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楠敏雄さんへのインタビュー

2011/10/02 聞き手:中村 雅也 場所:楠さん自宅(大阪府東大阪市)

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last update: 20210610


◇2011/10/02(日) 楠敏雄さんへのインタビュー
インタビュー時間:100分(16時2分〜17時53分)
語り手:楠 敏雄
聞き手:中村 雅也
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築→◇インタビュー等の記録




【音声開始】

◆小樽盲学校、札幌盲学校


中村:ほんだら、すみませんけども、お話伺います。よろしくお願いします。

楠:はい、どうも。はい。

中村:えっと、今日はね、最初に楠先生の個人的なことをちょっとお伺いして、これは大体知ってるんですけど、お伺いして、後、まあ、当時の、あの、高校での勤務のことをちょっとお伺いして、できたらJVTのこともお伺いできたらと思ってるんですけど、まあ、いっぺんに全部というわけにもいかないと思いますので、何べんでも、あの、ご迷惑かもしれませんけども、足運びますので、ゆっくりいろいろ、じっくりお話聞きたいと思ってますので、よろしくお願いします。

楠:はい、はい、はい。

中村:最初なんですけど、先生の生年月日ですね。昭和19年だったと思うんですが。

楠:昭和19年11月15日ですね。

中村:11月15日。

楠:北海道の岩内町っていうとこで、漁村ですけどね。生まれまして、で、2歳で医者のミスで失明ということでね。

中村:医者のミスっていうのは、あの、それまでは全く目に異常は…。

楠:ええ、全然なかったらしいですね。で、丁度ね、終戦、敗戦の年でね。結膜炎が流行してたんです。トラコーマとか、結膜炎とかね、目の病気がね、結構、まあ、衛生上、大分、悪かったっていうんでね。で、結構ね、その結膜炎で僕の同じ町でも、何人か結膜炎にかかったりしてさ。ところが、かかった医者がね、治療方針を間違えていて、僕ともう一人だけが、その、特に年寄がいてね、医者の言うことはきかなあかんて言うてね。どうも、その結果、何か治療したら目がはれてくるしね。だから、ほかの人はもうそこの医者、かかるのやめてるのにね、僕ともう一人だけは、年寄がいて、医者の言うことをきかなあかんって言うて、そのとおりにしてたら、どんどん目がはれる一方でね。で、北大のほうへ行ったら、もう手遅れだって言ってね。あれは完全に医者のミスだという、でも、これは当然、あの、敗戦のバタバタですからね。医者を訴えるとか、どんな方法も全然なくて、もう泣き寝入りっていう状態だよね。

中村:じゃあ、そのときの、まあ、病名としては、結膜炎の、まあ、治療ミスっていうような…。

楠:そうですね。流行性結膜炎による…。

中村:で、もう、その2歳の時点で視力は、まあ、あの、ゼロになったんですか。

楠:そうですね。もうゼロだったですね。

中村:光覚とかいう…。

楠:最初はね、ちょっと歩き回ってたらしいですけどね。物心ついたときには、もう全然…。でも、まあ、今でも光覚はちょっとあるんですよ。この上の電気ぐらいね、はわかるんですよ。それぐらいですね。色もわからないし、輪郭もわからないしね。だから、本当、純粋に光覚だけですよね。

中村:じゃあ、まあ、あの、何かを見たイメージとか…。

楠:全然ないですね。

中村:形のイメージとかいうのも…。

楠:もないです。色のイメージもないですしね。

中村:ああ、そうですか。で、まあ、あの、北海道でずっと過ごされる…。

楠:そうですね。で、1年間、学校、就学猶予っていうことで、学校に行けなくて、多分ね、盲学校の先生方が誘いに来たけれども、親が、もう、かわいそうだとかね。だから、あれ、周囲に、その、自分のとこに、子ども、目が見えないのがいるっていうのが知られるのがいやだとかね。そんなのがいやで、1年間は隠してたみたいですね。で、もう一度、盲学校の先生が来て、もうやっぱり学校へ行かせなあかんかなていうんで、で、まあ、やむなく盲学校へ行かすことになったと。だけど、遠いですからね。結局、家から通うことができないですからね。寄宿舎生活っていうことで、まあ、小樽の盲学校の寄宿舎へ入所して。

中村:ほな、小学校の入学は…。

楠:1年遅れで。

中村:1年遅れて、えっと、北海道、県立…。

楠:北海道立。

中村:あっ、県立じゃない、北海道立小樽盲学校っていうんですか。

楠:そうです。小樽盲学校です。今はもうこの小樽盲学校は廃校になってるんですけどね。

中村:そうですよね。で、それで…。

楠:そこへ、6年間と3年間で9年間行きましたね。

中村:小学部、中学部と。

楠:そうです。そうです。

中村:そこでは、ほんで、もうずっと寄宿舎っていう…。

楠:そうですね。

中村:そのときの先生のご実家っていうのはどこ…。

楠:やっぱり岩内です。

中村:岩内…。

楠:岩内町っていうね、岩石のがんとうちと書いて岩内っていうんですがね。

中村:ほんだら、家からは、まあ、かなり遠いので、ほとんど寄宿舎で、長期休暇…。

楠:そうですね。夏休みと冬休みぐらいですね。長期休暇だけですよね。

中村:で、まあ、小学校、中学校、で、高校も、普通科は小樽盲学校ですか。

楠:いや、ないんですよ。あの、高校はね、北海道は1校しかないんです、札幌の。札幌盲学校の高等部っていうのが一か所あるだけ。だから、そこへね、全道、北海道中から全部集まるんですよね。だから、札幌盲学校、結構、クラスも多くて、人数も多くてね、だいたい20から30ぐらいいるんですよね。

中村:1クラスに…。

楠:あの、1学年にね。

中村:ああ、学年にね。

楠:だから、二つに、だいたいわかれてね、十数名で1クラス。だから、だいたいA学級、B学級ってね、二つぐらいですね。だから、札幌のときは、一応、試験受けてね、で、高校受験って形で、まあ、あの、余程、ちょっと学力の弱い人は別科っていってね、あの、別科っていって、悪いほうのスペシャルですよね。

中村:本科と別科ってあったんですよね。

楠:そうそうそうそう、そうです、そうです。その別科なんです。僕は本科のほうを、一応、ま、通ったんでね。本科、あのころはやっぱり二十数名いましたね。小樽、札幌から来る、勿論、来る子もいたし、後、旭川、函館、それから、帯広とかね。かなり遠いところから来てましたよ。

中村:ほな、高等部については、北海道立札幌盲学校…。

楠:札幌盲学校高等部…。

中村:札幌高等盲学校じゃなくて、札幌盲学校…。

楠:まだそのころは、まだ札幌盲学校高等部だったんですよ。

中村:の、普通…。

楠:理療科です。

中村:あっ、もう、普通科ではなくて理療科…。

楠:普通科はないんです。なかったです。

中村:なかったんですね、当時はね。本科理療科…

楠:本科理療科ですよね。それしかなかったです。

中村:本科理療科は何年課程なんですか。

楠:3年です。

中村:3年で…。

楠:で、そのうちに、上に専攻科2年ていうのがあったんです。

中村:ほな、本科理療科だけで、3年間であんま、マッサージ…、鍼、灸も取れるんですか。

楠:いや、鍼、灸は取れないんです。

中村:鍼、灸は専攻科なんですね。

楠:ええ、勉強はするんですけどね、一応。あの、受験資格はないんですよ、まだ。

中村:ほな、本科理療科は基本的には、あんま、マッサージの養成部っていうことですね。

楠:そうですね。

中村:で、それで3年間を終わられて…。もう、ほな、3年間であんま、マッサージ、指圧師の免許を取られたんですか。

楠:そうですね。でもね、あの、とにかく悩んでね、まあ、一応、試験は受けましたけどね。で、まあ、元々、僕はあんま、鍼灸はいやだった、あんま、マッサージいやだったんでね、で、特にね、この前も岸田さんにも話したけど、とにかく、その、卒業前に業者へ見学っていうかね、先輩に連れて行ってもらったんですよね。あんま、マッサージの業者へね。その業者の雰囲気が、もう非常に、まあ、これはここだけの話だけど、非常に腐敗したね、男女入り乱れて昼間からね、入り乱れているやつを見せられてね、僕なんか、その頃、まだ、心が純粋でしたからね、もう唖然としてね、こんな乱れたところへ自分はいたらだめになると思ってね。で、やっぱり元々、あんま、マッサージ師好きじゃなくて。あ、中学校のときのね、小樽の中学校の先生が非常におもしろい、ユニークな人でね、ジョークを交えながら、で、お前ら、もう少し外のことを知らなあかんとか言ってね。いろいろ教えてくれて、そのへんからマッサージ以外の仕事したいなあと。で、もう、できれば教師になりたいなあというように思ってたんでね。まあ、その頃は附属、当時は教育大学の特殊教員養成課程でしたけどね、そこへいって、まあ、せめてあんまの、盲学校の教師になろうかと。そういう、まあ、あんま、マッサージ以外の唯一の仕事でしたからね。それで、教師を目指そうと。ところが、教師、結構ね、競争率が高いんですよ。5倍ぐらい、当時ね。

中村:そうですね。年間に入れる人数が、全国から来て、決まってますもんね。

楠:そうそうそう。だいたい20人、1クラス20人なのに、だいたい90人とか100人近く受験してましたからね、全国から。だから、競争率では、到底、札幌ではだめだろうと言われてね。で、東京へ行くか、東京の盲学校へ行くか、大阪へ行くか、京都行くかぐらいしかね、可能性は非常に低いと言われて。で、迷ったんだけども、大阪に親戚が、一軒いとこがいるってことでね。で、まあ、そしたらいざというときに頼めるように大阪へ行くかということで、大阪の府立盲学校へ行こうと思ったんですよ。


