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『病いの哲学』について・1

良い死・11

立岩 真也 2006 『Webちくま』
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全体の目次
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 *以下は草稿
 *『Webちくま』に掲載されしだい、ここでの本文の掲載を停止します。

書けそうにない、のだが

  この社会に生きているからには、死を欲し、生を否定する価値が沁み込んでいるということはありそうなことだと述べた。そのことに正面から対するというのが一つ。それとともに、いったんそんな思いや価値が事実あることを認めながら、しかし、そこにすっと行ってしまうのにはさらに短絡があるのかもしれないと言おうと思った。欲望は変化することを述べた。さらに、欲望が多数あること、そして人は慣れることについて書こうと思っていた。ただこの話はまた少し後ですることにしよう。関係する本が出たから、それを紹介する。
  前回もすこし引用したのだが、小泉義之の『病いの哲学』がちくま新書の一冊として刊行された。著者の幾冊かの著作について別の連載で紹介したことがある。『兵士デカルト』(1995年、勁草書房)が最初の著書で、読んだことのない人は誰も思いつかないだろうが、今度の本に一番近いのはこの最初の本であるようにも思う。だから、この人は長いこと同じことを考えてきたのだと思う。
  書いてあることは二つである。「死に淫する哲学」を批判すること、これが一つ。もう一つは、「病いの哲学」あるいは「病人の哲学」の哲学を作り出そうとすること。長い本でないが、それでも分けて述べることにする。今回は前者について、むしろその手前の前置きを述べる。
  私は、死や病について、何か書けると思ったことがないし、実際、書けないし書いたことがない。誰か書けるなら書いてほしいとは思ってきた。しかし書かれているものを読んでも、とくに教えてもらえた気がしない。むしろ、結局はこんなところに落ちて、あるいは落ち着いてしまうのか、と思ってきた。ただ、その中のおかしなところについては何か言えるとは思ってきたし、そのことをこの連載に書いてきた。ただ、批判は批判でよしとして、それ以上、何か積極的に言うことはなく、むしろ、よく言われていることをもっともと受け取るだけのことにしかならないようにも思ってきた。つまり、言われていることはだいたい予想できる範囲のことで、いくらかは批判できるが、しかしそうとしか言えないのだろうなとも思い、自らが別のことを言えるわけでもなく、その意味では積極的に批判できるわけでもない。そんなところにずっといる。ただだからこそ、何かをより積極的に言うことができるというのなら、それを聞こうと思ってはきた。「病人の哲学」はそれかもしれない。ならばよろしく、ということになる。私は著者と対談をしたことがあって、それは『現代思想』2004年11月号、特集「生存の争い」に、特集の題と同じ題の対談として掲載され、その後『生命の臨界――争点としての生命』(松原洋子・小泉義之編、2005年、人文書院)という本に収録されているのだが、そこでもそのことを述べている。
  その前に「死に淫する哲学」の方について。これは批判し、別様に語るという二つのうちの前者に関わる。
  西洋の哲学に限らないように思うのだが、哲学が死について語るとき、それは一つに、この世の無常、この世に存在する人とその営みの卑小を説いたりする。たしかに無常ではあるにちがいない。しかし、地下の納骨堂に並ぶされこうべを見せたり、あるいは女が死んで、その死体が腐乱し骨になっていく図を見せて、死を思わせ、神様の方に、あるいは浄土の方に勧誘するというのはどうなのだろう、と思う人は思うだろう。人の存在の有限性が言われ、そこから、なにかより価値のあるものにつなげられるのだが、そんなことでよいのだろうか。また、そうした死を思う(思わせる)あり方と比べて、現代人は死(を思うこと)を忘れていると語るのも、なにか違うのではないかと思える。(もちろん、そのようなことをまったく思わない人もいるのではあって、その人は現代人が薬物などで苦痛を回避することを嘆き、代わりに、断食などしてその苦痛のもとに死んでいくことを賞揚したりするのである。「どうぞ御自分は御随意に」、と言おうと思う。)
  もう一つ、他方には、もっと醒めたことを言う人たちもいる。それは、煎じ詰めれば、死は経験されるできごとではないのだから、死を恐れることもまた迷妄なのだといったことを言う。前段はそのとおりだとして、だから後段が言えるだろうか。前段はわかっている、わかっていても、わかった上で怖がったりしているのだ。その言説は、人を突き放しているようでしかし啓蒙的に働こうとする言説としてあるのだが、しかし実際にはあまり効かないようにも思う。
  ひどく通俗的にまとめると、そんなことになっているように思う。しかしもっと高級なものであろう哲学的言説はそれ以上の何かを言っているのだろうか。よくわからないという感じをいだいてはいた。そしてやっかいなのは、言われていることをそのままに肯定できないのだが、同時に、それらはなにかしらもっともなものではあるように思えるということだ。たしかに私は有限で卑小で無力な存在ではあろうと思い、信心があって死後の生が存在すると信じられるなら、確実に効果的だとも思う。しかし信心がなければだめだ。そして近頃の哲学は、死後の世界があるなどとは語らないことになっている。ならばいったい何を語ることがあるだろう。いくらか世俗化させて、命のつながり、であるとか、残された人の記憶の中に残ることであるとかが言われることはある。こうなると、世俗的に常識的な水準でも理解しうる話にはなる。しかし効能はその分薄れる。
