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*このファイルの作成:安部 彰(立命館大学大学院先端総合学術研究科)※ ◆ケア/国境 ◆立岩・作 ■文献[邦文](発行年順) ◆掛川 典子 1993 「フェミニスト・エシクスの諸問題」,『女性文化研究所紀要』(昭和女子大学)11:31-40 <205> ◆川本 隆史 1993 「介護・世話・配慮――《ケア》を問題化するために」,『現代思想』21-12(1993-11):152-162 ◆広井 良典 19971120 『ケアを問いなおす――「深層の時間」と高齢化社会』,筑摩書房,ちくま新書,236p. ISBN:9784480057327 (4480057323) 756 [amazon]/[boople] ※ c04 ◆小山内 美智子 19970301 『あなたは私の手になれますか――心地よいケアを受けるために』 ,中央法規,269p. 1575 ISBN-10: 4805815485 ISBN-13: 978-4805815489 [amazon] ※ d c04 ◆川本 隆史・池川 清子 199805 『ケアすることと癒すこと・1』(シリーズ対談=人間と看護を考える 癒しの諸相5) 『看護展望』23-6(1998-5):60-67 ◆川本 隆史・池川 清子 199806 『ケアすることと癒すこと・2』(シリーズ対談=人間と看護を考える 癒しの諸相6) 『看護展望』23-7(1998-6):66-73 ◆藤野寛,1998,「帰属について」『倫理学研究』28: 123-129. ◆広井 良典 20000915 『ケア学――越境するケアへ』,医学書院,268p. ISBN:426033087X 2,415 [amazon]/[kinokuniya]/[boople] ※ c04 ◆品川 哲彦,2002,「〈ケアの倫理〉考(一)」『関西大學文学論集』51-3(2002-1): 1-24 ◆品川 哲彦,2004,「ケアの倫理」考(二)――ノディングスの倫理的自己の概念」『関西大學文学論集』53-4(2004-3): 39-62. ◆品川 哲彦,20040310,「正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理」『平成15年度関西大学重点領域研究 現代の倫理的課題に対処しうる規範学の構築』: 116-129. ◆平山 正実・朝倉 輝一 20040415 『ケアの生命倫理』, 日本評論社, 172p. ISBN-10: 4535982295 ISBN-13: 978-4535982291 2004 [amazon] ※ be c04 ◆佐藤 義之,20040430,『物語とレヴィナスの「顔」』,晃洋書房. ◆三井 さよ 20040825 『ケアの社会学――臨床現場との対話』,勁草書房,270p. ISBN:4326652969 2730 [amazon]/[boople] ※ b c04 ◆立岩 真也 2005/06/24 「書評:三井さよ『ケアの社会学――臨床現場との対話』」,『季刊社会保障研究』41-1(Summer 1995):64-67 ◆川本 隆史 編 20050825 『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』,有斐閣,有斐閣選書1662,369+5p. ISBN: 4641280975 \2100 [boople]/[amazon] ※ ◇塩川 伸明 200605 「読書ノート:川本隆史編『ケアの社会倫理学』」 http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/ethicsofcare.htm ◇立岩 真也 2006/08/25 「分担執筆及び単著の本」(医療と社会ブックガイド・63),『看護教育』47-08(2006-08):-(医学書院) ◆岡野 八代,20050901,「繕いのフェミニズムへ」『現代思想』33-10(2005-9): 80-91. ◆上野 千鶴子,200509,「ケアの社会学――序章 ケアとは何か」『クォータリー[あっと]』1(2005-9): 18-37. ◆浜渦 辰二 編,20051105,『〈ケアの人間学〉入門』,知泉書館. ◆山根 純佳,2005,「「ケアの倫理」と「ケア労働」――ギリガン『もうひとつの声』が語らなかったこと」,『ソシオロゴス』29: 1-18. ◆川本 隆史,2006,「ケアへの規範的アプローチ―その隘路と突破口についての覚え書」『東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室 研究科紀要』32(2006-6): 71-80. ◆中野 啓明・立山 善康・伊藤 博美,200604,『ケアリングの現在――倫理・教育・看護・福祉の境界を越えて』,晃洋書房. ◆西谷 敬,2006,『関係性による社会倫理学』,晃洋書房. ◆小澤 勲 20060501 『ケアってなんだろう』,医学書院,300p ISBN: 4-260-00266-X 2000 [amazon]/[kinokuniya]/[boople]※ a06 b01 c06, ◆三井 さよ・鈴木 智之 編 20070331 『ケアとサポートの社会学』,法政大学出版局,301p. ISBN-10: 4588672061 ISBN-13: 978-4588672064 3360 [amazon]/[boople] ※ b c04 ◆天田 城介 200705 「自明な世界を記述することの社会学的困難を痛感する書として――書評:三井さよ・鈴木智之編『ケアとサポートの社会学』」,『図書新聞』2007年5月 http://www.josukeamada.com/bk/betc25.htm ◆堀田 義太郎 20070810 「「ケアの社会化」を再考する――有償化/専業化の可能性と限界」,研究会: 「公共」におけるケアについて考える ◆樋口 明彦 20071208 「「ケアの倫理」と「正義の倫理」をめぐる対立の諸相――ギリガンとキッティ」,有賀・伊藤・松井編[2007]* *有賀 誠・伊藤 恭彦・松井 暁編 20071208 『ポスト・リベラリズムの対抗軸』,ナカニシヤ出版,251p. ISBN-10:4779501954 ISBN-13: 978-4779501951 2940 [amazon] ※ >TOP ■文献[欧文] ◆Baier, Annette, 1987, "The Need for More than Justice," Canadian Journal of Philosophy, supplementary 13: 41-56. (→1995, in Held ed.) ◆Baier, Annette, 1996, "A Note on Justice, Care, Immigration," Hypatia 10-2: 150-152. ◆Barnes, Marian, 2006, Caring and Social Justice, Palgrave Macmillan. ◆Benhabib, Seyla, 1987, "The Generalized and the Concrete Other: The Kohlberg-Gilligan Controversy and Feminist Theory," in Benhabib and Cornell (eds) 1987, Feminism as Critique, University of Minnesota Press. (=1997,竹内真澄訳「一般化された他者と具体的な他者」マーティン・ジェイ編『ハーバーマスとアメリカ・フランクフルト学派』青木書店,171-213.) ◆Benhabib, Seyla, 1992, Situating the Self: Gender, Community and Postmodanism in Contemporary Ethics, Routledge. ◆Benhabib, Seyla and Cornell, Drucilla eds., 1987, Feminism as Critique, University of Minnesota Press. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/benhabib.htm ◆Benner, Patricia 1997 "A Dialogue between Virtue Ethics and Care Ethics," in Thomasma (ed) 1997. ◆Blum, Lawrence, 1988, "Gilligan and Kohlberg: Implications for Moral Theory," Ethics 98-3: 472-491. ◆Blustein, Jeffrey, 1991, Care and Commitment: Taking a Personal Point of View, Oxford UP. ◆Brabeck, Mary ed., 1989, Who Cares: Theory, Research, and Educational Implications of the Ethic of Care, Praeger Pub. ◆Broughton, J, 1983, "Women's Rationality and Men's Virtues," Social Research 50-3: 597-642. ◆Bubeck, Diemut, 1995, Care, Gender, and Justice, Oxford UP. ◆Dancy, Jonathan, 1992, "Caring about Justice," Philosophy 67(262): 447-466. ◆Deveaux, Monique, 1995, "Shifting Paradigms: Theorizing Care and Justice in Political Theory," Hypatia 10-2: 115-119. ◆Engster, Daniel, 2007, The Heart of Justice: A Political Theory of Caring, Oxford UP. ◆Flanagan, Owen and Adler, Jonathan, 1983, "Impartiality and Particularity," Social Research 50-3: 576-596. ◆Flanagan, Owen and Jackson, Kathryn, 1987, "Justice, Care, and Gender: The Kohlberg-Gilligan Debate Revisited," Ethics 97-3: 622-637. ◆Friedman, Marilyn, 1987, "Beyond Caring: The De-moralization of Gender," Canadian Journal of Philosophy, supplementary 13: 87-110. ◆Friedman, Marilyn, 1987, "Care and Context in Moral Reasoning," in Kittay and Meyers (eds) 1987, 190-204. ◆Gilligan, C 1982 In a Different Voice : Psychological Theory and Women's Development, Harvard Univ.Press=1986 岩男寿美子監訳,『もうひとつの声――男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』,川島書店 <205> (1997年:品切れ・再版予定なし) ◇塩川 伸明 200605 「読書ノート:ギリガン『もうひとつの声』 」 http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/Giligan.htm ◆Grimshaw, Jean, 1986, Philosophy and Feminist Thinking, University of Minnesota Press. ◆Harding, Sandra, 1982, "Is Gender a Variable in Conception of Rationality? A Survey of Issues," Dialectica 36-2: 225-242. ◆Held, Virginia ed., 1995, Justice and Care: Essential Readings in Feminist Ethics, Westview. ◆Houston, Barbara, 1990, "Caring and Exploitation," Hypatia 5-1: 115-119. ◆Johnson, Rolf M, 2001, Three Faces of Love,Northern Illinois UP. ◆Kittay, Eva Feder, 1995, Equality, Rawls and the Inclusion of Women, Routledge. ◆Kittay, Eva Feder, 1998, Love's Labor: Essays on Women, Equality and Dependency, Routledge. 