◆大阪府立盲学校


楠:で、受験はしたんだけどね、そのころ、その、校長がね、非常に厳しい人でね、北海道から何で大阪へ来るんだと、北海道に盲学校あるのにね。そんな、その、大阪へ来たから教育大学通うわけじゃないと。だから、もう、北海道にいとけと言われてね。寮も今一杯だから、もう帰ってくれって言われてね。

中村:えっ、りょうぼ…。

楠:寮、寮、寄宿舎がね、一杯だからね、定員が。

中村:あっ、あっ、寄宿舎、北海道から大阪に来ても寄宿舎に入れないから…。なるほど。

楠:だから、もう帰れって言われたんだけどね、いや、どうしても一回決めたからって…。ほんとは、気持ちとしては帰りたかったんです。友達も、高校時代の友達がいるしね。で、大阪へ来たら、もう言葉も全然違うしね、当時ね。大阪弁なんていったら、その頃、テレビでほとんどやってなかったでしょ、北海道では。別世界に来たような言葉を、みんな、しゃべってる言葉もね。例えばね、よく連中はね、自分どこから来たって言うんですよ。何で自分、自分がどこから来たって何で聞かれるんだと思って。自分は自分やろと思って。自分って意味がわからなかったからね。一杯、そういう、その、大阪弁がわからなくてね、もうつらくてね。もうさびしくて、もう、もういいや、帰りたいと思ったけどね、一旦、もうね、親と何とか、引き留められたけど無理やり大阪に来たのにね、みんな、友達も送られたのに、また戻るのもいややと思ってね。で、がんばってたら、一か月ぐらい、だから、親戚からね、通ってたんですよ、盲学校へね。一応、入学は認められたんだけどね。試験は通ったんだけどね。

中村:入学してから後に、寄宿舎が一杯だから。

楠:そうそう。住むとこないからもう帰れって。札幌にだったら、いくらでも住む寮はあるからね。と言われたけども、まあ、出て来た以上と思って、歯を食いしばって、で、親戚から我孫子の、いや、違う、住之江のほうにね、中加賀屋というところに親戚があったんですよ。

中村:かがや…。

楠:うん。もう住之江に近いほうですね。そこから通っててね。車でちょっと送り迎えしてもらったりして。で、一か月ぐらいねばってたら、まあ、連休前になって、もうそこまでだったら何とか空きも一つ空いたから入れてやるっていうことで、一応、認められたんだね。それからずっと、だから、札幌盲学校理療科…、いや、違う、大阪府立盲学校の理療科専攻科で鍼灸を勉強するということですよね。

中村:ほな、えっと、札幌で本科理療科を3年間で卒業して、もう、すぐに次は大阪府盲の専攻科理療科…。

楠:理療科専攻科ですね。

中村:理療科専攻科に入られたと。

楠:だから、札幌には、いや、大阪には2部専というのがあってね。

中村:2部専…。

楠:うん。つまり、1部と2部というのがあってね、専攻科はね。1部は、まあ、盲学校からずっと上がってきた人で、2部は中途失明の人たちが来るところなんですね、だいたい。一般高校を出ててね。だから、1部と2部とがありましたけども、その1部に入って、そこも結構多かったですね。大阪は結構多いですからね。やっぱり十数名いましたね。20名近く。で、そこで2年間勉強して、で、附属の特殊教員養成課程というのを受けたんですけどね。まあ、ほんとに科目が多いしね。で、もうちょっとよう勉強こなさなくてね。特に数学なんかいうのはほとんど勉強してないですからね、盲学校では。だから、それでちょっと点数が少し足りなくて、落ちたんですよ。で、まあ、もう一回、予備コースっていうか、勉強しようってことでね、特に普通科が弱いから、じゃあ、普通科専攻科へ行こうということで、京都にね、普通科専攻科というのが1年コースがあるんですよ。普通科目だけ、それはね、集中的にやる。京都の盲学校にね。

中村:はい。今でもありますよね。


◆京都府立盲学校


楠:今でもありますね。みんな、フセン、フセンって言って。そこへ1年間、行くことになったんですね。で、行きだしたら、実は一般大学に行ってる人も先輩に何人か、数少ないけどいるでって話聞いてね。それで、もう、ひょっとしたら英語の先生になれるかもしれないという希望をもってね。そしたら、もう理療科の教員になるのをやめて、もう、英語科の教員を目指そうということで、で、方針変えて、で、そのとき確か、同志社を受けたんだよね、1年目、1回目ね。そのとき、同志社ぐらいしか受けることができなかったんだよね。

中村:点字受験が認められてる…

楠:認められてなかったんですよ。そうそうそう、同志社だけやったのね。で、1年、その京都の普専で勉強して、で、次は同志社、立命受けて、龍谷受けて、で、何とか龍谷に認められたというのが経過ですね。

中村:ほんだら、あの、大阪の理療科専攻科は2年コースなんですね。

楠:2年コースです、はい。

中村:で、そこで…。

楠:鍼灸の…。

中村:鍼灸の免許を取られた…で、えっと、そのときに、卒業して、2年間、その理療科専攻科を終わって、次に筑波大学の理療科の教員を目指すコースを受験されたっていう…。

楠:コースを受験して、で、すべって、で、もうそこで進路変えて、一般大学へ行こうということで。

中村:そこの理療科の受験っていうのは、普通教科の試験もあるし、理療科の試験もあるんですね。

楠:そうそう、両方あるんです。だから、19科目、19科目。で、実技があってね。すごいですよ、だから。

中村:で、まあ、京都の普通科専攻科に行ったきっかけは、まあ、まだその理療科の教員っていうことを目指しておられた…。

楠:そうです。いや、とにかく普通科目が弱いからね。でもね、もう、京都の普専行ったころはね、やっぱり普通学校へ、いや、一般大学へ変えようという方向に悩んでましたけどね。

中村:まあ、ほんだら、一度は受験したけれども、理療科の教員になるか、まあ、あの、英語の教員になるかっていうのは、その、普通科専攻科に入ったときにはまだ…。

楠:決めてなかったです。

中村:決めてなかったっていうことですね。

楠:で、しかも、やっぱり英語科で普通科の教師なんてほとんどね、例がなかったですからね。で、その頃ね、中村さん覚えてるかな、その京都のね、府盲に永井昌彦っていうね、全盲の英語の先生がいたんですよね。この人は同志社出てね、まあ、あの、アメリカのどこかへ、あの、大学も留学した人で、ものすごく頭のいい人だけどね。まあ、ちょっと神経質な人でね。その人が、まあ、僕を結構応援してくれてね。君ぐらいだったら、あの、学校の教師なれるんちゃうかって言ってね、がんばれって言ってくれて。まあ、その人がいろいろ情報くれてね。で、ああ、一般大学行けるんだなという…。でも、その京都の盲学校でも、やっぱりもう盲学校の教員になっとくのが無難やっていうふうに薦める人もいて。だから、最初の2、3か月は迷ってましたね、やっぱり、まだね。で、半信半疑だけど、とにかく、どっちにしても普通科目は弱いからね、集中的に勉強しようと思ってね。で、まあ、勉強してましたね。

中村:当時のね、普通高校での普通科の先生はいなかったはずですけれども、盲学校では案外ね…。

楠:何人かいましたね。そうそう。

中村:全盲の普通教科の先生って…。

楠:そうです、そうです。大阪にもいましたしね。大阪にも二人ぐらい全盲の先生いましたしね、あの、普通科のね。何人かいましたね。

中村:そのときはどうなんですか、楠先生としては、まあ、英語の教師っていうのは一つあったと思うんですけど、普通校の英語の教師、それとも盲学校の英語の教師とか、そんなんはあったんですか。

楠:いや、たぶん、普通校の英語の教師なんていうのは、ちょっと、あの、無理やと思ってましたね。

中村:そうですよね。やっぱり…。

楠:全然、だって、ありえない…、例もなかったしね。

中村:まず頭に浮かぶんだったら、英語の教師といっても、まだ盲学校の英語の教師というところがせいぜいでしょうね、当時からしたらね。

楠:だって、目の見える生徒に教えるってイメージもつかない。自分自身が目の見える生徒と付き合ったこともないしね。どうやって教えていいかってこと、全然、わからないですからね。だからせいぜい盲学校の教師ですよね、英語の教師、目指すか、理療科行くかっていうのを迷ってたぐらいですね。とにかく普通大学へ行きたいという気もありましたんでね、で、行けるんだってなって、で、進路変更して、まあ、とにかく一旦、大学は行こうということで、同志社、立命、龍谷と受けたとと。

中村:で、まあ、その受験、京都の普専に行っているときには、もう理療科とは、もう完全に…。

楠:そうだね。もう2か月ほどしたら、もう、もういいわっていう…。

中村:ほんで、まあ、もう気持ちは、普通大学の…。

楠:そうです、そうです。

中村:英語の勉強っていうことに…。

楠:英語の勉強にっていうことで、ええ。

中村:実際、その当時の受験ですよね。にも、多分、かなり苦労はおありだったと思うんですけど…

楠:そうですね。とにかくね、参考書っていうのは全然ないしね。英語の教科書も盲学校で使ってる教科書だから、まあ、言ってみれば高校の商業科クラスのテキストですからね。非常に、まあ、簡単なっていうかね。だから、自分でね、参考書とかをね、ボランティアの人に読んでもらって、点字で打って、自分で勉強をするしかなかったですね。


