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「斉藤 龍一郎の近況です 2014年」

斉藤 龍一郎(さいとう りょういちろう) 20141226.
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アフリカ日本協議会(AJF)
「斉藤 龍一郎の近況です 2014年」
(再録元ページURL:http://www.asahi-net.or.jp/~ls9r-situ/2014.html)
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*この頁は故斉藤龍一郎さんが遺されたホームページを再録させていただいているものです。

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last update: 20201231


■本文

2014年12月26日、金曜日午後4時33分。

今朝、起きたら0度だった。

お風呂に入って洗髪したものの、あるものだけで朝食を食べることができたので、いつもの始発電車に間に合った。

電車の中で立っているのは苦にならなくなったが、混んでいると思わぬことでぶつかったりすることがあるので、もうしばらくは人ごみを避けて動く。

ということで、これから職場を退出する。



2014年12月19日、金曜日午後1時53分。

朝、ゆうちょ銀行へ振り込みに行って、ゆうちょカードが出てこなくてあわてた。よくよく考えてみると、今年3月に財布をなくした時に、一緒に行方不明になったままだった。

ゆうちょ銀行は、通帳があればATMも使えるので、カードの紛失届をだしたままで放置しておいたが、今回のようなことがあると困るので、再発行申請をしなければならない。

手術を受けてからちょうど4週間。大きく開腹されたあとに少し違和感があってかゆみを感じる箇所もあるが、痛みはない。

今朝は、4時10分に目覚めたので、北斗七星を見ることができた。



2014年12月12日、金曜日午前8時26分。

退院して、昨日でまる一週間が経った。一昨年、昨年の退院後に比べ、歩く時間・距離が少ない。寒いからというのもあるが、あまり動かなくても眠れてしまうのというのある。

毎日、腹帯を換えて洗濯している。来週火曜日に退院後初めての診察が予定されている。

入院中そのままになっていた仕事、まずは、明後日のキッズクラブ・イベントの案内、来週の年末交流パーティ案内と準備作業を進めた。反応も返ってきて、仕事に復帰したことを実感する。



2014年12月4日、木曜日午前4時20分。

消灯時間に布団に入ってそのまま寝入ったので、何度か、トイレに起き出したものの、もうこれ以上寝付きそうにない。

今回の入院中、父親・妹以外に8人が病院まで訪ねてきてくれた。1人は35年くらいの付き合いになる学生時代の活動仲間。3人は金井闘争・「子ども会」つながり。4人は、AJF+αのつながりだ。

AJF会員ML、FacebookやDMで「肝ガンの手術を受けました、経過は順調です」と報告してきたので、多くの人から励ましのメッセージをもらった。中には「慢性肝炎の治療に本腰入れて取り組む予定です」というメッセージもあった。オンラインのつながりの大きさを改めて感じた。



2014年12月3日、水曜日午後7時53分。

病院ですごす最後の夜になった。

先ほどやってきた薬剤師によると、退院薬は普段服薬しているバラクルード(抗B型肝炎ウイルス薬)のみとのこと。一昨年10月の退院後の記録を見ると、入院前から毎食後に服薬していたウルゾを退院後も処方されている。去年8月の退院後も見ていると、退院から1か月後の9月の診察日に「バラクルードだけにしましょう」との指示があって、それ以降は一日一度バラクルードを服薬するだけになった。退院すると、薬に関しては、普段通りということになる。

今回、入院して、点滴の量が減ったように感じた。一昨年は首のつけねから中心静脈に長い管を入れる点滴を受けた。去年も最初は同じやり方の点滴だったが集中看護室(HC)から病室に戻った時に出た異常が点滴のやり方に起因しているようだということで両腕に針をさしての点滴になった。これは不便だった。2~3日のことだったからまだがまんできたが、あれがずっと続くとたいへんだった。今回は、最初、右腕にいれた針を通しての点滴を受けていたが、液漏れが起きたので、左手甲にさした針を通しての点滴に変わった。で、手術後4日目に点滴が終わるまで、これ1本だけだった。

また、「痰を出しやすくする」ために日に1回10分程度気化した薬剤をのどを通して吸い込む治療もなくなった。手術後に処方された薬も痛み止めと日に1回の胃薬とシンプルでまた量が減ったように感じた。

病室内は暖かかった。お腹に管が入っている間は浴衣で過ごしていたが、寒さを感じなかった。管が抜けて動けるようになると、半袖Tシャツでちょうどいいと感じる時間がけっこうあった。

入院中、雨の日もあり、そうでなくとも外へ出ると寒いので、動けるスペースが限られていた。管が抜けて階段を使えるようになってからは、日に2~3度、1FないしはB!Fまで階段を使って降りて上るようにした。朝早い時間に、1Fの待合室をぐるりと一回り歩いたりもした。歩いているとお腹の動きがよくなって、気持ちよくトイレに入ることができた。

一昨年から、年に1回、同じ病棟に入院しているので、3年間顔を合わせている看護師さんも何人かいて、病棟内で緊張することはなかった。病棟内の担当医(チーム)は年々変わっているが、3ヶ月に1度、診察室で会っている主治医も手術チームに入っていて、手術の翌日、ICUに手術で何をやったのかを説明に来てくれたし、ふらりとベッドまでやってきて様子を聞いてくれた。



2014年12月3日、水曜日午前4時47分。

YouTubeにつなげられないので、iPodに入れておいたアルバムを聞いている。

Madredeusのヴォーカル・Teresa Salgueiroのアルバム「Obrigado」を聞きていたら、MadredeusのCDを貸してくれたやつのことを思い出した。

1980年代半ばから後半にかけて、僕が住んだところの近くの都立高校に勤めていたやつとは、受け持った生徒の支援のことで相談があって折々会うようになった。学生時代、しばらく活動を共にしていた仲間だった。

そいつが受け持った生徒は、車いすユーザーで大学進学を希望していた。僕が金井康治君の転校実現運動に関わっていたことから連絡をくれたのだった。一緒に生徒の家を訪ねたこともある。

学生時代は二人とも金がなくほとんど着た切りスズメ状態だったが、高校教師になってそれなり収入が得るようになったそいつは、かねてからの願望に沿って、タンノイのスピーカーといくつもアンプを購入して音を楽しんでいると言っていた。で、部屋を訪ねて音を聞き、CDを借りるようになった。そうやってMadredeusと出会った。

そいつが受け持っていた車いすユーザーの生徒は、自宅からバスで1本で行けるキャンパスのある大学に進学し卒業した。就職活動への大学の関わりがどうだったのか知らない。大学卒業後、僕の住んでいる部屋の前を電動車いすで通るのをよく見かけた。間接的に、区の障害者福祉センターへ通っていると聞いた。そして、事故で亡くなったと、どこからか聞いた。



2014年12月2日、火曜日午前5時16分。

ちょっと前に目が開き、トイレに行った。その後、体重を測ったら、入院時より4kg近く減っていた。

昨夜は、看護師が「薬の時間」とやってくるまで起きていた。服薬して横になったら気持ちよく眠っていた。夜のトイレの回数も減った。


「あれから40年」を振り返ってしまうのは、やはり親の家を出て生まれ育ったところを離れたことがそれだけ大きいのだろう。あの時、たしかに、生活、人とのつながりの全部ががらっと変わった。

次に大きな区切り目は何だろうかと振り返ると、1981年の花畑への移転ということになる。この時も、それまでの生活から大きな変化があった。

花畑に住んでいた時、バイクを急発進させ、ちょうど通りがかった近所の人のバイクにぶつかったことがある。幸い、低速で走っていたバイクが倒れて、乗っていた人が擦り傷と打撲傷を負ったという事故にとどまった。僕が住んでいた部屋の目の前での事故だったので、元タクシーの運転手だったという事故の相手(被害者)の指示にしたがって、その人の職場の上司に来てもらって事故処理の話をした。

「警察を入れるとことが大きくなるから」と傷を負った事故の相手が言うので、その人の上司を立会人に、バイクの修理代、休業補償、見舞い金、治療費として20万円を支払う、という約束を交わして話を終えた記憶がある。たしか、その日のうちに約束のお金を用意して被害者の家を訪ねたように覚えている。その時も、その後、もう1度か2度、お見舞いに訪ねた時も、相手の人が「事故処理で面倒な思いをしたことがあってね」と話していたことが強く印象に残っている。

花畑での暮らしは、「子ども会」活動と一体だった。金井康治君の転校実現運動の中で感じた地域とのつながり作りの必要に関わり具体的な試みとして「子ども会」を始めたことがきっかけで、「金井康治君の普通学校への転校を実現する会」が事務所として使っていた部屋に移り住んだのだった。そして、僕より14歳年下の金井康治が一番年長という子どもたちと付き合うことになった。また、「子ども会」を一緒にやろうという仲間たちとの関わりが深くなった。

この時の仲間たちと、今も年1度、泊まりがけで出かける。仲間たちの子ども同士も、つながりを作ってきた。

「子ども会」活動自体は、成人した障害者・健常者の交流グループ作りとつなげていきたいと考え、都心部でお泊まり会をやって街歩きをするというような試みも重ねたが、何をめざして具体的には何をするのかを考える力が追いつかず3年弱で終了した。

1984年7月、「子ども会」活動の終了そしてしゅうねんの死のショックで呆然としてところに誘いがあって、解放書店に勤めることになった。



2014年12月1日、月曜日午後7時50分。

午前中ずっと雨が降っていた。午後、やんだので少し歩けた。

朝と夕方、担当医がやってきた。「変わりないですか?」と聞くだけで、お腹も見なかった。「じゃ木曜日です」と退院日を確認していった。

僕の入っている3人部屋の一番窓際のベッドの人が退院した。ベッド周りを掃除していたと思ったら、午後には新たな入院者があった。

去年、手術室から戻ってきて過ごした8人部屋は、並びでナースステーションに向かって二つ目の部屋。一昨年、退院を迎えた4人部屋は、やはり並びで奥に向かって二つ目。といったことを思い出した。

ナースステーション前の掲示板を見ていて、今年入った部屋は、去年までベッド料金が必要な部屋だったことに気が付いた。たしかに、一昨年、去年に比べ一人分のスペースがゆったりしている。

また入院することがあればと思って買っておいたスティーグ・ラーソン著『ミレニアム』3部作(早川文庫)は、おもしろかった。冷戦終結から15年、秘密裏にスパイを受け入れ「国家機密」で波紋を隠蔽してきたことの直接的な影響を受けた女性の復権の物語は、かつてたくさん書かれたスパイ小説を引き継ぐ試みとしてだけでなく、女性小説としても興味深い。

先月、思い立って9巻までそろえた羽海野チカ『3月のライオン』、入院中に発刊された第10巻を友達が持ってきてくれた。第11巻まで、また1年ぐらい待つことになりそうだ。



2014年12月1日、月曜日午前4時10分。

ちょっと前に起き出して、階段を使って1Fへ降り、一回りしたらお腹の動きが良くなったのでトイレに入った。すっきりして気分がいい。

昨日の夕食を食べた直後、ちょっとと思ってベッドに横になったとたんに眠っていた。消灯時間に回ってきた看護師に起こされ「寝る前に飲む痛み止めは?」と聞かれて薬を飲み、トイレに立って戻ってきたらまた眠っていた。

ということで、既に9時間近く眠った。


59歳になった。20代になったばかりの学生たちが書いたエッセイを読んでいることもあって、あれから40年というようなことを考える。

1974年3月20日、大学合格の連絡をもらい、それまで数日間強まるばかりだった不安がスーッと抜けたことを覚えている。前日、仲の良い友達から「合格したよ」と連絡をもらっていたので、余計に不安を感じていた。

翌21日(だったと思う)、高校へ進学が決まりましたとあいさつに行った。その足で街中へ出て、その前年、週末ごとに足を運んでいた本屋さんへ行ったところでNさんに出会い、「ちょっと話を聞きなさい」と近くの喫茶店で話を聞いたことが記憶に残っている。「本番だと思うと緊張が強まって、試験が始まった後のことがボーッとして思い出せないのよ」というような話だった。

友達が話題にしていたので、僕はNさんのことを知っていた。Nさんにとっては、僕は全校集会で新入生を代表してあいさつしたやつということだったのだろうか?

