15日に受けた検査の結果を19日に聞いた。現状では特に問題なし、なので、次回検査を3月末に受けることになった。
11月に、聞くことに関わる経験を振り返ってエッセイを書いた。6,000字に絞り込むという作業、やって良かった。
で、三つのことを考えた。
・書かれたことを読み見様見まねで振る舞いの見当をつければ何とかなる環境の中から踏み出した時に補聴器が必要になった
・補聴器ユーザーになる前、聞く態勢に入った時の僕は「右耳を前に出してにじりよっていく人だった」。にじりよられて「距離が近すぎる」と感じた人もいたのだろう。そうした人たちとは話せなかった、親しくなれなかった、ので、そうした人たちの感じた「嫌悪感」について知る機会がなかった
・10年前、星加君が語った小学校、中学校でのやり取り、「突っ込まれた」教員はすごくラッキーな状況に遭遇したと言える
cf.
星加: 小学校の頃は…小学校3・4年生ぐらいまでは、5段階で5はほとんどなかったですね。音楽ぐらいですね、5だったのは。あとは、まあ、3とか4とか。で、まあ、体育とか図画工作なんかは1とか2とか(笑)。もう、全部揃ってる、みたいな(笑)。そんな感じだったのですけど、小学校5年生ぐらいからですかね。授業が楽しいと感じるようになりまして。それは、勉強が楽しいと感じたというよりは、面白い先生がいたのですね。で、面白い先生がいると、授業中に先生が言ってることに突っこんで、クラスメイトを笑わせたり。あと、先生をちょっと困らせたり(笑)。なんかおもしろくなったのですね(笑)。
斉藤: やっぱ、こういう話を聞かないと。今日は(笑)。
星加: 今考えるとね、迷惑な子供でしたよね(笑)。学級崩壊になるんじゃないかとか(笑)。
でも、まあ、当時は、それで授業に関心を持ったのですね。突っこむためには一生懸命聞いてないと突っこめないですから。そのために一生懸命聞くようになったのですね。そうすると、その教科の成績が良くなっていって、その1つ・・・たぶん、その時は社会だったと思うのですけど、社会科の成績が良くなると、他の勉強に関しても、よく分かることとか、テストでちゃんと答えられることの面白さとか達成感とか満足感みたいなものを求めるようになってきて。まあ、あんまり面白くない先生の授業も、一生懸命聞くようになって(笑)。まあ、相乗効果はあった気がします(笑)。
そりゃもう、小学校高学年ぐらいから、中学校の頃とか、もうほんと、そういう状態で。今では信じられないのですが、席替えとかあるとですね、前の席に行きたいみたいな。別にそれは、視覚障害に関することじゃなくて(笑)、前に行かないと、どうしても先生とのリアルタイムなやりとりが持てないので。まあ、前にいたから、よく叩かれもしましたけどね(笑)。うるさいとか(笑)。
そういう状態で、小学校・中学校ぐらいに、勉強の面白さ、あるいは授業に入り込んでいくことの面白さみたいなものを体験したと。
(座談会「視覚障害者が高等教育機関で学ぶ スーダンと日本の経験を語る」2007年8月9日)
これから検査を受けに行く。3時間前までは食事可という検査なので、いつもよりかなり早い時間に朝食を済ませた。
今年8月以降の月々の飲食費・食料購入費を計算したところ、約6万円と出た。このところ、昼食も自炊もしくは弁当というのが増えているので、もうしばらくするともっと支出額が減るだろう。
月々の収入が限られており、支出額がそれよりもかなり大きいので、どこでどのくらい支出を減らせるのか、もっと注意していかなくてはならない・・・
補聴器ユーザーになって何が変わったのか? とエッセイを書き始めたら、「聞く」ことが求められるポジションに就くことが出発点、2003年春にコートジボワール人JICA研修生と英語・仏語の筆談も交えて話をしたことが次の大きな一歩、2007年8月にアブディン君から経験談を引き出すため星加君・青木君・福地君との座談会を開催したことがかなり大きなジャンプだったことに思いあたった。
