HOME > BOOK >

欲望のかたちについて・1

良い死・10

立岩 真也 2006 『Webちくま』
http://www.chikumashobo.co.jp/new-chikuma/index.html
http://www.chikumashobo.co.jp


全体の目次
/ 10/ 1112/13/14/15/16

 *『Webちくま』に掲載されしだい、ここでの本文の掲載を停止します。

しかし私は、と言われる

  自然な死を欲望すること、自分の生を否定すること。そうした感情や欲望について考えている。第8回で述べたのは、そうした一つひとつの好悪の感情と別のところで、人の生存・生活を肯定しようという態度があること、それは天から降ってくるものだと考える必要はなく、そうした態度をとることを人が欲望しているのだということだった。その人がどんなようであってもどのようであることも可能であることが望まれている。
  それを言う人たちの言葉が読まれるのは当然のことだ。人が何かを共有することによるつながりが共同体であるなら、あるいは、人が何にかができて何かを行なうことによって形成されるものが組織であるとしたら、それらは限定的なものであり、限定的なものでしかなく、どんな存在であっても、という条件を満たさないことになる。そこで、「無為の共同体」であるとか「何も共有していない者たちの共同体」などと言う人がいると、それはよいと思う。肯定することは、何かをともにすること、あるいは共通の属性を有していることではないことに求められる。このようなあり方を望むことはまったく必然的なことだと私は思う。具体的なあり方を超えて認められるべきだという、まったく具体的な要求が具体的にあるということである。
  そんなことを言われたって空手形のようなものでしかないとも思われる。その希望は美しい希望であるかもしれないが、そんなことはこの世にあったりはしないのだと言われる。それに対して述べたのは、すくなくとも一方でそれを望むのであれば、それは、すくなくとも事実存在する望みとして、望まれるという事実として存在するということであり、望まれることにおいて、願望以上のものであってほしいと願望されるというあり方で、それは存在するということだった。そのような心性が安定的に十分な量あると言いたいのではない。けれどもそのようであってほしいという思いはある。このことを否定することはできない。
  ただ、そのことを確認した上でも、それはそれとしてわかった上でも、個別の存在のあり様についての価値はやはりあると言われよう。それはそうだろう。そして、とりわけ自分のこととなれば、自分のあり方に対する自らの価値から、自らのことを考えて決める、それでよいとされていると言う。様々を受け入れた上で、しかし個々人の選択だと、私の好き好きだからという話にもっていかれる。そこでさらにどんなことを言っていったらよいのか。いくつものことがあると思う。一つずつ考えていく必要がある。
  事態の基本にあると考えるものについては、もう幾度も同じことを繰り返し述べている。最初に書いたのは、『仏教』という雑誌に掲載され、いまは『弱くある自由へ』に収録されている「都合のよい死・屈辱による死」という文章だった。自分でできないと生き難いように作られている社会で人は生き難くなる。また、人は暮らすために生産するのだが、だから生産は手段なのだが、その手段の価値が目的を上回るという倒錯が起こっている。これらのもとで人は生き難く、死を選ぶことがある。それはよいことか。よくない。だからそれを変えればよい。ひっくり返っているものをもとに戻せばよい。そのことを述べてきた。
  ただ能力や業績や貢献のことは、尊厳死などというものを考えるはめになったその以前から、私がずっと気にしてきたことだった。だから、関心が偏っている私であるがゆえに事態をこのように見てしまっているのかもしれない、実際にそんなに単純なものなのだろうかとは思ってきた。この場面に固有に存在する苦痛や悩みもまたあるのではないかとも考えた。例えば動けなくなること自体の苦痛、発話できないこと自体に発する苦しみがあるかもしれない。そんなこともあってALSという病にかかった人たちのことをすこし調べてみたのでもある。するとそこに様々な苦労・苦痛があることはわかった。けれど、その上でも、私が基本のところにあると考えてきたものがやはり大きく効いていることは確かなようだった。究極の病とされている病であっても、そのこと自体の苦しみから死に至るとは言えないようだった。できていたことができなくなってしまうことに対する悲観があり、そしてそれ以上に、その身体でこの社会で生きていくことをめぐる辛さ、とくに近くにいる者にかかってしまう負担を思う辛さがあった
  とすると、一つには、生きられる物理的・物質的諸条件が存在しなければならず、またそれをめぐる規則をもっとよいものにしなければならないのだが、これがなかなか厄介である。自分ひとりの力でどうにもならないし、次に負荷がかかるのは家族であったりする。死の方に行くことを促すものは多くそんな現実である。ただ、それを取り除ければ、他のものに代えられれば、あとは生きようと思う思いの方が強いはずだと、だからそれ以外のことはあまり考えなくてよい、すきなようにさせればよい。
  これは半ば以上は本当のことだ。けれどもやはりそれだけではない。もう一つ、価値、好悪がときには大きく作用している。物質的なものが左右すると述べたのだが、そうした条件があってもなお死を選ぶ人はいる。また、生きるために必要なものを分配することを支持し指示するのも、人々の価値・欲求である。となれば、やはりこの契機を無視するわけにもいかない。
  相手方の言い分は、こうなってしまった、あるいはそうなってしまうだろう自分がなさけない、どうしても私にはそう思えてしまう、それが自然な感情だ、仕方がないというものだ。その人は自分で自らを評価している。自分がぼけてきたことを知っていて、あるいはそうなるかもしれないことを恐れ、気にしている。言いたくなるのは、そんなことは気にしなければよいということである。しかしそんなことを言ってどうなると思う。その人の思いはその人に溶けてしまっていて、そこから抜け出せない。

