HOME > Tateiwa >


人命の特別を言わず/言う


立岩 真也 2022 筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/

Tweet



立岩真也『人命の特別を言わず/言う』表紙
 ◇はじめに
 ◇目次
 ◇文献表(別頁)
 ◇『人命の特別を言わず/言う 補註』(別頁)
 ◇お知らせ:https://twitter.com/ShinyaTateiwa
 ◇編集者とのやりとり


立岩 真也 20221219 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房,288p. ISBN-10:4480864806 ISBN-13:978-4480864802 [amazon][kinokuniya] 2200+ ※
立岩 真也 20221210 『良い死/唯の生』,筑摩書房,ちくま学芸文庫,624p. ISBN-10:4480511563 ISBN-13:978-4480511560 [amazon][kinokuniya]  ※
立岩 真也 2022/12/25- 『人命の特別を言わず/言う 補註』Kyoto Books
立岩 真也 2022/12/30 『生死の語り行い・3――1980年代・2000年以降』Kyoto Books


■『人命の特別を言わず/言う』の「序」

 「ある基準線を作って、その線よりも上にいる存在は殺さない、下にいる存在は殺してもよいことにする(A)。すると、いくらかの、あるいはかなり広い範囲の動物は殺してならないことになる(B)。他方、線の下にいる人の生命の維持は不要であるということになる(C)。
 むろんその線の場所、その場所の辺りは問題になる。「上」から見た時、その上側に属するかが「ぎりぎり」あるいはその下の人・ヒトはどうなるのだろうと問題にされる。生命倫理学・動物倫理学の領域では、「限界事例(marginal case)、「AMC」(=「限界事例の主張(the argument from Marginal case)」という言葉もあるらしい。
 動物を食べるべきでない、殺すべきでないという主張がまずまずの支持を得ている。それが、基準を満たしているから生かす(A→B)という主張であるなら、満たしていない人は死んでよい、あるいは殺す(A→C)ことも支持されることになるだろうか。
 このことに関わって書かれたものはまずまずの数あるのだが、一つに、A→Cは、とくに動物を大切にという話のなかでは、あまり、あるいはまったく意識されない。そして、この構図の全体をいちおう知る人は、三つに分かれる。一つは難しい問題だと言って、話を先延ばしにし、終える。一つは、この図式をすなおに肯定する。最後が、いやそういうことではなかろうと言う、言おうとする。
 本書は、そして私は、この最後のものを支持する。支持者はたくさんいると思うのだが、その理屈を通すとなると、そう簡単ではないように見える。その理由の一つに、肯定する話にももっともなところがあることもあるだろう。
 そのこともふまえながら、本書は人命の特別を言わず、言う。それが題になっているが、基本的には「言う」。その話の一つひとつの話は、みな、私が思うには、とても当たり前のものだと思う。しかし、意外に言われない部分があり、また本書での話の組み合わせを見かけることもないように思う。その意味では、たぶん、誰もがわかっているのに、書かれたことのないことが本書では書かれる。

もう少し長い要約
 第1章ではピーター・シンガーらの議論を紹介し、その主張がおかしなものであることを確認する。その人たちは「種差別主義」を批判し、「脱人間中心主義」を主張すると言い、ヒト/ヒト以外の境に特別の意味がないとする。そうしたうえで、類人猿といったある種の動物については、殺すべきでないとする。その理由は、まず、意識・理性があることに求められる(第1節)。
 しかし、まずそれは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない。むしろ逆である。それは、普通に考えれば、人間が思いつき、人間が(特別に)遵守すべき規範だという意味で、人間中心主義的である。そして、生物・動物全般の中から殺してならないものが選ばれるその理由は、人間の多くが有している属性を有していることに求められるのだが、それもまた人間中心主義的である。そしてその属性を特別なものとして選ぶことの理由は不明である(第2節)。
 他方、高等な性能でなく快苦を重視する方向に行くなら、尊重されるべき範囲は拡大される。この場合には殺生の全般が問題になり、そして生物の全体の倫理とするべきことに、論理としてはなる。あらゆる生物が生物を殺さない摂取しないことなど事実不可能であることを言うことはできるが、できる限りその方向に行こうと主張することはなお可能である。となると、殺生の全般について規範的にどう言うかという問題に立ち至る、あるいは立ち帰ることになる(第3節)。
 そのうえで、特別に、人が人を殺すべきでないわけを言うことは可能か、どのように可能かという問いが残る。
 第2章では、基本的に、殺生を悪であるとはしない、すくなくとも禁じられねばならない悪だとはしないという立場を採ろう、採るしかないだろうと述べる。動物が動物を殺す世界において、人間が動物を殺すことをしてはならないとも言えないとする(第1節)。
 それにしても、人はずっと間違えてきたと言える人たちは不思議だと言う。また、「種(差別)主義」が人種差別と同じで、前者を言う人は後者を正当とすることになるという主張がなされてきたのだが、そのように考える必要がないことを述べる(第2節)。
 すると、そのうえで、人が人を殺すべきでないわけを言うことは可能か、どのように可能かという問いが残る。あるいは現れる。まず、おおむねの事実として、人は人を、動物を殺生するようには、食べるために殺すことはせず、それはよくないことであるとしている。それはおおむねの事実であるとともに規範として作動している。それを受け入れてよいだろうとする(第3節)。
 そして、人が人を殺す理由・事情を見てみようと言う。他の生物とは異なり、例えば正しさのために、人は人を殺すことができる。そして実際にたくさん殺してきた。その正しさの中には第1章で示され検討した(私たちが考えるに間違った)正しさも含まれる。そして、殺すことを駆動する強さも規模も、人間においては特別である。そこで、禁止しても殺し続けるだろうが、しかしせめて、殺してならないとする(T)。また、その殺す際の「やむをえなさ」は、生きるために食べる場合と連続的だから、区別は不当だとする批判は当たらないと述べる(第4節)。
 その特別扱いの「起源」は定かでないが、人から人が生まれることを経験し、そのできごとを人々が知っていること、それを尊重すべきであると考えられていることが関わっていると考えることはできる。すると、せめて殺さないことにするというその範囲は、ヒトという「種」の境界において区切られることにはなる。
 第3章では、さらに、一人ひとりを殺さないその理由を、そこに一つひとつの世界があるだろうこと(V)にあると述べる。そして、とくに死に際して、人が死を恐怖する存在であること(W)が考慮されるべきであることを言う。ここで私たちは知性を理由にしているのだから、第1章で検討した話に近づくことにはなる。私(たち)は生命の絶対尊重派に属するのではない。ただ、知性を有していることは、生存を積極的に肯定するものでなく、いったんとにかく人は生かす殺さないとしたうえで、死を避けさせようというその理由となるものである(第1節)。
「延命」のための処置の停止と、死のための積極的な処置とは同じであるから、どちらも許容されるという人たちがいる。その議論の前段には認めてよいところがある。しかしそのことは両者を認めることを意味しない。確実に訪れることとその時を知り、そのための行ないを行なうことと、やがて終わりが訪れることは知りながら、確かなその時を知らずそれまでの時間をやり過ごすこととの間には、差がある。意味がないとされた区別にじつは意味があることを示す(第2節)。
 第4章では、この境界の論じ方について考える。シンガーとデリダが一つに括られ肯定されるといったことが不思議に思われないことの不思議を言い、「境界を揺るがす」というこの時代に流行した構えからはそんなにたいしたことは言えないことを言う(第1節)。
 むしろ、人間の系譜を辿り、人間が主体であることを批判したその流れから受け取るものがあることを述べる。ニーチェを受け取った吉本隆明は福音書について書き、そしてときに同じ書で親鸞の往還の思想を論じた(第2節)。
 そして人間であることを仕方のないことと受け取り、扱いにくいから仕方なくときに丁寧に扱うべきことを言う。そしてそこから、この社会のあり方について普通に言えるだろうことをいくつか確認する(第3節・第4節)。

