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楠敏雄さんへのインタビュー(その1)
2010/10/03 聞き手:
岸田典子
・
野崎泰伸
場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
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last update:20220207
◇2010/10/03 楠敏雄さんへのインタビュー(その1)
語り手:
楠 敏雄
聞き手:
岸田典子
・
野崎泰伸
◇
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
→◇
インタビュー等の記録
<小樽盲学校に入学するまでの生活>
岸田)2010年10月3日楠さんのインタビューです。開始時間は1時51分です。今 日は楠さんの入学なさるまでについて中心におうかがいします。
まず、お生まれは何年何月何日ですか。
楠)1944年、昭和でいうと19年11月15日。
岸田)さそり座ですね。お生まれになったのはどちらですか。
楠)北海道の岩内町です。いわないと読む小さな漁村です。有島武郎の生まれ いずる悩みの主人公の絵描きの少年が生まれて出てきた場所です。さびれた漁 村です。
岸田)ご兄弟は。
楠)5人です。僕は真ん中で、上が姉、兄、僕、妹が2人です。
岸田)ご両親のお生まれは。
楠)親父は大正2年だったと思います。お袋は大正7年です。親父はもう亡く なりましたが、ばあさん、母親は今94歳かな。
岸田)ご健在なんですね。元々ご両親はどちらから北海道に。
楠)親父は石川県能登なんです。母は岩内の出身。父親のおじいさんと一緒に 逃亡者みたいに金沢から集団疎開で北海道に移住した。疎開というか、屯田兵 みたいに集団で移住した。その頃は札幌の広島には広島から、奈良の十津川か らなどたくさんの人が本州から集団で移住する時代だったんです。
岸田)それで、家業は何をなさってたんですか。
楠)和菓子屋ですね。まんじゅうを作っていた。
岸田)それはずっと、戦争中もですか。
楠)そうです、ずっとです。
岸田)ご兄弟は5人で、今、ご健在ですか。
楠)はい、5人ともいます。
岸田)岩内は、もう1人作家の…
楠)ああ、水上勉の飢餓海峡という小説のモデルになっています。台風で火事 になって町のほとんどが焼けてしまう。僕の家も焼けましたけどね。
岸田)資料に漁村とありますが。
楠)そうです。漁師町です。
岸田)お生まれになったところの住所は覚えていますか。
楠)今とほとんど変わっていません。岩内町大和17番というところです。海の すぐ近くです。5分くらいです。
岸田)お菓子屋さんということで漁師はなさっていなかったのですか。
楠)そう、親戚は漁師だったけどね。漁師相手にお菓子を売ったりしていた。 まだ景気がよかったので大漁祝いの注文をもらったりとか。
岸田)そうか、お菓子というとチョコレートとかを想像しましたが。
楠)まんじゅうですね。
岸田)お父さんは、戦争になって兵隊には。
楠)行ったけどね、幸い内地だったから、外国には行かなかった。だから命は 助かって。俺の生まれた時に召集されたらしいけど、1年くらいで帰ってこれ た。
岸田)おじいちゃんはいたのですか。
楠)おじいちゃんも、おばあちゃんもいました。
岸田)それは、お父さんの?
楠)そうです。能登から。
岸田)家族が多かったんですね。
楠)7人。兄弟5人とおじいちゃん、おばあちゃんで9人ですね。
岸田)大家族だったんですね。和菓子は自営で、作ってたんですか。
楠)餡を作って、かきまわして煮込んで、それをまんじゅうにしたり、最中にしたりしてました。
岸田)そこで今もいらっしゃるのですか。
楠)今は兄が継いでます。規模は縮小してますけどね。
岸田)札幌にもお店を出してはるんですか。
楠)いや、出してないです。注文があれば出したりというだけです。
岸田)そしたら、家族も全員揃っていて、生活がしんどいということもなく。
楠)そうですね、みんなで家内工業というか、家中総出でお菓子作って、包んで、注文が来たら配達して。それは家中でやってましたね。
岸田)ほんとの自営でずっとなさってたんですね。楠さんがお生まれになった時は目は見えてたんですか。
楠)見えてましたね。2歳の1月くらいから、流行性結膜炎、トラコーマが流行してたんです。近所のお医者さんに診てもらってたんですが、そのお医者さんが診断を間違えたんですね。普通の炎症だと冷やすんだけど、温めろというので温めたら、目がどんどん腫れ上がって。これはどうしようもない、悪くなるばっかりだというので札幌の北海道大学の眼科に行ったら手遅れだ、医者のミスだと言われたんです。
岸田)それはまだ戦争中の、お薬もない時期ですよね。
楠)そうです。
岸田)北大に行ってもちゃんとした治療はできなかった…?
