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良い死・9

立岩 真也 2006 『Webちくま』
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全体の目次
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 *2006.3.26夜草稿を掲載。3.27午前10時半加筆・修正版を掲載。12時15分加筆・修正版を掲載 15時加筆・修正版を掲載、原稿送付 3.31校正
 *『Webちくま』に掲載されしだい、ここでの本文の掲載を停止します。

■ 集会と事件

  昨日、2006年3月25日の午後、東京・品川で集会があった。「研究集会<死の法>――尊厳死法案の検証」というものだった。この連載の第3回で昨年6月の「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の発足集会のことを紹介したが、今回の集会は第2回目の集まりということになる。ただ、これはたしかにやっかいて微妙な問題でもあって、態度を決めかねている人もいて当然だ。そんなこともあって、なにかもうすこしやわな感じのものを作ろうということになった。そして、なにか事件が起こらないと――それが起こったのだが――私たちは調べたり考えたりしない。それでいつも後手後手になってしまう。だから「勉強」しておくことも必要なのではあるだろう。それで「良い死!研究会」というものができ、集会の主催にも、いちおう、加わることになった。3月22日にはメイリング・リストも始めた。集会の前に40名ほど、集会の時にも参加を募ったので、合わせて55名ほどの数になった(30日の時点では約80名)。
  集会が始まる前に、報道関係では羽幌病院での事件を取材してきたNHKの旭川支局の人たちがやってきていて、清水昭美さんにインタビューもしていた。北海道新聞の方も集会の前に取材をしていた。そして12時から始まった集会の前半は、弁護士の光石忠敬(みついし・ただひろ)さんのお話だった。光石さんは日本弁護士連合会人権擁護委員会医療部会特別委嘱委員。昨年11月30日、「尊厳死(仮称)法制化を考える議員連盟」のヒアリングで意見を述べられた。その時の話に沿って、法案に対する疑問点、批判点を列挙していかれた。了承が得られれば、ヒアリングで配布された資料をホームページにも掲載させていただく。またその資料も収録した充実した冊子を「阻止する会」で作ったから、会に問い合わせれば入手できるはずだ。
  会はその後、光石さんの講演への質問、休憩、後半は私が話をし、集まった人から質問をいただき、意見を述べてもらった。今回はその話をしようと思ったのだが、集会の前半、京都新聞社の記者からメモがまわってきて、富山の病院で7人が死んだ事件があったという。それは後半に会場にも知らされ、そんなこともあってか、集会の後もそこに参加された幾人もの人がテレビの取材を受けていた。その後、私が品川のその会場にいると聞いてやってきた読売新聞社の記者に夕刊の記事をコピーしたものを見せてもらった。まだ詳しい話はほとんど載っていなかった。その人にいくらかの話をした。それは翌日の朝刊に載ったようだ。また最初に事件を知らせてくれた京都新聞の記者が、事件についての私の話を400字ほどにまとめてくれ、それがやはり朝刊に載った。
  その時に話したのは、事件そのもののことはわからないから言いようがなく、むしろ、これから想定されるコメントに対するコメントのようなものだった。短い時間でだいたい以下のようなことを言った。

* * *
  医師個人の判断、独断で行なったことが言われるだろう。それはいけない、きちんとした手続き、ガイドラインがいるという方向に話が行くだろうと思う。きまりは必要かもしれない。しかし、あればよいというものではない。中味が問題である。しかし「識者」はしばしば、きまりがいる、ガイドラインがいる、とだけ言う。しかしそれが新しいきまりがいるという主張なら、いまの医事法や刑法以外に必要だということにもなる。とすれば、つまり尊厳死法案の方向がよいということになるのか。それがよいと私は思わないが、この点をはっきりさせないとならない。
  そして、その中味について、多分、本人の同意があったとかなかったといったことが問題になるだろうが――だからこれは安楽死ではないとか、尊厳死ではないとかいう話がなされるだろうが――そのような話は、同意があればよいという筋の話になってしまうことが多々ある。私は同意があればそれでよいとは、とくに以下の事情を含めて考えるなら、思わない。ここも重要なところだ。
  医療者の側にも、それから家族の方にも、死の方に傾く要因はある。ことを現実的にみれば、家族は、その人が嫌いなのかもしれないし、無関係でありたいと思うこともある。そしてそうでなくても、利害関係者であり、お金を払わねばならず、人手としてもあてにされる。長くいてもらいたくないということは実際にいくらもある。今回のことについてではなく、一般論として、やめてくれと頼む人は実際にたくさんいる。
  そして、医療者はつねに「無駄」なことまでして命を長らえさせようとするというのは神話、というと言いすぎにはなるのだろうが、一面的である。その人たちは死んでゆく人たちを毎日多くみている。慣れている。医者の仕事が治す仕事であるとすれば、その仕事はもう終わった人たちでもある。そしてその職業は、無為と対極にあるような、有能に忙しく立ち働く仕事でもあり、そのことを自らの価値ともしているかもしれない。他方で、「延命」の方に作用させる要因として、かつてはそのことが収入に結びつき経営に資することがあったが、そうしたことはなくなっている。だから、医療者・家族は(本人の意に反して)「延命」の側につくのだという紋切り型で話を始めるのはよくない。
* * *

