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楠敏雄さんへのインタビュー(その2)

2010/10/17 聞き手:岸田典子 場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

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◇2010/10/17 楠敏雄さんへのインタビュー(その2)
語り手:楠 敏雄
聞き手:岸田典子
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録

※前回のインタビュー:楠敏雄さんへのインタビュー(その1)


<小樽盲学校における寄宿舎生活(続き)>


岸田)10月17日、楠さんのインタビュー第2回目です。今の時間は2時3分です。宜しくお願いします。前回聞き忘れていたことがありますので、そこから質問していいですか。ご家族はお姉さんとお兄さんと妹さんがお二人ということですが、生まれは何年ですか。

楠)いちばん上の姉が昭和14年、兄貴が17年、僕が19年。妹はちょっとあいて24年と26年。

岸田)ご兄弟は障害はないのですね。岩内で家業を始めたのはいつ頃ですか。

楠)それは僕が生まれるずっと前だからね。昭和10年くらいじゃないかな。おじいさんが能登から出てきて、大正時代くらいに駄菓子屋をやっていて、親父が菓子職人の見習いに入って、昭和初期にまんじゅうとか、和菓子屋を始めた。

岸田)能登の出身の方なら、金沢のお菓子とか…

楠)修行は北海道でした。

岸田)で、晴れて独立してお店を開いた。じゃ、おじいさんは菓子職人じゃなかったんですね。

楠)違います。

岸田)寮の生活ですが。

楠)その前に、僕の小さい時代のことだけど、整理したら特徴が4つあると思う。ひとつは、親は普通の親でね。障害者に対する知識もなかったし、かといって殺してしまおうというほど絶望もしなかったし、悩んではいたと思うけど普通に育ててくれた。差別的なこともあったけど、普通の環境で育った。
 二つ目に、子ども時代というのは、やっぱりいじめもあったし、差別もあったけど、いい友達もいた。これ、三つ目ね。四つ目は、おじいさんの影響で人一倍好奇心の強い子どもになったのがよかった。普通に育って過保護にされずに、いじめられたけど友達もいて、好奇心があった。この4点が僕の小学校に入るまでの特徴だったね。

岸田)楠さんは文化系の方かなと思ってたんですけど、意外にやんちゃで。家でじっとしてるタイプではなかったんですね(笑)。

楠)盲学校の高等部では相撲部のキャプテンまでしてたんだ。信用してくれないけど。

岸田)私のイメージでは盲学校では恋愛小説でも読んでるイメージでしたけど、違うんですね(笑)。では、進めていいですか。寄宿舎生活についてですが、寄宿舎の中で、生活の格差。私が行ってた頃は子ども心にも格差があるなと思いました。平均するとしんどい家庭の子どもたちが多かったんじゃないかなと思うんですね。京都の場合は山陰地方から来てる子のなかにはしんどい家庭の子が多かった気がします。京都市内の子も当時は不動産屋の息子とか医者の娘とか、お金持ちの子は少なかったですが。小樽の盲学校はどうでしたか。

楠)生活的には苦しい人が圧倒的に多かったね。一人二人金持ちはいたけど、相対的には苦しかった。

岸田)貧困のために障害が多かったのかな、とか。

楠)いや、多分ね、その頃はやっぱり、トラコーマとか結膜炎とか、目の病気がものすごく多かった。敗戦のどたばたの時期で。医療の遅れとか、そういうことから来る障害。それから緑内障とか白内障とか遺伝性の病気で障害になるのが圧倒的に多かった。

岸田)小眼球ってね、目の小さい、栄養不良によって。

楠)逆に目が飛び出してるのね。(後半不明瞭)

岸田)あとで触れるかもしれないですけど、親と離れて恵まれない暮らしをしてたら、人間関係でより弱い子どもをいじめるというか。そういう子ども同士の人間関係は。

楠)やっぱりいじめはあったね。気の弱い子なんかとくに。知的に遅れた子もいたし、性格的に内向で過保護に育てられた子なんか寮に来ると気が弱いのでいじめられる。それは障害者の学校といったって、いじめも差別もある。

岸田)あとで寮母さんの話も…

楠)僕は小樽の盲学校だけど、小樽の家の子は親が送り迎えして通学してる子が何人かいた。その子らがうらやましくてね。遠足なんかだとその子らはいい弁当持ってくる。僕ら寮生だからみんな同じおにぎりで、梅干しだけの。クラスに一人だけ通学の子がいるとウインナーとか持ってくるとうらやましくてね。そんな記憶がある。

岸田)格差を感じましたよね。でも、寮の中ではできるだけ厳しい生活してる人にあわせるようにという対策はとられてたように思うんですけどね。医者の娘とか不動産屋の息子とか、お金は持ってるなと思ったけど、それであたしらがみじめになることはなかったんですけど。

