公聴会のあと、「主査」という役の教員が「審査報告書」というものを書く。A4・1枚の短いものだが、基本褒めなければならない、しかし、あまり虚しく持ち上げても悔しい、というものでもあり、それを教授会で全文を朗読せねばならないというものでもあり、これを書くのはなかなか気の重い仕事だ。だからもったいなくもあり、これまでも、こちらの修了者の博士論文をもとにした本の「解題」などではしばしばそれをそのまま再掲してきた。今回も、論文の要旨、といった部分は省いて、そうする。
著者は、四肢麻痺、発話障害、視覚障害を併せ持っている。通訳者=介助者が「アカサタナ」と言ってサ行で身体を揺らし、「サシス…」と言うとスの時に身体を揺らして、「ス」と確定する、といった具合に発話する。そう聞いて思うよりはずっと早く発信はなされるが、それでも時間を要する。それを円滑にし時間を短縮させるのが、長く著者と関わりこの仕事に習熟した通訳者=介助者たちである。どのようにしてこの方法が始まり、発話しようとする言葉を「先読み」したりして短縮する方法を双方が作り上げてきたか、実際にどのようにして発信はなされているのかが、とくに本論文の前半において解析され提示される。
それは特殊な方法ではあるが、しかし発話が時間的その他の制約のもとにあること自体は普遍的なことであり、そこに他者が入り込んでくることも普遍的である。条件が変わっていくと発話の仕様・過程がどのように変容していくのか。それを本論文は詳細に具体的に明らかにしている。独創的で有意義な研究がなされその成果が本論文に記されている。そのことにおいて既に、本論文は博士論文として十分な水準に達していると審査委員会は判断した。
さて、こうした技術はまったく有効で有益なものだが、とくに博士論文のような、論理を展開してく長いものを書こうとする場合、たんに文字列を予想するだけでなく、通訳者はときに先に続く論を提案することもある。するとそれは誰が作っていることになるのか。他人が介在することの益を得るが、自分の作品であると思いたい。それを著者はジレンマであるとするが、ただ二つの益を得ようとしているとも捉えられる。その指摘に対して、著者は、あらゆる人がそうして人々やその営為の堆積があって初めてものを生産しているのに、障害者の場合には他者の介在の事実が見えやすいので、相対的に、しかし大きな度合いで自身の寄与が低く評価されてしまう度合いが高いのが不当であると書いているのだと応えた。それは妥当な応答である。ただ、詳細に本論文で明らかにされるのは、協同で生産されているという事実であり、結論として提示されるのも、結局のところ、みなで(「多己」が)ものを作っていることを認めよということである。
すると一つ、ここでは自分が作っていると(思いたいという)思いは解消される(べき)という話になりそうだが、それでよいか。一つ、その主張はもっともであるとしても、それは普遍的な普通の事実を認めよというただ普通の話に帰着するだけにならないか。すると一つにはさらに進め、そして著者にもそうした線でこれからの研究を進めようという考えがあるのだが、通訳者を介助者というより情報生産の協同生産者として社会的にも待遇すべきだと主張するという道もある。
こうして、どのような論に繋げまとめていくのかについては種々の意見が審査委員からも出された。ただ、こうして多様な展開の可能性があることもまた本論文が優れた成果であることを示している。本論文を博士論文と認めることになんの異論もなかった。
以上により、審査委員会は一致して、本論文は本研究科の博士学位論文審査基準を満たしており、博士学位を授与するに相応しいものと判断した。