その年、4月12日に予定されていた大学の入学式は国鉄ストで中止になった。1969年に入試が中止されて以降、6年間入学式がなかった、と後で知った。

13日に始まったクラス・オリエテーションに、50人近いクラスメイトが集まった。2年前に入学し最初の学期の試験時期に体調を崩したことから次の学期を休学してタイへ行ったというというオリエンテーターの話を覚えている。

このクラスの仲間と下田で合宿した覚えがあるが、それがクラス・オリエテーションのプログラムだったのかどうか記憶にない。

語学と体育、理科実験で顔を合わせるクラスだった。当時、まだあったキャンパス内の寮にクラスメイトが住んでいた部屋がクラスルームみたいだった(思い出せる顔ぶれが限られているから、クラスメイトの一部の溜まり場というのが正確なのだろう)。この部屋で、コーヒーを碾くといい香りがすることを知った。いれたコーヒーを一口だけもらって飲むようになった。

入学手続きの時に陸上運動部へ入部したので、新学期が始まった時から、土曜日はグラウンドで過ごす日だった。中長距離パートのパート長は「この日のために貯金してたんだ」と言いながら、僕らにビールとウイスキーの水割り(サントリー・ホワイトだった)を飲ませてくれた。

一緒に走っていた仲間に教えられて雀卓を囲むようになった。大学近くの雀荘だと、1時間1人60円だった。

たどれば、高校2年生の時、陸上部で長距離を走っていたクラスメイトが「おまえ一緒に走ろう」と声をかけてくれたのが、大学で陸上運動部に入るきっかけだった。同じような背丈、体形のクラスメイトだった。



2014年11月30日、日曜日午前2時。

夕食後、横になったら1時間ほどしっかり寝入っていた。ベッドから起き出して携帯電話利用可能スペースへ行き、電話を2本かけたら消灯時間。ベッドにもどって、あおむけになって楽にしていたらそのまま眠っていた。

数えてみると、すでに6時間近く眠っている。



2014年11月29日、土曜日午前5時10分。

昨日の朝、点灯時間の前に看護師が採血に来た。

起き出して、朝ごはんを待ちながら病棟内をしばらくウロウロしてベッドへ帰ったら、看護師がやってきてもう一度採血していった。何だったのだろうかと気になる。

朝ごはんをすませ、そろそろ毎日の回診の時間かなと思っていたら、担当医だけでなく教授もやってきて、28日に抜かれなかった下腹部の管を抜いてくれた。ベッドにかけられた名札を見て、「2度目ですか?」と聞くので、「3度目です。お世話になっています」と答えた。

やっと、月曜日から押して歩いていたスタンドが不要になり、ズボンもはけるようになった。まずはお湯を用意してもらって身体を拭き、着替えて洗濯しながら頭を洗った。

ついで、階段を使って1Fのコンビニへ行って、アイスコーヒーを飲んだ。カップが大きすぎて全部は飲めなかった。

病棟の外にも出てみた。思ったより暖かかった(浴衣ではなくズボンだったのが大きい)。この春から使っている携帯電話についている万歩計が役立つ。



2014年11月27日、木曜日午後2時57分。

昨夕、お腹に入っていた2本の管の片方が抜かれた。今日、もう1本も抜いてくれるらしい。

一昨夜、『ミレニアム第2部』を読み始めたら、途中で止められず日付が変わる頃までベッドの上で横になって読んだ。

読み終わっても寝付かず、何度かトイレに起き出して、明け方に寝入っていた。

作品のドラマティックさに興奮したのは間違いないが、トイレの回数が増えたのも含め、そういう時期に来ていたのかなと思う。

昨日は、午後、ちょっと横になったら眠っていた。夕食を食べた後も、布団の中に入った途端に眠っていた。就寝前に服薬することになっている薬をそのままにしていたので、回ってきた看護師が起こして薬の袋を手渡し水まで用意してくれたのをぼんやり記憶している。

2度ほどトイレに起き出したが、良く寝た。

今日、朝食後の体温はちょっと高目だった。といっても特に気分が悪くはない。



2014年11月25日、火曜日午後2時5分。

昨日の朝から食事が出るようになった。昨日は3分粥だった。今日は5分粥だ。

手術後、昨日までは毎日レントゲン撮影があったが、今日はない。時間毎の検温、血圧検査、血糖値検査、胸やお腹の状態のチェックで経過を見守る状態に入っている。

去年は暑い季節に入院したので軽装でも1Fのストアや前庭まで出ることができたが、今日のように冷たい雨が降っていると、浴衣一枚では病室のあるフロアを離れるのも不安になる。

ベンチ、公衆電話が置いてある中央部の通路は長くいると足下がひんやりしてくる。病室(3人部屋)へもどってベッドの周辺で暖まってから次を考えることになる。



2014年11月25日、火曜日午前6時26分。

20日(木)夜、父親と妹が来てくれて一緒に担当医の説明を聞いた。3度目の手術なのでこれまでの手術痕が横隔膜や他臓器と癒着しているを引きはがすのに時間がかかる、3個ある腫瘍のうち一番奥のものは大きな静脈に近いので切除ではなくラジオ波による焼却を行うことになる可能性がある、といった説明を受けた。で、何枚もの説明書と同意書をベッドへ持ち帰りサインをして看護師に渡した。

消灯時間後、ベッドに横たわっていたら眠っていたが、開腹手術の準備として処方された下剤を服薬したので、21日(金)早朝、2階起き出してトイレへ行った。

手術日の朝も、いつものように検温、血圧測定を受けた痕、点滴が始まった。前夜の夕食以降何も食べておらず、ベッドに入って以降は水も飲んでいない。

ICUの看護師が着替えと水吸い、歯ブラシを受け取りにきた。補聴器は着用して手術室へ入ることとしケースを同行する看護師に預かってもらうことになった。

着替えて、圧迫ストッキングとT字帯をつけ、手術着を着たら、準備完了。

父親と妹が、伯母の家から1時間半ほどかけてやってきた。

指定された8時45分ごろ、手術室から看護師が迎えに来たので、徒歩で2階の手術室へ行った。一昨年・去年はストレッチャーに載せられて運ばれるという感じだった。

手術室のベッドにも自力で横になった後、あちこちをマジックテープでつなぎあわせた作りの手術着を引きはがされ、背中を消毒され麻酔の針が入ったのを感じた。それから仰向けになってマスクをあてられ麻酔を吸入し始めたところで記憶が途絶えた。

手術室からベッドに載せられてICUへ移動している途中で目が開いた。ICUで時計を見た時、午後7時30分を指していた。去年8月は午後6時30分だったと思った。

心電計の端子、血圧計、両足マッサージ装置を装着されてベッドの上に収まった。

しばらくしたら父親と妹がベッドまでやって来てくれた。

この夜は、2時間~3時間おきに検温、血圧測定を受けたのを半覚半睡状態で覚えている。

朝、執刀した主治医(普段診察を受けている医師)がやってきて、「たいへんだった。2個は切除し、1個は焼いた。1.5cmの腫瘍を含む3cmくらいの範囲を焼いたから大丈夫だろう」と言っていた。

手術直後の一夜を無事に過ごすことができたので、22日(土)午後に4Fの病棟ナースステーション隣のHC室へ移った。移る前に体を拭いてくれた。気持ちよかった。HC室はICUと比べると格段に静かだ。

ICUでは点滴に投入された薬が効いていたせいなのか36.3度くらいだった体温が、HC室に移ったら37度ぐらいにあがった。アイスノンを枕にあてがってもらうと気持ちがよかった。

父親と妹が、「明日は昼の飛行機に乗るから、もう来ない」とやってきた。来年2月、父親と母親のダイヤモンド婚を祝うために熊本へ行くことを決めた。

二人が帰った後、病室から持って来てもらった柴田よしき著『シーセッド ヒーセッド』を読んだ。途中、体重計まで歩いてみますかと看護師に勧められて、体重を測りに行った。立ちあがると、ちょっとくらくらした。

微熱が続いた。血圧は普段と変わらない。点滴中に繰り返される血糖値検査の数値が高く、この日もインシュリン注射を受けた。

消灯時間を待たずに、横になっている間に寝てしまっていた。

23日(日)、担当医がやってきて、鼻に入っていた管を取り、開腹部にあてがったガーゼを換えていった。

前日までと違い、地下1Fのレントゲン室で撮影を受けるため車椅子に乗り看護師に押してもらってエレベーターに乗った。レントゲン室で立ちあがったりベッドにのったりするのがたいへんだった。

レントゲン撮影が終わったらそのまま病室のベッドへ移った。足のマッサージがなくなり、歩くのであれば圧迫ストッキングを脱いでもいいという。ストッキングを脱いで、ベッドから降り、点滴スタンドにつかまって歩いた。もう立ちくらみもしなかった。

体を拭いてもらい、着替えた後、洗濯をした。浴衣や腹帯があるので乾燥機は80分使った。



2014年11月20日、木曜日午後2時6分。

午前中に担当麻酔医、つい先ほど手術室の看護師が、ベッドまでやってきて手順を説明し、既往歴やアレルギーなどについて聞いていった。

朝、回診に来た担当医が、「明日、手術なのでシャワーを浴びて」と言っていたこともあり、右手の点滴の針にカバーしてもらってシャワーを浴びた。頭を洗ったので気持ちが良い。

病院内は暖かく、ベッド周りにいるのであれば半袖の方がいいくらいだ。なので、用意してきた着替え、厚手の長袖のものは病棟内では着る機会がないようだ。



2014年11月19日、水曜日午後4時44分。

一昨年10月、昨年8月に入院した時は、病院の目の前の薬局に設置された公衆wifiでインターネットへアクセスできた。

先日、20年近く契約しているプロバイダーを通して契約していたこの公衆wifiの契約内容が変わり、一昨年・去年と使えていた目の前の薬局設置の中継機では使えなくなった。

近くにローソンがあれば、Lawson-free-wifiを利用することができるが、バス通りと川越街道を少し歩いた範囲では見あたらない。

歩いていたら契約している公衆wifiが使えるポイントが3ヶ所分かったが、一昨年・去年のようにちょっとそこでという訳にはいかない。


今朝、肝機能検査と24時間畜尿が終わり、手術前の検査は全て終わった。とはいえ、右腕に点滴の針を入れてあるので、あれこれ行動に制限がある。

入浴できないので、お湯を用意してもらって体を拭き、それまで身につけていた靴下や下着を洗濯した。乾燥機にもかけて、ベッドの前にあるタンスにしまった。

昼食後、横になっていたらけっこうぐっすり眠っていた。服薬予定時刻の15時に看護師がやってきたので、起き出して1日1回1錠という薬をのんだ。



2014年11月19日、水曜日午前6時48分。

昨日、入院した。

3度目の入院手続きは、待ち時間もたいしてなくスムーズに終わった。今回は、最初から大部屋(3人部屋)なので、入院中に部屋を移る必要はない(cf.一昨年去年)。

病棟で、久しぶりに身長と体重を測った。背丈が縮んでる。

ベッドは、3人部屋の真ん中。去年入院した時に1週間余りを過ごした8人部屋の窓際のベッドに比べると、ベッド周りが広く、またタンスが一つ余計についているのがありがたい。担当の看護師がやってきて、早速、採血、検温、血圧測定。

午前中に、レントゲン撮影、CTスキャンが終わって、無事、昼食をとることができた(お腹のCTスキャンが予定されていたので、朝食抜きで病院へやってきた)。

昼食後、2階の検査室で、肺機能検査、心電図、心エコーを受けた。9月末に胃カメラ検査を受けているので、今回は不要とのこと。よかった。

午後3時までに予定された検査を終えた。ベッドに横になって、持って来た『3月のライオン』第1巻、『俺俺』を読む。

18時20分ごろ、今回の担当医がやってきた。木曜日の夜8時に家族を交えて手術の説明をするとのこと。

18時30分に夕食の配膳。みそ汁もごはんも温かい。

夕食後、エッセイの赤入れ、アフリカ関連情報データベースの作業。

横になっていたら、消灯前に眠っていた。23時15分ごろ起き出してトイレに行き、まだ水を飲める時間であることを確認して、1階の自動販売機で水を買ってきた。


今朝、起き出して、顔を洗い、昨日のことを書いていたら、担当医が検査にやってきた。検査薬を注入したあと5分おきに3回採血。7時20分に終わった。



2014年11月2日、日曜日午後4時12分。

晴れたので、予定通りなかま保育園秋祭りが実施された。

以前は、「なかまバザー」と銘打って日用品・古着の販売が中心のイベントだったが、この数年ですっかり様変わりし、保育園の秋祭りの雰囲気が強まった。

物販目当てのお客さんも少なくはないものの、子どもたちの晴れ姿を見に来る家族・関係者が増えて、子どもたちの登場時にはビデオカメラが並ぶ。

今日、ずいぶん久しぶりに食器が中心の日用品Aの売り場に入った。

贈答品のお皿5枚セット、急須・湯呑みセット、紅茶用カップセットなどが何セットもあったが、5枚・5組が基本のセットは多すぎるらしくて、あまり動かなかった。

お客さんもあまり多くなく、午前10時の物販開始前から来て品定めをやっている人たちが、寝具・タオルを販売する日用品B売り場、衣類売り場を順繰りに回って、隠れていた品物が出てくるのをチェックしているという感じだった。