楠)寮母さんが、運動会なんかにそういう親が来たらけっこうチヤホヤしたりしてたね。

岸田)中学校の頃ですか、生徒指導の名のもとに人権侵害…鶴橋の焼き肉屋で言ってはった話を…、虐待というか、背景とか。

楠)小学校の時ね。集団になじめない子が多かったわけね。そういう子は寮母さんはしつけをするんだけど、しつけという名のもとに強制とか虐待とかするわけ。おねしょをする子とかいるからね。当然、援助者でもいるからね。1年生くらいだったら。そうすると、おねしょした布団を背負わせて廊下を3周してこいとか、そんなのを平気でさせる。小さい子でも。

岸田)それは指導というかっこうで。

楠)そう。指導という名のもとに。

岸田)返事が悪いとかも。

楠)返事しないと倉庫に1時間以上閉じ込めたり。そんなのは何回もあった。

岸田)舎監というのもいましたよね。舎監は見て見ぬふりだったんですか。

楠)生活指導ということだから。でも、あまりにもひどい寮母がいて、その日の気分とか、自分が旦那とうまくいかなかったとかいうのを生徒にぶつけるわけ。今日は寮母さん何かあったなって、ぶつけてくるかわすぐわかる。それがあまりにもひどい。もう一つ、親が送ってくるお菓子をピンハネして持って帰る。自分らが夜に雑談するときに親が持ってきたお菓子を食べてしまうということがあってね。さすがにあまりにもひどいというので、舎監が職員会議で問題にして論議になったけど、結局それはあまり強いことはしないようにという指導くらいで終わってる。

岸田)じゃあ、どっちかというと、指導という名の虐待というか人権侵害は、職員会議というか教師に知れたら組合で追及するとか、寮母さんの対応は問題だとか表沙汰になることはなかったんですか。

楠)そこまではない。障害者が人権の対象だという考えが浸透していないから。教師達も生徒はかわいそうだからなんとかしてあげよう、救ってあげようというのがせいぜいで、人権とか、そういう意識はほとんどなかった。だから、生徒指導で明らかに虐待して暴力してというのは問題になったけど、大もめになることはなかった。親も下手なこと言ったら追い出されるしね。預かっていただいてるんだから、ほとんど障害者の施設はそうだからね。何かあっても文句は言わない。

岸田)今なら保護者会とかで追求するとか…。暴力はなかったんですね、叩いたりとか。

楠)あったよ。あったけど怪我まではなかったから。ふだんは寮だからわからないし。通学してる子なら家帰ってチクラレるけど、寮にいたら親とコミュニケーションはほとんどないから。それに保護者会なんてないもの。寮だからね。保護者が遠いところから集まってくることもない。1年に何回かしか来ない。それが当たり前だった。

岸田)今も施設というか、閉ざされた中で問題はあって、何が行われてるかわからない。子ども達は小さくて抵抗できないし、視覚障害者は逃げ出すこともできない。それに耐えられるか、ガマンするか。

楠)それしかない。僕の先輩で、知的障害でね。とにかく服を破ったりボタンを全部取ってしまったりする人がいて、その人がいつもターゲットになって怒られてた。いちばん印象に残っているのは、6人部屋でカーテンも仕切りもまったくなくて、3人ずつ並んで寝て、足下に向こう側に3人布団並べて寝るわけ。昼は、一人ひとりの机はあるけど、プライバシーというのは一切ないし、それが当たり前だった。

岸田)今は寮も変わったでしょうけど、当時は。

楠)今はベッドの間にカーテンがあるだろうけど。僕らの時は畳でまったく…。

岸田)で、楠さんは夏休みと冬休みと春休みしか家に帰らない。私は土日帰ってましたけど、寮には小学校3年の途中から6年の終わりまでいて、3年の時はよく風邪引いて家に帰ったりしてそんなにいなかったんですけど、4年くらいから本格的に寮にいた。寮母さんはうるさいし嫌なんですけど、寮母さんのいない部屋に入ると子ども達ばっかりだから自由で。食べ物も悪いし、家の方が絶対いいんですけど、たまには子どもだけで過ごしたいので、親に迎えに来なくてもいいよと言って、そのうち土日家に帰ると単身赴任の親父みたいに居場所がないんですね。家は家で暮らしてはるし、私がたまに帰ってきてカレーなんか食べると美味しいから皿ペロペロなめたりして怒られる。寮は寮で仕切りに局がいるから、ハイハイ言ってるしかない。だんだん居場所がなくなってきて、人格形成ではね、楠さんと違って私は何もできずに入ったので、寮を出る頃には自分で洗濯も、運動靴とか洗ったし、ぞうきんも絞って廊下もふいてたし、たくましくなってそういう面では良かったんですけども、自分の精神的成長というか、そういう面でしこりができてしまったというか。それはどうでしたか。

