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楠敏雄さんへのインタビュー(その3)

2010/11/21 聞き手:岸田典子 場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

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last update:20220207


◇2010/11/21 楠敏雄さんへのインタビュー(その3)
語り手:楠 敏雄
聞き手:岸田典子生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録



小樽盲学校中学部での生活(続き)

岸田)今日は11月21日です。今日は中学の英語との出会いと、宿直室の先生の話と、札幌に行って今までとどう違ったかなどを聞きたいと思います。楠さんの人生の中で、英語との出会いは大きい。英語の先生になろうと思って、当時は考えられなかったことを色々されるんですが、語学がおもしろかったのか、授業をしている先生がおもしろいから英語が好きになったんですか。
楠)両方あったね。英語の語感五感というか、発音の流れとか、そういうのがひじょうに新鮮に思えて、自分もスムーズな英語をしゃべれるようになったらいいなという英語そのものに対する魅力、その先生がジョークを交えながら授業をやってくれたので、打ち解けられた。
岸田)ジョークというのは、昔のジョーク…小話とか入れてくれたんですか。
楠)笑いながら話をしてくれるキャラクター。小学部にも宿直室で自分の話をしてくれた新人の先生の刺激が大きかったんだけど、中学の英語の先生もおもしろい人だったね。生徒に魅力を与えるような教師になりたいというのと、英語の言葉の流れが好きだったので、英語の先生になりたいという希望を持つようになったね。
岸田)男の先生?
楠)女。
岸田)楠さんの時代の時はイギリス英語ですよね。
楠)そうね、だいたい文法、グラマー中心。
岸田)そしたら、点字の教科書はあったんですか。
楠)一応ありましたね。
岸田)で、点字の教科書を使いながらの授業。その頃盲学校では活字、墨字の子もいたんですか。
楠)いや、みんな点字でした。
岸田)点字の英語って、覚えるのが大変なことはなかったんですか。
楠)そうやね、略字なんかもあるから。
岸田)略字というのは、ちなみに…
楠)点字は綴りが長いから分厚くなる。たとえばBと書いたらバット(バッド?)、Cはキャンとか、Dはドゥーの略とか全部そういう略字がある。略字、縮字というのを作って、そうしないとかさばるから。couldなんかはcdでcouldと読む。一級点字というんですけど、点字にも一級二級三級とあって、三級というのはそのまま音表文字で普通に打つ点字、二級は少しだけ略す点字。一級になるとreceiveなんてのはrcvで表す。そういう風に略字を使わないと、点字の教科書はものすごく量が増える。英語なんかとくに。よく言うけど、辞書も2000円くらいの三省堂のコンサイスは点字にすると100冊になる。Aだけで5、6冊。Sだけで11冊ありますからね。辞書1つひくにしても、本箱いっぱいになってします。それでやっとポケットにはいるような小さな辞書ひとつぶん。英語の授業なんて大変なんです。
岸田)その先生が点字の手ほどきも教えてくれて、英語も教えてくれて、かつジョークも言ってくれた。すごいですよね。
楠)でも、点字の略字なんかは教科書のうしろに載ってるから。
岸田)英語はとりあえず世界共通語で、日本語以外にこういう言葉があるというのは興味深かったですか。
楠)もちろん、他の国に行けるなんて期待はとうてい持てなかった。社会を知らないから。知識としてはイギリスとか言葉は知っていても、それがどこにあるのか、どうしたら行けるのかなんてことは全然。
岸田)そうしたら、NHKのラジオ講座なんか聴いてましたか。
楠)聴いてた。
岸田)じゃ、得意科目は英語ですか。
楠)僕は時代劇が好きだったから、歴史、日本史が好きやったね。
岸田)当時は学校に点字の辞書なんかあったんですか。
楠)あった。当時は18冊、小さい辞書で出てる単語も少なかった。
岸田)それだけ? 楠さんが大学入りはった時の大きな辞書はなかったんですか。
楠)あれは中学校にはなかった。自分で買った。
岸田)英語の時間は楽しみでした?
楠)楽しみやったね。
岸田)英語の先生は新任やったんですか。
楠)いや、けっこうベテランの人。キャラがおもしろい人だった。
岸田)英語の先生になろうとは、その時は思ってはれへんかったんですか?