最後まで売れ残っていた、セラミック鍋、醤油入れ、小ぶりのモーニング・カップを買って帰ってきた。


昨日、雨の中、東京農大の収穫祭へ行き、20数年ぶりに友達と会った。20数年前は使っていなかった電動車いすに乗っていた。

去年は、一緒にアフリカ子ども学をやっている教員の研究室でOBから届けられた新酒を飲み、彼が顧問をしている世界農業遺産研究会の展示を見ただけだったので、昨日は少し会場を見て歩き、温かいみそ煮込みうどんを食べ、黒甘酒を飲みながら芋餡の酒種まんじゅうを食べた。おいしかった。

で、友達の介助者が何人もいるサークルのおやきを買って、大学から歩いて15分くらいの友達の家へ行った。

昨日は、もう卒業したんです、という2人が介助に入っていた。大学卒業が区切りでアルバイトとして入っていた介助をやめる人が多いものの、中にはこうやって卒業後も仕事休みの日に介助に入っている人もいるそうだ。

介助者のほとんどが、農大のサークルつながり、口コミで入っているとのこと。30数年前、自立生活をしようと東京へ来た障害者達が大学の近くに住んだことを思い出した。



2014年10月18日、土曜日午前9時20分。

今朝6時半の気温は12度だった。先週末は、まだ16度くらいにはなっていた。気温の下がり方が急激だ。

で、ピーマンと干物を目当てに行った買い物先で、部屋で飲むためのコーヒーを買った。また、サバの切り身が20%引きで販売されていたので、干物ではなくその切り身を買ってきた。

ピーマンは、刻んで玉ねぎ、人参、林檎と合わせて軽く塩コショウしてサラダで食べた。サバは刻んだ生姜と一緒にみりんと醤油で煮立て、今朝、一切れ食べた。あと三切れ、もう2~3食分のおかずが残っている。


雨で来場者もほとんどいなかったグローバルフェスタ2日目、テントの中で、以前、ケニア大使館で年末交流会を開いた際にケニア・クイズを作ってくれたことのある協力者に、「何がきっかけで食料安全保障に関心を持ったの?」と聞いてみた。「インドの農村で食料配給所と食料手帳を見たことがきっかけ」とのことだったので、「米穀手帳、食糧管理制度を知ってる?」と話をした。

そうやって話してみて、食料安全保障という概念、天災や戦災などによる食料危機時の食料対策を出発点に食料危機をも想定の内に盛り込んで構想された総力戦態勢構築の中で具体的な仕組みになっていたのだなと思った。



2014年10月17日、金曜日午後7時2分。

昨日は、今学期2回目の福島ゼミの日だった。先週より参加者が2名増えた。

今学期は、福島智・中邑賢龍編著『バリアフリー・コンフリクト争われる身体と共生のゆくえ』を読む。

昨日、僕は最初のレポーターとして、第1章を読んでレジュメをまとめて提起した。

以前、読んだ時に感じた違和感を文章化してみたら、さまざまな困難を抱える障害者を受け入れようとしない、受け入れる力量のない大学・研究機関には未来がない、という結論に至った。

学びたいという思いに応えるのが高等教育機関の役目であり、また、学びたいという思いがバネとなって新しい課題を表出させ研究を進展させる、という当たり前のことに改めて思いが至った。

現時点でどれだけの「学力」があるのか、学ぶにあたっての課題は何かを探るための「学力テスト」は教育機関の機能の一部だが、入学「選抜」試験は、かつての官吏として採用することを前提とした帝国大学創成の経緯を引きずった、教育機関の機能とは無関係なものにほかならない。「選抜」されて入学したら給与を受ける気象大学校、防衛大学、防衛医科大学等、教育機関というよりも訓練機関というべき機関(実際、これらは文科省の管轄ではない)を運営する論理から導き出されるものにすぎない。

学ぶための条件整備が困難であればこそ、障害者学生を受け入れるという取り組みの中で、教育とは何か、教育機関とは何かがより根源的に問われることになることを、明確にできてよかった。



2014年10月15日、水曜日午後7時44分。

グローバルフェスタ2日目の10月5日に台風18号がやってきて、グローバルフェスタは2日目正午で終了となり、6日に予定していた報告会も延期することになってしまった。11日に反アパルトヘイト運動研究会、13日にエボラに関する緊急報告会およびSTAND UP TAKE ACTIONメインイベントとパレードと予定が入っていた3連休に台風19号が近づき、パレード開始時刻が近づくにつれて雨足が強まったので中止となった。

僕にとっては、パレード中止は幸いだった。夕方少し小降りになった頃合いに買い物をして部屋へ帰り、早い時間に寄せ鍋をつつき始めたら眠くなって午後8時には布団に入ってしまった。


今期の授業が始まって4週間。今日はエッセイを書く日と連絡を入れておいたので、60人近い出席者があった。

タイトルなしが一つ、提示したテーマをそのままタイトルとしたものがいくつか、公開可が13。その場で提示した4つのテーマの中から選んで、その場で書くというエッセイなので、普段考えていること、切実に感じていることが垣間見えるエッセイがいくつもある。

来週は、仁藤さんに話してもらえる。楽しみだ。



2014年10月1日、水曜日午後2時9分。

昨日、先週受けた胃カメラ検査、MRI撮影の結果を聞き、今後の見通しに関する説明を受けた。

今回、判明した切除対象の結節の数が、手術適応の範囲内なので、手術ができるだろうという説明を聞いて、この3年余り定期的に検査を受けてたくさんある治癒した肝炎痕が肥大化したことが判明するごとに切除手術を受けて良かった、と改めて思った。

自覚症状が出るまで精密検査を受けていなかったとしたら、外科手術は無理、薬物あるいは放射線治療を受けるしか選択肢がなくということになっていたようだ。

一昨年、昨年と手術を受けたのでお腹に大きな切開痕があるが、血液検査の結果には問題なく、また、手術の後遺症というようなものもない。ラッキーだったのだろう。



2014年10月1日、水曜日午前7時4分。

6年前(2008年)の10月1日、今、教えている大学での最初の授業をやった。教員ラウンジで待ち合わせた講師採用担当だった教員が、「ここまででいいでしょ」と教室の入り口で引き返したことを思い出した。

その時は、60人定員ぐらいの教室で、20人ぐらい学生が出席していたと記憶している。

その年は秋学期の授業だった。翌年は春学期の同じ時間帯の授業を持った(同じタイトルで春学期がA、秋学期がBという授業)。3年目からは春学期も秋学期も同じ時間帯の授業を持っている。学期ごとに単位取得という授業なので、学生はけっこう入れ替わる(秋学期を履修した後、翌年の春学期も履修する学生もそこそこいる)。

最初の2年はレジュメと資料を基に、僕が話すというスタイルで授業をやった。3年目からは、資料・教科書を読む、一学期に2回エッセイを書く(今年から3回にした)というスタイルに変更した。

40年ほど前、大学生だったころ、担当教員の顔もほとんど見たことのないのに期末レポートだけ提出して単位を取得した覚えがあったので、それでいいのかと思っていた。初年度が40弱、2年目は80以上、期末レポートを読んで、文章を書き慣れていないんだなと感じた。で、授業中にエッセイを書かせ、提出されたエッセイの記述法(てにおは、主語・述語の不一致、文体の不統一etc)に赤を入れて返すようにした。

かつて教室で配るために書いたビラに対して仲間がくれた「一文が長すぎる、一つの主語に一つの述語にしろ」「わかりやすい表現を」といったコメントを、今、提出されたエッセイにつけて返している。



2014年9月28日、日曜日午後3時22分。

当番なので事務局へ来たついでにバックアップをとろうとしたら、バックアップ・ディスクにエラーが・・・

幸い、別の外付けディスクがあったので、こちらにバックアップ中。最初のバックアップなので、なかなか終わらない。


友達の娘が書いたAO出願書の下書きを読んだところに、深尾さんが書いている学校体験を読んで、はて自分はいつごろから大学に行くと決めたのだっけ?と思い返した。

高校へ進学する時には、大学に行くつもりだったことは覚えている。中学3年の時、牛舎の掃除をしながら、近くの進学校へ行って大学へも進学するいう話を両親とした。

その前に、小学校の高学年の頃、両親がやっていた酪農を継ぐのは弟と決め込んだ覚えがある。小学校低学年の頃、激しい運動をしないようにと言われていたこともあって体育に5段階評価の2がついてきたこともあり、体力仕事は避けよう、と考えたのだった。

高校一年の夏、三多摩に住む伯母が予備校の夏季講習に呼んでくれた後、進学する大学は地元の熊大か東京で国立大学か、という選択肢を意識するようになった。そして、高校二年生の秋に、クラスメイトに薦められて受け始めた通信添削をやっているうちに、これなら行けるじゃんと思ったあたりで、進学する大学を決めていたという気がする。

高校三年生の夏、伯母が教え子に並んでもらって申し込みをしたといって予備校の夏季講習に再度呼んでくれた時には、進学先は確定していた。

そういえば、「夏休みだからしっかり受験勉強するように」と予備校の夏季講習に申し込んでくれた伯母には、僕がどのくらい勉強してるのか、合格確率はどうなのか、と時々聞かれたが、両親からは「大丈夫なのか?」という感じで聞かれたことしかない。

僕が幼い頃、交通事故で死んでしまったいとこ以外に近い親族にも大学進学者がいないという環境だったから、両親も大学受験・進学に関しては具体的なイメージがなかったのだろう。で、一度、近くの大学の教員に就任することが決まった知人の係累の人を家へ招いて、大学の話を聞いた。思えば、話せと言われた方も何を話したものかと困っただろう・・・

一校だけ「実際に受験をしてみたい」と受けた大学に合格した時、「入学金を払って」と父親に頼んだら「だめだ」と言われたことは忘れられない。


大学受験の頃よりも、また、大学で障害者運動、反差別運動に関わり始めた頃よりも、40代半ばでAJFに関わるようになってからの方が学ぶ努力をしていると思う。そうしないとやっていけない。

と改めて思った。



2014年9月28日、日曜日午前6時26分。

AJF会員の深尾幸市さんが、私家版『知の散歩道』を送ってくれた。

今年75歳になる深尾さんが

 少年時代から活字が好きで、後年折りに触れて新聞・雑誌などに投稿し、つたない文章ながら採用されたものも幾つかある。近年まとめておきたいとの気持ちが強くなってきたので、手元に残っている掲載記事を中心に小冊子を編もうとの思いに至った。

として、作った小冊子ではなく、四六判390pという立派な本だ。

10年ほど前にAJFに入会した深尾さんとは、アフリカ学会などで何度か会ってはいるものの、あまり詳しく経歴や考えを聞いたことがなかったので、興味深く読んだ。

特に、1980年から3年間、当時在籍していたユニチカから派遣されてナイジェリア・カドナで4,000人を雇用する合弁企業で勤務していた頃の記録(約50p)、非常に興味深い。

給料日なのに銀行が現金を用意できないという事態の中で「給料を払え」と門前に押しかけた従業員に対応しながら、一方で大手取引先に集金するなどして何とか現金をかき集めて事態を収拾したことを伝える手紙にびっくりした。

深尾さんのナイジェリア在勤中に起きた、ガーナ、トーゴ、ベナン、チャドからやってきてナイジェリアで働いていた人々200万人が政府の政策のよって国外退去となる事件に関する考察も生々しい。この事件がきっかけで、日本に働く場を求めるガーナ人も出たと聞いたことがあったことを思い出した。

また、当時、ユニチカが関わる工場が、アルジェリアに1ヶ所、ナイジェリアに2カ所、コートジボワールには3カ所あり、ユニチカの労働組合の担当者も西アフリカに出向いて視察をしていたことにも興味をひかれる。

最後に収められた、大阪大学大学院の院生として深尾さんが書いた「キンシャサにおけるストリートチルドレンの現状とNGOの取り組み」には、2007年6月にキンシャサを訪問して行った調査が反映されており、たいへん貴重な仕事だ。深尾さんに続いて調査・研究をする人が出てきてほしいテーマでもある。

岐阜出身の深尾さんのお父さんに関する記述も気になる。厳しい教師として有名な父親が在勤する岐阜中学には進学せず、岐阜市立商業学校で学び、後に滋賀高商に進学。もっと上をと、神戸高商を30歳で卒業した後、就職した大日本紡績(ユニチカの前身)で幹部社員として職階を積み上げ、オーツタイヤで取締役常務としてサラリーマン生活を終えた後、岐阜へ帰ったという人生に時代を感じる。

その父親は、子どもに家庭教師をつけ、大学生となった息子に新車のパブリカを買い与え、阪急全線パスモもたせた。40年ほど前に読んだ野間宏著『青年の輪』に描かれた電力会社重役の息子の生活を思い浮かんでしまった。僕の中高時代とも、また学生のころ僕が家庭教師として通った家々ともずいぶん違うなとも感じた。



