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どうやって、英国の轍も踏まず、なんとかやっていけるだろうか

立岩 真也 19980625 『季刊福祉労働』79:12-22



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■ケアマネジメントが英国へ行かせる
 昨年、一週間ほど英国に行って、その後報告書を作る作業に加わった。それでこの原稿を書くことになったのだと思う。英国のシステム全般を紹介する紙数はないし、またそうした文章は本誌に求められてもいないだろうから、日本のこれからに関係する部分を書こうと考えた。しかし、半分くらいは以前書いたもの(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』一月号掲載)をそのまま使ったのに、書きづらかった。というのも、ケアマネジメント一つとっても日本と英国で問題になる部分が違うといったずれがあって、その説明がやっかいなのだ。言葉足らずの部分があるが、乞御容赦。できれば後に紹介する報告書で補っていただきたい。
 さてなぜ英国に行くことになったのか。発端は、一九九六年の三月に『身体障害者ケアガイドライン』(最終的なものでないので以下『中間報告』と略)なるものが出され、ここに「ケアマネジメント」が書かれていたことにある。どういうニーズがあるのか調べるアセスメントをし、どんなサービスをどう組み合わせて提供するかプランを作る。サービスが提供される。うまくいっているか調べ、直すべきところを直す。これが「ケアマネジメント」、それを行う人が「ケアマネージャー」。「公的介護保険」の一部に組込まれるということでこの言葉はにわかによく使われるようになった。保険の導入を見越したマネージャー養成のための研修などが今花盛りである。(『中間報告』に盛られたのは、高齢者対象の介護保険とその一部としての高齢者向けのケアマネジメントが入ってくる前に、障害者用のを別立てで作っておいた方がよいという官庁の「障害者福祉」サイドの読みがあってのようだ。)
 「人のマネジ」でなく「ケアのマネジ」なのだと教科書には書いてある。しかしマネジ(管理)されるのはあまりありがたくないではないか、どうもそのまま受け入れたくない、ではどんなものだったらよいのか、考えて案を出そうという研究プロジェクトが日本財団の助成を得て九七年度から始まった。
 ケアマネジメントのモデルはイギリスにある。「コミュニティ・ケア」の中にケアマネジメントが位置づけられている。そこで総勢十人でロンドンにでかけた。車椅子を使う人が四人。五〇音順に高橋修さん、中西正司さん、中西由起子さん(通訳を担当、これは特に今回はきつい仕事だった)、山田昭義さん。昨年八月二七日に出発、九月四日に帰ってきた。
  休みは日曜日だけ、他の日はたいてい朝の十時から夕方の五時まで窓もない一室でひたすら話を聞く、ホテルに帰ってミーティング、というなかなかハードな旅だった。話をするイギリス人は皆、質問攻めに会った。日本人の「研修」には、実際には観光旅行に近いおざなりなのが多くて残念、という話を、今回の旅を手伝ってくれた現地の人がしたと聞いた。今回のはそうではなかった。そうではなさすぎたかもしれない。

■報告書第一部と登場人物
  その報告書、ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会『障害当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』(発行:ヒューマンケア協会・日本財団、一三一頁、一五〇〇円)が一九九八年一月に出た。詳しくはそれを見ていただくのがよい。注文はヒューマンケア協会(〇四二六−四六−四八七七、ファックス四六−四八七六)へ。
  聞いた話の概要は報告書の第一部に掲載されている。登場するのは、ジョン・キープさん(四〇年間地方自治体で福祉・医療行政に携わり、現在は王立リハビリテーション協会の事務局長、国の予算を使い自治体の社会サービス部門で働く人達に対する訓練プログラムを行っている)、ジェリー・ニューマンさん、ジュディ・ウィルキンソンさん(二人はランベス自立生活センターの所長、マネージャー)、ジェーン・キャンベルさん、フランシス・ハスラーさん(ともに全国自立生活センター協議会共同ディレクター、このセンターは日本の全国自立生活センター協議会のような各地の自立生活センター=CILの協議機関ではなく、「直接給付」を全国に広げる活動を国からの資金提供を受けて行っている)、ビック・フィンケルステインさん(通信制の大学オープン・ユニバーシティの教授、元DPI世界評議員、WHOによる障害の定義にも関与した、今年来日予定)他。