◆大学入試


中村:当時、その、同志社と立命と龍谷は点字受験の実績がもうすでにあったんですか。

楠:いや、龍谷はなかった…、立命もなかった…、あっ、立命はありましたね。立命はね、僕の1年先輩にしんどうさんっていう人がいてね、この人、哲学科ですけどね、この人が立命で最初の視覚障害者でしたわ。で、彼が受けた実績があるんですよね。同志社は何人かいましたけどね。龍谷はもう初めてのケースで、僕が願書持って行ったらね、もう断られました。教授会でね、議論して、無理ですと。うちには何にもそんな経験も実績もないしね、前例がないから無理ですって断られたんですけどね、まあ、盲学校の先生が何とか受験だけでもさしてやってくれと。で、盲学校の人が協力するからっていうことを言ってくれて、で、一応、受験だけさせようっていうんでね。願書とか一回返されたんだけど、まあ、何とかねばってもう一回受け取ってもらって、で、受験は盲学校の先生が行って、一般学生と一緒に問題を配られて、点訳をして、僕らが1時間ぐらい待っててね、点訳できてきた分から順番に、1番から順番に読んで、解答作っていくというパターンでしたね。で何とか、まあ、通ったってことですね。

中村:それは、まあ、合格されたっていうのは、まず門前払いされたっていうのがあるんですよね。

楠:最初は門前払いされたんですよ。そうです、そうです。

中村:で、まあ、受験して、合格されたというのは、やっぱり成績がかなり優秀だったっていう…。

楠:ううん、それはどうか知らんけど、とにかく、まあ、一応、合格点は超えてるということでね。で、呼び出されてね。ああ、その前に、ほんとは、まあ、もうだめだろうと思ってね、帰ってたんですよ、北海道へね。

中村:あっ、北海道に…。

楠:そうそう。で、親にもう1年だけ浪人させてくれって言ってね。もう一回だけチャレンジしてみたいからって言ってね。で、とにかく、2、3週間、家に帰ってたんですよね。そしたら、あきらめてね、もう1年浪人するつもりでいたらね、通知が来て、合格して、合格しましたからすぐ大学来てくださいって言われてね。で、龍大行ったら、面接、呼び出されてね、入学は、まあ、合格してるから入学は認めるけれども、条件があると。つまり、一切、配慮はしませんよと。まあ、その頃は特別扱いはしませんと。平等に扱いますという…。

中村:平等ね。

楠:合理的配慮なんてのはないですよってことですよね。平等っていう名の不平等だね。それで、それ飲むんだったらって言われてね。もう、とにかく入りたい一心でしたからね。だから、もう、はい、何でもがんばりますって言ってね。で、まあ、一応、それじゃあっていうことで入学を認められたということ。


◆大学生活


楠:でも、最初、ほんと、困りましたね。だって、この前も言ったけど、親がね、もうさっさと、親父も心配だったっていってね、まあ、初めて来るときはついて来たんですよね。でも、知らんうちに帰ってしまって、入学式のど真ん中にね。あれっと思ったら、もう、親、帰っていないんですよ。で、もう、一人取り残されてね。一応、京都の竜安寺っていうね、遠い、京都の盲学校の近くにね、とりあえず下宿してたんですよね。そこから龍大までだったら1時間半かかるんですよ、バス乗ってね。伏見ですからね。で、そこ通ってたんですけどね、こんなの、とてもじゃないけど通えないなと思ってね。で、まず下宿探しするのに、学生課行っても、学生課、そんな盲人になんか貸してくれるとこありませんよって言って、責任持てませんって言ってね。自分で探すしかないと思って、で、誰か北海道から来てる人いないかって探してもらって、で、やっと来た人にね、悪いけど僕、目が見えないんで、で、下宿探してるんで、ちょっと一緒について行ってくれませんかって頼んで。

中村:同郷のよしみで。

楠:うん、同郷のよしみで、全く知らないのにね。ほな、彼はね、いいやつで、僕も今住んでる下宿がいやな、変な下宿だからね、一緒に探したるわって言ってね、俺も探すわって言って、で、たまたまね、何軒か空いてる下宿があってね。そこへ、じゃあ、一緒に住もうかってことでね。まあ、部屋は別々ですけどね。学生アパートみたいなね。そこへ一緒に住んでくれて、まあ、そこから何とかね、一応、住まいは確保して、それから、今度は大学へ行って、何時間目かにね、やっぱりこれは点字の教科書がなかったらどうしようもないっていうんでね、たまたま後ろに座った人にね、あの、点字覚えてくれませんかって言ってね。頼んで。点字、僕が教えますからって言って。で、点字、ぼちぼち覚えてもらってね。だから、3人ぐらいでね、じゃあ、点字の…。まあ、その頃ね、盲人問題研究会っていう名前でね、あの、サークル作ろうっていうんで、3人ぐらいでね、作りましたわ。で、一応、点字を中心に、まず覚えてもらおうっていうんで、で、その彼らにね、3人に、あの、英語とドイツ語を、語学だけを覚えてもらうと。もう、日本語はもう大変だからっていうんでね。英語と…、英語はアルファベットでいけるからね。英語とドイツ語の点字を覚えてもらって、で、その彼らに、一応、1時間分だけのね、テキストを読んでもらったり、写して、点訳してもらったりして、何とか次の時間の語学に間に合わせると。でも、速い先生はね、そんないっぺんに10ページか、20ページ進んでしまうんですよね。僕ら、せいぜい写したって2、3ページか、4ページだからね。だから、もう、全然、間に合わないんだけどね。もう、必死でついてね。で、点字の辞書引くのもね、予習するのにね、一生懸命、点字の辞書引くんだけど、もうその頃は例の70何冊のね、点字の辞書に、あそこの本箱の前にしがみついて、一生懸命単語調べてね。ところが、その慣れてない友達が打ってくれる点字なんかね、つづりが間違ってるんです。そしたら、もう1点点字が違ってるだけでね、つづりが違うでしょ。もう大変でしたです。だから、いくら探してもなかったら、よく見たら、これ、もう間違ったんちゃうって、別なつづり調べたら単語があってね。あっ、これかって。ドイツ語なんか、ほんと、もう知識がほとんどないからね。辞書ひきだけで、もうほんとに何時間もかかって、もう寝るのが3時とかね。それぐらい必死で。最初は、しかも僕は意地で、その、やっぱり盲人は無理ですって言われるのがくやしくてね、絶対、ついていってやると思ってね。必死でしたわ、もう。で、カセットで、まあ、普通の授業はだいたいカセットで録音聞いて、後で自分で帰ってノートとったりね。でも、先生の中にはね、カセット、録音とるなっていうんですよね。

中村:あ、授業の録音をするなっていう…。

楠:そうそう、するなっていうの。他で使われたら困るとかね、言って認めないという人もいましたしね。そんなの、もう点字で…。で、点字打ったらうるさいとか言われてね。何や、ガタガタ遊んでるんだって。いや、遊びじゃなく、これ、点字っていうんですって言って。初めて点字を知ったような先生がね。だから、もう点字打つのも気を使うしね、まあ、最初の1年はとにかく必死でしたよね。

中村:まあ、ほんだら、その、大学で、英文科になるんですかね。

楠:そうです。英米文学科ですね、龍大はね。

中村:龍大の文学部英米文学科に入られて、そこで、まあ、英語の教師をもうすでにそのときには目指されているという感じですかね。

楠:目指そうと思ってました。ええ、そうです。

中村:だったら、その大学時代に、教職の授業も受けられて…。

楠:受けましたよ。教育心理学とかね、教育学とか、そういう科目も一応受けていましたね。目標は教師になるとこだったんでね。

中村:教育実習なんかどんなふうにされたんですか。

楠:教育実習はね、あの、札幌盲学校へ、母校へね、帰って、頼んだんですよ。で、やらせてくれって言ってね。で、札幌盲学校で教育実習をさしてもらいました。

中村:札幌盲学校の高等部で…。

楠:高等部理療科でね。

中村:で、英語の教育実習をした…。

楠:英語の教育実習をさしてもらって、ええ。

中村:それじゃ、盲学校の実習でも、まあ、OKだったんですかね。

楠:OK、そうてす。そうそう。

中村:今はね、何か、その、場合によっては、特別支援学校での教育実習ではね、認めないみたいなね、ところもあるみたいですけどもね。

楠:認めないんですか。そうでしょうね。

中村:どうでしたか、その教育実習に行かれたときの手ごたえとか感想みたいなのは。

楠:うーん、まあ、やっぱり盲学校はどうしてもね、英語の科目も、時間数も少ないしね、単元もスピードが遅いしね、まあ、そんなに緊張せずにやれましたよね。盲学校では。教育実習自身はね。まあ、これは一般、普通学校だったらちょっとね、もっと緊張したかも知らんけども、盲学校で、まあ、その頃はまだ、やるとしても盲学校の英語科っていうのを目指してましたからね。だから、まあ、それは、そんなにね、結構、生徒にも割と気楽に実習できましたからね。