楠)でも、結膜炎というのは簡単な病気だから。初期からちゃんとした治療をしておけば大事にならなかったんじゃないかな。実際、岩内町のかなりの人が結膜炎になったけど、失明した人は数人だからね。
岸田)ほとんど、世の中を見たことがない。
楠)そう。世の中を見た記憶はほとんどない。物心ついた時には見えなかったから。
岸田)見えないというのは、「全然光が通らないから暗いんですか」ってMさんに聞いたら、「そんなもん、見たことない人に聞かれても暗いも白いもない」って笑われたんですが、初めからそういう状態ですか。
楠)僕の場合は光はちょっとは入る。今も上に電気がついてるのはわかります。
岸田)窓があるのも
楠)光覚だけは見える。
岸田)あ、光覚はある。そしたら歩くのはちょっとは楽ですね。
楠)歩けない。車のライトなんかはわかるけど。
岸田)見えてる人でいうと、霧の中にライトが2つ見えるみたいな状態。
楠)2つとは見えない。明るいということがわかるだけで、色も見えないし形も見えないからね。
岸田)色は見えないけど、光覚だけ。じゃ、手動もだめですか。北大に行ってもだめと言われて、他にどこか行ったんですか。
楠)いや、あきらめたと思う。
岸田)よく神社参りとかありますよね。
楠)ああ、そんなのは色々やったかもしれないけど、覚えてない。
岸田)鍼とか灸とか民間療法とか…
楠)その頃は、そんなのは何もやらない。
岸田)じゃ、生まれて間もなく
楠)2歳で失明という状態。
岸田)じゃ、全然世の中を全く見えない状態からスタートした。
楠)それが普通だと思っていた。目が見えないという認識もない。
岸田)ご家族は、今なら見えなければライトハウス行ったらいいとか、訓練したらいいというけど、それも。
楠)そんなことは全く知らないですね。
岸田)点字も
楠)知らないですね。
岸田)じゃあ、子ども時代、大きくなって歩くようになった時はどうしたんですか。
楠)ほとんどほったらかしだね。忙しいし、障害者に対する訓練とかそういう情報もないし。ふつうのおっちゃん、おばちゃんだから。かまってられないし、保育所もないし。おじいちゃんがいたので、時々散歩に海まで連れて行ってくれて、その時にいろんな話をしてくれたり、いろんなものに触らせてくれたりした。
岸田)初めてのはっきりした記憶は何ですか。私は幼稚園の試験なんですが。
楠)最初は近所の子どもと遊んでいて、変な目だ、お前の目は白目だとからかわれたのが最初の衝撃でしたね。白目だといっても想像つかないけど、笑われた。みんな笑って逃げる。追いかけられないで僕だけ取り残される感じ。そういうからかいがあったのが衝撃でした。
岸田)昔の人は、わりとはっきり言う。
楠)はっきりしてたね。からかった中で小っちゃい子をつかまえて泣かしたら、またそこの親からうちの親が文句言われて叱られたり。
岸田)子ども達の中にはいたんですね。見えてたら、両親を見てご飯はこうして食べるとか、戸はこう開けるとか無意識のうちに学習しますよね。見えなかったら手を持って教えないとわからないんですけど。それは何となしに。
楠)それは親がなんとなしに教えてくれたんでしょうね。我流だけど。ちゃんとした指導法じゃなくて。他の兄弟と一緒にこぼすなとか、残すなとか怒られたし。普通に生活してたと思う。ちょっと意識のある親なら障害者の指導や訓練とか気にしたかもしれないけど、それはなかった。
岸田)誰かに聞いたんですが、目が見えない人で女の子がやってきて、ままごとしてじっとしてる役を与えられたという話を聞いたことがありますが、そんなことはなかったですか。
楠)5歳の頃妹ができて、ままごとはたまに中に入れてもらってたのね。1人、隣にお豆腐やさんがあって、そこも5人兄弟でうちと年が近くて行き来していて、小さいときからずっと遊んでくれていた。僕としゃべるのが好きで山に連れて行ってくれたり、木登りさせてくれたり。その子がいちばん遊んでくれた。
岸田)昔は人の家でも出入りしてましたもんね。
楠)向こうの家で僕がメシ食ったり、向こうの子どもがうちでメシ食ったり、そういうつきあいしてましたね。
岸田)そうしたら、わりと地域としては戦争中でも食べ物に不自由もなく。