  全員が障害をもつ。だからサービスの利用者でもあるが、政策の立案、法律の制定、サービス提供の側の現場にも関わりをもつ人が多い。むしろ、キープさんなどは基本的にソーシャル・ワーカーのサイドからの話をした。他方、ランベス自立生活センターの二人には、運動のリーダーとしての話とともに、「普通の」利用者(といっても、比較すれば恵まれた立場にいるのだが)としての話を聞くことができた。

■英国のケアマネジメント
 「ゆりかごから墓場まで」、福祉国家の発祥地ということになっている英国で、コミュニティケア改革が行なわれた。ごく大雑把に言って施設でのケアからコミュニティでのケアへという変革なのだが、これは保守党の政権のもとで始まったものでもあり、予算の抑制という志向は強力に働いている。施設でのケアからコミュニティでのケアへという理念にしても、最初はかなりはっきりしていたのだが、次第にそのあたりが曖昧になり、小規模(といっても何十人か)の施設でのケアもコミュニティケアということになってきているのだそうだ。等々、とりあげるべきことは多いが、ここではケアマネジメントのこと。
 どこにも書いてないが、これは利用者にとってはうれしくないもののはずだと考えた。実際そのようだ。
 イギリスという国は、金がない金がないと思っている国で、カットできるところはカットしたい。ケアマネージャーは予算を削減したい自治体行政当局の尖兵になってしまう。実際、サービスの利用者の受け止め方はそういうものだった。例えばランベスCILの二人の女性は、マネージャーが利用者本人にとってかなり恐い存在であることを語った。基準がないから、その年々の自治体の予算と、それを受けたマネージャーの采配が生活を左右する。またそのマネージャー=ワーカーがどういう人であるかという偶然にも左右される。マネージャーに対して文句を言えない。二ードの再評価はしばしばサービスの切り下げにつながる。ただ彼女らの場合はまだよくて、自分で情報をもっているし主張もできる。またケアマネージャーの来訪時に仲間に同席してもらい自らの説明を補ってもらうなどサポートを得ているという(これは禁止されてもいないが、法律的に保障されてもいない)。こういう環境にいない一般の大多数の人達の場合はもっときびしい、とも言っていた。
 多くのケアマネージャーが利用者と一緒にサービスを組み立てていくという立場に立てていないことは、マネージャーの大多数は真剣に仕事に取り組んでいるのだと力説していたキープさんも述べていた。例えば、ケア・プラン(の写し)を利用者に渡そうとしないことが多いという。不服申し立ての制度はあるが、十分には機能していない。そして、マネージャーが利用者の立場に立とうするなら、その人は、今度は利用者との間で「板挟み」になって悩んでしまう、ジレンマに陥ってしまう。このこともキープさんは指摘した。
 これらのことは、最近日本で何冊も出されている概説書には書いてない。しかし、このシステムについて少し冷静に考えてみれば、当然ありうることである。キープさんは盛んに利用者とマネージャー=ソーシャルワーカーとの間の「信頼」の大切さを強調していたが、問題はそうした関係が確保されるようなシステムになっていないことである。ケアマネジメントが利用者に対して抑圧的に働いてしまう、そういう位置にケアマネジメントが位置づけられ、ケアマネージャーが位置づけられてしまっているのである。だから「信頼」は一種の願望としてしか語られえない。現実にその信頼が育まれているわけでないことは、ケアマネジメントを推進しようとしている人達も認めざるをえないのである。

■別のシステムがありうる
 だから別のシステムを作った方がよいのではないか。そう考えて概略以下のような対案を報告書の第2部にまとめた。