中村:ほな、まあ、実習も無難にというか、無難に…。

楠:そうですね。ほぼ、まあ、あの、先生も昔の恩師でしたからね。それがついてくれましたからね。そんなに、まあ、困らずに何とかこなしたというかな。

中村:はい。ほな、まあ、大学時代にその英語の教師を目指すっていうのは、まあ、ほぼ自分の中で固まったっていうかたちなんですかね。

楠:うん。そうですね。それはね。


◆教員採用試験


中村:で、ほんだら、その、4回生のときにまあ、就職活動っていうことになると思うんですけども、どういうようなかたちだったんですか。

楠:いや、まずね、その前にね、4回生の夏に教員採用試験があったんですよね。で、大阪府でね、点字受験の前例があるというのを情報を得てね、それは、あの、藤野先生っていう、まああの、全視協、全視協系っていうかね、その人が、多分、あれですよ、藤野さんっていったら本も出してるねんけど、戦争中に、子ども時代にね、何か落ちてた不発弾を拾ってて、で、爆発してね、片手と、両目失明したんですよね。片手失って。そういう人でね。その人が、点字受験したんですよね。で、それ、大阪府、府教委が認めたんですよね。前例、あの、特例っていうことでね。で、しかも、それは盲学校の先生をするっていうことでね、前提で認めたと。だから、僕がその、5月ぐらいかな、4回生の5月にね、府教委へ点字、教員採用試験受けたいけどね、点字受験さしてほしいって言ったらね、あれはあくまで、藤野さんの例は特例だと。しかも、盲学校で英語の教師やるということで。その先生は社会科でしたけど、藤野先生はね。

中村:社会ですね、藤野先生は。

楠:そうそうそう。ほんで、特例だからね、あの、あなたの場合はちょっと無理ですということで、点字受験を断られたんですよね。で、だから、もう教員の試験を断られてしまったらね、仕事がないということでね、もう、これは大学に残るしかないなという、まあ、就職、いろいろ就職もあたってみたけどね、京都の盲学校とか、札幌盲学校とか、聞いてみましたけどね。いや、空きはないし、難しいと言われてね、で、まあ、大学に残ることにして、で、龍大の大学院を受験したんですよね。で、何とかこれは通って、これもね、結構、20人ぐらい大学院受験して、二人しか通さないとこだったのね。いや、もう、きついなと思って。ほんで、受けて、すべったらまた浪人やなと思ってたら、一応、成績が良かったというので、卒論が結構ね、龍大でトップだったっていうんでね。それで、まあ、大学に評価もらったんでしょうね。何とか認められて…。

中村:何か、文学のことされたんですよね。

楠:そうそうそう。あれですわ、ジョン・スタインベックっていう人のね、小説を、『二十日鼠と人間』っていうね、小説についての論文出したら、何か、あれでしたよ、200点満点の160何点とかでね結構、いい評価を受けてね。かなり、好きなこと書いたんですけどね。それで、一応、評価されて、一応、大学院認められたということで、大学院2年、3年残ってましたね。ところがね、その、大学院入る前からね、まあ、その前から全共闘運動、学生運動にちょっとかかわってたんでね、その延長で障害者運動、ずっと、あの、反差別の運動に顔を出してたんでね、その運動が忙しくなってね、大学院へ行く時間、をまあ、週何時間かしか行かなくなってね、運動のほうが忙しくなったりね。そっちに情熱を燃やしたりしててね。結構、その頃、よう運動してましたね。で、大学院もなかなか単位が取れないでね、もう1年残って、結局、3年間修士課程行ってましたからね。で、そのうちに、えっと、大学院行った2年目のときからようやく大阪府教委がね、点字受験認めますってことで、で、初めて受験したんですよ。

中村:えっ、大学院の修士課程2年生のときに…。

楠:ときに、そうそうそう。

中村:それは、何か、楠先生に直接そういう連絡があったんですか。

楠:あの、大阪府立盲学校の校長がね、まあ、僕が府盲にいたころは、教頭先生だったけど、その人が校長になったんですよ。その校長が割と府教委の指導主事なんかと親しくて、で、僕に電話かかってきて、点字受験できるようになったらしいぞって言ったからね。で、それで受けたんですよ。それじゃね、まあ、そのときは、あの、ちょっと点数足りなかったんだけどね。


◆天王寺高校講師


楠:そのときに、その本間っていう人で、校長がね、あの、もったいないから何とかして、あの、いけないかってことでね。で、しかも、盲学校は、まあ、一杯だしね。盲学校でやったってたいしておもしろくないぞって言ってね。で、あの、一般学校、普通学校定時制でやってみたらどうやと。定時制は人数も少ないしね。まあ、勉強もそんなに、あの、シビアじゃないからね。ということで、で、自分の盲学校にね、府立盲学校に弱視の教師がいると。視力が落ちてきた教師がいるね。あっ、ちがう、ちがう、天王寺高校にね、視力が落ちかけた弱視の先生がいると。その人を…。

中村:それは、昼間…。

楠:そうそうそうそう、昼間です。そうそうそう、昼間部の…。その先生をね、盲学校へ引っ張るから、その代わり天王寺高校の定時制で一人受けてくれというふうにバーターして、で、僕を、あの、講師として採用してもらう、テストケースでってことでね。で、そういう話をしてくれて、で、今度、僕を文科省へ連れて行ってね、文科省の指導主事にもね、何か、特殊教育官か何か知らん、要するにそこの人と会わせてくれて、で、こいつは根性はあるしね、ほんと、がんばるから認めてくれということで、了解も得てくれてね。それから、今度、府教委も、僕、一緒に連れて行って、あの、2時間分でいいから講師つけてやってくれ、助手をね。で、この、彼の人の手伝いっていうかたちで、ちょっとつけてやってほしいみたいなね。助手をっていうような話をしてくれて、で、まあ、結局はね、あの、一人向こうも講師を雇って、だから、その分、あの、2時間ずつぐらい教師に空きを作らして、それを楠さんの手伝いに、アシストしてやるという位置づけをしてくれて、一応、初めてのケースで、盲人が、全盲が晴眼者の学生に教師をするということで、かなりそのときは、あの、あれですよね、新聞にも取り上げられたし、それから、テレビとか、週刊誌なんかにも、全盲教員の何とかっていってね、マスコミにも結構取り上げられましたね。全国初の、要するに、全盲、全盲教師が普通学校で教えるていうね、そういう紹介がされて、まあ、さすがに最初はものすごく緊張しましたね。

中村:えっ、その、本間校長は、ほんだら、大阪府盲の…。

楠:校長だったですよ。

中村:楠先生が大阪府盲の学生だったときに、すでに…。

楠:教頭だったんですよ。

中村:教頭だったんですね。

楠:そうそうそう。

中村:ほんで、学生のときの楠先生を知ってたんですよね。

楠:よく知ってるんです。ほんでね、まあ、その先生は舎監長もしてたからね、夜、よく見回りしてたんだよね。で、僕が、夜、結構、自習室でいつまでも、遅くまでね、もう、府盲はね、8時になったら、もうスチームが切れるんですよ。ほんだら、もう寒くてね、手がかじかんで、点字が読めないんですよ。それでも必死になってね、自習室で勉強してましたからね。その代わり、夜中にちょっとラーメン食いに友達と抜け出したりするのを見つかってね。説教されたりして。いろいろしてましたけど、でも、まあ、本間校長は、根性はあるとみてくれたんでしょうね。よく、あの、夜中に差し入れ持ってきてくれたりね。で、まあ、推薦してくれたんですよね。

中村:ほんだら、その修士2年のときに、えっと、まあ、採用試験を点字受験されているんですよね。

楠:そう、してるんです。

中村:それは、高校英語みたいな枠で受験されたんですか。

楠:そうそう、高校英語ですね。

中村:高校の英語っていうことで…。

楠:うん、そうそうそうそう。

中村:で、それは、いつの、年代でいうといつごろなんですか。1970年代…。

楠:73年ですね。

中村:73年。

楠:あっ、72年ですね。

中村:1972年。

楠:そうそうそうそう。73年から僕、天王寺高校入りましたからね。72年に初めて受験。

中村:72年の夏に、ほんだら、受験されたっていうことですね。

楠:初めて受験したんです。そうそうそう。そのときはもう時間延長も何もなくてね。ただ、点字に一応直しただけで。

中村:ほんだら、あの、その73年から天王寺高校に行かれたときには、龍谷に在籍しながら…。

楠:そうです、そうです。だからね、あれですよ、昼間は龍大の大学院行って、夜は天王寺高校行くという感じでね。で、しかも、下宿は龍大に、深草にいたからね。だから、天王寺にね、授業9時に終わってね、それから京都まで帰ってたんですよ、深草までね。丹波橋で乗り換えて。結構、きつかった。まあ、その頃はパワーもあったしね。

中村:ほな、まあ、身分としたら非常勤講師ですよね。

楠:非常勤講師ですね。英語科非常勤講師ですね。

中村:勤務としては、例えば、もう毎日ですか。週何日ぐらい…

楠:週6時間やったね。

中村:週6時間授業を担当…。

楠:そうです、そうです。2クラス、3時間ずつ2クラス単位もってました。

中村:ほな、出勤は、まあ、週二日ぐらいとか、そんな感じ…。

楠:そうですね。二日か三日ありましたけどね。1年目は二日でしたね。2年目から何か英語の選択科目ももってくれって言われて、三日行きましたけどね。

中村:それは、まあ、退職されたのが、多分、13年後の86年だと思うんですけど、ほとんど授業数としてはそんな感じだったんですか。

楠:そうですね。だいたい6時間か、まあ8時間ぐらいですね、せいぜい。

中村:で、まあ、二日か、年によっては三日通勤するようなかたちで。

楠:そういうふうに、ええ。

中村:最初、その、まあ、楠先生としても、あの、盲学校の英語の教員っていうイメージはあっただろうけれども、普通校で自分が教えるようになるっていうのは、その、本間先生がもちかけるまでは、あまりイメージなかったんでしょ。

楠:そうですね。到底、無理だと思ってましたてすね。まあ、話をもってきてくれてびっくりしたけど、でも、やりたいと思いましたね。不安だけどもやってみたいと。

中村:それは、もう、本間先生とかから話がきたっていうことは、自分にできるし、チャレンジしようという気持ちがそこで出てきて…。

楠:そうそうそう、不安だけどチャレンジしてみようというね。

中村:それで、ほんだら、龍谷のほうは、後、3年まで在籍して、えっと、退学されたんですか。

楠:そうだね、いや、もう、あの、卒業しました、ちゃんと。

中村:あの、修了ってかたちで…。

楠:修士論文書いてね。

中村:それもなかなか大変ですね。就職1年目で修士論文も同時に書いてたってことでしょ。

楠:そうですね。だからね、特に後半はね、73年の秋、9月か10月すらいから資料集めてね。論文の準備して、で、しかも、英語で書けって言われたんで。大学院はね、英語で書かなあかんのですよ。で、シャーウッド・アンダーソンって割とそんなマイナーな作家を取り上げて、やっぱり…

中村:シャウト・アンダーソン?

