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座談会「視覚障害者が高等教育機関で学ぶ スーダンと日本の経験を語る」




■参加者:

◇モハマド オマル アブディン:1977年スーダン・ハルツーム州生まれ 東京外国語大学大学院研究科平和構築紛争予防修士プログラム在学 全盲
星加 良司:1975年愛媛県生まれ 東京大学先端科学技術研究センター・バリアフリー分野助教 全盲
青木 慎太朗:1980年大阪府生まれ 立命館大学大学院先端総合学術研究科・グローバルCOE「生存学創成拠点」在籍、羽衣国際大学人間生活学部非常勤講師 右目・弱視 左目・視力なし
◇福地 健太郎:1984年大阪府生まれ 筑波大学在学 全盲
斉藤 龍一郎(司会):1955年熊本県生まれ (特活)アフリカ日本協議会事務局長

■主催:(特活)アフリカ日本協議会・立命館大学GCOE生存学創成拠点
 会場:東京大学先端科学技術研究センター3号館601号セミナー室
 日時:2007年8月9日午後2時〜5時40分



斉藤: 今日はお集まりいただいてありがとうございます。
  スーダン障害者教育支援の会を、アブディン君と二人のスーダンからの留学生、あとは、福地君の他に誰が集まって立ち上げたの?
福地: IさんとNさんという、どちらも筑波大の学生です。
斉藤: 6月に福地君とIさんが、3月にそういう会を立ち上げた、NPOにする時にどういうことを注意したらいいのだろうと、僕のところへ相談に来ました。僕は、これはチャンスだと思ったのです。
  スーダンの視覚障害者がどういう状況なのかを聞く機会なんてないですから、こういう時にみんなで聞いてみたいなと思ったのです。
  たんに聞くだけじゃなくて、割り合い歳の近い人たちがこうやって集まってもらえるようなところにいるから、若い世代の視覚障害者としての経験みたいなのを出し合う機会があるなとも思いました。
  また、みんな高学歴なので、障害者が高学歴になるっていうのはどういうことなのかっていう、これからいろんなところで議論の対象になったりもするようなことを議論できるとも思いました。
  国際協力の分野では今、初等教育重視派と、あと高等教育もしっかりやんなきゃいけないよっていう人達とがいます。
  日本の国際協力は、わりと初等教育重視派のようです。高等教育について懸念を抱いているのかもしれません。
  アフリカ諸国の場合だと、高等教育受けた人は、ソマリアだと6割国外にいると報告されています。西アフリカ諸国で2000年に行われた調査で、西アフリカ20カ国の大学卒業生の35%が国外にいるという報告もあります。そういう状況を見ると、たぶん、高等教育にお金がかけても、その国に残らない援助なんじゃないか、というような議論もあるのだろうと思います。
  もう一方で、健常者が先か、障害者が先かみたいな議論が、限られた資源分配なんて話のときに必ず出てきます。先日開かれた「障害とは何か」をテーマにした障害学研究会関東部会で、星加君がしゃべった話の中に、限られた資源の中での優先配分も課題ではないかという話がでてきたのですけど、そういうことにも繋がり得る話だと思います。