  そしてそのことは「臨床人間学」でもよいし「臨床哲学」でもよいし、あるいは「全人的医療」でもよいし、なんでもよい、もうすこし「応用的」「実践的」な学・言説についても言える。なにごとかが言えるようには思えない。にもかかわらず、とてもたくさんの量の言葉があり、多くの本が出ている。
  以前、1990年頃、看護学校で非常勤講師で「社会学」を担当していて、教室の学生をあまり容易に寝つかせない方がよいかもしれないと思って、当時からずいぶんの数の本が出ていた「死生学」の本などもすこし見た。市立図書館にもたくさん並んでいた。今はもっと多いだろう。また古本屋に行くと、そうした本たちはきわめて安価に買えたりもしたから、いくつかは買い、買い出すときりがないのではあるが、ある程度を集めた。すると背表紙に「死」の文字ばかりが並ぶきわめて不吉な本の列が書架にできることになった。そして本のリストを作った。飽きてしまったので収集はやめたが、ずっと更新を怠っているリストはホームページに載せたままになっている
  それらを読んでおもしろかったかと言えば、そうおもしろくはなかった。それらの多くは「臨床」のために書かれているのであるから、床に就いているその人が、あるいはその人に、どのように対したらよいのかが書かれていることになっている。そして、その人たちにとって情勢は切迫しているのだろう。そして、周囲の者たちは死に臨んだその人を突き放さないことになっているはずだ。とすると何を言うか。やさしくしたらよいだろうし、苦痛をやわらげいささかでも快適にした方がよい。それはもちろんまったくそのとおりだ。そして、その人がなにかを語るのであれば、語ることをよく聞くのがよい。傍にいてほしいと思っているのなら、そうした方がよい。それもそのとおりだ。
  ただ、そうしたことなら、それはもう知っていることではないか。あるいは、すくなくとも一度聞けばよいことではないか。技術的に具体的なこと――これはこれで明らかに大切なことだ――のいくらかは別として、今までも行ってきたし、今でも行えることではないか。その次に言うことはないのか。ほとんどないのだが、中味としては、さきに述べたことを薄めたようなことが言われたりする。まず、当人を突き放せないことがここでは前提になっているから、死ぬことなど考えるだけ無駄だといったものいいは少なくなる。しかし同時に、多くは宗教的なものへの抑制が効いてもいるから、「あの世」が積極的に持ち出されることもない。無常を説いたとしても、それが解決・解消される場所を提示することができないから、それを強調しても仕方がないということになる。
  私は、しばらく考えていても何も浮かばない。それで私は深く考えたりしない。何かを読んでも、何も加わることはなく、何も変わらず、そのままだ。誰にとってもそう事情は変わらないだろうと思う。しかし、現代において死は隠されている、語られないという枕詞を置いて、死にゆくことについて語る言葉が夥しくある。
  では社会科学はどうか。一つは記述する。とくに社会学は、人を援助したりしないから、気楽なものだ。それにその学は、相手から距離をとること、冷ややかに見るのがよいことだと思っている。そのような場にいると、言われていることを集めて、その集まり具合や偏り具合を指摘してみることも仕事にはなる。事態に対して「搦め手」から行くのが常道だから、死を「巡って」起こっていることごとを調べてまわる。これはある程度おもしろい。そしてこの嫌味な作業をする人も、この社会に流通しているまるめ方まとめ方が違うのではないかと思って、それで収集の作業をしているふしがある。なぜ死を遠ざけたり、避けたりしてならないのだろうか。実際に存在しているからだろうか。しかし、存在していても避けてよいこともある。あるいは、死に直面するということがどういうことなのか。納骨堂のされこうべを見ることは死に直面することか。人が死んでいくのを看取ることが死に直面するということか。こんなことを思って、それで言説を縁取ろうとする。ただこの営みにも限界はあるように思われる。つまりは何が気に食わないのか、迂回しないで、あるいは迂回を経た上で、それを言うことが求められることがある。
  もう一つ、それ以前から、例えば社会学にしても、今述べたようなひねくれた学だけであったわけではなく、人の役に立とうとする部分はあったし、また自らはそんなことを思ってなくても、役に立つことを期待されることがある。このごろは「臨床社会学」などと呼ばれるものもある。もちろん、そうした学が役に立つ場面は様々ある。しかしそれで病気がなおるわけではない。そして死ぬ人は死ぬ。その件について何かができるわけではない。もちろん、床にある人が話すことを聞いたりすることはできるし、そうして語ることがしかじかの理由で抑圧されてきたことを指摘することもできよう。そうしたことはまちがいなく大切である。しかし、やはり、それだったら言われなくとも、と思う。それで、その件で不平を言おうとするのだが、しかし、臨床社会学などやっている人も、その困難あるいは不可能性はわかっている。あるいはわかっていると言う。そして不平を言う側も、代わりの何かを提示できるわけではない。そんな具合になっている。そしてわざわざ「困難」に向き合う必要もないのだ。とすると、今の状況になにか不快である人はそれをどう言おうか、困ってしまう。「日本保健医療社会学会」という学会があって、その大会のシンポジウムで司会をするように言われ、質問させてもらえるならと言ってお受けして、行ってきたのだが、その私はそのように困った人だった。調べる前からわかっているようなことを調べてわかったなどと言わない方がよい。調査し研究するなら、もうすこし工夫が必要だ。このことは、このことまでは、確実に言える。その上で何を言ったらよいのかである。

