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「質問+日本のことを幾つか」

立岩 真也 2009/07/14
「ダイレクト・ペイメント、その論点――Simon Prideaux氏と話す」,立命館大学


ダイレクト・ペイメントについてのメモ
 2009/07/24 ver.1
 研究会で交わされた議論を振り返りながら、論点を整理し、日本の状況を知らせるために書かれた。今後よりまとまった文章にして発表する予定である。また英訳版を作成する予定である。

■ダイレクト・ペイメントに関連して過去に書いた文章から

◆ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994/03/30 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』,ヒューマンケア協会,88p.,1000円

 V 社会的支援システムを変更する
「07 社会的支援の供給形態として、国・自治体のレベルでは主に資源の給付を行ない,それを用いて個々人がサービスを受けられるようにする。 」

 「☆07 行政が所得を保障し、また福祉サービスを提供するかたちには、大別して、直接本人に現金を支給するかたちと、物・サービスを直接に提供するかたちとの2つがある。基礎的な所得保障については当然前者の形をとるべきだが、個々人の必要に応じた物・サービスの提供についてはどうか。これまで社会福祉サービスと言われる時には、当然のように後者とされ、民間依託等はその原則から逸脱するものとして批判されてきた。  だが、その問題点は、行政が一方的に依託先を決定し、しかもサービスの質にかかわる責任の所在が曖昧にされ、利用者の側の要求が何ら反映されなかったところにあった。この点を変更し、利用者側の選択が保障され、その要求に応えなくてはサービスの供給主体として存続できないようにすれば、行政が唯一サービスの直接的な供給主体としてある場合よりも、むしろサービスの質は向上するはずである。ゆえに、現金による給付を行なう範囲を従来よりも拡大すべきである。」

◆立岩 真也 1998/06/25  「どうやって、英国の轍も踏まず、なんとかやっていけるだろうか」 、『季刊福祉労働』79:12-22

 誰にどれだけサービスを提供するのかという問題は「「ダイレクトペイメント」(介助費用の直接支給)をどう評価するかにも関わる。政府から支給される介助料を使い介助者を利用者が雇用するというこの方式は、英国では―九九六年に法律化された。『報告書』では英国とカナダのオンタリオ州の制度が紹介されている。これは利用者による選択を確保する有効な手段ではある。ただ第一に、日本の生活保護の他人介護加算もまた同じ形式なのではあって、その意味では特に目新しいわけではない。第二に、現金というものは何にでも使えてしまうので、介助費用以外に流用できる可能性がある。この可能性が、必要量を判定しなくてはならないという理由にされる可能性がある。もし介助というサービス自体はあればあるほどよいというものではなく、またそのサービスのための費用を他に流用する可能性がないのであれば、判定ということ自体不要なのだと主張できる余地がある。そして現金給付だけが利用者による選択の確保のための唯一の手段ではない。いわゆる「自薦登録ヘルパー制度」でも、利用者による選択は確保される。とすると、この方法をとり、サービス量の判定を行なわないという方向も考えられる。アセスメントを受け入れた上でのダイレクトペイメントと比べてどうか。こうしたことを考える必要がある。(『報告書』でもこのことを述べた。)