2014年9月26日、金曜日午前10時5分。

朝一番に、振り込みを2件済ませて事務局へ戻ってきた。

昨日、ポスティングのために手にチラシを持ち、先々でお辞儀をしながら、それなりの距離を歩いたせいで、足腰が重い。階段を上るルートにするともたないと思い、下るルートにしたのだが、そのくらいでは対応できなかった。


リハビリの夜』を読んだ勢いで、熊谷さんの対談集『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』に収録された上野千鶴子さん、信田さよ子さんとの対談を読んだ。

熊谷さん、上野さん対談「快楽はどこから来るのか?」の以下の部分(86p)が、特に印象に残った。

熊谷 私は性的欲望の対象になりたいほうなので、ちょっと特殊かもしれない。
上野 話がいいところに来ましたね。特殊ではないと思いますよ。私は今日は欲望と快楽の話をしたいと思っていました。今のあなたの話だと、男性障害者のあがりは「健常男性並みに性的欲望の主体になりた」ということだと。女性から愛されたり、向こうから寄ってこられたら最高かもしれないけれど、それができなければ最悪の場合にはお金を出して言うことを聞いてくれる女性を買ってもかまわないとさえ思う。いずれの形であれ、性的欲望の主体になりたいと思う。それと女性障害者にとって性的欲望の客体になりたいというのはまったく非対称だと思いますが、そもそも欲望の主体になるということは一体どういうことなのだろうか。
 ジェンダー非対称性のもとでは、男は欲望の主体という役割を引き受け、そのことが男性性の担保になっている。一方で女性は欲望の客体という役割を引き受け、それが女性性の担保になっている。これは非対称だと思ったリブの女たちは、今から40年も前に、女も欲望の主体になるべきだと考えて、標語を掲げました。「抱かれる女から、抱く女へ」と。それでいろいろ実践してみたのですが、やってみた後で述懐したことには、「以前のほうが快楽は深かったわ」と。どう思われます?
熊谷 自分に引きつけて考えると、そうだろうなという気はします。

熊谷さんの「自分に引きつけて」というところに、すごいな、と感じてしまった。『リハビリの夜』に出てくる「敗北の官能」ということばに、改めて納得した。



2014年9月25日、木曜日午前7時26分。

月曜日の胃カメラ検査、担当したスタッフによれば「ちょっと胃炎がありますが、問題なさそうです」とのこと。明日、同じ病院でMRI撮影をすることになっている。

昨日、朝、自転車で出勤する途中、雨傘を持って歩いている人がけっこういるな、と思っていたら、夕方から雨になった。で、月曜日の朝見た天気予報で、週の真ん中に雨のマークがあったことを思い出した。

雨足が弱い、と思って、自転車で帰り道についたら、幸い、上に着たシャツが少し湿っぽいという程度で帰り着けた。


昨日は、今学期最初の授業日。前学期の履修者が三桁だったので、レジュメを90部印刷して持って行った。

今学期も同じ大教室に、教室定員の一割にも満たない出席者。授業後に確認したところ、昨日時点での履修届提出者は60人余り。履修届の提出期限は10月2日なので、来週の木曜日にならないと履修者数が確定しない。

「NGO論」がタイトルに入る授業なので、まず、NGOという外来語がいつごろか使われるようになったのか、この外来語が入る以前には「NGO活動」はなかったのかという話をした。

来週、話して整理がついたことも書き足したレジュメを配布する。

提出された出席票を見ると、「NGO、NPO、政府の仕事のちがいを知りたい」という質問もあった。



2014年9月22日、月曜日午前8時2分。

午前10時に胃カメラを受けることになっている。なので、昨夜19時に夕食を食べて以降、何も食べていない。今朝7時から水も飲むな、とのこと。

昨日は、朝食を食べた後、ちょっとのつもりで横になったら3時間寝ていた。夜も、21時以降食べてはいけない、というのもあって、21時に布団にはいったらそのまま寝ていた。で、今朝は3時に目が開いた。

お風呂に入って、始発に乗ったら満席だった。始発が出る駅まで行けばよかった。

今週から始まる授業で、綾屋紗月・熊谷晋一郎共著『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』を読む。部屋のどこかにあるはずだが、まだ見つけ出し切れていない。目に入った熊谷晋一郎著『リハビリの夜』、久々に読み返すとおもしろい。



2014年9月20日、土曜日午後1時20分。

昨日は、自転車では間に合わないので、電車に乗って出勤した。

駅まで走ったので、職場の最寄り駅を出て銀行で記帳する時間が作れた。


会員に送っている「会費納入のお願い」に代表理事が替わりましたと伝え、これまでの12年を振り返るメモを付けたところ、「下記、AJFの進化が良く分かります。」とコメントが返ってきたので、FacebookのAJFのページに転記した。このページにも転記する。


今年、AJF代表理事が林達雄から津山直子に替りました。
林が代表理事を務めた12年間を振り返ってみると、

・アフリカのエイズ問題に対する新しいアプローチを提示した
HIV陽性者運動との連携、世界中どこでであれエイズ治療を可能にする仕組みづくり(治療薬の特許権問題、世界的な資金の流れ、エイズ治療ができる医療体制etc)

・在日アフリカ人コミュティとの連携を探る
厚生労働科学研究エイズ研究班に参加して在日アフリカ人対象のエイズ啓発・個別支援を実施、アフリカンキッズクラブ

・政策的な課題としての食料安全保障への注目を提起
食料安全保障研究会公開セミナー、冊子『アフリカの食料安全保障を考える』の作成・配布、他のNGOおよび明治学院大学国際平和研究所と共催公開セミナー開催と『飢餓を考えるヒント』作成・配布、「世界食料デー」月間キャンペーンおよびゼロ・ハンガー・ネットワーク・ジャパンへの参加

・「アフリカ障害者の10年」につながる情報提供、問題提起
JICA「アフリカ障害者メインストリーミング研修」への協力、DPI日本会議・生存学と協力して「アフリカ障害者の10年」学習会を開催

・アフリカ子ども学
公開インタビューとアフリカNOW「アフリカ子ども学」特集でアフリカ子ども学の必要性を呼びかけ、アフリカ子ども学関連の取り組みに参加

・アフリカ熱帯林の保全と開発問題
教材作成、セミナー、トーク・イベント開催

と、新しい課題を提起し、新しい視点からのアプローチを提示する活動を広げてきたことを実感します。
こういった先駆的な取り組みへの評価も広がり、外務省NGO研究会を何度も受託し、また海外の財団、地球環境基金からの助成による事業を実施できるようになりました。
新しい代表理事の津山を中心に、AJFは、これからも先駆的な問題提起を行いつつ、より具体的に共生のための活動も充実させていきたいと考えています。こうした活動のベースとなる会費・寄付による自主財源の確保・拡大のために、協力をお願いします。

そんな作業をしていたら、ちょうど20年前、今と同じビルの5Fに事務局を置いていたAJFを訪ねて、入会した時のことを思い出した。

その後、駿河台坂下の鉛筆ビルの最上階に事務局が移った頃から、定期的に作業の手伝いに入るようになった。もっぱら、アフリカ関連イベント・企画を紹介するFAX通信を作っていた。

1999年にアジア学院で行われた「ビジョン2000」合宿に参加したことがきっかけになって、2000年初め、AJFの事務局長に応募し採用された。幹事にもなりなさい、と当時代表だった吉田さんからアドバイスされたことを覚えている。

事務局長に採用された直後、2000年3月に開かれた会員総会で幹事として選出された。その頃、昼間は1984年から勤めていた職場で働いていたので、夜になると自転車で15分くらいの東上野の事務局に通うようになった。

昼間は、同時期に採用されたばかりのアルバイト・スタッフが事務局で勤務していた。しばらくして、NGO相談員事業を受託できた、担当した幹事が事務局に詰めるようになった。



2014年9月18日、木曜日午後0時23分。

昨夜は、涼しくて気持ちいいなと思いながら、自転車を漕いでいたら、霧雨が降ってきた。で、雨が強くなるといやだなと思って、まっすぐ帰った。

部屋へ戻って、あるものを食べていたら、思ってた以上にくたびれていたようで、すぐに眠くなった。

今朝、朝食をとるまでは電車に乗るつもりだったが、天気予報は晴れ、ということで自転車で出勤した。自転車に乗っている間は、曇り空で気持ちよく乗れた。

自転車に乗って移動している人も多く、つられて漕いでいたら、職場まで40分ちょっとで着いた。

体全体が少し重い感じだが、特に痛いところもないので、だんだんに体が慣れていくのだろう。



2014年9月17日、水曜日午後7時18分。

日曜日に思い立って、自転車で職場まで来た。ちょっと汗ばむくらいで気持ちよかった。

ということで、昨日、今日は自転車通勤。これから、途中で夕飯をとって、ゆっくり帰ろうと思う。



2014年9月14日、日曜日午前8時27分。

友達の娘が、高校1年生の時、親に勧められて大野更紗著『困ってるひと』を読み、「小学2年生の時出会った、クルド人のカザンキラン家とドーガン家の2家族を思い出した。」と書いてきた。


出会ってまもなく、カザンキラン家の父アフメットさんと、長男のラマザンさんが強制送還された。テレビの前でカザンキラン家の弁護士や母サフィエさんらの記者会見を見ていた私は涙が止まらなかった。きちんと話を理解していたのか、わからないがテレビの中で泣きじゃくる残された家族たちのことを思うと胸が張り裂けそうになった。いてもたってもいられず、姉の電話を通して、長女のゼリハと話をした。泣いてばかりの私は何を話したのか記憶にはないが、「ごめんね。」と繰り返し言ったことだけは覚えている。

と続く。

彼女がAO入試に向けて書いている文章に登場する2家族は、その後、UNHCRの仲介でオーストラリアへ移住した。なので、「ドーガン家を成田空港で見送ったことだ。」は一つの区切りだった。

読みながら、当時、2度開かれたクルド料理会に参加したことを思い出した。

はたまた、40年前の自分は、こういった機会があったとしたら、何を書いただろうかと思った。大学への入った年から翌年にかけて手紙をたくさん書き、5年目を迎えるころから卒業証書を受け取るまでにビラを何度か書いたことで、少し文章が書けるようになったのだな、と改めて思う。



2014年9月13日、土曜日午後7時58分。

久しぶりに、スカイツリーのほど近いところに住む友達を訪ねた。

春先に携帯電話をなくして、アドレス帳を復元している時に、教えてもらって久しぶりに電話をかけた。

先週、別の共通の友達に連絡をとった際に、「最後に会ったのはいつ?」と聞いたら、30年前じゃなかったかな、との返事。一緒にあの辺りを歩いた覚えがあるが、そんな昔のことだったのかとびっくりした。

で、朝、洗濯を済ませ、朝食とも昼食ともつかない食事をとった後で、電話をかけて出かけた。

僕の部屋からだとdoor to doorで40分ちょっと。さすがに道順を覚えていた。

前回は、3人で車に乗って訪ねたことも思い出した。

以前、大きなスピーカーがあったところに大画面液晶ディスプレーが置かれていた。TVとPCモニターをかねているディスプレーで、その下に、Mac miniがあった。

前回、来た時のPC構成、どうだったのか、覚えがない。かってPCデスクに置かれた液晶モニターの裏にMac G5の大きな躯体があったことは覚えている。

「何から話せばいいかわからない」と言う。そうだなと思った。

その場で、ソフトキーボードを呼び出し、僕のウェブページに記したアドレスへメールを書いて送ってくれた。

ソフトキーボードを使ってPCを操作するのを見るのも久しぶりで、改めて感嘆した。



2014年9月11日、木曜日午前10時22分。

先月末、AJF事務局へ来てくれた人たちに、AJFはこれまで何をやってきたのかと聞かれて、昔翻訳・紹介した記事を思い出した。

世界中どこであれ、必要とされているところでエイズ治療がなされるべきであり、エイズ治療を実施する体制を作るのに国際的な資金が使われるべき、という考えが、規範化され、「常識」となる過程の一端が伝わってくる記事だ。2001年・2002年という「常識が変わる」(パラダイム転換)時期に、ニューヨークから帰ってきたばかりのエイズ・アクティビストがセレクトした記事を、協力者に依頼して翻訳・紹介していたことが、今につながっている。

現在、さまざまな形で論じられている大学「改革」に関しても以下の一節は、示唆するところ大だと思う。

エール大と巨大製薬会社の1つであるブリストル・マイヤーズ・スクイブ(ブリストル社)に、ゼリットというブランド名で売られている重要なHIV治療薬d4Tの特許権を南アで行使しないことを誓約させたのである。