樋口明彦による紹介:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9900ke.htm ◆Kittay, Eva Feder and Meyers, Diana eds., 1987, Woman and Moral Theory, Rowman and Littlefield. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/kittay.htm ◆Kuhse, Helga 1997 Caring: Nurses, Women and Ethics, Blackwell [amazon] =2000 竹内 徹・村上 弥生 監訳,『ケアリング――看護婦・女性・倫理』,メディカ出版,319p. ISBN: 4-89573-999-6 3400+ [amazon] ※ b 0e/c03 ◆Kymlicka, Will, 2002, Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Second Edition, Oxford UP. (=2005,千葉眞ほか訳『新版 現代政治理論』日本経済評論社.) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/kymlicka.htm ◆Noddings, Nel, 1984, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, University of California Press. (=1997,立山善康ほか訳『ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の視点から』晃洋書房.) ◆Noddings, Nel, 2002, Starting at Home: Caring and Social Policy, University of California Press. ◆Nussbaum, Martha, 1986, The Fragility of Goodness, Cambridge UP. ◆Nussbaum, Martha, 1999, Sex and Social Justice, Oxford UP. http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/nussbaum.htm ◆Okin, Susan, 1989, Justice, Gender, and the Family, Basic Books. ◆Rossi, Alice S ed., 2001, Caring and Doing for Others: Social Responsibility in the Domains of Family, Work and Community, University of Chicago. ◆Sevenhuijsen, S. 1998 Citizenship and the Ethics of Care: Feminist Considerations on Justice, Morality and Politics, Routledge. ◆Thomasma, David, ed, 1997, The Influence of Edmund D. Pellegrino's Philosophy of Medicine, Kluwer Publishers. ◆Tronto, Joan, 1987, "Beyond Gender Difference to a Theory of Care," Signs, 12-4: 644-663. ◆Tronto, Joan, 1993, Moral Boundaries: A Political Argument for an Ethic of Care,Routledge. ◆Tronto, Joan, 1995, "Care as a Basis for Radical Political Judgments," Hypatia, 10-2: 141-149. >TOP ■紹介・引用 ■ジョンソン(※西谷[2006]を参考に再/構成。訳文も西谷。) ケアとはキリスト教的隣人愛の一種なのか。ケアを愛の一種ととらえ、「ケア‐愛」を論じるジョンソンは、ケアは隣人愛よりも包括的な概念である、と指摘する。隣人愛は、無私、無差別的であることによって普遍的な愛となるのが、ジョンソンによれば、それは「自己犠牲的、普遍的で、公平であることに徹底するまったくの理想である」。翻って、「ケア‐愛」は、「愛されるものの福祉wellbeingを包含するものであり、その目標はただただその対象の善のみである」。かくて「ケア‐愛」の対象は、人間のみならず、動物や植物、無生物(所有物、主義/主張)にまで及ぶとされる。また、「効果的なケア‐愛は、それの対象からのある程度の距離ないし分離を前提している。なぜなら良くケアするためには、愛の対象が誰であり、何であるべきかを明確に把握し、何がそれの福利に寄与するかを見極めねばならないからである」といわれる。これはあるべきケアについて論じたものであって、もちろん現実のケアがすべてそうであるとは限らない。ケアがうまくいかないこともあれば、不注意なケアもあるだろう。だがこうしたとき、すなわちケアがケアの対象の福利に寄与せず、かえって害になることがあるにしても、ケアするひと/愛するひとは、その愛する対象の善を計っているならば、やはりケアしていることになる。ここに成果のないケアを認めないメイヤロフ、あるいは大勢と、ジョンソンとの相違がある。 「ケア‐愛は、愛されるものの福祉(wellbeing)を包含するものであり、その目標はただただその対象の善のみである。」(Johnson[2001: 24, 30, 41]) ■メイヤロフ(※西谷[2006]を参考に再/構成。訳文も西谷。) メイヤロフによれば、「他者をケアするとは、そのもっとも深い意味において、そのひとの成長と自己実現を助けることである」。メイヤロフの特徴はまず、ケアの成果、あるいはケアされるものよりも、ケアする側の態度/行動を考察しようとした点にある。ケアは対称的ではない関係なので、どうしてもケアする側の態度が問題にならざるをえない、と考える。また、他者に限定されず、ひとの生み出した思想や理想、共同体もケアの対象に含まれる。具体的なひとをケアすることと、彼/彼女によって生み出されたものをケアすることのあいだにはたしかに重大な相違があるが、他者が成長するのを助けることには共通のパターンがあると考えるのである。ここでは、ケアされる対象が成長するのは価値あることであり、それを必要としていることがケアの問題の前提となっているといえよう。メイヤロフはまた、ケアにおいて他者は、私の延長として、しかし独立した存在であり、成長する必要をもったものとして経験されるとする。すなわち他者はあくまでも他者なのだが、ケアをつうじて自己と密接に結びつく。かくて、ひとはケアをつうじて他者の成長や自己実現に専心する。他者の成長を助けるようにケアすることは、他者の必要に応じることであると同時に、ケアするひと自身の幸福とも結びついているからである。 ■ノディングス ■バベック(※西谷[2006]をもとに再/構成。訳文も西谷。) バベックは〈ケアではない活動〉と区別することで、ケアに厳密な定義を与えようとする。たとえば、ひとが健康でそれをおこなう身体能力があるのであれば原則として自分でできることが―できるにもかかわらず―、必要とされることがある。バベックによれば、そうしたことを他者がおこなうのはケアではなく、サービスである。また、社会的な要因によって生じた必要で、社会的分業や専門化のためにその必要を自分では満たすことができないことがある。この場合でも、技術を習うとか、職業を変えるとかすればその必要が満たされうるし、たとえそうでなくても社会的な相互依存にもとづく社会的必要についてケアはかかわらない。ケアがかかわるのは、人間として必要で、しかし自分ではできないので他者に依存しなければならないような必要事である。またケアは、愛や友情や思いやりの表現である行動とは区別される。たとえば、働き疲れて帰宅した夫にお茶を出すのはケアであろうか、愛の表現であろうか。それがケアであるのは、そのお茶を夫が必要としており、自分ではその必要を満たすことができない場合に限られる。また同じ行為はケアであるともサービスであるともみられることがあるだろう。かくてバベックにおいては、ケアはこのように「機能的に定義」される。 「ケアすることとは、あるひとが必要としていることが他者によって対処されることである。そのさいケアするものとケアされるものとの直接的相互作用が活動全体にとって決定的である。またそこで必要とされることは、必要としているそのひとじしんによってはどうしても満たしえないものである。」(Bubeck[1995: 129]) ■トロント(※訳文は西谷[2006]に依った) 「ケアとは、世界のなかでできるだけよく生きることができるように、それを維持、継続、修復するために我々がなすあらゆることをふくむ一種の活動である。」(Tronto[1993:103]) ■佐藤義之 このケアの倫理学もレヴィナスと同じ顔という事象を中心的なテーマに据えていると理解できる。レヴィナスと思想的背景はかなり異質だが、同じ事象を扱っている以上、少なくとも事象的な分析で参考になるはずである。むろん、異なった思想的背景をもつということには細心の注意を払わねばならないが……。/なお、ケア倫理学の援用は物語的な論理を取り出す役に立つだけではない。完全な受動性というような、レヴィナスにおいて障害となっていた主張にとらわれない立場から、別の方向性が見出せないか、示唆がえられるかもしれない。同じ顔という事象を扱っているので、能動性を許容し、顔の命令の解釈を必要とする顔の倫理を考えるうえで、特に参考にできるのではないかという期待をもつことができる。 (佐藤[2004: 96-97]) ■品川哲彦 ◆20040310「正義と境を接するもの―責任という原理とケアの倫理」『平成15年度関西大学重点領域研究 現代の倫理的課題に対処しうる規範学の構築』: 116-129 ケアの倫理と共同体主義/徳の倫理は異なる ケアの倫理が注目されるのは、心理学の発達理論としてだけではない。倫理学からみると、アネット・ベイアーのことばを借りれば、ケアの倫理が近代の正統的な倫理理論に対する異議申し立てだからだ。ここにいう正統的な倫理理論には、社会契約論、カントの義務倫理学、功利主義、ロールズの正義論が属している。義務倫理学と功利主義のように対比されることの多いこれらの思想は、しかし、類似の状況、類似の立場のひとを一律公平にあつかう正義の原理に立脚している点を共有している。…/とすれば、これに批判的な立場としてはすぐさま、80年代以降、自由主義と対立している共同体主義、徳の倫理(virtue ethics)が連想されます。