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楠敏雄

くすのき・としお
1944〜2014/02/16

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 大阪府東大阪市
 1944・北海道生まれ 全盲(2歳の時)小樽盲学校 札幌盲学校高等部 竜谷大学, 同大学院卒業 1973 大阪府立天王寺高校英語講師 (視力障害者として全国で初めて公立普通高校講師になる) , 家族:妻, 1男2女 全障連(第1・2・4回:事務局長,第7回:副代表幹事) DPI日本会議 事務局長・『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』82, 柘植書房『ラブ』:209-236

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◆立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代(準)―試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books

1944年 北海道岩内町に生まれる
1952年 1年間の就学猶予をへて、小樽盲学校小学部入学
1961年 札幌盲学校高等部本科理療科入学
1964年 大阪府立盲学校理療化専攻科入学
1966年 京都府立盲学校理療化専攻科入学
1967年 龍谷大学文学部英米文学科入学
1971年 同大学修士課程入学
1973年 大阪府天王寺孝行定時制英語非常勤講師となる(日本で最初の全盲普通高校講師となる) 1974年 龍谷大学大学院修了、修士号取得
1986年 大阪府総合福祉協会相談部門職員となる
2004年 同協会定年退職、その2年間嘱託職員として同協会に勤務
2012年現在 大阪障害者自立協会理事長/大阪府障害者施策推進協議会?/DPI日本会議日本会議副議長
2014/02/16 逝去

■言及

◆立岩真也 2017/03/01 「施設/脱施設/病院/脱病院 生の現代のために・19 連載・131」,『現代思想』45-(2017-3):-

■追悼文集・関連資料集

◆楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会 編 20141001 『追悼楠敏雄――その人、その仕事、その思想』,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会,95p.

◆楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会 編 20141001 『追悼楠敏雄――その人、その仕事、その思想 一言集』,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会,40p.

◆立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代(準)―試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books

■著書編書

◆楠 敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p.,ISBN-10: 4806801895,ISBN-13:978-4806801894,1600,[amazon] ※/杉並369 d

◆楠 敏雄 編  199511 『わかりやすい!障害者基本法』,解放出版社,111p. ISBN-10: 4759261028 SBN-13: 978-4759261028 [amazon][kinokuniya] ※

◆楠 敏雄 編 19981120 『自立と共生を求めて――障害者からの提言』,解放出版社,246p. ISBN-10: 4759261079 ISBN-13: 978-4759261073 1600 [amazon][kinokuniya] ※ d

◆楠 敏雄・三上 洋・西尾 元秀 編 200711 『知っていますか?視覚障害者とともに一問一答』,解放出版社,125p. ISBN-10: 4759282718 ISBN-13: 978-4759282719 [amazon][kinokuniya] ※ d.

■1944〜2014

 ※以下の2つの文章からの引用を多く用いる。楠[200205][200505]と表記。

◇楠敏雄2002/05/15 「大阪の障害運動をリードした 楠敏雄さん」,大阪大学での講義(全部収録)
 http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020515am.html
◇楠敏雄(NPO法人大阪障害者自立生活協会理事長) 2005/05 「差別に立ち向かい、社会を自ら変える力を」,人権を語るリレーエッセイ・19,財団法人大阪府人権協会
 http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol19.html

■1944-

「□友達や地域から隔離された子ども時代
 ぼくは2歳の時に医療ミスによって失明しました。まだ2歳ですから自分が「障害者」となったことを理解できるはずもありません。初めて自分の障害に気付いたのは、3歳の頃、友達に差別的な言葉を投げつけられた時です。自分はほかの子どもたちとは違うんだと知らされ、ショックと屈辱を感じました。そしてそれをずっとひきずっていたのです。
 一方で、子どもたちとはつきあいのなかで友達になり、地域で一緒に遊ぶ友達もできました。つまり、差別はありながら、地域で生きるすばらしさも同時に感じることができたのです。それなのにぼくが盲学校へ行くことで友達と引き離され、寮生活のため地域からも隔離され、「健常者」の社会とは別の社会で生きることを強いられたのです。
 盲学校から遠足に行くと、一般の学校の子どもたちと一緒になることがあります。すると「めくらが遠足に来ている」と笑われる。そんな時、盲学校の教師たちは「障害者はどんなことがあっても怒ってはダメだ。いつもニコニコしていなさい」とぼくらに言う。「何も悪いことをしていない自分たちが、なぜ我慢しなくちゃいけないのか。先生たちはいったい誰の味方なのか」と怒りを覚えました。社会にはびこる差別意識を思い知らされ続けた子ども時代でした。」(楠[200505])

 「私は見ていただいて分かるように両方の目がまったく見えない、全盲です。2歳の時に結膜炎という病気になりまして、皆プールでちょっと目にばい菌が入って目が赤くなる、ああいう程度の病気ですから、今なら眼科1回行けば簡単に治ってしまう程度の病気なんですけれども、私の場合にはたまたま診てもらったお医者さんが治療のミスをしてしまって、気が付いたときには手遅れということで、もうそれから50数年間ずっと目の見えない世界で暮らしてきました。
 まあ皆さん、目が見える人がほとんどですよね。で、目が見えない世界っていうのはどんな状態なんだろうかとなかなか理解できない、しにくいと思います。たとえば皆、目の見えない人は夢を見るのかどうかと、目の見えない人の夢とはどんな夢なんだろうと、想像つく、皆大体目の見えない人の夢ってのはどんな感じなのかな。
 で、もちろん私も夢は見るんですけども、私の夢には映像がないんですね。だから音しか聞こえない。まあいわば皆でいうとラジオみたいなもんですね。だから私は正確に言うと夢を聞くとか、夢を感じるとかいうのが適当なんだね。見えない夢なんです。ただ私は2歳で失明しましたけど、これがもっと大きくなって記憶がはっきりする、まあたとえば10歳とかね、そのくらいで失明した人の夢は見えるそうです。夢の中ではちゃんと見えたときの映像が残ってて夢の中では出てくるんですね。私のように、もう小さい時に失明して見えた時の記憶がないわけですから、夢も見えないということですね。で、まあ色々なことを私も想像しますけれど、一番私の想像の範囲を越えているのは写真ですね。写真というのはどういう風に写っているのだろう。私の体と同じ大きさの等身大の写真に写ってるというのはなんとなく想像つきますけれども、3センチ4センチの小さな写真に大きな人間がどうやって写るんだろうか。これが想像できないんですね。だからこの立体感感覚というのですかね、それが理解できないので写真というものが分からない。そういうことですね。
― 幼少時代:障害者と健常者の違いへの気づき ―
楠:  で、私は自分が目が見えない存在だということを知らずに育ってきた。親にもそういうことをも宣告されませんでしたからね。で、3歳か4歳になって近所の子ども達を遊ぼうと思って出て行くとみんなから、からかわれるんですね。「変な目してんな」。まあ昔の子どもていうのは非常に露骨ですからね。「白目だ白目だ、目あいてみ」。で、目、私がこう開けると「わ―白目だ、気持ち悪い」とか言ってからかうんですね。まあそれで初めて、自分の目が他の人達と違う目をしてるんだ。で、腹が立っておいかけると皆さーっと逃げてしまいますね。たまにどじな子がいてつかまえることができるんですけれども、まあ大抵は皆逃げられてしまう。そうすると今度は、ああ自分は他の子達と一緒に鬼ごっこをしたり、走り回ったりすることがやっぱり上手くできないんだ、ということに気づくんですね。その辺りからいわば健常者と障害者の違い、そしてそれが差別につながる、からかいにつながることを子供心に知らされてショックを受けたんですね。
 これが私の障害に対するいわば付き合いの出会いの最初だったわけですね。でもやっぱり遊びたいですね。家の周り、近所の子ども達の楽しそうな声が聞こえてくるとやっぱり遊びたくなる。で、出て行くとそこでまたからかわれるということも何度か繰り返しましたけれども、そのうち最初からかっていた子ども達が側へ来て「おまえなんで目が見えなくなったんだ」って話し掛けてきてくれたり、で「鬼ごっこしようか」って、「一緒に手つないで走ってやるわ」って言って関わってくれるようになる。で、友達ができるんですね。そのうち、山へ行こうって行って一緒に山へ行ってとんぼ採りをしたり、木登りしたりですね、まあ今ではなかなか考えられないことですが、当時は視覚障害者に対する配慮なんてのはもちろんなかったんですけれども、仲間の支えの中で色んなことができた、色んな遊びができた。そういう意味では非常に楽しい、くやしいこともたくさんあったけれども楽しいこともたくさんあった子供時代ですね。」(楠[200205])

■1952 1年間の就学猶予をへて、小樽盲学校小学部入学

「― 希望を育てた盲学校時代 ―
楠:  ところが、学校へ行く時期になって皆が1年生になってその時に初めて自分は行けないんですね。なぜか知らないけれども自分は学校に行けないということに気づかされたんですね。で、1年間家の中でぼーっとラジオ聞いてるとか妹と遊んでいるとかいう生活で、妹のままごとの邪魔をしたりですね、で、親に怒られたりしながら、過ごしてましたけども。で、翌年、おまえも学校に行けるぞと言われて行ったのが盲学校ですね。For The Blind、目の見えない人のための学校ですね。そういう所です。で、私の生まれは北海道ですからね、盲学校って言ってもですね、家から遠いんです。3時間近くかかる。で、毎日通学するなんてことはできない。そこで、寮に入る、寄宿舎ですね。親や兄弟から離れて寄宿舎で生活をする。こういう学校生活でしたね。まあこれをずっと小学校6年、中学校3年、それから次は高校、これが3年。それからもうちょっと上にも専攻科ってのがあって、これも2年。14年ずっと盲学校で暮らしてた。
 で、まあ小・中は小樽。まあけっこう有名ですけどね観光で。小樽の盲学校に。」(楠[200205])

■1961 札幌盲学校高等部本科理療科入学

 「それから高校になると今度は北海道にひとつしかありませんので、札幌に皆集まるんですね。札幌の盲学校。ここではあんま、針灸、肩もんだりね、これの勉強です。これは皆で言うと高校の商業科みたいなものですね。だから一応、英語や数学もやるけれども、もうそれは週に2時間とかそんなもんで、この職業コースが中心になる。そこでも一日2時間ずつとかあんま、マッサージの実技とか勉強をさせられて、もううんざりしてたんですね、正直なところ。自分がやりたいんだったら、納得して行くんだったら、それはまあ頑張ろうという気になるけど、自分がやる気もないのに、もう目が見えない人は皆もう針灸しかないんだということを義務付けられるようなものですよね。で、私は英語が好きだったんで、もっと英語がしたいと思っても、英語の時間に先生が来てくれないの。で、遅れて来て、早く終わって帰る。で、先生もっと勉強させて下さいと言うと、どうせあんまに英語や数学はいらないだろという冗談を平気で言ってですね、一切手抜きをするわけですね。そんな学校や教師に非常に不信感を抱いたんですね。」(楠[200205])

■1967 龍谷大学文学部英米文学科入学

「□夢を実現する一方で、障害を受け入れられなかった
 進路の問題でも壁が立ちはだかりました。中学校で英語を学び、やがて英語の教師になりたいという夢をもったのですが、高校進学の段階で「目の見えない者は、あんま・鍼・灸の仕事しかない。それを一生懸命やりなさい」と言われたのです。夢と希望を打ち砕かれ、絶望しました。それでも夢を捨て切れず、生まれ育った北海道を出て関西へ。そして一年の浪人の末に大学進学を果たしました。今では信じられない話ですが、「大学としては一切、協力しない」という条件つきの入学でした。かなり厳しい学生生活でしたが、友達の支えもあって卒業し、定時制高校の英語の教師として13年間、教壇に立ちました。
 こうして数多くの差別に遭い、時に絶望しながらも差別に負けまいと生きていました。社会への憎しみや怒り、親や自分を失明に追い込んだ医者への恨みをずっと引きずりながら…。一方で、大学時代の私は白い杖を持つのが恥ずかしくて、一人で歩く時は自己防衛の手段として杖を持ちますが、友達がいる時には杖を小さく畳んでポケットにしまいこんでいました。自分を苦しめた社会が悪いと思いながら、自分は健常者として扱われたいという意識があったのです。」(楠[200505])

 「なんとかこの盲学校という世界を飛び出したい、そういう思いを強く抱くようになりました。で、まあ私は北海道からこの大阪へ一人で出てきまして、大阪の学校、たまたま親戚があったので、大阪の盲学校で針の勉強もあと2年しながら大学受験を目指したんですね。で、まあ当時一般の大学っていうのは視覚障害者には受験すら認めなかったんですね。もちろんこの大阪大学もそうですし、京大もそうですし、どこも認めない。で、全国で当時視覚障害者の受験を認めていたのは5つですね。京都では同志社と関学、西宮のね。あと東京の明治学院と早稲田大学の2部と、東京教育大学、今の筑波ですね。この5つの大学しか視覚障害者への門戸を開いてなかった。で、まあ私も同志社を受けたんですけれども、これは1年目は通らなくて、1年間浪人をしました。浪人っていっても予備校なんてありませんですからね、学校、盲学校に行って勉強したり色々しながら1年間過ごして、翌年京都の龍谷大学という所、これも最初は願書を返されたんですね。うちの大学では視覚障害者のための条件は何も無いし、自信も無いので無理ですと言って願書を返されたんですけど、無理やりまた持って行って、とにかく受験させてくれと頼み込んで、まあじゃあ一回受験だけは考えようってことで、まあ盲学校から先生が来て受験問題を点訳する。だから皆よりも1時間程、受験時間が遅く始まるんですね。今は時間延長があるんですけど、当時はそんなの全くないんですね。ということで色々不利な条件でしたけど、なんとか受けることができて、合格できました。ということで龍谷大学の英文学部に入ったわけです。[…]」(楠[200505])

「― 自ら道を切り開いた大学時代 ―
楠: […]まあ、そういうことで大学を、まあ全く大学に通う条件を言い渡されまして、視覚障害者に対する協力とか配慮とかそういうことは一切しないと。まあその頃大学が言うには障害者に対しても平等に扱いますよ。これを聞くと非常に「ああ、平等に扱ってくれて嬉しいなあ」と思うんですけど、実は何もしませんと、何もしない、一切しません、それでよければ入学してくださいという事前に、面接の時にそれを言い渡されてですね、まあ印鑑を押すまではしませんでしたけど、とにかく確約書を書かされて、何もしないという条件で入った。
 もちろん当時はサークルも何もないですから、自分で協力してくれる人を探さなくちゃいけない。ボランティアをですね、探さなきゃいけない。で、どうしたかというとですね、あのまあ色々お話すると何時間もかかるんですが。まずですね、学生課に駆け込んでですね、それで同じ学年で私の生まれた北海道から来た学生がいないか調べてもらった。で、二人いたんですね。それを呼び出してもらってですね、で、その学生、2人いたけど1人は来なかったんですね。で、やっと待っているうちに1人が来でくれたんです。で、「実は僕は目が見えない。誰も知り合いもいない。ぜひ協力してほしい」で、「何したらいいんですか」って、で、まず下宿探しをして一緒に住んでくれませんか、というあつかましい要求、要望をしてですね、でもそしたらまあ下宿はもう見つけてるんだけどもそこのおばちゃんがうるさいので、自分も変わりたいと思ってるということをたまたま言っていて、じゃあ一緒に探そうかと、言ってまず下宿探しをしてくれた。で、勉強も手伝ってもらおうと思ったんですけど、これはもう彼はいわゆる麻雀学生でね、あんまり授業に出たくないと言うんですよね。だから時々は行くけども、あんまり君に一緒について勉強するっていうのは自分の苦手な領域なんでそれは困ると言って断られたんですね。で仕方なしに今度は授業中に私はたまたまそこにいた学生をつかまえて、「君、点字ってのには興味ないか、面白いぞ」とだましてですね、まあ一回覚えてみようかと言ってくれて、それを私の下宿に連れ込んで、まあ男性ですけどね、点字を教えて、で、点字のサークルを作ろうやと言ってですね、彼と一緒にチラシを作ってもらってビラをまいて、10人くらい集まったんですね。で、そこで点訳サークルを、ま、当時は盲人問題研究会という名前でスタートさせた。まあそれでやっと自分の仲間を見つけて大学生活をスタートさせたんですね。
 ところがこの点字を覚えた学生がですね、よく間違うんですね、点字を。一番困るのは英語とかドイツ語のつづりを間違って打たれるんでね。そうすると例えばFとDを間違えたりするとね、辞書引いても出てこないんです、単語がね。一晩かかってね、辞書探し…単語探しをしたりですね、それからテキスト、点字っていうのは手で打ちますから大変時間がかかるんですね。で、やっと1ページのテキストを点字に直してですね、授業へ参加するんですけども、あっという間に1ページなんか過ぎてしまって、もう足りなくなるんですよ。それでその日「読んでみい」と言うとね、「いやあ、これまだテキストできてないんですよ」と言って、「そんなことで、もっとちゃんと勉強しなあかんなあ」と怒られたりしましたけれども。ともかくそういう風にテキスト作りにものすごく時間がかかって苦労した。それでも最初はとにかく健常者、まあ当時はメアキ、私はメアキに負けたくないという思いで必死なって勉強してですね、なんとかついていった。」(楠[200505])
■1970 前後