「聞いてほしいと訴える(そのくせ、相手の話に相づちも打たなければ聞き返しもしない)人」だったのが、ともあれ「対話できる人」になったプロセスを振り返ったのかなと感じている。
限られた字数のエッセイには書き込めなかったが、花畑で子ども会をやろうと声をかけてまわったことも大きい。その時点では、補聴器を使わなくても一緒にやっていける、そのくらい近い仲間になっていったということだ。2000年以降の歩みは、いくらか距離のあるつながりの中での「対話」そして「座談会」「討議」に関わっていく歩みだった。
週1回、『NGO論』というタイトルの授業をやっている。自分の夢・願望があって、その実現に向けた手段の一つとしてNGOもありうるというのが大前提の話なので、履修者たちにはまずは自分の夢・願望を何らかの形で出してほしいと願っている。別に授業中に出す必要もないが、出す練習の一環として、毎月1回書いているエッセイを活用してくれればいいなと思う。
夢・願望というと「大きい」感じがする。もっと日常的な「好き・嫌い」「やりたい・やりたくない」「ひかれる・関心がわかない」を表明しなければならない場面で、どういう形で表明するのか、意識して考えておくことが必要かなと思う。「自分を出すと面倒そうだから周りに合わせておく」ということも選択的に行うことができればいいが、「合わせなければならない」になったらつらいと思う。
補聴器ユーザーなって感じたことを書き始めた。補聴器を使うようになる前のことを振り返っていると、フッと思い出されるシーンがある。
小学5年生の時、同じクラスになったSさんとどうやって仲良くなったのだったか思い出せないが、妹や弟を連れて遊びに行って、ダイヤモンドゲームをやったことを覚えている。
中学生の時、何度も行ったCさんの家では、Cさんの姉さん・兄さんとも会って話をした。2年上だった兄さんには小学生4年生の時に声をかけられて質問されたことがあった。その時、一緒だったMさんの兄さんとは、高校二年生の時、通学電車で時々一緒になったことも思い出した。
台風接近のため、二日目の開催が懸念されていた障害学会神戸学院大会、大会長から「開催します」とのアナウンスがあった。これから、会場へ向かう。
今月の宿題のひとつをすませた。興味深い報告を、アフリカNOWに載せることができる。
バンクーバー在住の友人から、カナダとアフリカの関係に関する寄稿の可能性を伝えるメッセージが届いた。こちらもおもしろそう。
今回の宿、Wifiがない。朝食付きなのに5,000円でおつりが返ってくる宿で助かったが、Wifiがないのは残念。すぐそばのコンビニで、必要なアクセスを確保できたのは幸いだった。
一昨日から昨日にかけて、少し苛立ちを感じながら、先週の授業時に学生たちが書いたエッセイをチェックした。
以下、少し毒を吐き出すためにFacebookのTLに書いた文章。
僕の授業の受講生が書いたエッセイ、タイトルにかっこをつけたものがたくさんある。来週の授業レジュメに、かっこをつけるってことは、これは自分のことばではありません、と明示してることだと書かなくてはならない。
このかっこ、「タイトルこれでいいですか?」という気分を表すものだのだろうか・・・
ということで、苛立ちながらエッセイのチェックをしている。
ちなみに、エッセイのチェック・ポイントは
1) 「だ・である」文体で書かれているか
→ 文末をほとんど全て「である」で書いている学生がいる
ウーム
→ 「お客様」を使わないようにとレジュメに記してきたが、「先生」も使わないように説明を書かなくてはならない
2) 句読点が適切に使われているか
3) 段落の区切りが分かるようになっているか
→ 段落区切りのないエッセイ、さすがにほとんどなかった
段落冒頭を「頭出し」したエッセイがあって、びっくりした
4) 「てにをは」の使い方が適切か
5) 主語と述語の対応が妥当か
→ 「先輩が」で始まって「言われた」で終わる文章があった(類似のもの多し)。
6) 記された事実関係等に明らかな誤りがないか
7) 伝聞で得た情報の記し方が適切か
→ 6)、7)については十分にチェックするのはたいへん