生存学ウェブサイトに収録した全文を、以下に転記する。


エイミーとゴリアテ
巨大製薬会社、ロースクール1年生にひざまずく。
 南ア・エイズ患者のためのこの勝利は、医薬品開発への妨げか?
ダリル・リンジィ

2001年5月1日

 エイミー・カプジンスキィにとって、きっかけはダーバンでだった。昨年7月、世界エイズ会議に出席するため、南アに到着した彼女を迎えたのは、5000人に及ぶデモ隊だった。彼らは、自分達の延命や救命につながる医薬品を求めて、デモに参加していた。黒人と白人が並んで行進していた。かつて、アパルトヘイトによって引き離された2つの人種が、共通の敵と戦うために共に行動していたのである。そして、人々は、今やこの死の病との戦いのシンボルとなった言葉が書かれた横断幕を先頭に行進していた。そこには、「哀れみ」と言う言葉に線が引かれ、その下に、「全ての人に医薬品を」と書かれていた。

 「驚きました。その場には、信じがたいほどの熱意があふれていました」。26歳の法律学専攻の学生は、その状況を思い出しながら語った。「南アは驚くべき場所です。あの国にいると、革命の進行を未だに感じる事が出来ます。国民は、驚くほど、政治的に目覚めており、行動的で、信念を持っています」。正義を求め、哀れみを拒否する、活動家のスローガンは、カプジンスキィの想像を打ち砕いた。「気分が悪いとか、罪悪感から何かするとか、そういったことではありません。人々には、治療を受ける権利があるのです。威厳を持ち、健康な生活を享受する権利があるのです。」

 カプジンスキィは、会議の女性を対象とした分科会に参加した。そこには、南アだけではなく、欧米からの参加者もいた。そして、そこでの会合の時、カプジンスキィは、先進国と、南アのようにほとんどの人が極端な貧困の中で暮らしている貧しい国とでは、エイズの実態そのものがかけ離れている事を知って、激しい衝撃を受ける。パネラー達が、毎日何種類もの抗レトロウィルス薬を服用することから起こる副作用について議論するのを聞きながら、彼女は、この議論を聞いている女性の多くは全く薬を手にすることが出来ないのだ、ということに、突然気が付いたのである。ドイツやアメリカから参加したHIV陽性の人たちは、嘔吐感や疲労感に悩まされつつも、ほとんどの人が、これから何年もあるいは何十年も生きていくことが出来る。しかし、南アからの参加者は死を迎えるのである。何人かの人はもうまもなく。「この違いは、非常に不愉快なことでした。」彼女は続けた。「倫理的にも、感情的にもたまらない思いでした。こんなことが続いてはいけないと思ったのです。あまりにも不公平です。」

 さらに、カプジンスキィは、このような状況の中で起こっているばかばかしいまでの皮肉に気が付いた。会議に出席した南ア女性の中で、治療を受けている少数の女性は、製薬会社が行っている臨床試験を受けているのである。自分達の特許薬の安価なコピー薬を輸入したり、製造したりしないように南ア政府を訴えている、その製薬会社である。

 カプジンスキィは、会議から戻るとエール大のロー・スクールに入学した。しかし、同級生達が、教科書の中の不法行為に没頭しているのを横目に、彼女はより大きなプロジェクトに着手したのである。ノーベル賞を受賞した国境なき医師団と共に、彼女は、かつて誰も成し得なかった事に成功した。彼女はキャンペーンを始め、最終的に、エール大と巨大製薬会社の1つであるブリストル・マイヤーズ・スクイブ(ブリストル社)に、ゼリットというブランド名で売られている重要なHIV治療薬d4Tの特許権を南アで行使しないことを誓約させたのである。

 それは歴史的な勝利だった。かつて、エイズ治療薬の特許権を放棄した製薬会社は一つとしてなかった。そして、多分さらに大事なことは、この特許権放棄が、他の製薬会社に与えた影響である。特許権を失うことを心配し、そして発展途上国に無料、あるいはそれに近い価格で医薬品を提供することが、結果として先進国での価格をも低下させるかもしれないという恐れから、39の主要製薬会社は南ア政府に対する訴えを起こした。国家の非常時には、保健大臣に医薬品の特許権を無効にする権限を認める1997年法の破棄を、製薬会社は求めたのである。しかし、この法律が成立してから、南ア政府が国家非常事態を宣言したことはない。提訴しながらも、これらの巨大企業は、企業の貪欲さが救命薬の頒布を妨げていると人々が判断したら、自分達が世論の矢面に立つであろうことを承知していた。

 そして、まさにそれが起こったのである。徹底的に非難されて、4月19日、製薬会社は南アに対する訴訟を取り下げた。エール大とブリストル社の決定が、広報活動の方向性を転換させたのである。南アだけで、470万人以上のHIV陽性者がいると言う破滅的な状況の中では、通常の企業活動を行うべきではないとの方針を、1つの主要製薬会社が受け入れる中で、他の会社が、訴訟を継続するにはあまりにもダメージが大きすぎた。

 d4tをめぐる戦いは、世界の保健問題の将来を争う歴史的な対決のほんの一部分をなすものに過ぎない。活動家や論者たちは、巨大製薬会社は発展途上国のみならず先進国においても、手頃な価格で医薬品を販売する倫理的な責務があると主張する。一方、保守的なジャーナリスト、アンドリュー・サリバンのような人たちは、こういった批判を行う者は、人権主義の仮面をかぶった反資本主義者であり、製薬会社があげる利益は、費用のかかる新薬開発に回されているのだと反論する。アフリカだけで2200万人の人が死亡したエイズという悪夢の中で、両者の感情的な対立は高まっている。

 国境なき医師団の必須医薬品アクセスプログラムの責任者であり、カプジンスキィと共に戦ったトビィ・キャスパーは、次のように語っている。「エイミー・カプジンスキィがいなかったら、エール大での出来事はなかったでしょう。彼女が、物を動かし、必要なところに出かけていき、適切な人たちと話をしたのです。」ケープ・タウンにある自分の事務所で、彼は、製薬会社の決定を歓迎した。「画期的です。製薬会社がこういった医薬品の特許権をあきらめたことなんて、今までにありませんでした。大学は、特許権から巨額な収入を得ています。だから、この権利を放棄することに消極的なのです。しかし、エール大は、広報的な観点から、また学生が立ち上がるのではないかと言う懸念から、行動を起こしたのです。その上、エイズは企業の広報面から考えて墓場といえます。そして、大学の広報にとってもダメージとなる可能性がある分野なのです。」茶色の髪を短く刈上げ、眉毛にピアスをし、Tシャツを着たカプジンスキィは弁護士と言うよりも、典型的な活動家に見える。しかし、勝負に決着をつけたのは、彼女の調査能力であり、マスコミへの精通度であり、交渉能力なのだ。カプジンスキィにとって、エイズに関係した法律問題を扱う事は目新しいことではない。ケンブリッジ大で勉強した後、ロンドンのエイズ問題を取り扱う団体で働いていたし、CBSテレビの“60ミニッツ2”がアフリカのエイズ問題を取り上げたときは調査員を務めた。また、バード大学の人権団体に依頼されて南アを旅行したときも、エイズがもたらした荒廃を目にしている。

 国境なき医師団のキャスパーは、ダーバンのエイズ会議でカプジンスキィと出会った。当時、国境なき医師団では、ブラジルを真似て、南アでもジェネリックスを輸入、もしくは生産するために、エイズ治療薬の特許権所有者からその許可を得ようとしていた。ブラジルの知的所有権法は、若干規制が緩く、そのためエイズ治療薬のジェネリックスを生産することが可能なのである。10万人を超える患者が、ブラジル企業が生産したジェネリックスの複合薬による治療を受けている。ジェネリックスを生産しているインドの製薬会社シプラは、南アの患者1人あたり、1ドルで3種の複合薬を提供できると言っている。ゼリットと他の2種類の抗レトロウィルス薬のジェネリックスを混合して作られるこの薬にかかる費用は、患者一人あたり年間350ドルに過ぎない。欧米の患者が支払う1万から1万5千ドルに比べると、ほんのわずかな費用となる。国境なき医師団の戦略は、必要とされる薬の特許権を保有する大学や企業に直接働きかけるというものだった。

 キャスパーは、カプジンスキィが、ロースクールの学生で、家族法、権利、保健サービスへのアクセス、知的所有権等と言った、HIV陽性者やエイズ患者が直面している法律問題を扱っている団体と共に活動したいと思っているのを知った。カプジンスキィが、大学のあるニュー・ヘブンに戻った後、キャスパーは、彼女と、ハーバード大在学当時からの知り合いであるマルコ・シモンズに電子メールで連絡を取った。そして、彼は、エール大が国境なき医師団にd4T取り扱いのライセンスを認可してくれるように頼む計画であることを二人に知らせ、教員や学生に働きかけてくれるように頼んだ。

 カプジンスキィは、最初に、大学内で誰に協力を頼めるかを探った。協力者の中で、最も重要だったのは、薬を開発したウイリアム・プルソフ博士であった。彼に面会を申し入れた時、カプジンスキィは悲観的だった。1980年代にd4Tが効果的なエイズ治療薬であることを発見した80歳の薬学者は、彼の持つ特許権によって富を築いていたし、一般的に科学者は、資金を提供してくれる製薬会社に圧力をかけるようなことを嫌がるからである。「彼が、あんなに友好的で、温かく受け入れてくれるなんて思ってもみませんでした。」彼女はそのときを思い出しながら語った。しかも、プルソフは、単に受け入れてくれただけではなく、学生への支援を明らかにしたのである。

 まもなく、エール大は、国境なき医師団の依頼を断った。大学が所有する特許権を管理しているエール大協同研究部の部長であるジョン・ソデルストロムは、国境なき医師団に宛てた2月28日付の手紙に、次のように記している。「エール大は、ブリストル社に独占権を付与しているので、このような依頼に対応できるのは同社だけである。」d4Tの特許権は、エール大にとって金のなる木で、年間約4000万ドルの純益を大学にもたらしている。この収入の大部分は、ドイツ、アメリカ、フランスといった先進国からのものである。

 カプジンスキィは、エール大とブリストル社がどのような契約を結んでいるのかを探り始めた。彼女は、以前、世界保健機関(WHO)でエイズプログラムを指揮し、国境なき医師団の依頼に同情的に違いないと思われる、公衆衛生学部部長、マイケル・メーソンと面会した。また、別の教授を通じて、彼女は、大学当局が公開することを拒否した、大学とブリストル社間で結ばれた契約書の写しを手に入れた。同時に、エール大の学生新聞にこの問題の経過について記事を書いてもらうようにもしたのである。3月2日に最初の記事が掲載された。「大きな効果がありました」。カプジンスキィは語った。以前から、大学とスポンサー企業の結びつきに反対していた大学院生組合のグループが、大学側に特許権を緩和するよう求めた嘆願書への署名を呼びかけてくれた。学生、教授、研究員600名の署名が集まった。また、学生は、1999年に大学に対して25万ドルを寄付したブリストル社と大学の緊密な関係を攻撃した。

 当時を思い出しながら、カプジンスキィは、自分達がやっていることの大きさに気付いていなかったと語る。「(最初は、)リストに書かれている仕事をこなしているような感じでした。とても時間がかかりました。どうやったら実現するのかを考えるのに一生懸命でした。どんなに大きな事をやっているのかなんて、全く気付いていませんでした。」

 3月9日、キャスパーは、カプジンスキィの契約書に関する調査結果と、(カプジンスキィもメンバーである)エール大エイズ行動連合のメンバーからの助けを受けて、大学側に再度申し入れを行った。彼は、エール大が、特許権付与は「一般社会の利益」のために行うものであり、そして、「付与された側が、決められた期間内に効果的な開発や販売を行うことが出来なかった」場合には対処する、と定めている同大の規約に違反していることを指摘した。そして、さらに、d4Tを求める人の90%を無視することによって、大学は公共の利益に寄与していないと指弾したのである。

 大学側とブリストル社の話し合いが行われている最中に、プルソフが行動に出た。3月11日に行われたニューヨーク・タイムスとのインタビューで、南アで、薬をより広範囲に流通させるために特許権の緩和を求めている学生達のキャンペーンを「強く支持している」事を語ったのである。タイムスに対し、彼は、「大学とブリストル社が、発展途上国のために、薬を無料で供給するか、あるいはインドやブラジルで安く製造することを許可してほしいと思っています。しかし、問題なのは、巨大製薬会社は自分達の事しか考えていないと言うことです。お金を稼ぐことだけが目的なのです。」と述べた。

