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Tateiwa
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いらないものがあってしまう
立岩 真也
1998/11/23
日本社会学会シンポジウム「医療・福祉のパラダイム転換と社会学」
要旨集原稿(1998/08/23送付)
◆1 社会福祉を「する人」の「社会福祉学」がある(他にも看護をする人の看護学,教育をする人の教育学…)。それはそれでよいとして、しかし、それゆえにあまり問われないことがある。例えば「すること(する人)」があって(いて)よいこと、増えてよいこと、「専門性が確立」されたりすることは、(少なくとも大抵の場合)前提とされる。それに比して「社会学」は――実は外野にいて気楽、首を切られる心配がない、というだけのことなのだが――別の位置に立つことができる。★01
◆2 「社会」福祉について、やはり基本的な問題は、「自分(自助)」でなく「家族」でなく「社会」であるということをどう捉えるのか。ここで社会福祉学は、そして福祉社会学?も、「大変さ」をもってきたし、それを実証しようとしてきた。これは大変もっともなことではある。しかし他にも考えよう、言いようはある。1)正しさ、について考えるというのが一つ。そして2)損得、について考えること――随分と多くのことが語られてきたのだが、その大多数は間違ったことを言っている。これについては別に少し考えた。またこれから考えたいと思う部分もある★02。ここでは略し、その後の話を。(しかし繰り返すけれど、2)についての議論はひどく混乱していると思う。フェミニズムの言説の多くにもおかしてところがあると思う。だから考えてみた方がよい……theme1)
◆3 (↑について「社会」福祉を認めた上で)基本的に、負担の側面と利用の側面とを分け、お金は社会的に負担し、その使い方は消費者が決める、という案がある。(これはかつて主張され、今も言われる「福祉多元主義」等――それらは費用負担のレベルで多元化、併用を勧める――とは違う。)
これを常に最初に置かれるべき価値にしようというのではない。だが、少なくともものごとを考える上での一つの参照点として置くことはできる。そしてこれは相当にもっともな主張である。まず、自分の金なら好きなものが買えるが、税金を使う場合にはそうでなくてよいという理由はない。つまり第一に、選べることは当たり前のことである。第二に、供給主体の参入の自由を否定する理由はない。第三に、選択・競争により、供給サイドが利用者を気にするように仕向け、質の向上を促すことができる。(以上から、供給主体自体の複数性が常に要求されるのでないにしても、供給主体の一翼を担う存在としてのNPOの役割が大きくなる。)
そしてここから考え出してみるとなかなかおもしろいことがわかると思う。「公共財」については個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでないと言われる。しかし、そもそも公共財とは何か。上の「そして/あるいは」にしても相当怪しい。例えば、「文化」や「学問」や「技術」に税金が使われることの正当化は、少し考えてみると、そう容易なではない。等々。……theme2★03
消費者=利用者達の運動は以上を主張してきたし、ある程度それを実現させてきた。そのもっとも簡単なものは、支給されたお金を使って自分でサービスを買うという方法。英国などで「ダイレクトペイメント」と呼ばれるもの。しかし必ずしも現金支給に限られない。自分が選んだ人、サービスに費用が支給されればよい。具体的には、日本では「自薦登録ヘルパー制度」(自身が推薦する人をホームヘルパーとして登録する)。★04
ただ、上記した「使い方は自分で決める」を認めるにしても、そもそもの、供給の可否の決定、そしてどれだけを供給するのかの決定をどう行うかという問題が残っている。これもとても大切な主題であり、1とも関連する。このこともまたそんなに考えてこられなかったと思う。……theme3★05
◆4 利用者と直接のサービスの供給者、そして税金を集金し配分する政府。これが一番簡単な構図。だがこれで終わらず、もう少しこみいったことになる(こみいっていることが問題なのではなく、こみいっていることを過度に単純化したらそちらの方が困ったことになる★06)。本報告は主にこのことを。
@自分でいちいち決めるのは、面倒。そして難しいことがある。★07
Aもろちん消費者による選択(の可能性)の導入だけでその人の権利が確保されることはありえない。権利を擁護する活動が必要。