で、レジュメにはこう書いた。伝わるかなぁ・・・
書く内容に応じた具体的なタイトルをつけること
→ 提示された想定場面をそのままタイトルにしているようでは、一言アピールにならない
タイトルにあたる語句を「」や~~で括ったエッセイが多数あった。「」は引用を表す、すなわち「」内の語句は自分のことばではないと明示していることになる。こうしたタイトルを付けているようでは、本気で指示に応えようとはしてないと見なされる。
~~で括られた語句は、通常タイトルを説明する「サブタイトル」にあたる。肝心のタイトルを付けないまま、~~で括った「サブタイトル」を記述してはいけない。
右耳で新しい補聴器を使い始めた直後、前夜まで何ともなかった左耳用の補聴器から「ザーザー」と雑音が・・・
月曜日の朝一番に、補聴器屋に持って行ったところ、掃除しただけでは改善しないので、修理が必要ですとのこと。
10日ほど預けて、修理してもらった。昨年春、購入後2年間の保証期間が終わっていたので、修理代金、それなりの額になった。何が原因と聞いたところ、使っていると一番傷みやすい部品で、湿気で錆びることが多いとのことだった。
補聴器を常時使用すると、電池代もそこそこかかるし、時には今回のような修理が必要になるようだ。
9月10日に受け取ったのは、国民健康保険証だった。足立区障がい福祉課ではなく国保課からの配達証明郵便だった。
今日、足立区障がい福祉課から通知が届いたので、新しい補聴器を受け取りに行った。歩いて10分弱という店舗だ。3カ月に1度くらい掃除をした方が良いということなので、折々通うことになる。
改めて振り返ってみると、補聴器を使い始めたのは、(特活)アフリカ日本協議会の事務局長として事務局に常勤するようになったことがきっかけだった。
それまで接点のなかった人たちと会って話す場面が増えるだけでなく、議論を煮詰めたり相談にのったりする機会が増えることから補聴器を使用することにしたのだった。
夕方、部屋へ戻ったら足立区障がい福祉課からの配達証明郵便預かり通知が入っていた。補聴器の申請書に対する返答が送られてきたようだ。
これで、13年使った右耳用の補聴器を更新することができる。先日、1週間借り出した試聴器、今使っている補聴器よりもたしかに良かった。
補聴器を使うようになった経緯と使ってわかったこと・感じたことをまとめて、雑誌『支援』に寄稿することになった。
「聞くのはたいへん」だが「取りまとめる位置に就くことになって聞く努力をしなければならないと思って補聴器を使い始めた」ということが出発点になる。
申請していた障害者手帳ができたというので、受け取りに行った。次いで、墨田ボランティアセンターへ行き、先週金曜日に運転した車の鍵を返し使用報告書を提出した。
5年前の12月から一日一錠服用している薬がある。忘れないように、どこで何時に服薬したのか何錠残っているのかを記録している。昨日、記録と手元にある薬を引き合わせてみたら数が合わなかった。記録をたどったところ、2週間以上前に数を間違えて記録していたことが判った。記録を修正して引き合わせたところ、服薬を忘れた日がないことが確認できて安心した。
来年も授業を持つことになった。参考資料集めをボチボチ進めていきたい。
今週も曇り空が続く。猫に会いに行く時、小雨ですんだのは幸いだった。
瀬尾まいこ『図書館の神様』を手に取ったのをきっかけに、立て続けに3冊読んだ。
昨日、期末試験を受けたものの成績評価の前提となるエッセイを提出していなかった履修者からの速達が届き、成績付けが終わった。
10年目の春学期、レポート提出ではなく初めて期末試験を実施した。試験の採点は、引用がきちんとなされているのか、レポートの形式を満たしているのか、論旨は明確で一貫しているか、と提出されたレポートをチェックするよりもずっと楽だった。履修者全体の平均点も、前学期までよりもずっと高くなった。