  高等教育に関わってる障害者が高等教育の経験を語る、今現にそういう機関にいる障害者が集まる機会って意味でもけっこう大きな機会だと思い、企画しました。
  予め皆さんにお送りしたレジュメにも書いたのですけど、この座談会記録を読むのは、視覚障害者はどうやって教育を受けているのかとか知らない人がほとんどです。なので、技術的な紹介も少し入れなきゃいけないかなと考えていましたが、幸いに、青木君のところでそういう準備はあるみたいなので、細かい部分は、彼に書いてもらっちゃおうかなとも考えています。
  なので、一般的な意味での障害者教育、視覚障害者の支援の在り方とか、そういうことについてはちょっと置いといて、できるだけ体験に即して話をしていただきたいのです。その方が、僕の興味・関心から言っても面白いし、たぶん読む人にとっても、リアリティーがあっていいんじゃないのかなと思うのです。
  もう一つ、国際協力との関係で言うと、JICAが緒方貞子理事長になってから、日本の援助政策の中で人間の安全保障っていう概念が強く打ち出されています。彼女は理事長になる前に、アマルティア・センと一緒に国連「人間の安全保障」研究会をやり、答申を出しています。そのことも関係あるのかもしれません。
  時間を、2時から5時まで頂いたので、時間的には割り合い余裕があると思うのですけど、僕も入れて5人で、他の人からもちょっと質問とか出してもらえるとまた違うアプローチがあるかと思うんで、その辺ではどっかで質問入れてもらえると嬉しいのですけれど、普通だったらメインになり得るスピーカーがいる座談会を2時間半ぐらいでやろうというのはかなり無理があるので、一応メインは当初の予定で、アブディン君と星加君を中心に話を進めたいというのでいますので、よろしく。
  青木君がかいてくれた事前資料の中にもあるのですけど、やっぱ一口で視覚障害者って言っちゃっても違うんだよということ、またそれぞれの経験によって違いますよね。その辺が見えるような形で、まず書いていただいたものを参照しながら、自己紹介兼ねた経歴紹介みたいな話を、10分ずつぐらい4人にしゃべってもらって、その上でこちらから質問をしていきたいなと思います。導入話題ってことで、先にお願いしたのが、1つは、視覚障害者として教育を受けた際の経験の中で、印象に残ってること、これはいわゆる障害って問題と関わりあるんだろうなってこととかいう部分ですね。
  2つ目は、さっき言ったように高等教育機関にいる中でやっぱ要求とか課題っていうのがあっただろうし、また、高等教育機関で学ぶってこととして、新たに見えてきたこととかあるだろうし。まあ、その辺ですね。
  その辺まで出してもらったとこで、後半にはスーダンに関わる話をアブディン君から少し詳しく話してもらって進めていければなっていうふうに思います。
  前半の2つのことだけでも10分じゃ納まりきらないかもしれないですけど、一応、10分目安程度で、多少延びるのはアリで、これから小1時間でまずそれぞれにお話していただこうと思います。
  それなりにインタビューも受けたりして、それなりに馴染みもあることでしょうから、星加君にまず口火を切っていただいて、始めましょう。
  