◆塚本正治[2014](↓)

」 「七〇年安保闘争をたたかう
学生たちのデモ隊列の一番後ろに
彼や彼らたちの姿があった
ある者は白杖をつき
ある者は松葉づえをつき
真っ黒のヘルメットを被り
約二〇名の集団はたたかっていた

火炎ビンや投石をする学生たちが
機動隊に追われて逃げ惑う時
彼や彼らたちはその戦場に取り残された
すると機動隊がやってきて
「危ないからこんなところに来たらあかんで」と
彼や彼らたちを抱き起こした

やるせない想いを抱え
学生たちが再度結集する集会に
学生たちが戦場に残して行った
色とりどりのヘルメットを
旗竿にくくりつけ
皮肉交じりに参加した

彼が京阪電車の古川橋に下宿している頃
障害者差別とたたかう仲間たちが
そのアパートで暮らしていた
そして彼が講演会から帰ってくると
その講師料で皆が食べた
とにかく貧しかった
しかし天をも突く差別への怒りが
彼らの絆を強くした」

◆1969,1971 愼 英弘(四天王寺大学大学院 教授) 2014 「楠敏雄さんの思い出」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:18-19]

 「楠敏雄さんは私の学生時代からの論争相手であった。楠さんを偲んで、2点に絞って人となりを友人の立場から述べることにする。
 1つ目は、楠敏雄さんとの出会いについて。私が初めて楠さんの存在を知ったのは、今から45年前の1969年5月である。大阪市立盲学校の高等部専攻科に在籍していた私は、京都の大学に進学したいと思っていた頃だった。視覚障害大学生を中心にした集会が京都で開催されると聞いたので出かけた。集会では「階級闘争」などの言葉が飛び交っていた。大学でマルクス主義経済学理論を研究したいと思っていた私は、このような言葉に興奮した。その集会で中心的にアジ演説をしていたのが楠さんであった。その集会で楠さんと直接話す機会はなかった。
 それから2年後に私は龍谷大学の経済学部に入学した。入学後、点訳サークルで楠さんに出会った。彼は龍谷大学の学生だったのだ。英文科の大学院に在籍していた。文学部の英文科を首席で卒業したとのことで、龍谷大学では有名であった。」(愼[2014:18])

\ ◆1970 福永年久 2014 「青い芝の会と楠さん」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:44-45])

 「楠さんに初めて出会ったのは1970年の秋でした。私はまだ在宅で神戸大学のボランティアに神戸大学である優生保護法の集会でした。集会が終わった後、シュプレヒコールの時、機動隊が現れ前を塞いで来ました。
 その時楠さんは目が見えないと思っていたが、なんと機動隊にめがけ杖を機動隊の頭にめがけ、それがヒットする状況を見てビックリしました。確かに目が見えないはずなのに機動隊には当たる楠さんの姿を見たのが最初です。」(福永年久[2014:44])

◆1971頃? 金[2014]※
※金 聖宇(萱島治療院) 2014 「長〜〜〜い付き合い」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:14-15])

 「私が龍谷大学に入学した時、楠さんは大学院生で、バリバリの新左翼でした。竹下善樹さんや愼英弘さんたちと同期入学した私は現役入学だったので、楠さんとは8才の年齢差がありました。18才と26才の年齢差は大きく、楠さんは兄貴分で、すごく安心感がありました。
 楠さんは点訳サークルを作るのに尽力して下さいました。学生運動(全共闘運動)が盛んな時でしたが、点訳サークルは新左翼あり・共産党系あり・純ボランティアありで、いろいろな人が集まっていました。論争すると意見は異なりますが、分裂しませんでした。▽014
 小鳥を飼っている深草の楠さんのアパートには、ギターを弾いたり、酒を飲んだり、活動家にかかわらずいろんな人が集まりました。楠さんが初めて逮捕された時は、「大将、男になったな」と言ったものです。
 2人の間ではクラシック音楽が共通で、楠さんは当時の学生には贅沢なステレオを持っており、レコードを持っていって聞かせてもらったり、河原町の名曲喫茶に行ってリッチな気分で音楽の話をしたりしました。」(金[2014:14-15])

■部落解放運動

◆楠

 「□部落解放運動と「青い芝の会」に出会って
 「そんなぼくの意識を大きく変える出会いがありました。ひとつは狭山事件です。石川一雄さんのことを知り、自分が感じてきた差別と通じるものを感じました。同時に、被差別部落に生まれ、差別されたからこそ、あらゆる差別に敏感で「差別を絶対に許さない」という情熱をもつ石川さんや部落解放運動の精神に心を揺さぶられました。差別に反発しながら、どこかで障害のある自分を恥じ、社会に遠慮する自分の姿が見えてきました。
 脳性マヒの人たちのグループ、「青い芝の会」との出会いも大きなものでした。自らの障害をさらけ出して、障害者を醜いと思う社会の価値観を変えていく、そして自分たちも堂々と生きていく姿。また、障害児が生まれたことを恥ずかしく、あるいは不憫に思って殺してしまう親たちに対して「俺たちは殺されるのはイヤだ!」と訴えた。人殺しをしても同情する社会とは何だと告発したのです。
 厳しい差別に正面から立ち向かう石川さんや「青い芝の会」のメンバーたちの主張、生き様に出会い、自分の生きてきた道を改めて振り返りました。障害があるのは恥ずかしいことではない。障害を受け入れ、差別に正面から立ち向かっていくような生き方をしなければダメだと気づきました。
□自分たちの手で社会を変える「運動」を
 ぼくの障害者運動には、「反差別」「反隔離」「自己決定」という3つの柱があります。「反差別」とは、障害をもっているために人間として認められないことへの怒りです。施設のなかで管理されて生きるのではなく、リスクがあっても地域で健常者と一緒に生きていくなかで人間的な喜びを感じていくんだという思いが「反隔離」であり、そのためにも親や専門家ではなく、当事者が判断や選択をしていく「自己決定」が大切だということです。
 30年前は「過激だ」と敬遠されたりもしましたが、今では社会のなかで当たり前のこととして受け止められています。それでは障害者が本当に暮らしやすい社会になったかというと、現実には差別や隔離によって苦しんでいる人たちがいるのです。一方で、若い世代を中心に「楽しく生きられればいい」と考える人が増え、運動の力が弱まっているように感じます。差別を笑いのネタにするような風潮にも忸怩(じくじ)たる思いがあります。
 人間関係が途切れがちな今の社会では、人と人とのつながりを意識的につくる必要があります。障害者と健常者が普段のつきあいのなかで障害者問題や差別について語り合うことが、壁や差別をなくすことにつながってゆくと思うのです。
 これからは視覚障害、精神障害といった障害の種別を超え、また在日外国人、女性、部落といった被差別の立場にいる人たちとも連帯し、お互いを学びあうことが大切だと考えています。それも団結するだけでなく、今の社会のあり方や人間の生き方を問い直し、政治や法律の現場で発言していく。誰かに「何とかしてもらおう」ではなく、自分たちに力をつけて社会を変えていく。そんな運動をこれからも目指したいと考えています。」(楠[200505])

関西障害者解放委員会 1971-

◆1971/10/03 関西「障害者」解放委員会結成

◆「障害者」解放のための我々の基本的立場
 〈関西障害者解放委員会〉→関西障害者解放委員会

◆1972/09 分裂

楠 敏雄 20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]*
*全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

 「関西障害者解放委員会の結成と分裂
 その頃、被差別部落出身の石川さんに対する差別・冤罪事件としての狭山事件の取り組みが高揚し始めました。その闘いに出会ったのがきっかけで、私も障害者に対する差別というのを問題にしようという自覚がやっとできたのです。そして、一九七一年十月、関西障害者解放委員会 (関西障解委) といういかめしい名前の組織を発足させたのです。
 関西障解委を結成した過程では、ある政治党派の人たちの支援・協力が大きかったと思います。彼らに 「楠さんは障害者なんだから、障害者の解放という問題を自らの問題としてやるべきなんじゃないのか」と問いかけられ、一緒に勉強会をしたり狭山の闘いに学んだりしながら、組織をつくるに至ったのです。
 その後、路線や運動の進め方の意見の違いでこの組織は一九七二年九月に分裂しました。その後、両方とも関西障解委を名乗っていたので、同じ名前の組識が二つあるという状態でした。
 私たちのほうの構成メンバーは、当初は施設の職員や学生、施設の障害者あるいは地域で孤立している障害者たちが中心で、介護を必要とする重度障害者が結集するという状況ではありませんでした。分裂以降は、解雇された障害者や国鉄の環状線から落ちて電車に両足はねられた視覚障害者を支援するなど、個別の課題を取り上げて運動をするなかで、重度の障害者も参加してくるようになってきました。」

◆関西障害者解放委員会議長・楠敏雄 1972/11/15 「彼の紹介」,安藤[1972:3]*
*安藤 清 19721216 『仲間よともに歩こう』 28p. ※r:[椎木章氏蔵書]

◆楠敏雄(障大連議長) 20130719 「改めて障害者運動について考える」,障大連大阪市ブロック会議講演→楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:82-91]

 〔入管法闘争等についての言及に続き〕「そういう抑圧してきた日本人に対して、華僑の青年たちが日本人は自分たちの過去に対する反省はないのか?政府のやり方を許していいのかと突き付けた。この告発に既成政党も含めて左翼運動が問われた。これ▽086 に対して、共産党を含めて、日本人を問うのはおかしい、我々は資本家と労働者という枠組みの中で労働者は抑圧されているから一緒だ、日本と中国人というふうな分け方で考えるのは問題を混乱させる、と反論していましたが、差別・被差別の問題に対してどういう態度を取るのかが問われました。私が関わった人たちはそういう差別・被差別の問題を考えていこうという意識は持っていたようなので、私もその人たちにいろんな影響を受けて、狭山問題、被差別部落と一般民という関係、日本人と在日の朝鮮人・中国人、こういう人たちとの関係を考えるようになった。では、障害者の問題はどうなのか、障害者は差別を受けてないのか?と考えるようになった。自分が盲学校で経験してきたこと、大学に行こうとしてなかなかいけなかったこと、いろいろ自分の受けてきた悔しさ、悲しさを考えるようになりました。
 【初めての障害者によるデモ 】 〜障害者による闘いの広がり〜
 そこで自分の運動を作っていく必要があると言われて、障害を持つ仲間30人ぐらい、支援者を含めて100人ぐらいが初めて京都の四条通でデモをした。障害者でデモは初めて、と新聞に出た。1971年、関西障害者解放委員会というものすごく勇ましい名前を付けて、森永に対する抗議行動を行った。四条河原町に森永の会社がありましたが、当時森永は、ヒ素ミルク事件、森永のミルクを飲んだために障害を持つ子供たちが沢山出たという事件があった。森永許せないと言うことで、森永の会社の前で座り込みをして抗議する行動をした。初めて、外に出て抗議行動をしました。
 そういう運動に関わって、だんだん運動に充実感を持つようになった。自分はもっともっとこの運動をしていかなければならないと思い、狭山とか成田空港の問題とか障害者の立場からそういう運動に関わるようになった。東京では府中療育センターというコロニーみたいな大きな施設があったが、障害者をそこの職員が人間として扱ってくれない。ご飯にみそ汁をかけて、そこへ薬をまぜて食べさせさせたり、風呂で障害者の頭を洗うのが面倒だと言って女性障害者が一方的に髪を切られたなど。そういうことに抗議して入所者たちが介護を拒否するという行動に出た、ということを聞いた。それは一部の職員たちをとおして情報を得るんですが、そのことに共感して、その府中闘争に連帯しようと、東京のいろんな障害者の闘いが起きてきた。29歳になって学校に行きたい、小学校に行きたいなど、いろんな闘いがあちこちでおきてきました。」

◆楠 敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p 1600
 「1970年7月7日の華僑青年闘争委員会による告発は、日本の左翼運動と階級闘争史上画期的な意義をもつものであり、あらゆる運動体に質的転換をせまるものでした。抑圧国人民の差別性を鋭く糾弾した告発は、それまで表面的な戦闘性のみに依拠し、差別の問題になど何の関心もしめさなかった左翼運動に、文字通り根底的な変革を要求したのでした。また、この告発と相前後して、無実の部落青年石川一雄さんを取りもどす闘いが、差別糾弾闘争、階級闘争として闘われ始めました。『障害者』解放運動、とりわけ関西『障害者』解放委員会は、こうした情況のもとで結成されたのです。」
 「こうした中にあって先の華青闘の告発を受けて、早くから入管闘争として取り組みを開始し、狭山闘争にも積極的に取り組んでいた革共同中核派が、当時竜谷大学にいた私と仲間数名の『障害者』に関わりつつ、彼らの医療戦線の医師や看護学生をも加えて、71年春に『障害者』解放運動の組織作りに着手し、その年の10月3日、私たちとともに関西『障害者』解放委員会の結成をかちとったのです」
 「組織の性格としては、中核派の指導を受けてはいましたが、あくまで大衆組織であり、他党派やノンセクトの人たちの参加をも積極的に呼びかけるという独自性が確認され、慎重な組織運営が行われました」
 「ところが、71年12月に起きた革マル派による中核派の2名のメンバーへの非道な虐殺と、72年5月の沖縄闘争における『敗北』は、中核派の危機感とあせりを強めることとなり、大衆運動に対する方針を急激に転換することとなりました。すなわち、72年に入ると彼らは、S支援闘争と荒木裁判闘争については一応中心軸としながらも、沖縄・入管・狭山・三里塚などの政治闘争を闘うことを優先させ、『障害者』への日常的働きかけよりも、これらの政治課題を重要視するようになってきたのです。また、『障害者解放戦線も革マルセン滅をかかげるべきだ』とか『白ヘルメットをかぶって中核派の集会に結集すべきだ』といった主張にみられるように、教条的セクト的対応をも強めてきました。さらに、情報の手段や、学習の機会を奪われている『障害者』に対して、基本的な学習を保障せず(他の党派の内容との違い、およびさまざまな組織の内容も含めて)ひたすら彼らの機関紙『前進』の読み合わせをさせるのみだったのです」(26ページから28ページ)
 「『障害者』の圧倒的多数は、新左翼運動はおろか、政治からも、教育からもあらゆる情報からさえ遮断されて、家の片隅や施設に隔離されていることはすでに何度も確認されてきたはずです。にもかかわらず、このことの持つ重さについて、中核派をはじめとするほとんどの新左翼党派も、そして私たちすらも正しく把握しきれてはいませんでした。そして、それがゆえに『「障害者」のペース』という言葉の意味を理解しきれず、『障害者』解放運動の独自の発展を無視したり、妨げたりしてきたのです。」
 「私たちは、いついかなる闘いにおいても、まず何よりも『障害者』大衆と共に闘い、互いの発展をかちとり得るような闘いをするべきだと考えています。したがってそこでは、当然『障害者』固有の闘い方や、ペースが要求されるでしょうし、言葉一つにしても常に点検されねばならないのは当然といえるでしょう。」
 「彼らがこうした『障害者』との日常的な関係作りを軽視して、政治課題を最優先させるといった方針は断じて認めるわけにはいかなかったし、現在もなお認めるわけにはいかないのです。彼らは私たちに対し『政治闘争と大衆闘争を対立させる』と批判していますが、むしろその批判は彼らにこそピッタリと当てはまるといえるでしょう」
 「レーニンは、その著『共産主義における左翼小児病』や『何をなすべきか』において党が大衆運動を抱え込んだり、教条主義を持ち込んだりすることを厳しくいましめています。自らレーニン主義者たることを自称する中核派は、自分たちに都合のよいところしか目に入らないようです。72年5月以後の中核派の私たちに対する対応は、まさにセクト主義そのものに他なりません。先にも述べたように、関西『障害者』解放委員会の大衆組織としての確認を無視してひたすら中核派に従属することを迫り、それが通らぬと知るや自分たちの地位を利用して何人かを抱え込んで、さっさとわが組織から逃亡して、私たちと同じ名前を名乗る。これがかりにも『前衛党』と自称する者のなすべき対応でしょうか。さらに、自ら情報を得ることを奪われてきた『障害者』に対し基礎的学習すら保障せずに自分たちの路線のみを一方的に教え込んだり、『施設で園生をいじめる職員は革マルのようなものだ、だから革マルセン滅だ」などと提起するに至っては利用主義そのものであり、差別的対応といわざるをえません」(52ページから53ページ)
 ※以上、http://blog.goo.ne.jp/aoitoko/e/4848eb53980585fe8ee720ac51d75311に引用

◆河野 秀忠(障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」編集長) 2004 「砕氷船のごとく、歴史の中に水路を拓いた楠敏雄さん」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:52-54]