それでは、ケアの倫理と共同体主義、徳の倫理は親しい関係にあるといえるのか。たしかに、ケアの倫理が主張するケア、関係の強調は、共同体主義や徳の倫理の基礎概念である友愛に重なる面がある。しかし、ケアの倫理を共同体主義や徳の倫理のなかに包摂しきることはできないと思われる。なぜなら、共同体主義が共同体内部の共有された価値観、徳の倫理が社会的役割と結びつきやすい美徳を強調するのに対して、ケアの倫理は特定の内容の価値観や社会的役割と関わりなく、ただ、傷つきやすい、助けを必要とする人間観に立脚してケアの必要性を説いているからだ。いつ、見知らぬ他人がケアすべき対象としていつでも現れてくる可能性を説いたノディングスや、特定の役割の執行を意識しすぎるとケアする感受性が鈍ることを指摘したベナーは、徳の倫理とケアの倫理の区別を示唆している。 (品川[2004: 125-126]) ケアの倫理と正義の倫理―統合不可能性、補完可能性、異質性 ケアの倫理をめぐっては、ケアの倫理と正義の倫理とが統合できるかどうかが問われてきた。ケアの倫理のいう成熟した人間は、誰もが誰かにケアされていることを理想とする。これは、一見、すべてのひとが等しくあつかわれるべしとする正義の倫理と同じ結論に達しているかにみえる。正義の倫理にもとづいてすべての人間が真に尊重されている事態とケアのネットワークが余すところなくすべての人間を網羅している事態とは、たしかに、重なり合う。しかし、それは、正義とケアが同時に働いていることを意味しているにすぎない。……これに対して、正義の倫理とケアの倫理が統合できるかという問題は、倫理の根底は身近な他者を気づかう気持ちなのか、それとも、身近であるか否かに関わりなく、一律の原理を等しく適用することなのか、という基礎づけの問題である。正義とケアのどちらを倫理の基礎として選ぶかという点では、両者は統合できない。/それでは、ケアの倫理は正義の倫理に対してどのような意味をもっているのか。/どのひとの意見にも耳を傾けるべきであること、いわれなき苦しみに陥っているひとを手助けすべきこと、これは正義の倫理も要請することである。しかし、現に目のまえにいるひとが困っていることに気づくこと、こちらの手助けがあればそのひとの状況を改善できることに気づくことは、正義をわきまえているだけでは足らない。目の前の状況を敏感に感じ取る態度、気づかい、ケアを要する。…たんに一律に平等な権利を認めるだけでは、この平等は現実の差異を隠蔽して、結果的に弱者に対する不正ともなりかねない。ケアの倫理は正義の倫理だけでは見過ごされうるこうした不正義に気づき、排除する点で正義の倫理を補完するわけである。しかし、それだけではなく、ケアの倫理は、苦しんでいるひとを気づかうというその精神から、場合によっては、社会のなかで成り立っている既存の正義の観点からすれば、尊重すべき存在の範疇から外れている存在(たとえば、犯罪者、敵国の人間など)へのケアをも要請する。この意味では、ケアの倫理はたんに正義を補完するだけでなく、正義の適用範囲を超えて適用される異質な原理だといえよう。 (品川[2004: 126-127]) ケアの倫理と正義の倫理の相互補完性 しかし、正義と境を接するものは、畢竟、正義に対して二次的な原理にとどまるのではないか。/この点を考えるには、責任の原理、あるいはまたケアの倫理が正義の原理を一切借りずに成り立ちうるかについて考えればよい。……/ケアするひとが他人をケアするあまり消耗してしまう危険はたやすく予想できる。したがって、ケアの倫理は、本人が本人自身をケアできることを前提条件としている。自分自身に対するケアは、ギリガンがいみじくもいったように、「自分に対して正しい(right)」ことなのである。/ヨナスの責任の原理でも、ケアの倫理でも、責任を感じるか、ケアをしなくてならないと感じるかは、その本人の事態に対する敏感さ、洞察にかかっている。それでは、責任を感じるべきところで責任を感じなかったらどうするか、また、責任を放棄したらどうするか。あるいは、ケアすべき相手に対してケアの必要性を感じなかったらどうするか、また、ケアを放棄したらどうするか。むろん、必ずそこにはなんらかのサンクションが要請されねばならない。しかし、責任の原理でも、ケアの倫理でも、そのサンクションは第三者による裁定というかたちでは語られていない。ヨナスでは、泣き叫ぶみどり児を世話しなくてはならないという状況が責任の原型であり、無視された叫びは無視した人間をさいなむであろうが、裁きはしない。ノディングスでは、ケアをひきうけるか否かの判断は本人自身の倫理的自己へのケアにかかっている。こうした点で、正義の観点を導入しないで責任の原理やケアの倫理を語るとき、いずれも実効的な拘束力の乏しい倫理にみえてくる。/しかし、逆に、ケアなき正義は、たとえば、目のまえの不正義を不正義として感受できない事態のように、正義の及ぶべきところで実質的に正義が機能しないことを意味している。また、責任の原理が倫理的に尊重される範囲の外へのまなざしをもったものであるとすれば、責任の原理は、さしあたり認められている正義の妥当範囲の外側を顧慮することでその正義が全体として不正義に陥らないことを監視している原理だといえる。その意味で、両者はたんに正義に付加されて正義を補完するというだけでなく、正義もまた両者なしには存立しえないという意味で真に相互に補完的な関係にあるといわなくてはならない。 (品川[2004: 127-128]) ◆200201「〈ケアの倫理考(一)〉」,『関西大学 文学論集』51-3:1-24 1)本文からの引用頁数は( )にて示す 2)ノディングスからの引用のみ原典を参照し、適宜訳文を変更した 1 主題の説明 1・1ケアの倫理とは何か 一般に、男性は状況を抽象化し、類似の状況に普遍的に妥当する法則、同等の資格をもっている全員を等しくあつかう正義にもとづいて、自他のあいだに生じる葛藤を解決しようとする傾向にある。一方、女性は、目下の状況の細かな脈絡、当事者それぞれの事情、ひとりひとりの必要を気づかうことで葛藤を除去しようとする傾向にある(2) ギリガンによれば、主要な発達理論はこれまで自我の成長を「他人(とくに母親)からの分離、個別化の進展」によって測ってきた。しかし、この発達モデルは男性にこそよく適合するものであり、したがって「性別を超えた人間一般の発達モデルなどはない」。ディレンマを仮設し二者択一を迫るテスト。そこでは、かかる性差による違いが顕著に反映されている。たとえば競争に勝った場合、女性は男性に比して葛藤を感じやすい。男性は問題を「能力」とそれに応じた処遇にしぼりこむことで勝者をすんなり優者と読みかえる傾向にある。他方で女性は、勝敗によって自他の懸隔が明らかになることによって、人間関係が破綻することの方をおそれる。 発達心理学者L・コールバーグは、かかるテスト結果をもとに、道徳的発達の程度を測る理論を提示した。そこでは、発達は3レヴェル6段階、すなわち「前慣習的(権威への盲従、自己利益にもとづく規則の遵守)」「慣習的(社会的役割の遂行、社会秩序の維持)」「脱慣習的(社会の構成員の社会契約にもとづく倫理、普遍的倫理)」に分けられる。さてコールバーグの理論によれば、周囲の人びとに配慮する女性は「慣習的レヴェル」にとどまっていることになる。だがギリガンは、むしろ女性は別の成熟の道を辿っていると主張する。すなわち、「他人と自分に対する気づかいの深化」をそこに看取する。ここからギリガンは、コールバーグ理論に代表される正義と普遍的原理にもとづく倫理を「正義の倫理」と呼び、自他を適切に気づかう配慮にもとづく倫理を「ケアの倫理」と名づけ、それに対置した。 ギリガンのケアの倫理はこのように発達心理学の研究に由来している。しかし、ギリガンの提起した問題はまた倫理学の歴史と倫理学そのものを問いなおすものとして解釈されていった(3) コールバーグの倫理観はカントやロールズに拠っている。それは近代の倫理学の正統であるといってよい。すなわちカントとロールズ、そしてロールズがその系譜に属する社会契約論者らは、「正義」、「普遍可能性」、「普遍化する能力としての理性」に倫理の本質を見出す解釈を共有してきた。ケアの倫理は、かかる正統に疑問を投じる論者たちに注目され、さまざまな思想―ヒューム、功利主義、ヘーゲル、アリストテレス、キリスト教―と結びつけて受けとめられた。 私はケアの倫理をめぐる問いを大別して二つの連関のなかに位置づけている(4) X)実証的な研究にかんする問い X-1)実証的な研究の内部で答えられるべき問い:「ギリガンの指摘する性差は事実に対応しているか」、「性差があるとすれば、女性はケア対象との同化/男性は分離をめざすからなのか、あるいは別の要因によるのか」 X-2)記述的な研究が帯びているイデオロギーを問う科学論的な問い:「ギリガン以前の研究が性差をとらえそこねていたとすれば、研究方法に含まれていた性差別が批判/問われねばならない」、「ギリガン(ノディングス)は性差を固定した生物学的な決定論を意図しておらず、それでもケアの倫理が結果的に女性を特定の倫理観に封じ込める役割を果たしているとすれば、ケアの倫理こそかえって性差別を再生産しているのではないか」 Y)倫理学にかんする問い Y-1) 規範的倫理学の次元の問い:「ケアの倫理と正義の倫理はいかなる関係にあるか(排除しあうのか/否か、統合されるとすればいかにしてか)」、「倫理が成り立つ最も根底となる道徳規範はケア/正義か」 Y-2) 第二階の次元の問い:「そもそも、なぜ私たちはケアすべきなのか(なぜケアすることをケアすべきなのか)」 → 二節では、Y-1)の論点のみを扱う 1・2ケアの特徴 ケアの倫理のなかで語られているケアを暫定的に特徴づけておこう。ギリガン、周囲の文献、ノディングス、それにノディングスに部分的に継承されているM・メイヤロフに参照範囲を限れば、論者ごとに力点の相違はあるものの、およそ次のような定式化が得られる(5) ケアとは「ある特徴を帯びた態度のもとに行為すること」。そしてその特徴とは、「ケアする者が対象に打ち込んでいること」。すなわち、自分と対象とのその一体感ゆえに、ケアは同時にケアする者の自己実現にほかならない。しかしその一体感は「ケアする者が対象を併呑し同化してえたものではない」。それは「対象の他者性を正しく受けとめ」た、その結果として生じる一体感でなければならない。そのうえでケアの対象は「いつも特定のだれかであり特定の何か」としてとらえられるのである。また、「ケアする者の責任はしばしば選べない」(A・ベイアー)。自分が招いたのではなくても、「身近な他者」(ノディングス)がまずその対象となる。同時にそこにある/生きているという事実によって互いにケアすることが要請される。したがってまた、「逆方向の同化、対象のための自己犠牲もまた成熟したケアではない」。他者同様、「本質的に無力」(ギリガン)な存在である自らもまたケアされるべき対象だからである。それゆえケアは「ケアする側、される側のいずれか一方の主導によるのではなく、両者の関係にこそ存している」。対話同様、ケアの意義はあらかじめ決められた目標の達成にあるのではない。「過程それ自身が重要である」。すなわちケアの倫理では、「ケアすること、関係を築くことそれ自体に価値がある」。最後に、ケアとそれに近い二つの観念との相違について。「共感」はケアときわめて近い。だが自分自身を他者に投影するという意味での「共感(empathy)」は、他者の同化であってケアではない(ノディングス)。また「愛」はしばしばケアと同義的に用いられる。だが愛していなくとも、ケアする責任は消えない。 1・3ケアについての倫理 ケアが不可欠とされる営為がある。看護や教育はその例である。したがって、これらの分野では、ケアについてのあるべき像、ケアについての倫理が―ときに職業倫理という性格を帯びて―説かれることになるだろう。それでは、このような文脈で語られるケアについての倫理とギリガンに由来するケアの倫理とはどのような関係をもつのだろうか。ここでは看護にのみ言及する(7) 「看護の本質はケアである」(M・レイニンガー)。ここには、看護職を医師とは独立した仕事として位置づけようとする志向がみてとれる。看護学者のフライが、生物医学の視点からのみ患者をとらえる見方から脱却した看護を探求する手引きとしてノディングスのケアリングの倫理を推奨しているのも、同じ脈絡において理解できる。