星加: 最もこの発言のための準備をしていない僕からでいいのかって思うのですが(笑)。本当はきちっとまとめて、今日のためにまとめたものを用意できればよかったのですが、ちょっと余裕がなくて、できていません。
  というわけで、みなさんには以前にどこかでしゃべったことの資料をお送りしてあるという状態です。その内容をふまえながら、じゃあ10分ほどお話をさせていただきたいと思います。
  私のプロフィール的なことから申し上げますと、現在は、この東京大学の先端科学技術研究センターのバリアフリー分野というところで、助教という肩書きで、まあ、教員の端くれの仕事をしています。
  先端研に来たのは一昨年なのですが、それまでは同じ東京大学の社会学研究室で、学部から大学院にかけての期間を過ごしていまして、10年ぐらいはその社会学研究室にいました。
  で、その前を振り返っていきますと、まず出身がですね、愛媛県です。愛媛県は、みなさんご存知だと思いますが、四国の4県の1つで、まあ、端的に言うと、田舎です(笑)。さらに、まあ、保守的な所ですね。まあ、先日選挙がありましたが、ずっと保守王国と言われていた県の1つで、教育に関しては非常に熱心ではあるんだけれど、基本的には保守的な土壌の所です。
  私が生まれたのが1975年ですので、学校に通い始める時期というのは、今から25年ほど前ですかね。1980年代前半に小学校に入学ということになったわけです。
  私はその前に、小学校入学以前、5才の時に、失明していまして、以来全盲です。全盲の視覚障害を持っています。
  小学校に入学する時点で全盲でしたので、その時に、盲学校に通うのか、あるいは地元の学校に通うのか、―まあ、所謂統合教育というやつですが―を受けるのかという選択があったわけです。選択と言いましても、愛媛県では、当時、全盲の児童が小学校に入学するという事例は全くありませんでした。
  私は失明する過程で東京の病院に入院していました。その関係があって、うちの親は、僕が失明した時に、これからどうしていこうかという話を病院のお医者さんや看護師を通じて相談していた時に、東京ですでに統合教育―普通の学校に通うということ―は得られていましたので、そうした前例というか先輩方の話を聞く機会に恵まれていまして。うちの子供に関しても、もし親元から普通の学校に通わせることができるのであれば、そういう選択をしたいというふうに思って、地元に帰ったわけです。
  ところが、全く前例のないケースで、しかも保守的な土地柄ですから、そういう希望を出してもなかなか認められないという状況がありました。僕自身は幼いころなので、おぼろげながらの記憶しかありませんが、かなり教育委員会との交渉が大変だったようです。あまりにも交渉が大変そうだというのをNHKが嗅ぎつけまして(笑)、たぶんこの要求は認められないだろうけども、認められないということ自体も、ニュース的な価値があるということで、取材を始めたというのが、当時のことです。
  実はその取材がずっとその後続いていくことになりました。なぜ続いていったかと言いますと、いつ、もう無理だから盲学校に行きなさいと言われても不思議ではない状態が続いたので、取材もずっと続けざるを得なかったということだそうです。それで結局大学まで映像が残っていて、後で番組になるというようなことでした。
  できた番組を見ると、大学入学するところがクライマックスになってますんで、そのために撮ったんじゃないかという説もあるのですが(笑)。先見の明があったというふうに思いがちなのですが、全然NHKの手柄ではないのです(笑)。見る目があったわけではなくて、やむを得ず取材を続けていったら、結果的に大学入学がクライマックスになったと(笑)、ということのようです。
  そのぐらい厳しい交渉の中で実現した統合教育でしたので、いろいろ条件が付いていたわけです。基本的に学校あるいは受け入れた行政としては、教材の点訳等の準備はできない。それから、学校生活に関わって起こったあらゆる安全上の問題については責任を負えない、ということで、それら、安全の確保と教材の準備ということについては保護者の責任でやる、ということを条件にして、入学がようやく認められたという状態です。ですので、小学校に入学した当初というのは、私が失明したのが5才ですから、そこから僕自身も点字を習い始めましたし、家族、主に母親ですけれども、母親もその時点から点字を習い始めてますので、なかなか教材を点訳するといっても、勉強しながら並行して点訳をするというような感じで、まあ、自転車操業的にやっていたっていう実感があります(笑)。
  それでも、小学校入学当初というのは、教材の量自体はそれほど多くないですから、母親プラス一部の協力してくださるボランティアの方々ということで成り立っていたのですが。それがどんどん学年が進んでいくに連れて、教材の量も多くなりますし、あと、点訳上のスキルも必要になってくる…、例えば、いろんな記号ですよね、特殊な記号の点訳ということがでてきたり、それから、漢字の読みなんかについても一般的に分かるというものだけではなくなってくるというのもあって、学年が進むに連れて、なかなか周りの人たちだけでは対応できなくなっていったという流れです。
  ただ、教材が準備できないという状態になると、その時点でもう統合教育は無理だから盲学校に行きましょうという話になるので、親としてはそういう判断はできない、そういうことは認められない、ということで、結局、全国のボランティアの方にネットワークを広げてお願いしながら、…中学・高校と上がるにつれて、関西・関東含めて全国の点訳ボランティアの方々に、教材準備から、またテストの問題などの点訳に関してもお願いするという形で、かなり幅広いネットワークを作って対応してもらったというのが現実です。
  けっこう長く話してしまいましたね(笑)。
  