去年の2月に出版された『アイルランド大飢饉 ジャガイモ・「ジェノサイド」・ジョンブル』を読んだ。既に更新が止まっているBBC「The Irish Famine By Jim Donnelly Last updated 2011-02-17」が依拠した2002年刊行の「The Great Irish Potato Famine by James Donnelly」以降の研究成果も反映されており、多角的なアプローチに刺激を受けた。
特に、「第九章 一九-二〇世紀アイルランド文学と大飢饉」の以下の記述、アイルランド大飢饉について考える際に限らず重要と考える。
大飢饉の苦難を直接伝える記録は残されていないが、その主な原因は、飢饉の被害者の大多数がアイルランド語話者であり、彼らが話し言葉の世界に生きていたことにある。教育水準の高かった者は、飢饉の脅威から遠いところにいたわけである。
MacBook Proを使い始めてから1週間が経った。メール・サーバー、FTPサーバーへのアクセス設定がそのまま引き継がれているので、以前と同じソフトを使って同じ感覚でメールを読み書きし、FTP作業を行っている。2010年にインストールした日本語変換「かわせみ」のユーザー辞書、7年間の蓄積がそのまま使えている。
図書館で使っていて、電池の残り具合をほとんど気にしなくても良くなったのが大きい。もちろん、一部のキートップが外れ下スクロールキーが時々機能しなくなっていたキーボードが普通に使えるのはありがたい。
いつも空いている近くの図書館のPC使用者用の席を活用できるのは、ほんとにありがたい。
今朝、昨日アップルストアで発注したMacBook Proが届いたので、5年半使ったAirからデータを移した。
で、昼食後、図書館へ持ってきて使っている。
Airだと1時間半ほど使うと電池表示が赤くなっていた。さすがに届いたばかりのProの電池は、75%残との表示。
タイピングだけだと、速くなったはずのCPU、容量がいずれも倍になったメモリー、ストレージの恩恵を感じるに至らない。
Air、電池とキーボードを交換するとまだまだ使える。どうしようかな?
4月下旬、北方水滸伝三部作の完結に追い立てられて再読を開始。先月半ば、全51冊を読了した。
その後、以前、某大学の研究室に並んでいるのを見てしっかりと眼に焼き付けた荒川弘『銀の匙』を1巻から13巻まで大人買いしてしまい、エンドレスループに突入。先週末、3度ループしてなんとか一区切りついた。
昨夜、ホテルの少し大きなお風呂に入った後、ビールを一缶飲んで横になったらスッと眠ってしまい、目が開いたら朝の5時だった。
で、ファイルを三つ、HPの資料コーナーにアップした。
今日は、生存学研究センターの運営委員会。前回、3月の運営委員会の開催時、ちょうど入院していた。
6時になると大きなお風呂に入れる。楽しみだ。
今朝、今にも降り出しそうな空の下で走った。起き抜けに25分ほど歩き、ちょっと一息入れた後で走り出した。歩いている時には気にならなかった左膝、左のふとももに少し違和感があったので、ゆっくり走った。
グルッとまわって部屋の前まで戻ったら30分を超えていた。さすがに汗ぐっしょりだった。
歩いて走って温まったところで、少しストレッチをした。右に曲げる時は割りに力が抜けているようなのに左に曲げるとカチンという感じで曲がらなくなってしまう。力を抜く練習をやっていくしかないのだろう。
高校時代の友達が亡くなった、と連絡があった。闘病していたらしい。
彼が大学に入学した後は、友達づたいに消息を聞いたことはあったが、直接会った覚えがないので、最後に会ってから42年以上の月日が経ったんだ、なんて思ってしまった。
一緒のクラスになったことはない。運動会・文化祭の実行委員会に関わる学年をまたいだグループで一緒だった。
高校卒業祝い、と称して、5人だか6人だかで熊本から八代まで夜通し歩いたことがある。彼ともう一人は、八代からさらに歩いて人吉まで行った。残った僕らは、友達の家で休ませてもらいご馳走になって帰宅した。
僕はそのまま大学に入学して東京へ行き、時々、熊本で浪人していた彼にも手紙を書いた。どのくらい書いたのか覚えていない。その頃、受け取った手紙は、とあることがあって全て無くなった。