実は、これらの事情があることが、利用者による選択というシステムを採用すべきでない(採用できない)理由とされてきた。しかしこれは間違っている。@については、サービスと利用者とを媒介し、利用者を支援する活動があればよい。しかも、行政府は(財政に対する顧慮等から、少なくとも時に)供給について抑制的に行動するから、別の主体の方がむしろ適している。Aについては、供給者と利用者の利害がいっしょではなく、両者の予定調和を想定すべきでないから、むしろ分離した方がよい。また、ここでは「その人の側に立つ」ことが必要なのだが、それは役所(の人)がやるのには、あまり適切でない仕事である。また(様々な民間営利・非営利組織と同様)行政府を相手・敵とする場合があるのだから、その意味でも、独立していた方がよい★08。実際、様々な民間の非営利組織(NPO)が権利を擁護する仕事、人とサービスとをつなげる仕事…をしてきた。★09
そしてこうした活動のための費用もまた社会的に負担されるべきだと言いうる。実際にはそうでなかった。そこでそれが求められる。このこと自体を政治に「取り込まれる」ことだ(から好ましくない)と考えるのは当たらない。社会的に負担されることは当然である。問題はこのこと自体ではなく、それをどのように行うかである。そして、どんな形態が利用者に利益を与えるのかである。
◆5 ここで、忘れてならないのは、◇3に述べたことと同じこと、すなわち、組織に費用が渡る形態が、利用者個人に(もっとも)利益をもたらすとは限らないこと。
「NPOへの支持が市民の自主性を信頼し擁護しようという考え方に基づいているとしよう。しかし、そうであるなら、個人に渡すことがもっとも適切であり、組織に渡すというやり方は、実は、市民をどこかで信頼していないのかもしれない。例えばODAについて、その国の政府を支援することの弊害が言われ、NGO、NPOに対する援助の方が適切であると言われる。その通りかもしれない。しかし、それよりなおその国に住む人に直接渡したらよいのではないか。「そうはいかない。この分野のためにお金を出しているのだから、そのためにお金が使われないと困る。」その通りである。「彼らはそのお金を有効に使うことができないだろう。」その通りかもしれない。しかし、これらは、市民の自主性を尊重しないこととどれほど大きく、決定的に違うだろうか。」([9602:90])
そして、他(→◇3)よりこの場面で、個人より組織に主導権が渡され、個人の自由が保持されず、なされることが、無駄なもの、よけいなものになる可能性、危険なものになる可能性がある。
@まず、この場面に限られず、一般的に言えること。従来福祉サービスは、選択のきかない現物給付であり、その直接的な供給主体として民間組織を使う場合には「委託」という方法で行ってきた。その組織は、委託する主体である行政府を気にすることはあるにしても、利用者の方を向きにくい。
A次に、◇3に示したモデルの適用がここでは困難である、あるいはそう思われている。一般的な生活費を定めることはなんとかできそうだし、介助費用等もなんとか決められる。しかし、例えば権利擁護のニーズは、個々人によって、その場合場合によって、大きく違ってくる。その各々に異なるものについて個々人別に支給するシステムを作るのは難しい。少なくともそのように思われる。
Bさらに、それを仕事にする人がおり、組織がある時に、そこに仕事を流そう、その仕事を増やそうという力が働く。例えば、その仕事をする人たちは、その仕事を「専門職」にしようとし、その仕事は「専門職」の人(だけ)が行う仕事になってしまうことがある。
以上は連動する。単一組織への委託には、単に従来を踏襲したという部分もあるだろうし、それほどの供給量を見込めず複数の供給主体をおくことができないという事情(これにしても様々に工夫できるはずなのだが)もあるだろう。この時起こることは、公務員が出向していたりする組織が委託先になること。そうした「政治」が働いていない場合でも、行政府はどこに委託すべきかその評価の基準、評価能力をもっていないから、結局、資格をもつ人、そうした人がいる組織に委託してしまうことになりがちである。
そして、このようになってしまうことに乗ってしまうことが当事者(組織)自身にある。様々な助成金が全国組織やその支部やに流れてきた。そしてそれは、今までは大きな既存の組織に限られていたのだが、新たに力をもってきた組織がようやくその仕事を認められつつある。例えば「市町村障害者生活支援事業」が1996年から始まっているのだが、これを受託して行う「自立生活センター」がでてきている。そしてこの事業に規定される「ピア・カウンセリング」について、あくまで民間の自主的なものではあるが「資格化」を進めている。
今までつながらなかったものをつなぐ仕事、様々に側面から支える仕事は求められており、あって当然である。そして、それを実現するのに、少なくとも現存の条件のもとでは、可能で妥当な方途がとられてきた。今存在するものには、何にせよもっともな部分がある。ではあるが、もっとよいものを、と考えていくこともまたできるはずだ。