事情の説明
 二〇〇八年に『良い#死{★1}』を、二〇〇九年に『唯の生』を、筑摩書房から刊行してもらった。そしてその後者、『唯の生』は入手できなくなってしばらくが経った。いずれも読んで楽しめるといった本ではないが、今でも、あるいはこれからも、あってよい本だと思い、本書の刊行にも合わせ、ちくま学芸文庫の一冊として『良い死/唯の生』(立岩[2022c])を出してもらった。
 ただ、二冊をそのまま一冊にすると、文庫一冊に収めるには多すぎる量になるということもある。『唯の生』については、文庫に収録したのは第5章以降とした。第2章から第4章は「現代史」に関わる章だったから、これは別途、オンラインで公開する本(ページ)にす#る{★2}。
 以前から、その『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」に書いたことは、その部分だけを取り出し、読んでもらいたいと思っていた。そこでこのたび、この部分をもとに本を作ることを提案し、刊行してもらう運びになった。
 当初はもとの「人命の特別を言わず/言#う{★3}」をほぼそのまま使う小さな本のつもりだったが、だんだんとそうもいかないように思えてきた。そして、すぐにできるような気がしていたが、そうもいかないことになってきた。考えることが出てきた。当初考えたより一年ほど遅い出版になったのだが、そうして結局時間がかかってしまった間、考えたり考えなおしたりしたのは、よいことだったように思う。本書の第2章・第3章に書いたことのかなりの部分は、そうして新たに加えたものになった。
 本をほぼ書いてしまってから、多くは、この本を書こうと思わなければ知ることのなかっただろう本をいくらか集めてもみた。これからも、私自身がそれらを読みこむことはないだろう。ただ、こんなものがあることは知ってもらってよいと思い、その五九冊のリストを、著者名アルファベット順の文献表と別に、作って註に並べ#た{★4}(二一頁)。また、大学院生などで読んでみようという人のために、その本の現物をすべてひとところに集めておこうとも考え、購入したもののすべては研究所(立命館大学生存学研究所)の書庫に配架した。そして、まずはたんに書誌情報だけを記載というものが多いのだが、一冊一冊についてHP上のページを作った。
 長くずっとそうなのだが、私の本の文献リストは、関心もつ人いませんか、いたらば、という性格のものだ。そして、本書の註をさらに増補・拡充するとともに、註・文献表にあげた文献等について、各々の文献等のページにリンクされている『補註』(立岩[2022b])を作成し、サイト上に掲載・公開した(「人命・補註」で検索)。このたび始まったことではない。文献については最初の単著からずっとそうだ。私自身はそう関心がなく、きちんとは読まないだろう文献もあげてきた。研究するならいくらかは手伝う、勉強のために役立ててくれるなら本も買って並べておく、ということだった。『自由の平等』(立岩[2004a])もそんなつもりで作ったが、残念ながらその方面、つまり政治哲学とか分配的正義といった領域で研究しようという人はそうやっては来なかった。しかしもちろん、わざわざ私の勤め先にやって来る必要などない。『自由の平等』についてはやはり文庫版での提供を考えている。
 そうした領域についてみなもっと考えてほしいと思うのに比べると、「動物倫理」を勉強してほしいと、私自身はあまり思っていない。ほかにするべきこと、するとおもしろいことがいくらもあると思っている。ただ、よいことを言ったり行なったりする時、あるいは社会を批判する時、ふだんはただそれを言えばよいし行なえばよいのだが、その中身によっては、ときどきは、疑ってみることはあってよいと思っている。そのことも本書に書いたのだが、人間は、立派になろうとして、正しくあろうとして、間違ってしまう。間違えるだけならまあよいし、もちろん肉を食べないこともよいことだが、「限界事例」(→序・冒頭)と呼ばれてしまったりする人たちに迷惑をかけるのはよくないと思う。
 じつは『良い死』『唯の生』でもお世話になった、さらに遡ればその出版の五年ぐらい前だったか連絡をいただきそれ以来ということになる、筑摩書房の石島裕之さんが、『介助の仕事』(立岩[2021a])に続き、本書を担当してくれた。本書のために「ノート」というメディアでの連載を提案してくれて、その連載のための作業、その都度の校正などしていただいた。感謝いたします。