大学が休みの時、何人かで集まった時、「龍一郎が手紙に書き写している中国語の例文を壁に貼っている」と言うのを聞いた覚えがある。
その時の仲間たちのうち何人かが、昨年、集まったと聞いた。
何が起きても不思議ではなく、また会えると楽天的に言えるわけではない年齢になったので、次の機会には顔を出さなくては、と思っている。
AJF会員ML・ajf-infoで、田中雅子さんが北部ガーナでの体験を紹介してくれた。
> ある日、私の家に、Sugar Daddyと関係をもったために妊娠し、進級試験には合格したのに退学になったという子が、突然、泣きながら訪ねてきたことがありました。
で、こんなことを書いた。
20年ほど前、日本語にしようと試みた Ngugi wa Thiong'o "Devil on the Cross" は、「第2段階になる前に、カレディは学校を辞めました。彼女は妊娠したのです。」と語られる女性を主人公にした小説です。
1977年から翌年にかけて、Ngugi wa Thiong'oが密かに閉じ込められた監獄の中で、看守が用意してくれたボールペンを使いトイレットペーパーに書き留めた小説と言われています。
彼は、ギクユ語でこの小説を書き、解放された後、自分で英訳して世に出したのです。
以下のページに、僕の翻訳へのリンクがあります。
グギとエメチェタのこと
http://www.asahi-net.or.jp/~ls9r-situ/hpj2.html
> 親も学校も最初は彼女を受け入れなかったようですが、その後、妊娠したら退学という地元の学校のルール自体が変わったと聞きました。
30年ほど前、出身高校の後輩の女生徒が大きなお腹で高校の卒業式に出席した、と聞いた時のことを思い出しました。
担任、クラスメートに支えられてのことだったと聞いて、ちょっとだけ行った高校のことを誇らしく思ったのでした。
僕の学年では、卒業アルバムに、駆け落ちして学校をやめたカップルが訪ねてきた時に撮った写真を載せているクラスがありました。
そんなことも思い出してしまいました。
田中さんが書いた『ネパールの人身売買サバイバーの当事者団体から学ぶ-家族、社会からの排除を越えて』も読むつもりだ。
週末、10数年ぶりに長野へ行き、信州大学教育学部で開かれたアフリカ学会に参加した。
長らく会う機会のなかった旧知の会員、ここ数年は年に一度学会会場で会っている会員、偶然にも昼食を一緒することになって初めて話した参加者、たくさんの人と会って、何人かとは普段考えていることを話すことができた。
昨年末、今年3月と入院・治療を受けたことを知っていて、「からだは大丈夫か?」と声をかけてくれる人が何人もいた。長年務めたAJF事務局長を交代したことにねぎらいの声をかけてくれた人もいた。うれしかった。
今回、行きは、東武伊勢崎線に伊勢崎まで乗り、両毛線を使って高崎、高崎から北陸新幹線というコース、帰りは長野・大宮を新幹線、大宮から東武線利用というコースをとった。
長野で、思い立って高速バスの席が空いているか確かめたが、すでに満席だった。バスだと片道2,600円(長電バス)。新幹線に乗らないと碓氷峠を越えることのできないので、JR・東武を乗り継ぐと少なくとも1,193円+4,860円=6,053円が必要となる。交通手段の選び方で、ずいぶん違うな、と改めて思った。
昨日午後、2回目の学習会を開催。5人でちょうどのテーブルを囲んでの学習会、データ出典に関する質問、読んだ"From Unifromity to Diversity"の作成グループの影響力に関する質問etcが出され、また、人口が急増している自然環境の厳しい地域でのshort value chain構築は可能なのか、どういった形になりえるのかという議論もあって、予定時刻をかなり超過しての終了となった。
次回は6月10日。4月に目を通した「食料支援を必要としている国々一覧3月現在」のフォローアップである5月版およびセットになっている食料供給・需要・利用・貿易の概況(Crop Prospects and Food Situation May 2017:現時点で未掲載)を読む。