しかしこれを看護がケアの倫理を外から移入/応用したと解釈すべきではない。むしろ看護という営為そのもののなかから「心を開き、応答する」(P・ベナー)ケアが要請されているからである。看護の自己理解を求める内発力こそがケアとケアの倫理という観念を探り当てたとみるべきである。 ケアの倫理が倫理学全体の文脈のなかに位置づけられたのと同様、看護におけるケアの尊重もまた、生命倫理学/医療倫理学というより広い文脈のなかに位置づけられる。生命倫理学/医療倫理学は1970年代には、患者の自己決定をはじめとする普遍的な原理にもとづいて個々の医療状況における倫理的ディレンマを解決しようとする志向のもとにあった。しかし80年代以降、そうした原理にもとづく考え方に対する批判が提出されはじめた。その批判は、「原理が一律に適用されることへの疑問」、「状況の個別性の重視」という視点をケアの倫理と共有している。よってケアの倫理を媒介として、看護の分野での議論が他の倫理思想とむすびつくこともありうる。 2 ケアと正義の「統合」論争―Y-1)の検討 80年代以降、〔ケアと正義〕「どちらの倫理が優れているか」が争われてきた。しかし、それについて考えるには、截然とは分けられぬものの、意識して区別する点がある。ひとつは、ケアの倫理および正義の倫理という対と規範としてのケアおよび正義という対とを区別することであり、もうひとつは、発達理論としてのケア(正義)の倫理とケア(正義)のもとづく倫理という意味のそれとを区別することである(9) 2・1結婚の比喩 『もうひとつの声』の末尾で、ケアの倫理と正義の倫理の関係が「結婚」になぞらえられていることからも、ギリガンが二つの倫理を互いに排除するものと考えていなかったことは明らかである。むしろギリガンにおいては、ケアと正義の双方を身につけることこそ真の成熟であったといってよい。 2・2正義の倫理からの統合 コールバーグらは男性だけを被験者としていたことを反省、その後調査対象を女性に広げた。そのうえで彼らが出した結論は、ギリガンの指摘はみずからの理論を豊かにこそすれ、その本質的な修正を迫るものではない、というものであった。その批判を四点にまとめると、@統計的に有意なほどの性差は認められない、A女性のケア指向は、性差よりも教育や職業など別の要因に起因する、Bケアは家族や友人などの親しい間柄にみられ、正義は人間関係一般に妥当する、Cケアの倫理は、他者にかかわり普遍化可能性に立脚する倫理ではなく、「自己への関心や善い生の構想」を機軸とする個人の人格形成の問題に属するものである、となる。 先の問題連関におくと、これらの批判はまずX-1)に位置づけられる。しかしBはY-1)にもかかわっており、CはY-2)に位置づけられる。Bについて。その趣旨は、ケアは正義によってはじめて根拠づけられ、正当化されるということにほかならない。たとえば一つに、被験者がケアのみ重んじている事例は、問題領域の特殊性、本人の発達の未熟さに帰されている。また一つに、コールバーグらは、〈正義の倫理/完全義務〉、〈ケアの倫理/不完全義務〉とそれぞれ対応させているが、完全義務への違反が罪科を、不完全義務の遂行が功績を意味している以上、そこからは「ケアなき正義は許容されうるが、正義なきケアは許容されえない」と当然結論されることになる。 2・3ケアの倫理からの異論 ケアと正義が統合した最終段階の描写は、一見、〔…〕大差がないかのようにみえる。はたして、そうだろうか。注意しなくていけないのは、正義の倫理では、どの人間も「私」にとって等しく尊重すべき存在であるのに対して、ケアの倫理では、どの人間も必ずだれかにケアされるべきことが主張されているのであって、「私」がすべての人間を等しくケアすることは要求されていないということである(13) P)道徳的目的としてのケア、ケアという道徳的観点の優位 ノディングスによれば、「普遍的なケアは成立しえない」。ケアすべきは、まず身近な他者である(「私がケアする責務を負っている人々を見捨てない限り、アフリカの飢えている子どもたちへのケアをまっとうすることができないのなら、アフリカの飢えている子どもたちをケアする責務は私にはない」(Noddings[1984: 86]))。とすれば、ケアは自己中心性をまぬかれないのだろうか。そうではない。見知らぬ他者が視界にはいってくるのは妨げられていないし、これまで見知らぬ他者であった者も、私の身近な人の身近な人として私の視野にいつでもはいりうる(かかる連鎖関係は未来世代にもおよぶ)。つまりノディングスにおいても正義は排除されていない。普遍的なケアの否定は、見知らぬ他者をケアすべきでない/しなくともよい、という倫理的指令ではない。それは、心をこめたケアの現実的な範囲についての事実的な制約にほかならない。したがってノディングスにおいては、ケアの対称を拡張して正義の倫理が要求する普遍性(同程度に満遍なく配慮するケア)を獲得しうると考えるなら、それはケアを正義につうじる単なる動機に化してしまうおそれなしとしない。ケアする能力を忘れたケアは、空洞化するか、自己欺瞞に陥らざるをえない。すべてをケアするとは実質的には、何もケアしない、何も大切にしないということになる。それゆえノディングスは、その正当化も拒否できたのである。この視点からすれば、正義の倫理の主張は反転し、ケアは倫理的行為の不可欠な要素だが、ケアなき正義は、倫理的な実践を欠いた空疎な概念にすぎない。 他方で、ケアの倫理からは、普遍性を標榜する正義の倫理はそもそもそれを具現しているのか、との批判もある。一つに、正義の倫理の歴史的な系譜に対する懐疑。だがそれは、正義の適用範囲の拡大によって克服されることがらである。一つに、だから正義の概念それ自体が疑われる。「対象を等しさによってくくる」というその概念は、そこから逸脱する存在の排除をはらんでいる。たとえば子供がはずれる。だが子供は道徳共同体を継承する次世代である。よって正義の倫理がその存在に対処していないなら、正義の倫理はそれがそこで実践される当の土台(道徳共同体)をみずから掘り崩していることになる。つまり正義の倫理は、子供をはじめとする弱者への配慮、すなわちケアにその存続/再生産を負っていることになる。 Q)自他の非対称性、個別性の重視 (親子や世代間関係のように)ケアすべき対象はしばしば自由に選べない。一方、正義の倫理では、正義と不正義は社会契約を果たしたあとではじめて、すなわち契約者たちの間だけで成り立つ。ここから、ケアの倫理による社会は正義の倫理による社会よりも「わきまえた(decent)」社会であるといわれる(ベイアー)。すなわち正義の倫理は正義を適用されない対象/等しからざる者(たとえば、契約当事者以外の者)に対する無関心をしばしば黙過しうる。それは暴力であっても、定義上、不正義ではない。これに対してケアの倫理は、寛大で、たしなみをもって接することを推奨する。もちろん等しからざる者は正義のもとに包摂できないわけではない。だがそのとき、等しからざる者は(たとえば、子供が将来の大人と、病人が治るはずの病人とみなされるように)「見かけの平等を達成するよう『上昇』させられる」(ベイアー)。したがって実質の差異は看過されてしまう。だが自他の実質の差異が看過されるのであれば、正義の倫理における普遍化とは何の謂なのか。ノディングスは普遍化可能性そのものを否定する。そのつどの状況は普遍化されえないほど個別だからだ。そもそも正義の倫理は個別の差異を普遍化と取り違えている。そこでは自他は「同一の権利と義務を与えられたひとりの理性的存在者」、「一般化された他者」にすぎなくなり、そのあいだにはもはや普遍化すべきものは何もない、とS・ベンハビブはいう。そこにあるのは(カントやロールズのように)モノローグだけで、「特定の誰か」(メイヤロフ)「具体的な他者」(ベンハビブ)とのあいだのダイアローグはない。ベンハビブによれば、ケアの倫理がめざすのは、かかる「現実の対話」(ベンハビブ)をとおして合意して獲得する普遍化可能性である。また、正義の倫理は原理(無加害の原理)を重視するが、ケアこそが状況の個別性をくみとるなら、ある状況への原則の適用もケアなしにはできない。 P)Q)をふまえ、Y-1)への回答 以上の指摘を考えれば、ケアの倫理はとうてい正義の倫理に根拠づけられない。〔…〕その逆が成り立つともいえない。正義の倫理が共同体の存続をケアに負うているとしても、それは、正義が発生する条件としてケアを要するということである。だが、子どもを正義の共同体の一員に育てあげるには、論理的には、正義を教育目標としてすでに認めていなくてはならない。正義を個別の状況に適用するのにケアを要するのは、不正義を見いだすケアの発見法的な役割のゆえである。だが、不正義に気づく感受性は正義の感覚と表裏一体である。見知らぬ他者にもケアしなくてはならないというノディングスの要請にも、だれにも等しく対応すべきだという正義の規範がすでに働いている。だとすれば、ケアと正義のどちらの規範がいっそう根底的かという問いには一義的な答えがない。〔…〕少なくとも、規範倫理学的な問題連関においては、ケアの倫理と正義の倫理の「統合」を問うことは問題設定として不適切だといわざるをえない(17) 2・4反転図形の比喩 以上を確認したうえで、もうすこし考える。ギリガンはのちに、結婚とは別の比喩、すなわち「反転図形の比喩」を提示した。その含意は、人間関係の両義性への注目にある。 その比喩が提起された論文(「道徳指向と道徳的発達」1987)において、まず対置されているのは、(ケアの倫理/正義の倫理ではなく)、ケアの見方/正義の見方である。また、その二つの見方の発達過程や性差との関連への関心は失われてはいないものの、女性であれ男性であれ、同一の人間がどちらの見方もとりうることが強調されている。したがってこの解釈は、二つの見方が「統合、融合される用意があるという暗黙の了解を否定している」(ギリガン)。かかる反転図形の比喩のほうが結婚よりも適切だろう。つまり… この比喩の長所はふたつの見方の異質さを明言している点にある。両者の統合や、その場面でどちらの見方が適切かをあらかじめ指示する別個の原理はない。したがって、見方を切り替えて、異なる見方に熟通し、そのあいだで均衡をとるようにして像を結んでいくほかない。〔…〕異なる見方のあいだで均衡のとれた適切な理解は、ひとりの人間のなかでのみ完成される必要はなく、複数の人間が意見の交換をとおして追求していくこともできるだろう。だとすれば、他者の異質性や対話の重要性を強調してきたケアの倫理には、この解釈こそがいっそうふさわしいのである(18) 2・5ケアの倫理と徳の倫理 ケアの倫理による社会は正義の倫理による社会よりも「わきまえた(decent)」社会である、といわれたのだった(ベイアー)。とすれば、どちらの倫理を支持するかは、どちらの社会を選ぶかという問題でもある。ケアの倫理は近代の倫理学の正統への批判として受容されたのだった。同じように、共同体主義や徳の倫理も、近代の個人主義的社会を批判する。ここではS・トゥールミンを参照する。 トゥールミンによれば、原理にもとづく考え方は倫理ではなく法の思考である。法は、(文化/価値を共有しない)互いに見知らぬ者に一律に適用されるからだ。一方、倫理は関係(relationship)に立脚する。法と倫理の混同は、平等と「衡平(equity)」の混同につうじている。平等は全員を等しくあつかうことだが、衡平は人間関係や事情の個別性に応じて適切な、したがって異なる対応をすることだからである。トゥールミンが用いる、かかる概念をケアの倫理のなかに見出すことは容易であろう―すなわち、個別の状況をケアするのであれば、原理の一律な適応とはいかない、ケアの倫理は衡平に依存する(ギリガン)、ケアを拒絶する者には他の人間はすべて見知らぬ者と化す(ノディングス)。トゥールミンを離れて一般的にいっても、共同体主義もケアの倫理も正義の優先に異をとなえ、それぞれ正義に対する善/ケアの優位を説く。さらには、ケアの倫理が徳の涵養と結びつくのも納得されよう。対象の多様性を所与とし、それぞれの必要性に対応しようとするケアの能力は、経験のなかでしだいに培われていくものだからである。 しかし、にもかかわらず、ケアの倫理の主導者は徳の倫理に肯定的というわけではない。たしかに、それらの批判の一部は、概念の欠如や誤解に起因するとみることができるだろう。