楠)まあ、僕は年3回帰って20日くらいいる。帰って2,3日はけっこう大事にしてもらって、あれ食べるかとか言ってもらうけど、2,3日したら普通だしね。それでも家はよかったな。家はお菓子屋だからお菓子が食べられたし、ご飯もおかわりできたし。寮ではおかわりないし、好き嫌いも多かったから。

岸田)家族は、母はそれを怖がったんですね。家族の一員であるようでないようで。

楠)それは、そうなるね。寮生活してたら。だけど僕はそれより寮という空間の閉鎖性というか。ただ、客観的に言ったら、人権侵害とか厳しさもあったけど、生活指導がね、良くも悪くも、親にかわいがられて親が何でもしてやるのと違って、集団生活だからね。規則守らされて自分のことは自分でしなさいと指導されて。それはやっぱりよかった面もあるんだろうな。

岸田)楠さんの場合、小学校も中学校も高校もそういう生活なんですね。自分の精神的核というか、親を見ながら…。仲間との連帯の方が強くなる。

楠)親に対する印象は少ない。親と暮らしてる時間より仲間と暮らしてる時間の方が、半分以上というか四分の三くらい。

岸田)私たちが共に学ぶ教育といったことを言い出した頃も寮の生活の問題は出てたんですよね。親と離れるというか。楠さんとしては良きにしろ悪しきにしろ、寮生活が自力でやっていくのには良かった。

楠)プラスの側面もあった。嫌なこと、辛いことはたくさんあったけども、今思えば自分の力、身辺自立だけではなく、いろんな人間関係で、いじめられたり、弱い子いじめたり、いろんなつきあいの中で鍛えられた面はあった。

岸田)共同生活だから。ちょっとでも体験すると変わってきますよね。

楠)朝起きて、冬でも廊下ふきしたし、ぞうきんをバケツで絞って。石炭当番して、ストーブに火をつけたり。火をつけるのは中学だったけど。そういうしつけというか、訓練というか、それは身についた。多少たくましさが。

岸田)今の時代の人は、保護者の方にぜひ聞いていただきたい。

楠)服のたたみ方なんかも、ちゃんと自分でそろえて。障害者だったら脱いだらそのままの子もいるけど、寮では指導されるからね。夜中になんかあった時でも靴下なんか対にしとかないと困るとか。

岸田)たくさんの人たちと暮らしてるんだという意識、私なんか楠さんと違って過保護に育ってるんで、お風呂も共同だから順番に何人かで入ってましたよね。

楠)4人くらいやな。

岸田)次の人が入るからきれいにしとかなきゃいけないとか。

楠)時間は30分以内とか決められてる。

岸田)そう、その中で着替えて、頭も洗って、きれいにもとの通りにして出ないといけない。

楠)だいたい、週2回しか入れない。今日は男性の日、今日は女性の日と。

岸田)どうしてたんですか。

楠)そんなもんだと思ってた。

岸田)シャワーなんかないしね。やっぱり、週に2回やったらきついな。

楠)その頃はそんなもんだったんちゃう。どこの施設でも。



<小樽盲学校小学部中学部の生活>


岸田)寮のことはここで置いて、中学校、思春期編で続きを聞かせていただくことにして、小学校入学について。入学された時の同級生は何人ですか。

楠)4人。

岸田)そのうち全盲の人は。

楠)4人とも全盲だったな。

岸田)え? 4人とも全盲? うーん、そうなんや。

楠)僕らの頃は弱視の子は親が盲学校に入れないの。とくに田舎の親は隠したがる。障害者と思われたくないのが圧倒的に多いから。弱視だったら隠せる。そのまま普通学校行ってた。最初の頃は盲学校には居なかった。

岸田)私の時は6人が全盲であとは全部弱視。今なんか、網膜色素編成で将来見えなくなるからと、0.5くらいの人もいますよ。

楠)都会の盲学校とローカルとは違う。ローカルはあちこちから来るから、全盲です。弱視だったらどさくさに紛れて普通学校に入ってる。

岸田)今みたいにロービジョンというのはないからね。黒板の前に座らせてもらってたけどね、視野が狭いから斜めになってて、そんな字の書き方じゃいけないと指導されてた。弱視だから仕方ない。いろいろあって、盲学校に行けと言われたんですけど、弱視といってもピンからキリやから、0.04から0.05くらいの視力でずっと普通校に居続けるのは相当しんどいんちゃうかなと思うんですけどね。

楠)しんどくて当たり前。だから落ちこぼれる。そんな子がたくさんいた時代。ローカルな盲学校はみんな全盲。弱視はごく僅か。

岸田)そうすると、みんな点字ですよね。

楠)もちろん、点字。

岸田)弱視の子も昔は点字をやらされたという話を聞いたから、お聞きしようかと思ったんですが、論外や。まず、点字習う時には、どこから始めるんですか。書くことから? 読むことから?