楠:シャーウッド・アンダーソンっていうね、ヘミングウェイの恩師っていうかね、師匠にあたる作家ですけどね。あの、ロストジェネレーションの前の世代ですけどね。その人の作品を取り上げて、修士論文を書いたんですよ。一応、それ、何とか滑り込みで通りまして、一応、だから、修了。大学院は修了ってことで。

中村:ほんだら、その、大学院修了の時期には特に他の就職活動とか、採用試験を受けなおすとか、そういうことはされなかったんですか。

楠:採用試験は受けましたよ、ずっと。受け続けてましたけど、で、もう、2年目受けたときなんかね、本間先生が言ってましたけど、楠、あと1点で通ったのにな…。府教委の人も何か成績良かったって言ってね、今年は通でしょうっていって言われて、あれ、僕も、ちょっと、かなり感触が良かったんでね、で、本間先生が調べたら、楠、あと1点差でだめだったって言ってね。それから、もう、その後も何回か受けましたけどね、もう、あれですわ、もう、だんだんやっぱり記憶力が…、あの、忙しくてね、何か、それから、記憶力が、その受験力っていうかね、そんなんが鈍ってきてね。もう、ちょっと難しくなって…。で、問題の量もものすごく増えてくるんですよね。あの、60問か何かの問題あって、読み切れないんですよ、最後までね。

中村:そうでしょうね。大阪府の、特に一般教養の問題は、もう、大量にありますからね。

楠:そうです、そうそう。だから、全部問題を読み切れないんですよね。で、しかも、問題がね、単純なアチーブメントだったらいいんだけどね、例えば、その、A群、B群、C群読んでね、D群から正しい答えを選べとかでしょ。その問題読むだけでね一杯になって、で、D群から、D群にまで選択があるでしょ。で、その組み合わせをもう1回、A、B、C探して、えっと、1番と3番と…、何とかやってたら、ほんま、時間ないんですよ。だいたい普通の人は、1分30秒で1問解かなあかんとかね。だから、点字で解くのはそれは無理ですわ、はっきり言って。だって、1問が10枚ぐらいにわたりますからね、問題だけで。もう2分冊ぐらいになる問題、問題のあれだね、用紙が。で、もう、だんだん、もう限界を感じて、もうしゃあないなと思ってね。それでね、丁度、えっと、80年からね、ぐらいから、もう、もったいないし、一人で、あの、天王寺高校の給料3万か4万かね、じゃ食えないからね。ほんだら、あの、他の人が推薦してくれて、あの、布施の職業安定所にね、特別相談員の、嘱託でね、仕事があると。それは、まあ、要するに障害をもった人とかね、被差別地域の人とかにね、の相談にのってやってくれと。それから、企業とその、当事者がもめたときにね、人権の観点から間に入って調整してくれと。そういう相談員の仕事がね、入って、これが、まあ、週、昼間2時間ぐらい、週3回行けばいいということでね。で、給料、確か10万ぐらい出たんですよ。で、もうそこへ昼間は行って、夜、天王寺高校へというね。それで何とか食いつなげるようになって。

中村:ほな、まあ、あの、修士が終わった段階では、天王寺高校の非常勤っていう状態だったと思うんですけども、そのときに何か、例えば、まあ、給料のこととか、あの、非常勤っていうのは不安定な身分でもあると思うんですが、他の就職を考えるだとか、そういうことは全く…。

楠:いや、なかったですね。だから、最初のね、2、3年はマッサージのバイトをしてました、ちょっと空いてる時間にね。近所のおばちゃんに頼まれたりしてね。3人ぐらい、マッサージのバイトしてね。それからね、76年ぐらいからね、もうこれじゃ食えないっていうんでね、門真の市役所へ行って生活保護を申請してね。で、最初、そんな大学まで出て、大学院行ってるのにね、生活保護なんか取るんですかって市役所に言われたけどね、そんなこと言ったって仕事がないでしょって言ってね。で、マッサージしたらどうですかって、マッサージしたってね、マッサージっていうのは、だいたい夜から仕事に入るのね。あの、業者に入っても昼はね、仕事ないですよ、あんまり。だから、このマッサージだって食えませんよって、業者に入ってもね。夜は天王寺高校の仕事をせなあかんしね。で、食い下がって、やっと、一応、生活保護の、取れて、生活保護で7、8万取れて、で、それと天王寺高校の給料で食ってましたね。それが、4、5年、違う、3年ぐらいかな。生活保護取ってましたけど、その布施の職安の仕事が入ってから、もう、生活保護が出なくて、職安と天王寺高校の給料で。で、結婚したのがね、1回目の結婚ですけどね、52年かな、に結婚して…。

中村:1977年になるんですか。

楠:そうです、そうです。その1977年っていうのはね、天王寺高校の第1期の(担当した)生徒が卒業したんですけどね、教え子と結婚したんですよ。それが、昭和52年ですわね。で、53年に子どもが生まれたんですね。これはやっぱり食い扶持を何とかしなきゃならないというね。まあ、その彼女も、一応、どこか就職してたりしたからね。それで、何とか食えるようになったということですね。

中村:天王寺高校の非常勤っていうのは、あの、まあ、1年毎の更新みたいなもんですよね。

楠:そうそう、毎年、1年毎の更新なんです。

中村:それはある程度、その、毎年あるっていう見込みはあったんですか。

楠:いや、最初はね、あの、最初はまあ、2年…、とりあえず、その、教えた生徒のね、卒業するまではということです。2年生の生徒でしたからね。2年、3年、4年と、3年は、まあ、やってみよう、テストでね、ということだったんですよね。卒業、で、その、卒業生がね、まあ、その、僕の結婚した人も含めてね、そのクラスがね、楠先生を残してくれ…、あの、3年でもう終わりかもしれないと僕、漏らしてたからね。そしたらね、署名運動するって言ってね、まあ、結構、楽しく友達付き合いでやってましたからね。だから、この先生、残してやってくれって言ってね、生徒が署名運動始めようって言ってね。先生たちにも働きかけてね。そしたら、先生たちが、まあ、生徒たちからこんな声もあるって言ってね、この人、残してやってくれってことで、それから、だから、3年後も首つながることになってね。それからずっと、13年間いきましたね。

中村:最初に、まあ、天王寺高校に行かれるっていう話が出たときに、まあ、多分、いろんな話し合いみたいなことを、先ほどね、先生がおっしゃったように、まあ、まず、まあ、文部省とかね、教育委員会に話を通すってことがあるんだろうけども、それプラス、やっぱり天王寺高校の校長とか、まあ、周りの先生とかに理解をしてもらうとかっていうようなことが必要なんかなと思うんですけど、そういうことってありました?

楠:あの、教頭がね、結構、その、本間先生と、昔、知り合いだったっていうんでね、その教頭がものすごい熱心な人でね、自分で点字覚えてね、で、いろいろ、学校教育法とかも全部点訳してくれてね。で、その人が勿論校長とか、教師集団なんかにもね、話してくれて。勿論、その先生と何回か話したけどね。で、この人、大丈夫だというふうに言ってくれたみたいですね。で、本間先生も薦めてくれて。本間先生と加藤先生っていう先生二人が、天王寺高校の先生たちに何回か働きかけてくれた感じですね。

中村:加藤先生っていう方が教頭先生ですか。

楠:そうそう、教頭だったんですよね。その後、どこかの別な学校の校長になりましたけどね。熱心な人でしたよ。まあ、結構、あくの強い人で、あれだったけどね。

中村:でも、まあ、その、13年間勤めてる中には、その、管理職も代わっていったと思うんですけども…。

楠:そうそう、代わっていきましたよ。

中村:そういう中で、例えば、まあ、最初はね、本間先生とかの推薦とかもあり、まあ、ある程度、認めてても、校長が代わったときに、あんた、困るよって言われたとか、そんなこと、なかったですか。

楠:なかったですね。何人か代わったけど、一人、まあ、ちょっといやみな教頭がいてね、その人が、ほんとにやれるんですかとかね、無理じゃないんですかとか、いろいろ…。で、生徒の中にもやっぱりね、まあ、授業中抜け出していくやつとかね、まあ、定時制ですから、酒飲んでくるやつとかね。で、もし、それで、そんな生徒らがね、先生に迷惑かけたりしたらね、責任問題になるからとかね、そういういろいろ過度な心配をする、で、無理じゃないですかねなんて言われる、1回ありましたけどね。それ以外はだいたいみんな、女生徒の、結構、うけも良かったんで、うん。