 「ボクが楠さんに出合ったのは、楠さんがまだ大学で「関西障害者解放委員会」という組織の活動をしていた頃だった。その頃は、障害者が、政治課題を掲げて街頭に進出し、デモを繰り広げるなんてことは、皆目なかった風景だった。後日、楠さんに聞くところによれば、大学の中の学生組織、全学共闘会議などが呼びかけるデモ活動に参加しようと、前段の集会に臨むと、学生のリーダーから、「集会参加はいいとしても、デモ参加は止めてくれ。危険だから」と拒否されたのだとのこと。学生仲間からも差別されて腹が立ったなぁ。それで、数少ない障害者学生に声をかけて委員会を立ち上げて、デモに団体として参加するようになったんだと。それは、健常者ばかりのデモ隊の中に衝撃的場面として登場した。
 その場面を目撃した、京都在住の障害者仲間が、「京都に、スゴイ視覚障害者がいるぞ。それも白いヘルメットを被ってな」と、ボクに知らせてくれた。
 ボクは、その頃、16歳で参加した、政党、青年同盟、反戦青年委員会活動を経て、70年安保闘争の退潮の中を流れるように流され、その思想の間にぐちゃぐちゃに住み、被差別部落問題や反公害問題などを漂流した後に、障害者の友人を得て、その旅程の先にあった、関西における「日本脳性マヒ者協会・青い芝の会」関西連合会の萌芽時期をうろうろしていた。だから、白いヘルメットと聞くと、ある党派の名前が浮かび、用心の気味を持っていた。これもまた後日に楠さんから聞いたことだが、「ヘルメットの色がどんな色でも、僕には見えないからどうでもいいんだ。それよりも困ったことは、デモに参加するにしても、機動隊は、僕の持っている白杖を危険な武器として、取り上げられることなんだなぁ」と、苦笑していた。
 ボクと障害者運動の出合いは、主に脳性マヒ者仲間だったし、古い考え方の階級論の残りカスがまだ色濃く脳の中にあったから、楠さんが語る楠論は、ボクのからだの中を軽やかに吹き抜けていった。ボクは、眼が見えないことの中に、見えない文化があることを、楠さんに教えてもらい、それこそ「眼からウロコが落ちて」眼の見えることの不合理さにオタオタしたのを覚えている。
 いろいろな若者が、反戦活動の中で発言すると、マルクスがどうの、レーニンがこうのと、名だたる思想家の言葉を引用するのが常だったが、楠さんの言葉の中には、そういう傾向は全くなかった。あったのは、自分という存在や、自分の持つ視覚障害を根拠にした物言いだった。そして、徹底的に反能力主義者でもあった。
 70年代前半にあった「優生保護法改悪阻止」闘争は、楠さんは、京都を舞台に、ボクたちは、大阪を中心に闘う陣形を組んだが、あえなく敗北。その経験もあって、その次に来るであろう、「79養護学校義務化阻止闘争」に備えるべく、話し合いの場が持たれた。[…]」(河野[2014:52])

◆杉本 章(友人) 2014 「楠敏雄さんのこと―己の欲する所に従って…」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:57-60]

 「楠さんを初めて知ったのは70年代のはじめ、ところは大阪扇町公園での新左翼系の政治集会の場だった。彼は壇上から「日米帝国主義打倒、障害者解放!」と激越な調子でぶっていた(その頃のこの種の集会ではごく当たり前だったヘルメットを被っていたかどうかは覚えていない)。当時、私はNHK大阪局にいて、労働組合と職場反戦運動の二股をかけてシコシコ活動していたが、まだ障害者運動とは出会っていず、もちろん「関西障解委」(関西障害者解放委員会)の何たるかも、楠敏雄という名前も知らなかった。「目が見えないのにようやるなあ」と半ば感心しながら彼のアジテーションを聴いた記憶がある。  楠さんの最初の著書『障害者解放とは何か』(柘植書房 1982年7月刊)に、関西障解委の結成と分裂、全障連結成に至る経緯が語られているが、その記述からすると、私が彼の演説を聴いたのは、「関西障解委」の結成直後でそこでの新左翼系某政治党派の政治的引き回しに対して障害者の主体性の確立と大衆運動としての「障解委」のあり方を巡る激しい抗争が行われていた最中だったようだ。全障連の結成はそれから5、6年後のことである。そのまた1年後の77年、私は障害者関係番組の担当となり、はじめて「青い芝の会」の人たちとも出会った。」(杉本[2014:57])

◆楠 敏雄 「村田実氏の思い出」
 http://www.asahi-net.or.jp/~LS9R-SITU/murata/kusunoki.html

 村田実氏が障害者解放運動に参加してきたのは、私が一九七一年に「関西障害者解放委員会」の結成に着手してまもなくのことだった。当時の村田氏は実際の年齢よりもはるかに若く感じられ、闘いに参加するために、たえず生き生きとしていた彼に深く感動させられたものだった。
 彼は私よりたしか五、六才は先輩だったと思うが、その彼が「学校へ行きたい。」と言い出した時には、当然の要求とはいえ、やはり驚かされてしまった。就学年齢を越えた障害者の就学闘争としては、すでに埼玉の八木下浩一氏が実績をつくって小学校へ通っていたし、その後にも、都立府中療育センターの岩楯恵美子さんも就学闘争を続けていたから、村田氏で三人目ということになる。
 だが、私が村田氏と共に闘ったという、強い思い、強い印象を与えられたのは、なんといっても養護学校義務化阻止闘争だった。数度にわたる文部省交渉や糾弾の行動に際し、彼は常に最先頭に立って発言しシュプレヒコールを行い、差別に対する怒りを文部省にたたきつけていた。義務化実施を間近にした七九年二月に、雪の降りしきる文部省前で、寒さにふるえながら彼の車イスの側で一緒に「文部省、出てこい!」と叫んだことは、ついこの間のように思い出されてならない。
 全障連の全国幹事にも自ら立候補し、たいていの会議には参加して発言していた彼が、八〇年代の中頃から、だんだん姿を見せなくなりだし関東ブロックの仲間にたずねたら、「東久留米の方で地域運動を続けているらしい。」とのことだったので私も安心していた。それが三年前? 突然、彼の死を知らされて、本当に愕然とさせられた。ちょうどその頃、私の腎臓もかなり悪化し始めていた頃だっただけに、本当に人ごととは思えなかった。
 いまは、私もやがて五〇に手が届くところまできてしまい、おまけに人工透析まで受ける身になってしまったので、あまり威勢のよいことは言えないが、それでも、村田実氏が持ち続けていた障害者解放運動への熱い思いを、私なりに受け継いで命の続くかぎり闘っていきたいと決意を新たにしているしだいである。

■1971 大学院修士課程/1973 高校英語非常勤講師

 「― 大学院修士、そして教師へ ―
楠:  まあ、ゆうことで学生生活を送ったわけです。このへんの話はまだたくさんあるんですけども、一応時間が限られてますので、まあそれで大学を卒業して、英語の先生になるっていうのが夢だったんで、大阪府の教育委員会に行ったんですね。で、教員の採用試験を受けさせてくれと言ったら、「無理です。点字受験ってのはやってません」。たとえやっても受け入れてくれる学校はないから受けさすわけにはいきませんということで断られてしまった。で、仕方なく大学院にチャレンジして大学院の修士で2年間勉強したんですけども、その途中で天王寺高校の講師をしてみないかと。これは当時は視覚障害で一般の高校で教師をするっていうのは例がなかったんですね。全国ではじめてということでだいぶ文部省にも足を運んだり、教育委員会にも打ち合わせしたりですね、とにかく初めてのケースでやってみようということで、教壇に立ったのは1973年でしたね。
 天王寺高校の夜間の講師としてとりあえず教壇に立って、13年間なんだかんだ言いながら講師を続けて、その後現在は大阪府総合福祉協会という所、まあ福祉法人ですけども、ここの職員になることができて、やっとまともなボーナスをもらえた。最初、50万くらいの札束もらった時はびっくりしました。それまでずっと講師でボーナスはもち代1万円とかね、そういう世界だったわけですからね、感激しましたけれども。まあそういうことで現在は福祉関係の仕事で障害を持った人達の色々、生活や仕事や、そういう相談、人権の相談、それからヘルパーさんとか介護福祉士とかそういう人達の練習のための講師。まあ、あとは雑誌に原稿書いたり、そういう仕事を色んな仕事をしている、というのが私の簡単な経歴ということになります。」(楠[200205])

 「進路の問題でも壁が立ちはだかりました。中学校で英語を学び、やがて英語の教師になりたいという夢をもったのですが、高校進学の段階で「目の見えない者は、あんま・鍼・灸の仕事しかない。それを一生懸命やりなさい」と言われたのです。夢と希望を打ち砕かれ、絶望しました。それでも夢を捨て切れず、生まれ育った北海道を出て関西へ。そして一年の浪人の末に大学進学を果たしました。今では信じられない話ですが、「大学としては一切、協力しない」という条件つきの入学でした。かなり厳しい学生生活でしたが、友達の支えもあって卒業し、定時制高校の英語の教師として13年間、教壇に立ちました。
 こうして数多くの差別に遭い、時に絶望しながらも差別に負けまいと生きていました。社会への憎しみや怒り、親や自分を失明に追い込んだ医者への恨みをずっと引きずりながら…。一方で、大学時代の私は白い杖を持つのが恥ずかしくて、一人で歩く時は自己防衛の手段として杖を持ちますが、友達がいる時には杖を小さく畳んでポケットにしまいこんでいました。自分を苦しめた社会が悪いと思いながら、自分は健常者として扱われたいという意識があったのです。」(楠[200505])

◆楠敏雄 2012 「お祝いの言葉(1)」
 http://jvt.lolipop.jp/iwai1.htm

 皆さん、こんにちは。楠といいます。私も、障害者の運動を始めて40年になります。1970年ぐらいに、障害者が人間として扱われたいと、扱われて当然だということを叫んで、かなりラジカルな運動をして有名になりました。いまはだいぶ歳を取って、穏健、軟弱になってきています。ともかく、何とか息をしている状況です。
 この40年間、障害者を取り巻く状況も、ずいぶんと変化してきたと思います。この視覚障害教師の会は数人で始めました。最初のころは、三宅先生と、真ん中あたりにいらっしゃる後藤先生の三人で、喫茶店で愚痴を言い合い、ぼやきながら出発しました。その組織が、いまは百名を超える仲間を結集するようになっており、これ自体がすばらしい成果だと思います。
 私が障害者としての叫びを始めたころは、本当に障害者はまだ一ひとりの人権をもつ人間として認められず、それが当然だという時代でした。私が大学に入学しようとしたとき、当時龍谷大学の教授から、入学を認めてやるかわりに、いっさい協力を求めるなという条件を付けられました。渋々それをのんで、入学せざるを得なかった時代です。
 現在でも駅のプラットホームから落ちて、亡くなったり怪我をする視覚障害者が後を絶ちません。けれども、私たちの時代は、プラットホームから落ちて国鉄に抗議に行きますと、本人の不注意だと言われました。国鉄はそんな障害者に責任を負う必要はなく、点字ブロックなどを付けるのは無駄な経費だとけんもほろろにはねつけられた時代だったのです。
 最近、大阪では、駅の普通のアナウンスで、黄色い点字ブロックの後ろまでお下がりくださいというように、正式に点字ブロックが認知されることになりました。これは文字どおり成果だと思いました。私たちが国鉄に申し入れたときは、点字ブロックなど認めないと、公然と言われた時代であったわけです。
 私はこの間、障害者自立支援法という法律に反対する運動をずっと続けてきました。障害者自立支援法は、障害を個人の責任にしています。だから、個人で自立をする努力をしなさい。そうすれば認めてあげるが一割は自己責任で負担しなさいという法律だったわけです。
 私たちは、この法律はおかしい。障害を個人の責任にして、あたかも利益を得ているような発想で様々な責任を課すのは、到底容認できないと、運動を続けました。その結果、ようやく自立支援法廃止という決定を勝ち取ったわけです。
 障害者の制度改革推進会議が発足し、新しい法制度をつくろう、障害者権利条約に見合ったその理念にそった法律をつくろうと、障害当事者を中心に非常な努力を重ね論議を続けた結果、障害者総合福祉法ができようとするところまでこぎつけました。
 しかし、いろいろな力関係や巻き返しの結果、内容的にも非常に不十分な障害者総合支援法という法律でおさめられようとしています。
 もちろん、3年後の見直しということで、内容的にはこれからまだまだ改善の余地がありますし、私たちの運動は決してこれで終わりではないわけです。
 現状では、自立支援法廃止という当時の長妻厚労大臣の宣言や、あるいは自立支援法が違憲のため違憲訴訟が一応和解して新しい制度にすることがひっくり返される状況にきているのを、私たちはしっかり受け止めなければならないと思います。
 教員も含め、今後の障害者の就労を拡大していくうえで、これは当然のことですが、障害者権利条約をしっかり日本政府に批准させることが私は一つの基本原則だと思います。その上で、三つのキーワードを確認しておきたいと思います。これは、日本語にそれなりに訳されているのですが、あまり適訳がないのです。
 たとえば、一番目のリーズナブル・アコモデーション(Reasonable Accommodation)です。これは合理的配慮と訳されています。どうも私は、この合理的配慮という言葉はしっくりこないのです。日本語で配慮という言葉には、いわば、配慮をする側とされる側という関係が存在しています。リーズナブルは合理的と訳していますが、誰にとって合理的なのか、これも非常にあいまいです。
 リーズナブル・アコモデーションをもう少し正確に議論する必要があるのではないかと思います。とにかく、障害者が働きやすい環境を整えさせないといけないわけです。もちろん、教育もそうですし、生活も、医療も、交通アクセスもそうです。あらゆる意味で、リーズナブル・アコモデーションを確立していかなければならないのです。
 二つ目はアファーマティブ・アクション(Affirmative Action)で、優先的措置などと訳されます。これは差別是正、被差別の状態を是正する行動、政策のことです。
 これが、日本ではなかなか受け入れられないのです。障害者だけ優先させるのはわがままだと、障害者自身のなかにもそういう発想をする人たちがまだまだ多いのは残念です。アファーマティブ・アクションは、やはり、一つの権利であり、不等な差別を受けてきた人たちが、優先的な是正措置を講じられるのは当然のことなのです。
 三つ目が、インクルーシブ・ソサイエティ(Inclusive society)です。排除させない、一人の人も排除しない社会をつくるということで、今後とも障害者の就労や働く権利を確立するための、非常に重要なキーワードになると思います。
 個人の努力や専門家の様々な治療の行為により、障害を軽減、克服するのが大事だと言われてきたこれまでの医学モデルに対し、今回の障害者基本法の改正で、障害は環境を改善することで、障害者が安心して生きられる社会ができるという社会モデルに、ようやく変わろうとしています。
 医学モデルから社会モデルへの変換を、今後とも基本的な原点にして、障害者の就労の確立を、私たちは目指していかなければならないと思います。
 もうじき、私の寿命も尽きるかもしれませんが、とにかく威勢だけはいいつもりですので、最後まで皆さんと一緒に頑張りたいと思います。どうもありがとうございました。

■1976, 1978- 被差別統一戦線・被差別共闘

→◇立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代・記録00――準備:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books