しかし最も根底的な要因は、ケアの関係は相手がそこにいるという事実によってすでに要請されるのであり、私(相手)が相手(私)にとって何であるのかによっては必ずしも掣肘されないという点にあると考えられる。よって徳が特定の社会的役割を根拠に推奨される限り、ケアの倫理はかかる制約から解放されることを望むのである。 結局、ケアの倫理と徳の倫理の最も根底的な対立点はおそらく次の点にある。正義の倫理は正義より善を優先する。どの生き方を善しとするかは個人の選択にゆだねられる。ケアの倫理は各自が善い生き方をすることができるようにたがいにケアしあう必要を説く。ゆえに正義より善を優先する。一方、共同体主義者と徳の倫理もまた正義より善を優先する。後者はさらに、「人間のもろもろの善のヒエラルキー」(A・マッキンタイア)を想定する。それがなければ、何(だれ)を何(だれ)よりもケアすべきかについて体系的な指示を出すことはできないとし、ケアの倫理はそれを欠くがゆえに批判される。だがケアの倫理のほうから反論すれば、まさしくそうであるがゆえに、ケアの倫理は身近な他者へのケアを優先しながら、しかも誰もがその身近な他者となりうる可能性を保持しているのである。 ◆200403「〈ケアの倫理考(二)〉―ノディングスの倫理的自己の観念」,『関西大学文学論集』53-4:39-62 ※以下、読みやすさを期して適宜〔 〕による補足と改変を施した。また品川から引用は( )にて、ノディングス(1984→2003 Caring, 2nd)からの引用は〈 〉にて、それぞれ頁数を示した。 1. ケアの倫理は他者志向か自己志向か ある倫理理論について、一方で、その倫理理論は他人を重視するものであるという解釈が下され、他方で、同じ倫理理論が自己の人格の完成をめざしたものであるという解釈が下されるとすれば、このふたつの解釈はまずは相矛盾しているようにみえる。ギリガンによって正義の倫理と命名され、その原則的思考の抽象性を批判されたコールバーグ側がギリガンのケアの倫理に寄せた反論のなかには、こうした相対立する評価が含まれている」。(39) 「ケアの倫理は自己の完成を志向するものであるという評価を、たとえば、コールバーグはヌナー-ウィンクラーによるギリガンにたいする最反論を引用しつつこう述べている。「ヌナー-ウィンクラーによれば、ケアの倫理は、厳密に他者を配慮している普遍化可能な意味での倫理に結びついているというよりもむしろ、あるひとりの自我の関心や善い生の理想のほうに結びついているのだが、このことは、ケア志向において下される判断の多くが形式的な観点の意味からいうと道徳的というよりも個人的(personal)であるとわれわれが述べてきたことと符合している」(コールバーグほか1992『道徳性の発達段階―コールバーグ理論をめぐる論争への回答』、片瀬一男・高橋征仁訳、新曜社: 225)。(40) ケアの倫理は他者志向であるのか、それとも、自己の人格をめざす自己志向であるのか。一見、相矛盾するこのふたつの評価は、しかし、それぞれの議論の展開されている次元を分けることで両立する。/コールバーグ側のいう「形式的な観点」とは、その判断が普遍化可能性を満たしているということを意味している。これは倫理理論が満たすべき基準に関する議論、倫理とはいかなるものかを問うメタ倫理学の次元の議論である。普遍化可能な判断は、すべてのひとに等しく配慮すること、つまり、正義を要請する。……それに比べて、ケアの倫理は「形式的な観点の意味からいうと道徳的」とはいいがたい。倫理理論を正義の倫理とそれ以外のものに大別すれば、有徳な性格をめざす倫理は後者にあたる。ケアの倫理はケアする者という自己の理想を語る点で「個人的」であり、「あるひとりの自我の関心や善い生の理想のほうにむすびついている」。ケアの倫理が自己志向であるという批判は、このように、倫理に要請する規準や倫理の根底にあるものに関する見解の相違に由来している。(41) ケアの倫理と正義の倫理については、従来、両者を統合する可能性が論じられてきた。……両者の根本的な対立は、倫理の規準として両者が要請するものの違い、倫理の基底におくものについての違いにある。この点では、両者―ケアに基づく倫理という意味でのケアの倫理と正義に基づく倫理という意味での正義の倫理―はけっして統合可能ではない。これにたいして、ケアの倫理のなかに正義という規範を組み入れたり、正義の倫理のなかにケアという規範を組み入れたりすることは、組み入れられる規範が他方の倫理のなかでかちとるほどの評価を得られず、また、意味の変容を施されるにしても、可能である(cf.品川[2002: 9])。(41) ギリガンが……のちになって導入した「反転図形」の比喩(Gilligan, Carol 1987 "moral orientation and moral development")のほうが、両者の関係を適切に表している (cf.品川[2002: 17])。……ケアの倫理と正義の倫理が異なる根源に拠って立つことをいっそう的確に示しているからである。ケアの倫理による成熟の説明(「どのひともだれかによってケアされなければならない」)が「すべてのひとがケアされる」事態を表しているとしても、それを「どのひともケアされる権利をもつ」とか「どのひとも平等にケアされるべきだ」というように、権利・平等などの正義の倫理のなかで多用される概念を用いて翻訳することはできない。というのも、権利・平等・正義が語る「どのひと」「すべてのひと」は特定のだれでもない抽象的な人格を指しているのにたいして、ケアの倫理が到達をめざしている理想的状況は、「どの特定のひともだれか特定のひとによってケアされ、後者の特定のひともまた誰か特定のひとによってケアされる」というしかたでケアのネットワークがすべての個人を余すことなく編み込む事態を指しているからだ。ケアの倫理のこの理想からすれば、「どのひともケアされる権利をもつ」といった普遍的な定式化はあまりに抽象化・一般化に過ぎ、その話し手が、今、自分の目の前にいる特定の他者へのケアをすることを保証しない。話し手は鈍感にも身近な他者への現実のケアを忘れているかもしれない。まさにこのことがケアの倫理が正義の倫理を批判する点である。(42) ケアの倫理が自己志向か他者志向かという相矛盾する評価は、前述のように、コールバーグの視点から整理できる。しかし、それでは、同じ事態をケアの倫理の視点から評価するとどうなるだろうか。ケアの倫理の基底にある(コールバーグ側からは自己志向とみなされた)ケアと(コールバーグが他者志向と評する)特定の他者に向けられた個々のケアとのあいだには、どのような関係があるのだろうか。(42) 2. ノディングスの倫理的自己の観念の位置づけ この目的に資するものとして、本稿では、ネル・ノディングスのケアリング理論のなかに語られている「倫理的自己」の観念をとりあげる。私見によれば、倫理的自己にたいするケアは、ノディングスの倫理理論のなかで、他者へのケアを含む爾余の一切のケアを支える機能を果たしている。したがって、ケアの倫理はその根底において自己の人格の完成をめざしているという解釈が適切だとすれば、それはどのような意味でそうなのかということを確かめるためには、この観念の解明が役立つという見通しが得られるわけである。さらに、倫理的自己へのケアと個々の他者へのケアとの関係を考察することで、前述の、基底としてのケアと個々の他者へのケアとのあいだの関係を解明する手がかりも得られるだろう。(43) ギリガンのケアの倫理には、私のみるところ、ノディングスの倫理的自己の観念以上に右の目的への展望が開ける端緒は見出されない。たしかに、ギリガンのケアの倫理における第三レベルの成熟段階では、……「他者だけではなく、私もまたケアされなければならない」という把握が語られているが、この自分自身へのケアは他者のケアとまったく同列に扱われているにすぎない。他人の要求を気づかうのと同様に、自分自身の要求も顧慮することは「自分にたいしても正しい(right)」(ギリガン 1982=1986『もうひとつの声』: 165)。端的に正しさの問題なのである。/〔また、ギリガンにおける「結婚」「反転図形」といった〕いずれの比喩においても、両者〔ケアの倫理と正義の倫理〕は並列されている。……彼女にとってケアの倫理は文字通り「もうひとつの声」であって、正義の倫理のさらに根底にあるものではない。これは、結局のところ、発達心理学者ギリガンの問題関心はやはり道徳理解の発達過程にあって、ケアの倫理の示している倫理観の基礎づけには向かっていないことを意味している。(43) これにたいして、ノディングスでは、ケアこそが一切の倫理の基盤である。ケアするという「道徳的視点をとることに正当化はありえない―この道徳的観点こそどんな種類の正当化よりも先行するからだ」〈95〉。……ここではケアこそが倫理を基礎づけているとされるのだから、問いは「なぜ、ケアすることをケアするべきなのか(why care about caring)」〈7〉というかたちをとる。この問いへの答えの核に、倫理的自己へのケアは位置している。(43-44) 3. ノディングスのケアリングの理論 3-1. ケアの特徴 ケアリングとは、ノディングスによれば、相手、つまりケアされるひとの「権利、保護、向上」〈23〉のために、相手を「受け容れ、敏感に応答し、関わりあう」こと〈2〉である。そのとき、相手をこちらの期待するように理解したり操作したりせず、相手の「真のありよう」を把握するために、ケアするひとは「私の真のありようから他者の真のありようへ関心を転移し」〈14〉、「自分個人の準拠枠から他者の準拠枠に踏み込む」〈24〉。/だが、自分の準拠枠から脱して他者の準拠枠に踏み込むなどということが、いったいどうして可能だろうか。ノディングスによれば、相手を精確に分析して理解することや、相手の抱えている「問題の定式化や解決」の共有から出発してそこに到達できない。「出発点は感情の共有にある」〈31〉。そして、そのためには「対象が現われるままにじっと身を委ね」「自分が変容されてゆくのを許しておく」「情感的受容的様態」〈34〉をとらなくてはならない。(45) ノディングスの説明は、私が私の準拠枠をあまりにたやすく脱却し、しかも他者の真のありようをそれと突きとめることができるかのような印象を与えてしまう。それはひょっとして他者の同化にすぎないのではないか。他者の同化は他者への暴力にほかならず、かりに、相手がそれを甘受したとすれば、それは相手の私への依存を意味している。これはケアにつきまとう根本的な懸念である。46) だが、ノディングスがケアを自己の同化と同視していなかったこともたしかである。他者への感情移入と誤解されないように「共感」を避けて受容を強調する点にも、それは窺われる〈30〉。ここに整合的な解釈を求めるなら、他者の理解よりも自己の変容に力点をおくべきである。比喩的にいえば、他者が私の一方的な理解によって変容されてしまうことをできるかぎり避けるしかたで他者の現われうる「場」へと私自身を変容すること、そしてその「場」のなかに、他者に反応して私のなかに動き出してくる「ケアする者」の登場を待ち受け、その動くのにまかせ、育むこと、それを通じて、他者が私によって「ケアされる者」として遇される場を確保しつづけること―これがケアのはじまる過程なのであろう。だとすれば、他者にたいするケアには、ケアされる他者とケアする私のみならず、少なくともそのほかに、ケアする私を見守る私が含まれているのである。(46-47) 3-2. 原理にもとづく倫理の拒否 ノディングスは原理に依拠する思考を峻拒する。……倫理的な観点からどのように行動すべきかということは、そのつど「発見」〈8〉されなくてはならない。たとえ、すべてのひとは平等にあつかわれなくてはならないという正義の原理を知っていても、今、目のまで平等にあつかわれていないひとの存在に気づくには、ケアする感受性を要する。……したがって、あるひとがいかに倫理的であるかは、ケアリングの倫理にしたがえば、……「そのひとが実際に他者を受け容れてきた態度」〈114〉に応じて判定される。 (47) 3-3. 自然なケアリング ケアを発動させるものは何か。ヒュームが倫理の根底に感情をおいたことに賛意を表するノディングスはまずは「愛や自然な心の傾向」に発する「自然なケアリング」〈4〉だと説き、自然なケアリングの例に母子関係をあげる。