 プルソフの発言は最後の一押しだった。3月15日、ブリストル社は、南アではd4Tについての自分達の特許権を行使しないことを発表した。会見の中で、ジョン・マックゴールドリック副社長は次のように述べた。「これは、利益や特許権の問題ではありません。貧困とそして破滅的な病気についての問題です。アフリカでエイズ治療薬の販売で利益をあげるつもりはありません。私たちの特許権が、障害になることはないでしょう。」後に、ブリストル社の広報担当は、ウォール・ストリート・ジャーナルに対し、この決定は、学生運動からの圧力を受けてなされたものではなく、時期的にたまたまそうなっただけである、と語っている。

 カプジンスキィは、名前は伏せながらも、ある教授が彼女に、プルソフの発言が大学側を当惑させたと教えてくれたことを語った。「大学側は、彼が書いた論説とか、彼が公に発言していく意思を持っていることとか、そういったことを知って、取り乱していました。」彼女は続けた。「大学側はいろいろなことを恐れていました。製薬会社は、特許権について議論することをとても嫌がります。彼らは大学の研究に対して、莫大な資金を提供してくれます。製薬会社と良好な関係を維持することは重要です。大学は、製薬会社に自分達が開発したものを売り込みたいので、厄介な相手であると思われたくないのです。」

 こういった色々な事を考えると、大学側があれほど早急に決定を下したことは、カプジンスキィにとって驚きだった。「あんなに急展開するとは思いませんでした。まごついてしまったほどです。未だに、信じられない思いがします」。彼女はさらに続けた。「いずれにしろ、値下げを考えていたのです。そう考えれば、納得できます。イメージを大切にしたのでしょう。学生運動は、彼らにとって、世論の動向を示す指針だったのです。人々は、学生グループや電子メール名簿を活用して、大学が製薬会社の利害から自由になるよう働きかけるための組織作りをしてきました。学生達は、大学が関与している問題に対処するための組織作りに長けてきているのです。」

 エール大での戦いは、大学や企業に働きかけて、エイズに対する彼らのビジネスのやり方を変えさせようとする国際的なキャンペーンの中のほんの一つに過ぎない。同様の動きが、ミネソタ大でも起こっている。ザイアジェンというブランド名で売られ、巨大製薬会社のグラクソ・ウェルカム(グラクソ社)が独占権を持っているアバカヴィールの特許権所有者がミネソタ大なのである。アバカヴィールを構成する主たる化合物の一つであるカルボヴィールは、1970年代後半に医療化学の教授であったロバート・ビンスによって、初めて合成された。ミネソタ大は、1998年グラクソ社を特許権侵害で訴えている。裁判は決着し、1999年、グラクソ社が、725万ドルを一括して支払うことで合意した。大学側は、特許権使用料が3億ドルを超えるものになると期待しており、その資金をエイズ研究に再投資する意向である。3月に、大学の特許権問題がエール大を揺るがしていたとき、ミネソタ大の博士課程に在籍するアマンダ・スワールが、アバカヴィールの特許緩和を求めて、ミネソタ大でのキャンペーンを開始した。カプジンスキィと同じく、28歳のスワールもかつてエイズ問題を扱ったことがある。彼女は、1年半を南アで過ごし、そこで女性学の博士論文を書いていたし、世界で活動する治療実施キャンペーンでボランティアをしていた。

 「ここの学生は、南アとつながっているとの感覚を持っています」。スワールは、こう言って、何故、大学に反対する運動を盛り上げることが出来たのかを説明した。彼女が言うには、これはエイズ治療薬や製薬会社の問題にとどまるものではなかった。「私たちは、大学が企業化していくことに不満でした。企業は、大学側に今までにないほどの額を寄付しています。それにもかかわらず、学部教育の質は落ちていますし、授業料も値上げされています。」

 中でも、製薬会社は学生や他の人たちの怒りをかっている。小説家であり、ジャーナリストであるジョン・カーは最近出版された彼の著書「コンスタント・ガーデナー」の中で巨大製薬会社を攻撃している。また、雑誌「ネーション」に最近掲載された記事の中でも、大学と製薬会社の結びつきを次のように批判する。「巨大製薬会社は、自分達の製品の試験や開発を行うために、大学や大学病院に、バイオテクノロジー研究用の建物を寄付したり、そこで行われる研究を支援したりしています。このことが、中立な立場のはずの学問的な医療研究に何をもたらしているのかを考えてみてください。不都合な科学的発見は発表されなかったり、書き直されたりしています。また、そういった発見をした人達が、製薬会社から依頼を受けた広報会社の陰謀によって、組織的に職業的名声や個人の名誉を台無しにされて、学校から追われています。そういった事態が近年急速に増えているのです。」

 4月16日、スワールと、大学と企業の癒着に反対する学生組織、教育へのアクセス連合のメンバーは、大学当局に対し、発展途上国では自分達の特許権を行使しないという声明を出すようにとの要求を突きつけた。ヘルス・ギャップ、南アの治療実施キャンペーンそしてオックスファム・アメリカといったNGOも、大学に対し、学生達の要求に耳を傾けるようにとの文書を送った。大学側は、4月19日、「ザイアジェンの値下げを歓迎する」との声明を発表した。声明は、南アでは自らの特許権を行使しないと言うエール大の決定を賞賛しながらも、自らの事については言及していなかった。ミネアポリスの新聞、スター-トリビューンとのインタビューで、大学のマーク・ローテンブルク弁護士は、「私たちが特許権使用料をあきらめることが、人々の健康にさほどの影響を与えるとは思えません」と語っている。

 現在、2万人の署名獲得を目指して行われているキャンペーンを統括しているスワールは、国境なき医師団とカプジンスキィが用いたのと同じ法律論争を仕掛けている。「大学は、公共の利益への奉仕を自らの目標として掲げているが、グラクソ社は、高価格を維持することで、その目標の達成を妨げている」。彼女は、最終的には、大学がグラクソ社に圧力をかけて、特許権の行使を断念させることになるだろうと思っている。「大学側はそうしなければならないと思っていると思います。この問題で国内からも、また海外からも注目を浴びています。特許権の行使を断念することは、大学にとって、二重の勝利です。なぜなら、発展途上国でのザイアジェンの売上げから得られる特許権使用料なんて、今だって微々たるものなのです。」

 他の人たちは、彼女ほど楽観的ではない。エイズ治療に欠かせない医薬品の特許権について広く調査を行っている、技術についての消費者プロジェクトのジェイム・ラブは、大学とグラクソ社が所有するザイアジェンの特許権については、複数の特許権が関わっており、そのことが、問題の解決を非常に難しくしていると語った。さらに、彼は1998年の訴訟に関して、大学と会社間にわだかまりが残っていることも指摘した。

 貧しい国でのエイズ治療薬の価格をめぐる戦いは、現在、南アがその前線となっているが、まもなくブラジル、インドそしてタイへと移っていくだろう。知的所有権に関するこれらの国の法律は緩く、3カ国全てで、ジェネリックスの複合薬が生産されている。WTOの貿易関連知的所有権協定(TRIPS)によって、これらの国々は、2005年までに自分達の国の知的所有権及び特許権に関する法律を厳しくすることが求められている。TRIPSは、非常時には、国が一時的に特許権を停止することを認めている。しかし、タボ・ムベキ南ア大統領が、実際にこれを実施したことはない。企業にとって、TRIPSのもと、より厳しい法律を施行する米国のような国の政府に圧力をかけて、発展途上国への苦情をWTOに持ち込ませることなど、簡単なことだろう。責任ある政治センターの調べによれば、2000年の選挙で、巨大製薬会社が、政党や大統領選、あるいは議会選挙に対して行った企業献金の額は2600万ドルに及ぶ。業界単位で考えれば、12番目に政治献金が多い業界と言える。だから、製薬業界にとって、議会やホワイト・ハウスで自分達に同情的な人を見つけることは難しいことではない。

 製薬業界が、貧困国でのエイズ治療薬の特許権保持に固執するのは、第三世界での戦いは単に象徴的なものに過ぎず、活動家の真の目的は、医薬品の値段を世界的に操ることにあるのではないかと言う恐れからである。実際に、倫理的な論議が勢いを得て、社会主義が正当化されている。人類史上、最悪の疫病に直面している貧困国に原価でエイズ治療薬を供給することは、倫理的に言って避けることが出来ないようにみえる。しかし、製薬会社側は、それは、滑りやすい坂道にいるようなものだと主張する。どこで線を引けばよいのだろう。ひとたび、第三世界各国でエイズ治療薬が安価に生産できることがわかれば、アメリカ人だって、同様のことを要求するだろう。

 実際に、ラルフ・ナデールが率いる技術についての消費者プロジェクトのような活動家グループは、アメリカや他の先進国で使用するために、d4Tジェネリックスの生産、輸入を求めて活動している。そして、そうなれば、巨大製薬会社は、これらの国でエイズ治療薬の販売から利益をあげることが出来なくなるだろう。エール、ミネソタあるいはハーバードの学生グループは、学内で、あるいはヘルスギャップが所有しているような電子メール名簿を用いて、人々の組織化をはかっている。

 (マスコミの大きな扱いに反して)様々な数字は、エイズ治療薬についての戦いが途上国にはほとんど関係のないことで、全ては、欧米の市場を守るためのものであることを示している。市場調査会社のIMSヘルスによれば、2000年のエイズ治療薬の売上げ37億ドルのうち、26億ドルはアメリカでの売上げである。ヨーロッパ諸国での売上げが9億5千万ドルで、アフリカ、アジアそしてオーストラリアは合計で1億850万ドルに過ぎない。全体からみれば、ほんのわずかな額である。

 活動家を批判する人たちは、活動家の真の目的は、製薬業界全体を支配することだと言う。「大学で起こっていることは悲劇と言えます。」国立政策分析センターの保健政策アナリストであるロバート・ゴールドバークは、こう語っている。「エール大のエイミー・カプジンスキィのような学生は、エイズのことなんて考えていません。彼らが、真のウィルスだと思っているのは資本主義なのです。エイズはこの点では魅力的な病気と言えます。」汚職と無知が南アでエイズを克服しようとする努力を台無しにするだろうと語るゴールドバークは、ロシアやアフリカで結核やマラリアの治療が、多くの人に無料で提供出来るようになったにも関わらず、「年間200万人が死亡するこれらの病気に対して、ほとんど何もなされていない」ことを指摘する。エイズ治療薬についても、その結果に大した違いはないだろうと言うのが、彼の論点である。「あらゆるエイズ治療薬や複合薬をアフリカに無料で提供してみなさい。半分は盗まれて、四分の一は使われないか、あるいは誤って使われることになるでしょう」。ゴールドバークは、さらに、国境を越えて、欧米にジェネリックスが持ち込まれるであろう事も懸念している。「灰色市場を通じて、ヨーロッパにこれらの薬が持ち込まれると言った問題があります。政府の薬事局はギリシャやトルコからの並行輸入に対しては目を瞑りがちです。(インドの)シプラのような会社は、自分が生産したジェネリックスを輸出して、ラベルを取り替え、欧米市場に流すことも出来ます。」

 ゴールドバークはさらに続ける。「この国の(技術についての消費者プロジェクトのような)グループは、南アのキャンペーンをこの国で価格を下げるための手段として考えています。第三世界をだしに使う、先進国の身勝手さが出ています。私たちが目撃したように、(製薬会社が訴訟を取り下げた)南アでの勝利の直後に、南ア政府は複合薬を使用しないと宣言しています」。実際に、訴訟が取り下げられてから何日もたたないうちに、南アの保健大臣であるマント・タシャバララ-ムシマン博士は、急激な価格低下にも関わらず、エイズ治療薬を供給することは政府にとっての優先課題ではないことを述べている。その代わりに、政府は、HIV陽性患者への日和見感染症の治療と栄養改善に力を入れることになったのである。かつて、ムベキ南ア大統領は、複合薬の安全性に疑問を投げかけた。さらに、HIVがエイズの真の原因かどうかわからないと公に口にして、国際社会を失望させたこともある。

 ゴールドバークのような論者は、さらに、南アの脆弱な保健サービスシステムに言及して、複合薬の不適切な配布と使用が、HIVウィルスの耐性を高め、より致死性の高いものとする可能性があることを指摘する。ゴールドバークは、複合薬に固執する代わりに、アフリカ政府は、予防と教育のためのプログラムを始めると共に、安価に生産でき、しかも胎内感染を50%まで削減することがわかっているAZTの使用を広めていくことを提案している。感染率を減らすことになるので、この計画は、長い目で見れば、確実に大きな違いをもたらすだろう。

 とりわけ、ゴールドバークは、製薬会社の利益低下は、調査研究を縮小することにつながり、結果として、市場に出回る救命薬が減っていくとしている。「こういった動きは、所有権を排除することで、世界価格を低下させ、製薬会社の利益を吐き出さようとするアメリカ国内の政治駆け引きなのです。短期的には、利益がなくなります。長期的には、最初の特許権が期限切れとなったときに結核やマラリア治療薬に起こったことが、エイズ治療薬についても起こるでしょう。それは、研究資金の減額です。」