◆立岩 真也 1998/11/23 「いらないものがあってしまう」日本社会学会シンポジウム「医療・福祉のパラダイム転換と社会学」 於:関西学院大学

「◇3 (↑について「社会」福祉を認めた上で)基本的に、負担の側面と利用の側面とを分け、お金は社会的に負担し、その使い方は消費者が決める、という案がある。(これはかつて主張され、今も言われる「福祉多元主義」等――それらは費用負担のレベルで多元化、併用を勧める――とは違う。)
 これを常に最初に置かれるべき価値にしようというのではない。だが、少なくともものごとを考える上での一つの参照点として置くことはできる。そしてこれは相当にもっともな主張である。まず、自分の金なら好きなものが買えるが、税金を使う場合にはそうでなくてよいという理由はない。つまり第一に、選べることは当たり前のことである。第二に、供給主体の参入の自由を否定する理由はない。第三に、選択・競争により、供給サイドが利用者を気にするように仕向け、質の向上を促すことができる。(以上から、供給主体自体の複数性が常に要求されるのでないにしても、供給主体の一翼を担う存在としてのNPOの役割が大きくなる。)
 そしてここから考え出してみるとなかなかおもしろいことがわかると思う。「公共財」については個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでないと言われる。しかし、そもそも公共財とは何か。上の「そして/あるいは」にしても相当怪しい。例えば、「文化」や「学問」や「技術」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なではない。等々。……theme2☆03
 消費者=利用者達の運動は以上を主張してきたし、ある程度それを実現させてきた。そのもっとも簡単なものは、支給されたお金を使って自分でサービスを買うという方法。英国などで「ダイレクトペイメント」と呼ばれるもの。しかし必ずしも現金支給に限られない。自分が選んだ人、サービスに費用が支給されればよい。具体的には、日本では「自薦登録ヘルパー制度」(自身が推薦する人をホームヘルパーとして登録する)。☆04
 ただ、上記した「使い方は自分で決める」を認めるにしても、そもそもの、供給の可否の決定、そしてどれだけを供給するのかの決定をどう行うかという問題が残っている。これもとても大切な主題であり、1とも関連する。このこともまたそんなに考えてこられなかったと思う。……theme3☆05

◆立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. 2940 [amazon][kinokuniya] ※

