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「仕方のなさ」について・2
良い死・8
立岩 真也
2006/03 『Webちくま』
http://www.chikumashobo.co.jp/new-chikuma/index.html
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>全体の目次
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*『Webちくま』に掲載されしだい、ここでの本文の掲載を停止します。
*この原稿は改稿され、以下の本に収録されました。
◇立岩 真也 2008/09/05
『良い死』
,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193
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個別から語ることの流行
他人のことが、あるいは自分のことが、好き/きらいだから、その気持ちに添って決めるということであってよいではないか。しかじかになった自分がきらいだから、そうなったら死んでしまおう。とにかく私にはそう思えてしまう。こうした正直な、あるいは居直った言葉にどう答えたらよいだろう。このことについて考えている。
第5回で、それは自然な感情だと言われ、それに対して、そうでない、好悪等々は作られたものだ、時代や地域に相対的なものだと言っても、あまり納得してもらえないだろうと述べた。そして、気持ちわるいという気持ちを感じてははならないとは言えないだろう。それを禁圧すべきであるとされることの方がかえってよくないようにも思える。
そしてそのような正直さは、この社会にあって、肯定されること、積極的に肯定されることがある。なにか抽象的な原理があるからでなく、実際に人が思い感じることからこそ連帯や協力やは起こるとされる。言われるとそんな気もする。どのように考えたらよいか。 まず、人の世のことは人の行ないによって形作られる。そしてその行いには人の思いが関わっている。以上はそれとしていつでもまったく否定しようのないことだ。その限りにおいて、私たちは「人間的なもの」から抜けることはできない。しかし、間違えない方がよいのは、この自明なこと、いつもそうであったしこれからもそうであるほかないことと、今語られることとは異なるということである。今語られるのは、個々人の思い、感情から、関係のあり方、社会のあり方を立てていこうということである。実際の関係、実際の関係に発する実感をもとに据えていこうという行ないである。このようにして何かを語るのがすこし流行している。その事情はわからないでもない。わからないではないと思うのは、一つに、ただ抽象的な原理を言われ、教義を説かれても納得することはできないという感覚、不満がある。これが正しいから従えと言われてしまうと、納得できない。かえって信用できなくなってしまう。そのように思のはもっともかもしれない。
「ケアの倫理」
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などというものが語られるのもこんなことに関係しているところがあるのだろう。その心性が、なにやら天然自然のもの、本能のように語られることには批判がある。あるいはまた、それが特定の性に偏ったものとして、「女性的なもの」として想定されていることについても批判がある。それらの批判はもっともなものではあるが、そのような契機があること、そしてそれは肯定されてよいものであること。このことは認めるとしよう。
ただ、それにしても難しい場面があるように思われるし、そのことは指摘される。つまり、具体的な関係に生起する感情からその人に対する行ないが起動するとしよう。しかしそうした関係がなかったり薄かったりする人がいるだろう。すると、それらの人には何もなされないことになるのではないか。また、今私はしかじかが人に気にいられてそれでうまいぐあいに行っているのだが、それはいつまで続くのだろうと思う。
もちろんこれに対して、ケアする心性はそのように狭隘なものではない、などと言われもしようし、それもかなりの程度当たっているのだが、それでも不偏・普遍に対する懐疑から「ケアの倫理」等々といった話は始まっているのでもあるから、限界は認めざるをえない。それで前回見た、ローティ
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のような漸進主義も出てくる。つまりだんだんと人の輪を広げていこうなどと言われる。また教育の必要性が説かれる。人には類推の能力があるのだから、しみじみとした話をし、それで身近な人との間にたしかに存在することが確認された感情を、他の人にも差し向けられるように誘導していこうというのである。