楠)北海道はその頃はあまり米はなとれないので、夜はおかゆ、昼は毎日じゃがいも。
岸田)障害を持った子供が出来たら口減らしというか、本で読んだだけですが、施設に入れようとか。
楠)そんなことはなかった。普通に育った。
岸田)1944年だから、翌年戦争に負けるんですよね。大変な時期でしたけど、楠さんの岩内の地域では。
楠)戦争に負けた危機感とかはなかった。B29の飛行機はしょっちゅう飛んできてたけどね。ソ連からも飛行機が飛んできて、隠れろって言われたくらいで、生活苦とかは。直接攻撃のターゲットにはなってなかったから。
岸田)小さくても戦争のことをよく覚えてる人はいるけど
楠)それはあまりなかった。
岸田)いわゆる、岩内は当時
楠)3万人くらい
岸田)それは当時としては大きい
楠)そうですね。町ですからね。
岸田)けっこう豊か
楠)そう。にしんが獲れた町だから、にしんで栄えた。
岸田)岩内ってどのへん
楠)日本海です。小樽に近い。
岸田)交通手段は
楠)汽車とバスです。
岸田)そしらた、障害があるからって、戦争が終わっても大変ということはなかった。
楠)はい。
岸田)それで、自分が見えない、白目と言われても意味わかりませんよね。見えないというのは小学校上がるまでに認識したんですか。
楠)そうやね。いちばんはっきり覚えてるのは4歳くらいの時かな。みんなと遊んでたら取り残されてどっか行ってしまったので、家帰ろうと思って1人で歩いていたら川に落ちた。けっこう深い川でおぼれかけて。たまたま通りかかったおじいさんが救ってくれて。びしょびしょで水もたくさん飲んでね。その時初めて親も、お前は目が見えないんだ。みんなと同じようにしてたら危ないんだと言われて、ああ、見えないんだなと実感した。4歳か5歳くらいかな。
岸田)初めて自分はみんなと違うという
楠)違うことに気づいた。それまで白目とからかわれたりしてもね、なんでかわからないし、白目の意味もわからないし、悔しかったけど遊んでくれる人もいたし、1人でいたら退屈だから集団の中にいた。だけど、おぼれた時に初めて自分は見えないから、みんなと同じように走ってどこでも行けないんだなということに気づいた。
岸田)意外と小さいときにわかったんですね。私は弱視だから見えてるから、認識が遅い。
楠)1人でうろうろしていて、自転車にはねられたこともあったしね。段々子どもの動きがさかんになって、鬼ごっことか野球とかするようになると、どうしても中には入れない。
岸田)資料では棒を持って、いじめられたのでたたこうと思ったけど空振りばかりで、一度だけバチッとやり返したと書いてありましたね。
楠)野球もたまには友達が打てってやらせてくれると、当たることもあった。
それでも、疎外されてたけど、しつこく積極的に自分から仲間に入ろうとした。
岸田)お家の人から川でおぼれたし危ないからあかんと言われてたけど
楠)言ってたけどね。忙しくてずっとは監視できないので、ちょろちょろと出て行ってしまう。
岸田)疎外はされてるんだけど、一応仲間には入ってたんですね。まったくシャットアウトではない。昔の子はそうなんですか。
楠)けっこう1人や2人、受け入れてくれた。その子が一緒に連れて行ってくれて、こいつも遊んだろうと言ってくれて。その子も仲間が増えていくと僕のこと忘れて取り残されるけど。いちばん仲のいい友達がそばについてる時は加われる。豆腐屋の息子がいればなんとか。
岸田)まったく家から出たことがないというのではない。
楠)保護されてないからむしろよかった。親に時間があって、障害者のことに熱心だったらあまり外に出してもらえなかったろうね。忙しくてほったらかしだったから、たくましくなった。怪我もしょっちゅうしてたし。
岸田)親御さんとして、川に落ちて目が見えないんだよと言って、親が見えないからかわいそうやとか言うことも多いけど、それはなかったですか。
楠)母親はけっこうそうでした。でも、忙しいから。父親がほっとけと。
岸田)おじいちゃんは。
楠)おじいちゃんも家の手伝いしてたからね。あまり退屈そうにしてると散歩に連れてってくれた。
岸田)昔のことやから、あれなんですが、バスに乗って町に出るとか汽車に乗って遠くに行くとかは
楠)それはなしやね。