斉藤: 大学入学までの一番印象に残ってること、とんで大学の話しないと時間が足りないみたいですね(笑)。
  
星加: そうですね。(笑)
  大学入学までに印象に残ってることはたくさんあるのですが…。
  入学の時点でも大変だったし、常に統合教育を続けられるかどうかという目にさらされていたっていうことを申しましたが、それは、小学校の頃は1年ごとに教育委員会が審査をするのですね。年度末になると。今の状態で来年度もついていけるかどうか、勉強についていけるのか、それから学校生活が円滑に送れるのかっていうことを審査されるような状態で進んでいったわけですが、ただ、まあ、そうは言ってもですね、小学校・中学校は義務教育ということもあって、一度それなりに軌道に乗って、レールに乗ってしまえば、まあ、ある程度勉強に関しても付いていけるという状態であれば、なかなか、統合教育は無理だと判断するのも難しかったんだろうと。教育委員会としても難しかったんだろうと。
  
斉藤: その頃の成績は5段階評価でいうとどんな感じだったの?
  
星加: 小学校の頃は…小学校3・4年生ぐらいまでは、5段階で5はほとんどなかったですね。音楽ぐらいですね、5だったのは。あとは、まあ、3とか4とか。で、まあ、体育とか図画工作なんかは1とか2とか(笑)。もう、全部揃ってる、みたいな(笑)。そんな感じだったのですけど、小学校5年生ぐらいからですかね。授業が楽しいと感じるようになりまして。それは、勉強が楽しいと感じたというよりは、面白い先生がいたのですね。で、面白い先生がいると、授業中に先生が言ってることに突っこんで、クラスメイトを笑わせたり。あと、先生をちょっと困らせたり(笑)。なんかおもしろくなったのですね(笑)。
  
斉藤: やっぱ、こういう話を聞かないと。今日は(笑)。
  
星加: 今考えるとね、迷惑な子供でしたよね(笑)。学級崩壊になるんじゃないかとか(笑)。
  でも、まあ、当時は、それで授業に関心を持ったのですね。突っこむためには一生懸命聞いてないと突っこめないですから。そのために一生懸命聞くようになったのですね。そうすると、その教科の成績が良くなっていって、その1つ・・・たぶん、その時は社会だったと思うのですけど、社会科の成績が良くなると、他の勉強に関しても、よく分かることとか、テストでちゃんと答えられることの面白さとか達成感とか満足感みたいなものを求めるようになってきて。まあ、あんまり面白くない先生の授業も、一生懸命聞くようになって(笑)。まあ、相乗効果はあった気がします(笑)。
  そりゃもう、小学校高学年ぐらいから、中学校の頃とか、もうほんと、そういう状態で。今では信じられないのですが、席替えとかあるとですね、前の席に行きたいみたいな。別にそれは、視覚障害に関することじゃなくて(笑)、前に行かないと、どうしても先生とのリアルタイムなやりとりが持てないので。まあ、前にいたから、よく叩かれもしましたけどね(笑)。うるさいとか(笑)。
  そういう状態で、小学校・中学校ぐらいに、勉強の面白さ、あるいは授業に入り込んでいくことの面白さみたいなものを体験したと。
  その後は、高校に入ってから、あるいは大学受験をするときっていうのは、特に面白いからやっていたというよりも、そのぐらいの段階になってくると、ある意味で、教科の成績が一定水準以上にあることが、自分自身のアイデンティティになってくる、あるいは、自分の存在理由を確かめる1つの指標になってたりとかだったんで。それは、大学に入って、大きく崩れるわけですが…(笑)。
  大学受験までというのは、ペーパーテストの点ていうところで、自分がもちろん普通学校に行く中でいろいろできないこともあるわけですけども、そういう中でも、自分なりの居場所というか、存在意義を見出し得ていたのは、そういうペーパーテストの点数・成績っていうものも影響していたなというふうに、後になって振り返ると思いますね。
  
斉藤: なんか、すごい共感を覚える話。(笑)
  
星加: それがもう、大学に入って、大きく崩れるわけですよね。(笑)
  というような感じで、大学に入りました。
  
斉藤: 今の話はどこでもしゃべってないんじゃないの?(笑)僕はどっちかっていうと、そういう話の方が共感を覚えるわけよ。(笑)
  高等教育機関に学んでっていうところで、学んでその後、今も行っているっていうことで、感じることっていうのをお願いします。
  