 ケアマネジメント、ケアマネージャーの代わりに、はっきり利用者の側に立って相談を受ける、情報を提供する、一緒になってどんなサービスをどう組み合わせるか考える、そういうサービスをする、そういうサービスをする人を置く。世の中には、経営コンサルタント、結婚式場コンサルタント、様々いる。弁護士といった仕事もある。そういう仕事をする人が医療・福祉にもいてよいのではないか。マネージャーではなくて、コンサルタント、代理人・代弁者(アドヴォケイト)といったものをこの業界でも置くのである。
 こういう仕事は民間でやる方がうまくいくだろう。そして自身も障害をもっている人がこの仕事に適任なことがあるだろう。仕事は民間でやるが、お金は税金を使うのがよいだろう。時には役所にたてつく仕事に役所からお金がでるのは変ではないか、と思うかもしれないが、変ではない。まず税金は「役所のお金」ではない。そして文句を言う権利、たてつく権利も権利の一つである。国選弁護人というものもあるではないか。実は昨年から始まっている「市町村障害者生活支援事業」が、このように使える事業である。この事業と別に「マネジメント」を立てるより、この事業を拡張していく方がよいのではないか。
 他方で、行政サイドにはサービスの原則と基準をはっきりさせさせる。これがはっきりしないままでは、本来調整もなにもあったものではない。原則・基準があってはじめてそれに基づいた調整が行われる。地域で暮らすための必要な量のサービスを供給することをはっきりさせ、どういう場合にどれだけのサービスを提供するかを設定させる。もちろん、それが実際に十分なものであることは最初からは期待できないだろう。しかし、少なくとも、どこに問題があるのか、問題の所在ははっきりする。攻守の立場がはっきりする。それに対し、ケアマネージャーが曖昧に間にはさまると、結局、「〇〇がないので、残念ですが御要望には沿いかねます」と、今まで通りのことが起こり、しかも、その責任主体はどこなのか、いろいろなことが曖昧にされてしまう。これではよくない。
 サービス供給の責任主体(実際の供給主体ではなくその費用に責任をもつ主体)=行政があり、サービスの利用者がいる。サービスの供給主体が複数ある。そこから利用者が選ぶ。その選択を助けたり、サービスの量について行政とかけあったりするのをサポートする人がいる、組織がある。このようなシステムがよりよいシステムである。

■量の決定という問題
 以上が英国流のケアマネジメントを巡る基本的な問題であり、それに対する対案である。ただ、日本で出てきた(出てきつつある)ものは英国のものとかなり異なる。
 ケアマネジメントのことが出てくる日本のケアガイドラインは、結局マネージャーの権限の部分に踏み込んでおらず、どのようにサービスの量を決めるのかという部分についての言及がない。ここが利用者の生活を左右するがゆえに利用者にとって危険でありうる部分なのだが、日本でのケアマネジメントはこれ(介護保険では「要介護認定」の部分)から切り離されている。だから日本のには以上に述べてきた危険性が少ない。本のモデルでマネージャーは裁定者・決定者ではないのだから、私達の案のようなはっきりした位置づけはないにせよ、コンサルタント・モデルに近い方向に読むこともできなくはない。
 もちろん、ケアガイドラインに書いてないからと言って、誰にどれだけサービスを提供するのかという問題自体が消えてなくなったわけではない。この問題は必ず出てくる。先に持ち越されただけなのだ。だから考えておく必要はある。
 これは「ダイレクトペイメント」(介助費用の直接支給)をどう評価するかにも関わる。政府から支給される介助料を使い介助者を利用者が雇用するというこの方式は、英国では―九九六年に法律化された。『報告書』では英国とカナダのオンタリオ州の制度が紹介されている。これは利用者による選択を確保する有効な手段ではある。ただ第一に、日本の生活保護の他人介護加算もまた同じ形式なのではあって、その意味では特に目新しいわけではない。第二に、現金というものは何にでも使えてしまうので、介助費用以外に流用できる可能性がある。この可能性が、必要量を判定しなくてはならないという理由にされる可能性がある。もし介助というサービス自体はあればあるほどよいというものではなく、またそのサービスのための費用を他に流用する可能性がないのであれば、判定ということ自体不要なのだと主張できる余地がある。そして現金給付だけが利用者による選択の確保のための唯一の手段ではない。いわゆる「自薦登録ヘルパー制度」でも、利用者による選択は確保される。とすると、この方法をとり、サービス量の判定を行なわないという方向も考えられる。アセスメントを受け入れた上でのダイレクトペイメントと比べてどうか。こうしたことを考える必要がある。(『報告書』でもこのことを述べた。)