……「自然なケアリングが倫理的なものを可能にする」〈43〉……/ところで、ノディングスはまた別の箇所で母子関係について、「どんな倫理的な心情も、それを可能にする最初の心情がなければ、ありえない」から「母親は子をケアしたいからケアする」と記しつつ、それにつづけて、この「第一の心情の想起に反応して生じる」感情がケアを支えるとも述べている〈79〉。さらに、母子関係以外に話を広げてみよう。「私たちが受け容れようとする態度をとっているなら、自然なケアリングの起こる頻度は高い」。「きわめて恵まれない(ないし堕落している)状態にあるひとは除き、だれしも他者の痛みや喜びを感じる。私たちはそれぞれ記憶をとおして、自分自身がケアしたりケアされたりした経験に近づく」〈104〉。当面の相手と私とのあいだにそのような関係があったとはかぎらない。そのような関係がなかった場合はいくらでもある。それなのに、私が相手をケアしはじめるとすれば、私はだれか他のひとからケアされ、他のひとをケアした経験を想起して、その相手をケアしはじめるのだ。ケアする気持ちが自然的に発露しないときに、ケアリングを誘発するのは過去のケアリングの記憶だとすれば、先の一文―自然なケアリングが倫理的なものを可能にする―は、自然なケアリングは倫理的行為の発生論的な必要条件であるというふうにも解釈しうる。そして、私たちが無力な存在として生まれてくることを思い浮かべれば、私たちの根源的なケア経験はまずは「ケアされた」という受動的な経験から出発しているはずである。(47-49) 3-4. 倫理的ケアリング 自然なケアリングが発露しないとき、または阻害されているとき、かつてケアされケアした経験の記憶は、「他人の窮状への応答とそれと相対立する自己利益を増進したいという欲求に応答するなかで、『私はしなければならない(I must)』という感情となって私たちにしのびこむ」〈79-80〉。「ケアしたい」という自然なケアリングではない、「しなければならない」ケアリングは倫理的ケアリングと呼ばれる。/自然な傾向性にもとづく行為と義務にもとづく行為との区別はカントを想起させる。……しかし、カントが動機から自然な傾向性を排してひとえに義務にもとづく行為を尊重するのにたいして、ノディングスは、自然なケアリングと倫理的ケアリングのあいだに倫理的な価値の違いを認めない。……〔また〕ケアしたくないという欲求を克服するのは自分がケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求である。カントと異なり、理性の命令ではない。/しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つのだろうか。たとえば、相手のことなど気にかけず私欲をまっとうしたいという欲求が一方にあり、他方に、他人をケアする自分でありたいという欲求がある。これだけでは葛藤にとどまる。後者が習慣的に前者を圧倒するとすれば、後者は一過的な前者の欲求とは次元を異にした欲求なのだろう。……フランクファートのこの概念〔第一階の欲求と第二階の欲求〕を借りれば、ケアを放擲したいのは第一階の欲求だが、他人をケアする自分でありたいというのは第二階の欲求である。「道徳的でありたいという強い欲求があるなら、私たちはそれを拒絶しない。道徳的でありたいというこの強い欲求は、関係をもち、関係を維持したいといういっそう根本的かつ自然な欲求から反省によって導き出される」〈83〉。こうして、ひとは往々にしてケアを放擲したいという欲求に誘惑されながらも、第二階の欲求にしたがって倫理的ケアリングを開始し、ケアするひととなっていく。だから、「自分のしているケアが自然か倫理的かは必ずしも確実には定めがたい」。むしろ、当初の自然なケアリングにおける「道徳以前の善」が「しだいに道徳的な善になっていく」過程を歩むことによって、ひとはケアするひとになっていくのである。(49-50) 3-5. 倫理的自己 この第二階の欲求を、ノディングスは倫理的自己へのケアと呼ぶ。この倫理的自己が第二階の欲求の主体としてではなく、私のケアする対象として語られている点に留意しなくてはならない。……「他のひとにたいするケアリングは倫理的自己への関心から生じるのではなく、他のひとにたいするケアリングから倫理的自己への関心が生じる」〈50〉。しかも、「他のひとをケアすると同時に、そのひとたちにケアされるときに、私は自分自身〔倫理的自己〕をケアすることが可能になる」〈49〉。……倫理的自己がケアされつづけられなくてはならないのは、他のひとにたいするケアは挫折や意気阻喪や裏切りに見舞われやすいからである。……倫理的自己とは、平易にいいかえれば、「ケアするひととしての私自身」という意味にほかなるまい。……〔自然なケアリングができているときには忘れられている〕それは、私が相手から反発されたり、……かいない努力に疲れたりするとき、私がなおかつケアするひとでありつづける可能性のよすがとして現われてくるものなのだろう。/ノディングスのケアリングの理論は、倫理的態度の維持が倫理的自己の保持にかかっている点で、コールバーグ側のいうように、自己の完成をめざしたものだといえる。……〔しかし〕ケアリングの目的は有徳な性格の完成ではない。ケアは諸徳の束ではないからだ〈80〉。それは、むしろ、現実的に倫理的であるために、自分が倫理的でありうるという可能性の想起に立ち戻る一種の自己浄化の勧めなのである。 (51-52) 3-6. 相互性―ケアするひととケアされるひととの関係 倫理的自己はケアする私がケアされる相手によってケアされることによって育まれていく。すると、私と相手は対等な関係なのだろうか。否である。「ケアされるひとがケアするひとである必要はない」〈30〉。ケアするひとは自分の準拠枠のほかにケアされるひとの準拠枠を理解しなくてはならないが、……その逆は成り立たない。それにもかかわらず、ノディングスは両者の関係を相互性(reciprocity)と呼んでいる。ただし、ここでは「あげる贈物ともらう贈物は同じではない」〈74〉。では、ケアするひとはケアされるひとから何をうけとるのだろうか。/私はそれをケアするひとの倫理的自己へのケアへの励ましだと考える。むろん、ケアされるひとが直接に励ますわけではない。……そうではなくて、ケアするひとは自分のケアリングが相手に快く受け容れられ、相手の成長に寄与しているのをみて、ケアするひととしての自分に自身を得る。おそらくこれがケアされるひとからの贈物の意味であろう。……ノディングスでは、ケアする私は〔コールバーグ発達理論の第二レベルの第三段階における〕相手への期待の追随にとどまらず、ケアする者としての私(倫理的自己)をケアしている。倫理的自己は、ひょっとするとコールバーグ理論の第六段階のなかに良心として示されたような、社会的価値観とは独立のその本人の首尾一貫とした判断基準でもありうる。というのも、ケアするひととしての倫理的自己への配慮には、当然、自分のしているケアが真のケアであるかどうか―相手の必要に的確に応じているか、相手に自分の理解を押しつけていないか、相手を損なっていないか、相手の成長に寄与しているか―と自分のケアを規整する批判的視点が蔵しているだろうからだ。(52-53) 3-7. 超越?―ケアする私とそれをケアする私 しかし、だとすれば、図式的にいえば、ケアリングの根底には倫理的自己へのケアがあり、そのうえに個々の他者へのケアが築かれることになるのだろうか。ケアする私をケアする私とは、目下の必要と関心に追われた、いわば世俗的・社会慣習的なケアに没頭しているこの私からの一種の超越を意味していないか。……実際、ノディングスもまた〔「汝の人格のなかの内なる人間性」(カント)や「内なるひと」(アウグスティヌス)同様に〕、倫理的自己を「内なる他者」〈49〉と呼んでいる箇所がある。/ところが、ノディングスは倫理的自己がこの具体的な私から遊離するのをつとめて避けてもいる。……かりに、ノディングスの構想のなかに、個々人がみずからを超越する契機を求めるとすれば、関係を結ぶことそのことがまさにそれである。しかも、そこには享受の喜び(joy)がともなう。……この喜びは他者への操作やそれによる自己目的の達成から生じるものではない。……私自身を他者が現われる場へと変容し、他者を受け容れるとともに私が変わっていくことの喜びにほかならない。かくして、ノディングスによれば、「受け容れ、受け容れられること、ケアし、ケアされること。これが人間の基本的なありようであり、その根本的な目的である」〈73〉。/だとすれば、倫理的自己へのケアはたしかにケアリングの倫理の根底をなしているとしても、これと個々の他者へのケアを階層をなした基づけ関係のように捉えては見誤ることとなる。ケアリングの倫理からすれば、日常行われる他者へのケアこそが私の倫理的自己を強め、ケアの維持を賦活してくれるのであり、一方、倫理的自己をケアすることで、ともすれば私欲や疲労や不和ゆえに途絶しかねない日常のケアは支えられつづけていくものなのである。(53-54) 3-8. 理想の涵養―他者の倫理的自己 倫理的自己はケアの経験から形成され、私たちはまずケアされる側として生れてくる。それゆえ、大人は子どもに適切なケアをする責任をもっている。……むろん、誰も他者の倫理的自己を形成することはできない。だが、子ども自身のなかに倫理的自己が育っていくための必要条件を満たすようなケアをすることは、ケアリングの倫理からして可能であり、また教育の目的であろう。(54-55) 4. 正義に関わる問いは正義なしで答えうるか ふさわしい者にそれにふさわしい権利や資格を授与することは正義の問題だ。ケアについても、「誰がケアされる権利をもつか」「ケアされる権利をもつ者は平等にケアされているか」「ケアされる者が権利として要求できる限度はどこまでか」といった正義をめぐる問いがある。ケアしケアされる関係の維持こそを善とする「ケアの倫理は正当化を強調しない」〈95〉としても、……ケアリングの倫理はこれらの問いにたいして、権利・平等・資格といった正義に関わる概念を用いずにどのように答えを出せるのだろうか。(55) 4-1. ケアされる範囲 ケアにもとづく倫理は、その批判者が指摘するように、身近なひとだけを配慮するような倫理だろうか。たしかに、「私たちの責務は関係によって制限され、範囲が定められる」〈86〉以上、普遍的なケアは否定される。だが、……このことは不平等を是認するものではない。なぜなら、見知らぬ他人だったひとが私のケアすべき範囲に入ってくる可能性も否定されていないからだ〈93〉。したがって、普遍的なケアの否定は、見知らぬ他人をケアすべきではないとかケアしなくてもよいという倫理的指令ではなく、心をこめたケアのできる範囲は現実にはかぎられているという事実上の制約とみるべきである。ケアする自分の能力が散逸し消尽するのを防ぎ、現実にケアできる範囲に踏みとどまることが、倫理的自己へのケアから帰結するわけである。(55-56) 4-2. ケアのディレンマ ノディングスはディレンマのひとつに、黒人の友人と人種差別主義者の親類の板ばさみになる例をあげている。ケアする者としては友人と親類の両方をケアしなくてはならない。だが、友人と親類が争そい出したらどうするか。この場合、脅かされているほうを優先すべきである〈111〉。……正義の倫理からすれば、咎は人種差別主義者にある。人種差別主義者が攻撃される場合、なぜ、守らなくてはならないのか。原理原則によって裁断することこそケアリングの倫理にとって最も忌むべきことだからだろう。それは正義の倫理からすれば正当化できるふるまいだとしても、ケアするひととしての倫理的自己の放棄を意味している。「正義」に裏づけられた一方を支持し、他方を糾弾する態度よりも、対立する両者をケアすることで、場合によっては、両者の対立が解消され、たとえそのひとが断罪されるべくして断罪されてきたのだとしても、そのひとをひょっとすると改悛させる効果をあげることがあるかもしれない。ケアに基づく倫理は断罪や裁断の不毛を指摘しているともいえる。……ケアしケアされる体験が倫理的自己の成立にとっての必要条件であったとしても、それは十分条件ではない。かりに、私がだれをもケアするひとであろうとしているにしても、私がケアしているひともまたそうである保証にはならない。倫理的自己という規準は自己誠実性にとどまり、他者の倫理性を判断する規準とはなりえないのだ。