楠)なりたいと、漠然とした。
岸田)具体性はないけど、なりたいな、みたいな。当時は盲学校ではあんま、マッサージの先生になることができるのは中学生でも知ってたんですか。
楠)盲学校に一人全盲の先生がいて、小学校で教えてた。その先生がいたので、東京の教育大学いったらマッサージ教えることはできるよとそのくらいの知識はあったけど。
岸田)まさか英語の先生ができるとは、その頃は思ってなかった。
楠)単なる願望ぐらいしかなかった。
岸田)夢物語みたいな。

札幌盲学校高等部への進学

札幌盲学校高等部への進学 楠)で、この前も言ったように中3になって、いよいよ高校どうするという話になった時に、担任の先生から、君らは盲学校であんま、はり灸を勉強するしかないと。その道しかないと言われてびっくりして。他に何もなれないんですか、今のところ仕事はないというので札幌盲学校のあんま針灸を教える高等部の理療科を受験するしか進路はないと。
岸田)でも、英語の出会いはけっこう大きかった。
楠)高等部行っても英語は好きだったから。
岸田)視覚障害者は英語が得意な方多いですよね。
楠)そう、わりと語学は好きでやる人が多い。勉強もしやすいしね。当時もカセットレコーダー、テープレコーダーでリスニングしたりして。
岸田)英語の出会いと、宿直室の先生、小学校と中学校は同じやからね。宿直室の先生のところに遊びに行ってたんですか。
楠)その先生は小学部担当だったから。学校の中では会うけども。中学では習わなかった。
岸田)前のテープを聴くと宿直室の先生が、安保闘争、60年安保の話をしてくれたとか、ラジオを聴いて社会の時事問題に興味を持ったという話をしてはったんですけど、それは中学の時くらいからですか。
楠)中学の時代くらいから、勤評闘争とかね。勤務評定といってね、教師の評価をつけてランクつける制度を導入されることで組合が反対して。その時僕らにも、先生たちは運動やってるんやということをちらっと話してましたね。
岸田)それはラジオを聴いて。計算してみたら、安保闘争は楠さんが中学3年の時ですが、それもラジオで知ったんですか。社会問題に興味を持つようになったのも、宿直室の先生の影響は大きいんですか。
楠)そうでもない。ラジオはよく聴いたからね。しかも当時民放はあまりなかったから。北海道HBCというのがあったくらいで。だいたいNHK。そういう解説問題なんかいろいろやるから。
岸田)60年安保解説を。
楠)要するに、日本とアメリカの安全保障条約が、10年たったら安保改正といって見直す、それが60年だった。それまではサンフランシスコ条約といって、日本が戦争に負けて、アメリカと対等になりましょうという条約が結ばれて、その後安保条約が結ばれた。それに反対する運動が全国各地で行われて、国会に押し寄せた。日本で最初で最後の10万人くらいの行動があって。それがしょっちゅうラジオで報道されてたからね。漠然と関心を持ってた。
岸田)小樽の学校では、先生がそれをどうのこうのはなかったんですよね。
楠)行動はしてただろうし、時々授業早く終わって行動に行ったり。あの頃は組合運動が強かったからそういうのが許されてたからね。小中学生だから、先生からはっきりは政治の話を導入するということはなかったけど、ちらっと、今こんなことでもめてるとか、戦争になったら大変だとか、そんな話は聞いてた。
岸田)時事問題というか、社会の問題に関心を持つようになったのも、中学ですか。
楠)そうやね。
岸田)障害者運動の素地というか、社会との関係というのがわからないのではなく、中学でラジオを通して問題に関心を持つようになった。
楠)67年に三池闘争というのがあってね。これは三井三池炭鉱で労働者が大量に解雇されて、安全がおろそかになって落盤事故が起きて、何十人も生き埋めになることがしょっちゅうしゅっちゅうあって。その時家族を失った人の声を聞いてて。それから、広島の原爆で死んでいく人のことが報道されるでしょ。そういうことが僕の社会問題に対する意識。、なんで原爆を落とすのか、炭鉱事故でこんなたくさんの人が死ななあかんのか、そういう素朴な疑問はあった。
岸田)かなり具体的におかしいなと、高校生なりに考えていかはった。
楠)中学くらいから、聴く度に泣き叫ぶ人たちの言葉に心動かされることはしょっちゅうあった。中学時代から関心はあった。
岸田)今はニュースもショーみたいになってるからわかりにくくて、社会との関係が希薄になってるけど。楠さんが札幌の盲学校から大阪行って京都に出て大学入って、というのに、一つのきっかけになったんですね。
楠)問題意識としてはね。
岸田)それで、中学が終わったら、盲学校の場合はふつう同じ学校に行くんですが、北海道は違うんですよね。
楠)そうそう、札幌に高等部が1つしかなくて、北海道中から札幌を受験する。
岸田)北海道には盲学校はいくつあったんですか。
楠)札幌、旭川、函館、稚内、帯広、6つか7つ。高等部は札幌ひとつ。
岸田)楠さんが高等部に入ったのは1961年になるんですよね。
楠)いや、昭和で言うと36年。あ、61年か。
岸田)当時の盲学校のあり方というか、ふつうの勉強してなかったんですよね。
楠)盲学校の高等部というのは、ほとんどの学校は理療科、あんま針灸を教える学校しかなかった。その中で中途失明の人が入るので、別科といって、2年間。僕らは本科。あとは、大阪と東京と京都の3校だけ普通科と音楽科があった。3校だけ。だから普通科か音楽科に行く人は東京、大阪、京都のどこかへ行くしかなくて、あとは理療科しか選択の余地がない。
岸田)ほとんどの人が理療科に行ってた。普通科の人は出た後は何してたんですか。
楠)その頃は大学受験なんか例がなかったし、人数が少なかった。ほんの数人しかいなかったから。
岸田)ほとんど理療科だった。音楽科は洋楽と邦楽、洋楽はピアノとか声楽で邦楽はお琴とか三味線。でもこれは特別な学科で誰もが行くとこではない。
楠さんも自動的に理療科に行かなくてはならない。
楠)しかも、全道から来るからね、定員をオーバーする時もありますよ。成績が悪いと3年コースの本科を落とされて、別科というところへまわされることもある。
岸田)本科は5年?