■その人達は必要なのか
 『中間報告』の内容におかしなところは多々あったから、それらは先の『報告書』の第2部で逐一指摘した。昨年から今年にかけて続いている(本誌が出る頃には終わっているかもしれない)日本での「ケアガイドライン」の検討過程では、それもいくらかは受けてかなりの是正がなされてきている。そして繰り返すと、コンサルタント・モデルに近い方向にもっていくことも形の上ではできなくはない。そんなわけで、今回決まりそうなケアガイドラインはない方が明らかによいと断じられるほどのものでもない。だがそれでもあまり肯定的になれない。フィンケルシュタイン氏の発言の中に、そのことに関係する部分があった。
 彼は、専門家の知識・技術は施設において開発され蓄積されたきたものだと語った。そこに主に財政的な理由で、施設から地域へという変化が起こった。しかしこの時も、やはり専門家は、施設での関与の中で蓄積された発想・知識・技術によって関わろうとする。その限りで、住む場所が変わっても同じなのだと。だから、障害者にとっては、それをいかに拒絶していくかが重要なのだと述べた。
 ケアガイドラインにどうも乗り気になれないのはこういうことに関係していると思う。医療・保健・福祉領域にまたがる複合的ニーズへの対応、専門家のチームによるマネジメント、リハビリテーションの視点…、これらは『中間報告』と比べて若干トーンを落としたにせよ、依然としてケアガイドラインに残っている。「複合的ニーズへの対応」が常に不要だというのではない。しかし、どうしてそれがそんなに強調されないとならないのか。
 職域の確保という利害も働いているように思える。それが単なる勘繰りだとしても、今後そのように利用されてしまう可能性は確かにあると思う。このところ福祉系の大学、学部が増えている。そこを出た人達が現場で働くとは限らない。むしろ多くの人は「コーディネイト」といった仕事を志向するだろう。そうした仕事が必要でないとは言わない。例えば役所のその部署にはそれなりに最低限のことがわかった人がいないと困ると思う。だがいったいどれほど必要なのだろう。毎年毎年の卒業生、資格取得者のために大学の経営者、管理者達――彼らは業界で顔の効く人達でもある――は職域の確保に動くだろう。また医療関係者達も、医療の需要が頭打ちになるのを見越して職域の拡大を図っている。今回の介護保険〜ケアマネジメントに関して、様々な職域の人達が我も我もと手をあげたことを見ても――医者達が「かかりつけ医」を言ってこの場に割って入ってきたのには笑えたが、笑ってばかりもいられない――それはわかる。
 ここに現われているのは、必要なものがないという問題ではなく、不要なもの――しかも絶対に不要なものとは言い切れないもの――があってしまうという問題である。私達はかなり微妙なことを考えなくてはならないことになる。不要なものをどうやって拒絶していくか。これはとても大きな課題だし、今後もっと大きな課題になるだろう。

■いらないものをなくすために
 ごくごく原則的に言えば、消費者主権を確立することである。消費者=利用者に決定がまかされ、不要なものを使わないなら、それがそうはびこることはない。これをどのように実現していくかである。
 ここでも英国の改革でうまくいかなかったことがある。英国での改革の大きな特徴の一つは政府でない部門の役割を強調していることである。その一つには、家族がかなりあてにされていることだが、このことについては今回は略。もう一つが日本で言う「民間活力の導入」であり、民間の営利組織そして非営利組織――英国ではこの部門は「独立セクター」と呼ばれる――の利用である。
 ここで英国は――英国に限らないのだが――サービスの「買上げ」という方法を使った。ある業務について、地方自治体が、その仕事を請け負うことについて、一番値段を安くつけた組織と一括契約してしまう方法である。
 しかしこれはだめである。一つの組織と契約するのだから、実際に仕事を行なうのは当然その単一の主体である。これは自治体が直営で行なうのと同じで、消費者には選択の余地がない。だから、自治体と契約する民間組織は直接の消費者(利用者)のことを気にする必要がなく、直接の購入者、この場合であれば買上げる行政当局の方を向くことにしかならない。