岸田)その頃、楠さんにとって楽しい時間は何でした。
楠)豆腐屋の友達が山に連れてってくれて、とんぼをつかまえたとか、木登りしたとか、橋を渡ったとか。山で一緒に遊んだのがいちばん楽しかったね。
岸田)家族で隠すとか、障害を持った子供がいることを隠すということは
楠)地域で目が見えない子どもがいるということはみんな知っていたし、僕もうろうろ歩いたし、隠すということはないね。ただ、多分ね。あとの話だけど、6歳の時に盲学校から先生が家庭訪問に来た時
岸田)え、なんで盲学校から先生が
楠)その頃はね。まだ盲学校は義務化じゃないけど、実際来る生徒が少なかったから、掘り起こしをしてたの。お宅の子、見えない子がいるから来年来させてくださいって。その頃、近くには小樽盲学校しかなかった。他は函館まで行かないとなかった。だから、先生が盲人の掘り起こしに歩いてた。その時だけは親が僕を先生に会わせずに、どこか2階かどこかやらされて、そんなとこ行かすつもりはないと断っちゃった。
岸田)それで就学猶予
楠)そう。じいちゃんもそんな遠いとこに行かすのは可哀想だと言って、一年間学校に行けなかった。
岸田)小樽までは遠かったんですか。
楠)2時間半かかった。北海道では近い方ですけど。
岸田)帯広じゃないんですか。
楠)小樽。今はなくなっちゃったけど。
岸田)うちの親もそうですが、盲学校は遠くて通えない
楠)大阪なんか恵まれて府盲と市盲と2校あったけど、北海道は広い割には6校くらいしかなかった。
岸田)その後楠さんは入学されるんですけど、そのままで終わってしまう人もいたんですよね。
楠)そうですね。ずっと学校に行かさない。
岸田)盲人の場合、座敷ろうというのはない
楠)ま、座敷ろうに近い状態で、とくに全盲の女の子なんかはお母さんが面倒見ているというのはよくありました。
岸田)脳性麻痺の重度の人や知的の人はそういうことがよくあると言いますが、盲人にもあった
楠)スプーンでお母さんが食べさせたりとかね。うちはわりと普通にしてたから。ちゃんとした指導ではないけど、普通だった。過保護のようにできないからと育てられた家庭もたくさんありました。
岸田)1年は行かない状態だったのですが、家族会議とか開いたりしたのですか
楠)たぶんそうでしょう。俺は全然知らなかったけど。
岸田)でも、2時間半もかかるのは、今なら東京に行くようなもんですよね。親としたら勇気いりますよね。
楠)じいさんなんか、可哀想と言ってました。
岸田)ちょっとここでストップ。お休み。
<休憩>
岸田)野崎さん、何かご質問とか。
野崎)脱線しますが、岸田さんがインタビューされるというので久しぶりに著書を読み返してみたのですが、ちょうど僕の父親と同い年なんです。誕生日も近い。楠さんと初めてであったのは神戸大学に入学して1年目に人権の授業で障害者問題の講義を聴いた1992年なので、今から18年前です。障害者解放とは何かを書かれたのは、ちょうど僕の今の年と一緒で巡り合わせだなと思います。今お話しを聞いて、楠さんがお生まれになった1944年は、戦争中だったんですが、今お聞きしていて北海道という地域性が大きかったのかなと思いました。著書のなかで、おじいさんが、サメの口に手を入れさせてくれた というのは衝撃的でした。
楠)エンジンさわらせてくれたりね。散歩の行き帰りで、じいさんがいろんな話をしてくれて、今、カモメが空を飛んでるとか、いろんな情報を伝えてくれる。それで、いろんなことを知りました。小学校入るまでに、九九も全部おじいさんが、いずれ役に立つからと教えてくれた。意味はわからなかったけど、「ににんがし」と覚えていた。散歩で歩きながら覚えさせられた。
岸田)例の横塚浩一さんも、おじいさんがすごく歩行訓練といってロープを持ちながら歩く練習をしたらしいですが、おじいさんがその頃活躍してるんですね。
楠)暇だったから。一戦を退いて。子どもをなんとかしたらないかんとかわいがってくれていた。それから、よく覚えてるのはね。ちっちゃいころ、4歳くらいかな。お袋とばあさんが、嫁姑の関係でしょっちゅうけんかする。姑の嫁いびりというか。母親がまた反発して泣かされたり。その時に僕の話題が出て、お前がしっかりしないから、こんな目が見えない子が生まれたんだとか、ケンカの材料なんだ。それが、僕の母親が近所で僕を連れて、こんなこと言われたと愚痴って泣いてる。僕と一緒に海へ飛び込もうかとかいうのを聞いてて、自分の存在は望まれてないのかなと感じたことは何度かあります。愚痴ってるのはだいたい、俺のことが中心でこんなこと言われたと。