星加: 大学に入って、どういう支援体制になったのか、あるいは教材を準備するという意味でどういう仕組みでそれをやったのか、ということについて。今の話の関連で言いますと、大学に入って、大きな変化が自分の中に起こったわけです。
  一つは、今言ったペーパーテストの成績とか、あるいは偏差値とかいったものを、自分の拠所にどこかでしていた部分があったものが、大学で授業を受けて、大学で学習の仕方を学んでいく中で、そういうものは基本的に何の意味もない、通用しない話だったことに気づくわけですね。
  大学受験まで、高校までの勉強というのは、与えられた問題に如何に出題者の意図通りの回答を出すかということの能力が問われてきたわけですけれども、大学で、特に僕の場合は人文系あるいは社会科学系の関心がありましたから、その辺りの領域の勉強とか研究っていうものは、まず、良い問いを立てる、問題を見つけるということが非常に重要で、で、その問題に対しても答え方が実は多様にあって、その答え方のオリジナリティ、他の人が言わないような答え方を、しかもそれが意味のある答え方をしていくというのが求められるんだということに、気づくわけですよね。
  そのことが、少なくともそれまで拠所にしていた自分の価値基準というものを壊して、何か新しいものを、自分固有に何か持っているものというのを見つけて伸ばしていかないといけないんだという問題意識に繋がった。それが、その後、大学院に進学して研究の道に進むという一つの大きなきっかけになっていると思います。
  それから、大学に入って、僕はその時点で一人暮らしを始めたわけなのですが、その辺りも自分の障害と向き合うという意味では非常に大きな転機だったかなと思ってます。親元にいて、極端に言うと、勉強だけしていればいいときというのは、自分の生活上の困難というものを経験することはないわけですし、自分の視覚障害、全盲であるということに伴う様々な困難というものも、多くは自分自身が経験するものではなく、周りの人がカバーすることでそのニーズを満たしてもらっていたと。自分自身は周りの人がやっているのを眺めてればよかったという状況だったわけですけども、一人暮らしを始めると、うまく自分の中でやり方を見つけて満たしていけるニーズもあるし、あるいはこれはどっちでもいいからもうやんなくてもいいやといって切り捨てるニーズも出てくるわけですけども、いずれにせよ、自分の障害によって、何ができて何ができないのかっていうようなことを見つめ直すきっかけになっていったと思うのです。
  そのことは、単に自分の障害について見つめ直すというだけじゃなくて、そうした障害があると困ってしまうこの世の中の仕組み、あるいは社会の在り方っていうのはどういうものなのかということについても、同時に考えるきっかけになっていったと思うのですね。
  そういった変化、自分の障害、あるいは自分の障害を取り巻く社会の在り方について考えるようになったということと、さっき言った所謂偏差値を中心とした価値基準ではなくて、自分で問いを見つけて、それへのオリジナルな答え方を探求していくというようなことが大学で求められてくるというところが有望したところに、今の僕自身の研究テーマが立ち上がってきたんだろうなというふうに思います。
  その意味では、高等教育を受ける中で、自分自身の問題意識、あるいは自分の様々に抱えている条件ならではの、世の中に対する見方・考え方というものを、整理したり分析したりするという社会との関わり方を見つけられたのは、高等教育を受ける中で醸成されていったものなんだろうなというふうに思います。
  さらに言えば、大学での学習を可能にした条件が、大学で提供されていた、あるいは大学の中で周りの人達の手によって提供されていた支援の在り方ということなのですね。
  それまで親元にいて、親が教材準備について責任を負って、各地のボランティアの人たちにお願いをして準備をしてくれていたという状態から、東京大学に入った後は、基本的には大学が必要な教材の準備については責任を持って…、責任を持つというか、手配すべき努力をしますという状態にはなったのですね。
  
斉藤: 録音テープとかも作ってくれるようになったんだっけ?
  