作りものだと、まず言ってみる

  そんなにこだわらなくてもよいではないかと思う。その人にそのことを伝えようとする。
  そこで、まず一つ言うことは、そこに描かれる像が間違っているということ、誤解・偏見がある、知られていないことが多々あるといったことだ。例えば老いることについての否定的な認識がある時に、それに対抗しようとして別の像が提示される。様々なことが間違って認識されているのは事実である。だからそのように対抗するのはよい。しかしときには、それほど肯定的に、美しく語ることができないことがある。そのように語ろうとすると無理がかかることがある。認知症になる時にはなる、状態が進んでいくこともある。今までの否定的な高齢者像を否定しようとして、じつは高齢者は元気なのだというところを強調することになったりする。それはおおむね間違っていないとしても、部分的な事実でしかないことがあり、そこを突かれることがある。またその方向に自らを差し向けてしまうことがあり、それと現実のわが身との差異が自身を否定することにもなる。天田城介が『<老い衰えゆくこと>の社会学』の中でそのことを述べている(pp.83-117)。
  「近代社会における「暦年齢の絶対化」によって「老人」は匿名的カテゴリーとして構築され、それは同時に「老人神話」をも創出した。ところが、1970年代における「老人」から「高齢者」へのネガからポジへの価値転換はかつての高齢者像の呪縛からの解放を謳いながらも、いよいよ他者のケアに依存しなくては生きられない状態となった「老い衰えゆく」人々を「医療」「福祉」の世界に囲い込む結果となった。」(p.108)
  もう一つ、その起源・出自が問題にされる。それは天然自然なものではなく、近代の社会になって老いが否定的に語られるようになったといったことを言う。そうかもしれない。「姥捨て」の話が捏造であるといった指摘はある。きっとそうなのだろう。老人を敬うことは今よりは普通のことだっただろう。ただ、生きるための資源が不足した状況のもとでは厳しいこともあったのかもしれない。あるいは認知症についてはどうか。過去は本当はいったいどうだったのか。私たちは多く実際のところを知らない。ここでも事実関係をめぐる問題に巻き込まれる。おおむねどんな社会でもしかじかの人たちはよい目をみてこなかったということになって、かえって自らが言いたいことに不利に作用することもある。
  次に、別のものがどこかにあったことの指摘は、その別のものの方が今あるものよりよいことを示さない。このことも「社会的――言葉の誤用について」他で幾度も述べた(この文章は近々青土社から刊行される『希望について』に収録される)。人はその時のその場所で生きていて、そこから価値を受け取り、自らを位置づけている。それが現実だ。そしてそれはわるいことではなく、よいことかもしれない。ならば、さらにどのように言ったらよいのか。
  ただ、一つ覚えのようなこの「相対化」という営み、「社会的構築」を探してまわるという営みには明らかに積極的な意義がある。違うあり方があること、あるらしいことを知るだけでほっとすること、うれしくなることはある。違うあり方が人間の社会において可能であるということが示されるということ、これはとても大切なことである。時代が変わる程度のことで、場所が違う程度のことで、かなりの部分が違うらしい。そのままが今ここで実現できるかどうかはわからないにしても、その可能性はあると思えるなら、それはよい。ある時期、歴史学や人類学が魅力的であったのには、いつも魅力的であり続けるのには、そんな事情がある。
  しかし、とくに生死に関わるようなことになると、いつものように普通に知ろうとするだけだと、あまり楽しくなるようなことは出てこないのかもしれない。つまり、どこにでも支配的な言説はあって、それはたいてい幾分かは勇ましいものであったり潔いものであったりする。そこに同時にいつも存在する生は、そこからは浮かびあがってこない。公式の言明のうちにはせいぜいその幾分かが拾われるだけだろう。だからここでもただ知ればよいということにならない。それは、存在するはずだと思って、願って、探しに行くといった営みに近くなるはずだ。となると、結局、事実に語らせるというのとすこし異なったことをすることになる。文体も変わってくるかもしれない。資料をほじくったり、地味な聞き取りをしてしまう人たちと、現実を省みず「歓待」などと言ってしまう人たち、私は両者は実際にはそう違わない人たちだと考える。別のあり方、なんでもよいというあり方があってほしいとその人たちは思っているのだ。そんなみもふたもないことを直接に言うのは憚れるという人たちが「実証」に向かう。ものを言っていく筋道が違っているのだ。けれど、死の前の生といった主題になると、両者は、その書き方においてもどこか接近せざるをえないところがあるのかもしれない。