楠)3年。普通の高校と同じです。別科が2年。
岸田)本科の3年の間にあんま針灸マッサージ全部とるんですか?
楠)いや、あんま、マッサージだけ。針灸をとろうと思うとそれからまた2年専攻科に行く。
岸田)中学は英語が楽しいという話でしたが、文部省の規定通りにやってたんですね。高等部に行くと英語の時間が少なくなる?
楠)1週二時間しかない。商業科がそんな感じ。英語や数学は必要最小限の単位しかないんです。

札幌盲学校高等部の生活

岸田)札幌の学校に行って環境はがらっと変わりますよね。クラスも多くなったんですか。
楠)2クラス。1クラス15人で。
岸田)ずいぶん環境が変わって、高等部に行くときにショックで、三療しか道がないということで、でも札幌という大都会に出て、期待みたいなものはあったんですか。
楠)期待より不安が多かった。1クラス15人もいたら、今まで4人しかいなかったから。しかもほとんど知らん人ばっかりだから、不安が大きかった。でも、他の盲学校から来てて新鮮な出会いもあった。
岸田)人が多いから行事もいろいろあるし、クラブとかも。クラブは何してたんですか。
楠)あまりクラブに入るゆとりもなかったけど、2年から誘われて相撲部入った。先輩に一緒にやろうと言われて、クラスから4人くらい相撲部入ったね。
岸田)小樽の時は絶対数が少ないからクラブとかなかった?
楠)なかったね、全員で体育を。
岸田)どんなことが新鮮に思ったんですか。
楠)いろんな人がいること。とくに高3に、昔から札幌で出てきた人がいて、その人が羽振りをきかせてて、ある日呼び出されて、お前少し生意気だ。偉そうなこと言ってる、おとなしくしないと殴るぞって言われて。何回かそんなことがあったな。負けず嫌いだったからね、嫌なことは嫌だというので、1年生のくせによそから来て生意気だと恫喝されたことが何回かあった。札幌って怖いとこだなと思って。
岸田)生意気と言われるような発言をよくしてたんですか。楠さんは札幌では先輩に目をつけられるくらい活躍してたんですか。
楠)全道のそろばん大会と点字競技会というのがあって、そろばんが早い、点字が早いという生徒が全道から札幌に集まる。その時くらいに、楠はよく代表で出てきて1位とか2位とかとるというので名前を知られてるくらいで、活躍はしてなかったと思うけど、目をつけられるというのはしゃべる方だったんだろうな。
岸田)クラス委員長とか。
楠)そんなのもあったな。
岸田)生徒会とか。1年生でも役員やったりしましたか。
楠)代議員はやったけど、役員は2年から。
岸田)札幌では生徒会長とかしなかったんですか。
楠)ほんとはね、3年の時に生徒会長なれって言われたんだけど、札幌でこのままいたくないという思いが強くなって東京か大阪に転校しようと思って揺れ動いてたから、立候補せえと言われたけど断った。
岸田)そうしたら楠さんは、札幌で専攻科には行ってないんですね。
楠)行ってない。専攻科からは大阪の我孫子にある府立盲学校に行った。
岸田)せっかく小樽で生活施設のような小閉鎖的な学校中学校にいて、札幌でけっこう人もいるし、遠足の他にも文化祭もあるような楽しい…
楠)札幌の盲学校は楽しかったよ。土日ぐらいは外出できたし。前もって許可もらえば。夜中にラーメン食いに非常口を抜け出して全盲だけでラーメン食べに行ったりね。けっこう楽しかったね。
岸田)彼女もいたんですか。
楠)彼女はいなかった。よう作らんかった。奥手だったから。とにかくね、夜中に卓球やる。寮で電気消して。全盲だから電気いらない。カラカラと音が出る虫ピンみたいなのが入ってる。その球を打ち合ってころがして打つ卓球。夜は自習時間があるからできない。8時半に終わったら点呼で消灯だから、10時、11時すんでからこそこそ集まりだして、4,5人で卓球始める。寮母が見回りにくるでしょ。卓球台の下に隠れて、寮母が、電気消してるから、「あれ、誰かいるんですか? 何か音してたのに…っ」て行ってしまったらまた始める。(笑)。追い払えたなってラーメン食いにいく。そのうち非常口を抜けて歩いて一時間くらい電車の線路の上を歩く。全盲ばっかりで。
岸田)弱視の子はいないんですか。