  翌26日、別の用で編集者に会って、事件のことが大きく朝刊の一面に出ていると聞いた。午後、翌日の朝のテレビ番組の出演依頼があったことを聞いたが、帰らねばならないから断わってもらうようにした。(その日本テレビの番組には小松美彦さんが出られた。)帰りの新幹線で原稿を書き始め、京都に帰ってきてはじめて新聞を読んだ。『毎日新聞』の朝刊、日曜だから夕刊はない。他にウェブをすこしみた。やはりよくはわからなかったのだが、それでもいくらかのことは書いてあった。長期にわたっていわゆる遷延性意識障害の状態が続いている人たちなのだろうかと最初思ったのだが、そうでなく、末期の状態で(読んだ新聞の一面には「末期症状」と書いてあった)、意識のない状態になった人たちで、5人は末期ガンの人たちだったと書いてあった。「末期」の状態であるのなら、なにをそう急いで呼吸器を外したりすることがあるだろうか。また末期ガンだというなら、苦しく辛そうだったから、だろうか。しかし意識がない状態だったというのだから、苦しいということもなかったはずだ。だから、やはり、その経緯そのものはよくわからない。なぜ急ぐことがあっただろう。わからない。
  そして、私がみた「識者」のコメントは、本人の同意を得ていない以上、これは安楽死でも尊厳死でもないといったものだった(水野肇氏、『毎日新聞』)。病院長他の記者会見でも、記者は安楽死か尊厳死かといったことを問い、院長も――そんなことを聞かれても困るだろうと思うのだが――それに答えるしかないから、答えている。日本尊厳死協会理事長の井形昭弘氏も同じような、これは尊厳死ではないといったコメントを出している。私はEメイルでもらった情報で知った。すこし探したら、毎日新聞社のサイトにそうした発言が載っていた。(「尊厳死疑惑:「同意」「死期」が焦点に」3月26日、7時49分。26日、27日の大阪本社版の紙面には見当たらなかった。また、『読売新聞』26日朝刊にも、井形氏のコメントが、私のとともに、出ていると知らせていただいた。)もちろん、それは――言葉の定義の問題だが、普通になされる定義に従えば――そのとおりである。本人の意志によってなされることが前提にされる。それなくして行なわれることは殺人であるとしか言いようがない。(ただ実際には、本人の意志による死でない場合にも「安楽死」といった語は使われることはある。25日の午後記者からもらった『読売新聞』の見出しにも「安楽死」の語があった。いまみた『北海道新聞』の見出しも「「高齢患者7人「安楽死」か」で「」を付けながら安楽死の語は使われている。たしかに足を折った馬を注射で殺すことがあり、そんなときには「安楽死」と言われるから、そのような意味でこの言葉を使うなら、それはそれで間違っていないとも言える。まただからこそ、いまどきの日本では、自らの意志による死を肯定する人たちも安楽死という言葉を避けようとしているのでもある。なお『毎日新聞』の幾つかの記事の見出しでは、医師が「尊厳死」と主張していることを受けてということか、「尊厳死疑惑」が使われている。)
  ただ、このそのとおりの指摘は、このたびのように曖昧なかたちでことがなされるのはよくないから、きちんと本人の意志を確認してから行なうベきであるという話につながり、そして、だから尊厳死法が必要であるという話につながることもある。とりわけ、法律化を推進しようと思う人たちはそう思うし、言うだろう。と、記事にあたってみると、日本尊厳死協会の井形氏はまったくその通りのことを述べておられる。先にも紹介した毎日新聞社のサイトに載った記事では「医療現場が混乱しないように一刻も早く法制化によって明確な基準を作ってほしい」と話したことになっている。『朝日新聞』の26日朝刊の第3面では、日本尊厳死協会の人が同様のことを語っているのだそうだ。そういう話にならなければならないわけではないことを、記事を読む人も書く人もわかってくれていればよいのだが、そのことがやはり気になる。
  大きな事件で、大きなスペースが与えられ、しかし事件のことはわからず、となるとよくなされるのは、過去の話を持ってくることである。東海大学事件判決と呼ばれるものであるとか。しかし、それを持ち出してくるのはよいとして、あるいは紙面構成上も仕方のないこととして、過去の判例で示されたものが正しい基準であり、それに照らしてどうかという話をせねばならないのでもない。このこともまた間違えない方がよいことである。
 もう一つ加えるなら、死ぬために注射を打つといった積極的な行為を行なうことと治療を停止することを分け、人工呼吸器の取り外しを後者と位置づけ、さらに同意という要件を入れた上で、後者を安楽死、前者を尊厳死とし、後者は許容されるという筋になっている報道がある。しかし、これはこれで大きな論点である。まず、(同意があった上でも)人口呼吸器を外すことは死をもたらす積極的な行為であって、違法であるという了解が広範にあったはずだ。それがふまえられておらず、いつのまにか問題のない(少ない)方に置かれていて、その移動に気がつかれていないように思える。(他に、何かを加えることも何かを控えることも基本的には違わないことがあるという論があり、後者が認められるのであれば前者の積極的な行ない――いわゆる(積極的)安楽死――も認められるという論もある。私は、その論の前半を認めた上で、だから両方とも認められないとも言えるのだと、「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」や『ALS』に書いた。)