◆生徒たちとの関係

中村:実際、その、校風っていうかね、天王寺高校の定時制っていうのは、例えば、クラスが何人ぐらいで、年齢層も、例えば、こんな感じでとか、学力的にはどんな感じでっていうのは、どういうような、まあ、学校だと考えたらいいんですかね。

楠:あの、校風は、やっぱり割とね、おとなしかったですね。そんなに荒れた生徒も、まあ、何割かは勿論ね、定時制ですからいましたけど、まあまあ、結構、落ち着いてましたね。それから、生徒はね、年齢の高い人も結構いたんですよ。40代が3人、50代も何人かいて、一番年とったような、60いくつとかね、そういう人もいましたからね。だから、そういう連中で、結構、引っ張ってくれたりしてね。うん、だから、例えば、あれですよ、ハイキングなんかもね、日曜日に、一応、定時制の遠足なんかがあるんだけどね、そのときも生徒たちが一緒に行きましょうって言ってくれてね。ほんとは、まあ、別に非常勤、こっちは行く義務はないんだけどね。一緒に行きましょう、誘ってくれて。で、勝尾寺まで行ったりね。何か、そういう、生徒との支えも、協力もあったんでね。

中村:当然、学齢というか、まあ、普通の高校生の年代の、16、17、18の生徒もい、ほんで、まあ、そういう40代、50代の人なんかが来てるっていう、そういう感じなんですかね。

楠:うん、そうですね。生徒数は、だいたいね、そうですね、最初の頃は、やっぱり30人ぐらいいましたからね。

中村:1クラス30人ぐらい…。

楠:そうそうそう。

中村:学力的にはどうなんですか。えっと、まあ、幅はあるんだろうと思うんですけども。

楠:うーん、やっぱりね、30何人のうち、まあ、60点以上取れる力のある子っていうのは、2割ですね。あとは、もう、30点ぎりぎりが、まあ、半分ぐらいでね。あと、もう、試験したら、ほとんど単語も書けないような生徒とかね。もう、そんなのがやっぱり10人ぐらいですね。だから、非常に英語を教えるっていうのは大変でしたね。

中村:やっぱりなかなか全日制についていけないような生徒さんの受け皿になってたという側面もあるんですかね。

楠:そうですね。それから、まあ、苦学生ね。例えば、その頃、准看って、看護婦のね、準ずる、まだ正式の視覚取ってない子ね。そういう連中がね、結構、多かったんですよ。だから、そういう連中は昼間、看護婦、看護師の助手をして、夜から仕事に来るとかね。何人かは、準夜っていって、また夜、授業終わってからね、これから仕事、泊りに行きますとかね。けどね、そういう子のほうががんばって、結構、学校も続くんですよね。で、昼間、中途半端なバイトしてる子はね、途中でやっぱり脱落していくのね。だからね、だいたい、1年生で40人入るんですよ、一応ね、その頃で。で、1年でまず10人落ちるんですよ。

中村:あっ、落第っていうか…、留年…。

楠:そうそう、留年かやめるかね。で、2年で30…、僕、1年生は教えなかったから、2年生からですけどね。2年生30、それから3年で5人落ちて、4年で5人落ちて、卒業するときは、だいたい半分ですわ。

中村:やっぱり、その有職というか昼に仕事をしてる生徒さんが…。

楠:多かったですね、その頃はね。

中村:今はだいぶ事情もね、違うようやし、仕事してない、で、定時制に来てる生徒も多いようですけど。

楠:そうそうそう、多いようだね。あの頃は、もう、やっぱりみんな、ほとんど仕事してましたね。授業終わってから、いや、仕事終わって飛び込んで来たりするのね。だから、学校給食っていうのがあってね。要するに、食べる時間なくて、授業来るでしょ。で、1時間目終わってから、30分ぐらい給食時間があるんですよね。で、そこで食事してみたいなね。結構、条件は良かったですね、そういう意味ではね。僕もよくその生徒と一緒に給食食べてましたよ。結構、食事はおいしかったですよ。で、生徒がとにかくね、職員室と教室の送り迎えね、やってくれるんですよ。で、そのときにね、まあ、当番制とか、その学年によりますけどね、有志の子とかが積極的に来てくれたりして。で、その行き帰りにいろんな話をしてね、コミュニケーションをはかるとかね。

中村:教室から手引きをしてもらいながら、話をする…。

楠:そうそうそう、自分の悩みをしゃべったりね。うん、いろいろ障害者のこと、聞いたりね。で、もう少し親しくなるとね、土日に、先生、遊びに行ってええかとか言って、僕、まだ独り者でしたからね。下宿へ遊びにきたりしてね。ギター持って、一緒に、5、6人泊りに来て、泊りにっていうか、夜、来てね、一緒に歌うたったり、してましたよ、結構ね。そういう付き合いはね、楽しかったですよ。

中村:先生もギター弾かれるんですか。

楠:そう、僕もポロンポロンですけどね、我流でちょっとしたコードをいくつか、三つ、四つ、五つぐらいしか…。でも、それで一緒に歌うたったりね、してましたね。それから、英語の時間に、結構ね、英語がみんな苦手なんでね、英語になじませるために、カセット持ち込んで、ビートルズとかね、サイモンとガーファンクルとか聞かせてね、で、その英語の説明して、意味を一緒に訳してね、あれ、どういう意味だとかね。で、そういうのが結構、最後に必ず歌うたう、みんなで一緒にね。ほな、やっぱり、そこでだんだんなじんできてね。となりの先生から時々文句言われるの。楠さんのとこ、歌ばっかりうたってうるさいって、言われましたけどね。

中村:じゃあそんなに受験でガチガチの勉強っていうより、工夫をしながらっていう授業ができる、そんな感じ…。

楠:まあ、大学受験する子っていうのは、1学年に一人ぐらいですね。東北大いった子もいましたけどね。

中村:はあ、そうですか。

楠:一回、東北大に講演に行ったら、先生っていって、何か、僕、天王寺高校の生徒でしたって。ああ、知ってる、知ってるって。ようできるやつってことで、ちょっと性格が、ちょっと変わった、浮いてましたけどね。勉強はよくできたやつが。

中村:先生、ほんだら、その、天王寺高校にお勤めの間に、例えば転勤の話とかっていうのは、全くもうなく…。

楠:そうですね。それはなかったですね。


◆人的サポート、物的サポート


中村:で、まあ、ほんだら、ずっと、まあ、ずっと、その、非常勤講師っていうかたちで継続して、まあ、続けられるっていうイメージで仕事をされてたわけですね。

楠:そうです。時間、増やしてくれっていうのを何回かね、話したんですけどね。時間、増やしたら、その、アシストする人もちょっと増やさなあかんから、それはちょっとしんどいていうふうに府教委からね、言われて。

中村:そうですよね。その、授業時間数が増えるっていうことは、それに伴ってねえ、やっぱりアシストする時間を確保せなあかんということになってまうと…。

楠:で、最初はね、講師をやりくりしてて、で、天高の英語科の先生が僕のアシストするというあれなんだけどね、途中から僕専用のアシスタントをつけるということになって、変わってきてましてね。そうですね、4年目ぐらいから、最初ね、盲学校の先生が、人が、盲学校の英語科の先生がね、僕の教育してましたわ。

中村:最初っていうのは、初任、1年目、2年目…。

楠:いや、1年目、2年目は何か天王寺高校の教師が、英語科の先生が手伝うということでね。

中村:同僚が…。

楠:同僚が教えると。それから、今度は、5、6年は、盲学校の英語科の先生が教えるというかね、いや、手伝うということで。その先生が、今度、定年になって、新しい若い先生、やっぱり盲学校の若い先生がアシストに来てましたね、最後まで。

中村:それは、ほんだら、最初から、まあ、楠先生の授業のためのアシスタントみたいなのを、本間校長とかが設定して、つけてくれてたという…。

楠:ええ、府教委と交渉してね、つけてくれたってことですね。

中村:それは、週何時間とかっていうようなもんなんですか。

楠:そうです、そうそう。一応、だいたい、ほとんど、だから週4時間、6時間の授業があっても、まあ、一応、4時間ぐらい、4回分ぐらいつけてくれましたね。

中村:えっとそれは、ほんな、最初の頃は、楠先生のアシスタントをするために、非常勤講師がまたついてたってこと…。

楠:そうそうそう、ついたってことですね。

中村:それは英語の先生だったんですか。

楠:英語の先生です。

中村:その人が中心になって、楠先生のサポートをしてたんですかね。

楠:そうそうそうそう。

中村:具体的にはどんなサポートをするんですか。例えば、授業に一緒に入り込むとか、そういうことですか。

楠:授業はね、最初の何時間かだけで、あとは、むしろ、僕としては、先生がついたらね、生徒との関係つくりにくいからというんでね、最初の何時間か以外は、あんまりついてもらわなかったですね。あんまりうるさいクラスとかね、そういうときはちょっとついてもらいましたけどね。むしろ、教材作りですね。どっちか言うと。授業始まる前に、単語のカードとね、それから、例文の、OHP用のね、例文を作ってもらって、それをOHPに映し出すとかね。そういう手伝い、教材作りの手伝いですね、もうね。それから、試験の採点とかね。試験の問題作ったり、採点したりする、その手伝いですね。