拘泥のありようにむらがある

  自分を価値づけるという行ないからの離脱を勧めようと思う。私が私のことを気にする。このことが時代・社会に規定されていること、このような自己のあり方が近代に強くはっきりと現われたものであること、このことは言えるだろう。ただ、自分を評価するということ、また評価されることか完全に抜けられるだろうか。そんなことはたぶんないだろう。気にしなければよいと言われても気になるだろう。自身を気にし意味づけることはいくらかは無歴史的なことであるかもしれない。そこから脱するにはかなり立派な人にならなくてはならない。あるいはもともと立派な人でないと無理かもしれない。
  人は自分のことを気にする。社会の中で、私は私の見え方を気にする。自分には自分の誇りというものがある。それは貢献だとかそんなものに関わる。それはある程度は当たっている。それはそうだろうと言ったらよいのだ。これを全部否定しようとすると、否定しなければならないと思うと、めんどうなことになる。それで、どうも難しいと思ってしまう。だが、そう思ってしまう人自身も、どちらか一方であるような私のあり方を前提にしているのではないか。そう思わなければならないことはない。
  たしかにきれいさっぱり過去を否定したりしないとやっていけないといった場合もあるにはあるだろう。しかしそれはなかなか難しくもあるし、またそこまでのことがいつも必要であるわけではない。2004年に障害学会という学会の大会で石川准と話をした。それは学会誌『障害学研究』の創刊号に収録された。石川は私と同業の研究者だが「アイデンティティ・ゲーム」を丁寧に記述してきた人でもあるともに、「社交」する人間たちに愛着をもっている。ただ、私にしても、それはそれでわかる、というか否定しない。場合によって場面によってその重みをいくらか軽くしようというだけのことだ。とくにここでは生き死にが天秤の一方に載っている。生きていく上でさまざまに悩ましいことがあるのは仕方なくまた時によいことであるとしても、生きるのをやめるほど深刻なこととしてあるのはやはり変なことではないか。そのように言っているだけなのだ。ここでは、解脱するとかしないとか、そんな乱暴な話はしない方がよい。
  だいぶ前のことではあるが「人間の終焉」といったことが言われたことがあった。なんだかよくわからないがそれはその通りだということにされたのだと思う。ではその人間は消えてなくなったかと言えば、そんなことはない。人間的なことごとは近時ますます繁茂している。どんな具合になっているのか。「本来の人間」といったものはたしかに存在しないのかもしれないけれども、その時々の私のあり方は大切であって、それに気を遣って人々は生きている。こんな説明になるのだろうと思う。そのようにして辻褄が合わせられているのだと思う。
  そして、この社会は人に一貫性を求める社会であるのかどうか、それもいちがいには言えない。一方では、社会が複雑になり、様々に機能分化して、その場所場所に違う私がいるという具合になっているのだとも言われる。言われるとそのようにも思う。他方、依然として人格の一貫性もまた美徳であるとされている。
  そして、その辻褄の合わせられ方、私という存在の分散や集中のさせられ方が、思うに、あまり楽しい具合になっていない。働く場所と遊ぶ場所での自分を使い分けることは、都合もよいだろうし、必要でもあるだろうが、それだけのことである。そんな使い分けは当たり前のことであって、とりたてて言うほどのことではない。むしろ特定の場面を気にしてしまうこと、力が入ってしまうこと、そこに私が賭けられてしまったりすることをすこし不思議に思い、気にしたらよいと思う。別にもうすこし詳しく紹介しようと思うが、小泉義之の『病いの哲学』という本がちくま新書で出た。そこから一箇所を引く。
  「誰も私の代わりに死ぬことはできない。それはその通りだろう。しかし同時に、誰も私の代わりに飲食したり、排泄したりすることもできない。にもかかわらず、どうして、ことさらに、飲食や排泄ではなく、死だけが、代理不可能性を示すものとして、すなわち、代理不可能な代理不可能性として言挙されなければならないのか。」(p.62)
  ハイデッガーについて書かれているところだが、これはもっともな指摘だと思う。私も、個性・個別性・固有性について言われていることには様々におかしなところ、間違っているところがあるように思ってきた。例えば、別の人たちとの差異によって、その人が個別で固有の存在であるわけではない。差異はなくても個々の存在は個々の存在であるに決まっている。
  そんなことを一つひとつ確認していくのがよいと思う。死(に関わる決定)には随分のものが賭けられているし、一貫性が求められている。その決定に至る理由とされるものも随分重いものとして勘定されている。
  例えば「事前指示書」などと呼ばれるものがある。予めどのように死ぬかを決めておこうというのだ。もちろん後で気が変わったらそれを変更することはできるとされてはいる。しかし変更できるのであれば、変更可能なその時にはじめて指示すればよいのだから、その手前で決めておく必要もまたない。変更の指示も含めて指示が困難になる場面を見越して、そのような場面にいない私が予め決めているということである。
  まずそれは自分のこととして決めていると言えるのかと問える。ことのよしあしはともかく、それは私の私についての行ないであって、またあなた方には迷惑をかけていないのだから、何も文句を言われる筋合いはないと言われることに対して、この場面でそう言えるのかと問うのである。このことについては『思想』掲載の「他者を思う自然で私の一存の死」の第3回で考えた。言えないことがあることを述べた。自分のことだと言われるのだが、たとえば認知症になった未来の私を否定し、認知症が進んだ時の私を否定して死のうとする私は、今の私でない未来の私を、今の私のようでないがゆえに否定している。ここにはそうなった私も私だという連続性の意識はあるだろう。しかし、その私は、今の私ととても大きく違っているからこそ、その存在の消去を予め決めておこうというのである。そして、実際に認知症になった私は、そんなことをかつて決めたことをもう忘れているかもしれない。自らが知らない決定によって自らは死ぬことになる。このようなことが、私のことだから私が決められるという理由によって正当化されうるものなのか。私にはそう思えない。他人によって決められていると言ってよいぐらいではないか。
  ただ、今現在の自分が今現在の自分を知って、もう死のうということもある。そう思ってしまうのだから仕方がないと言われる。この場合にはどのように返したらよいだろう。
  そう思ったこと、すくなくともそのように言おうと思ったことを否定することはできない。しかしそれで終わりにはならないはずだ。そう言ったのは、思い詰めた上でのことなのかもしれないけれど、しかし、それだけかと、ずっとそうかと、これからもそうかと言って、しばらく待ってもらうことはできる。この場面で、価値が変化すること欲望が複数であることの可能性がないことにされているなら、それはやはり不思議なことであり、作為的なことでさえあるかもしれないと疑ってもよいぐらいである。