死に淫する哲学

  さてようやく小泉の本だが、その本は、よく言われていることはつまらないではないか、むしろ有害ではないか、まず、このことをはっきり言っている。そのように思っている人たちはたくさんいるはずであり、またそのことをきちんと言って説明してくれるものもありそうなものだが、考えてみると意外にない。
  著者は「死に淫する哲学」が気にいらないから、それをあげつらっていく。ただ、敵ばかりでは困るし、味方も幾人か探してくることになる。敵にまわしているのは、薬を飲んで死んだソクラテス、そしてハイデッガー、そしてレヴィナスである。他にあげられるのは、それとはまた違う道筋で何かを言おうとした人たちということになる。そちらの方には今回はふれない。中ではパスカルが微妙なところで、この本では味方の側におかれるが、デカルト論では、偉大なデカルトを語るときに、パスカルはだめな人としてもってこられていた。これは著者の位置自体の微妙さでもあるから、後でとりあげるかもしれない。
  この人たちが言ったこと書いたことがどのようにとりあげられ、分析され、批判されているのかは、読んでみたらよい。ここで紹介はしない。ただ、例えば哲学のために、あるいは正しいことのために、人は死んだりするのだが、たしかに、ソクラテスはその原型のようなものを示しているように思える。対してプラトンは病人であって、それで彼はそういうソクラテス(の死)から逃げ出したのだという。そんな話ははじめて聞いたが、そうかもしれない。(そして、その章の終わりで、私が思うに、さきにあげた語り方と違うように死について書いたただ一人の、とは言わないにしても、数少ない人の一人として気になってはきたブランショの『謎の男トマ』からの引用がある。そこには、「プラトンを付けくわえたソクラテスというぼくの感情、死を避けられぬ病いに襲われたひとびとだけがもっている死ぬはずはないという確信」という言葉がある。これは気になる。著者も気にしているが、それ以外のことはこのたびの本には書かかれていない。またその後にも書かれていない、ように思う。)
  そしてハイデッガー。前回も一箇所、ハイデッガー(のように語る語り方をする人たち)に啖呵を切っているところを引用したのたが、もう一つ。「<死へ臨む日常的存在>は、頽落的存在として、死からのたえざる逃亡である。」(『存在と時間』第51節)といった箇所(p.66、もっと長く引用されている)を引いた後、次のように言う。
  「では、率直に尋ねておきたいが、どうしてそれでは駄目なのか。[…]死から逃亡したところで、どうせいつか死んでしまうのだから、死ぬときまで気晴らしと気休めだけで生きて、どこがいけないのか。」(p.67)
  いけなくない、と思う。そのような、きっと多くの人が思っていると思うことを書いてくれた本は、意外なことにあまりない。本の読まれ方には幾つかあるが、その一つは、決め台詞あるいは捨て台詞を一つあるいは幾つか見つけて、読んで、まめな人ならノートに書き留めたりして、そして誰に対してだかわからないが「ざまあみろ」とか独り言を言って、すこし気分がよくなることだ。それは十分な読書の効能である。
  そしてたぶん、ここに書かれていることは哲学(史)の記述として間違っていない。この本の著者と私は同じ大学院の研究科に勤めている。先日、そこの大学院生が集まってこの本の合評会があった。今回はとりあげないけれど、この本のまん中から後半にかけての議論、ジャン=リュック・ナンシー他の臓器移植についての論に言及しながらなされる贈与・犠牲についての議論に質問は集中した。しかしそれとは別に、二人ほどの院生からの質問として、どこまでここで提示されているテクストの読みが当たっているのかという質問、疑問が示された。「その筋」の人たちから、その人たちがこの本を読むとしてだが、理解が間違っている、解釈が違うといったことが言われるかもしれない。そう問われて、著者本人は本人として自らを弁護していた。私はそこであげられている人の書いたものをほとんど読んでいないから、証拠を求められても困る。しかし、たぶん間違っていないと思う。