それはたぶん有効な手立てだと思う。反対する理由はない。けれども、この戦術がうまくいくいかないと別に、ここで押さえておくべきことは、このような道筋の話をするときには、あるいはこの種の議論の弱点を言うときには、既に、予め、気遣われるその範囲が世界の全体に及ぶことがよしとされているということである。そうあってほしいのだが、それはなかなか難しく、それで具体的なところから順々とやっていこうという筋になっているのである。もちろんそんな拡張は不可能であり、また望みもしないという人もいるだろうが、そうでない人は、実現可能性は別として、それを期待しているということである。このことが何を意味しているかである。つまり、を超えたものがあった方がよいと思っているということである。ならばそう言えばよいではないか。それなのになぜ、その方向に進まないのだろう。普遍主義のなにか批判されているのだろう。
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思いを超えてあるとよいという思いの実在
プラトンやカントが持ち出されて「西洋形而上学」が批判される。その人たちが何を言ったのか知らないし、その人たちの味方にならなければならない特段の事情もない。ただ、批判する人たちは、批判する相手をなにか攻撃しやすいものにして、小さなものにして、それから攻撃しているように思えるところがある。
批判者たちは、批判される相手が「普遍的な道徳原理なるもの」の実在を主張していると言い、しかしそんなものは実在しないのだと言う。だが、この場合に実在するとはどんなことなのか。もちろん、それは物がそこにあるように存在することではないだろう。このことは誰もが認めるはずのことだ。とするとどのような意味であるとかないとか言っているのだろう。もののようにあるのでないとすればどのようにあるのか。ある理念があればよいと思うのと、理念があることと、違うとは言えよう。しかし、いずれにしても、まずは人の思いとしてある。その行ないとして現実のことになる。ものがある(と思う)こと、ものがあるとよいと思うこととが異なることであるようには、異ならない。そして、言葉は人に対するあり方として現実のことになる。実現しないこともある。しかし、その時でも遂行されねばならないこととして想念されてはいる。
それ以上・以外のことを批判される側は言っているのだろうか。よくはわからないが、一つに考えられるのは、その態度、主張を後ろから支えて前に押す強さがあったらよいと思っているのかもしれない。実際、超越者への信仰は、世界の全体を見れば減じてはいない。ただ他方、そのことが疑わしさを招いてもいるということなのかもしれない。ことのよしあしは別として、見たことのないものは信じられないという思いをもつ人はいて、そのような人に対しては、経験の世界の外にあるものを持ち出すのは逆効果でもある。
ただそれでも、そんな人たちにとっても、もう一つ、私が思っていたり私が思われたりするのとべつに、私や他の人たちが生きて暮らせたらよいと思う。それは、やはり私が思ってはいるのではある。人間の感覚ではある。しかし、その感覚とは自分の感覚で決めないという感覚であり、個人の心情に還元しないという心情である。
そしてこのことは、直接に、規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性につながる。その前に、普遍性に、皆が思うという契機と皆に及ぶという契機と二つの契機があることさえ、ときに私たちは忘れるから、このことを確認しよう。そしてその一つめのものもまた、私が思うこと、私が思うのでしかないことの位置づけに関わってはいる。
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誰もが、について
普遍性の一つは、信じたり是としたりする側の人の普遍性である。そしてそれに対する批判は、主張されるもは誰もが信じているのではない、是とするようなものではない、そんなものは存在しないという批判である。どこででも信じられていることではない、その意味で特殊なものだ、すべてがそうだと言うのだ。これについてはいくらか前回にも述べたが、いくらか補おう。一つに、実際には言われているよりは普遍的であると言う。一つに、普遍的であろうとなかろうとかまわないと言う。
まず一つめ。批判者は、例えば人権といった理念が、ある時期以降の西欧の国々に生じた限られたものであるといったことを言う。ただ、この点については、批判される側もそう違ったことは言ってこなかった。その人たちは、例えば、特定の時期・場所に出現したことを認め、しかし、やがて他の社会も進化してその場所に辿り着くはずといったことを言うのだ。つまり、時間軸に差異を配置し、終極を同じくすることによって普遍主義が確保される。両者は、問題になっている思想は西欧・近代の特殊なものであるといったお話をする点については同じである。やがて他も追いつくと考えるかそうは考えないか、またそれを正しいものと認めるか、そうでないか、態度を保留するかで異なるものの、事実認識においてはあまり違わない。
しかしそんなことは信じる必要のないことだと思う。どんな社会で、誰が、このような私であるまま生きていけたらよいと思わないだろうか。人のそんな思いを認めたら損をする人たちはそう思わず言わないかもしれない。しかしそれは、それは、言ったら得にならないから、その人たちが言わないのだと考えた方が理にかなっている。そんな人たちでない人たちも常にたくさんいて、その人たちは大きな声で言わないあるいは言えないかもしれないが、そう思っている。私がどんなであろうと、よく生きていられることがよいと思うことが、限られた地域や時間の中にだけしかないと考えなけれはならない根拠はない。そんな物語を信じる必要はない。