昨夕、まだ明るいうちに部屋へ帰ったら、眠くてしかたがないので、手足と顔を洗って布団の中へ入った。
結局、そのまま寝てしまい、トイレに起き出したものの夕食も食べずに朝まで寝ていた。10時間半くらい布団の中にいた。
今朝は、早くに目が開いたので、雨の中を少し歩いた。
2月末に読み始めた ’Half of a Yellow Sun’ をようやく読了した。
1966年の第1次クーデター後にナイジェリア北部で頻発したイボ人虐殺を描いたシーンで読み進められなくなったのと、並行して読み始めてしまった北方謙三『水滸伝』に引きずられたせいで、ほんとにボチボチと読んだ。
これが30歳になっていない作家の作品かと驚く。16歳でまとまった作品を書き始めた著者にとって、ビアフラ戦争についてこの長さの作品を書かないと次へ行けない、ということだったのだろう。
土曜日の朝、猫を見に行き、その足で、荻窪へ。荻窪から走行距離23万キロという歴史遺物的なピックアップトラックに乗って、2時間あまり、埼玉の真ん中あたりの山村へ到着。
まず、七輪に火を熾し、お湯を沸かして昼食準備。その後、ようやくお昼にありついた。
急斜面に石垣を組んで張り出した敷地に建った家からの眺めはなかなかだが、石垣から起ち上がった塀の下を見ると、滑り落ちるというのではない角度だった。
明るいうちに近くの温泉へ行き、戻ってから、今度は調理用薪ストーブで火を熾した。火を移していたら、火花が一番怖いから火のついた薪を運ばないようにとの注意。なるほど、であった。
自室ではタオルケットと薄い布団をかけて寝ているが、この夜は、毛布にいつもよりも厚い布団にしっかり包まって寝た。
日曜日は、山を下りたところにある公民館で研究会。
「障害者が働くことのできる技術水準で農園を営んでいると、さまざまな人々を受け入れることができる」という発言に触発されて、小学5年生~中学生のころ、牛舎の掃除などをしながら両親と話をした時のことを思い出して発言した。
猫を見に行ったら、あまり餌を食べていなかった。トイレにうんちもほとんどなかった。まずいと思って、缶詰の餌を買ってきて開けたら、食べ始めてくれた。ホッとした。
明日、退院予定。一昨日の夕方、やってきた担当医チームのことばによれば「予定通り」。
退院の3週間後、3月最後の日に、今回の治療の効果確認の検査が待っている。治療がうまくいっていれば、また3カ月に1度の定期検査・診察というルーティンに戻る。
今回の入院は、昨年12月の入院より楽に感じた。ベッドから出て点滴スタンドを押している状態で病棟外へ出ても何とか動ける程度には暖かくなっていたのが良かった。
とはいえ、記録を見ると、前回は、火曜日に塞栓術を受けた後、週末土曜日の正午には点滴が外されていた。今回は、金曜日に施術、翌週水曜日の夜中に点滴だけ外され、針が入ったままだった。今朝、やっと針がぬけて、入浴もゆったりした気分になれた。
3カ月で、点滴に関する手順が変わった、ということなのだろうか?それとも、本人が認識する体調と採血・検温・血圧測定などで判断する回復状況とが違うのだろうか?気になる。
CHIMAMANDA NGOZI ADICHIE "Half of a Yellow Sun" の第10章から始まる第二次クーデター後のイボ人虐殺の描写を読み進められないでいる。
で、酒見賢一『泣き虫弱虫 諸葛孔明 第参部』を手に取ってしまった。
気分を整えながら、読み進めるしかない。
16時15分、点滴が始まった。昨年12月に入院した時の記録を見ると、月曜日の夕方に点滴開始、火曜日に塞栓術を受け、土曜日に点滴終了だった。
外は雨だが、病室は暖かい。点滴を受けていると、動ける範囲が限られてしまう。
一昨日、ホンダの軽トラが走っているのを見て、小学生のころ、父親に連れられて稲藁を買いに行った時のことを思い出した。その時、乗っていたのがホンダT360だった。
中学生のころ、タケノコの加工場へ皮を買いに行った時は、マツダのディーゼル・エンジンのトラックだった覚えがある。