楠)書くことから。

岸田)メ、メ、メ、メ、メ…、

楠)そう。それからアイウエオ。

岸田)それから、紙のハサミ方。点筆の持ち方。

楠)もちろん。それは1年生を担任する先生は点字をある程度知ってるからね。あとは、盲学校のテキストもあったからね。猫ミーミーとか、たまこちゃんとなんとかとか、読む練習のテキストもあった。点字は1年生の後半くらいからかな、最初は生活指導が中心だからね。

岸田)私は左手しか読めないんですけど、昔の人を見てると右と左とで、右、左、右、左。楠さんもそうやって練習したんですか。前半を左、後半を右だと早く読めると聞いたんですけど。

楠)こうやって読んで、途中まで来たら左手は次の行に移って最初にふれておく。そうすると続けて読んでいけるから。

岸田)すらすらと読めるようになったのは。

楠)3年生くらいかな。

岸田)時間がかかるんですね。

楠)すらすら読めるにはね。

岸田)最初からやってる人と、途中からの人は元々土台が違うというか。

楠)同じやっても差がつくしね。いくら両手読みさせても片手でしか読めない子もいるし。

岸田)分かち書きとか、マス開けとか。

楠)それはね。今みたいに厳密なことは言わないけど。今日は よい 天気です くらい。

岸田)分かち書き難しいからね。

楠)小学生だからね。

岸田)とりあえず読んで、とりあえず書くというのが、まず。で、楠さんが小学校で先生からいちばん最初に教わったことは何ですか。

楠)最初に教わったことなぁ。何を教わったかな。あんまり…。とにかく、返事をはっきりするとかね。それから、何を言われたかな。自分でできることは全部自分でしなさい。人に頼ったらあかんということは言われた。

岸田)お勉強じゃなくて。

楠)生活指導。給食指導もあるしね。最初のうちは、なじませることを中心にしてるから、理科の時間には虫取りに外に行って、先生が虫捕まえてきて、コオロギの声を聞いたり、こんなんだよと触らせてくれたり。タンポポの花で一緒に笛を作ったり、1年生の前半の頃はそういうことで、触る指導とか、ものの指導とか、自然にふれるとか、山だからね。街中じゃないから。

岸田)でも、4人の全盲の子だったら、それ、一人の先生がやってたんですか。大変やな。わりと盲学校って、ゆっくりしてて、普通校から盲学校に来たらテンポがゆっくりで先生が親切やなと思いました。

楠)そら、そうだ。それが盲学校とか養護学校の売りだからな。ゆっくり丁寧にやるというのが。ハイペースでやる必要もないし。

岸田)それで、点字もすらすら読めるようになったら、図書室とかで本を読む時間とかあったんですか? 読書の時間…

楠)だいたい、本なんかなかったもん、僕らの時代は。点字の本なんて教科書以外は。国語の本と算数の本と。それ以外の点字図書はない。僕が覚えてるのは、5年生の頃から、その前から帯広に点字図書館があって、これは割と有名で、そこからシャーロックホームズの冒険というのを先生に紹介してもらって借りて読んだら面白くてね、次のをまた借りて、返して次のを送ってもらって。

岸田)図書室というのはないから。どこかの図書館に…。私は小さかったけど京都はライトハウスが近いからね。

楠)田舎の図書館だから。中学校くらいから図書室にちょっと本が揃ってきた。

岸田)聞くところでは、学校の教科書が古いというか、点訳の関係もあってか何年前かのものだったんですよね。高槻から来たら教科書が違うなと思ったことがある。

楠)盲学校用教科書というと1つしかない。どこの学校も同じテキスト使ってる。

岸田)学習は丁寧だけど、一般校から比べると遅くなるんですよね。あと、点字楽譜なんかは小学校で習いましたか?