第7章「遠離・遭遇――介助について」第4節「機構」1「本人が決める」
 第2節で、強制力を介した徴収と分配によって介助する人の生活を支えることが支持されると述べた。つまり、それぞれの人の生きる権利を認めるとは、すべての人がその人がそれぞれ介助が必要であれば介助を得て生きるためのことをなす義務を負うことだと考えるなら、唯一強制力を有する国家が費用を集め配分する主体としての役割を果たす。すなわち、サービスは基本的に有償とし、税金等の再分配によってその費用がまかなわれる。それが介助を実際に行なう人に支払われる。
 しかしこのことは、その資源を使い生活していく過程のすべてについて国家が決定すべきこと、決定してよいことを意味するのではまったくない。当たり前のことだが、その資源を使って暮らす人にとってよい介助がなされた方がよい。それが可能であるような、容易に可能であるような機構が必要となる。それは基本的に直接選択の機構である。本人による決定、選択が支持される。
 この主張自体はたいへん簡明なものである。基本的に負担の側面と利用の側面とを分ける。負担のあり方について、「社会」福祉、すなわち社会が責任を負うことを前提とする。その上で、その使い方は利用者・消費者が決めればよいと主張する。資源の供給とサービス(の提供者)についての決定を分離し、前者を政治的再分配によって確保し、後者を当事者=利用者に委ねるのである。このことを社会サービスを利用する人たちはずっと言ってきた。つまり「金は出せ、あとは私が決める」と言ってきたのである。このたいへん当たり前の主張がながらくそのようには扱われず、ところが近頃事情が変わってきたことをどう理解すべきかについては本節第3項で考えることにするが、ともかく、これはもっともな主張である。
 まず、自分の金なら好きなものが買えるが税金を使う場合にはそうでなくてよいという理由はない。他の場面でも選べることが当たり前なら、ここでも選べることは当たり前のことである。同様に、供給主体の参入の自由を否定する理由はない。私がその仕事をしたいのだとして、そのためにどうしても公務員にならなくてはならないというのはおかしい。
 普通と同じが当然――「ノーマライゼーション」☆26――という理由でよいならこれで済んでしまっている。それ以上のことを言う必要もない。ただもう少し積極的な理由を加えて言うこともできる。これはもちろん、自律、自己決定がなぜ支持されるのかという問いと同じである。そしてここでは、自己決定論が時に曖昧にする、何について決めることができるのかという点についての基本的な方向は示されている。食べたり、外出したりして少なくとも「人並み」の生活をすることについての決定が認められるものとする☆27
 それが認められるべきであるのは、自分で決めることがなによりよいことだからというよりは、他の人がその人を決めてはならないという規範の一つの言い換えであるからだと私は考えるのだが、この、存在を尊重すべきであるという規範には、その人がその人なりのよさを享受できるべきであることが含まれる。もちろん決めた後で後悔したりすることもあるのではあるが、それでも多くの場合、他の人に決めさせるより、くじを引くよりは、自分で選んだ方が自分にとってよいものが手に入るだろう。
 そして、サービスを提供する人、あるいはその提供者に限らず本人の関係者、例えば家族との関係において、その人たちに決定を委ねてしまうと、その人たちはその人たちの好きなようにしてしまうことがある。それを防ぐ手立てとして本人が決めるのがよく、決められるようになる方がよいということがある☆28。
 さらに複数の選択肢から選べる場合には、利用者において選択が可能となり、供給側に競争が生ずることにより、供給側が利用者を気にするように仕向け、質の向上を促すことのできることが、常にではないが、ある。市場においては、買ってもらえないものは売れないから、(消費者が金をもっていればだが)消費者の意向が通る方向に調整されうる。しかし予め供給者が決まっていれば、その供給者は消費者のことを気にする必要がなく、その結果質が低下することになりうる。これは構造的な問題であり、そうした仕事に従事する人の心性の問題ではない。だから問題が生じにくい仕掛けを仕込んでおく必要がある。そしてここで競合・競争を是認することは価格競争を認めることと同じではない。価格は一定とされた上でも、供給者を選べる機構の採用は可能だし有効である。
 以上を受けて供給主体について考える時、政府が供給の全体を決定すること、政府だけが供給主体であることが不適当であることは明らかである。
 政府はその行政の区域について常に単一の主体であるため、利用者にとっては選択肢が存在せず、競争も働かない。だから政府だけが直接的な供給主体であるのはよいことではない。ただ介助の場合必要なのは人を選択できることであって、その人が属する組織の複数性は必ずしも求められていない場合もあるかもしれない。この場合にはその仕事に従事する人がみな役所に登録するといった手もある。しかし、サービス提供のあり方の企画や決定の部分まで担おうとする人たち、組織があるなら、そしてこの部分での多様性が求められるなら、 供給主体自体の複数性が認められた方がよいことになる。
 供給者と利用者の利害は対立しうるというところから考え、その上でそれをどうするかを考えていくべきだと、このことが、「ふれあい」とか「助け合い」とか、我と彼の差異をうやむやにしてしまう言葉が使われ、「ケア」という語が用いられる中で曖昧にされてはならないと、第3節で述べた。でないと、結局供給者側の利害によって利用者側が求めているものを得られないことになってしまうからだ。介助される側、介助を使う側が、自らが選択権を獲得することによって、我彼の力関係を変えようとする。だから、この主張・運動が、供給者(およびそれに連なる学問)の側からなされることがなかったのももっともなことだ。もちろん教科書には「主体性の尊重」などといったことがその第一章あたりに書いてあるのだが、それが自らが選ばれる側になるという現実に結びつくことはなかったということである。消費者=利用者達の運動――例えば一九七〇年代以降の障害者の社会運動――が以上を主張し、ある程度それを実現させてきた。そこに提起され現実化されたものを見れば、それは「利用者主体」の一つのあり方としてたしかに筋が通ってしまっているから、既存の供給側もそれを受け入れざるをえないということになる。