ここで、さらにその「もと」があるかとかないとかいう議論をしても仕方がない。しかじかの知見によれば結局人間は利己的であることが、あるいは利己的な遺伝子のために利他的であることがわかったとしよう。しかし、それでどうなのだろう、そう思ったことがないだろうか。たしかに新たに得られたとされる知見や仮説はなにかおもしろそうではあって、なにかをもたらすかもしれないと思うことがないではない。何か今まで思いつかなかったことが現われるという可能性を否定しない。しかし知らなかったとしよう。とすれば、知らないことによって私たちは間違えるのだろうか。どうもそんなことがあるようには、私にはあまり思えない。そして私には、その知識によって基礎づけられるということもまたわからない。ここでは存在と当為とは別だといったことを――それはそのとおりだが――言いたいわけではない。何かを知ることが信じることを強めるということは、予め知ることをありがたがっている場合には有効かもしれない。しかしその有効性はそのような特殊な趣味をもっている人たちだけに限られる。
次にもう一つのこと。いま述べたことが本当であるとして、それでも、すべての人がなにか同じことを信じたり肯定したりすることはない。その意味では、たしかに普遍的な価値は存在しない。しかし、このことは当然のことであり、仕方のないことだ。実際、神さまが一意に定めた掟があることを信じている人たちにしても、現実にみなが信じていることを、想定はしていない。またそうでなければそれを信じるに足る理由がないなどとも思っていない。むろん、多くの人が受け入れたり、合意があったりすることは大切ではあるだろう。まず現実の問題として、人々が受け入れないものは実現したり維持されたりすることが難しい。そして、人の思いを否定するのがよくないとすると、その人の思いに反することを行なうことは好ましいことではない。行なおうとすることにその人も同調してもらえた方がよい。しかしこのいずれも同意・合意を絶対化するものではない。とくに、既に現実の社会があり損得が配分されてしまっているなら、その現状で得をしている人はその状態を変えることに同意しないだろう。この場合に皆が反対しない案しか採用しないことは、今得をしている人を喜ばせることでしかない。この意味で、人はそれぞれだから比較しない、誰もが文句を言わないところが落ち着かせどころだという筋の話は、まったく反動的な話である。ときに、比較し、誰かを誰かより、何かを何かより優先せざるをえないことがある。それは、比較が可能か否かという問題への答としてではなく、それをすべきであるという要請によってなされる。いつも合意がなければならないと思うのは間違っている。
だから、ここで普遍主義を非難する人たちと一部同じで一部違うことを言うことになる。たしかに皆が同じことを信じている必要はなく、何かに皆が合意しなければならないわけでもない。しかし他方で、例えばどのように暮らせればよいかについて、人々の思いにそう大きな違いはないはずだ。
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誰をも、について
もう一つは価値や規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性である。たしかに人に対する濃淡は違う。ほとんど実感しないことはたしかにある。近い人になら「死ぬな」と言いたい気持ちにわりあい簡単になるけれども、そうでない人ならそうではない。
ただ、このことについても幾つかのことは言える。一つは、遠近と濃淡とが関わることは認めるとして、その距離は自然の距離と言えないことが多いことだ。例えば、関わりにならないのがよいから遠ざかることもある。遠ざけられることもある。このことは前回に述べた。
もう一つ。人に接し、知るのであれば、その人を大切にすることになるのか。このことについてあまり単純に純情にならない方がよい。慣れることに積極的な契機があることを後で述べるけれど、それとともに、死ぬことに慣れる人が死なせることにも慣れることもあるだろう。そして苦労が多く、それが蓄積された人は、その相手を恨み、殺そうとすることがあるだろうし、実際に殺すこともある。それでも近しい関係を称揚したい人は、そのような関わりは本当の関わりでないと言うのだろうが、すくなくともその関わりは事実存在する関わりではある。
そして一つ。近い人に対する関係が特別なものではあること、それはよいことでもあり、また苦痛でもあること、両者は並存するのだが、さらに同時に、誰がどのような位置にいてどのような関わりをもっているとかもっていないとかと別にうまく生きていけたらよいと思うということがある。欲望の複数性についてはまたあとでも述べるけれども、これら複数が同時にあってすこしも不思議なことではない。
さらにもう一つ、誰であってもよく遇されてよいという方に向かうことが、なにかリアルなことから離れた抽象的なことだとは言えない。それはまず私について言える。私がどのような私であるかによって、様々が左右されるし、ときには左右されたいとも思う。しかし、それはそれとして、そうした思いがあるのとともに、私がどんな私であるにせよ、よく生きられたらよいと思う。これはまったく具体的な現実的な思いだが、その思いは、誰でもが生きられるという普遍を指示する。そしてそのことは一人ひとりが有している属性を無視したり否定することではない。むしろ保存したり享受したりできることもある。このことについては『自由の平等』