ケアリングの倫理を整合的に解釈しようとすれば、指弾されている側を孤立に追いやるのではなく、積極的にケアすることで、指弾されている側自身が当人の倫理的自己へのケアをとりもどし、(正当にも)指弾されているような態度や行為をみずからやめるように促すことしか、なしうることはないだろう。(56-57) 4-3. ケアの限界 正義による制約がなければ、ケアは無際限に要請されるのではないか。……ノディングスもまたケアの限界を設定する。倫理的自己を維持する可能性がそれである。「ケアするひとは、他者が故意に自分の身体的自己や倫理的自己にたいする明確な脅威とならないかぎり、ケアするひととして他者に接しなくてはならない」〈115〉。倫理的自己にたいする脅威とは、ケアする意欲をすっかり失うほどの打撃、疲労を意味していよう。裏返していえば、ノディングスがケアするひとの有限性を強調しているわけである。だから、ケアするはずの者が絶望的な状況でケアされるべき対象を殺してしまったとしても、「殺すなかれ」という原理のもとに裁断することはできないとされる〈107〉。/だとすれば、ケアの限界は各人のケアする能力、おかれた状況に左右されることになるだろう。実際、ノディングスはそう述べている。「ケアするひとの内的な対話のうちに真偽や正邪に関する最終決定の場がある」〈108〉。ただし、すぐにこう付け加える。「だから、自己欺瞞は倫理的理想を破壊する潜在力をもっている」。したがって、ケアするひとが自身のケアの限界を設定するとしても、その設定が恣意的であってよいわけではない。それが自己欺瞞に陥っていない保証は、ひとえに、内的な対話の相手である倫理的自己が内なる他者としての他者性を確保しているかどうかにかかっている。そして、それは……、他者を受容すべく自分自身を変容していくことと関連している。(57-58) 5. 結語 ……ノディングスが明らかに整合性を欠いていると思われる点は性差のあつかいである。ノディングスはケアリングの倫理を女性の倫理とも呼んでいる。だが、生物学的な性差とケア志向とを結びつける経験的な問題は論じないと宣言する〈2〉。しかしまた、女性としての経験が素朴に論拠として援用される〈28〉箇所も散見する。……生物学的説明に力点をおけば、育児がケア経験に深く通じている以上、ケアリングの倫理は性差決定論に支えられてしまうはめになるだろう。この点では、ケアリングの倫理は、女性に特定の価値観を押しつける「お馴染みの説教を女が唱えただけ」というクーゼの評がまことに的を得たものに思えてくる。/本稿では、ケアリングの倫理の基底を倫理的自己へのケアにみた。ただし、この倫理的自己それ自身も他者へのケアのなかで育成され、維持される。しかも、この倫理的自己の維持が、ケアすべき範囲を定め、ディレンマを解決し、ケアの限界を設定するときにも究極の条件として働いている、倫理的自己へのケアが内的な対話にとどまるというまさにこの点に、ケアリングの倫理にたいする評価はかかっている。批判する側は、クーゼのように「外部の道徳的支店の欠如」をつく。私見によっても、ケアリングの倫理には、たとえば、はからいをなくし、心を清らかに保てば、すべてが正しい姿で自分の心の鏡に映ってくると信じるような神秘主義者の信念の吐露にひとしくみえる面がある。……/ケアリングの倫理にたいして積極的な評価を与えるとすれば、それが生の経験の一面を的確に表している点である。ケアには「大切にする」という意味も含まれているので、ケアの要請は「人生を生きるに値するものの大半を与えてくれる機会である」〈52〉。……その享受の喜びは意図的な設計によるのではなく、自分が偶然に出会うものを受容し、それによってみずから変容していく過程にある。……ノディングスが倫理的自己を事実としてのこの私から遊離した超越的なものとして語らなかったことについての解釈を求めるとすれば、次のようになるだろう。それは、ひとつには、日常的・社会慣習的に行わなくてはならないケアのなかにも生の根源的な意義と喜びとが含まれていることを指摘するためである。そしてまたひとつには、倫理的自己が個々の経験とは独立に堅忍不抜なものとして確立されると主張するのではなくて……、ケアすることとそれを支える倫理的自己は、それ自体、つねにケアされなくては保たれない、傷つきやすいものであることを表わすためである。(58-60) ■山根純佳 ■上野千鶴子 ◆ケアを語ることの理由/意義 ケアは社会現象であり、それもケアが社会現象になったのは最近のことである。ケアが社会現象になったことを、超高齢化やそれにともなう介護負担の増大に帰する論者もいるが、社会が何を負担と感じるかは、その社会によってことなる。どんなにたくさんの高齢者がいても、それらの人々をケアの対象と考えず、それに対する責任を社会が負わなければ、ケアの負担は社会には発生しない。/なぜケアを語るのか?はそれ自体歴史的な問いである。したがってその問いには、歴史的な意義がある。「ケア」という新しい用語は、それが登場することによってこれまで存在しなかった問いを浮び上がらせ、それまでだれもが「問題」と思わなかったものを問題化problematizeする効果を持つからである。(上野[2005: 18]) ◆ケアとは何か ケアという用語が、いつごろから誰によって使われはじめたかは、判然としない。英語圏では80年代ごろから使われはじめ、90年代にはケアを主題とする研究書が次々に刊行されるにいたった。だが、その多くは、ケアを第一義的に、チャイルド・ケアと同義とみなしており、エルダー・ケア(高齢者介護)を含む包括的な用語としては、おずおず使われはじめたにすぎない。/まず英語圏におけるcareの用語法を検討しておこう。動詞のcareは、care of(世話する)のほかに、care about(配慮する、気にかける)、care for(ほしがる)などと多義的に用いられる。名詞としてのcareは、したがって、世話、配慮、関心、心配などの意味を持っている。「世話」に注目すれば、身体的・物理的な側面を、「関心」や「配慮」に焦点をおけば、心理的な側面を強調することになる。形容詞としてのcaringは、自動的に母性と結びついてcaring motherと用いられ、nurturing motherとほぼ同義に用いられてきた。研究史が示すように、ケアは第一義的に「子どものケア」を指し、その後、「高齢者介護」や「病人の看護」「障害者介助」、さらには「心のケア」というように、拡張して使われるようになった。/この事情は、日本語圏では逆転している。日本語では「子どものケア」については「保育」や「育児」という用語が確立しており、……ケアという用語が使われはじめたのは、90年代以降。むしろ高齢者介護の分野が先だった。その後、英語圏の研究動向に影響されて、「育児」「介助」「介護」、場合によっては「看護」も含むジェネリックな用語として、他に代わる適切な用語がなかったために、この用語はカタカナことばのまま流通するようになった。/ケアという用語の採用には、ふたつの系譜があった。ひとつは看護学、もうひとつは福祉分野である。前者は、医療cureと看護careを区別し、さらに看護の医療にたいする職業的自律性を高めるという看護学の業界の戦略によって、積極的に採用された。後者は、高まりつつある高齢者介護負担に対応して、介護を可視的な主題とし、福祉政策に組み入れようとする研究者によって自覚的に採用された。後者は、前者の医療改革にとっても、つごうがよかった。社会的入院などの増大する高齢者医療負担に対して、医療と介護を区別することは、高齢者福祉を医療政策から切り離す制度設計のうえでも、好つごうだったからである。/ケアをタイトルに使った書物は翻訳書を除いて多くない。そのこと自体が、「ケア」という用語の日本語としての熟し方がじゅうぶんでないことを示唆するが、……総じて「ケア」をタイトルとして持つ書物の多くは、「ケア」を定義せずに用いるか、定義を与えたとしても抽象的な本質規定か、さもなくば漠然としすぎているために、それ以降の議論の展開には意味をなさないものが多い。(上野[2005: 19-20]) ◆ケアの定義 メアリー・デイリーによれば、これまでのところ、「もっとも妥当性のある」「ケア」の定義とは以下のようなものである。「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係」。/わたしはこの定義に同意するが、この定義を採用する効果には、以下の六つがある。第一は、この定義に社会的かつ歴史的な文脈依存性が書きこまれていること(つまり社会学的であること)、したがって社会的かつ歴史的に比較可能な概念であることである。/第二に、……それが相互作用的であることである。すなわち、ケアとは、ケアする者とケアされる者との「相互行為interaction」であって、複数の行為者actorの「あいだ」に発生する。……/第三に、役割とその遂行の社会的配置を含むことで、この定義がジェンダー、さらには階級、人種のような変数を取り入れ、そのあいだの比較を可能にすることである。/第四に、この定義は成人と子どもを含むことで、介護、介助、看護、そして育児までの範囲をおおい、第五に身体と情緒の両方を含むことで、ケアの持つ世話と配慮の両面をカバーし、第六に規範から実践までを含むことで、ケアの規範的アプローチと記述的アプローチをともに可能とする。(上野[2005: 21-22]) ◆ケアワークとは何か ケアにワークをつければ、ケアワークとなるが、ケアとケアワークとはどう違うだろうか。/そのものずばり "Care Work"をタイトルとする英語圏の主要な編著―Daly, Mary, ed., 2001, Care Work: The Quest for Security, International Labor Office.とMeyer, Maddonna Harrington, ed., 2000, Care Work: Gender, Class, and the Welfare State, Routledge.―では、ケアとケアワークの定義は互換的に用いられている。後者の書物では、ケアについての明示的な定義はなく、その代わりにエイベルによる「ケアの歴史的パースペクティブ」(2000)という論文が収録されており、ケア概念が、歴史的にどう変化してきたかが論じられている。ケアが文脈依存的であるとすれば、当然それに対して(暫定的な定義のほかには)定義を与えることができない。そして、これらの著者たちは、ケアが愛情と労働の両方を含むことを認めるが、ケアがいつ愛情になり、どこから労働になるかもまた文脈依存的であるから決定できない。/多くはフェミニストの手になるこれらの著作が、ケアを論じるのに、ケアワークを自明の前提として概念化するのは、「家事労働」「不払い労働」「愛の労働」等の理論の蓄積がすでにあるからである。そしてケアワークという概念を用いるからこそ、ケアがワークではない特殊ケースを理論化することができる。そして「不払い労働」という概念がすでに利用可能だからこそ、ケアワークのなかで、有償の労働と無償の労働の両方を考察することもできる。/たとえば先述のエイベル(2000)は、19世紀には上流階級にとっては高齢者、病人、障害者、子ども等のケアは家事使用人の仕事であり、代わって家事使用人たちは自分の家族のケアに従事することができないディレンマを抱えていたことを指摘する。ケアが「中産階級」の「既婚女性」の無償の労働になったのは、近代家族成立以後のことであり、したがってケアには(家事と同じく)、ジェンダー、階級、人種(民族)が変数として色濃く刻印されていた。/本論でも、わたしは基本的にフェミニストのケアワーク論を継承する。その点で、デイリーらの以下の立場を共有している。第一に、ケアの価値は尊重されるべきこと。第二に、ケアは労働として取り扱われるべきこと。第三に、ケアはジェンダー公正の立場から配分されるべきこと。(Daly ed. [2001: 59])(上野[2005: 22-23]) ◆ケアの概念化 デイリーらの著作は、それ自体、ケアの概念化の試みでもある。……ガイ・スタンディングによれば、ケアワークは「一人もしくはそれ以上の人々に対して、身体的、心理的、情緒的、および発達上の必要を満たす労働」(Daly ed. [2001: 17])と定義される。「発達上」が含まれていることは、ケアが一義的には育児を指すことを意味している。/スタンディングはケアワークを以下のように定式化している。