  もちろん、まちがっていてもかまわないという居直り方はある。ある考え方を批判すること、あるいは賞賛することが肝心なのであって、それを誰が言ったのか、その人は本当にそう言ったのかは、基本的にはどうでもよい。こういう居直り方が一つにはある。『兵士デカルト』に書かれているデカルトは普通に思われているデカルトとまったく違う。ただ、その本に書かれているようなことを言った人がいたとしたら、それはすばらしいとは思う。それでよいではないかというのだ。そして、解釈の是非をめぐる議論につきあっている暇があったら別のことをしたらよいとも思う。例えば私は、そんな争いに巻き込まれるのがめんどうだから、何か言おうとするときに誰か具体的な人を連れてくることをあまり積極的にはしない。
  しかし哲学となると、やはりそうもいかないのではあるだろう。哲学は哲学史でもあり、哲学者のテクストの解釈の営みであると言われる。ただ第二に、当のものの読まれ方として、また人々における受け止め方、受容のされ方として、この本で取り出されている契機があってきたこと、あることは確かだと思う。私たちの多くはソクラテスが何を言ったかなに一つ知らないが、その人たちの中にもソクラテスが平静に自ら死に赴いたことは聞いたことがある人はいる。『存在と時間』という長い長い本を最後まで読んだ人がどれだけいるか知らないけれども、それより多くの数の人にとってあの人が偉い人だということになっているのは、「頽落」とか言って、こうして毎日生きている自分はなにか非本来的な存在ではないのかなあといった心性に訴えるものがあったからだと思う。
  そして第三に、さらに積極的に言うこともできるはずだ。その人たちの言説の中に、さきに乱暴にまとめてしまった言い方ではない言い方、別の契機があるというのなら、それはそれではっきりとわかるはずだということだ。死を前に明らかになる人の有限性、であるがゆえに超越性、個人を超えたものへという道筋の語り方と別の語り方があるのであれば、それは、テクストやそこに現われる単語の微妙な解釈の妥当性云々を別として、はっきりわかるはずだと思うのだ。言説を構成する大きな部品が違うことになるはずだ。そのような装置があるように思えない。ソクラテスの死はソクラテスの哲学にとってのたんなるエピソードだろうか。前者の方がよく知られているとさきに述べたのだが、その当人の言説(とされるもの)に内在しても、つながっていると思える。そのつながりの概略をこの本はだいたいにおいてうまく捉えていると思う。問題はその次、ということになる。死に淫しない哲学、さらに「病いの哲学」あるいは「病人の哲学」というのものがあるとして、それは何であるのか。
  ただ、その前にレヴィナスがはさまっている。『レヴィナス――何のために生きるのか』(2003年、日本放送出版協会)という著書もある著者の記述、記述の対象との距離は、かなり微妙で、それはそれとして論じた方がよいのだろうが、略す。ただ一つ、ブランショにしても誰にしても、あまり最初から偉い人にしてしまわない方がよいだろうとは思う。最近文庫版が出たレヴィナスの『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫)がしばらく学校の仕事場の机にあって、開けた頁を時々読むことがあったのだが、その本は、一人のおじさんが自分が思うことを書いている本なのだと思った。では、そんな個々の思い・感触から離れて「分析的」にやっていくのがよいということになるだろうか。分析的であることはよいことではある。このことについて私には確信がある。しかし、初発のところにはなにか「念」――小泉の本では「ハイデッガーが強烈な念を込めて言いたいのは」(p.91)というように使われる――があって、それで人はものを書くのだろう。それは必要条件ではないとしても、そこに何もないと、読む側としてもたいてい何かを言ってもらった気にはならない。「念」は大切である。ただそうして書かれたテクストに、どんなものであれ、あらかじめ権威を付与しないことだ。この本はそのような態度によって書かれている本でもある。


小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [kinokuniya][amazon] ※,


UP:20060528REV:0601(誤字訂正)
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006  ◇立岩 真也
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