■ 意識がない(とされる)場合のこと

  けれども、たんなる誤解や、議論の誘導といった問題だけがここにあるのではない。今回の場合は、最初思ったのと違い、「遷延性意識障害」の状態が長く続いていたといった場合ではないようだ。ただ、そうした状態になったらもうよい、といった意識があって、そのことがこのたびのことも含め、よいのではないか、よいようにするために、しかるべき手続きを定めたきまりを作ればよいのではないかという話を支持させているのだと思う。そしてそれは私のいる場所でもある。認知症や、身体の不随意といった場合についてだったらもっとはっきりとしたことは言えるだろうと思うし、言ってきた。ただこの場合はそれほどでもない。
  第一に、私はいかなる場合でも生命維持をやめてはならないという絶対反対論の立場には立たない。このことは拙著『私的所有論』でも述べた。
  「問題となっており、問題とすべき一切の事実問題、そして事実を確認できるかという理論的な問題を省き、測り難いことを測れるとする危うさとその危うさに周囲の者達の様々な利害が絡む危うさをここで差し置き、もし仮に、脳死という状態がその人において全くの空白でありそこから回復することがない状態であるとしたらどうだろう。[…]少なくとも、その人が、自らにとって世界の一切が終わった上での生存や生存を終えた後での保存を放棄しようとするのであれば、私にとっての他者の意味合いではなく、他者があることそのものが尊重されなくてはならないという立場からは、その人の意志に従うべきであることになるだろう。」
  このように本人の意志の尊重という言い方で言うのがよいのか、それともそうでないのかという点については、かつての私自身の論でよいという確信はない。ただ基本的にはこのように思っている。「自らにとって世界の一切が終わった」時、生存をやめることを認めないという立場を私はとらない。その点では、私の立場は、人の状態によって判断するという立場の一つである。ただ違うのは、それを広くとろうということである。明瞭な意識がないことはいくらもあるだろう。それでも何かは感じていたりする。であるかぎりはよいということである。意識があるという語を、何かを言葉にして言える、言えなくても思えるといった状態のこととするなら、その言葉では狭すぎる。   しかし第二に、このことはそのまま、その時には その人にとって生存が維持されている状態をやめることがその当人においてプラスであるということもないということではある。だから「延命措置」を行なうことはその状態の存在に対して悪をなすことではない。このこともまた、当然のことだが、確認しておこう。
  第三に、これがいちばん言いたいことなのだが、意識を失っているという状態がどんな状態なのかわからないということだ。脳死という状態もよくわからないが、遷延性意識障害とは、さらに状態を一括りにする言葉であって、実際には様々であり、そしてその人において起こっていることは外からわからない。今回の集会でも、また昨年の6月の集会でも、最も強く印象に残ったのは、遷延性意識障害の家族の人たちの話だった。人により時により状態は変化することが語られた。回復することがある。反応があることがある。脳死と呼ばれる場合でもそんなことはあるということを指摘し強調してきたのは小松美彦であり、彼の本を紹介した文章でも、その部分について記した。また阻止する会を立ち上げ、その運営を担っている清水昭美さんも、昨年の集会で遷延性意識障害の人たちの回復の現実・可能性を強調した。
  基本的には以上である、死ぬことについて、完全に意識――という言葉が不適切なら使わない――がないのなら当の本人にとっての(不利益もないとしても)利益はなく(第二点)、他方どんな状態なのかは実際にわかりがたく、「延命」をやめることに不利益がある可能性がある、その可能性を排除できない(第三点)。以上をふまえれば、絶対反対の立場に立たなくても(第一点)、肯定することにはならない。