ケアワーク=時間(所要時間+待機時間)+努力+技能+社会的スキル+情緒的投資+ストレス(ケアの受け手のニーズにこたえられないのではないかという不安+監督者や周囲の期待に応えられないのではないかという不安)(Daly ed. [2001: 18])。/これらの項目がケアワークの諸要素について網羅性を持つかどうかには検討の余地があるが(たとえば報酬という項目―社会的、経済的であれ、情緒的であれ―が欠けていることはただちに指摘できる)、この定義でもケアワークは主としてケアの与え手に帰属する活動や行為の一種であると見なされる。これに「関係」の概念を付け加えたのはデイリーである。/デイリーは先に引用した定義にたどりつく前に、ケアの「慣習的定義」として「病人、高齢者、障害者および依存的な子どもを世話することに関わる行為と関係」(Daly ed. [2001: 34])という定義を挙げているが……これに対して……(1)「自分で動ける成人も、ケアを必要としている」(Daly ed. [2001: 176])ことを概念化できないこと、(2)「依存的」とはどういう状態をいうのかの判定がむずかしいこと、(3)「行為」のうち、ケアにあたるものとケアにあたらないものの境界線をどう引くかが決定できない、とナンシー・フォルバーは批判する。フォルバーの批判は重要なものである。一番めの批判は、「依存的存在」の構築が、かえって誰にも依存しないロビンソン・クルーソー的な「自立した個人」の神話を成立させてしまうことの危惧から来ている。……二番めの「依存的」についての境界も問題含みである。……三番めのケアとケアでないものとの境界線は、たとえば身体的・情緒的ケア以外の、……ほとんどあらゆる活動が〔その外延を拡張していけば〕「ケア」に含まれてしまうことになる。そうなれば、ケアという概念は失効してしまう。/現実には、経験的研究のために、暫定的な境界線を(文脈依存的に)そのつど引くしかないことに彼女は同意し、「抽象的な概念論議を離れて、もっと錯綜した経験研究の領域に入ること」(Daly ed. [2001: 179])を提案する。……/以上のような議論の経緯からすれば、ケアの概念定義それ自体には、それほどの意味はない。むしろ、ケアおよびケアワークの概念が文脈依存的であることが確認されればよい。……〔したがって問われるべきは〕いかなる文脈のもとで、ある行為はケアになるのか? またいかなる文脈のもとで、ケアは労働となるのか?〔である〕。(上野[2005: 23-24]) ◆ケアへの人権アプローチ デイリーらが依拠するケアへの基本的アプローチを、わたしもまた、採用する〔が〕……それはケアへの人権アプローチ human right approach careというべきものである。それはケアを広く人権のうちの「社会権」の一部ととらえる見方である。 人権human rightsとは、文字どおり「市民的諸権利の集合 a set of civil rights」を指す。そしてこの「諸権利の集合」の範囲は、歴史と社会的文脈によって変動する。……「ケアの権利」とは、特定の歴史的文脈のもとで登場したものであり、また特定の社会的条件のもとではじめて権利として成り立つ性格のものである。したがって、ケアの人権アプローチとは、規範的アプローチの一種であるが、次の二つの重要な意義を持つ。 第一に、それはケアを脱自然化する効果を持つ。つまり、ケアが「自然の情」でも「母性的本能」でもなく、社会的権利として立てられるべき構築物であることを明らかにする。第二、それは一定の社会的条件を明示することで、ケアの社会的再配置についてのビジョンを提示する働きをする。 ……ケアへの人権アプローチによれば、ケアの権利とは以下の四つの権利の集合から成っている。(1)ケアする権利(2)ケアされる権利(3)ケアすることを強制されない権利(4)ケアされることを強制されない権利……(4)には「不適切なケアを受けることを強制されない権利」を含めることもできる。…… 諸権利の集合としての人権の内容は、歴史的文脈によって変化するが、わけても社会権は社会の変化にともなって拡張されてきた。社会権としてのケアの四つの権利のうち、歴史的に最初に登場したのは「ケアする権利」である。それは自分と親密な関係にある他者(子どもを含む)を自分の手でケアする権利をさすが、それというのも、階級と人種の変数によって、多くの男女が「ケアする権利」を奪われてきたからである。…… ケアする権利は、その裏面に「ケアを強制されない権利」を持つことで、自発性と選択性を含んでいる。その意味で、「ケアする性」の自然化というジェンダーイデオロギーは、その自然性のもとに選択の余地のない強制性を含んでいる。この観点から、多くの家族介護が実質的には「強制労働 forced Labor」である、とデイリーらは喝破する。…… これに対して「ケアされる権利」は、歴史的には遅れて登場したものである。……ケアされる権利は、子ども、高齢者、障害者などの社会的弱者の権利だから、国家や共同体がそのメンバーの福祉well-beingに責任を持つという福祉国家(もしくは社会)とそのもとでの社会権の理念が登場しなければ生まれない。…… 他方で、「ケアされることを強制されない権利」、わけても「不適切なケアを受けることを強制されない権利」は、社会的弱者にとってきわめて重要な権利だろう。ケアする権利がケアを強制されない権利と表裏で結びついているように、ケアされる権利はケアを強制されない権利と表裏で結びつくことで、ケアの受け手の自己決定権を保証する。その点では、措置のような、ケアの内容を公的機関が利用者の意向にかかわらず専断的に決定する行政や専門家のパターナリズムは、この「ケアされる権利/ケアを強制されない権利」の侵害であるといえる。 もちろん多くの人権と同じく、「ケアの権利」も多くの場合、侵害されているし、一定の社会的条件がなければ行使することはできない。……本論が〔「ジェンダー公正」をその基準とする〕設計科学であるためには、それが可能な条件feasibilityを探究することにある。…… ケアする権利が選択性をともなうためには、ケアを選択することで社会的な損失を受けないことが担保される必要がある。つまりケアの与え手が、ケアすることを選んでも選ばなくても、そのどちらの選択をしえもソンもトクもしない、「選択に中立的な」制度的条件が必要である。……スタンディングはケアする権利について論じる中で、「ケアを与えることは組織的に貶められている」(Daly ed. [2001: 19])と指摘する。なぜならば、ケアすることを選択することによって、「労働の障害となることで依存的な存在となる」ばかりでなく、「社会的地位の低下を招き」、そのうえ「蔑視と憐れみの対象とさえなる」(Daly ed. [2001: 17-19])からである。…… 他方で、ケアすることを強制されない権利は、ケアを選択しない場合の代替選択肢(第三者によるケアの供給や、ケアサービス商品の購入などの可能性)がどれだけあるかに依存している。……介護保険にいう介護の社会化の目的は、この代替可能性の供給を可能にすることにある。介護保険法策定の過程で、家族介護者への現金給付が議論の対象になったが、以上の議論に沿えば、この現金給付は、(1)第三者による代替サービスが利用可能な選択肢としてじゅうぶんに存在しており、(2)そのうえでその利用を選択しなかった家族介護者が、その選択をしなかった場合と同等の所得保障の水準に達する場合にのみ、正当化されることになる。 ケアされる権利/ケアされることを強制されない権利は、ケアする権利/ケアすることを強制されない権利以上に侵害されているといわなければならない。というのも、社会的にはケアの与え手よりも受け手のほうがはるかに社会的弱者であることが多いからである。したがって、ケアされる権利については、第三者による権利擁護advocacyが不可欠となる。だが、その場合でも、代理・代行による当事者の意志決定権の侵害の可能性は残る。ケアは与え手と受け手の相互行為とはいえ、対等な交換とは言えない。双務性を持たない交換は、その与え手と受け手のあいだに債権/債務関係を発生させる。そのあいだに対等性を担保するのが、契約関係であり、金銭的な報酬である。ケアの有償性は、ケアされる側の自己決定権の保証のためには重要だが、ここでも、ケアは無償であることで社会的な価値を高め、有償であることで価値を低めるという奇妙なディレンマに出会う。…… ケアを相互行為としてとらえる立場は、以上のようにケアの権利をもまた、その与え手と受け手の二重性、しかも能動性と受動性の両義性においてとらえることを可能にする。(上野[2005: 24-29]) ◆ケアへの規範的アプローチ批判 わたしがここで主として批判の対象とするのは日本語圏の文脈における「ケア」概念の受容であり、それも本質主義的な系譜に属するものである。/結論を先取りすれば、ケアへの哲学的・倫理学的アプローチには以下のような共通点がある。/第一は、ケアをそれ自体で「よきもの」とする規範性である。/第二は、ケアを扱う際の抽象性と過度の一般化である。したがって、ケアを論じるにあたって、どのような行為が実践的・具体的にケアにあたるかについての言及がきわめて少ない。/第三は、本質主義、すなわち脱文脈性である。別なことばでいえば、どんな文脈にも妥当するような普遍理論への志向を共有している。/第四に、脱文脈性から帰結する効果のひとつだが、とりわけその脱ジェンダー性を指摘できる。……ケアの本質論は、しばしば「ケアとは何であるべきか?」という規範的アプローチをとる。というのも、もしケアとは「本質的」にXであり、現実のケアがYでしかなければ、YはXに合わせて否定されるなにものかになるからである。そしてこの種の規範的アプローチは、ケアの実践的・具体的内容について関心を持たない傾向がある。/したがって本論の関心はそうでないアプローチ、すなわち次のようなものとなる。(1)規範的アプローチから記述的(経験的)アプローチへ (2)規範的アプローチそれ自体の文脈化(歴史化)。(上野[2005: 29-30]) ◆メイヤロフの「ケアの本質論」への批判 ……メイヤロフへの批判を以下の四点にわたって付け加えよう。/第一は、ケアの対象が人格からアイデアまでを含むような過度の一般化を経ることによって、かえって無定義概念と化し、分析や記述上の妥当性を失っていることである。/第二に、「ケア」概念のインプリケーションが「子どもへのケア」に限定されているために、病人、障害者、高齢者への言及が不在である。/第三に、ケアの対象が依存と保護、そしてコントロールの対象に限定されることで、パターナリズムをまぬがれない。/第四に、「父親のケア」がしばしば述べられるのに対し、「母親のケア」は見事に不可視化されていることを通じて、ここでは言説による脱ジェンダー化の政治が働いている。実践場面ではジェンダー化されていることが周知のケアを、あたかもジェンダー非関与であるかのように扱うこと自体が、言説上の遂行性を持っている。(上野[2005: 31-32]) ◆ケアの社会学化 ケアの倫理を論じた社会学者の研究には、Chambliss, Daniel, 1996, Beyond Caring, University of Chicago(=2000 浅野祐子訳『ケアの向こう側―看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾』日本看護協会出版会)がある。組織論の研究者であるチャンブリスは、詳細な観察とインタビュー調査にもとづいて、看護職の倫理的ジレンマについて論じたが、彼の結論は明快なものである。倫理を問うためには、選択の自発性とそれに伴う責任がなければならないが、多くの看護職が置かれている状況は、医師との権力関係における従属的なものである。看護職が「自律的決定者」であるという想定が非現実的であれば、看護職に「倫理」を問うことはむずかしくなる。そしてチャンブリスは、この状況が多くの女性(職)に共通することを指摘するのを忘れない。ケアの与え手に共通するのも、同じ状況である。ケアが強制労働であるような現実のなかで、倫理を問うことは何を意味するだろうか。彼がこのような結論に達することができたのも、彼が「ケアが何であるべきか」ではなく、「ケアが実際に何であるか」を、経験的観察にもとづいて、研究した結果である。わたしたちに必要なのも、このような態度であろう。(上野[2005: 34-35]) REV:...20060812 20070223,0320 0508 0907 ◇介助・介護 |