  二〇二二年八月
立岩真也

★1――『良い死』の序より。全文はHPでご覧になれる。
「死/生について論じるといったことは、できもしないし、気がすすまない。にもかかわらず、『AL
S――不動の身体と息する機械』(立岩[2004f])という、重いといえば重い話も出てくる本を書いてもしまったから、もうしばらくはやめておこう、遠ざかっていようと思っていた。
 けれども、「尊厳死」してもよいという法律を作ろうという動きが出てきたことを聞きつけた人から、それはとても困ったことだ、これでますます死ななくてよい人が死んでしまうと、だから何かせよと言われた。すぐに法律ができるということになるとは思わなかった。ただその心配な気持ちにはもっともなところがある。
 言うべきことは、ことが起こる前にきちんと考えておいて、言っておくべきなのだが、そう思って見渡してみると、すぐに使える言葉がない。つまり私たちは、ものを書く者たちはだめなのだ。すぐに取り出せる道具を揃えられていない。だから泥縄になってしまうのだが、それでもその場で考えて言うしかないということになる。
 そんなことがあって、そして原稿の依頼があったり、本の企画があったりして、結局、二年、三年と文章を書き続けることになった。とくに本にする段階で、幾度も構成が変わり、文章もかなりなおしたり書き足すことになった。結果、ずいぶんな時間がかかった。そして一冊で終わらず、二冊になり、そして三冊になってしまった。」(立岩[2008b])
 一冊めが『良い死』、二冊めが『唯の生』。三冊めは本をたくさん紹介する本にしようと思ったが、きりがないことになりそうだった。そこで、まず二〇一二年に、#有馬斉{あり/まひ/とし}(有馬については本書一三六頁)との共著で『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』を刊行した。この年、生命倫理学会の大会があり、私がその大会長ということであったのだが(その時の大会長講演が「飽和と不足の共存について」)、「会員のみなさんはこれこれを知ってますか、知らなければ知ってほしいです」というつもりもあった。知ってほしい、種々の団体が出した声明の類を再録し、いくらかの本の紹介をした。これは私が担当した。それに有馬の論考を加えた。たくさんの本を紹介する本としては、その五年後、二〇一七年に、電子書籍(といってもただのHTMLファイル)として『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本etc.』(立岩[2017]、http://www.arsvi.com/ts/2017b2.htm)を作った。本書の『補註』と同様、サイト上のページにリンクされたほうがよいと思ったことにもよる。ただ、驚くほど売れてはいない。
★2――『唯の生』の目次は以下。
  第1章 人命の特別を言わず/言う
  第2章 近い過去と現在
  第3章 有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと
  第4章 現在
  第5章 死の決定について
  第6章 より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死
  第7章 『病いの哲学』について
 詳細な目次、序文をHP(http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm、「立岩 唯の生」で検索)でご覧になれる。第2章から第4章は、HP上で無償公開する『生死の語り行い・3――有限でもあるから控える』(立岩[2022d])に収録する。
★3――その冒頭にその趣旨・概要を書いた。
「*この章はいくつかの文章を合わせ再構成したものである。生を奪ってならない/奪ってよいことについて、言われてきたことを検討し、私が考えることを述べる。論理を詰めるべきところはまだいろいろとあるけれども、まず、いくつか、あまりはっきりと言われていないが言えるだろうことを述べる。そして基本的にはこのように考えられるだろうと思うことを述べる。
 まず、「延命」のための処置の停止と死のための積極的な処置とは同じであるから、どちらも許容されるという人たちがいる。その議論の前段には認めてよいところがある。しかしそのことは両者を認めることを意味しない。(第1節)
 死なせることを是認する積極的な理由としてその人たちが出すのは、α:意識・理性である。なぜそれを言うのか。三つを考えることができる。(1)脱人間中心主義的な倫理を言いたい。(2)人が人を特権化している理由を説明したい。だが、(1)について、それはとても人間中心主義的な主張である。(2)については、その人たちは人を特権化していないし、特権化できていない。すると(3)αという特性を大切なものであると考えたい、それだけが残る。しかしその正当性は不明である。(第2節)
 これらの議論と別に、ときにその論に反対して、人と人との関係、というより相手に対する自らの思いを基点とする立場がある。たしかに人の関係は大切であり、社会の現実にも大きく関わっている。しかし、むしろだからこそ、その関係や思いと別のところで判断すべきだと考えられる。(第3節)
 では私はどう考えるのか。それを述べてみる。そしてその上で、人間を特別に扱うこと、扱ってしまうことをどのように言うのかを言ってみる。(第4節)」(立岩[2009:16])
「いくつかの文章を合わせ」とある。「人命の特別を言わず/言う」(立岩[2008a])に、シンガー、クーゼ、加藤秀一の本を紹介した『看護教育』(医学書院)での連載「医療と社会ブックガイド」の六回分を加え、構成を変え、加筆した。目次は以下。
  1 新しいことは古いことと同じだから許されるという説
   1 伝統の破壊者という役
   2 既になされているからよいという話
  2 α:意識・理性…
   1 α:意識・理性…
   2 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
   3 それは人の生命の特別を言わない
   4 ただそれが大切だと言っているがその理由は不明である
  3 関係から
   1 〈誰か〉への呼びかけ
   2 関係主義の困難
   3 かつて親などというものはなかったかのように
  4 別の境界β:世界・内部
   1 世界・内部
   2 人間/動物
   3 復唱
 第1節・第2節は、本章第1章に組み込まれた。第4節は、第2章の一部になった。ただこれには書かなかったこと、すくなくともはっきり書かなかったことを、本書には加えて再構成した。
 第3節は、当初、いくらか書き直し本書に組み込もうとしたが、私が言えると思うことをあまり手間どらず、順番に言うことを優先するのがよかろうと考えたため、結局、本書の四つの章には組み込まなかった。ただ、意義のあるものとは思ったので、本書の本体の後に「拾遺」として付すことを考えたその原稿と、もとの『唯の生』第1章全体を、さきに作成・公開することを記した(一八頁)本書の『補註』(立岩[2022b])に収録した。
★4――ほとんどは新たに入手した書籍は以下。翻訳のないものはあげていない。原著の刊行年順に並べる。
『動物の解放』(Singer, Peter[1975=2002])、『アニマル・ファクトリー――飼育工場の動物たちの今』(Mason & Singer[1980=1982])、『動物の権利』(Singer & Regan eds.[1985=1986])、『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])、『肉食という性の政治学――フェミニズム-ベジタリアニズム批評』(Adams, Carol J.[1990=1994])、『大型類人猿の権利宣言』(Cavalieri & Singer eds.[1993=2001])、『死体の晩餐――動物の権利と菜食の理由』(Kaplan, Helmut F.[1993→2002=2005])、『神は何のために動物を造ったのか――動物の権利の神学』(Linzey, Andrew[1994=2001])、『動物の権利入門――わが子を救うか、犬を救うか』(Francione, Gary L.[2000=2018])、『動物の権利』(DeGrazia, David[2002=2003])、『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[2002=2007])、『開かれ――人間と動物』(Agamben, Giorgio[2002=2004])、『動物の権利・人間の不正』(Regan, Tom[2003=2022])、『動物の権利』(Sunstein, Cass R. & Nussbaum, Martha Craven eds.