 保守派(でHIV陽性)のジャーナリスト、アンドリュー・サリバンも、ゴールドバークと同じ主張を繰り返す。ニューヨーク・タイムス・マガジンの10月号で、サリバンは次のように書いている。「もし、それを必要とする誰もが最新薬を入手することが出来て、なおかつ救命薬開発のための調査も継続できるとすれば、それはすばらしいことです。しかし、価格を下げれば、利益が少なくなります。利益が少なくなれば、研究・開発に回せるお金も減るのです。そして、そうなれば、新薬開発のペースも遅くなるでしょう。短期的には、安い治療薬が普及するでしょうが、長い目で見れば、質の悪い薬が出回ることになり、史上最も研究が進んだ時代が終わりを告げる危険性がでてくるのです。製薬会社は新薬開発のための充分な資金を稼いでいるのではないか?そう言えるでしょう。製薬会社の利益率は、他の業界のそれよりも若干高いと言えます。しかし、それは、製薬業界が抱えている特別な危険性を辛うじて相殺すると言った程度のものなのです。実験のある段階で、5000を超える薬品が試験されています。その後、臨床試験に使われるのは、平均で、そのうちの3つに過ぎません。しかも、認可されて実際に治療に使われるようになるのはその中でも1つといったところです。また、その開発費用に見合うだけの売上げをあげる薬はたったの30%です。1990年代、新薬が市場に出回るまでにかかる平均的な時間は、15年でした。ボストン・コンサルティング・グループによれば、そのためにかかる費用の平均は、5億ドルにのぼります。」

 ニューヨーク大のメリル・グーズナー教授は上述のような主張に反対の声を上げる。何年にも渡って、シカゴ・トリビューン紙で製薬業界についての記事を書いてきたグーズナーは、サリバンとのインターネット上での討論で、業界が新薬開発のために5億ドルを費やしているとの主張を「非常識である」と切り捨てた。

 グーズナーは次のように語っている。「このでたらめな数字は、全ての研究が適切で、全ての新薬が医学上重要だと仮定する、業界が資金提供して実施された調査から導き出されたものです。真実からは程遠いものと言えます。業界の研究のほとんどは、既製品に対する需要を喚起するためのものです。そして、ほぼ半分の研究は、既存品に少しの変更を加えるためになされています。実際に、調査・研究の40%以上が、そのような類似薬の生産を目的としていると私は推定しています。そして、ある調査結果は、この推定に確証を与えるものでした。」グーズナーはさらに、アメリカ政府がかなりの調査・研究に資金提供していると主張する。「国立衛生研究所は、来年23億ドルをエイズ関係の研究に費やす予定にしています。製薬業界の販売団体であるPHRMAは、会員企業が開発中のエイズ治療薬は73にのぼると誇らしげに発表しています。そして、開発品を実験室から市場に持ち込むとき、(通常は、国立衛生研究所から資金提供を受けている研究者との協力関係を通じて)ほとんどの企業が政府からの補助金を受け取っていることも、目立たないようにですが認めているのです。」

 グーズナーは、製薬会社が、利益を追求すべきかどうかと言うことが、問題になっているのではないと言う。「問題となっているのは、彼らが受け取っている報酬の大きさなのです。人の命がかかっている薬の価格が、アメリカでさえ多くの人にとって手の届く範囲でないほど高いという事態の中、事実に基づいて行動しているのは誰かと言うことなのです」

 カプジンスキィは、アフリカでのエイズ治療薬の配布が、ゴールドバークが主張するように混乱を極めるものだとは思っていない。「飛行機から投げ捨てるようなことをする人はいません。使い古された言い分です。必要とする人たちにエイズ治療薬がきちんと届くような調達及び配布体制について、現在、国連やあらゆるところで、真剣に議論されています。」

 もし、現在の利益水準を維持できなければ、製薬会社は調査研究が出来なくなり、ひいては新薬の開発も出来なくなるという議論に対し、彼女は、ただ「いくらかかっているのかを見せてください」と言うだけだった。「確かにアメリカ人は、この国でも正直な計算ではじき出された価格を設定するように要求し始めるかもしれません。もし、製薬会社が、自分達の出納帳を見せて、ある薬の開発にはいくらかかったのかを説明してくれていたら、彼らの仕事をいくらと判断すべきかについて、理にかなった決定をすることもできたでしょう。その結果、彼らの研究のやり方を考え直す必要があると言う事がわかるかもしれません。例えば、製薬会社は、彼らが研究にかける資金の2倍から3倍を広告に費やしていますが、そのことを正すことから始める事ができたのかもしれません。」

 戦いは、まだ始まったばかりである。

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著者、ダリル・リンジィは、サロン・ニュースの論説委員である。



2014年9月10日、水曜日午前10時23分。

AO入試を受ける友達の娘が、志望理由を書いてみた、と送ってきた。

先週初めに打ち合わせをした時、AO入試で大学に進学した姉娘が、最初は字数を気にせず書いてみる、書いているうちに思い出したり考えたりすることもあるので書きながら書けることを増やしていく、それが重要とアドバイスしてくれた。

で、書いて送るように、と伝えて帰ってきたので、2~3日内に書いて送ってくるかと思っていたら、なかなかメールが来なかった。やっと来たメールに、「お姉ちゃんの志望理由書を読んでしまって上手く書き始めることもできなかった」とあった。なるほど・・・

送られてきた文章の最後に、字数○○とあったので、電話をして、字数に合わせてまとめるのは最後の最後、と念を押した。

家族と一緒に見たこと、体験したなかで印象に残ったことを書いた文章だったので、次は、学校や部活での体験の中で印象に残ったこと、志望する学科を選ぶきっかけになったこと、をそれぞれ一つの文章にして送るように伝えた。


昨日、8月末に受けた定期検査の結果を聞きに行ったら、精密検査を受けることになった。月末に再度、診察を受けて、治療方針を確認することになる。



2014年7月19日、土曜日午後3時50分。

職場で6年ほど使っていた会計ソフトが突然使えなくなってしまったので、新しいソフトを購入した。データファイルを読み込んでくれないかな、と期待していたが、以前使っていたソフトが古すぎてダメだった。ということで、決算報告書と振替伝票を見ながら、今年の会計ファイルを最初から作り直した。これから、直近2週間分の入力作業にはいることになる。ともあれ、一区切りついてよかった。


教えている大学の今学期最後の授業で、80通余りのレポートを受け取った。見ると、「調べたところによれば」とあっても、何を調べたのか、どういった記述があったのか、が分からないレポートがある。体験記としてはなかなか読ませるが、レポートの体をなしていない提出物もある。他の授業では、きちんとしたレポートを出しているのだろうか、と心配になる。

来学期は、レポートの書き方をもっと詳しく説明しなくてはならないようだ。月ごとにエッセイを書いてもらっているが、1回は、配布資料から何を読みとったのかをまとめるレポートを書いてもらった方がいいのかな。


先週金曜日、セミナー「目の前のアフリカ」第10回で、阿部さんの南ア「真実と和解委員会(TRC)」を通して紛争後社会のあり方を考える問題提起を聞いて、以前、漠然と感じていたことが焦点を結んだ。

参照事例としてあげられた中国国共内戦は国民党政権・軍組織による大陸脱出・台湾制圧に帰着したこと、1994年のルワンダ内戦は戦場がコンゴ東部へ移ったことによって「内戦終結」となったことに対し、南アでは1990年前後のモザンビーク越境爆撃、アンゴラ内戦への介入といった国境外の行動が軍事的・経済的に封じ込められた結果として「民主化」が行われ、その状況を背景にTRCの活動があった。すなわち、一国内で武力衝突に後退することなく問題を解決することを迫られた中で、TRC、1994年選挙時の5%条項=挙国政府樹立、はたまた経済民主化政策etcを一連なりの試みとして捉える必要があるということだ。

主要な反対勢力を国境の向こう側へ追いやった政権は、刑罰を背景にした反対派残存勢力一掃政策を取ってきた。南アでは、一部の白人が国外脱出したものの、1994年まで政権・軍事・警察・経済を把握してきた勢力はほぼ無傷で残っていた。もし、この勢力がそのまま移ることのできる先があったとしたら、追いつめて全面戦争にしないために、安全に移動することを保障するといった方策がとられたかもしれない。かつての中国国民党が台湾へ移り米国の強力な支援を受けて残存勢力の再構築を果たしたことと、RPFに追われたルワンダ旧政権がコンゴ東部へ逃れ「国際人道支援」を背景とした大規模難民キャンプ支配を一定保持したものの次のステージへ行くことができずに分散することになったこととの間には、東西冷戦終結によって「相対的劣勢勢力の行き場、頼り先」がなくなったことがある。




2014年7月7日、月曜日午後6時12分。

一昨日夜、部屋の近くでマッサージを受けて帰ったら、眠くて眠くて、ちょっとだけ夕食を食べて、布団に入ってしまった。

昨日の朝も、いつもより遅くまで布団の中でゴロゴロしていたが、お腹がすいて起き出した。

ズッキーニ、ナス、ピーマンと油にあう夏野菜があったので、素揚げにしてちょっと塩を振り食べた。甘味があっておいしかった。

残った素揚げを、車麩と一緒に甘辛く煮た。で、今日の弁当に入れて持って来て食べた。

今日も雨模様で、あまり暑くはなっていない。今夜も気持ちよく眠れそうだ。




2014年6月21日、土曜日午前8時58分。

昨日の朝、生存学研究センター運営委員会に参加し、夕方、センターが主催する生存をめぐる制度・政策 連続セミナー「障害/社会」第2回で、内閣府障がい者制度改革推進会議担当室長として障害者の権利条約批准に向けた国内法整備の取り組みに深く関わった東俊裕さんの話を聞いた。

用意したレジュメをほとんど参照することなく、多くの障害者団体が参加する改革推進会議の部会報告の背景、課題を簡明に語る、その語り口に、東さんの関わり方の深さを実感した。

質疑の際に、障害者差別禁止法を検討する部会報告でイメージされていた、差別を受けた本人から相談を受ける機関および本人と差別者との間に入って話し合いの仲介をする仕組みを設け、それで事態が解決しなければ裁判に訴えるという差別解消を推進するための仕組みから、労働基準監督局による相談受け付けと指導、労働委員会による裁定そして裁判というプロセスを思い浮かべたことを伝え、法に基づいて設置される機関での相談、差別者との話し合いそして裁判を本人が単独でやり抜くことを期待しているのではなく、労働組合のような本人を支える運動体が関わってくることを想定していたのではないか、と質問した。

それに対する東さんの回答は、僕の聞きたかったこととは違っていたが、「労働組合は障害者の権利条約に関して決して熱心ではない」「障害者差別を理解して一緒に取り組むことを期待できるのか?」という口ぶりだったのが印象に残った。セミナー後、場を移しての懇親会では、旧知の参加者から「かつて民間企業で7年ほど働いたことがあるが、労働組合とは全く接触がなかった」と声をかけられた。

労働組合、労働運動に対するイメージの違い、体験の違い、を感じた。

僕が大学生の時、在籍した大学の研究所の一つが障害者の臨時雇用職員の解雇問題で執行部追及が続いたことがあった。研究所に赤旗が立っているとメディアで報じられたこともあったようだ。結果として、解雇撤回、最初は一人で座り込みをした臨時職員の正規職員化で事態は解決された。僕自身は、後に、この「解決」を前例として、臨時職員の待遇改善・正規職員化運動に取り組む人々と一緒に活動する機会があって、大学本部や病院事務局への行動にも参加した。

大学6年目の1979年から関わった脳性マヒ者・金井康治君の養護学校から地域の小学校への転校実現運動、1982年から関わり始めた足立区同和対策集会所裁判闘争を通して接した労働組合、労働者のグループは、さまざまな困難を抱える仲間、頼ってくる人々を受け止めて一緒に活動しようとしていた。で、そういった労働組合や労働者のグループにとって、「障害者差別解消法」は仲間を支える重要なツールになるうる、と僕は感じた。

東さん、「労働組合との接触がなかった」と声をかけてくれた人が接した労働組合、労働運動と僕が知っている労働運動、労働運動、同じ漢字で表記されているが、ずいぶんと違っているみたいだ。

昨年初めに亡くなった新田さんは、府中闘争のきっかけの一つとして府中療育センター職員の腰痛問題・配転問題を語っていた。新田さんの隣人だった猪野さんのところには、都電乗車闘争を契機に関わった東京交通労組の組合員達が介助に入っていた。