■ 自分のこと

  しかしこれは自分のことではないか、自分で決めればよいではないか。しかし、自分が事前に認めたのだから、その通りにすることが、正しいとはならない。その理由はいくらかややこしい部分と単純明快である部分と両方がある。
  1)これは集会で幾度も幾度もなされた話なのだが、そして私も話の最初に述べたのだが、つまりは、お金のことや人のことが気になって、そうなったらもういい、と人は思って、決めるのだということ。それはよいことなのか。よくないと考えるとしよう。とすれば、そうした心配から決めてしまうことがなくなることが先にすべきことである。ほぼ、このことさえきちんと言えれば、また実際にどうにかなるのであれば、それでよいと言ってよいだろうとも思う。ただ、現実には、どうにもなってはいない。どうにもなっていないのに、言われたとおりにするということにはならないはずだ。
  2)もう一つ、その人なりの価値観によってと言われるのだが、しかし、しかじかになったら人はもう生きている価値がないという価値を、そのまま受けいれてよいとは言えない。このことについての説明はここでは略す。このことについても幾度か書いてきた。『思想』に載った「他者を思う自然で私の一存の死」でも書いた。
  3)そんな理由と関わりなく、あるいは生きられる条件が整っていてもなお、私はもうよいという人がいるかもしれない。そうした人について、私の方で積極的に止める理由はない。またその人たちの中には、事前に自らがどうなるかはわからない(前節の第三点)が、それでもよい、かまわないと言う人たちもいるかもしれない。しかし、そういう人たちもいるのだからという理由で尊厳死を許容するとしたら、他の、数としてはもっとたくさんいる、他人を思いお金のことを考えてという人も巻き込まれてしまう。他方、その代わりに得られるものは、別の確信をもって治療停止を受け入れる、死を受け入れるという人にとっても、その状態になったその人も意識がないのであればその状態が存続する不利益もまたないとは言えるのだから、少ない。
  4)そして、さらに、そのようになった「自分」のことを決めることが、普通に私たちが自分で決めることを支持する理由によって正当化されるかである。このことは『思想』掲載の文章の第3回に書いた。そこでは主に認知症のことを考えていた。認知症になってしかじかの状態になったらもういいと言う。しかしそう思う自分はその時の自分と違う。むしろ今の自分と大きく違うから、死のうというのだ。これは普通の意味で自分が自分のことを決めるという場合に当てはまらない。自分は自分にとってよいことを他の人よりわかっているから自分のことを決めるという理由で自己決定が正当化されるなら、その理由によってはこの行ないは正当化されない。では遷延性意識障害の場合にはどうか。それは今の自分と別の暮らしを営んでいる自分を否定するという行ないではない。ただここでも、未来の自分の利益を自分が(他の人より)よく知るがゆえに決めているのではないことは明らかである。

  私の立場は軟弱なものであり、断固したものではない。ただ、以上に記したいくつかの点を合わせて考えていって言えることがあるだろうと思ってはいて、そのことを書いてきた。その一部をかいつまんで記した。
  今日(3月27日)、この文章を書き直し書き足していたら、北日本放送(富山県)の人から電話があって、最初は今日京都でということだったが、それは勘弁していただいて、電話でいくらか話した。先方も、2日前に突然こんな事件が起こって一体これはなんだ、という感じだった。こんな時はいつでもそうだが、うまく話せたか、うまく伝わっていたかと思う。意識がないというのと、当人が苦しいのを見かねてというのと違いますよね、とは言ったが、意識がないってそう簡単にどうやって言えるんでしょうかね、という話はできなかったな、とか。このたびのことも、たいへんあわただしく、しばらく報道され、様々のことが混ざり、なんだかよくわからないままに、やがてまた、いったん、おさまっていくだろうか。そして「現場の混乱」を収拾するために「明確なルール」が必要だという紋切り型が繰り返され、それだけが残っていくだろうか。法はある。それが不在だから混乱しているのでなく、それ以上・以外のことをしたい、実際にはしてしまっている、だからそれを承認してもらいたい、罰せられることのないようにしてもらいたい、そういうことである。その気持ちはよくわかる。しかし問題は、なぜその以上・以外のことをするべきなのか、したいのか、せざるをえないのか、である。わかりやすくはある幾つもの言葉が、事態を覆い隠し、見えなくさせている。

  ◆射水市民病院での人工呼吸器取り外し


UP:20060323 REV:0324,26,27(原稿送付),31(誤字訂正)
安楽死・尊厳死  ◇立岩 真也
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