小学生になる前、馬車を引く馬がいて、馬の背中に乗せてもらった覚えもある。
豚がいたころは、まだ小さくて世話をした覚えはない。その後、ニワトリを飼っていた頃、エサをやり卵を集めた覚えがある。エサ用に青菜を刻んでいて指先を切った時のこと、記憶に残っている。
窓の外の日ざしは暖かそうだが、ウェザーニュースによると、僕の住んでいるあたりの外気温は8度。
先ほど、足温器代わりに湯たんぽを足下に置いた。
天気予報によれば、明日は日中19度まで気温が上がるとのこと。
使い始めてまる5年のMac Air、電池が1時間くらいしかもたない。図書館で、1時間弱タイピングして部屋へ戻る、という日々が続く。
"ANOTHER JAPAN IS POSSIBLE"の抜き書き作成、もうしばらくかかる。
先日来、来期の授業用に、"ANOTHER JAPAN IS POSSIBLE"の抜き書きを作っている。1990年代から2005年までの日本社会の動きが英語で記されていると読んでくれるのではないか、と期待している。
「中学生の時、授業で見た映画がきっかけで国際協力活動に関心を持ち始めた」というインターンのことばがきっかけとなって、中学生の頃を振り返った。
大学に入って、中学のころから『高校への数学』『大学への数学』といった雑誌を通して、学校の枠に留まらない数学の世界に触れていた人たちがいたことを知って、何となく悔しい思いをしたことを思い出した。
中学に入った年に、親が家から歩いて15分くらいのところに牛舎を新築したので、毎夕、牛舎の掃除に通ったことを思い出した。朝も両親と一緒に起き出して牛舎の掃除に行っていた時期もあった。
牛舎で掃除をし、ミルカーを運び、牛乳の入ったバケツを運びながら、両親と話をしていた。だから、中学生の頃が一番、両親と話をしたと思う。
僕の年代で、農家の生まれだと、あたりまえのことだったと思うが、今、普段出会う人たちの中には、家業の手伝いをしていたという人、何人くらいいるのだろうか?
成績付け、シラバス書きを終わらせた。エッセイ、期末レポートに一言と思って書いていたら、なかなか進まなかった。
4月に始まる春学期、"ANOTHER JAPAN IS POSSIBLE"の’Introduction’を読むことにした。2009年に出た本で、1990年代から2000年代に入った頃の日本を概観している。米国の研究者が日本のNGO、社会運動をどのように見たのかを読みながら、学生たちに、保育園児あるいは小学生だったころ日本はどんな感じだったのかを知る手がかりにしてほしいと思っています。
3月にまた入院して塞栓術を受ける。暖かくなっているだろうから、病室に閉じこもらず、歩こうと思う。
パスカル(友達の犬:以前、僕と一緒に朝の散歩をしていた)になめられて目が開いた。
友達がパスカルを連れて散歩している間に、近くのコンビニへ行きコーヒーを一杯。戻ってきて入浴。
お風呂で暖まっていたら、12月に熊本へ行った時、父親に聞いたことを思い出した。
僕が4歳か5歳の頃、祖母が大火傷を負って入院したことがある。その入院先が太田病院ということだった。
祖母を見舞いに行った時、病院に預けられて、病院長の息子やスタッフに遊んでもらったというおぼろげな記憶がある。
父親によると、病院長の次男坊に連れられて、近くの田んぼへザリガニとりに行っていたとのこと。
病院近くの公園、あるいは学校で一緒に遊んでいたシーンが時々浮かんでいたが、ザリガニ取りをして泥だらけになっていたことは全く覚えていなかった。
といったこと、書き留めておこうと思っていたら、小学4年生の時、両耳の手術(鼓膜再生術)を受けるために入院した時のことを思い出した。
その年の春までながらく通った病院では、中学生にならないと手術できない、とのことで、夏に転院し、9月末から11月にかけて40日以上入院して両耳の手術を受けた。
術後2週間、手術を受けた耳を保護するために頭に包帯をまかれていた。
誰が持って来てくれたのか思い出せないが、岩波少年少女文庫のロバを主人公にした物語に出てくるサラダ菜がおいしそうだと思ったことを覚えている。