楠)あ、習いましたよ。最低限は。

岸田)教師が教えきれへんとか…、楽譜知らないとか。

楠)知らない先生もいたけどね。一応テキストはあるから。二分音符、四分音符、八分音符と。それとね。点字競技会、今でもやってるけど北海道だと全道点字競技会というのがあって、各盲学校で点字を打つとか、読むのが早い人を集めて、書くのと、読むのと、転写といって写すのが集まる。早読み、早書き、転写、この3つの競技があるわけ。

岸田)転写は、本を読みながら点字を打つ。

楠)そう。書き写しやな。それで何点とったか、どれだけ読めたかという大会があった。小樽盲学校ではだいたい二人くらいが選手に出てて、僕もよく選手で出てたな。読んだり書いたりするのは、とくに読みは得意だった。両手読みすると早いから。北海道では僕と、Mさんという人と、もう一人、今千歳市議会に出てるOさんというのと、この3人がだいたい1,2位を争っていた。

岸田)Mさんは、あの有名な。

楠)点字技能士の資格を持ってる。

岸田)その頃から何十年とおつきあいしてるんですね。

楠)彼は札幌盲学校だったから。

岸田)盲学校はいいんだけど、先生一人だから、先生の独壇場で授業がされてて、私はアホやったから、いちばんできない子の机を北向けにするんですよ。で、いちばんできる子を南向けにするから、延々寒いところで冬なんか地獄やったけど。それとか、隣のクラスの先生は札を作って出来ること出来ない子をしたり。私は出来ない子やったから、いつもえらくみじめやったんですけど。その割には学力的には進まないというか。進みにくいというか。

楠)進めようという意図もない。ゆっくりやったらええという感じやから。目標は一応立ててるけど。

岸田)楠さんは、いちばん何の科目が好きやったんですか。

楠)小学校の時は社会科かな。歴史が好きだったから。

岸田)学年が上になったら、歴史もよくやるから。その時、一般学校やったらノートの取り方とか、サブノートの作り方とか

楠)そんなんはやらない。

岸田)それから、科目ではドリルをしたり、高槻にいる頃はそんなのもよくやったけど、盲学校に行くとそんなのはないんですよね。

楠)ない。

岸田)そういうことは教えてもらえなかった。

楠)必要性もないと思ってる。

岸田)私は二つ下に弟がいるんですけど、こんなこともやってないのかとよくバカにされてたというか。それは盲学校やから仕方ないんでしょうかね。

楠)その頃はね。今は逆に、ある程度能力の高い視覚障害者は普通学校に言って、知的障害、重複の子が盲学校に多いと思うね。そういう傾向にある。特徴と言われてるね。盲学校の中でも格差がある。優秀な子は大事にされるけど、知的な子は生活指導が中心。

岸田)それと、盲学校の場合は将来、三療しかないということで、科目を…

楠)一生懸命教えようという教師の目標がない。

岸田)九州の学校の人の話を聞いて仰天したことがあるんですが、初めから熱心じゃなかったと。

楠)一部の先生が。盲教育を専門に勉強して来た先生なんていない。行くとこなかったから盲学校に来てて、盲人のことなんか知らない。たまたま少し真面目に勉強して点字の指導にあたる人が一人か二人いるくらいだったな。養護学校も今は少しは変わってきてるけど、昔は、盲学校ほど楽な学校はないわな。点字知らない先生がほとんどなんだから。今でも養護学校に養護教育の専門知識を持ってる人は半分もいないでしょ。

岸田)何がいいのかわからないですよね。専門知識といっても

楠)知識があるにこしたことはないけどね。養護学校は専門性があるというのは幻想なんだ。

岸田)1時間たったので休憩します。



(休憩)



岸田)私は、楠さんとKという視覚障害者と3人で、Kが解放治療院という鍼灸の治療院を始めて、テレビクルーが来るので、私が患者になって楠さんがKを指導しているところを写すという。待てど暮らせどテレビクルーが来ないという時に楠さんが、おい、K、ここももうちょっとピンクのカーテンにして、色っぽいソファーにしたらいいとか言うので、楠さんはピンク色を知ってるのかなと。Kも全盲なんですよ。ピンクのカーテンの時にキンチャンがフフフと笑うという会話をしていたことを思い出したんですが、まず、色は見たことがないので、概念だけになると思うんですが、ピンクはちょとエッチ系とか誰かに教えてもらったんですか。

楠)それはやっぱり、ラジオとかテレビとか、本やな。そういうところから情報を得るわけで、見た実感はないからね。ピンクは派手だとか、白は純粋だとか、青は自然な色だとか、それは人から聞いてる話とか、海は青いとか、空は青いとか、具体的な事物と比較して自分なりに想像してるだけなんだ。じゃ、ピンクと紫とどう違うかとか、全然わからない。紫もピンクも赤もほとんど同じ系統。黒も灰色も茶も、同じ。要するに、僕の中では暗い色。紫、赤、ピンク、全部派手な色。女性は赤い服とか。そういう事物と関連させて想像してるだけで。ちっちゃい時から失明してる人は色彩感覚は、自分で見た実感がないからわからない。

岸田)そらそうやね。小学校の時に美術、図工の時間に先生が色彩のこととか教えてくれるんですか。

楠)ないない。今は知らんけど。昔は全然なかった。図工はもの作るくらい。たとえば箱を作ってみるとか。釘打ったり、カンナを使ったりとか、ものをつくる。絵とか色はどうしようもない。説明できる先生もいないしね。