楠)全盲ばっかり。線路の上を歩いて教育大学の前にある学生向けのラーメン屋に行くのが楽しみで。ラーメン同好会というのを作って、こっそり食べに行く。それが楽しくて、真冬でも雪が降る中でも行こうって。雪が降ると道がわからなくなるわけ。音もだけど、道が雪でふさがるでしょ。崖から2,3回落ちたけど。それでも這い上がって、ここまで来たんだから行こうと(笑)。雪だから落ちてもそう怪我しない。
岸田)ラーメン集団、何人くらいですか。
楠)11人か12人くらい。
岸田)それくらいいたら怖くない。
必ずしも全員が行くとは限らない。金がなかったら行けない。朝起きて食堂で朝ごはん食べるときに、暗号があって。今日は晴れかって聴いて晴れといったら行く。雨だと行ったら金がないから行けない。悩んでるのは曇り(笑)。ラーメン同好会の暗号はね、晴れか雨か曇り。お前は雨かとか言ってるから噂になってね。それがけっこう有名になって。
岸田)道はどうして覚えるんですか。
楠)最初行った先輩が覚えるんやろうな。
岸田)ラーメンを食べることによって一人歩きを覚える。
楠)だいたい、弱視の人は寮に入らない。通えるしね。弱視の子は寮に入っても数少ない。
岸田)当時は全盲の方が多かった。
楠)圧倒的に多かった。
岸田)それで、夜になったら10人くらいが徒党を組んでラーメン屋に。それで楠さんも一人歩きを覚えた?
楠)そうね、小樽ではそんなことできなかったから。盲学校から外に出るのは夏休みに親と家に帰る時くらいだから。
岸田)楠さんの1年後輩のMさんが言ってましたけど、購買でパンとか点字の紙とか売ってるんですね、だから外に出なくてよかったと。しかし、ラーメン屋には行く(笑)。
そしたら、2年生からは相撲してたんですか。
楠)毎日授業終わってから、3時から5時くらいまで二時間くらい。相撲部員10人くらいでまわしつけて。土俵があったんでね。ちっちゃい土俵。
岸田)なんで相撲部に入ろうと思ったんですか。
楠)昔からラジオで相撲中継聴いてて、その頃は相撲か野球しか聴くものはない。
岸田)その頃は札幌には柔道はなかったんですか。
楠)なかった。
岸田)盲人卓球か、野球か、相撲か、あとバレーボール。
楠)ネットの下をころがす6人制のバレー。
岸田)それがスポーツクラブ。で、楠さんは相撲クラブ。想像つかないけど。
楠)誰も信じてくれへん(笑)。
岸田)相撲は全国大会とかあったんですか。
楠)あった。当時盛岡で大会があって、それに出すために急遽クラブ作ったんだろうけど。3年の時に盛岡の全国大会に6人代表で出たかな。
岸田)盛岡というと柔道が有名な学校ですよね。
楠)全国20校くらい集まって相撲大会やった。
岸田)じゃあ当時、楽しいことはクラブと夜の秘密ラーメンクラブと。
楠)札幌盲学校はクラス対抗の合唱なんかあってな、僕らが2年の時コンクールに出て、3年がうまかったんだけど、僕らが優勝した。
岸田)札幌のよその学校と合唱で交流とかは。
楠)たまにあったろうけど、それは年1回くらいだから。学校の文化祭で合唱コンクールとクラス対抗の演劇。おもしろかったね。
岸田)文化祭は音楽したり演劇したり。
楠)バレーボール大会とか、そういう時には燃えたな。盲学校も高等部に行った時は楽しかった。充実してた。
岸田)高校で受験を決意するのはいろいろあったと思いますけど、けっこう楽しく。
楠)生徒会でも、僕らが2年生の時に参加したけども、次の会長誰にするかというので、有力候補がいたんだけど対立候補を出そうと密かに動いて対立候補を出して、秘密のうちに有力候補をあいつえらそうで生意気だから落とそうと、Sさんを、本人も知らないうちに真夜中にあいつに入れてくれって工作して、決選投票に持ちこもうと。1票差で当選しなかった。ものの見事に決選投票になったら逆転して、僕らが推薦した人が会長になった。
岸田)そういう時から政治力を発揮してはったんですね(笑)。
楠)だいぶ憎まれたけどね。
岸田)いろんなことやってはったんですね。
楠)札幌にそのまま残ってたら生徒会長やったと思うけどね。
岸田)盲学校には理療科の先生になるためのコースがあるんですよね。
楠)東京教育大学附属教員養成課程。資格的には短大と同じくらいのコース。専攻科2年出て、その上に教員養成課程を出たら教職免許を取れる。あんま針灸を教える先生になれる。
岸田)それは教員採用試験を受けなくてもいい?
楠)いや受ける。
岸田)一般の?