一つに、直接的な決定をどこまで作っていけるか。@〜Aについて。医療保険のような出来高払い、利用に応じて収入が得られるという形態が考えられる。実際にはそんなに簡単なことではないだろうが、相談や権利擁護というサービスを利用することができ、その費用が支払われるシステムがあればよい。
Bについて。そもそもどんな場合にその専門性、まず資格と結びつけられた専門性は必要とされるのか。消費者が直接にサービスを評価できない場合に、資格を付与する/しない/剥奪することによって
質を確保する。資格を付与することについて、それ以外の理由はどんなに探しても見当たらない。と同時に、ある場合には行わざるをえない。しかし、ある場合とはどんな場合か。そして、行わざるをえないとして、どんなふうに行うのか。このような視点から「専門性」についての言説を検証し、専門性のあり方について何か言うのも(「外野」にいる私たちもまたやってよい)仕事になる……theme4★10
当事者たちは、とれるところから金をとろうとやってきた。これはまったく当然のことだ。しかし、それでよかったのかと、考え直すことができる。例えば作業所を拠点とする活動が行われてきた。それは重要な役割を果たしてきた。しかし、それに限られたことによって、例えば知的障害者の生活のあり方が作業所を中心とするものになってしまった。それでよいのだろうかと思うこと、今ある様々に細かなものをいったん白紙にして、白紙にしながら、考えていくことも、さしあたりそれで日々の生活に困らない私たちは、できるはずだと思う。
[注]
★01 本報告に関連する情報を
ホームページ
http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htmから得られる。また、問い合せ、御注文等は
TAE01303@nifty.ne.jp
へ。
★02 「自らが得たものについてだけ権利がある」という規則について[9705](それを認めながら助け合いを言おうとする場合に生ずることについて[9806])。家族による負担は、@正しいか、A気持ちがよいか、B得であるのか、について[9201][9501][9701]。「福祉国家(の危機)」(を語る言説)については、多分、『社会学評論』に掲載される論文等で考察を行う。
★03 本文(◇5)にも引用する[9602]、[9705:346-347]。
★04 共著書08・10、ホームページ→
「障害者自立生活・介護制度相談センター」
※からの情報、またここであげていない報告者のいくつかの文書:ホームページ→「立岩」
★05 自分の金なら無駄に使いたくはないから一定に抑制されるのに対して、この場合にはそうではない。この指摘を全面的に否定できない。そこで「ニーズ」を評価するという話になる→「要介護判定」等々…。だが、まず、個別に評価する前にどういう場合にどれだけを供給するかという基準の問題がある。ひとつの答えは「人並みに」というまった月並なもの。しかしこれは大切だし、また本当にこれを実現しようとするなら現実は随分と大きく変わるはずだ。
次に個別の評価。必要なら仕方がないが、どうしても必要か。費用の転用さえ防げれば、――そのためには利用者に対する直接的な現金支給よりも、選んだサービスへの支給の方がよいかもしれない――申請の通りに認めても問題は生じない可能性がある。こうしたことを考えてもよい。十分に詰められていなが、共著書05・10に述べられている。
★06 例えば、下記する@Aの仕事と、◇2に記した可否と量の決定の仕事とは別なのだが、それを曖昧にし混ぜ合わせたケアマネジメントなるものを置こうとする動きがある。曖昧で厄介なものを全面的に拒否できない時に、障害者運動は面倒な、微妙な対応を迫られる。[9801][9805]、共著書10。
★07 「自己決定」について[9702][9705:127ff][9802][9803][9804][9807][9808]。
★08 利用者と供給者の(力)関係について[9603][9604][9702]。
★09 「自立生活センター」の活動について[9502]。施設での生活からの移行に際しこの組織が果たしている役割について共著書11。後出の「生活支援事業」について[9703]。ホームページにも情報有。
★10 [9809]で検討する予定。ピア・カウンセリングの資格化について[9704]。
[文献]◆9201
「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」
『社会学評論』42-2◆9501「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」共著書06第8章◆9502「自立生活センターの挑戦」共著書06第9章◆9601