『被差別共闘』6 1976

 「〈楠〉
 簡単な提起をしたいと思います。
 僕達は全国の障害者解放連絡会議というのを、今年の8月8〜10日おこなっていく、特に、9、10日曜日に結成をおこなっていくというふうになったわけです。今まで障害者運動というのは、同情・融和、そういう運動の中で、障害者自身が差別ということを問題にするよりも、誰かにお願いする、あるいは自分の障害ということに関してあいまいにしたままで運動して行くという傾向があったし、で、いわゆる全障研−全国の障害者問題研究会というのが障害者運動の主流を占めて来たわけですけれども、これは障害者自身が中心となるのではなく、大学の教授とか親とか教師なんかが中心になって、障害児をどう管理するか、どうなおすかーせいぜいどうなおすかということだけの側面で、あとはただ要求を羅列していくという運動をやって来たわけです。それに対して我々は部落解放闘争50年の水平社の闘いに学びながら、本当に差別と真正面から向かい合うということ、どのような差別ももう許さないということ、第二点目に、障害者はあくまでも地域社会の中で生活権・労働権・統一権その他あらゆる権利を障害者自身の力で取り戻してゆくんだと、地域社会の中で生き続けるんだというのが二点目、三点目に我々は障害をなおすのを目的とするのではなくて、基本的にはどんな重い障害者でも差別を受けない、障害があって何故悪いんだというふう▽018 に言い切っていける社会体制・人間の意識というものを目指して闘う、これが全国の我々が目指している障害者解放運動の基本的立場だと思うのです。
 そういう中で、まだまだ障害者解放運動の理論というのは未熟で、今後さまざまな問題を含みながらこの結成大会以降、具体的な闘いを積み上げてゆくーたとえば養護学校ということで障害者をそこに隔離していこうとする54年度の義務化攻撃、それから先に精神障害者患者会の方からのアピールがございましたけれど、保安処分の典型として赤堀政夫さんという人が仙台の拘置所で、今、無実のまま死刑にされようとしている。これを障害者全体の課題として絶対に闘って取り戻してゆくこと、こういうふたつの課題を全国の課題として、その他具体的な行政に対して障害者が自立するための闘争要求を進めてゆきたい。そのなかで、運動における相互の共闘と解放理論の深化に向けた大いに積極的な論争・批判をし合いながら今後の障害者解放運動に大きな役割を果たしてゆきたい。
 それはとりもなおさず、この場で行われている被差別共闘会議、被差別大衆の解放、さらには全人民の解放ということに非に重要なかかわりをもつであろうこの障害者解放運動の発展、今後の大きな拡がりをつくるためにも、きわめて重要な大会であると私達は考えています。
 ですから、ここに居られる皆さん方が是非とも8月9・10日の大会に積極的に結集して頂いて、どんどんそれぞれの分科会に出席し、遠慮なく発言をし、今後私達と共に闘っていってほしいと考えます。
 次に二、三質問します。
 まず部落解放同盟の方におききしたい点が2点あります。
 1点目は、以前土方鉄さんが何かの雑誌の中で、部落差別と障害者差別を比較して「部落差別というのは、親→子→孫と永遠に続いていく差別だ」と、」しかしながら障害者差別というのは一代限りの差別だ」というような比較をされていたわけです。
 もちろん土方氏も別に障害者差別を軽視しているわけではないというふうにことわられてはいますけれど、僕はそういう比較の仕方に対して問題があるのではないか――確かに障害者差別というのはそういう意味では部落差別と違っている部分はあるわけですけれど、同時に自分の家族からさえ差別を受ける、親からさえ差別を受けるという意味で、また別の痛さ、別のむつかしさを含んでいると思うのです。
 そういう障害者差別の特殊性・独自性というものに関して、各々の被差別共闘会議の結集する人達が、そういったそれぞれの独自性といったものをきちっとふまえてゆくという意味での連帯を、やはりはっきりと押さえないと、−非常に安易なかたちで問題をあいまいにしたまま、ただ差別をうけているのだから一緒なんだということではーむしろあとで問題を含むのではないかと、そういうふうに思うのですが、解放同盟の方はどうお考えなのかということと・・・
 2点目には、障害者差別の基本とは、能力主義−能力によって人間の価値をきめてゆく、そういうのが非常に大きな役割を果たしているわけです。ところが部落解放運動のなかで、とりわけ▽019 学力保障の闘いというのは解放教育の推進の中で進められている。
 これ自身は、たとえば字を奪われていたお父ちゃんやお母ちゃん、あるいは子供達が、それを取り戻してゆくということで重要な意義があるということはわかるのですが、それが基本的視点を抜きにされると非常に危険な傾向を含んでくる。
 たとえば、ある解放教育の先生方の発言の中で「教育のないことが部落差別を受ける原因なんだ、だから教育をつけることが先決なんだ」というふうなことが言われたり、あるいは「部落差別のことがやりきれてないのだから他の差別のことなんか、学校じゃとてもじゃないがやり切れないのだ」というふうなことを、この解放教育の先生方があちこちで言われる。
 こういう傾向に対して、やはりこの学力保障ということが能力主義−能力さえつけばいいんだ、あるいは、現実的に能力が必要なんだーということだけでいくと、それじゃあ能力のつかないその点での差別・能力主義・学力保障というような関連に対してあいまいな点、少なくとも僕らには疑問な点が含まれているのです。その辺に関してお答え頂けたらと思います。
 次に金城さんにおうかがいしたいのですが、色々沖縄の解放を進められる中で、もうひとつはっきり捉えきれないのが、沖縄差別という問題を民族問題・民族差別という観点だけで捉えて果たしてよいのかということがつかみきれない。
 入管闘争以降の在日朝鮮人からの色々の闘いというものと、沖縄の人達がから突き出されている問題というのは、一体、現実の差別の重さ、差別からの告発ということはいろいろあると思いますけれどー将来的にどんな方向でこたえてゆかねばならないのかということがもうひとつ捉えきれないわけなんです。その辺おきかせ願えたらと思います。

〈安永〉
 部落差別と障害者差別とを比較すると、そしてだから部落差別はとてもきびしいんだとーそういう比較は歴史性も違うし社会性も違う、あるいは現状の違うものを持って来て差別の切迫の仕方を比較しようということは歴史性や社会性を無視した考え方だと思うんです。これは比較するようなものではないというふうに考えるわけです。・・・それで答えになっているかどうかわかりませんが・・・。
 次に第2点の解放教育の問題ですが、私達の持っている潜在的な能力、潜在的な我々の力を、より発揮させてゆくということ、よりそれを伸ばしてゆくということは必要だと思うわけです。それが学力という面においては、部落の歴史的状況から、とりわけ社会的状況から教育の機会が少なかったということもあるわけですから、それに対して学力をのばすということは、それはそれで必要だと思うし、それはそれでひとつの分野であるわけです。色々の人間がもっている色んな分野での能力というものをー学力の面でもあるし他の分野でもあるしーそれをのばしてゆくということは当然必要だと思う。しかしそれが現在の社会のなかで、能力をもっているものが生▽020 産物をたくさん取るというふうな社会制度が、それ自身を歪めているし、その結果、楠さんのしてきされている歪みがあるのではないかというふうにおもいます。

〈金城〉
 民族差別のとして沖縄をとらえるかということについて、私なりに大きく主張するわけですが、沖縄というものはもともと日本の国のものじゃあない。勝手に日本のものにしてみたり、日本のものでなくしてみたりとか、僕自身は沖縄は日本のものではないということを断固として守るし、徹底して沖縄にこだわってゆくということは、本土の中でも通してゆくと、たとえば僕らの問題にしても、「じゃあ、お前、沖縄行け」というようなことが時々文化人の仲間から議論を通して推し進めてゆくと、手前の彫刻はものすごく泥くさくて、農民的で漁民的だけれど、なんでお前は本土にきて本土で働いているんだと、沖縄に帰ったら立派な運動をもあるじゃあないかというわけですけれど、そうはどっこいいかんです。(時間切れ'討議終了)
(※時間切れのため、討議は次回にするように司会者より提起があり、終る)」

◆山中 多美男(大阪「生活の場・事業所」連絡会 会長) 「反差別共同闘争の思いを重ねて」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会 編 20141001 『追悼楠敏雄――その人、その仕事、その思想』,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会,95p. pp.48-49

 「楠敏雄さんと私は、障害者解放運動と部落解放運動の連帯を通じて出会いました。
 私は、1976年当時、部落解放同盟大阪府連合会・執行委員で、政治共闘局長として、「被差別統一戦線」を発展させ、最賃闘争を基軸に「部落の解放なくして、労働者の解放なし。労働者の解放なくして、部落の解放なし。」と「反差別共同闘争」を取り組んでいました。部落解放運動においては、1974年の福井聾学校軟式野球出場停止阻止の闘い。さらに79養護学校義務制反対など、障害者運動に連帯する中で、「障害者の解放なくして、部落の解放なし。」「部落の解放なくして、障害者の解放なし。」「障害者の解放なくして、労働者の解放なし。」と位置付け取り組みました。
 1976年8月(8日〜10日・大阪市立大学)に、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成大会が開催され、正式発足しました。楠さんは事務局長だったと思います。
 楠さんとは、障害者解放運動との共闘の中で、楠さんの生い立ちや障害者運動とのかかわり、そして障害者差別の厳しい実態や当事者主体の大切さについて折に触れて聴き、学びました。私自身が受けてきた部落差別の現実や経験も楠さんにお話しする機会もありました。このような中で、女性差別撤廃運動、民族差別撤廃の闘い、いのちとくらしを守る会運動をはじめ、「反差別」の旗の下で、多くの団体や組織がつどい、差別撤廃の共同闘争が広がりました。楠さんとは、「部落解放研究全国集会」や「福祉研究集会」をはじめ、行政交渉や共闘の会合でも頻繁にお会いしました。
 そして[…]」(山中[2014:48])

■1976 全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成

◆楠敏雄(障大連議長) 20130719 「改めて障害者運動について考える」,障大連大阪市ブロック会議講演→楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:82-91]

 「【全障連の結成】 〜新たな闘いの地平〜
 1976年、大阪市立大学で全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の結成大会をやりました。クーラーも何もなくて汗水たらし、ホテルを借りる金もないので体育館に布団を敷き詰めて雑魚寝、夜も蚊にさされて大変だったが、当時はそれがあたりまえだった。1000人近い人が集まって障害者解放運動の名乗りをあげた。その頃、進歩派の障害者運動は全障研(全国障害者問題研究会)という団体が圧倒的に主流でした。全障連の大会をしたときに全障研は第10回大会をしていた。10年上でした。全障研は、施設の職員とか養護学校の先生、障害児を持つ親、こういう人たちによって8から9割構成されていました。全障研の人たちとは、よく論争をしました。そういうことを通して障害者の存在、障害者の叫びを訴えていきました。我々は地域で生きていくんだ、隔離されるのは嫌だ。全障研に対して、全障連が養護学校義務化を頂点にしてあちこちで論議をした時代、対決をした時代だった。

【全障連の基本原則】 〜全障連の基本原則は3つ〜
 その1つは障害をもつ本人が主体性、主人公になること。今までは誰かに替わりに発言してもらう、そういう運動スタイルがあった。親が替わりに発言する、関係者に替わりに発言してもらう。障害者はしゃべりにくいから、障害者は一人で行動しにくいから、誰かにやってもらったらいい。そうじゃなくて、時間がかかってもいい、困難なところは助けてもらってもいいけれども、基本的には自分自身が発言し判断する、これが当事者主体だと思うんです。それは必ずしもスムーズにいく運動、格好がいい運動ではない。でも、当事者がいろいろと経験しながら頑張っていく当事者主体の運動です。▽089
 2つ目は、「障害からの解放」じゃなく「差別からの解放」。障害を無くす、障害を少しでも軽くすることが障害者問題の解決ではなくて、どんな障害があってもいいんじゃないか。我々はむしろ、障害者だからと言って地域で生きられないような、いろんな権利を制限される、そのことを無くしていくこと。つまりそれは、「障害からの解放」じゃなく、「差別からの解放」なんです。障害があるからと言って否定される、これに対して闘う、これは差別からの解放なんです。
 3つ目は、そのためにも地域の中で生き続けること。地域で生きるってのはけっして簡単なことじゃない。今でこそだいぶバリアフリーの状況もできてきましたけれども、我々が暮らしはじめた70年代はまだまだ厳しい状況でした。私なんかも一人で杖をついて歩いていると、しょっちゅうマンホールにとびこんでいた。当時はマンホールはふたがしていなかったので、そこに落ちて深いマンホールにはまって鞄を汚したり、非常に怖かったです。駅のプラットホームからも何回も落ちました。みんな知らん顔して急いで行ってしまう。自分で必死で杖と鞄をさがして這いあがる。電車が来ないうちに這い上がった。そういう時代だった。地域で生きるのは大変な危険をはらんでいたわけです。それでも我々は地域で生きるんだ、命がけでも地域で生きるんだ、ということです。
 施設や盲学校の寮にいたほうが、まずくても量は少なくても3食食べさせてもらえる。いちおう寮母さんとか施設の職員とか介護者がちゃんといる、そういう意味では安全なんです。地域のほうがずっと危険、リスクがいっぱい。それでも、地域で暮らしたい、暮らすことを選ぶ。そういう障害者の気持ちとはいったい何か、それをみんなに分かってもらおう、それが全障連の原点です。
 地域が楽しいから地域で生きるんではなくて、それが自分にとっての生きがい。人間を感じる原点。そういうことで障害者が主人公として生きよう。障害を軽くして訓練して認められるのじゃなく、差別をなくす。どんなに重い障害があっても認められるような、そういう世の中にしていこう。そして地域で生き続ける。それを目指して立ち上がったのが全障連運動だったんです。」

◆河野[2014],楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:]

 「70年代前半にあった「優生保護法改悪阻止」闘争は、楠さんは、京都を舞台に、ボクたちは、大阪を中心に闘う陣形を組んだが、あえなく敗北。その経験もあって、その次に来るであろう、「79養▽052 護学校義務化阻止闘争」に備えるべく、話し合いの場が持たれた。その結果、養護学校義務化に備えて、大阪府枚方市に建設される、第8養護学校に反対する共闘会議の場が設定された。この時代の障害者事情は、過酷なもので、ヘルパー制度も何も無く、街に出ていき活動しようとすれば、自分で自分の介護者を探すしかなかった。1日の活動のために、1週間の大学などへの「介護者探しビラマキ」が必要だった。そんな困難を潜りながらの活動だったけれど、またまた敗北。
 1974年頃、ボクたちの非力を痛感し、様々な経験則を感じて、楠さんの脳がフル回転して提案されたのが、「障害の違いを越えた全国組織の結成」だった。ある時、新大阪駅構内の喫茶店に、東京からは、就学闘争の八木下さん、楠さん、関西青い芝の会メンバーが集まり、議論を重ね、新しい全国組織の結成が合意された。それからは、楠さんを中心に怒濤のように準備が進められ、1976年の「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」結成に到達したのだった。今から考えても相当なスピードではある。その計画性、論理性は、硬く楠さんの脳裏に設計図としてあったのだとボクは確信している。
 そして、全障連結成の動きは、瞬く間に全国に広がり、多くの府県のネットに仲間が参加した。大会は、毎年違う都道府県で開催され、会場の用意から、スローガンづくりまで仲間の障害者が担った。「79養護学校義務化阻止」は、それまでのかけ声だけではなく、全国に実態のある形、「義務化阻止共闘会議」が次々と組織されていった。」(河野[2014:52-53])

◆安藤 節子(全障連関西ブロック) 2014 「ありがとうございました」,障大連大阪市ブロック会議講演→楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:82-91]

 「1976年夏の全障連結成を知ったのはその年の晩秋、当時京都府北部の聾学校で教師をしていた頃のこと。養護学校いらんねん…という障害者の叫びにひかれ大阪へ出てきて全障連の事務局員になり、養護学校義務化阻止闘争に参加する中で楠さんと出会った。  当時楠さんは、夜間高校で英語を教えながら「コロニー解体」を叫ぶ障害者解放運動のリーダーとして活躍しておられた。全障連事務局のメンバーを増やすこと、大阪に養護学校義務化阻止共闘会議を組織すること、楠さんに「あっちにこんな障害者がいるから…」「こっちにこんな教師がいるから…」と言われてオルグに行った。青い芝の会メンバーはもちろん、就労闘争や個々の差別と闘う障害者、未熟児網膜症親の会、障害児保育や教育を実践する保育所の職員や教師たち、とにかく楠さんは顔が広かった。
 全障連という組織で私が良かったと思うことは、とにかく「何でもあり」だったこと。CPはもちろん身体障害者、聴覚障害者や視覚障害者、精神障害者…。知的障害者の当事者運動はまだ生まれていなかったが、それでも義務化阻止闘争の中では自閉症児や多くの知的障害者もまた身近にいた。障害当事者はもちろん、共に生きようとする親や教師やジャーナリストから新左翼に至るまで、色んな人々の坩堝でもあった。全障連がこうした何でもありの組織としてやってこれたのは、やはり楠さんの懐の深さだったと思う。
 文部省闘争が伝説の尿瓶事件で終焉した時、実は楠さんは議員を通して文部省と窓口を開こうと裏で折衝を続けていた。運動もまだ未熟でそうした戦略が全体化されておらず、文部省前の実戦部隊ではその辺の事情を知らず、文部省のあまりの差別的態度についに尿瓶を投げてしまったわけだが、何故そこで急に闘いが終焉してしまったのか多くの仲間がわけがわからず呆然としてしまった。楠さんは愚痴るでもなく、ただただ悔しい思いを表舞台の仲間たちと共有されていた。そして翌年の金井・梅谷・石川さんの就学闘争からは表舞台の座り込みも、バックヤードの政治的動きも、マスコミへの動きも、全ての情報をみんなで共有して闘うことになった。」(安藤[2014:32])

◆梅谷 明子(奈良県「障害者(児)」解放研究会) 2014 「楠さん! 38年間ありがとう。そして、お疲れ様でした。」,障大連大阪市ブロック会議講演→楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:34-35]

 「初めて尚司と楠さんが同じステージに登場したのは、1976年8月10日に大阪市立大学の講堂で行われた全国障害者解放運動連絡会議の結成集会でしたね。楠さんを筆頭に全国から熱い想いを背負って参加されたお歴々が座っておられる後・前を行ったり来たりしていました。誰もが注意するでもなく、引きずりおろすでもなく淡々と開会行事は進行されました。とても印象的な風景が今も心に焼き付いています。(私はハラハラ・ドキドキの連続)」(梅谷[2014:34])

◆1970 福永年久 2014 「青い芝の会と楠さん」,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:44-45])

 「その〔1970年の集会の〕4年後、私は青い芝に入りかけの時に新大阪で被差別共闘会議に参加し楠さんと会う機会が増えました。何度か会議を重ねその後、私が疑問であったことを聞きました。内容は楠さんがどんな夢を見るか? 非常に興味があり、失礼と思いましたが聞きました。
 答えは、楠さんの説明では、「夢は音しか聴こえないが、私の目は幼い時に急に見えなくなり、その為時々夢は白黒で見る」と聞いたことが記憶にあります。そんなことから3年過ぎ、私は全国青い芝の常任委員と全障連の全国常任委員になり、月1回東京で全障連の常任委員会を行っていました。平均月1回、楠さんと会議をするようになりました。  全障連の運動の方向について、青い芝の「行動綱領」を全障連でも作れという会議を3年間も続けました。楠さんはいつも行動綱領はまだ当てはまらないと言う事で、私と議論になり第3回大会に京都大学の講堂で全国の参加者が2000人を越えていた記憶があります。東京の全障連の幹事の荒木が大会の挨拶の時に、言語障害があるという事で健常者に通訳をさせ私は非常に腹が立ち、ここは全障連大会である。障害者の解放をかけて運動を行っている所です。荒木さんが健常者に通訳を頼むのはおかしい。言語障害が余りない障害者に通訳を頼むべきであると言った事で大会の状況はガラッと変わり、あっちこっちで揉め始め大会の雰囲気が困難になりつつあった。
 名古屋の精神病者集団の大野萌子さんに、さっきの発言は精神障害者にとって人の話を集中すれば病気が出てくると言われ、大野萌子さんは脳性マヒ者の運動もいいが、精神障害者の状況も知るべきだ。静岡の地方裁判所で無実である精神障害者が裁判中である。その人の名前は赤堀さん。今、赤堀闘争を静岡の地で行っている。それに関われと言われ脳性マヒ者の運動はやっていたが、精神障害者の運動は初めて。また、当事者に怒られるのも初めて。▽045
 こんな事があり赤堀闘争も参加しましたが、話が前後しますが全障連の京都大会で、全国青い芝は横塚さんに相談し全障連を抜けることになりました。赤堀闘争で会議には楠さんも参加していましたが、闘争には参加していません。楠さんは40年間関わりがありましたが、最近では、時々ゆめ風基金の会議とか、1年半前には神戸のDPI全国集会の実行委員会の会議でお目にかかったのが最後になりました。」(福永[2014:44-45])

◆19780620 「「障害者」解放運動と「障害者」教育」,岩楯[1978:163-184]*
*岩楯 恵美子 著・「岩楯恵美子学校へ入る会」 編 19780620 『私も学校へ行きたい――教育を奪われた障害者の叫び』,柘植書房,271p. ASIN: B000J8OFS6 1800 [amazon] ※ e19.