岸田)女性が子どもを産むわけで、女性が悪いからと
楠)お前の血が悪いとか、心がけが悪いからこんな子どもが生まれたと結びついて、そういう材料にされていた、そんなことはよくあったね。
岸田)今でもそんなんはあるんでしょうかね。
楠)あるだろうね。とくに地方に行くと。
岸田)そんな記憶はないな。どっちが悪いとかどうやこうやとか。私がぼうっとしてたからわかれへんのかな。
楠)家族の話題では、医者のミスとかはよく言ってたけどね。
岸田)いい意味でも悪い意味でも、他の兄弟より存在感があったんですよね。全く無視ではない
楠)それはね。気にはかけてくれてた。おじいさんの記憶で、みんな学校行くと一人でしょ。畑にリアカーに乗せて連れて行ってくれて、トマトやらきゅうりやら育てたりとったりしてる間遊ばせてくれたり、食べたりしてた。そこでもおじいさんが大きかった。唯一相手してくれた。押し入れの壁にボールをぶつけて跳ね返ってきたのをつかまえて。野球はずっと好きだったので、小っちゃいときから。アナウンサーを真似しながら、ボールぶつけてアウトとかヒットとか一人遊びしてた記憶もある。それしか遊ぶことがないから。
岸田)兄弟とは遊ばないんですか。
楠)上の二人は学校行ってたからね。下の二人は5つと7つ離れてたから、あんまり一緒に遊ぶことはなかった。
岸田)上の人が行ってはったら、自分も学校行きたいと思われたでしょ
楠)そうやね。最初の1年は、友達も学校行ってるけど、自分には学校はないんだと思ってた。
岸田)目が見えない子は学校はないと
<小樽盲学校小学部へ入学 寄宿舎における生活>
楠)ある時期、たぶん4月1日だと思うけど、4時ぐらいに起こされて、北海道なので寒かった。何しにいくのか説明もなく、初めて汽車に乗った。3時間近く乗って、バスに乗って、行ったのが小樽の学校だった。で、入学式だったのかな。よくわからないうちに、ここがお前の学校だと言われて、学校に来たんだと思った。何人か視覚障害の子がいて、先生がいて。何も説明を聞いてなかったので、何が何だかわからないままに学校行って、気がついたら親は帰ってしまって、そこから寮生活、寄宿生活。
岸田)汽車もバスも乗ったことないですよね。その頃はシュッシュッポッポの汽車ですよね。怖くなかったですか。ボーっとかいう汽車ですよね。
楠)楽しかった。退屈だから。
岸田)あー。
楠)どこか、いいとこに連れてってもらえると
岸田)どこか連れていかれて、これは何だ、みたいな
楠)でも、おもしろかった、むしろ。親も一緒だったから。
岸田)旅行気分
楠)そうそう。
岸田)盲学校というのは全然
楠)知らなかった
岸田)私ら、盲学校いうたら、牛のいる学校かと思ってた、ほんまに。特別な学校という感じはしたけど、それもないんですよね。
楠)どこか連れてってくれると思って気づいたら親はいなかった。そこから、寄宿生活だから。それが寂しくて。8時になったら寝なさい。訳のわからない場所で寝かされる。
岸田)そうそう。今日は学校の話はするつもりじゃなかったけど、寄宿舎で1年生の入ってきた子がよくないてる。やっぱり、泣きました?
楠)僕は最初の1年は泣かなかった。友達が泣いてる、同じクラスの子がずっと泣き通しだったからね、それ見てたら辛かった。
岸田)旅行気分で汽車に乗って、なんだか知らないけど入学式に出て、知らないうちに寄宿舎に入って、急に両親もおじいちゃんもいなくなる。なんともなかったですか。
楠)いや、ショックだった。どこに来たのかなと思って。
岸田)いきなり朝6時半ごろにたたき起こされるんですよね。
楠)そうそう。その話はまた今度するけどね。とくにご飯が、メシがまずくて。
岸田)そうそう。何年たっても全国共通の話題。
楠)その頃は外米といって、外国産の米と麦と交じって、白米は3割くらい。おかずは1品しかないしね。
岸田)一汁一菜。ごはん食べるとき、うるさく言われませんでした?