星加: 今、東大には、バリアフリー支援室というものがありまして、それができたのがですね、2002年とか2003年とかその辺りなのですが、バリアフリー支援室ができて以降というのは、基本的に大学の責任において制度的に支援を提供するという形になったので、必要であれば、対面朗読や、音読でテープやMDに録音するというようなことも、可能な範囲でということにはなりますが、やってくれるという形にはなってます。
  ただ、それまでも、様々な方、― 研究室の単位であったり、あるいは担当の事務のスタッフであったり、 ―という人達を中心に学生や院生を巻き込む形で、支援体制っていうのは作っていってもらってました。
  その意味では、東大は全盲の学生が入ったのが僕で三人目でしたし、社会学研究室にも、かの有名な石川准さんがかつて在籍していましたので…。
  
斉藤: 僕は、彼が入学した時の学生だから、覚えがある。対面朗読室ができたっていうのがすごい印象に残っているわけね。
  
星加: そういうわけで、実際のノウハウは残っていたわけではないのですが、少なくとも精神は残っていたということで(笑)、何か提供しなきゃいけない、提供したらきちんとそれなりの成果は出てくる、というような、謂わば、成功体験はあったわけです(笑)。そのことが十分であるかは別として、支援体制をきちんと構築しようという姿勢に反映していたんだなというふうに思います。
  基本的に、大学に入学して以降というのは、僕自身が高校までに経験してきた「基本的に学校や行政は責任を持たない」という体制から大きく転換をして、「大学の中で可能な範囲については支援を提供する」という形になったので、それは僕にとっては非常に大きな前進として感じましたし、そのことによって、自由な学習環境を確保してもらったなと思っています。
  ただ、先ほど触れたバリアフリー支援室ができたっていうのは、非常に大きな、その中でも大きな転換だろうと思ってまして。バリアフリー支援室ができたときはもう僕は博士課程の終わり頃の方で、実際、自分自身が博士論文を執筆するというような段階でしたので、支援室との付き合いというのはそんなに深くはなかったのですけれども。それにしても、それまでの支援体制というのは基本的に動いてくれる実働部隊というのは、学生だったり院生だったりするわけで、その人達はその人達の都合もあり、あるいは、結局、僕自身が忙しい時期、たくさん本を読まなければいけない時期というのは、周りの同僚においても同じように忙しいわけで(笑)、依頼をするにしても厳選したり、あるいはある部分は諦めたりというような抑制が働いていた…、これは、意識的・無意識的に関わらず、抑制が働いていたと思うのですが。
  大学の責任において支援を提供するという形になったことによって、基本的には自分のニーズを、抑制した形で表明しなくてもいいんだということを感じられるようになったという変化が起きまして、そのことは非常に大きな違いだろうなと。結果的には同じ量の支援が提供されるにしても、それが完全にボランタリーな活動に委ねられているのか、ある種の公的な保証の上でなされるのかによって、支援の提供を受ける側の感じ方っていうのは大きく違うし、そのことによって自由度も大きく違ってくるということは感じてますので、その変化というのは強調しておきたいなと思います。
  