岸田)私も失明して20年ほどたつ。新しいカラフル系というか、横文字系の色がいろいろありますよね。今想像して、見えるようになったら想像と違う色やろなと思うことはあるんですけど、元々見えない人は想像もつかない。ピンクでも、ショッキングピンクってきつい色とベビーピンクって薄い色とかいろいろある。そうなるとちょっとお手上げというか。

楠)そんなのは全然わからない。黄色とオレンジとか、黄色と赤とか、どっちも派手なのかなくらいしかわからない。それくらいしか想像つかない。

岸田)図工ではまったくふれない。

楠)その頃は盲人に色なんか指導しても無理だと。

岸田)粘土とかはしませんでしたか。

楠)したした。

岸田)視覚障害者には粘土はしやすい。

楠)花瓶作ったりね。

岸田)小学校だったら、どっちかというと、中学のように科目が分かれてないから適当に…。課外授業というのはあったんですか。

楠)さっき行ったように外に出たり虫とったりしたね。校外授業しようといって先生にねだってた。

岸田)見学とか…?

楠)盲学校が山の中にあるから、バスに乗っていかなあかんからね。年に1回くらいあったかな。とくに僕の頃は社会との交流はほとんどなかったね。遠足でたまたまそこに来てる晴眼者の生徒が来ててからかわれたりね。

岸田)外の鳥の観察とかの他にも、私らは課外授業で学年を追うごとに気象台に行ったり、社会とつながってるんだなという感覚を持ったんですけども。

楠)それが、ローカルな盲学校と都会との違いやろうな。社会資源がないから。それから、いろんなところに行ったら迷惑かけてはいけないと思ってる。けっこう目的意識的な先生がいて、こういうこともせないかんと強く言って実現することもあるけど、大概の先生は、盲人や障害者は世間に迷惑かけないようにしないといけないと。そういう意識の人が多い。はっきり口にもしてたしね。

岸田)楠さん知ってますか、S先生。あの人は元々東大の理学部の実験中に事故で視覚障害になった。ある時バイトで、NHKの大阪放送局で脚本書いてはったんです。そのよしみで、私らも5年生の時に1クラス6人でテレビスタジオやラジオスタジオを見せてもらったりしたのがおもしろかった。6年生の時は気象台に、工場に行った人もいるみたいで、よく来てくれたねぇと、けっこう迷惑よりも歓迎された。普通の学校では見せてもらえないところも見せてもらえておもしろかったんですけど、まだまだそういう考え方が定着してないというか。障害を持たない学校との交流、盲学校からも粘土とか展覧会に出て見に行ったり、他校との交流があったんですが、それはないですよね。

楠)数が少ないから、小樽と札幌だけでも6時間以上距離があるし、出品展もしゅっちゅうあるわけじゃないし。

岸田)施設に近いような。

楠)ほとんど施設ですよ。

岸田)ほとんど寄宿舎ですよね。通う子、通える状態の子は少ないんですよね。そこで暮らして学校で勉強して、入所施設と変わらない。

楠)せいぜい、掃除洗濯を自分でできるようになるくらいの。

岸田)楠さんは、小学校でいちばん楽しかった想い出は何ですか?

楠)やっぱり遠足は楽しみだった。外に出るというのは。みんなと一緒にお弁当食べたり、そのへんに寝転んだり。草抜いて草相撲とか。草と草からませてひっぱりあったり。あとはボール投げして。

岸田)毎月遠足なんかないですよね。

楠)年に2回、春と秋。だから遠足の前の日なんかマジでてるてる坊主作ってね。中学でも作ってた。楽しみだった。行事は遠足と運動会。

岸田)運動会…

楠)運動会は年1回あったよ。秋の運動会。障害物競走とか、ラムネ飲み競争とか。走る競争もあったし。楽しかったね。

岸田)小学校時代にいちばん印象に残ったこと。プラスでもマイナスでも、ありますか。

楠)とにかくお腹すいたこと。夜になったらお腹すいていつも辛かった。好き嫌いが多いから晩のおかずが食べる物なかったら、かわりのものないから。寮母さんに食べなさいと指導されても、僕も食べなかった。頑固だったから。2時間3時間残されても食べない。いつも残されてた。面白いのはね、集団でご飯食べてるでしょ。盲人同士だから、味噌汁とご飯とおかずと食べてて、なんかご飯が減るの早いと思ったら、隣と交代交代で食べてる(笑)。けっこうおもしろかった。