楠)もちろん、うるさく言われるよ。
岸田)行儀が悪いというより、盲学校行くと言われて牛でもいるんかなと思ってたら、寮母さんがうるさくて。まずいご飯を食べてる上に、まずい話で。あんたらは将来あんまになるねんから、丼を持てへんかったらあかんのやって。私は小っちゃい茶碗で食べてたから丼を持つのが大変で。そういう説教を聞きながら食べてたから大変で。そんなことはなかったですか。
楠)しょっちゅうあったよ。僕なんか好き嫌い多かったから、全部残さずに食べなさいと、全部食べ終わるまでは食堂を出たらあかんと言われて。
岸田)お茶のおかわりはだめだったんですよね。
楠)ご飯のおかわりはなかった。
岸田)ふりかけとかは
楠)なかったから、僕はしょうゆかけて食べてた。
岸田)え、ふりかけなし? でも、小っちゃい子にはテーブルは大きくなかったですか。6年生も中学生も一緒だから。
楠)冷めたご飯ね。冷めたおかず。それがまずい。しかも量が少ない。8時くらいになるとお腹すいてしゃあない。家ならおやつくらい食べられるけど、それもない。
岸田)そう。おやつタイムあるけど、少ない。今みたいにスナック菓子とかないし。
楠)3年生くらいになってやっと、3時のおやつにかりんとう3コとか、ビスケットとか出て、それが唯一の楽しみ。
岸田)3時のおやつってあったんですか?
楠)あった。学校から帰ったら。
岸田)3時、おやつはなかったな。でも、早く寝かされるんですね。私は京都やったんですけど、暖房が…
楠)北海道はもっと寒い。
岸田)急に自由がなくなるわけですよね。今まで家で自由にご飯も食べれた。それは、ええと思いはりました?
楠)それはいちばん辛いし悲しかった。そこで初めて、自分は特別なところに来る特別な人間なんだと、現実として知らされるんだ。それまでは、細かいことはあったけど、自分は普通なんだと思ってたのが、学校に1年行けなかった、学校に来たけど、特別な生活が始まったというので知ることになった。それは、お腹すくとか、兄弟に会えないとか、理屈では割り切れない話で辛かった。
岸田)電話もないしね。メールもないし、何にもない。全国共通やけど、寄宿舎というのは貧乏なんですよね。予算がないから。
楠)就学奨励費は必要最小限しかもらえない。その頃の話になるけど、僕が盲学校入ったのはちょうど昭和27年でね、まだアメリカの進駐軍がたくさんいたのね。米軍基地みたいなのが北海道にもいろんなところにあったからね。その人たちが要するに慰問物資というのを送ってくる。その送られてくるのが、破れたズボンとか、ボロボロのシャツとか、段ボールにどさっとつめこんで送ってくる。寮母さんがあんたら、こんなものもらってるんだから感謝しないといかんと言いながら、寮母同士ではあんな汚いもの、ようよこすなと言ってるのが聞こえてくる。あれはみじめだったな。そんなもの恵んでもらう存在なの かって。
岸田)それは、絶対その服を着なくてはいけないんですか
楠)着なくてもいいんだけどね、圧倒的に種類が少ないから。使えるものは使え。もらえるものはもらうという感じだった。
岸田)じゃ、はっきり言って古着より、捨てるようなものだった。
楠)そうそう。
岸田)アメリカ人は慰問には来なかったんですか。
楠)直接は来なかった。荷物だけ送ってきた。
岸田)私は楠さんの10年後ぐらいですけど、京都の高島屋の子供服の売れ残りでした。靴とか、赤いワンピースとか、けっこうかわいいのありましたよ。
楠)10年違うとだいぶ違うわ。
岸田)たしかに、私らが社会の片隅で、もらえるものはそれでガマンしなさいというのは同じ思想というか、考え方というか、土地は違うし、年代も違うけど一緒。お家にいる頃はそんなこともなかったのに、月光に入った途端そんな扱いで、子どもとしてはショックでした。
楠)現実問題。
岸田)小学校1年くらいから、盲学校は布団たたむんですよね。
楠)もちろん、もちろん。
岸田)朝、ラジオ体操させられる。たたき起こされて。
楠)もちろん。僕らが辛かったのは、小学校3,4年になると冬になると石炭運びを当番制でやる。寮から石炭小屋まで2,3分あるんだけど、雪の道を歩いて石炭小屋に行って、バケツに石炭を入れて、ふたをして、部屋まで運ぶわけよ。
岸田)全盲の子も
楠)そう。で、こぼしたら怒られるしね。義務なんだ。雪の中で運んで大変だった。5年6年になると、当番でストーブに火をつける。みんなが6時半くらいのところ、5時ぐらいに起きて。
岸田)それは、寮母さんにたたき起こされて?
楠)そうそう。火をつける練習。新聞紙に火をつけて、それを薪に移して、で、石炭に移す。そこまでストーブは燃えないわけ。マッチをつけても消えてしまうし、手はかじかむし。ストーブつけ当番は拷問に近かったな。
岸田)寮の。石炭だったらストーブあったかくなるけど、それまでが…。
楠)そう、各部屋で。なかなか火がつかない。
岸田)寮は何人くらいの部屋。
楠)6人かな。1部屋。
岸田)寮母さんは何人に一人?