変わる

  人が人をしている限り、人であることから抜けられない部分はあるのだろう。それは快でありまた生きがいでもある。ただ、そのことはそれとして認めながら、人のあり方についての価値の形状について、いくつか緩めてかまわないことがある。賭けられるものを軽くすることはできる。そしてそれを人は望んでもいる。
  様々あるなかで随意に変更できないもののことを私たちは感情と呼んでいるのかもしれない。好みは変えようと思っても変わらない。そのことを全面的に否定することはできないだろう。ただ、もう少し正確に言う必要がある。一つには、意志的な制御と対照させ、自然なものとして、制御できないものとして感情を置くという浪漫主義的な動きがあるだろう。実際にはそんなにすっきりとは分かれていないのに、分けられてしまう。実際には、変えようと思ったからといって変わらないこともたしかにあるのだが、変わることもある。そしてそこには、変わりたい、変わるとよいという感情もまた関わっていることがある。変わればよいと思っているときには、変わることがある。だから、価値を変更すればよい、価値が変更されればよい。
  それはすこしずるい感じがする。今までは「実社会」で、そこにある価値のもとで、つまりは健常者向けの価値でやってきた。その価値は、そうしてまわっていく社会では効果的なものでもあったし、その人自身にしても、そこでうまくいっている限りにおいては、利益を得ていたのでもある。しかしそのままでは、これからは自分は否定的に価値付けられることになる。それは生きづらい。そこで価値観を変えてしまう。変わってしまう。それでよいではないか。
  自分に都合よく価値を変えてはならないという価値がある。それはもっとな価値のように思える。しかし都合のよいこと自体は悪いことではない。そして変わった方の価値は間違っているか。間違っていない。ならばよい。つまり、変わった後の価値がもっともなものであるなら、変わることによって生きることが容易になることがよいことであるなら、それでかまわないはずだ。
  こうして、若いときに若いことを価値とし、年とってから年をとっていることを価値とすることもわるいことではない。働ける時に働くことを価値として仕事に精励することは、働かせる側にとって都合のよいことであり、それに充足感を感じられるなら、働く側にとってもわるいことではないとしよう。だが、働くことができなくなって、そのままの価値では気易く生きていくことができないなら、それを変えればよい。


UP:20060506 REV:20060510,18(誤字訂正)
安楽死・尊厳死  ◇立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)