「(非政府+非営利)組織=NPO、は何をするか」
(成井正之と共著)共著書07第2章◆9602
「組織にお金を出す前に個人に出すという選択肢がある」
共著書07第4章追記◆9603「医療に介入する社会学・序説」『病と医療の社会学』(岩波講座 現代社会学14)◆9604
「だれが「ケア」を語っているのか」
『RSW研究会 研究会誌』19号◆9701
「「ケア」をどこに位置させるか」
『家族問題研究』22◆9702「私が決めることの難しさ――空疎でない自己決定論のために」太田省一編『分析・現代社会 制度/身体/物語』、八千代出版◆9703
「「市町村障害者生活支援事業」を請け負う」
『ノーマライゼーション研究』1997年版年報◆9704
「ピア・カウンセラーという資格があってよいとしたら、それはどうしてか」
全国自立生活センター協議会・協議員総会 シンポジウム『資料集』◆9705『私的所有論』勁草書房◆9801「ケア・マネジメントはイギリスでどう機能しているか」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』1998-1◆9802「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」『仏教』42(特集:生老病死の哲学)◆9803「一九七〇年」
『現代思想』
26-2(1998-2)(特集:自己決定権)◆9804「自己決定→自己責任、という誤り――むしろ決定を可能にし、支え、補うこと」『福祉展望』23(東京都社会福祉協議会)◆9805「どうやって、英国の轍も踏まず、なんとかやっていけるだろうか」『季刊福祉労働』79(特集:ケアマネジメントって何だ)◆9806「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」『現代思想』26-9(1998-9)(特集:遺伝子)◆9807「死の決定について」大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』ナカニシヤ出版◆9808「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」長瀬修・石川准編
『障害学への招待』
、明石書店◆9809「(題未定)」進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』、世界思想社( はホームページから入手可→注01)
共著・共編書◆05ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会199408『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』、ヒューマンケア協会、88p.◆06安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也199505
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』
、藤原書店、366p.◆07千葉大学文学部社会学研究室199603
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学』
、千葉大学文学部社会学研究室&日本フィランソロピー協会、366p.◆08自立生活情報センター編199609『HOW TO 介護保障――障害者・高齢者の豊かな一人暮らしを支える制度』、現代書館、150p.、1500◆10ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会199801『障害当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』、ヒューマンケア協会・日本財団、131p.◆11赤塚光子・佐々木葉子・杉原素子・立岩真也・田中晃・名川勝・林裕信・三ツ木任一199803『療護施設・グループホーム・一人暮し――脳性マヒ者の3つの生活』、放送大学三ツ木研究室、166p.◆12自立生活センター・立川編199804『自立生活センター(CIL)の管理・運営マニュアル――NPO(民間非営利団体)の組織運営についての実務書』自立生活センター・立川、105p.(販売:05を1000、06を2900+税→2500、07を1500、10を1500、11を1000、12を1500、単著9703を6000+税→5000、+〒料。単位は¥。→注01)
UP:1998
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