◆197806 「「障害者」解放運動と「障害児」の教育権保障」,『月刊自治研』20(6),31-40.

◆197901 「養護学校義務化阻止闘争――現状と課題」,『月刊自治研』21(1),71-78.

◆19790325 「「障害者」解放運動とは何か」(障害者解放講座 第2回),『季刊福祉労働』02:147-153 

◆19790625 「養護学校義務化阻止闘争の総括と今後の課題(障害者解放講座 第3回)」,『季刊福祉労働』03:160- 

◆19791225 「80年代「障害者」解放運動の展望と課題(障害者解放講座 第4回)」,『季刊福祉労働』05:166-174 

◆198101 「障害者差別の実態と八〇年代に於ける運動の課題(部落解放研究第14回全国集会報告書)――(国内被差別人民からの訴え)」,『部落解放』 (160),45-48.

◆198103 楠 敏雄・梅原 孝一・みやざき ひろ 「討論(第16回日本臨床心理学会総会記録集<特集>)―― (子どもたちにとって校区とはなにか――就学運動・「障害児」教育を中心に<シンポ>)」,『臨床心理学研究』18(4),24-29.

◆198107 「「障害者」解放運動の歴史と現状(生きることの創造へ――部落と「障害者」<特集>)」『部落解放』(168),48-60.

◆198112 「「障害者」差別の現実と課題〔含 質疑応答〕(第12回部落解放夏期講座)」,『部落解放』(174),233-242.

◆楠 敏雄(全国代表幹事) 19910726 「開会あいさつ」,全国障害者解放運動連絡会議 第16回大会,楠敏雄・偲ぶ会―その人、その仕事、その思想―実行委員会編[2014a:68-69]に再録

 「どうも皆さん御苦労さんです。全障連を代表しまして、第一六回全国交流大会の開会あいさつを述べさせて頂きたいと思います。
 全障連は一九七六年に結成をされまして、丁度四半世紀・四分の一を経過しました。この間、私達の運動は、様々な曲折を経てきましたけれども、社会的には非常に大きな成果をあげて参ったと思います。全障連が結成されました当初、施設を拒否したり、養護学校を拒否したりする考え方というのは、社会的にはまだ少数であり、「極めて過激な思想だ」と、そういった非難・反発の意見が数多く聞かれました。しかしながら、私達の養護学校に反対する闘いや、様々な地域での実践・共に生き、学ぶ取り組みの蓄積を通して、障害者が健全者と共に生き、働き、学び、そして生活をしていきたい、こういった願いは決して過激な・特別な要求ではないんだという事が、徐々に浸透して参りました。
 そして、一九八一年の「国際障害者年」を契機に、いわゆる『ノーマライゼーション』という考え方が、世界からも日本に入ってくる事になって、今や行政の方々も『共に生きると言う事は当然だ』というふうに認められる、そいういう時代になりました。
 昨年は、身体障害者福祉法の改正など、いわゆる社会福祉関係八法の改正が行なわれましたが、そのなかで「地域福祉の推進・在宅福祉の充実」という事が、はじめて法的に明記される事になりました。一方、既にご承知のように、アメリカでは様々な限界はあるものの、「障害者差別を禁止する」という事を明確に打ち出した、いわゆる『障害を持つアメリカ人法(ADA)』というものが成立をし、私達日本の障害者を取り巻く現状と大きな隔たりのある事を痛感させられました。
 確かに、昨年の福祉法の改正で「地域福祉」が強調され、「自立の促進」という事が明記はされましたけれども、残念ながら、この福祉法においても「差別を禁止する」あるいは、「障害者に基本的人権を保障する」という文案は、結局盛り込まれないままに終ってしまいました。私達の運動は、まさに、この九〇年代に入ってより大きな転換期を迎えなければならないという時期にきていると思います。
 今年の大会のテーマは、『地域から世界へ!ポスト障害者の一〇年!国際連帯のうねりを!』という、非常に大胆なテーマを掲げました。それはまさに、地域で草の根の実践が、とりわけ、この大阪の地を中心に非常に幅広く蓄積されてきている。この実践を全国各地の仲間にみて頂き、そして、さらにそれのネットワークを広げて、世界の障害者と、さらには世界の差別された人々との連帯を勝ち取るなかで、まさに『反差別・人権』の闘いを地球規模で進めていかなければならないという事を、はっきりと打ち出していきたいという考え方であります。
 そういう意味で、今年は非常に困難な取り組みでしたけれども、七つの地域に渡って実行委員会を作って頂いて、障害者団体はもとより、部落解放同盟や労働組合、多くの民主団体の皆さんにご協力を頂いて、何とか各地の取り組みを成功させて頂く。そのための体制作りをして頂きました。
 参加者の皆さんからは、「あちこちに分散して非常に大変だ」という不満やご意見も聞かれますけれども、是非とも、この大阪大会の独自性を知って頂く。そして、運動をより広範に広げていくという意味で、大変でしょうがご理解・ご協力をお願いをしたいというふうに思います。
 一方で、今、『脳死・臓器移植』の問題が、社会的にクローズアップされています。確かに、子供達の生命を救う。この事自身は重要な事ですけれども、しかしながら、まだ必死に生き続けている人達を「社会的死だ」と勝手に医者が判断をし、そして、その事をもって臓器を摘出する。こういった行為に対して、私達は障害者差別を闘う立場から断じて許す事はできない、という事で、脳死・臓器移植の立法化に強く反対する立場をとっています。
 第二次世界大戦の頃、ナチス・ドイツの中で『安楽死』というものが法制化され、そのなかでたくさんの障害者達が、医者と権力の手によって殺されてしまった。こういう歴史を私達は絶対に忘れる事は出来ない。そういった意味でも、この『脳死立法化』という問題は、障害者の生存権に関わる問題として、是非とも取り組んでいきたいというふうに考えております。
 まだ多くの課題が、今大会でも論議されます。交通の問題、雇用拡大の問題、教育の問題、そして、障害者と冤罪の問題、「精神障害者」の問題。そういった様々な問題について、多くの皆さんから積極的なご意見をお出し頂いて、しかも、単に違いを強調しあってぶつかり合うのではなくて、その違いの論議を通して、より共通の新しいものを作り出す。今大会の議論で合意に達しないものは、お互いに持ち帰って論議を深めよう、こういう点を、是非とも確認をして頂きたいと思います。
 しばしば言われる事ですけれども、日本の運動はどうも分裂が多すぎる。アメリカのADA法を作り出した時に、アメリカの障害者は見事な団結を作り出したと聞いています。私達も、運動の中におけるノーマライゼーション、すなわち、違いを認め合いながら共に闘う。論議は大いにする。しかし、行動は一致できる点で団結をする。この原則を踏まえ合いながら、是非とも、この大会を大成功に終らせて、九〇年代の障害者解放の展望を二十一世紀に向けて切り開いて頂きたい、という事をお願いしまして、簡単ですけれども、全障連を代表しての開会のあいさつにさせて頂きます。」

◆(全国障害者解放運動連絡協議会・事務局長) 19780204 「障害者の要求と願い――「隔離」社会から真の解放へ」,住吉同推協「障害児」教育部会編[1978:67-84]*
*住吉同推協「障害児」教育部会 編 19780204 『すいしん』6,住吉同和教育推進協議会,1978年2月4日「障害児」教育討論集会・資料 ※r:[椎木章氏蔵書]
 「注 この講演記録は、1973年9月19日枚方市主催の「福祉講演会」のものです。講師の了解を得て、本集会用に若干手直しして掲載しました。(文責……同推協事務局)

■1981- 全国視覚障害教師の会

◆全国視覚障害教師の会(JVT)の30周年記念式典
 http://jvt.lolipop.jp/30anniv.htm
私たち「全国視覚障害教師の会(JVT)の30周年記念式典の記録です。
JVTは、1981年5月3日に発足しました。
それから、丁度31年後の2012年5月3日に神戸市ラッセホールにおいて30周年記念式典を実施し、発足時に貢献された先生方に、お集まりいただきました。
そして、30年前の貴重な体験談や当時の様子を、創立30周年記念式典の記録としてまとめました。
以下、その内容です。
時代は変わっても我々視覚障害教師の前に立ちはだかる壁や、抱える悩みは、ほとんど変わっていないように感じます。
役に立つ教訓がたくさんあると思いますので、ぜひお読みいただき、参考にしてください。
なお、文中の統計的な数字は、記念式典の行われた2012年当時のものです。

◆楠敏雄 2012 「お祝いの言葉(1)」
 http://jvt.lolipop.jp/iwai1.htm

◆楠敏雄 2012 「発足当時を振り返って(5)」
 http://jvt.lolipop.jp/furikaeri5.htm

 「私自身は盲学校で、あんま、はり、きゅうの三療を勉強して視覚障害者は三療へつくのが一番幸せなのだと、それをすべきだと周りの教師たちから言われていました。
 それでもどうしても自分がやりたい英語の教師の道をあきらめきれなかったのです。どうせ教師をするならば、目の見える生徒たちに教えてみたいという夢をずっと持ち続けていたわけです。
 たまたま弱視である私の恩師が盲学校の校長になられ、その校長が私に初めての機会だから一度やってみないかと水を向け、教育委員会にも根回しをしてくれたのです。
 たまたま天王寺高校の定時制で視力が落ちてきた先生がいらっしゃいました。その人を盲学校で受け入れる代わりに楠を天王寺高校で講師として1回やらせてみてくれないかというバーターをされました。
 一方では府教委に根回しをして初めてのケースだからぜひ少しでもいいので支援をして欲しいということで、これも内々に2時間ずつ補助を付けてくれ、教材準備の協力をしてくれるよう配慮をしてもらったわけです。それで、天王寺高校で教壇に立つことができたのです。
 これはまさに全国では初めてのことでしたが例外ではだめだと感じました。これをどうしたら拡げていけるのかと思っていたときに三宅先生から連絡をいただきました。
 実は、自分も復職を考えていてライトハウスでリハビリを受けて復帰しようと思っているのでいろいろアドバイスをして欲しいという話があり一緒にお会いしました。
 そのときに後藤先生も来られ、たしか梅田の田園という喫茶店に3人が集まり賑やかな中で後藤先生のぼやきをだいぶ聞かされました。三人で1カ月に1回とか2カ月に1回とか集まり、それがJVTのもとになったと思います。
 緑橋のマンションで第1回目の集まりをしたときに辞めることを決断した先生が数人いたというのを聞かされ非常にショックを受けたのです。その先生も来られていて、だいぶ説得したのですが「いや、もういいのです。自分は限界です」と言われました。もちろん個人が頑張るのは当然だけれど、個人の努力や頑張りだけではどうしようもないと周りの支援が不可欠だと痛感しました。
 会をつくり高槻でやったのは、高槻の教職員組合がその頃非常に人権意識が高かったからです。高槻教組に後援をお願いしました。やはり、周りの教師が変わらないと本人がいくら頑張っても限界があるということで周りの教師からの報告もしてもらいました。
 箕面の教職員組合にも人権意識の高い先生がいらっしゃったので、1次試験に通った段階で、なんとか高田先生の受け入れを表明して欲しいと箕面に要請しました。もし2次試験に通ったらうちが受け入れるからと府教委にも根回しをしてもらいました。
 有本先生の場合には先ほどの私を推薦してくれた校長が白菊高校へ受け入れることを働きかけてくれたのです。支援者や環境づくりがないと視覚障害者が教壇に立つのは非常に難しいと思いました。そういう取り組みを積み重ねることが必要だと感じたわけです。」(全文)

◆楠敏雄 2012 「教師として自信を持てた瞬間(6)」
 http://jvt.lolipop.jp/jishin6.htm

 「私の場合ですが、定時制だと英語が苦手な生徒が圧倒的に多いのです。boyとかbookとかの単純な単語でさえきちんと書ける生徒は半分いないという状況でした。
 英語を教えることも大事だがそれ以前に彼らに自信を持たせるといいますか、人間としての信頼関係をどうつくるかがやはり大事だと痛感しました。
 2カ月近く、一人ひとりの名前と声と特徴を頭に叩き込むことに私は非常に力を入れました。2クラスですのでだいたい80人の生徒の名前を家へ帰ってきてからカセットで何回も聞きなおして覚えるのです。
 やはり、名前と、どの辺に座っているかが重要です。今日はどうもサボっているようだなとか、居眠りをしているみたいだなとか、そういうのを把握して、その彼に当てていろいろ話しかけるのです。教科書を持ってきていないようだったら隣の子に「ちょっと教科書を一緒に見せてくれ」と言って読ませるとかです。そういう一人ひとりの付き合いを大事にして覚えることに重点をおいたのです。
 3年目が終わったときに、学校から定時制削減の話が出ているので辞めてもらうかもしれないという話が出ました。クラスの生徒たちがそのうわさを聞きつけたようで、楠先生に辞めて欲しくないと署名を集め始めたのです。「署名をやるから」と言ってくれて、「この先生は残ってほしい」ということを言ってくれました。そういう声で私は自分がやっていてよかったという自信がついたのです。その感触を得たということです。」(全文)

◆楠敏雄 2012 「これからのみなさんへ一言(5)」
 http://jvt.lolipop.jp/korekara5.htm

 「障害者運動をやってきたので私はどうしてもそこから逃れられないのです。JVTは、もちろん、お互いの実践を交流しあうことが原点ですが、いまの世の中が競争主義に流れていく中で、やはり障害を持っていると、どうしても切り捨てられていく危険性が十分にあります。それに対し、立ち向かう団結といいますか、つながりを持てるパワーがないとだめだと思います。
 一生懸命実践していればそれでいいかというと、そうでもないと思うのです。そんなに世の中は甘くないと思いますのでぜひ、そういう間違った流れに対し跳ね返せるだけの団結やつながりをつくれる会になって欲しいと強く期待しています。」(全文)

■-1980^1990-2000-2010-

◆198301 「障害者の生活課題と自治体選挙(八三統一自治体選挙)」,『月刊自治研』25(2),60-63.

◆198310 「障害者の進路保障をめくる諸問題」,尚司くんの未来を切り拓きみんなで生活を考える会[1983:1-2](全国障害者解放運動連絡会議)
*尚司くんの未来を切り拓きみんなで生活を考える会 198310 『富中から柳生への道標――牧場建設をめざす「障害者」と仲間たち』,尚司くんの未来を切り拓きみんなで生活を考える会,13p. ※r w/us06

◆198512 「障害者差別の現状と課題(第16回部落解放夏期講座)――(課題別講演)」,『部落解放』(238),234-243.

◆19860920 障害者の自立を考える連続セミナー第1回「歴史」
 パネラー:二日市安・楠敏雄・松井義孝

◆198905 「障害者の自立と健常者の役割」,『月刊自治研』31(5):26-32.(特集:自立と共生の時代<特集」

◆198912 「障害者差別の現状と課題(第20回部落解放夏期講座)――(課題別講演)」,『部落解放』(303),217-224.

◆19900325 「89・11・19〜20全障連・中央省庁闘争の報告と総括」,『季刊福祉労働』46:128-133 

◆19900624 「発刊によせて」,森修生活史編集委員会編[1990:1-2]*
*森修生活史編集委員会 編 19900624 
『私は、こうして生きてきた――森修生活史』,陽光出版,陽光ドキュメント1,116p. 500 ※r

◆199008 「障害者にとって識字とは(国際識字年<特集>)」,『教育評論』(519),30-35.