楠)一般じゃない。理療科の採用。
岸田)それが当時でいうエリートの道。
楠)唯一のね。全国から受けるから、1クラス20人だから競争率4.5倍くらい。僕もそこへ行こうというのは、マッサージは嫌やったので。
岸田)そこは次回お話ししていただくことにして。そうすると札幌の学校でいろいろやりながら、エリートコースをふみたいと思ったら、教員になる。安定した公務員ですよね。札幌からも受験した人いるんですよね。
楠)だいたい1クラス一人くらい。30人の中で一人くらい、行くのは。
岸田)楠さんは、それは考えてたんですか。
楠)先輩も何人か行ってたし。
岸田)英語の教師になれるとは…。
楠)思ってなかた。それはあきらめるしかないと思ってた。
岸田)やっぱり好きだったんでしょ。
楠)週2回しか英語ないし、教科書も授業も進まないし。先生も君らに英語や数学はあんまには関係ないと平気で言ってたし、なかなか授業にも来てくれないし。
岸田)普通科目は単位は取るようにしても最低限のことしか…。英語やったらもっと深めて英文学とか、そこまでは到達しない。
楠)教科書も全部終わらない。半分いったらいいとこだからね。
岸田)数学も社会もそんな感じですか?
楠)数学はそうやね。社会はけっこう熱心な先生もいたけど。
岸田)社会は熱心やった。時代…
楠)社会科の先生なんか組合運動やってた人だし。
政治の話したりね。
岸田)後に楠さんが社会の問題に関心を持つ素地はあったんですね。
楠)それは多少は刺激は受けたね。

休憩

岸田)それでは後半です。では、札幌には高校3年生までいて大阪府立盲学校に転校したということですが、なぜ教育大学附属の東京には行かなかったんですか。札幌は文化圏は東京ですよね。
楠)東京は知り合いもいないし不安だった。大阪は親戚が一軒あった。いざという時はそこに頼ったらいいと言われてた。で、大阪という選択をしたかな。
岸田)お家の人は賛成した?
楠)いや、反対してますよ。強烈には反対しなかったけどね。マッサージしとけ、それでメシ食ってくのがいちばん安全だからと言ったけども、僕が別の道さがしたい、マッサージは嫌だと言ったんだよね。それを強く言い続けたので、札幌盲学校の進路指導の先生や担任とも相談してたみたいだけど、息子が言い出したら聞かないから、行かしたってくださいと。
岸田)親戚の方がおられたから大阪にといっても、一大決心ですよね。
楠)しかも一人やからね。
岸田)寮生活はあれやけど、寮がない時は北海道に帰ったはったんですか。
バイトか何かして残ってはった?
楠)バイトしてた時もあるし、最初は帰ってました。
岸田)ちょっと、視覚障害者をわかるハウツーの中で、夢はどうなんですか? 私は途中からやからね、昨日、見えてる夢みたんですよ。色は悪かったけど。学校の校庭でちっちゃい子どもがいて抱き上げたら猫の子どもみたいにちっちゃくて、おかしいなと友達としゃべってた。ちゃんと見えてるんですよ。つい何週間か前には京都の烏丸の夢を見たんです、昔のままの見えてた時のままで。夢の中で、おかしいな、私失明してるはずやのになんで見えてるんやろと思ってたんですけど、楠さんは夢は画面もないし、同じですよね。
楠)もちろん。色彩もないし形もない。
岸田)声だけ?
楠)声と感触やね。食べたりとか触れたりはある。
岸田)いちご大福みたいに、プチプチしてるなとか、つるつるしてるなとか。あとは、まったくふだんと変わらない状態。
楠)夢でプラットフォームから落ちかけて、怖い、落ちるという夢で恐怖で金縛り状態になったことはある。これは経験やね、自分が歩いててホームから落ちた経験が何回もあるし。落ちる時の怖さってのは。
岸田)Mさんは高2から一人で歩いたって言ってたんですが、楠さんは一人歩きはいつから。子どもの時に杖も持たずに川に落ちたりしてはったんですけど、1人で歩くようになったのはいつごろからですか。
楠)小樽の盲学校では1人では歩けなかったな。
岸田)山の中で?