楠)二部屋に一人ぐらいかな。
岸田)やっぱりね、そんなもん。下級生と上級生は?
楠)一緒。男女を分けるから。人数が少ないから、下級生も上級生も一緒。男子は二部屋あったけど、高学年と中途失明の二十歳過ぎのオッさんも入っていた。
岸田)そんなおっきな人も?
楠)そう。だって学校入ってないから。それまで学校行ってないからね、途中から入学してくるのがいる。
岸田)そしたら、二十歳くらいの人が小学校から行くわけですね。
楠)中学から来たりね。
岸田)同級生でも年が離れてるんですね。オトナだから物知りですよね。
楠)そう、悪いこともね。
岸田)笑。悪いことも教えるんですね、昔から盲人の口達者って言いますから。ラジオとか聞いて変な知識ありますから。それと小学生の小さい低学年の子が一緒というのは…。今では考えられないですね。
楠)そうだな。でも、施設でも部屋が多かったら別けど、入所施設なんかでも、施設から学校通ってる人もいれば、中途で障害になって行くとこがないから施設に入る人もいる。20歳過ぎても児童施設に入る人もけっこういる。
岸田)いいオトナですよね。
楠)S氏でもそうですよね。30年も入ってる人もいる。
岸田)そうしたら、寮に入りながら学校、土日は帰らないんですか。
楠)土日も帰らない。
岸田)ああ、遠すぎて帰れない。
楠)帰るのは、夏休みと冬休み。春休みだけ。それ以外は家に帰らない。
岸田)じゃ、家の人と遠ざかる。
楠)そう、全然。近所の友達とも遠ざかる。
岸田)私は近いから時々帰ったし、母親が葉書を書けというので葉書も書いてました。そうしたら、まったく閉ざされた世界ですね。
楠)あとは、年に2回春と秋に遠足があるでしょ。
岸田)え? 遠足は2回だけ? クリスマスは?
楠)クリスマスなんかないです。学校に慰問に誰かが来て、哀れな障害児を慰問してくれるわけ、ゆで卵持ってきてくれたのは覚えてる。
岸田)私の時は、同志社の宗教部や家庭裁判所の速記官がボランティアで本を読みに来てくれたんです。それが楽しみでした。京都はわりと…
楠)田舎はそういうのがなかったからね。
岸田)ほんとに閉ざされた、
楠)しかも、山の中腹だから。町に出ようと思うとバスに乗らなきゃいけないので、危ないからというので1人で行かせてもらえない。
岸田)ま、小学校は出してもらえない…。みんなで買い物イベントなんかも
楠)そんなのもない。唯一夏の祭り、小樽祭りの時に寮母さんが生徒を連れて50円もらってお小遣い持って行くくらい。
岸田)ものすごいせまーい世界のなか
楠)学校と寮の往復だからね。学校と隣り合った寮だけで暮らしてるわけだから。
岸田)でも、国からの就学奨励金はなかったんですか
楠)いや、あったよもちろん。それで服買ったり、下着買ったりはした。勉強道具とかね。額は少なかったけど。
岸田)お話を聞いてると物語みたい。共通するのは寮のまずいご飯を食べてきたこと(笑)。寮母が権力を持ってたこと(笑)。いろいろあったんでしょうけど。
楠)寮母の人権侵害。生活指導という名のもとに何でもありだった。
岸田)あれですか? 低学年でも自習の時間はあったんですか?