 そのもっとも単純なものは、政府から支給されたお金を使って自分でサービスを買うという方法である。介助サービスではデンマーク、英国、カナダ、米国等の一部で採用され始めている「直接支払い(direct payment)」等と呼ばれるシステムがこれに当たる。日本でも実質的にはそのようにして使われている制度がある(生活保護の「他人介護加算」等)。ただあらかじめ使途が限定されている場合には、方法は必ずしも現金支給に限られず、要するに自分が選んだ人、サービスに費用=対価が支給されればよい。日本では、自身が推薦する人をホームヘルパーとして自治体あるいは自治体が事業を依託している民間団体に登録する「自薦登録ヘルパー制度」と呼ばれるものが導入されつつある。直接に現金を支給するのとそうでないのと、双方に長所と短所があり、それを見比べながら具体的にどういう機構に乗せていくのか、さらに考えに入れるべきいくつかについて検討してから、後で述べるとしよう。
 ただ個人が単独で何もかも決定し采配するのは難しいことがある。あるいは面倒なことがある。これもあたり前のことで、介助の場面に限らない。商品を並べてくれている商店に行ったり、旅行の手配をしてくれたり計画を立てるのを手伝ってくれる旅行会社を利用したり、私たちは様々なサービス業のサービスを利用している。介助の場合にも、介助、介助する人と利用者とを媒介する活動、組織があった方がよいことがある。営利組織・非営利組織ともこの仕事を担いうる。一九八〇年代、「住民参加型在宅福祉団体」などと呼ばれた組織の活動が広がったのだが、これは費用の社会的供給がない中で、利用者自身あるいは家族が利用料を負担するものであり、その料金・対価は低いところに置かれ、それでその活動に従事することができるのは時間的・経済的余裕のある主婦層がおもだった。それに「有償ボランティア」といった言葉も使われた。一九八〇年代の後半以降に現われる「自立生活センター」と呼ばれる組織は、費用を公的な財源に求めることを主張しながら、こうした組織の運営方法も摂取して、サービスの供給、媒介活動を行なう組織であり、同時に、組織の運営の主導権を利用者=障害者が掌握する組織である。介助に関わる費用獲得の運動と連動することによって、仕事への対価を先の「在宅福祉団体」に比べれば高いところに置くことが可能になり、それによってより広範な層から介助者を得ることができ、それまでなかった一日二四時間、年三六五日の介助派遣を行なうところが現われた。この運動は、必要なものを要求するだけでなく、余計なことを拒絶し、必要なものが供給される経路を変更させようとする。もちろん以前から自己決定が大切だといったことは言われてきたが、それは単なる理念、お題目であるか、予め仕切られた枠内のものでしかなかった。それが、実際に実現されるべきものとして、そして介入を避け、使い勝手をよくするための現実的な方法として追求されるのである。☆29
 まとめてしまえばまったく単純な、どうということのない機構ではある。しかし、かなり根本的な提起がここにはあると思う。つまりこれを進めていった先にあるもっとも極端な像は、政府の全予算を一人一人に割り振ってしまうというものだ。全てが個々人に渡り、それを使ってどこから具体的な財を得るかは一人一人が決めることになる。もちろん、公共財についてはそうは行かないだろうという疑問、必要は一人一人異なるのだから均等配分は望ましくないとすればそれをどうやって算定するのか、等々の問題がすぐに現われるのではある。例えば社会福祉施設で一人頭いくらという計算で役所からおりる金をなんとかやりくりして他の人より手間のかかる人も含めてなんとかやっているのに、それができなくなってしまい、結果として手間とお金のかかる人が排除されてしまうことを心配する人もいるだろう。「改革」として行なわれたことの結果が、結局そこに投下される費用の削減でしかなかったというのはよくあることである。だから理論的にも、現実的な対応としても考えるべきことは多い。しかしこれは、少なくともいったん、考えてみるに値することだと思う。この仮想の起点・基点から現実を見て、そこに存在する差異を測り、その差異について考えることができるのである。☆30」
 9「補い代行する機構の必要とその危険を回避する機構の必要」
 「[…]本人たちは、自分たちは言われているほど弱くはない、弱く見られてしまっている、また弱くさせられてしまっているだけなのであり、自分で決める、必要なら手助けを得るが、できる限り自分で管理し自分で決めると主張してきた。はたから見るとそれは、そんなにがんばって言わなくてもよいではないかと思えるほどなのだが、しかしそれには今述べたように相応の事情がある。こうした領域で自らの存在が横領される危機を感じたから、強硬なほど自己決定が主張されてきたのでもある。本節第1項でふれた「直接支給」という運動が起こったのも、一つには、その人たちが自分への介助は自分で管理するから、どうのこうの言ってほしくないと思ったからである。また一つには、この部分に余計な経費をかける必要はなく直接的な介助に使える費用を多くしたいというところから発している。
 やっかいな問題は、では側面的な支援・媒介の活動が不要であるかと言えばそうではない、その必要の度合いは様々であるにしても、必要であるということだ。例えば介護保険で「ケアマネジメント」と呼ばれているものは、その今のところの実際においては、定まった金額をどのようなサービスに配分するかを割り振るという仕事であるだけなのだが、今述べたような仕事を想定してはいるのであろう。これが他の領域、「障害者福祉」と呼ばれる領域に導入されようとした時の利用者側の対応の困難は、この、どれほどかはあってよいのだが、しかし、危険でもありうるものにどう対処したらよいのかという困難である☆57。」


UP:20090702 REV:20090716
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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