[2004=2013])、『児童虐待と動物虐待』(三島亜紀子[2005])、『アニマルウェルフェア――動物の幸せについての科学と倫理』(佐藤衆介[2005])、『わたし、ヴィーガンと出会う』(北野玲[2006])、『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(Derrida[2006=2014])、『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史』(Pollan, Michael[2006=2009])、『正義のフロンティア――障碍者・外国人・動物という境界を越えて』(Nussbaum, Martha C.[2006=2012])、『動物からの倫理学入門』(伊勢田哲治[2008])、『アメリカ動物診療記――プライマリー医療と動物倫理』(西山ゆう子[2008])、『動物の解放 改訂版』(Singer[2009=2011])、『ぼくらはそれでも肉を食う――人と動物の奇妙な関係』(Herzog, Harold[2010=2011])、『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか――カーニズムとは何か』(Joy, Melanie[2010=2022])、『ヒトと動物の死生学――犬や猫との共生、そして動物倫理』(一ノ瀬正樹・新島典子編[2011])、『人と動物の政治共同体――「動物の権利」の政治理論』(Donaldson, Sue & Kymlicka, Will[2011=2016])、『肉食の哲学』(Lestel, Dominique[2011=2020])、『動物倫理入門』(Gruen[2011=2015])、『恐怖の環境テロリスト』(佐々木正明[2012])、『獣医倫理・動物福祉学』(池本卯典・吉川泰弘・伊藤伸彦監修[2013])、『動物・人間・暴虐史――飼い貶し≠フ大罪、世界紛争と資本主義』(Nibert, David A.[2013=2016])、『ジャック・デリダ――動物性の政治と倫理』(Llored, Patrick[2013=2017])、『動物と戦争――真の非暴力へ、《軍事-動物産業》複合体に立ち向かう』(Nocella II, Anthony J. et al. eds[2014=2015])、『食物倫理入門――食べることの倫理学』(Sandler, Ronald L.[2014=2019])、『動物福祉の現在――動物とのより良い関係を築くために』(上野吉一・武田庄平[2015])、『マンガで学ぶ動物倫理』(伊勢田[2015])、『現代思想からの動物論――戦争・主権・生政治』(Wadiwel, Dinesh Joseph[2015=2019])、『食農倫理学の長い旅――〈食べる〉のどこに倫理はあるのか』(Thompson, Paul B.[2015=2021])、『日本の動物法 第2版』(青木人志[2016])、『動物倫理の新しい基礎』(Rollin, Bernard E.[2016=2019])、『ビーガンという生き方』(Hawthorne, Mark[2016=2019])、『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』(Taylor, Sunaura[2017=2020])、『環境と動物の倫理』(田上孝一[2017])、『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(村上克尚[2017])、『肉食行為の研究』(野林厚志編[2018])、『人と動物の関係を考える』(打越綾子編[2018])、『食べることの哲学』(檜垣立哉[2018])、『肉食の終わり――非動物性食品システム実現へのロードマップ』(Reese, Jacy[2018=2021])、『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(生田武志[2019])、『ヴィーガン――完全菜食があなたと地球を救う』(垣本充・大谷ゆみこ[2020])、『快楽としての動物保護――『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ』(信岡朝子[2020])、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(浅野幸治[2021])、『はじめての動物倫理学』(田上[2021])、『法の理論』39 特集:「動物の権利」論の展開(2021)、『動物福祉学』(新村毅編[2022])、『動物倫理の最前線――批判的動物研究とは何か』(井上太一[2022])、『「動物の権利」運動の正体』(佐々木[2022])、『現代思想』50-7(2022-6) 特集:肉食主義を考える、『動物――ひと・環境との倫理的共生』(谷津裕子[2022])。
 さしたる根拠のない列挙にすぎないが、ここまでで五九冊。一九八〇年代までが四冊、九〇年代が四冊、二〇〇〇年代が一五冊、二〇一〇年代が二六冊、二〇二〇年からが雑誌の特集号も含め一〇冊と、増えてはいる。本書ではこの他、家畜化(と自己家畜化)についての書籍を第2章註9(一三一頁)に、肉食の歴史についての書籍を第2章註13(一三四頁)に、鯨・捕鯨、鯨・イルカを捕ることに対する反対とその批判についての書籍を第2章註14(一三四頁)に、人を食べること・カニバリズムについての書籍を第2章註21・22(一四〇頁)にいくつかあげた。また、第2章註1(一二六頁)で、いまあげた本のいくつかについて言及し、「生物多様性」についての本をあげている。このたび井上[2022]を刊行した井上太一は、Nibert[2013=2016]、Francione[2000=2018]、Wadiwel[2015=2019]、Hawthorne[2016=2019]、Reese[2018=2021]、Regan[2003=2022]の訳者でもあり、このかんの言論の普及に貢献している。『現代思想』の特集号では、本書でいくつか文章を引用する伊勢田と対談をしている(伊勢田・井上[2022])。その前年の『法の理論』の特集に収録されている特集関連の論文は三本。「動物権利論と捕食の問題」(浅野幸治[2021b])、「動物権利論の拡張可能性について――新たな権利概念の措定と関係アプローチの導入」(鬼頭葉子[2021])、「動物倫理の議論と道徳的地位の概念」(久保田さゆり[2021])。『現代思想』の特集にはもっとずっと多い数の文章が収録されている。Joy[2010=2022]の出版に合わせてということもあったのかもしれない。その本についての言及も多い。それはそれらにまかせて、本書では、いくつかの文章から短い引用をするにとどめている。
 書籍についても、本書では、いくつかから引用を行なったりはするが、著作の全体を検討したりすることはしない。できない。書かれていることの一つひとつの多くはもっともなことであり、現実を変えようとする人たちは、それらを合計した全体で例えば「ヴィーガン」を肯定しようとする。大きな異議を申し立てようという主張にありがちなことだが、ある部分に対してなにかを言うと、それには直接に応えず、別のことを言って返すといった具合に主張がなされる。だから、全体を捉え、きちんと相手しなければならなくなるのだが、それはなかなかたいへんだ。ずっと以前、上野千鶴子の論におかしなところが(たくさん)あると思い、書かねばと思って書いていったら、旧式の計算法では400字詰原稿用紙で220枚というとても長いものになってしまった――「夫は妻の家事労働にいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」(立岩[1994])、『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])に再録。このたびの主題についてそれだけの手間をかける余裕はない。
 ついでに、この主題に関係して私が以前に書いた文章は、『看護教育』に連載した「医療と社会ブックガイド」の第五二回、「『児童虐待と動物虐待』」(立岩[2005c])。三島[2005]を紹介した。三島はその次の著書『社会福祉学の〈科学〉性――ソーシャルワーカーは専門職か?』(三島[2007])でもこの主題にふれている。