楠)あった。
岸田)何にもしてへんけど…。ラジオは聞いてたんですか。
楠)ラジオは聞いてたね。僕らの時代だと笛吹童子とか。そんなのが唯一の楽しみだな。7時から8時半が自習時間で、9時には消灯。
岸田)それは同じ。でもなんか、すごく子どもにしては寂しい。
楠)とくに晩ご飯終わってラジオ聞いて自習時間になると、寮母がいて見回りに来るから。
岸田)結局、楠さんが生まれられたのは時代背景を考えたら、日本が戦争が加熱になった時に
楠)敗北に近づいて来た頃に
岸田)それで、学校に入った時は盲学校は義務制になってたんですか
楠)今のように就学免除、猶予があったから、どうしても行けない場合は行政が猶予してあげる、免除してあげると。障害があるからということで、法律では、障害時と貧困家庭と、浮浪児、要するに親がいない家庭は学校に行かなくてよい、特別措置で就学猶予または免除するという規定があった。それで、20歳くらいまで学校行ってないこともあった。
岸田)楠さんがなんで就学免除になったのか不思議で不思議で。
楠)あの頃は、そんなのが多かった。
岸田)18や19で小学校に行く。逆に言えば日本の養護学校の夜明けというか、そういう時期に学齢に来てはったんですね。それからずいぶん時代も変わりますが、寮に入った頃は戦前の面影があった。そういえば私の頃は寮にお琴の先生が来てクラブとかありましたけど、そんなんはなかったですか。尺八とか。
楠)ない。全然ない。
岸田)でも、T氏は、盲学校の寮で琴を習ったと言ってましたが。
楠)大阪でしょ。
岸田)岩手じゃなかったですか。
楠)北海道生まれだ。
岸田)そういうのも、まったくなく。今日は楠さんのお生まれになった時、知らない間に小学校の入学式というところまでなんですが。
楠)小さい頃、小学校行くまでは普通の子どもとして生きて、遊んで、地域でもトラブルはあったけども排除されなかった。
岸田)川におぼれかけたことで、目が見えないことをご自分でも認識した。嫁姑で、目が見えない子どものことで…
楠)子供心にちょっとね。
岸田)皆さん、ここまでで、楠先生に質問とかありますか。
楠)細かいことはまた思い出しておくけど、ひとつ嫌な思い出は、就学猶予で、みんな学校行って退屈でしょ。天気の良い日は、1人で外に出てハーモニカ吹いてた。好きだったから。そしらた母親が家の中に入りなさいと。なんでと聞いたら、みんなにじろじろ見られてる。恥ずかしいからと言われて悔しかったね。なんで外に出たらあかんのか。見られたらあかんのか。こっちは天気もいいし、退屈だし遊んでるのにって。それも、じろじろ見られる存在なんだと知った時。とくにマイナス的に自分の障害を知った。とくに盲学校行ってからは閉鎖された空間の中で生活を始めることになって。盲学校の中のことはま た詳しく。
岸田)そこは次回、点字のこととか。わりと人通りの多いところにお店があったんですか。
楠)そうね、十字街というか十字路にあったからね。
岸田)今の商店街みたいな。豆腐屋があって、隣に魚屋があって。自営でお商売してはったから、農家だと隣までが広いけど、その分目が見えない子がいると目立ちますよね。杖なんか持って亡くても。
楠)杖なんかなかったけどね。
岸田)でもまあ、けっこう外出てはったんですね。
楠)ちょろちょろ。おそらくそういう生活してなかったら、北海道から京都や大阪に出てくる気にならなかった。
岸田)元々、小っちゃい頃から出てた
楠)あまり怖がることはなかった。
岸田)車や怖いものは走ってなかった?
楠)車は走ってたけど、今ほど多くない。
岸田)国道に面してたとか?
楠)国道ではないけど広い道路に面してた。一応歩道もあったしね。だからまあ、けっこう車道でぶつかったりはあったけど、大けがにはならなかった。
岸田)それで乗り物もそんなに怖くない。音を聞いてるから。楠さんの本を読んでたら、もっと田舎かと。人口が3千人とか…
楠)いや、一応4万人くらいの町。一時は市になろうかというくらいだったけど、ニシン漁がダメになって廃れていった。
岸田)先ほどの、そんなに外に出てなかったら、こんなとこまで来ないという…
楠)そう。小さいときの経験がね、乏しすぎることの危険性。障害者は保護しすぎたら外に出なくなるしね。それからさっき言った、おじいさんの情報提供で好奇心を持った。障害者って好奇心があるかないかがものすごい大きい。好奇心持たなくなったら意欲とか、自分で知ろうとか、人に聞くとかなくなって、受け身の存在になる。最低必要なのは好奇心を植え付けることと保護しないこと、両方。この2つは、保護してかわいがって、好奇心を奪ってしまう。好奇心と経験を与えること、保護しないことは障害を持つ子供に対しては大きな要素になるね。
岸田)なるほど。大きくなってこっちに来られる動機はあったんでしょうけど、そういう基本がそこにあった。それは大きいですよね。好奇心というか、好奇心旺盛でないと怖いこともできないし。
楠)しょっちゅう危険はあった。点字ブロックも何もないし。
岸田)社会とのつながりというか、盲学校の宿舎でなんとも辛い生活を…。印象深かったのはアメリカ軍の破れたような服を持って来られたというのも子ども心にわかりますよね。
楠)嫌な、みじめな思い。触ってみたら汚い、よれよれのズボンでね。穴あいてるし、つぎあてしてるのがわかる。こんなズボンはかなあかんのかと。障害者に対するものがあったんやね。
※続きのインタビュー:
楠敏雄さんへのインタビュー(その2)
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UP:20210913 REV:0915, 20220207
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