってる人の中でも。
楠)そう、やっぱり学生運動があちこり始まるし。社会問題に対する意識は出てくる。
岸田)不思議なことに、前もおっしゃってたけども、大阪の青い芝と連絡はとていないけど、同じような動き。社会に対する問題意識が強かった。
楠)そうですね。個人の努力だけではどうしようもない。
岸田)今、事情が変わってきてますが、今の学生さんを見ていて、感じることはありますか。
楠)そら、もちろん物足りないものを感じる。ただ、僕らが切り開いてきた要素はあるけど、それで彼らが勉強しやすくなったら、それはそれでいいことだと思う。あまり制度を変えるとか人権とか。健常者もそうだけど、障害者も増えてるのに、そういう意識は少ない。
岸田)わずか40数年前はこんなんだったと知っていくことから。今は今で問題はあるんですけどね。

楠)2回生の時に、盲人問題研究会をもっと広げようというのでビラまきをした。短大生とか1回生が入ってきて部員が20人くらいになった。そんな中でちょうど、民生とか全共闘とかが出てきてて、議論が始まって。結局、民生系に行く人と、まだ全共闘には行かないけど、大学に要求をきちんとしていこうという部分、それと、難しい理屈考えずに単なるボランティアでいいんじゃないですかという、点字打って障害持った人と交流するというのでというのが分かれて、議論になったね。その過程で、20人入った学生の3分の1がやめたね。民生系に行く人が何人か出て。その中で、結局、全障研盲人問題研究会というグループと、視覚障害者解放委員会というグループができて、視覚障害者解放委員会はニシオカさんとかクリキさんとか7人くらいいたかな。そんなんで分かれて、段々全共闘と民生とかに。
岸田)2年生の頃というと。
楠)1968年。全共闘運動が活発になってきて。ピークは69年だけどね。揺れ動いてた時代です。僕は2年までは深草にいたけど、3年からは大宮の方に移って、運動が盛んになってきて。
岸田)障害者の解放とか、さよならCP大阪上映委員会でも解放と言ってましたが、解放するというのは、どこから。
楠)部落解放やろうな。
岸田)ああ、なるほど。同じようにカタヒラ闘争が1973年で、楠さんが関西障介研やってたのが73年頃だから、同じような。
楠)関西障害者解放委員会ができたのが71年。10月に結成して。
岸田)あれはタカハシさんを夜間中学に入学をすすめる会は関係ない?
楠)かかわってない。



■そのほかのインタビューへのリンク

◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その3) 2010/11/21 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その2) 2010/10/17 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その1) 2010/10/03 聞き手:岸田典子野崎泰伸 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2011 インタビュー 2011/10/02 聞き手:中村 雅也 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

UP:20220220
楠 敏雄  ◇視覚障害  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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