 そしてさらに価格だけが評価されるとなるともっと問題だ。接待するしないで業者が決まるのに比べれば、これはまともな競争ではある。しかし賄賂やなにかがなければそれでよいのかと言えば、そんなことはない。直接のサービスの利用者なら「安くてよいものを」と質のことも考えるだろうが、予算のことだけ気にしている行政当局がただ「安いものを」と思うなら、価格面での競争だけになってしまい、競争による質の向上にはつながらない。英国ではそうなってしまっている。
 これは日本に関係のないことではない。考えてみれば日本も、福祉という業界では今のところ「価格競争」は行なっていないにせよ、おおむね、実質こうしてやってきたのだ。問題は自治体(行政)が決定を独占することであり、決定されたところがサービスを独占することにある。複数の供給主体、複数の供給者があった上で、利用者=消費者が直接選択できるようすべきだ。
 一人一人の直接的な選択が不可能な場合には、それに代わるなんらかの評価メカニズムを仕込むことになる。買い上げたサービスがよいものなのか、行政当局がモニタリングする、利用者の不満を取り上げるメカニズムを作る。これも英国での改革の一つの題目ではあった。サービスを自治体に売る民間組織を自治体が監視しようというのである。それ自体は――どこまで実効的であるかについては、私達がお話を聞いた人達は必ずしも肯定的でなかったが――よいことではあるだろう。ただ、これは実際にはなかなか難しい。明らかな権利侵害等はとりあげられるにしても、サービスの質の微妙なところはこうした評価システムにはかかりにくい。
 だから、やはりできるだけ、利用者の側で選ぶこと、やめることができるようにすることである。ケアマネジメント(コンサルタント)にしてもそれは不可能ではないのではないか。これを市町村単位で一つの団体へ委託するといった型の事業としてよいかである。何らかの方法の出来高払いで、複数の個人、複数の組織が、同一地域で福祉コンサルタントの活動ができるといったシステムがあってよいと思う。
 もちろんこれが唯一ではないだろうし、別の方法と組合わせることもできるだろう。ただ手をうたないと、事業自体にやめた方がよいものがあるのに、事業自体はあってよいとしてもそれを依託されているところが不適切なのに、それが延命してしまうということである。これはよい仕事をしている(する可能性がある)ところがその仕事をできないということでもある。役所は予算を付けるとまず外さない。恐れるのは、このケアマネジメント(コンサルタント)という事業もまた、不要な(しかし政治力はある)人達を飼い続け、不要な組織を延命することにしかならない可能性があるということである。一五〇〇万円あれば、年一〇〇万のサービスを利用する人が一五人生きていけるのだ。
 英国は支出を押さえようといろいろやってみた。だがケアマネージャーはその役割を負わされて疲れ、ケアマネジメントは利用者に脅威となった。そして、地域での生活を支援する効率的・合理的な体制を作りあげることもできてはいない。これはシステムの問題である。私達としては、うまくいっていないところのまねはしないこと、「コーディネイト」とか言えば何かけっこうなものであると思って考えるのをやめてしまわないこと、なくてもよいもの――「自立生活センター」もその評価の例外ではない――がいつまでもあってしまうシステムを作らないことである。立岩真也(信州大学医療技術短期大学部教員)著書『私的所有論』(勁草書房、一九九七年)。調査報告書『療護施設・グループホーム・一人暮し――脳性マヒ者の3つの生活』注文承り中→三九〇−〇八六一 松本市蟻ケ崎一八九二−四、電話〇二六三−三九−二一四一(FAX兼)、TAE01303(niftyserve.or.jp)。http://itass01.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm*でも情報を提供。
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UP:1998 REV:20141207
地域生活/地域移行/生活支援/相談支援  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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