中村:ほな、まあ、主に墨字の文書処理っていうような感じなんですね。

楠:そうです、そうです。だから、教科書の、作る、点訳ね。

中村:点訳もやって…。

楠:そうそうそう、あの、点字があんまりできない…、勿論、最初の頃、点字できないですよ。天王寺高校の人は点字できないからね、そのときは、その先生にテキスト読んでもらって、僕が点字を打つというかたちですよ。リーディングですね。それから、あとから盲学校の先生は点訳してくれましたけどね。

中村:その、教科書とか事態も、ほんだら、その、高校生の使うものを楠先生とそのアシスタントで点訳したんですか。

楠:そうそうそうそう。自分で点訳ですね。

中村:それだけでもかなりの時間かかりますよね。

楠:そうですね。でも、単元ごとにですけどね。全部写すと大変だからね。まあ、定時制はそんなにテンポがはやくないですからね。

中村:多分、その教科書がないっていうのも、一つ大きいと思うんですけど、その、高校で授業をやるためっていうかね、勤務するための中で、これは困ったなというようなことっていうのはありますか。

楠:やっぱり、生徒のね、顔とか、名前とか、特徴をつかむのがね。だからね、やっぱり特に30人ぐらいいると、なかなか全部覚えきれないですよ。で、最初、席決めて座ってくれって言ったんだけど、やっぱり遅れて来たりね、前のほうに来たら、いやだ、チェックされるからっていって、うしろで座って内職してたりするような子らが、結構、多いからね。前来るのいやがるんですよね。まあ、その、高年齢の人なんか割と前へ来てね、きちんと勉強するけどね、若い子らは後ろでごじゃごじゃしてるからね。で、そういうのを把握するのがね。だから、最初のうちはカセットで録音とって、あとで授業終わって、家帰ってね、聞き直しながら、ああ、こいつ、こういう声してるとかね。ああ、こいつ、こういう力があるとかね。そういうのにカセット使って、生徒の特徴と声とね、能力を覚えるためにカセットなんかで使って…。

中村:自分の授業を自分でとって、それで生徒の声とか、特徴とかを覚えなおす…。

楠:それ、ちゃんとしてないとね、やっぱり、対応間違うとね、機械的にやるとねもう生徒離れていきますからね。だから、こいつにはこういう冗談言ったりね、こいつはちょっと少し厳しくしたりね、いろいろそういう対応の仕方は一人ひとりね、結構、配慮してましたね、そのことは。で、それはやっぱり自分、まあ、僕は、結構、教師になるのがあこがれでしたからね、で、それは、その、単に指導する教師っていうよりも、その、やっぱりそういう生徒との生の付き合いみたいなのをしたいという、自分のあこがれでしたからね。それは、結構、やり甲斐があったからね。

中村:まあね、そういうのがあったからこそ、楠先生をずっと学校に残してくれっていうような、そういうことにもなるんだろうし、家に遊びに行ってというのもね、そういうことになるんでしょうね。

楠:うん、そうそう。そういう付き合いできてるからね。で、ちょっと年齢の高い子なんかね、一緒におでん食いに行くとかね。

中村:おでんだけですか。

楠:飲んだりもしましたけど。ビール飲んだりね。

中村:ほんだら、その、基本的にはアシスタントの教員みたいなのが非常勤で、最初はついていて、3年目ぐらいから、それが盲学校の先生になったんですね。

楠:先生…、そうですね。

中村:盲学校の先生が派遣されてきたっていう…。

楠:そうです、そうです。盲学校の先生が派遣されて。

中村:盲学校で勤務した後に来てくれるっていうことですか。

楠:多分、その時間、外してるんでしょうね、本間先生が。別な、向こうで非常勤講師を雇ってね。で、その先生を空けて。だから、何曜日の何時間目は、まあ、授業終わってからですけどね、それでも早い目に終わらせて、まあ5時ぐらいには天王寺高校に来るという感じですね。

中村:ほな、まあ、府立盲と天王寺高校で、両方で、まあ、仕事をしてたっていう感じなんですかね。

楠:そうそう、そういう感じですね。

中村:それは盲学校の英語の先生…。

楠:そうです。

中村:同じ人だったんですか、かなり。

楠:そうですね。3人、代わったかな。最初はね、おもしろい人で、名前忘れたな、あの人が一番長い、盲学校が長い人でね、盲学校で、まあ、勿論、目が見える人だけどね、その人が英語科の先生ですけども、点字も結構できる人でね、その先生が、歩行訓練なんかもできる人でね、その人が結構長かったですね。それから、あと、男性の人が2年ぐらいして…。

中村:その最初の人っていうのは女性ですか。

楠:最初の人、男性です。ベテランのね。盲学校で英語と心理学と教えてる人でね。

中村:専攻科の授業ももってはってって感じで…。

楠:そうそう、専攻科の授業ですわ。で、普通科の英語とね、教えてたおもしろい人でしたけど。その人がだいぶついてくれてましたわ。で、それから、もう一人、次に…。それから、最後は女性の先生が。最後の数年やってましたね。

中村:盲学校の先生に代わったっていうのは、何かあるんですか。例えば、楠先生のほうから点字の英語ができる人をつけてほしいっていう要望を出したとか…。

楠:うーん、いや、多分、天王寺高校のほうからね、もうちょっと視覚障害のことよく知ってる人のほうがいいっていうことで、本間先生に、多分、要請したんと違いますかね。で、本間先生が、じゃあ、うちから出すわっていう話になったんやないかな。

中村:ほな、その、盲学校から派遣されてきてる先生っていうのは、そのときは、ずっと、もう、本間先生が府立盲の校長で、自分の学校の教員を派遣してるわけですね。

楠:派遣してる、そうそうそう。

中村:はあ、それは何かわかるような気がする、そうか、そうか。

楠:だから、本間先生がずっと校長して、90何年ぐらいやから、亡くなったのがな。ちょっと休憩しよう。

(中断)

中村:ほな、続きということで、あと、あの、まあ、サポート関係のことだけお伺いして、今日は区切りにしたいと思うんですが、あの、まあ、人のサポートっていうのは、今、お伺いしたように、週に何時間か、最初は非常勤講師、ほんで、のちには盲学校からの派遣っていうようなかたちで、まあ、墨字の処理のサポートを中心にやってくれる人が…。

楠:あとは教科書の点訳とかね。

中村:ていうのが、あの、一つですよね。あと、学校としての、例えば、今だったら、パソコンだとか、ああいうようなものもサポート機器としてあると思うんですが、当時、楠先生が勤めるのに、例えば、点字関係の機器だとか、学校の、例えば、設備で点字ブロックをつけるだとかそういうことって何かありましたか。

楠:いやあ、もう、全然なかったですね、それは。まあ、OHPを、オーバーヘッドプロジェクターを使わせてもらうとかね。あと、何かあったかな。特になかったですね。ほとんど、あとは、もう、その人的な、学校の先生が、同僚がちょっと手伝うとかね。まあ、あと、生徒に協力してもらうとかね、そういうぐらいで。まあ、給食のときなんか、生徒も連れて行ったり、同僚が一緒に食事、給食に食べに行ったりね、いうことぐらいかな。

中村:まあ、その、サポートの先生以外にも、適宜、周りの人が気づいたことをやってくれるみたいな…。

楠:うん、やってくれるみたいなね。

中村:で、まあ、楠先生のために、例えば、パソコンが1台用意されただとか、そういうことは全くない…。

楠:全然ない、ええ。まあ、その頃はまだパソコン機器や音声なんか使えませんでしたしね。

中村:ああ、そうですね。ほな、例えば、点字タイプライターが用意されただとか、そんなこともなく…。そんなんは持ち込みですか。

楠:持ち込みですね。そうですね。タイプライターも使ってないですね。点字盤で自分でやりましたからね。

中村:点字辞書を買ってくれたとか、そんなことはない…。

楠:ない、なかったです、全然。

中村:ほな、全く金はかけてくれなかったってことですか。

楠:そうそう、かけてくれなかったね。だから、もう、全部、辞書も自分の家に帰って、予習するぐらいですよね。

中村:そうか。まあ、持ち時間としても、あの、前ね、4とか6とかっていうのを普通の先生と同じようにこなしてたということですね。

楠:ほんと、そういう意味じゃ、やっぱり、協力、あの、具体的な協力っていうのはほとんどなかったですね。講師以外は。

中村:ねえ、その、もう、サポートはその、人が何時間かついて、目の代わりをしてくれるという…。

楠:感じですね。

中村:それだけだっていうことなんですよね。

楠:まあ、ほんと、当時は福祉機器っていうのもほとんどないですよね。まあ、カセットレコーダーを1代買ってくれたぐらいかな。

中村:あああ、うん。

楠:そんなもんですね。

中村:例えば、出勤簿なんかは、そのサポートの先生が押してくれるわけなんですね。

楠:そうです、そうです。

中村:まあ、教科書とかはいいと思う…、いいというかね、手元にあるからいいけど、例えば、職員会議の資料とか、そんなんはどうするんですか。

楠:全然、そんなのは、もう、まあ、非常勤だっていうこともあったんでしょうけどね、ほとんど、まあ、もし必要な事項については、その非常勤の先生に読んでもらってくださいって言って、渡されるぐらいですね。

中村:実際、いま、いろんな先生方にも聞いてもね、アシスタント、サポートしてくれる先生とのコンビネーションがうまくいかないとか、まあ、人間関係ですよね、これが悩みだっていう人はかなり多いんですけれども、先生の場合はどんな感じでしたか。