岸田)それだけ全盲の子が多かった。

楠)中学校くらいになると、中途失明の子がね。年は二十いくつだけど。ちゃんと小学校行ってない人が入ってきて、弱視だったりすると、そういう連中はけっこうずるがしこくて、悪いこと教えたりな。

岸田)弱視て言ったって、今の弱視の人より、かなり視力が少ない人が多かった。

楠)大阪府盲学校とか、京都府盲学校とかそんな弱視の子は入れない。

岸田)けっこう大きな顔してたんでしょうね。

楠)とくに中途失明の先輩なんかはね。我々、小学生で入ってきた弱視の子を使って、外出するらしいからお前、あれ買ってこいとか行かせたりはあったな。

岸田)4人入ってきて、小樽盲学校は、全小学部で何人くらいですか。

楠)1年生から6年生まで20人くらいかな。

岸田)え?

楠)ちっちゃい学校。北海道は札幌以外はそんなもん。1クラス4、5人。2人のクラスもある。小樽盲学校は小中学校あわせて30数人。40人くらいか。

岸田)なんとまあ。男の子が多かったですか?

楠)男の子がちょっと多いかな。女の子はますます、可哀想だと親が囲い込んで外に出さない。学校なんか行かなくていい。この子は何もできないんだから、ずっと家に居て…というのがあった。中途からやっと誘われて親もみきれなくなってやっと来た子もいました。

岸田)小学校6年くらいになるとそろそろ進路というか将来のことも。私の希望は煙草屋だったんですが、楠さんは将来何になりたいとかはあったんですか。

楠)なかったな。情報が少なかったからね。ただ、若手の先生が入ってきて、おもしろい先生で、僕らによく学生時代の話とかを。その頃宿直制度というのがあって、先生が泊まるとみんなを集めて話をしてくれたりとか、アンデルセンの童話を読んでくれたりする。その時にね、こんな先生になりたいなと思った。先生になるというのは高学年くらいの時、漠然とだけどね。それ以外はあんまり。あんまというのは暗いイメージだった。街中であんまさんが笛を吹いてる、そんな時代だった。

岸田)え、楠さんの時代でも?

楠)そう。ピーヒョロロとチャルメラみたいな笛ふいて、あんま〜どうですか〜上下800円とかね。上だけ500円とか。

岸田)江戸時代ちゃうん。

楠)いやいや、やってた。子供らにからかわれる。そこにどぶあるとか。びっくりして、笑ってたね。他の子供らと一緒に僕もあんまさんからかってたから。あんまというのは、ひじょうに暗い、社会から見ても低い位置にあると思ってたので、そんな仕事につくなんて夢にも思ってない。中学3年くらいになって、高校どうするのかという話をされた時に、君らはあんま、はり、きゅうしかないんだと言われて、盲学校の高等部いって、あんま、はり、きゅう勉強してその仕事するしかない、それが盲人の生き方だと言われてびっくりした。それしかなかった。進路の希望はその段階で断たれる。

岸田)もし、その若い先生が宿直室で話をしてくれなかったら、みんなと同じように三療の道しかないかなと。私の子どもの頃は、お琴で生計立ててる人もいたしね。社中というか、たくさんお弟子さん持ってはって発表会してったから。ライトハウスのKさんは、同志社大学出て図書館の司書になってはって、そういうのもあるんだと。だから選択の余地が。

楠)僕らはそいう情報さえなかった。とくにローカルは、あんま、はり、きゅうしかない。京都と大阪と東京しか音楽科はなかったから。あとは理療科しかない。普通科もない。

岸田)楠さんがこっちへ来てはれへんかったら、会えなかった。今の障害者運動も。

楠)高校の話になるけど、札幌の盲学校に行って、中学の英語の先生におもしろい人がいて、影響を受けて英語を勉強したいと思ったんだけど、高校行ったら英語の時間は週2時間しかない。商業科扱いだからね。あとは、あんま、はり、きゅうの実技と理論、解剖学、生理学、基礎医学といった科目。あとは英語、数学、国語が1時間、2時間ずつある。英語なんか先生がなかなか来てくれない。のんびり来て、まあ、勉強でもするか、どうせお前らあんまになるのに、英語なんかいらんやろ、でもまあ、単位とらなあかんからな、勉強せえよという感じが多かった。

岸田)こんどまた、中学の時に英語との出会いを聞きますが。宿直室の先生はいろんな話してくれたんですか。社会系のこととか。

楠)いろんなこと話してくれたよ。安保闘争の話とかちらっとしたり。おもしろかったよ。

岸田)出会いによって人生は変わっていくというか。今、20人のちっちゃい小学校に行かれて、今思うことは何かありますか。私は小学校1年の時は1クラス59人やったんです。

楠)そんないたん? 普通学校?