◆19901225 「障害者差別の現状と課題」(第21回部落解放夏期講座――課題別講演),『部落解放』319:221-228 

◆19901225 「ADA法と日本の障害者」,『季刊福祉労働』49:038-047

◆19910403 「楠敏雄さんに聞く・1」(インタヴュー 聞き手:八木下・山下),『SSTK通信』052:032-037(埼玉障害者自立生活協会

◆19910607 「楠敏雄さんに聞く・2」(インタヴュー 聞き手:八木下・山下),『SSTK通信』053:055-059

◆19910825 「楠敏雄さんに聞く・3」(インタヴュー 聞き手:八木下・山下),『SSTK通信』055:060-066

◆19911006 「楠敏雄さんに聞く・最終回」(インタヴュー 聞き手:八木下・山下),『SSTK通信』056:059-063
 *http://yellow-room.at.webry.info/201402/article_6.htmlより引用させていただきました。
 「全国障害者解放運動連絡会講(略称・全障連)代表幹事の楠敏雄さんに、昨年暮れ、八木下、山下がインタビューした内容、今回で最終回です。
 初回は全障連結成時の状況、二回目は、日本の障害者運動の政治的系列化の問題、および世界の障害者運動の中での日本の特殊性を、それぞれ話していただきました。
 そして、.三回目は、特に私達が関心がある「生きる場・作業所」運動との関連で、結成から今日までの全障連の運動の歴史をふりかえっていただきました。
 さて、最終回の今回は、アメリカから学びつつ全国的に取り組まれ始めている「自立生 活運動」についての評価と、これからの全障連について話していただきます。

Q 組織から運動の問題まで入ってきましたが、80年代半ばからアメリカの自立生活運動を担う障害者達との交流が盛んになり、昨年、今年と自立生活問題研究全国集会も開かれるに至りましたね。その中で、たとえば日本の社会に根差した自立生活プログラムとは…といった論議もされているわけですが、そのへんについてはどう評価されていますか。

楠 たしかに、部分的には取り入れられるものがあると思いますね。個々の障害者の自立というものはね、かなり意識的に関わって、その方向性とか意識性とかを、考えていくことは大事だと思うんです。しかしね、それをプログラムとして、パターン化させるのは、ぼくの趣味ではないですね。
 そういうのは、実施主体が変わると、いくらでも国に管理されてしまうおそれもあるしね。アメリカの方法論だけがとりいれられて、それを育てて来た運動は十分に学ばれてはいないですね。アメリカの中心的な部分は、かなり公民権運動などに影響されて、差別の根絶のための徹底的な闘いをやってきているんですね。バスに身体をしばりつけちゃったり、連邦政府の建物を占拠したりしながらね。そういう行動力や政治力も含めて、アメリカの障害者に学ぶというのならいいんだけどね。
 いまのアメリカ社会のかなり個人主義的な傾向を、とりいれただけではね。だから、「自己選択」、「自己決定」の次に「社会連帯」というものを持たないといけないと思いますね。
 アメリカの自立生活運動では、権利擁護ということを言っていますが、アメリカに学ぶというなら、少なくともそれを欠落させてはだめですね。
 しかし、日本で、こういうアメリカの影響を受けて、地域で自立していこうという障害者が増えてきているのだから、全障連にかかわる障害者たちも一緒に考えていくべきなんですね。のめりこむ必要はないですが、無関心では困るんですね。
 全障連に結集している部分は、自分らは融和的団体ではなく反差別の団体なんだという自覚があるわけね。「孤立を恐れず…」みたいだけど、孤立してはいけないと思うんですね。「自己選択」、「自己決定」ということで出てきている部分と一緒に考えて行けなければ…。そして、地域に根を張ろうとしなければいけないと思うんですね。運動に責任を持とう、とぼくは最近言ってるんです。

八木下 ところで、70年代、バンバン激しくやっていたぼくたちの世代の障害者たちが、いま個人主義的になってしまっているところもけっこうあると思うんだけれど、楠さんはどう感じる?

楠 やはり、我々の場合、個別闘争から出発して来たというスタートの問題があったと思うんだよね。「○○支援闘争」という…ね。いまでもそれは残っていると思いますね。初期はね、個々の障害者のめざめから始めるという意味で、それはやむをえなかったんですね。しかし、組織的な広がりをつくろうとすれば、個々の障害者の別々のテーマでなく、共通のテーマで組織化していかないとね。自分の生活の問題を「お前にも関係あるんだから来い」と言っても、それはやはり続かないですね。
 けっきょく「○○支援闘争」というのは、その○○さんという、かつがれた主体がこけたら、みなこけてしまうんですね。結局は広がらない…。一見派手に見えるけれど、限界があるんです。
 やはり、いま共通の目標で地域に組織をつくることが重要ですね。地域の人々や労働組合に働きかけていくためにもね。大阪などではいろんなイベントにどんどん作業所が出て行って、ビラまきしたりいろいろやってますけど、そういう形で、地域をそれから人々を変えていかないとね。

八木下 そのへんは、埼玉でも大阪と似ていると思う。自分の生活を支援する人間を増やすということじゃなくて、共同で支え合って地域に組織をつくっていくということだと思うわけ。

Q 最後に、全障連のこれからの活動のポイントと思われることを話してください。

楠 一つは、障害者解放運動の路線の問題についても、方向性はどうなのかと、相当シビアに議論していくことですね。
 そう一つは、介入路線というか、意識的に既成の組織に入りこんで、仲間をつくっていくこということですね。どの部分と連帯するのか、どの部分に基盤を置くのかをはっきりさせていかなくちゃいけない。
 そうして、やっぱり、各地で頑張っている障害者が倒れたら、それで解放運動が終わりになっちゃうかもしれない今の不安定な状況を変えていくということですね。

八木下 ぼくはこう思う。90年代の展望として、地域でもっと行政闘争をやっていくこと。
 そして、団結が必要だ。弱いものを支えていくという団結。一部の人ばかりよくなるということでなくてね。行政にプレッシャーをかけて、制度を変えさせていかなくちゃいけない。

楠 ぼくは、国の制度については、あるものは改正させ、あるものは撤廃させるという闘いをやる必要があると思っています。全国組織の課題としてね。これはケンカの部分ですね。
 それから、もう一つは、国のそういう制度をつくらせながら、それに基づいて、市町村の政策をつくらせていくと。そして、市町村で政策を決定していく段階に、障害者が参加していく力をつけないとね。そうすれば、大衆的にも集まると思いますね。カンパニアだけではダメですね。具体的な成果を上げないと。基本的に、自治という部分に参加をすることね。そういう意味でも地方の議会に出ることも、重要なことだと思います。

八木下 楠さん、変わったね。

楠 たしかに変わった。いまでもケンカするほうが好きなんだけれどね。
 障害者解放運動という原則は変わらないけれど、それを実現する手段は変えていかないとね。
 ぼくは、地域で「自立の家つばさ」という作業所の活動をやっているんですけどね。やっぱり自分の足元を固めていかないとと思ったんですね。そうでないと人に言うのに説得力がないしね。自分自身の内容を豊富化させる意味でも、自分自身が作業所に身を置いて、そこにどんな矛盾があるかとかね。それと向き合いながら地域運動を続けて行ってね。しかも、そこに埋没せずに、方向性をもってやっていくと…そういうことが大事だと思うんですね。
 たしかに歯がゆいことばかりだけどね。パンの生地がどうしたとかこうしたとかね。まず、パンを売っても、障害者の作業所なんだから許させるはずじゃないかとか。でも、やっぱりパンを売っているからには、うまいパンをつくらなければ…とかね。地域運動というのは、そういう細かいことがいろいろあるんですね。そういう泥くさい、汚いことを抱えた人間が、いろいろ集まってやっていくことが、ほんとうの意味での解放運動だと思うんです。(完)」

◆19911225 「福祉サービスに見る障害者の十年」,『季刊福祉労働』53:053-058

◆19920125 「「障害者」の人権のために」,部落解放研究所編[1992:102-109]
*部落解放研究所 編 19920125 『人ある限り人権を。…いま、人権は…――世界の差別、日本の差別 改訂版』,反差別国際運動,発売:解放出版社,127p. 1200 ※r

◆19920625 「巻頭のことば」,
『ノーマライゼーション研究』1992年年報:001-007

◆19931117 講演 記録全文→19960909

◆19941128 「“差別表現と表現の自由”をめぐって――「表現の自由か,人権擁護か」の誤り」,『全障連』128:06-09

◆1995 「巻頭のことば・私の四つのKEY WORDS」,『ノーマライゼーション研究』(1995),5-10.

◆1996 「巻頭のことば・どこまで落ちる官僚たちよ」,『ノーマライゼーション研究』(1996),5-7.

◆19960909 「働くことをめぐる問題――障害者の立場から」,障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議(労働部会)編[1996:3-10]* (ノーマライゼーション研究会事務局長)
*障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議(労働部会) 編 19960909 『障害者の働く暮らしをささえるために――講演記録集』,障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議,48p. ※r
 ※この冊子全文が入力されている

◆199611 「身辺自立よりも自己決定を(特集 「特殊教育神話」からの解放)」,『障害児と親と教師をむすぶ人権と教育』(25), 90-101.

◆19970809 「なぜ今,ボランティア?」(巻頭言),『ノーマライゼーション研究』1997:005-009

◆199803 「障害者差別の現状と法制度上の課題 (<ミニシンポジウム>震災復興と住民)」,『法社会学』(50),124-126.

◆20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]*
*全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.
 隔絶された盲学校生活から大学へ
 青い芝の会との出会い
 全障連結成をめぐって
 全障連の三つの基本的原則
 地域拠点としての作業所づくり
 「行動綱領」議論と青い芝の会の全障連脱会
 ゆるやかな組識と幅広い運動へ
 今後の障害者運動の課題

◆20001001 「はじめに」,(NPO)大阪障害者自立生活協会[2000:1-2]*
*(NPO)大阪障害者自立生活協会 20001001 『障害者ピアカウンセラー養成研修テキスト』,(NPO)大阪障害者自立生活協会,69p. ※r lc. pc.

◆2002 「障害者施策の決定は名実共に当事者の参画で――大阪府の第三次障害者計画の概要と課題(特集 新障害者プランに何を求めるか)」,『季刊福祉労働』(96),52-60.

◆2002/05/15 「大阪の障害運動をリードした 楠敏雄さん」,大阪大学での講義
 http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020515am.html

◆200212 「フォーカス 第6回DPI世界大会と障害者権利擁護の課題――権利条約への道(特集 速報「アジア太平洋障害者の十年」最終年記念フォーラム)」,『ノーマライゼーション』22(12),23-25.

◆200302 楠 敏雄・金 政玉 「対談 札幌大会の成功をバネにして――楠敏雄×金政玉――障害者差別禁止法と障害者権利条約の制定に向けて(特集 DPI世界会議と障害者の人権)」,『部落解放』(513),4-21.

◆200303 「第4分科会:障害者プランの現状と新障害者プランへの課題(特集 「アジア太平洋障害者の十年」最終年記念大阪フォーラム(上))」,『リハビリテーション研究』(114),19-24.

◆20040331 「障害者の権利宣言"Declaration on the Rights of Disabled Persons"」,『人権問題研究資料』18,1-10.

◆楠敏雄(NPO法人大阪障害者自立生活協会理事長) 2005/05 「差別に立ち向かい、社会を自ら変える力を」,人権を語るリレーエッセイ・19,財団法人大阪府人権協会
 http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol19.html

◆200510
 「大阪における知的障害児の普通高校別枠入学制度の意義と課題 (特集 ともに学び、ともに生きる――大阪発・知的障害のある生徒の高校受け入れの取り組み)――(「共に学び、共に育つ」教育の広がりとこれから)」,『解放教育』35(10),14-19.

◆2006/03/21 講演
 障害者自立支援法を考える大阪のつどいW
 http://www.ciltoyonaka.com/tsudoi4.htm

 「障害者自立支援法を考える大阪のつどいWが行われました
 2006年3月21日(火)、堺市泉ヶ丘のビッグアイにて、『障害者自立支援法を考える大阪のつどいW』が開催されました。
 昨年4月14日の大阪城公園での集い、7月31日の中央公会堂での集い、10月18日の御堂筋大パレードに続いて、通算4度目の集いでした。
 今回は、場所がやや遠くて大阪市以北の人は移動にも時間がかかりましたが、それでも1,600人超の人が集まり、中には愛知県からの参加者もいました。
 初めに障大連の楠敏雄さんから基調講演があり、障害者の福祉サービスを後退させる新制度に対する怒りの思いを語っていました。
 「何故、『改革のグランドデザイン案』なるものを国は出してきたのか?それはサービス利用を抑制させるためであることは明らかだ。」と、いつもの穏やかな口調ながらも、時折語気を強めていました。[…]」

◆200605 「障害者自立支援法の基本問題と私たちの課題(特集 検証 障害者自立支援法)」,『部落解放』(565),10-16.

◆200605 「われら自身の声 インクルーシブ教育――その現状と未来の展望」,『DPI』22(1),24-27.

◆200705 「障害者自立支援法の施行(人権キーワード2007)――(障害者)」,『部落解放』(582),62-65.

◆200802 「われら自身の声 障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク(インクルネット)への結集を!」,『DPI』23(4),26-28.

◆2008 楠 敏雄・石橋 宏昭 「学習会2 八尾事件と「累犯障害者」支援の課題(部落解放研究第29回兵庫県集会報告書)――(学習会報告)」,『ひょうご部落解放』131,142-159.

◆200901 「「与えられる福祉」から「権利としての福祉」への転換をめざして(特集 格差と闘う福祉――福祉観の転換を)」,『部落解放』(607), 12-17.

◆200905 「自立支援法の後に来る「未来」とは(福祉は権利だ人権だ)」,『人権と教育』(50),30-38.

◆200905 「障害者 大阪における知的障害者の高校入学運動(人権キーワード2009)」,『部落解放』(614),98-101.

◆2010/02/01「楠敏雄/試されているのは我々の政策力・企画力 」,『ピープルズニュース』(人民新聞社)
 http://www.jimmin.com/doc/1301.htm

 「障害者自立支援法」の廃止に向けて
 2009年10月30日、新政権の長妻厚生労働大臣が、1万人近い障がい者やその家族・支援者らを前にして、正式に「障害者自立支援法」の廃止の方針を明言した。2005年に小泉政権下で財政削減策の一環として出された「改革のグランドデザイン」以降、多くの障がい者団体が批判してきた「応益負担」が、ようやく見直されることとなった。
 しかしながら、この悪名高い自立支援法も元を質せば、1990年代後半に出された「福祉の基礎構造改革」にその端緒を見出すことができる。さらにそれは、2000年に成立した「介護保険法」と対を成す政策にほかならない。
 すなわち、「措置から契約へ」への制度移行によって、利用者負担の原理に根拠を与えることとなり、私自身も含めほとんどの障がい者団体がそうした当然の帰結を見抜けず、見過ごしてきたことは否めない。
 とりわけ今我々が論ずべきことは、2003年の「支援費制度」に対する的確な評価である。すなわち、この制度で強調された「個々の障がい者のニーズに応じたサービス提供」といううたい文句に、私も多くの仲間たちも多大な幻想を抱いたことは確かだった。当時の厚労省障害保健福祉部長の塩田氏は、「こんなにニーズが伸びることは予想しなかった」などと白々しい言い訳を繰り返していたが、今から思うと、あの支援費制度が実は「大きな甘い罠」だったように思えてならない。
 さて、すでに周知のように、現在の政権与党の民主党はこの介護保険制度の導入に関しては自民公明以上に積極的だったし、この姿勢は現在も変わっていないように思う。もちろん、現政権の誕生に多少なりとも協力した私としては、民主党の福祉政策に否定的な評価を行うつもりはないし、そんな力量も持ち合わせてはいない。
 しかしながら、この間の「契約制度」を基礎とした一連の政策が、市場原理主義と全く無縁な方向だ――とも、どうしても思えないのである。
 今さら言うまでもなく、私は「脱官僚」や「天下り」を批判してきた民主党政権を基本的には支持している。たとえ一部現政権が一部の官僚の力を借りたからといって、それを「マニフェスト違反だ」などとがなりたてるつもりもない。
 それにしても、最近の政権内におけるあからさまな混乱は、やはり耳を覆いたくなってしまう。これも情報公開の原則の一環かもしれないし、策士の小沢氏のことだから、もっと深い「戦略的意図」を考えているのかもしれない。
 そうした様々な条件を差し引いて評価しても、やはり沖縄の基地問題に対する党幹部の姿勢は、私としてはとうてい容認できない。「やっぱりなあ」とも思いつつ、アメリカ一辺倒の自民党政治とどこが違うのか?と思って、強い不審や憤りを抑えがたいのは私一人ではあるまい。「アメリカ政府にも言うべきことはきちんと言う」――選挙期間中、民主党の候補のほとんどがあんなに明確に言い切っていたではないか。
 もちろん外交交渉とは相手のあることだから、それほど容易なものではないことは予想できる。しかし、そうした困難な要因を勘案しても、やはり党幹部の発言には明確な理念や主体性が感じられない。
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◆2010年1月27日 第三の道
 Filed under: つぶやき ? toshio @ 1:06 PM