楠:僕は、結構、そういうのなかったですよね。うまく、割と、割とスムーズにいきましたね。もう、あの、入った先生たちはみんな、あくまでサポートに徹したからね。だから、他の先生、逆にね、サポートの先生がはりきりすぎて、何か、一度、口出したりね、何かそんなんでかえって合わなかったっていうのはあったみたいだけどね。一応、僕のやることにそんなに干渉するとかね、いろいろ言うってなことはほとんどなかったですけどね。これ、やってくださいって言ったら、はい、はいって言ってやってくれるっていうことですよね。

中村:まあ、あの、その、これやってくださいって言うのも、誰にでも、どういう言い方で言ってもいいっていうわけには、実際はいかないんだろうけども、そこらへん、何か、こう、うまく同僚の先生とか、管理職と付き合っていくのに気を付けてたこととかって言うのが何かあれば…。

楠:そうだね、ぼくもあんまりね、あの、ぎこちなくっていうことじゃなくてね、割とスムーズに話してましたからね、うん。そんなに、そういうサポートの人とぶつかるとかね。管理職とぶつかるとかがあんまりなかったですね。まあ、教頭には何か文句は言ったことはあったけどね。

中村:特に、まあ、そういう、人間関係とか、職場での人との関係、また、サポートされる側、する側の関係で、困るってことはそんなにはなかった…。

楠:なかったですね。ただ、まあ、あえて、だから、その、英語科以外の先生でね、声かけてくれるとかね、何か、そんなのが少なくて、それはちょっと不満といえば不満ですよね。他の先生は、まあ、言ってみれば当たらず障らずでね、拒否はしてなかったと思いますけども、まあ、あの、へたに声かけんとこにたいなね。うん、どうしていいかわからないっていったとこもあったのかもしれないけど、とにかく、ほとんど、会話がすごく少なかったですね。何人かのベテランの先生ぐらいですよね。

(電話がかかってくる)

中村:電話ですね。

楠:ちょっとすみません。

(中断)


◆視覚障害教師として


中村:もう、時間がきてるので、最後、一つだけのお話、でね、まあ、天王寺高校で視覚障害の教員として、まあ、障害をもつ教員は勿論一人だったと思うし、まあ、視覚障害をもって普通学校の教壇に立ってるっていうのも例のないことだったと思うんですけども、そういう、まあ、立場で、学校の中で、視覚障害教師として、目指していたこととか、こんなふうに自分は役割を果たそうと思っていたこととか、そういうことっていうのは何かあれば教えていただきたいんですけども…。

楠:まあ、やっぱり生徒に、あの、目の見える生徒たちに障害者の存在を知らせてね、いったことと、やっぱり、まあ、変な話、障害者でもって言い方は好きじゃないけども、障害をもってても教員ができると、で、むしろ、健常者の教師よりもね、まあ、生徒との付き合いに関しては、スムーズにできたっていうかね、生徒の心を、特に、あの、いろいろ問題抱えた生徒、特に定時制なんかたくさんいますしね、そういう(聞き取り不能)の気持ちっていうのは、むしろ、自分も障害をもってたが故にね、困難を抱えて生きてきたが故に、彼らの思いっていうのが、気持ちっていうのが、よくわかったし、つながりもできたんじゃないかという意味では、やっぱりね、その、むしろ、プラスの側面ね、障害もってたからこそね、できたっていうか、いろいろしんどい生き方をしてきた自分だからこそ、生徒とのつながりもできたという意味では、僕はよかったなと思ってますけどね。だから、むしろ、そういう、その、英語の成績がものすごく悪いとかね、まあ、生活でも何か結構投げやりになりかけてた生徒とかね、それから、まあ、かなり准看でしんどい思いしながらもがんばってた生徒たちがね、やっぱり僕との付き合いの中で結構励みになってくれたっていうかね。うん、で、最初は、英語、ずっと、もう、全然、英語の時間なんか教科書持って来ない生徒が半分ぐらいいたけども、僕が、必ず、その、友達の本、借り手もいいから読めとかね、あの、僕の口うつしでもいいから一緒に英語読めとかね、言ってね。それから、答案の最後にね、まあ、これは講師の人とちょっとしんどかったかもしれんけど、僕は一枚一枚答案のうしろにね、必ずコメントを書く、試験の度にね、中間試験と期末試験のときにはね。何十人とも、全部、一人一人にコメント書いてね、このへんが問題だとか、お前、何でこんな、白紙答案なんか出すなとかね、何で出すんだとかね、いろいろやったり、言ったり、その、そういうコミュニケーションっていうのをね、答案を通じて、まあ、普段、付き合いのない子でもね、ちゃんと学校へ出て来いとかね、そういうことを、は大事にしたんですよね。それを通じてね、やっぱり、最後の頃にはね、英語、全然、もう、白紙答案出す子はほとんどいなくなりましたしね。僕の授業、必ず何か書いてくるとかね。で、例えば、ボーイってつづりを、boyをね、bayって書いてもね、まあ、僕は1点やるとかね。boyを間違えたから、もう、0点だというふうに全部せずに、やっぱり書こうって、その、ちょっとでもやろうとしたっていうね、努力を評価すべきだというのを、僕の、まあ、信条って、それで、だから、例えば1個2点だったらね、1点をやると。そういうかたちでね、やろうという姿勢があったら、0点にしないということでやって、やりましたしね。かかわり大事にしたからね。白紙答案っていうのはなくなりましたね。で、とにかく、少しでもがんばろうと。で、何人かの生徒は、もう、最初は、もう、ほとんど0点に近かったのがね、5、6点だったのが、最後は30点ぐらいね、取るようになった生徒、何人かいたりね。少しは勉強しようという気になった、そういうのも出たのがやっぱりよかったですね。で、荒れてた子、授業中、酒飲んで帰って来るような子でね、しょっちゅう先生に呼び出されてた子もね、卒業して何年かして、結婚式のときにね、僕を、担任呼ばずに、僕を結婚式に呼んでくれたのが、何人かいました、3人ぐらいね。そういう、何か、付き合いとかね、当時、いろんな問題抱えた子どもら、生徒たちとの付き合いってのができたっていうのはね、やっぱり、よかったなというように思いますね。

中村:まあ、その、深い、生徒との、まあ…。

楠:そうですね。信頼関係っていうかね。付き合い、かかわり合いっていうのね。僕は、だから、障害…、だから、何もその、健常者らと同じだけの能力発揮してね、それは、勿論、その、ちゃんとした指導するっていうことも大事だけれども、むしろ、健常者ではできない部分っていうかね、健常者ではカバーしきれない部分を、むしろ、障害をもってる自分だからこそできた部分っていうのがね、別な意味であったんじゃないかと、意味があるんじゃないかなという。で、そこがやっぱり、もっと障害をもった教師っていうのは売りにしたほうがいいっていうかね、うーん。

中村:そうですよね。効率とか、能力的に、一辺倒ではないところを…。

楠:そうそうそう。まあ、効率でいったら、それは、障害者の教師がね、健常者と対等に、全く迷惑かけずにやれるかっていったら、それはね、やっぱり、ある程度、限界がありますもんね。だから、そこは別な部分でカバーするというかね。だから、足りない部分は補ってもらう。それは、目が見えない障害をもってるということを、事実ね。で、それで、やっぱり、その、物理的にやりきれない部分っていうのは、まあ、文字処理とかね、コンピューターでいろいろ工夫はするけども、それでも、完璧にはできないですよね。健常者と同じようには。だから、そこはカバーしてもらって当然だと思うんですよね。その代わり、それ以外の部分についてね。それから、まあ、同僚との付き合い方もやっぱりね、そこは障害者であると同時に、やっぱりその人の人間性みたいなのが問われる。そこは、ある程度ね、あまり、その、頑固に突っ張るとね、同僚との関係をうまく作れないってことになりますよね。そのへんの、自分自身の、まあ、構え方というか、きたえというかね、それは障害もった教師にはいるかなという。まあ、誰でもいるんだけど、特に、晴眼者だったらあの先生ちょっと変わってるわで済まされるけどね、障害者の教師っていうのは、それで済まされないですよ、やっぱりね。まあ、頭下げるところは、やっぱり頭下げなあかんしね。そこの部分ってのは、テーマかなと思いますけどね。

中村:そうですよね。まあ、自分で何でもできるわと思ってるひとはね、いやだったらいやな人から逃げればいいし、かかわらなきゃいいけれども、障害者はやっぱり人とかかわらないと生きていけないんですよね。

楠:そういうことなんですよね。何も教師じゃなくてもそういうことね。やっぱり、一般、今のこの社会で生きていこうと思ったらね、かかわりっていうのは避けられないですからね。

中村:はい、長い間、ありがとうございました。

楠:ああ、いえいえ。

中村:今日は、もう、先生の、その、教師になられた経過みたいなのが詳しくお聞きできて、はい、よかったと思います。また、あの…。

楠:今度はJVTだよね。

中村:そうですね。まあ、視覚障害教師の会の発足と、あと、その、出来事、あと、また、できたら、多分楠先生も、まあ、今、今日のお話ではね、その、教員になって仕事をされたお話だったけど、やっぱり実践っていうのがね、多分、あったと思うんで、教育の実践の話なんかもお伺いできたらうれしいなと思ってますので、また、あの、お時間の許すときに是非よろしくお願いします。

楠:はい、わかりました。

中村:今日はどうもありがとうございました。


【音声終了】



UP:20210605 REV:0610
楠 敏雄  ◇視覚障害  ◇全国障害者解放運動連絡会議(全障連)  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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