市電が通る大きな通りに面した病院だったので、窓から市電の停留所も見えたのではないかと思うのだが、その点、定かではない。
祖父が何度か泊まりに来てくれた、という覚えもある。
この病院に、高校生の時、別の高校へ行っていた小学校・中学校での同級生の女の子が入院した。
どうやってそのことを知ったのか全く覚えていないが、入院していると聞いて、見舞いに行った。
彼女が通っていた高校の同級生が何人かいたので、身の置き所がなくて早々に退出した。
そんなことも思い出してしまった。
話は変わる。
12月、授業で課しているエッセイのテーマの一つを「就職面接時に家族のこと居住地のことを聞かれた場面を想定して考えること」とした。
受け取ったエッセイには、
・受けた会社独自のエントリーシートに、家族の職業などを書く欄があったので、空欄にできなくて書いた
・父親はながらく不正規就労だったし、しばらく失業していたこともある。だがそのことを不名誉とも隠したいとも思わないので、聞かれたら話すと思う
といったことが書かれたものがあった。
で、以下のページを紹介しなければと思っている。
厚生労働省:公正な採用選考の基本
http://www2.mhlw.go.jp/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm
【一部抜粋】
(3)採用選考時に配慮すべき事項
次のaやbのような適性と能力に関係がない事項を応募用紙等に記載させたり面接で尋ねて把握することや、cを実施することは、就職差別につながるおそれがあります。
<a.本人に責任のない事項の把握>
・本籍・出生地に関すること (注:「戸籍謄(抄)本」や本籍が記載された「住民票(写し)」を提出させることはこれに該当します)
・家族に関すること(職業、続柄、健康、地位、学歴、収入、資産など)(注:家族の仕事の有無・職種・勤務先などや家族構成はこれに該当します)
・住宅状況に関すること(間取り、部屋数、住宅の種類、近郊の施設など)
・生活環境・家庭環境などに関すること
<b.本来自由であるべき事項(思想信条にかかわること)の把握>
・宗教に関すること
・支持政党に関すること
・人生観、生活信条に関すること
・尊敬する人物に関すること
・思想に関すること
・労働組合に関する情報(加入状況や活動歴など)、学生運動など社会運動に関すること
・購読新聞・雑誌・愛読書などに関すること
<c.採用選考の方法>
・身元調査などの実施 (注:「現住所の略図」は生活環境などを把握したり身元調査につながる可能性があります)
・合理的・客観的に必要性が認められない採用選考時の健康診断の実施
なぜ厚生労働省のHPにこうしたページがあるのかについては、労働法の授業で質問してもらいたい、と思っている。
窓の外を見ると、ちょっと前まで日が差していたが、また曇り空のようだ。
去年の夏、部屋を補修してもらったおかげで、畳がきれいになった。
その際、片付けて段ボールに詰め込んだ本を出し切れないまま、新年を迎えた。当分、このままにしておこうと思う。
明日で退院して一週間。体調が良くてありがたい。大晦日も昨日も2万歩ほど歩いた。
僕のお薦めリンクはこちらです。
僕がこれまで書いてきたことは
近況(2020年11月13日更新)
近況2019年
近況2018年
近況2017年
近況2016年
近況2015年
近況2014年
近況2013年
近況2012年
近況2011年
近況2010年
近況2009年
近況2008年
近況2007年
近況2006年
近況2005年
近況2004年
近況2003年
日々のすぎる中で 2002年
日々のすぎる中で 2001年
日々のすぎる中で 2000年
日々のすぎる中で
グギとエメチェタのこと
あれこれ
よろしく。
読書ノ-ト です。
昨年、亡くなったスティ-ブン・J・グ-ルドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きました。