 DPI日本会議副議長の楠敏雄氏が、「試されているのは我々の政策力・企画力」と題し、障がい者制度の「契約制度」について、基本的な疑問を投げかけた。
 氏は、契約制度は市場原理主義と同根であり、利用者負担の原理的な根拠になっていることを批判している。短い文章であり、論拠を十分展開したとはいえない。
 しかし、政権が交替し、政府において「障がい者制度改革」がスタートした今、しかも改革の道筋に大きな影響力があると見られるDPI日本会議の副議長の発言であり、注目しなければならない。
 措置制度でも契約制度でもない、第三の仕組みを氏は望む。この氏の指向に、私も深く共鳴する。しかし、第三の道がどのような道か不明瞭であるという。
 措置制度は、国に福祉の責務があるとしたはずなのに、悪用されれば、利用者の人としての権利を奪っていた。契約は、利用者個人の権利を保障したはずなのに、悪用されれば、「傲慢な消費者」を生み出した。
 措置制度も契約制度も、どちらも共通している面がある。それは基本的に「連帯」「協働」を必要としていないことだ。つまり、コミュニティを軽んじたシステムである。第三の仕組みがあるとすれば、それはコミュニティを重視する道になるのではないか、そう私は思うし、そこに注目している。

【以下楠氏の要旨】
 「(2009年10月30日の集会で、長妻厚生労働大臣が、障害者自立支援法の廃止の方針を言明したことによって)多くの障がい者団体が批判してきた『応益負担』がようやく見直されるようになった」
 (1990年代後半の福祉の基礎構造改革、2000年の介護保険法の成立にみられるように)「『措置から契約に』への制度移行によって、利用者負担の原理に根拠を与えることになり、私自身も含めほとんどの障がい者団体がそうした当然の帰結を見抜けず、見過ごしてきたことは否めない」
 (2003年の支援費制度)で強調された『個々の障がい者のニーズに応じたサービス提供』といううたい文句に、私も多くの仲間たちも多大な幻想を抱いたことは確かだった。…いまから思うと、あの支援費制度が実は『大きな甘い罠』だったように思えてならない」
 「この間の『契約制度』を基礎とした一連の政策が、市場原理主義と全く無縁な方向だ――とも、どうしても思えないのである」
 「民主党政権は『障害者自立支援法』にかわって、どのような法制度やサービスを作り出そうとしているのか。4年をかけて支援法の廃止や差別禁止法の制定、さらには『障がい者総合福祉法』の制定を目指すとされているが、それは旧来の法体系とどのように違うのか。あるいは『措置』でもない『契約』でもない第三の仕組みは、どのような理念とシステムを基本として作り上げていくのか、その根本問題に関する論及は、今なお非常に不十分なように思える。」
 「戦後60年近く続けられてきた官僚主導の『措置制度』を支持するものではないが、だからといって市場原理に道を開く『契約方式』を無条件に推進する立場にも立てない」
 「問題は、我々自らが、障がい者施策や福祉政策のあり方についてどんな内容を提起し、いかなる効果的な行動をとりうるのか、である。政府や政党に何を求めるかでなのではなく、我々自らが企画力と政策力をつけていくのかが試されているのだ」(人民新聞2010年1月15日号)

◆2011/07(おおさか現地実行委員会委員長) 「第15回「障害児を普通学校へ・全国連絡会 全国交流集会 in おおさか」へご参加を」(巻頭文)
 http://www.zenkokuren.com/book/newsletter/kaiho110607.html
 『障害児を普通学校へ全国連絡会会報』2011年6・7月 296号

 「皆さんもご承知のように、一昨年発足した民主党政権のもとで、新たに「障がい者制度改革推進会議」が設けられ、障害者に関わる法制度の抜本的な見直しを計るべく積極的な検討が進められています。それらの見直し作業の中でも、特に重要かつ困難な課題が「障害者自立支援法」を廃止し「障害者総合福祉法」を制定することであり、現行の「学校教育法」における「別学分離制度」から障害児と健常児が地域の学校で共に学ぶことを基本とする「原則統合」の法制度へと改めることです。
 日本においては、既に明治5年に初めて制定された「小学校令」において知的障害児や「浮浪児」を「廃人学校の対象」として教育の対象から排除していました。しかも実際にはその「廃人学校」へも通えず、「就学猶予・免除」の名のもとに不当に教育権を剥奪されてきたのです。そうした政策は第2次大戦後、「盲・ろう・養護学校」の整備として表面的な改善が図られたかのように見えましたが、障害児を「欠陥児」と見なして、別な場で「治療と訓練に励む」といういわゆる「療育」の思想が強調され、さらにその政策を体系化したものが1979年の「養護学校義務制化」でした。文部省( 現在の文部科学省、文科省) などの言うように「養護学校義務制化」によって、確かに障害児の教育の場は形の上では整備されたように見えますが、現実には本人や保護者の意に反して障害のある子どもは「盲ろう養護学校」への就学を一方的に強制される仕組みが強化されることになったのです。
 私たちは、大阪・東京を始め、全国各地でこのような文部省の分離別学制度の強化に反対し、地域の普通学校で障害児と健常児が共に学ぶ教育を進める取り組みを行ってきました。とりわけここ大阪の地で発足した「全障連( 全国障害者解放運動連絡会議)」や、「全国連( 障害児を普通学校へ・全国連絡会)」など、障害者や教師などを中心とするさまざまな団体が、共に学びあう教育制度への転換を求めて闘いを続けてきましたが、文科省はそうした動きをそらすかのように「特別支援教育」の制度を打ち出しました(2007年4月1日施行)。しかしながら、文科省の言う「特別支援」とは結局のところ「障害児一人一人のニーズに応じた教育」を名目に、支援学校や支援学級さらには通級指導教室など、より一層障害児を健常児から分離する教育体制を強めることに他なりません。
 この間私たちは、障がい者制度改革の動きに連動して、「共に学ぶ教育制度」への転換をめざす多くの人々に呼びかけて「インクルネット( 障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク)」を結成し、原則統合と「学籍一元化」、さらには「合理的配慮」に基づく個々の障害者への教育条件やニーズへの保障を求めてきました。私たちは、今国会で「抜本改正」が行われた( 提案された)「障害者基本法」においても、こうした「インクルーシブ教育制度」への変更をめざして、文科省や国会議員などに対し、様々な形で働きかけを続けてきました。結果的には基本理念の上では共に学ぶ教育の必要性を明記させることはできましたが、あくまでも分離別学の教育制度に固執する文科省の厚い壁を崩すことはできませんでした。
 今回の交流集会では、この間の私たちの取り組みをしっかりと振り返りつつ、今後の新たな取り組みのあり方を模索していきたいと思います。また、大阪を中心に全国の多様な実践を出し合いながら、「ごちゃまぜ」の味を全国の仲間に味わっていただき、ついでに「ごちゃまぜの力の強さ」を各地の仲間に持ち帰っていただき、それぞれがより広いネットワークを作って、「分離別学」や「医療モデル」に固執する流れと、しっかりと対決し得る陣形を作り上げていかなければなりません。
 論議は活発に、団結は強固に! これが大阪的ポリシーです。3年後の「障害者基本法の見直し」を始め、5年後、10年後を見据えた粘り強く緻密な戦略を立てて取り組んでいきましょう。そのためにも多くの皆さんのご参加と熱い討論を期待しています。」

◆2012/06/20
 障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議 議長 楠 敏雄
 「お祝いと連帯の思いを込めて」
 『バクバク』100(会報『バクバク』No.100 発行 記念メッセージ)
 http://www.bakubaku.org/bakubaku100-kinen-message.html

 「バクバクの会」の通信100号記念おめでとうございます。養護学校義務化反対の闘いが盛り上がっていた当時、地域の学校で学ぶ取り組みがかなり進んでいたこの関西の地でしたが、人工呼吸器を使用した仲間が地域の学校へ入学する闘いは、やはり画期的な実践だったと思います。私自身も2才で失明して以来、自分の意思に反して盲学校での寄宿舎生活と隔離的な教育を強いられてきましたが、そうした私にとって、健常者と一緒に勉強し共につき合うことは、20年以上の間、強いあこがれでした。
 青森駅のプラットホームから落ちたり、マンホールにはまったりしながらも、北海道から一人で大阪に出てきて一般大学へ進学を目指した私は、文字通り命がけのチャレンジだったのです。ほとんどの大学で点字受験を断られ、やっと入学した大学では全ての学習の支援が拒否され、生活するためのアパートも貸してもらえず、何度も悔しい思いをした差別との闘いの日々でした。それでも、今、その当時を振り返ってみて、歯を食いしばってでも生き抜いてきて、やはり良かったとしみじみ実感しています。
 「バクバクの会」の皆さんの思いも、きっと当時の私の思いと一緒だったのでしょう。特に、平本歩さんやご両親の闘いの中で、初めて出会った時はほんとうに感激でした。「バクバク」の仲間の闘いは現在、「医療的ケア」を必要としながら地域の学校で学ぶ多くの実践を作り出しています。もちろん壁はまだまだ厚く高い現実が存在しています。でも、「バクバクの会」が切り開いてきた地平は、今後の「インクルーシブ教育」の実現に大きな勇気と展望を与えてくれると思います。
 さまざまなバリアを乗り越えて、楽しくかつ充実した陣営を送っている「バクバク」の皆さんに心から連帯のエールを送りたいと思います。まだまだ長い人生です。めげずに息長くがんばり続けましょう。
                    2012年6月20日

■運動・政策について ※上に掲載したものの再掲含む

 *この頁には文章を再録していません。以下でご覧いただければと。 ◇立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代・記録00――準備:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books ※r.

◆19911006 「楠敏雄さんに聞く・最終回」(インタヴュー 聞き手:八木下・山下),『SSTK通信』056:059-063
 *http://yellow-room.at.webry.info/201402/article_6.htmlより引用させていただきました。
 […]

◆20010501 「私の障害者解放運動史」,全国自立生活センター協議会編[2001:313-321]*
*全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.
 隔絶された盲学校生活から大学へ
 青い芝の会との出会い
 全障連結成をめぐって
 全障連の三つの基本的原則
 地域拠点としての作業所づくり *
 「行動綱領」議論と青い芝の会の全障連脱会 *
 ゆるやかな組識と幅広い運動へ *
 今後の障害者運動の課題 *
  *部分を引用

 […]

◆楠敏雄 2002/05/15 「大阪の障害運動をリードした 楠敏雄さん」,大阪大学での講義(全部収録)より
 http://www.yuki-enishi.com/guest/guest-020515am.html

 […]

■訃報他

◆「哀悼楠敏雄様」(ツィートまとめ)
 http://togetter.com/li/633434

◆2014/02/16 [mlst-ars-vive:014709] 訃報
 「こんにちは。
 公共公共4回生の岸田典子です。
 ★障碍者解放運動の先駆的当事者であった、楠敏雄氏が、今朝逝去なさいました。
 詳しくはまたお知らせいたします。
 取り急ぎ」

◆2014/02/16 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/434919517303500801
 「立岩真也 ?@ShinyaTateiwa・2014/02/16 訃報:楠敏雄氏 http://www.arsvi.com/w/kt11.htm 。今朝亡くなられたとのことです。岸田典子さん http://www.arsvi.com/w/kn03.htm より。」

◆2014/02/16 https://twitter.com/ymstsck/status/434949442735587328
 「茶メガネ装着?@ymstsck・楠敏雄さんがお亡くなりになったとのこと。深く哀悼の意を。1970年代からの関西障害者運動にとってなくてはならないお方だった。ご自身の大学での情報保障を求める活動を含めれば、1960年代からすでに。」

◆2014/02/16 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/435012566209658880
 「立岩真也?@ShinyaTateiwa ・楠敏雄氏頁少し増補 http://www.arsvi.com/w/kt11.htm 。そこにリンクされてあった「もらったものについて・7」http://www.arsvi.com/ts/20120009.htm 「人は生きているうちしかしゃべれない。だから聞いとかねば、と思うのが一つ。そして紙に書かれかれたもの[…]」

◆2014/02/16 https://twitter.com/tanoshiro/status/435028492996993025
 「つっちー?@tanoshiro・楠敏雄さん訃報。少年だった私は大江健三郎愛読。四国から出したい大江少年に、夕張から遠いところに行きたい自分を重ねていた。そんな私は、隔離への恐怖や嫌悪をつのらせた。養護学校義務化反対に清々しさ感じていた。札幌での予備校時代に楠さんの文章に出会った私。楠さんに感謝しています。」

◆2014/02/16 https://twitter.com/tigrashakoba/status/435067012469882881
 「小林律子?@tigrashakoba・会議から帰って、DPI日本会議DPI日本会議副議長の楠敏雄さんの訃報を知る。1月末の教研集会の帰りにお見舞いに行ったのが、お顔を見た最後になってしまった。睡眠剤で眠られていたので、お声かけても反応がなかったが、握った手は温かかった。」

◆2014/02/16 「楠 敏雄さんを悼んで 「泥臭い、汚いことを抱えた人間が集まって ほんとうの解放運動」」
 http://yellow-room.at.webry.info/201402/article_6.html

 「楠敏雄さんが2月16日逝去されたとの報が伝わって来た。日本の障害者解放運動の幕を開いた全国障害者解放運動連絡会議の生みの親の一人であるとともに、いまもDPI日本会議副議長、インクルネット事務局長、そして 障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議(障大連)議長として活躍されておられた敬愛する人物だった。
 私たち埼玉の人間も、楠さんからどんなにヒントや励ましをいただいたことか。
 ありきたりの追悼の言葉はほしくないだろう。
 楠さんとともに全障連を立ち上げた一人である八木下浩一さんと、その昔大阪でお会いし、語り合った記録の一部をここに捧げたい。以下は、「社団法人埼玉社会福祉研究会(現・埼玉障害者自立生活協会)」設立準備会機関誌「通信」NO.56(1991年10月6日発行)に掲載した「楠 敏雄さんに聞く」4 より)。[…]」
 ※↓に全文引用

◆2014/02/16 https://twitter.com/chiikideikitai/status/435110846608310272
 「地域で生きたいんや!?@chiikideikitai・楠 敏雄さんを悼んで 「泥臭い、汚いことを抱えた人間が集まって ほんとうの解放運動」 共に学び・働く―「障害」というしがらみを編み直す/ウェブリブログ http://yellow-room.at.webry.info/201402/article_6.html …」

◆2014/02/17 小林敏昭さん(りぼん社)より

既にご存知の方も含めてご連絡を差し上げます。
昨日午前11時43分、くすのき研主宰者であり、長きにわたっ
て障害者解放運動を牽引してきた楠敏雄氏が亡くなりました。
人工透析ができなくなって1か月、満身創痍にもかかわらず、
よく踏ん張ったのですが、その生きようとする強い意志もつ
いに奇蹟を呼ぶに至りませんでした。
お通夜、告別式は親族のみにて執り行われますので、参列は
ご遠慮ください。

弔電は下記へ。
八光殿 南植松
八尾市南植松4-141 tel0120-39-8510
喪主 楠敏雄様ご遺族様

今後のことについては改めてお知らせします。
                   小林 敏昭
∴--------------------------------------------------∴
      障害者問題資料センターりぼん社
             &
      そよ風のように街に出よう編集部      
     TEL:06-6323-5523 FAX:06-6323-4456      
         soyokazeあっとhi-ho.ne.jp
     http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/
∴--------------------------------------------------∴

河野 秀忠 2014/02/17 『hideの救援レポート』
 「とても辛い訃報です。すでにお知りになっている方は、重複をお許しください。
 2月16日午前11時43分、日本障害者解放運動のリーダーで、障大連議長、ゆめ風基金理事で視覚障害者の楠敏雄さんが入院先の病院で亡くなられました。享年69歳でした。壮絶な闘病生活で、よく闘われましたが、残念な結果になりました。
 お通夜、2月17日午後7時、告別式、2月18日午前10時。ご家族だけで執り行われるそうで、参列はご遠慮くださいとのことです。
 弔電の送り先、八光殿南植松・大阪府八尾市南植松4−141TEL0120−39−8510
 楠敏雄様ご遺族様
 hideとは、40年以上のお付き合いでしたので、悔しくて、辛いのが、今の正直な気持ちです。ただ、ただ、合掌するばかりです。
 今後のことについては、改めてお知らせします。[…]」

◆2014/02/17 「訃報:楠敏雄さん69歳=障大連議長」
 毎日新聞 2014年02月17日 15時00分
 http://mainichi.jp/select/news/20140217k0000e040193000c.html

 「戦後の障害者解放運動をリードしてきた「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議(障大連)」議長の楠敏雄(くすのき・としお)さんが16日、死去した。69歳。葬儀は近親者で営み、後日しのぶ会を開く予定。
 北海道出身。2歳で失明し1973年、大阪府立天王寺高校定時制の非常勤講師になった。阪神大震災で被災した障害者の自立支援などにも尽力した。他に「障害者インターナショナル(DPI)日本会議」副議長などを兼任。」

◆斉藤 亮人 2014/02/18 「楠敏雄さん亡くなる!」
 http://www.saitomakoto.com/diary/archives/2014/02/post_451.html

 「一昨日の16日午前11時43分、楠敏雄さんが亡くなった。全障連、DPI日本会議、障大連(大阪の活動)など70年代からのさまざまな障害者運動のリーダーであった人だ。私の身近な運動でいえば、共同連、障害者の政治参加ネットワーク、障害者労働研究会など、とくに政治参加、労働分野での接点が多かった。
 どんな障害を持っていても地域の学校に通って学ぶことを求める運動の先頭に立った。今でいうインクルージブ教育を求める運動である。そして障害者差別を許さないと差別事件などに対しての取り組みなども楠さんたちの運動が切り開いてきたことだった。
 会議や集会などでしか会ったり、話したりすることはなかったけれど、会議の場ではじっくりと話を聞いて、きっちりと原則論を主張する貴重な存在だった。障害者権利条約の日本での発効を直前にして他界されたのは偶然とはいえ、そのことを意識せざるを得ないタイミングである。昨年一年で様々な障害者運動の先人たちが亡くなった流れがそのまま続いているようで気が重い。これらの先人の激しく、厳しい、つらい戦いなしには今の障害者の生活はあり得ないということを私たちは改めて肝に銘じないといけない。地下鉄や駅にエレベーターが付き、ノンステップバスが当たり前になってきたことや24時間介助が実現しているということもそのこと抜きにはあり得ないのだ。
 楠さんゆっくりとそして安らかにお休みください。」