楠)1人で外に出る機会がないし。盲学校の中ではもちろん1人で歩いてたけどね。
岸田)私らは中途やったら、歩行訓練は地図で覚えさせられるんですよね。右曲がったらパン屋があってパンの匂いがするでしょとか。今もそうです。楠さんの家やったら、階段を下りてまっすぐまっすぐ行って左に曲がってと、地図上に覚えていくんですけど、元々の視覚障害の人の場合は、どうやって道を覚えたり杖を使ったりするんですか。
楠)僕らの頃は盲学校の歩行訓練はそもそも受けなかったから。1人で外に出るなんてこと自身ありえないことだから。中3までは一人歩きはしたことがなくて。高校行ってラーメン食べたりして、何人かで、全盲同士でも2,3人でつながっていく。
岸田)全盲同士で歩くときは汽車みたいに。
楠)そう。肩につかまったり。
岸田)深夜ラーメンクラブ。
楠)いちばん道を知ってる奴を先頭に行ってあとの連中はついてくるという感じで。そういう感じで歩けるようになった。
岸田)昼に学校さぼって喫茶店とかは行ってなかったんですか。
楠)昼は許可がないと行けなかったもん。
岸田)でも、裏口からとか。
楠)それはしなかったな。
岸田)ほんとうに1人で歩くようになったのは、高3とかそんなもんですか。
楠)いや、大阪に来てから。札幌時代はまだ集団で出歩いてた。一人は、たまに弱視の人が電車まで送ってくれて、そういうのはあったけど、1人で歩くのは。
岸田)地図という概念がない。
楠)一人歩きの訓練がないからね。
岸田)もし楠さんがラーメンクラブに入ってなくて真面目な寮生活を送って真面目に受験して大阪に来てたら歩けなかったんですかね。
楠)そうかもしれない。
岸田)ラーメンクラブに入ってたからこそ、大阪に来て1人で歩くことができた。ラーメンクラブの時に先輩がここを曲がるとか教えてくれた。
楠)もちろん、一緒に歩くから。
岸田)でも、3年生になったら、楠さんが先導して行くことはなかった?
楠)先頭で行くこともあったけど、クラブの先輩もいたからね。だいたい数人だから一人ということはないな。
岸田)今考えると、歩行訓練で杖の使い方とか防御とかいろいろ習いますよね。でも、それを受けずに自分で歩くというのはすごいなと思うんですけど。このマンションも1人で覚えはったんですよね。何回か一緒に…
楠)もちろん、何回か一緒に行ってもらって、ここに何があって、ここを曲がってと2,3回教えてもらって覚える。
岸田)隣にカラオケやがあるとか、聞いてまわりの状況を聞いて1人で歩けるようになる。何回くらいかかりますか。
楠)道を覚えるのは2,3回で覚えるけど、たとえば早く曲がりすぎたら別のところに行ってしまうとか、そういう失敗も何回か繰り返すから。止まってる車よけようとしたら角度間違えて別のところに行くとか。
岸田)角度間違えるというのは見えてると想像つかないけど。
楠)いつもあるものがなかったりね。パチンコ屋が耳の目安でしょ。それがしまってたらどこで曲がるか困るわけ。
岸田)そうするとわかりにくくなる。
楠)いろんな場面を想定しないと。
岸田)昼と夜とは
楠)音も違うし、匂いも違うしね。そういうのを覚えるまでは7,8回。迷ったり、ちょっと角度間違えて信号で別の方向行ったりね。
岸田)駅なんかも、布施の駅は大きいから間違いやすいですよね。
楠)どっちから出るかによってね。
岸田)歩行訓練だとだいたい教えてもらって、あ、違うなとわかるんですけど、自分で覚えると効率が悪い気がするんけど。
楠)訓練する人、訓練士もかなりベテランじゃないと、道を教えてくれて、行きすぎたらこういう失敗もあるでと、そこまできちんと想定して訓練してくれる人はよほどベテランじゃないとだめ。単なる地図を教えてくれるだけじゃだめ。地図通りになんか歩けないから。
岸田)台本通りにはいかないから。なんで一人歩きの話をするかというと、これから楠さんが1人で違う土地にいっていろいろアルバイトをしたりたいへんな思いをする時に、一人歩きは視覚障害者にとってはネックになるんですよね。全然歩けない人もいるんですよね。怖いとか体の具合が悪いとかいろいろあると思うんですけど。楠さんの場合は早くから何人かで歩いてはったし、小樽の時も、もっと小さい時も1人で歩いてはったからいけたと思うんですけど、歩行訓練は必要だと思いますか。効果というか。
楠)とくに就職しようと思ったら。僕は本格的に歩行訓練を受けたのは天王寺高校の教師になってからやね。学校に通わなあかんから誰もついていってくれない。盲学校にいたら、弱視の友達をつかったり一緒に行けるわけや。盲学校の世界ではまったく一人ということはない。社会に実際に出て一人で行動しなくちゃならないとなったら一人歩きも覚えないかんから、歩行訓練は受けておいた方がいいね。
岸田)天王寺高校の時だけですか受けたのは?