ここまで書いて、2011年8月に、定藤邦子著『関西障害者運動の現代史』を読んで、労働運動と障害者自立生活運動について書いたことを思い出した。



2014年6月19日、木曜日午前8時。

いつものコイン・ランドリーが時間になっても開かなかったので、少し離れたコイン・ランドリーで洗濯機を回している。

というような状況になって、以前、よく行っていたコイン・ランドリーのことを思い出した。部屋から一番近い銭湯に敷設されていたコイン・ランドリー、銭湯が廃業した時になくなってしまった。今は、コイン・パーキングになっている。

いつものコイン・ランドリーの近くにある別のところへ行ったら、洗剤自動投入型の洗濯機しかなかった。普段使っている液体石鹸で選択するために、違うコイン・ランドリーへ来ている。

そういえば、部屋の近くにあと4カ所はコイン・ランドリーがあるが、そのうち2カ所は自動投入型洗濯機しか置いていない。洗剤メーカーと提携してコイン・ランドリーのチェーンを展開している企業があるのだろう。



2014年6月5日、木曜日午後3時。

先週、大学の授業で、「先進国と途上国」「食べものに関する経験」「基礎教育」のいずれかのテーマを選び適切なタイトルを付したエッセイを書いてもらった。

教科書として使っている『ミレニアム開発目標 世界から貧しさをなくす8つの方法』(編:動く→動かす)の以下の三つの章に対応したテーマ設定だったが、提出されたエッセイの多くは自分の体験を出発点に考えをまとめたもので、どれも興味深かった。
序章:どうしてできたの?ミレニアム開発目標(MDGs)
1章:とてつもない貧困と飢えをなくそう
2章:みんなが小学校に通えるようにしよう

79のエッセイのうち、「食べものに関する経験」に関わるものが38とほぼ半数を占めている。東日本大震災で被災した時の食べるという体験を振り返ったもの、原発事故の報道を受けて母親が食べものの生産地や加工食品の加工時期を調べ始めたことに触発されて食品表示を見るようになった経緯あるいはダイエットに向けた努力としてカロリー計算や栄養素チェックを始めたことをきっかけに食べものの安全性・バランスなどを意識するようになった経緯をつづったもの、など具体的な記述が多く、たいへん参考になった。

コンビニや飲食店でのバイトで賞味期限切れ食品や弁当、オーダーミス調理品や回転寿司を廃棄した経験を振り返った論考も多かった。

これらのエッセイを読んでいるうちに、大学生の頃の食べものに関する経験が甦ってきた。工学部8号館にあった自主講座の部屋で玄米ご飯を食べさせてもらったこと、しばらく一緒に寝泊まりしていた友人と夕食用に銀タラの煮付け・豚肉生姜焼きを日替わりで作って食べていたこと、レパートリーを増やしたいと思って教えてもらったトマトジュースで作るトマト味シチューもよく作ったこと、そして別のキャンパスで寮に滞在していた仲間が疲労と食べものの問題だったのか黄疸を発症して入院したこと、などだ。



2014年6月4日、水曜日午後5時21分。

先々週、京都で会った若い活動家が元気そうで、よかった。

1970年代、80年代のビラを読みながら手で入力しているという。そうやって残すべき資料、たしかにあるわなと思いながら話を聞いた。

僕のところには、1990年代の終わりに、新聞記事を見ながら入力したアフリカ関連記事、当時、日経MIXを使って入ったデータベースからダウンロードした記事インデックスが、ファイルメーカーのファイルの形である。これをHTML化して、生存学ウェブサイトに収録してくれる人がいないかと心待ちにしている。



2014年5月11日、日曜日午後2時48分。

明日、大阪へ行く。阪大豊中キャンパスで話をした後、神戸で友人と待ち合わせる。

行く前に済ませておきたい作業が済んで、ホッと一安心。


昨日、高田馬場のカフェ10°で開かれた「南アフリカ共和国で草の根の活動をするということ」には、ジョハネスバーグの日本人学校で3年間働いていた教員、同じ日本人学校に在籍していた青年、南アの経済について調査をしているというシンクタンク・スタッフといった参加者があり、これまで接したことのない体験を聞くことができた。

シンクタンク・スタッフが、「南アへ3度行きました。まだ地面を踏んでません」と言うので、あれっと思ったら、津山さんから「コンクリートの上しか歩いたことがないということですね?」と声がかかり、なるほどと納得した。彼は、空港からビジネスセンターへ直行し、ビジネスセンターとホテルの間を車で行き来して、その足で帰ってくるというのだ。

親の南ア赴任に伴って南アで数年をすごし日本人学校に通ったという20代半ばの青年は、南アでは壁の中で暮らしていたのでタウンシップには壁がないという話が印象的でした、と語っていた。

日本人学校で働く連れ合いと一緒に3年間を南アで過ごしたという看護師の参加者は、南アで住んだ家は広くてプールもあり庭でバーベキューもできました、と話していた。彼女は、看護師の資格を活かして聖フランシス・ケアセンターでボランティアをした時に感じたことも話してくれた。寝たきりの患者さんが身動きできるようにかけられた毛布を緩めて回っていると、ケアセンターの看護師が「誰がこんなに見栄えの良くないようにしたの」と言いながら毛布を引っぱってマットの中に押し込み患者さんが身動きできないようにして回っていたそうだ。「あれでは褥瘡ができてしまうのに・・・」と、思い出すと悔しいという口調で話していた。ケアセンターの運営者に、看護師のスキルアップのために研修を受けさせることが必要と訴えたところ、研修に参加するための交通費を出してくれるのと聞かれた、とも話していた。



2014年5月6日、火曜日午後2時25分。

昨日、最寄り駅から北へ向かって小川沿いに散歩した。友人の誘いがなければ、歩くこともなかったコースを、曇り空の下、気持ちよく歩いた。

今朝は、歩いた後にビールと日本酒を飲んだせいか、疲れが残っていたので、ちょっと朝寝坊。

8時ごろ起き出して、温かい汁にソーメンを入れて食べた。



2014年5月2日、金曜日午前10時5分。

久しぶりの自転車通勤。途中で、お昼用のポテト・サラダも購入。

気持ちよく晴れていて、それでも汗だくにならないこの季節は自転車通勤に向いている。

明日から4連休。水曜日に書いてもらったエッセイのチェックがあるので、ちょうどよかった・・・



2014年4月21日、月曜日午後2時1分。

昨日、携帯電話を落とした。20分ほど探したが、探すべき範囲が広すぎて諦めた。

しかたがないので、職場の近くの携帯ショップで、新しい携帯を購入した。電話番号やメールアドレスは変更しなくてもよかった。

前回の機種交換から5年近いですね、と言われて、その時のことを思い出した。風呂掃除をしている時、胸ポケットに入れていた携帯をまだ水が抜けきっていない風呂桶に落とし、作動しなくなったのだった。

データを引き継ぐこともできなかったので、わからなくなってそのままの電話番号もある。

今回も、データを引き継ぐことができなかったので、しばらくは連絡をくれた人の連絡先しかわからない。

限られた選択肢の中ですぐに購入できる最安の機種を選んだら、メールの読み上げ機能もついている「簡単ケータイ」だった。初期設定の文字があまりに大きいので、一サイズずつ小さくした。

デフォルトで組み込まれた歩数計の数字が正しければ、部屋から最寄り駅まで1,600歩弱、職場最寄り駅で降り病院へ立ちよって職場へたどり着くのに2,300歩弱となっている。思っていたよりも歩数、歩いているようだ。



2014年3月29日、土曜日午前10時42分。

朝食をとり洗濯をすませた。weather newsを見ると、うちの近所の気温は20度。暖かい。

昨日、子どもゆめ基金の事業報告書を作成して送った。今年は、助成金による事業がほとんどなかったため、年度末の会計作業が例年に比べるとかなり少ない。

先週、発送した会報を受け取った会員からの会費納入、寄付の振り込みが、毎日、何件かずつあるのがうれしい。とはいえ、これだけでは財政改善は望めない。

AJFの活動に必要性を感じ、会員としてあるいは資金支援をしてくれる人をもっと増やす必要があるのだが、どうやって作業を進めればいいのか、ととまどったままた何年も経つ。

必要とされている活動をしているのか、と問われる、またとまどう。一部のNGO、人々にとっては、情報提供者、問題提起者、アドボカシーのためのことばを整理する存在etcとして必要とされていることを感じるが、どれだけの重みを持つのか、はなかなか見えてこない。



2014年3月16日、日曜日午前10時51分。

洗濯、朝食をすませ、宅配便の配達を待っている。

10日前、職場の入っているビルの男子トイレでズボンのポケットから財布を落としたようで、見あたらなくなった。現金、キャッシュ・カード、クレジット・カード、診察券などを入れた財布なので、ビル内のオフィスに当たり、警察・銀行・カード会社に届けを出した。

早々とセゾン・カードが送られてきた。昨夜、帰宅したらヨドバシのカードの配達票が郵便受けに入っていた。で、配達を待っている。

一昨日、昨日と、今月発足したばかりの「市民ネットワーク for TICAD」参加団体メンバーと合宿に行った。プロボノに参加する会社が、ネットワークの設立・運営支援の一環として企画してくれた合宿で、初日8人+1人、二日目10人+1人で、屋外でのアクティビティ・プログラムに挑戦した。

綱渡り、ロープを使った二つのスペース間の移動、高さ8メートルに据え付けられた丸太の上でのキャットウォーク、クモの巣抜け、二枚の板を使っての三つのスペース間移動を、みんなでやりきったうれしさは格別だった。

一緒に行動するのは今回がほぼ初めてというメンバー2人も交え、参加したメンバー同士の距離はこれでグッと近くなったという感じもする。研修プログラムの重要さを実感した。



2014年3月11日、火曜日午後8時48分。

東日本大震災からまる3年が経った。iPodに残っているメモをたどってみた。

2011年3月11日(金) 5時40分ごろ起床し友達の犬と散歩して職場に。仕事中に大震災。職場のすぐ下のローソンへ行って、お菓子、カップ麺を買って、職場の仲間とカップ麺を食べたことを思い出した。この夜、午後9時近くにやってきた友人と歩いて帰宅した。

2012年3月11日(土) メモがない。カレンダーを見ても、何も思い出せない。前夜(10日夜)の研究会で聞いた熊谷晋一郎さんの報告については、近況を書いている。

2013年3月11日(月) 6時50分起床、4度だったとメモ。

大きな経験、課題をどこかに置き忘れてしまっていたようだ。反省。



2014年3月10日、月曜日午前8時59分。

ずいぶん久しぶりに京成線下り電車に乗っている。上りはギュウギュウ詰めだろうが、こちらは空席が目立つ。

このくらいすいていると、電車内でAirを取り出す気になる。先週末、手をつけきれなかった作業を少し進めた。

先週木曜夜、中途失聴者・難聴者協会のメンバーが開催しているコミカルかふぇで、曽田さんが報告をするというので、田町の東京都障害者福祉会館へ行った。

曽田さんの報告、参加者による討議、それぞれに興味深い内容だったが、それ以上に、補聴器利用者が多数という場にいたことが僕にとってはたいへん貴重な機会だった。

報告・討議の後、場を移しての懇親会でも、筆談用ツールが何種類もテーブルの上に取り出されていた。僕も持ち歩かなくてはと思った。



2014年2月16日、日曜日午後0時29分。

今日は晴れて、一昨日から昨日朝にかけて積もった雪がどんどん溶けている。

先日から、期末レポートへのコメントを書いてメールで送っている。80人あてのメール、けっこうな数だ。



2014年1月2日、木曜日午前8時43分。

昨日、お世話になった伯母宅を40数年ぶりに訪ねた。このあたりだと見当をつけて路地に入って行ったら見覚えのある入り口に行きつかず、しばらく迷ってしまった。たどりついたら、ずいぶん前に亡くなった伯父の名前の表札が今も掲げられていた。

その後、母親の実家へ行った。ちょうど、いとこたちが里帰りしてそろってお節を囲んでいた。今学期の授業で紹介した日本学生支援機構の奨学金という名の教育ローンに関わる問題、高齢化する女子刑務所の記事について話をしたら、みんな驚いていた。

母親の実家でお雑煮をごちそうになった。みそ味だった。

午後、父親の車で熊本市内に住む伯母を訪ねた。まだ伯父が存命だった頃、弟と訪ねて以来だった。高校生の頃、伯母にお願いしてセーターを編んでもらったことなど思い出した。

僕の2014年は、過去を振り返る時間から始まった。




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昨年、亡くなったスティ-ブン・J・グ-ルドの本を買ってもらいたいと思っています。
紹介文をボチボチ書いていくつもりです。まずは机の側にころがっていた「THE MISMEASURE of MAN」のことを書きました。


by 斉藤 龍一郎




*作成:斉藤 龍一郎/保存用ページ作成:岩﨑 弘泰
UP: 20201231 REV:
アフリカ日本協議会(AJF) 斉藤 龍一郎 
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