◆2014/02/18 「楠敏雄氏 障害者インターナショナル<DPI>日本会議副議長」
 東京新聞 2014年2月18日
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/obituaries/CK2014021802000115.html

 「楠 敏雄氏(くすのき・としお=障害者インターナショナル<DPI>日本会議副議長)16日、腎不全のため死去、69歳。北海道出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男勇(ゆう)氏。後日、しのぶ会を開く予定。」

◆2014/02/19 「楠敏雄さん死去 阪神大震災での障害者支援に尽力」
 朝日新聞 2014年2月19日00時14分
 http://www.asahi.com/articles/ASG2L3F22G2LPTFC002.html

 「楠敏雄さん(くすのき・としお=DPI〈障害者インターナショナル〉日本会議副議長)が16日、腎不全で死去、69歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男勇(ゆう)さん。後日、しのぶ会を開く予定。連絡先はDPI日本会議(03・5282・3730)。
 北海道出身で、自身には視覚障害がある。障害の有無によらず誰もが地域の学校で学べるよう運動し、阪神大震災での障害者の支援に尽力した。「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議」議長も兼ねていた。」

◆刑法改悪阻止関東活動者会議
「全国障害者解放運動連絡会議・相談役楠敏雄氏を追悼する」
・革命的労働者協会(解放派)『解放』1090:8
 http://www.kaihou-sekisaisya.jp/1090/1090_8kiji_base.html
・『全『障』共ニュース』2014/03/20
 http://zensyokyo.jimdo.com/%E5%85%A8-%E9%9A%9C-%E5%85%B1%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/

 2月16日の午前11時36分、長年に渡り「障害者」解放闘争を牽引し、闘いぬかれてきた楠敏雄氏が腎不全により逝去された。1944年生。享年69歳。北海道岩内町出身。
 2歳の時両眼を失明。盲学校から龍谷大学に入学。同大学院英米文学科修士課程卒。
 氏は、大学在学中から「障害者」解放闘争を開始し、それ以降、氏の人生はまさに「障害者」解放闘争とともにあった。
 氏は、1976年8月の「障害者」の「自立と解放」を掲げた全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成に尽力され、以降は、事務局長として、代表幹事として、そして相談役として、常にその中心にあった。
 結成当時の全障連は、文部省前での養護学校義務化阻止闘争を差別実力糾弾闘争として闘い、赤堀差別裁判糾弾闘争を静岡地方裁判所に対する闘いを中心に闘いぬいていたが、氏の姿は常にその最先頭にあった。また、各地における「障害児・者」の普通学校への就学闘争でもその最先頭で闘いぬかれていた。1978年11月26日、全国「精神病」者集団、全障連、各地区「赤堀さんと共に闘う会」で構成する赤堀中央闘争委員会が結成されたが、氏は執行部の一員として、赤堀氏が奪還されるその日まで活躍されていた。
 一方で、氏は、当時の全障連の闘いの方向性を理論的に確立しようとし、「全障連基本要求要綱案」を提出している。そこでは、「階級社会(支配)の構造的必然として発生する差別」を解明しようとされており、資本主義社会においては必然的に差別が生みだされ、政治的・経済的支配(階級支配)の一環として、支配階級は不断に差別を助長・利用しながら支配を貫いていくこと、従って「階級支配の廃絶」は「障害者」解放にとって、あくまでも必要不可欠な条件であることを明らかにされている。また、「反差別―優生思想・社会防衛思想との対決と反戦・反権力の闘い」の重要性を提起されていた。更に、「行政闘争とは障害者の差別されている実態を変える闘いである」「…行政とぶつかる中で…差別されていることを自覚する必要がある。それなくして要求闘争は意味がないのである。その自覚を更に政治的自覚まで高めることが、自立と解放をめざす社会変革の闘いとしては必要なのである」と氏は、指摘されていた。氏は、その姿勢を終生貫かれた。
 1980年代末から、すでに氏は人工透析を受けるなどの満身創痍の身ではあったが、卓越した指導力と強い精神力で他の「障害者」団体との共闘関係を築き上げつつ、「障害者」解放運動の再構築をめざして奮闘していたのである。
 氏からは、宇都宮病院入院患者差別・虐殺糾弾現地闘争には毎年、連帯アピールをいただいた。また、6・15安保粉砕・政府打倒全国統一行動や10・21反帝―国際連帯全国統一行動にも連帯アピールを寄せられていた。
 昨年12月22日、全国の「障害者」「精神障害者」、労働者によって全国「障害者」解放運動共闘会議が結成された際には、氏は病床から「大会の成功と全『障』共の発展を心より願っています。『障害者』解放に向けて、どうか頑張って下さい。私もあくまで共に闘います」という連帯メッセージを寄せられている。残念ながら、これが氏からの最後のメッセージとなってしまった。
 氏は、まさに死の直前まで「障害者」解放闘争に闘志を燃やされ、闘いのなかで逝った。
 深い哀悼の意を表するとともに、氏の闘いを継承しながら、「障害者」解放闘争を闘いぬくことを、ここに決意し、追悼とする。

◆2014/03 小林敏昭「鳥にし・あらねば 58」,『殺したんじゃねえもの』319
 http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/tori58.htm
 「それだけ馬齢を重ねたということだろうか。気の置けない友人は、この世よりあの世の方に多くなったような気がする。一昨年には兵庫の大賀重太郎さん、昨年には大阪の入部香代子さんと兵庫の澤田隆司さんを失くした。3人とも60代である。2013年の日本人の平均寿命は女性が86・35歳、男性が79・59歳だから、私の年のせいというよりも、みな早過ぎるのだ(もっとも入部さんと澤田さんは重度の脳性まひ者であり、巷間言われるように平均より短命なのかも知れない)。
 さてそうなると、さっさと友人の多い“あっち”へ行った方が楽しいかもと、暗い誘惑に身体がぐらつきそうになる。しかし私にも悲しんでくれる人がいる(と思い込んでいる)し、そもそも私は無神論者なのだ。身心一如、死んだら土に還るだけだと確信しているから、難事はすべてこの世で片づけねばならない。逃げ場がないぶん、ちとヤッカイである。逆に言えば、このヤッカイを心の平穏に軟着陸させるべく、人はあの世という便利グッズを考案したに違いないのだ。となれば、自分の番が回ってくるまではこのヤッカイと付き合うしかない。
 千里万博公園のホテルで入部さんを偲ぶ会が予定されていた2月23日の1週間前、今度は楠敏雄さんが69才で逝ってしまった。最後の1か月余りは人工呼吸器をはずせなくなり、それまで20年間週3回のペースで続けていた腎臓の人工透析もできなくなっていた。だから周りの者はみな覚悟をしていた。でも透析を止めたら10日か、せいぜい2週間しかもたないだろうという医師の宣告にもかかわらず、ずい分踏ん張った。それを私は、彼はもっと生きたいに違いないと勝手に解釈した。これまでも彼は心筋梗塞や脳梗塞など、命に関わる病を乗り越えてきた。ひょっとしたら今回も、という思いがあった。だから訃報に接した時、寂寥感が一気にやってきた。彼と交わしたことばの数々が、彷彿として 靄 ( もや ) の中からよみがえった。ヤッカイが入部さんとダブルで押し寄せてきたのだからたまったものではない。
 楠さんはこの業界では全国区の人だ。日本共産党系の全障研に対抗すべく全障連を結成して華々しく時代をリードし、近年はDPI日本会議の副議長や障大連の議長を務めた。頼まれれば断ることをせず、個人的な相談を受けたらいちいち真摯に対応した。市民団体や法人の役職の数は恐らく十指に余る。政治的・組織的な嗅覚も鋭く、行政とのパイプも太かった。彼が集会の壇上でマイクを握ると、その瞬間会場の空気が引き締まった。そして参加者たちは彼が発する言葉によって、今なぜ自分がここにいるのかを整理することができた。
 そんな総体が彼を「全盲の闘士・楠敏雄」にした。これから多くの者が「楠敏雄」を語り、「壇上の楠敏雄」が語り綴った言葉が収集されるだろう。それはとても大切なことだ。でも私の寂寥は別の場所にある。彼は寂しがり屋だった。ほとんど毎夜、何かしらの予定を入れていたが、それはただ忙しかったからだけではない。離婚をして一人暮らしになってからは、冗談まじりに「もう一度恋をしたいなあ」というのが口癖だった。晩年、彼はマンションの自分の部屋で5羽の小鳥を飼った。孤独な夜、視えない世界にあって、彼はどんな気持ちで小鳥たちの声に耳を傾けたのだろう。それを想像すると不覚にも涙腺がゆるむ。
 最後の8年間、私は「くすのき研」という名の研究会を彼と一緒に企画運営した。50回を重ねた研究会は、障害者問題を核としながら、共生の未来のために若者たちに何をどう伝えられるかという問題意識に支えられていた。主を失った今、「くすのき研」をその看板のまま若者たちに引き継いでほしいと願っているのだが、どうか。」

◆2014年5月13日 (火)「【賛同募集のお知らせ】楠敏雄・偲ぶ会─その人、その仕事、その思想─」

2014年2月16日に逝去された楠敏雄氏(前障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議議長、DPI日本会議副議長)を偲び、「楠敏雄・偲ぶ会─その人、その仕事、その思想─」を開催します。

○日程:10月1日(水)10時〜16時30分
○場所:大阪市天王寺区のたかつガーデン(〒543-0021 大阪府大阪市天王寺区東高津町7-11)
○内容(変更の可能性あり):
・10時〜11時半 お別れの会 実行委員会から指名させていただいた各界各層からのお別れの言葉中心
・13時半〜16時半 思い出の会 自薦他薦含めできるだけ多くの方による思い出話(一人3分限定)中心

つきましては、賛同団体及び賛同人を募集します。
□賛同団体 一口10,000円
□賛同人  一口3,000円
・賛同団体・賛同人には一口につき1冊の「追悼集」を提供します。
・集まった費用は、追悼集作成費と当日会場費に使わせていただく予定です。
・「偲ぶ会」当日の参加費は、参加者一人ずつの別途お支払いをお願いすることになります。

○申込み方法
お申込書に記載の上、誠に勝手ですが、5月15日(木)までに下記までお送りください。
 
▽偲ぶ会概要、賛同のお申込書はこちら
<連絡・問い合わせ先>障大連(障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議)
〒543-0072 大阪府大阪市天王寺区生玉前町5-33 大阪府障害者社会参加促進センター
電話 06-6779-8126、ファックス 06-6779-8109、メール t-furuta@saturn.dti.ne.jp(担当:古田)
投稿者 DPI-Japan 日時 2014年5月13日 (火) 16時07分 お知らせ | 固定リンク


◆2014/08/12(火) 午後 2:09 「楠敏雄」 塚本正治

七〇年安保闘争をたたかう
学生たちのデモ隊列の一番後ろに
彼や彼らたちの姿があった
ある者は白杖をつき
ある者は松葉づえをつき
真っ黒のヘルメットを被り
約二〇名の集団はたたかっていた

火炎ビンや投石をする学生たちが
機動隊に追われて逃げ惑う時
彼や彼らたちはその戦場に取り残された
すると機動隊がやってきて
「危ないからこんなところに来たらあかんで」と
彼や彼らたちを抱き起こした

やるせない想いを抱え
学生たちが再度結集する集会に
学生たちが戦場に残して行った
色とりどりのヘルメットを
旗竿にくくりつけ
皮肉交じりに参加した

彼が京阪電車の古川橋に下宿している頃
障害者差別とたたかう仲間たちが
そのアパートで暮らしていた
そして彼が講演会から帰ってくると
その講師料で皆が食べた
とにかく貧しかった
しかし天をも突く差別への怒りが
彼らの絆を強くした

全障連!
その障害者自身による自立と解放の組織を立ち上げ
差別からの解放運動が全国化する時
彼はその先頭に立っていた
ややもすれば身体障害者中心となるその運動に
「すべての障害者の自立と解放を据え付けるべきだ」と
タバコの煙が垂れこめる会議で主張した

八一年国際障害者年をきっかけとして
彼の主張も社会化されていった
養護学校義務化反対の主張も理解されはじめ
障害児も健常児も共に学ぶ教育が実践され始めた
全障連も共闘団体を広げ
彼の女性関係のうわさとともに
全国に広がっていった

九〇年アジア太平洋障害者の一〇年の取り組みの中で
地域に根ざした障害者団体もずいぶん増えた
彼は全国を駆け回り
地域に根ざした障害者運動の大切さを訴えるとともに
政府に対して障害者の教育権・生存権を保障することを求めた
そして自ら大阪府・市の行政委員となり
行政施策に障害者の意見を反映させるよう努力した
彼は時代をふりかえり
とてつもない勇気をもって行政に政策提起をした
行政も彼の意見を受け入れざるおえない時代を切り開いた

障大連!
その組織は国際障害者年をきっかけとして
作られた組織であり
大阪における障害者運動の集う場所となった
毎年 夏と秋に行われる対大阪府・対大阪市オールラウンド交渉で
地域で自立して生活する要求を突きつけた
地域で暮らすことにあまりに無知である役人たちに対して
彼は灰皿を投げつけることもなく 理路整然と向き合った

二一世紀となり
障害者基本法の改正が行われた時
彼は 知的障害者・精神障害者・難病者の地域で暮らす権利を強く主張した
彼は悲しみと病苦を乗り越え
いつもの食べ物の好き嫌いを繰り返しながら
障害者自立支援法という冬の時代 社会的活動を続けた
そしてDPI日本会議の副議長として
日本を代表する障害者解放運動の指導者の役割を担った
阪神淡路大震災の時 被災地の障害者支援の先頭に立った
その取り組みは「ゆめかぜ基金」へと広がり
東日本大震災の時 被災地の障害者支援を代表するものとなる活動をしている

二〇一一年
彼は二度の離婚を経て
人工透析を続けながら
東大阪市布施でひとり暮らしをしていた
「おーい、塚本 寂しいから遊びに来てくれ」という電話をもらったこともある

晩年彼はひとり暮らしが寂しいから
無理をして様々な会議や講演会に出席していた
しかし 仲間たちは
彼が疲れ果てて居眠りしていると
「楠さん、寝てないでしっかりしてください」と
彼を鞭打った

彼は仲間のためにたたかい
仲間のために死んでいった
僕たちは
彼の命を取ったのだから
心して
障害者権利条約が批准されたこの厳しい時代を生きよう

最後に一言 言わしてもらえるのならば
楠さん 
天国では あんなに荒い金使いはしないでほしい
娘さんといっしょに安らかな永遠(とき)を送ってください
あなたがファンだった広島カープはがんばってますよ
二〇一四年夏

◆鍵山いさお 2014/10/01

 障害者の自立と完全参加を求めて40数年、今年なくなった全盲の楠敏雄さん。
今日、偲ぶ会が、ありました。
 息子さんが追悼集「思い出」の中で、透析と人工呼吸器をめぐる父とのやり取りが、興味深い。


「人工呼吸器が外れないと透析はできない」と、医者が言った。
透析をするため、生きてまた仕事をするため、父は頑張った。
一時は呼吸器が外れ透析も再開した。
ただこれ以上の回復は見込めないということであった。
父という存在が僕にはとても大きなものであり、どんな状態であれ生きてほしいというのが本音。
だが最後まで父は楠敏雄であってほしいというのが本音である。
会話ができるような状態ではなかったが、しっかりと耳は聞こえていた父に、現在の状況と自分の本音をすべて話し、最後に「お父さんの気持ちを尊重したい」と告げた。
はっきりと父の口から「ありがとう」という言葉が聞こえた。
そして、楠敏雄は自らの意思で最後を決め、透析の道を断った。

 透析22年、心臓バイパス10年、脳血管閉塞3年、急性膵炎、胆嚢摘出、人工呼吸器装置をへてきた楠敏雄さんは、透析中止を決断しました。
 関西障害者解放委員会結成から、DPI(障害者インターナショナル)日本会議結成まで、大阪府市や厚生労働省交渉の先頭に立ち、障害者差別解消法の成立、今年1月20日の障害者権利条約批准を見届けて、1か月、あとを後輩に託しました。
 40数年まえ、初めて「会いたい」と電話があった時は、即日お会いしたのに。去年、「会いたい」との電話があった時、飲酒を避けるため、昼間デートにしておけばよかったのに。
Posted by 鍵山いさお at 2014年10月01日 06:20」

■言及

◆立岩真也 編 2014/12/31 『身体の現代・記録00――準備:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』Kyoto Books ※r.


REV: 20100423, 0625, 20120610, 20140216, 19, 0223, 20141215, 16, 19, 20, 23, 29, 30, 20150103, 20170213
全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇視覚障害  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO 

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