楠)あとは全然。
岸田)私も、 楠さんが深草にいはるとき何回か手引きしたんですが、あそこもわかりにくい。
楠)龍谷大学でも一人歩きはせざるを得なかったよ。下宿してたから。大学から下宿、下宿から学校と一人歩きはしました。だからよく迷った。溝に落ちたり、マンホールに落ちたりね。ライトハウスにも通ったしね。
岸田)京都の。
楠)バス乗って伏見から一時間半かかって。リーディング受けて。一人歩きはしてたんだけど、自己流で無茶苦茶杖ふりまわして。
岸田)二点式とかは。
楠)そんなのはやってない。
岸田)振り方というのか。
楠)リズム歩行ね。
岸田)中途失明やと歩行訓練受けた方がいいかなと思うんですけど。私も一人でいろんなとこ開発したけど、やっぱり効率悪いというか、覚えにくいというか。
楠)リスク予防のためには覚えておいた方がいい。でも、訓練も大事やけど、やっぱり意欲とかね。それがないとね、結局訓練受けても、外に出ようとかラーメン食べようとか、人間、モチベーションがないと知識だけ覚えたってね。
岸田)そうやね。楠さんが高等部卒業して大阪に来て、京都に来て、また大阪に来てという中で、モチベーションがあったからこそ一人歩きができた。日本で歩行訓練が開発されたのが1970年くらいですよね。日本ライトハウスで。それまでの人たちはみんな自己流で歩いてはったんですよね。
楠)しかも、今でもそうだけど歩行訓練士は全国で数えるほどしかいないでしょ。教えるためのノウハウを持った訓練士。訓練の手引きって本ができてるけど、実際に実践で訓練してくれるのは大阪でも数人だと思う。やっぱり後輩から相談受けて、こんど引っ越すんだけど、西大寺に移る。西大寺はひじょうに危ないとこで、訓練士紹介してくれないかというのでライトハウスに相談したけど、いっぱいで教えられないって。奈良にはいないのかっていったら、奈良には訓練士一人しかいないていう。そういう意味じゃ、現実的にはまだ足りてない。すぐ盲導犬っていうけど、盲導犬だって最低1カ月は訓練しないといけない。1カ月休んでできないでしょ。しかも犬が好きじゃなかったらね。
岸田)私みたいにアレルギーは。毛が抜けたりすると…。楠さんから見て、モチベーションが大事ですか、一人歩きは。
楠)モチベーションと好奇心。自分が何々したいという目標とどんなんやろう?という興味。これは代表はMさんね。彼なんか鉄ちゃんだからね。新駅ができたら必ず行ってみる。わざわざ休みとって。自分でさわって確かめて。
岸田)各駅に何段あるか、把握してはる。
楠)彼にガイドヘルパーつけたら、ガイドヘルパーを彼がガイドする(笑)。
そのくらい好奇心が強い。
岸田)そういうことがないと、歩けない。今交通事情が悪いし、マナーも悪いから。点字ブロックのところ歩いてても自転車ぶつかってくるし、夜やったらこっちが悪いみたな言い方される。夜で暗いから見えへんから電気つけろとか。白い杖持って点字ブロックのとこと歩いててもそう言われるから、覚悟がいる。当時は1人で歩いてる人は少なかった。
楠)少ない。
岸田)次回またお聞きするんですけど、札幌でマッサージのお仕事、アルバイトなんかする時も1人で行ってはったんですよね。
楠)誰? マッサージ? それはね、おっきなとこが多かったのね。車で回送する。マッサージャーを。
岸田)お客さんの部屋までは一人で行ってたんですか。
楠)だいたいそうやな。ホテルとか個人の部屋は玄関までは車で送る。時間になったら迎えに来てくれる。
岸田)家はいったら、家の人が案内してくれる。ある程度は自分でも。
楠)もちろんそのくらいはね。
岸田)でないとだめですよね。ちょっとくらいは一人で歩けるようになるのは基礎ですかね。弱視の人にとっては。当時、クラスのほとんどの人が北海道に残ってはった。このあいだ箕面であった人が東京に行って先生の資格とって、ごくそれは少数で、たいがいはみんな北海道でマッサージの仕事。当時はマッサージ以外はまったく考えられなかったんですか。
楠)考えられなかった。新職業というのがブームになって椎茸の栽培とかあったけど、視覚障害者一人で椎茸の栽培はできないわね。何人かで集団で、支援者の職員がついてればできるけど。府立盲学校でピアノの調律、音楽科の人がね、なったけど数少ないね。
岸田)背丈がないと、鍵盤の釘がーっとあけてやるから。私みたいな細い人はできない。音感もないと。
楠)もちろん、音感も。今全部機械で調律するからね。機械より素晴らしい調律する人もいるけど、よほど音感が鋭い人じゃないと。
岸田)みんなあきらめてたんですか、三療しかないって。札幌の盲学校の人は、男性も女性も。
楠)そうそう。勉強ができるのが何人かいてね、自分も行きたいなというのはあったけど家庭の事情とか、いろいろ考えたらやっぱり。条件はなかったね。
岸田)年金も当時はなかったんですか。
楠)福祉年金というのは一応あったけど。1万何千円か。
岸田)今で言うとどれくらいですか。
楠)まあ、3万円くらいか。
岸田)1万円では暮らせない。
楠)5千円だったかな。
岸田)高校くらいから、夢とかはなくなっちゃうんですね。
楠)それがいちばんの問題。どうせ三療しかないんだから。まわりもそういうし。あきらめになってしまうね。
岸田)その頃、障害者運動みたいなものは、札幌にいる時は、日本盲人会連合とかは全然?