■紹介・言及
 ※強い批判・非難もけっこうあるようです。見つけたらそれらも引用させていただきます。

◆2023/03/03 https://twitter.com/dokuich/status/1616353683670982656
 「立岩真也『人命の特別を言わず/言う』(筑摩書房)。本筋とは関係のないところにどんぴしゃ。「人間とその社会ができることはごく部分的なことだが、この程度のことならできる、なのでやる、と言うことはできるし、言うだけでなく行うことができる」(立岩 2022:232)。自分でも同じこと喋ってた。」

◇2023/03/20 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1637814801098502144
 「続き:「それは例えば、利口な人にはいろいろと働いてもらいながら、そうでない人も損をしない社会である。」『人命の特別を言わず/言う』(立岩真也、筑摩書房)→http://arsvi.com/ts/2022b1.htm

◆2023/01/20 https://twitter.com/dokuich/status/1616353683670982656
 「人間は、自らの死を意識し、死を予期して恐怖する。立岩先生は、残念ながら、人はそのような存在としてあってしまっていると言います。死刑とは、死の予期を与え続けられながら人を殺す点で「特別な殺人」であり、死の予期が与えられる恐怖だけによっても死刑は否定されると、立岩先生は書きます。」

◇2023/03/21 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/1637843928513921026
 「第3章「世界があり恐怖するから慎重になる」『人命の特別を言わず/言う』(立岩真也,筑摩書房)p.161→http://arsvi.com/ts/2022b1.htm p.160 「だから、たんに死ぬさと・殺されることと、死の予期を与え続けながら殺すこととは異なる。中井久夫は次のように言う。「…」(中井[2004:401])」

◆2023/01/20 https://twitter.com/dokuich/status/1616346728105644032
 「【人命の特別を言わず/言う (単行本)/立岩 真也】を読んだ本に追加 → https://bookmeter.com/books/20456706 #bookmeter」

 ……
◇2022/11/04 https://amasale.newif.net/ranking/hdetail/5381553 学術文庫ランキング 6位
◇2022/11/03 https://twitter.com/necomaru/status/1588078790827134977
◇2022/11/02 https://twitter.com/nekonoizumi/status/1587803463802503169
◇2022/11/02 https://twitter.com/BaddieBeagle/status/1587718088145145856
◇2022/11/01 https://twitter.com/emDA/status/1587722552293863424




>TOP
■目次

序……………9
第1章人命の特別を言わず/言う……………………25
1脱人間中心主義と称する主張……………………26
1 殺生について……………26
2 α:意識・理性……………30
2批判……………………34
1 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない……………34
2 非人間中心主義的人間中心主義……………37
3 それが大切だと言うがその理由は不明である……………39
4 繰り返したうえで次に進む……………42
3なぜまだ……………………46
1 驚いたこと……………46
2 生命倫理学的な基準……………54
3 二つの併存……………60
第2章殺すことを認めたうえで人殺しを否定する……………………73
1殺し食べる……………………74
1 動物倫理を動物に拡張すると……………74
2 0:殺すなとは言えない……………81
3 人だけが、とならない……………85
2それにしても……………………90
1 人はずっと間違えてきたと言える不思議……………90
2 種主義は人種主義ではない……………94
3食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする……………………98
1 予告……………98
2 T:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする……………100
4人の特別扱いについて……………………107
1 U:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人……………107
2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする……………114
3 照合してみる……………118
4 たしかに仕方のなさの度合いは連続的だが……………123
第3章世界があり恐怖するから慎重になる……………………149
1世界がある・恐怖する……………………150
1 V:世界・内部……………150
2 だから絶対尊重派ではない……………152
3 W:恐怖することを慮る……………160
4 そのうえで慎重になる……………162
5 苦痛についての補足……………165
2そうして二つの術に応じる……………………169
1 技に応ずるものでもある……………169
2 既になされているからよいという話に→小さいが確実にある差異……………170
3 先まで行ってなかを取る、に対して……………178
第4章高めず、認める……………………193
1「現代思想」は使えるか……………………194
1 境界を揺るがそうという人々……………194
2 慣れ親しんでしまった図式……………200
3 そんなに効いているのか……………203
2人間的なもの……………………205
1 系譜……………205
2 罪の主体・行ないの主体……………207
3 主体の遇し方……………212
3人間を高めず認める……………………216
1 還る思想……………216
2 かけがえのない、大したことのない私……………223
3 人の像は空っぽであってよい……………230
4私たちの時代に……………………234
1 たいして変わっていない……………234
2 機械のこと技術のこと……………237
3 せめてヒトは、とする……………238
文献……………284