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の第3章で述べた。また、自分がどう思っているというのと別に、他人が存在しているのはまったくの事実であり、自分の好き嫌いがそのままその人の存在を規定してしまうなら、その人はもう他人ではなくなってしまう。好きだとか嫌いだとか思うのはつまり私であり、そのことは否定できず、否定する必要もないとしても、他方で、同時に、その私は、それですべてを決めてはつまらないとか、うっとおしいとか、おこがましいとか思っている。それもまた私の現実的な思いである。このことについては『私的所有論』
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の第4章で述べた。
こうして、誰かのそのときどきの思いに左右されないものとして、自分自身や他の人々があってほしいと思う。むろんその上でも、恣意や好悪は残る。なくなることはない。それは仕方のないことでもあり、また享受されることでもある。一人ひとりに向かって個々に異なるあり方だけがリアルなものであり、どんな人であれどんな状態であれと思う方が観念的なものであるとは言えない。自分がどんな者であったとしても、ここに、この社会にいさせてほしいと思うことも、また現実的で具体的な、ときにはまったくさし迫ったことである。両者ともに同じ人の欲望であり、いずれも具体的に現に存在する欲望である。 こうして、たしかに私たちが考え思っていることであり、思っていることでしかないのだが、そのことの中に、私の個々の思い、個々の関係から離れたところで、私が、人々が生きていられるとよいと思う思いがある。この意味での普遍性が、まったく具体的に現実的に要請されるのである。
それ以外の何かが必要なのだろうか。それを押す強さ、あるいは強さのもとのようなものがあってほしいと思うのだろうか。あってほしいと思うのと、あると思うのと、後者の方が強い。誰がどうであろうとだいじょうぶであるように、もう決まっているのだと、神さまが決めたのだと思えた方がその規範は安定するし、日々思い煩わずにすんでよいかもしれない。強い信が得られ、気弱にならずにすむかもしれない。だから、自分がどう思うのかと別に、それはすでに命じられ決められたことしてそこにあった方がよいのかもしれない。しかし、残念ながらであるのか、残念ながらでないのか、信じようにも信じることはできず、かえってそのような水準に訴えると、嘘のようだと思えてしまう。人々は、人々に押しつけたいものを人間の上の方に持ち上げるという仕掛けを知ってしまっているから、この所作はあまり効かないのかもしれない。とすれば、かえって人間界のこととして語った方がよいのかもしれない。あること、あるいはあるという言い方が、なにか天から降ってきたようで、どうも実感できない、嘘のように感じられるという人がいたら、人が、そのようであってらよいとどうやら思っている、そういうことのようだと答えるしかない。
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けれどやはり、について
こうして、私がしかじかの私であって、それを受け取める誰かがいて、その人がなにがかしかを感じて、というのと別の水準に価値・規範が設定されるべきであることをひとまず言えるはずだと思う。そしてこのことは安楽死・尊厳死のことを考える上でも大切だと思う。この水準で肯定されていないこと、生存・生活が位置づけられていないことが その観念と行ないに関わっている。この水準で普遍的に肯定されるなら、死なずにすむ人が死ぬことは少なくなる。
ただ、一つ、その上でもやはり私は、私の一存のこととして決めるのだと言う人はいるかもしれない。このことについて、まず『思想』に掲載された原稿
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で考えた。私の一存としての想念や行ないを否定できない理由はある。しかし、そうであったとしても、その人の思いや決定に口をさしはさめないということではない。そして、自分の頭脳を含む身体の大きな変容がここでは理由になっているのだが、この場合に、私は私のことを決めていると言えるのか、多くそうは言えないだろうことも述べた。
自分はこう感じてしまうということは、それが事実であるとしても、そう多くのことを正当化するわけではない。しかしそれにしても、正しいことかそうでないかはべつとしても、人々はまったく個別の関係や感情に左右され、右往左往して、それで死んでしまうこともあるではないか。一般的に普遍的に生存が保障されたとして、それでも生きていられないと思うことはあるだろう。この部分はどうなるのだと思う人はいるし、思うことはある。こんどはその問いについて、いくらかでも考えてみることにしよう。
UP:20060215 REV:20140504(誤字訂正)
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安楽死・尊厳死
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立岩 真也
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