楠)日盲連があることは知ってたけどね。あんなおっちゃん連中がやってること…。あれしてほしい、これしてほしいって、そういうのには抵抗があってね。障害者だからあれしてほしい、割引してほしいとかね、要求運動、運動というか、僕らそのへんが抵抗あったな。障害者だから何々してほしいとか、ものをもらう運動みたいなね。税金安くせいとか、年金を増やせとか、金目の話ばかり要求やってるから。点字毎日なんかもたまに…。唯一毎日新聞が、週刊の新聞を出してたのでいろいろ載る。
岸田)それは高校生の時から読んでたんですか。
楠)図書室でね。
岸田)だから日本盲人会連合のことは知ってた。でもイメージが悪い。楠さんにはピンと来なかった。
楠)そう、こんな物取りみたいなのは嫌だと。
岸田)そういうのに興味持ってた人はいるんでしょうね。将来日本盲人会連合で活動したりとか、そういう人はいなかったんですか。
楠)いやぁ、いなかったな。だいたいおっちゃん連中が、60,70。とくにあの頃日盲連はボス支配だったから、M氏の一元支配。この人が傷痍軍人で失明した人が30年会長をしてた。大阪の樋口四郎とか、この人も84歳。大阪で牛耳ってた人。そういうボス支配の組織で。
岸田)私の高校の時は楠先生は運動していて、教師はあまり近寄らないようにって言ってたけど、すごいなと思っていた。注目はしてた。楠さんにとっては、点字毎日に載る日本盲人会連合は興味がなかった。
楠)うん。自分らのことしか考えてない。社会問題に対する意識もないし。自分らのことの差別は言うけどね、他の障害持った人のことに関心ないしね。日盲連には関心なかった。
岸田)楠さんが大学に入られた頃は、視覚障害者で大学に入る人は少なかったから、エリートなんですよね。大学に行くこと自体が。でも、昔からいたんですよね。大学入ってる視覚障害者は。本間(一夫)先生。
楠)岩橋武夫さん。
岸田)日本ライトハウスの。数えることができるくらいしか…。
楠)経済的に恵まれてる人でね。
岸田)本間先生も日本点字図書館作った人ですけど、網元かなんかの息子やった。
楠)しかも、僕なんか、龍谷大学なんか当時三流の大学だから、そんなエリートなんて。盲界の中ではそうかもしれないけど、点毎に取り上げられるとか、そんなあれじゃなかった。
岸田)でも、当時としては、大学行くというのは一大事というか。後に大阪府立盲学校に行かれてからも、大学は考えてなかった? 札幌の時は大学行くことは全然ですよね。 
楠)そう。大阪でも最初は東京の理療科の先生になることしかなかったな。
岸田)英語の教師をおいといて。教師になろうとはしてた。今の若い視覚障害者はそういうの、知らないですね。楠さんのように、若い人に歴史を教えていただいたら。若い人は昔からこういう状態だと思ってるから、ためになると思う…。今日は高校から
楠)大阪の学校に移ってくるまで。
岸田)札幌の、高2くらいから受験、よその学校に行こうと考えてはったんですか。
楠)いや、2年の時はまだ考えてなかったな。クラブに燃えてたから。
岸田)相撲に燃えてた。3年生くらい。
楠)相撲に燃えて、文化祭に燃えて。3年生になって2学期くらいから。
岸田)本格的に出るというか。教師も賛成してくれた。
楠)最終的には担任も、行きたいなら問い合わせしてやろうということで。
岸田)それは何故かというところはまた、次回のお楽しみということで。次回は高校でなぜ外に出ることを決心したかということろを。前にお聞きしたアルバイトの話など、若い人たちに、昔こういうことがあったということを、私らでも、大仏 空?の本を読んだんですが、脳性麻痺ですよね。それで東京の青い芝がこの人に影響受けたんだなということがわかったという。もし彼の本が出てなかったらよくわからない。こうしてお話しをお聞きしてるんですが、これがいつかまた何かのお役に立てばと思います。
楠)それに反発する中途失明の右翼系の人がいてね。生徒会の役員選挙でも対立候補が出てね。
岸田)大阪ってそうやったんですか。
楠)札幌でこそこそやってたのとは全然違う。政治的な主張と…。
岸田)京都はなかったですよね。
楠)京都はなかったけど、大阪はすごかった。
岸田)大阪は共産党が強かったんですか。
楠)自治会選挙は必ず対立候補が出て、日韓条約の討論会しようとか。
岸田)日韓条約っていつやったか。
楠)1965年かな。
岸田)ものすごい政治的やったんですね。
楠)そう、その間に巻き込まれて。僕は民青には入ってなかったけどね。


■そのほかのインタビューへのリンク

◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その3) 2010/11/21 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その2) 2010/10/17 聞き手:岸田典子 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2010 インタビュー(その1) 2010/10/03 聞き手:岸田典子野崎泰伸 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)
◆楠 敏雄 i2011 インタビュー 2011/10/02 聞き手:中村 雅也 於:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

update:20220207
楠 敏雄  ◇視覚障害  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇楠敏雄さんへのインタビュー(その2)  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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