>TOP
■編集者へ

◆20210607 いかがでしょう(立岩0607
◆20210607 立岩0717
◆20210827 立岩0827
◆20210924 0924立岩
……
◆20211111 1111立岩:再開→終わらせます!
……

■要約(草稿)

 生を奪ってならない/奪ってよいことについて、言われてきたことを検討し、私が考えることを述べる。

◆第1章ではピーター・シンガーらの議論を紹介し、その主張がおかしなものであることを確認する。その人たちは「種差別主義」を批判し、「脱人間中心主義」を主張すると言い、ヒト/ヒト以外の境に特別の意味がないとする。そうしたうえで、類人猿といったある種の動物については、殺すべきでないとする。その理由は、意識・理性があることに求められる(第1節)。
 しかし、まずそれは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない。むしろ逆である。それは、普通に考えれば、人間が思いつき、人間が(特別に)遵守すべき規範だという意味で、人間中心主義的である。そして、生物・動物全般の中から殺してならないものが選ばれるその理由は、人間の多くが有している属性を有していることに求められるのだが、それもまた人間中心主義的である。そしてその属性を特別なものとして選ぶことの理由は不明である。(第2節)
 次に、このことは、生命倫理学そして動物倫理学とにどのように関わるか。生命倫理学は本人の利益と自律を言うが、それだけでは二つの優先順位を指定しない。人の性能を特別に見ると自律が優先され、そしてそれは人間にとっての価値でなく、人間の価値を言う。この章で見たものは、前の世紀に現れた新しい倫理であるのでなく、まったく古典的な図式の中にあることが再度確認される。
 他方、高等な性能でなく快苦等を重視する方向に行くなら尊重されるべき範囲は拡大される。この場合には殺生の全般が問題になり、そして生物の全体の倫理とするべきことに、論理としてはなる。あらゆる生物が生物を殺さない摂取しないなど事実不可能であることを言うことはできるが、できる限りその方向に行こうと主張することはなお可能である。となると殺生の全般について規範的にどう言うかという問題に立ち至るあるいは立ち帰ることになる。ここで、基本的に殺生を悪であるとはしないという立場を採ろうと述べる。すると、そのうえで、特別に、人が人を殺すべきでないわけを言うことは可能か、どのように可能かという問いが残る。(第3節)

◆第2章では、人という集合に属するものたちを殺さないことについて考える。まずそれが人種差別を正当とすることになるという主張がなされてきたのだがそのように考える必要がないことを述べる。(第1節)
 次に、とくに生死に関わり、人の人への関わりから言おうとする論を見る。それは人に内属するとされる性質から論を立てようという議論に対し別の捉え方を示すところで重要だが、「呼びかけ」を基準におく主張には無理があることを述べる(第2節)。
 理由は二つあると述べる。一つには、人から人が生まれることを経験し、そのできごとを人々が知っていること、それを尊重すべきであると考えられていることによるとする。それは私(たち)における事実なのだが、それは私(たち)を超える出来事として経験される。(第3節)。
 もう一つには、人が人を殺す理由・事情が関わっているとする。他の生物とは異なり、間違った正しさのために、人は人を殺すことができる。そして実際にたくさん殺してきた。そしてその間違った正しさの中には第1章で示され検討した正しさも含まれる。そして、殺すことを駆動する強さも規模は特別である。よって、殺し続けるだろうが、だから、殺してならないとする(第4節)。

◆第3章では、さらに、一人ひとりを殺さないその理由を、そこに一つひとつの世界があるだろうことにあると述べる(第1節)。そして、とくに死に際して、人が死を恐怖する存在であることが考慮されるべきであることを言う。ここで私たちは知性を理由にしているのだから、第1章で検討した話に近づくことにはなる。私(たち)は生命の絶対尊重派に属するのではない。ただその世界・知性は、生存を積極的に肯定するものでなく、いったんとにかく人は生かす殺さないとしたうえで、死を避けさせようというその理由となるものである(第2節)。「延命」のための処置の停止と死のための積極的な処置とは同じであるから、どちらも許容されるという人たちがいた。その議論の前段には認めてよいところがある。しかしそのことは両者を認めることを意味しない。確実に訪れることとその時を知り、そのための行ないを行なうことと、やがて終わりが訪れることは知りながら、確かなその時を知らずそれまでの時間をやり過ごすこととの間には、差がある。第1章で意味がないとされた区別に実は意味があることを示す(第3節)。

◆第4章では、この境界の論じ方について考える。シンガーとデリダが一つに括られ肯定されるといったことが不思議に思われないことの不思議を言い、「境界を揺るがす」というこの時代に流行した構えからはそんなにたいしたことは言えないことを言う(第1節)。むしろ、人間の系譜を辿り、人間が主体であることを批判したその流れから受け取るものがあることを述べる。ニーチェを受け取った吉本隆明は福音書について書き、そしてときに同じ書で親鸞の往還の思想について書いた。そのように、人が考えてしまうことは仕方のないことなのだから、そのことを思考に繰り入れながら、人間を高めない思想はありうるし、ある(第2節)。そして人間であることを仕方のないことと受け取り、扱いにくいから仕方なくときに丁寧に扱うべきことを言う(第3節)。そしてそこから、この社会のあり方について普通に言えるだろうことを幾つか確認する(第4節)。