岸田)普通学校。10クラスあった。高槻が住宅が開発されてる時で間に合わなくて私が出てから学校がどんどん出来て、最中だったから、すごい人数だった。盲学校入ったら人数が少ないのと、視覚障害だから動かない、あまり運動しないんだなという印象があったんですけど、盲学校はそれなりにゆっくりしてたから助かったなという面もあったんですが。楠さんは小学校の時はそういう点では何か考えることはありますか。

楠)あなたみたいに比較する対象がない、盲学校しか知らない。普通の学校がどんなだか知らないから。だからそういう比較しようがないわな。ゆっくりしてるなとか、刺激が少ないなとか、友達が少ないなとか、遊ぶ仲間も限られてるなとか。

岸田)そこで村八分みたいになったらアウトですよね。ずっと4人の仲間内の一人だけがいじめの対象になったりとか。中学とか途中から人が入ってきても、ずっとそのままになっていくんですよね。

楠)だけどまあ、元々4人とか2人のクラスだから集団としての構成がほとんどできてない。4人のクラスは女の子1人で、1人は通学してて、もう1人の子はよく寮母に怒られて泣いてばかりの子で。その子は高校から精神病院に入ってしまったけど。バラバラだったね。

岸田)一長一短…

楠)せいぜい、学校の休み時間に相撲するとかね。体育館で。

岸田)楠さんが相撲するというイメージが沸かないですね。

楠)あとは、体育で盲人野球してね。ドッヂボールをころがして、音で聞いてバットで打つ。野球大会は好きやったな。

岸田)キャッチャーの人が手をたたいて。ファーストの人も。(パンパン手を叩く音)

楠)そうそう。本格的になると、守備ベースと攻撃ベースと2つベースがあるわけ。手たたくのは攻撃する側の人ね。ベースの場所もちょっと違う。ボールが飛んできたら危ないから。そういう野球があって、好きだったな。小樽の学校は人数が少ないから1チームできない。札幌行けば人数がいたけど。

岸田)でも、音楽は盛んさかんじゃなかったんですか。小学校の頃。

楠)そんなん、十人足らずしかいなくてできる人が限られてるのに。僕はちょっとハーモニカを吹いたけど。それは、全然あなたの感覚と、京都の盲学校とは田舎は違うわ。札幌の盲学校は音楽盛んだったよ、コーラス部もあったし。札幌の高等部へ来てから世界観変わったけどね。

岸田)いっぱい北海道から来るわけだから。

楠)そう、北海道中から来るからね。

岸田)小樽の時よりは刺激たっぷりやし。
 そういうことで、小学校時代が終わりということで、次回思春期の中学生時代ということで、お話しを伺いたいと思います。

楠)小中、ほとんど一緒やね。

岸田)でも、中学は思春期やし、英語との出会いもあるし。

楠)たぶん中学校は、学校も一緒やし、小中あわせても30人だから、中学にあがったという感覚がない。同じ建物だから。小学校は1階で中学校行ったらクラスが2階になる。何も変わらない。

岸田)でも、変わりますよ。制服着るし。

楠)小学校から着てた。

岸田)私は制服はなかったけど、場所が変わるし。では、次回は中学、高校と多感な時期をお聞きしたいと思います。

楠)初恋の話でも、性の問題なんて、寮にいたら知ることができない。教育以前に性との出会いはまったくない。中途失明できたおっちゃんとおばちゃんが、ちょっとじゃれあってるくらい。なんかいやらしいことしてるなと思っても、何をしてるかわからないしね。性ってどんなものか、まったく教育されてなかったからね。障害者の親はだいたい、性教育できないからね。だけど障害者であっても、見えてたらマンガとかテレビとかいろいろ刺激があるでしょ。そんなことで触れると思うけど、見えなかったら性との出会いは全然なかったですね。初恋とか、そんな感情もなかったし、女の子がちょっとかわいいなと思っても中学はそれ以上のものはなかったし。高校行って初めて女の子といたら楽しいなという恋心が芽生えたくらいで、中学ではほとんどそんな記憶がない。

岸田)今はアダルトビデオもあるし、点字の本もあるけど、当時は全然ない。おっちゃんが耳学問教えてくれるんですか。

楠)中学時代はそんなこともないしね。性ということについて、何も知らなかった。

岸田)ちょうど時間が来たみたいなので、次回は中学生と、札幌の高校に行かれてからということで。



■そのほかのインタビューへのリンク

◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その3) 2010/11/21 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その2) 2010/10/17 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その1) 2010/10/03 聞き手:岸田典子野崎泰伸 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2011 インタビュー 2011/10/02 聞き手:中村 雅也 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

UP:20211210, 20220207
楠 敏雄  ◇視覚障害  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇楠敏雄さんへのインタビュー(その1)  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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