>TOP
◆0607 いかがでしょう(立岩0607

石島様

おはようございます。本の紹介など一覧
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm

このかん学校の院生たちとか、研究所の関係の書類とかいろいろで
忙しくはしていたのですが、本業?のほう
ちょっと待ちくたびれたかんありまして
うかがうしだいです。
メールが夢に出てきましたが、夢でした。

けっこういろんなことを思いついたので、その一覧をお知らせすることも
できます。よろしくお願いいたします。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm



>TOP
◆0717 立岩0717

石島様

 立岩です。メール2ついただきました。ありがとうございます。連絡遅くなりました。すみません。
 いま博士論文の審査やらなにやらで忙しい時期で、いまも博士論文・博士予備論文構想発表会というところの会場でメールやっています。
 それでもいろいろ考えていて&書けるに書いてはいて(→★)、間が空きました。以下のように考えました。

★1)『唯の生』第1章+ … →ちくま新書
 人間/非人間 生・死 の境界についてといった本
 上記1章の題は「人命の特別を言わず/言う」でした。

2)『良い死・唯の生』 →筑摩学芸文庫
 『唯の生』第1〜4章省く

3)優生 →ちくま新書
http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm×

4)『自由の平等 第2版』→ちくま学芸文庫
http://www.arsvi.com/ts/2020b3.htm

 3)をさきに終わらせるつもりだったのですが、どうもいまいち感があリました。というか、やはり優生保護法下での手術のこととか、事実を書いていくという本ではないのでそこはよいのですが、どのようにみるか、どのように言うかを言う必要がある。ドイツでの安楽死作戦のような強烈なものについてどう書くかということもあります。

★併行して、2)を考え出した時に、1)を考えつきました。2冊を1冊にすると分量が大きくなりすぎるをどうしようという動機もありはしたのですが、より積極的な動機・意図もあります。たくさんの話を一度にしてもだめだというのは思ってきましたし、大切な主題であり、長くない一冊にするとよいと思ったのです。その作業をできるときにぼつぼつとやってきて、わりあい難航してきましたが、ようやくだいたい道筋がみえたかなという感じです。
 現在、文献表いれて42字×15行で220頁ほどになります。『介助の思想』のように薄いほど(安いほど)よいという本ではないと思います。

 1)を出した後に2)という順序はよいと思います。また1)は3)の基礎づけ?という意味合いもありますので、1の後3)というのも接続がよいと思います。

 4)も進めます。岩波書店に連絡はしようと思っているのですが、まだです。清水愛理さんが担当で、メールアドレスすぐにみつかるかと思ったのですが、なぜかなくて、そこで止まっています。清水さん何年か(かなり)前には文庫のほうに移られたと聞いたような気がします。
 岩波書店の人、10名ほどのアドレスがあって、いちばん近くやりとりしたのは、新書の部門の編集長の吉田裕さんなんですが、昨年の夏の
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm#e
のままになっています。若干気まずい感はあるのですが、それでも吉田さんに聞いてみるか…。この本のもとは『思想』の連載なのでこの雑誌を今でも担当している?押田連さんに清水さんのアドレスをうかがというのもありか…。でもご挨拶ということもあるからやはり吉田さんか。

5)〜6) 素朴唯物論を支持する話〜世界は余っている話 新書
 『自由の平等』序章 世界の別の顔
 3 この本では述べないこと
  1 分配する最小国家?
  2 不足・枯渇という虚言
  3 生産の政治の拒否
  4 労働の分割
  5 生産・生産財の分配
  6 持続させ拒んでいるもの
  7 国境が制約する
  8 分配されないものの/ための分配
 にあたる部分で、『自由の平等』の第2版にそこを加えるということも考えたのですが、そこを別に短い本にして、4)の出版と連動させるという手もあるかと。
 とすると、『自由の平等』第2版に何を加えるか。いくつかありうると思っていて、書きかけがいくらかあります。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm



>TOP
◆0827 立岩0827

石島様

http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
にさっき載せた7月17日のメールが届いてないんではと思ってきたのですが
原稿ができないので、ある程度目処がつくまではと思って、今日になりました。

意外にたいへん手間かかりましてようやくなんとかなるような気がしてきました。
今日現在のものをお送りいたします。
あと10日から2週間で終わらせられると思います。
じつはよい本になると思っています。既に書いたものを下書きに書いていて
今でもそういうところは残っていますが、新たに書くよりも手間がかかって
いますがそういうことも必要なのだろうと思っているところです。

cf.
http://www.arsvi.com/ts/2021b4.htm
http://www.arsvi.com/ts/2021b3b.htm

もうすこし、完成度を高めてからとも思いましたが、今日金曜日ですし
これから私4時間ほど研究所・研究科関連で話をせねばならず
http://www.arsvi.com/ts/20210827.htm
ということで、いっそいったんお送りしてしまいます。
テキストファイルです。40字×15行でどうぞ。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm



>TOP
■0924立岩

石島様

 けっこうな、膨大なといってよい時間をかけてやっています。あと1週間あれば完成すると思います。もうすこしできたらと(ずっと)やってきましたが、きりがないので、労働日の労働が終わるまでということで金曜日のこの時間にお送りします(このあと会議等)。
 40字×15行で印刷してくださいませ。
文献表は
http://www.arsvi.com/ts/2021b3b.htm
関連頁は
http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
http://www.arsvi.com/ts/2021b4.htm

 たくさん売れるかと言われるとすこしどうかなとというころはありますが、重要な本になると思います。近いところでは御社から出ている生田さんの本
http://www.arsvi.com/b2010/1902it.htm
(頁おかしなところいろいろあります→なおします)
を読みました。全体としていろいろ教わることのある、たいへんよい本だと思いますが、また生田さんは重要な活動をされている方としていくらか存知あげていますが、私としては30年ほど前に否定されたと思ってきた論がまだ生きているようでした。すこし衝撃的でした。そして、その他の人たちの著作などをみてもそういうことのようです。なされた(なされきた)まっとうな批判がとくに動物倫理とかを言う人たちにほぼまったく気づかれていないようなのです。
 そのことについてもっとわかるように工夫しようとは思っています。ただ、この本の主目的はその第1章の話であるより第2章以降と思っております。

 これから10年ぐらいのあいだに10冊ぐらいは本出さねばと思っています。格別急がねばならない事情は今のところないのですが、それでも着々とやっていかないとまにあわないと思っています。御社で担当が無理ということであれば、早めにおっしゃっていただけますとありがたいです。他を当たらねばなりません。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm


>TOP
■1013立岩

石島様

 メールありがとうございます。私、あいだにいろいろがはさまってしまい思うように仕事は進みませんでした。予定が決まれば、10日以内に、一気に終わらせられると思います。
 そういうわけで完成版ではないですが、添付します。

http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
http://www.arsvi.com/ts/2021b4.htm
が関連頁になります。題は、いったんはこれかなと思ったのではありますが、
いまはそうでもないなと思っています。生命倫理学とか動物倫理学といった語を
本題にするつもりはないのですが、副題にいれると、戦術的によいのではないかと。

 何度かお知らせしていますが、『良い死/唯の生』文庫版と同時に、という想定です。『介助の仕事』はできるだけ急ぎでということでしたが――この仕事に関わる仕事を始めてたりもしています cf.
http://aru.official.jp/index.htm
これについては特段に急ぐものではないと思います。ただ、『良い死』、『唯の生』(の半分ほどは削ったもの)cf.
http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
については、手をいれるというようなことを考えると、きりがないので、基本そのままでと考えています。

 『介助の仕事』の書評が『解放社会学研究』という雑誌に2つ載ることになり、私そのリプライというのを依頼され、ちょっと書きかけもしたのですが、今日は、今度の本の関係の仕事をしていたので、その仕事はしませんでした。刊行は来年だろうと思いますが、出たらお知らせします。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm



>TOP
■1111立岩:再開→終わらせます!

石島様

 書類書きやらあって仕事しばらく手つかず、今日から再開です。いろいろありますが、まず直近のことに限っていくつか。

◆1 今度の本、新書でなく、ということで、仕上げにかかります。どのようにして作業を途切らさず終えるかということで、御社のサイトでの連載がよいかなと思いました。
 数えてみると11の節があります。とすると11回か。そこに毎回すこし、その原稿そのものとは違うこと、『介助の仕事』の関係とか、御社の本のこととか、を加えるのがよいと思います。周知〜販売的にプラスになると思います。本の原稿部分は刊行されたらなくしますが、そうでない部分は刊行後も残すという手もあると思います。リンクなど加えることは私わりと慣れているので、御社のサイトの連載のページを模して作成し、そのままアップしてもらえればよいというものをお送りできます。

 そして2022年のわりあい早い時期の刊行ということで。

◆2 何度かお知らせしていますが、『良い死』をほぼそのまま『唯の生』からは半分ほどを削って1冊にして、文庫という話。そもそも◇1は、その際、『唯の生』第1章を1つの本にということで始まったところもあります。
 『唯の生』の歴史的なところ省くつもりですが、じつは第2章・第3章は価値のあるものだとも思っています。購入者に、御社から、電子媒体で、無償で、提供といったやり方があるのか。ネット上に公開してしまうというのもあるとは思いますが。
 ★この件、出版について、決定したいと思います。もともとはこの2冊で石島さんにお世話になったのでした。とくに『唯の生』は売れなかったと思います。すいません。ただよい本ではあったと思っています。

 …以上2件をこれからいまばん近くに出す本として決めてしまおうと思います。
 こっちの都合なんですが、そうすると今
http://www.arsvi.com/ts/2021b3.htm
http://www.arsvi.com/ts/2021b4.htm
にしているもののファイル名も
2022b1.htm ◇1の本
2022b2.htm ◇1の本の補註
2022b3.htm ◇2の本

ただ、
2022b1.htm ◇2の本
2022b2.htm ◇1の本
2022b3.htm ◇1の本の補註
というのもありと思います。

◇1と◇2、同時に発売でもよいと思います。
(『良い死』と『唯の生』の間があいてしまったのはうまくなかったように私は記憶しています。)

あといろいろありますが、まずは上記についてよろしくお願いいたします。

立岩真也
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
新刊
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
ある
http://aru.official.jp/index.htm


■題の案

・命の境――生命倫理学動物倫理学に応える
・人命の特別を言わず言う
・人命の特別を言わず/言う
・殺す、ので、せめて




>TOP

 ◆本文
 ◆
 ◆文献表



発売記念・2冊セットお送りします! →終了

 『人命の特別を言わず/言う』,筑摩書房 2200+220=2420
 『良い死/唯の生』,ちくま学芸文庫 1700+170=1870
 計4290円を送料込4000円で、入手できしだいお送りします。
 ※先着順に001、002、003…と通し番号を印字します。
・ご注文はTAE01303@nifty.ne.jp(立岩)まで。必ずお名前・御送付先をお知らせください

・ご送金は、本到着後
1)郵便振替口座:名称 caja,番号 00530-4-2295。振替用紙を同封しますのでそれを御利用ください。
2)新生銀行本店・普通口座・0658413・立岩真也(タテイワ シンヤ)も御利用できます。
3)楽天銀行(0036)テクノ支店(217)普通1455661 タテイワ シンヤ も御利用できます。

2018年の2冊セット


20221221:26,146
20221223:27,508
20221226:15,081
 ……

20230306 良い死/4500部 612000→610715
20230306 人命の 3000部 660000→658614

○買上げ:
1209 10    14960
1222 30+30 102860
20221223 人命の 50 88000+20221223 良い死/ 50 68000 =1223 50+50 171600


UP:2021 REV:20210809, 27, 28, 1013 ... 20220603, 22, 1221, 23, 26, 0320, 26, 27, 20230723
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇安楽死尊厳死  ◇安楽死尊厳死 2020〜  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)