斉藤: 最後のところは、国際協力にもすごく繋がる話ですね。
  
  
青木: こんにちは。青木です。アフリカのことなど私はほとんど今まで勉強したことがないので、よくわからないのですけれども、よい機会ですので、とりあえずやってまいりました。
  2日か3日ぐらい前にメモを一応はお渡しはしていますが、どうせそのまましゃべりはしないと思いまして、私がこれまでどういうふうに生きてきたか、視覚障害者として教育面に関してどういうふうにしてきたかみたいなことをざっと書いたものを、一応お送りはしています。とりあえず、それに沿う形で簡単に話をします。
  私に関して特に言っておくべきことは、つまり、今お話になった星加さんとか、たぶんこの次に話すのだろうと思われる福地君と大きく違うところは、点字を使用していないということ。私は視覚障害者ですけれども、点字の使用をしていません。一応勉強はしたので、ゆっくりであれば読めますけども。使用文字としては拡大文字を使っている、弱視であります。ということが、まず、大きな違いであろうというふうに思っております。
  弱視がどんなものかという説明は割愛しますけれども、つまり、少し言えば、今パソコンが目の前にありますけれども、私の場合、画面にかなり文字を大きく表示させて見ております。こういうふうにして、画面を読むことができると。もちろん、音声ソフトも入ってますんで、必要に応じて音声も使っていると。そういうふうにして、勉強もしています。
  よく聞かれるのが、「どういうふうに見えますか」ということなのですが。私は先天性の視覚障害の弱視です。そうすると、弱視って、よくみなさんが興味を持たれて、「どういうふうに見えるのですか」というふうに聞かれるのですけれども、普通に見える状態っていうのを、私は知らないので、どういうふうに見えるか答えようがないのです(笑)。「いや〜、僕こんなんなのですけど」みたいな感じです(笑)。
  ただ、僕の場合は、右目しか見えていないので、そうすると、例えば、幼稚園ぐらいの集合写真なんかを見ますと、全部ですね、私は顔が傾いてるのですね。と言いますのは、私、カメラの方を真ん中にしようとするから、僕の中では、普通、皆さん、たぶん、見えてる方は、鼻は目と目の間ですから真ん中に見えてるはずなのですけど、僕は鏡を見ると、どう考えても目と目の間に鼻があるはずなのに、自分の中では鼻は左下にあるのですね。(笑)なんか変だなとは子供ながらに思ってはいましたけれど、それがなんでなのかってことはずっとわからないまま。わかったのは、たぶん、小学校入ってちょっとしてからだったと、小学校3年か4年ぐらいだろうなと思うのですけど。そうすると、写真が全部横向いてる。集合写真で、「はい、真ん中向いてね」って言われて、それを意識して撮ってるのに、いっつも僕は鼻が横向いてると。それを、だんだん自分もわかってきて、そうすると、ちょっと無理矢理右の方を意識的に向いたら真ん中になるんだろうなと思って、小学校の途中からしてるのですけど(笑)。そうすると、今度は、顔はまっすぐになってるのですが、目がいっつもいがんでる(笑)。「なんか、変わった写真ばっかりや、昔の写真は。」ってなるのです(笑)。
  集合写真の話が出ましたけど、私は、幼稚園と小学校までは地域の学校に通っていました。単眼鏡っていう、双眼鏡の片方だけのやつ(笑)、望遠鏡(に似ている)、こういうレンズを使って黒板を見ておりました。これで黒板の字を見て、1番前か2列目ぐらいの席にいました。手元の方を見るときには、この弱視鏡、弱視眼鏡という右しかレンズは入っていません、左はたぶんガラスですのものを使います。見えてるのは右だけなんで。こういう器具も使っています。それを交互に使いながら、単眼鏡で黒板を見て、手元のものはこのめがねで見るというふうにして、授業を受けていました。
  ただ、非常に忙しいですね。黒板見て、また下見てって、器具をいちいち使い分けなければならないのです(笑)。ですので、基本的に手元のものは、あらかじめ拡大コピーをしておいて、そうすると、一個器具を使わなくてすむので。というふうにして、小学校の頃は、特に教科書の文字が小さくなる4年生・5年生ぐらいは、そういうふうにして勉強をしておりました。
  実は、私はその頃、星加さんと違って、全然勉強することが楽しみなんて思ってなくてですね(笑)。テストは、ほとんど20点とか30点とか、ひどいもんでですね(笑)。特に漢字の書き取りとかっていうのがあるのですけど、たぶんそれは、視覚障害の部分もあると思うのですが、やはり苦手で、ほとんど、ハネ・トメ・ハライが間違ってるとか、画数が違うとか、棒が一本多いとか、っていうので、よく間違いをしておりました。
  勉強する気も全くなくてですね、もう学校は遊びに行くところだと思ってましたので(笑)、勉強しませんでした。で、それでちょっと、うちの親が、「これじゃいかん」と。「この子は将来これじゃいかん」ということで。おそらく、それが一番大きな原因だろうと思うのですが、中学校・高校と盲学校の方に行くことになりました。それは、少人数制でビシバシやってもらおうということで入ったわけです(笑)。
  もう一つ理由がありまして、これはメモには書いてないのですけど。実は私は、小学校5年生の時に、一回引越しをしたのですね。それで、転校をしたのですね。そうすると、その時に、転校先で、見えているのか見えていないのかということを原因とする誤解から生じるいじめを受けて。「あいつは見えてるのに、見えてないふりをしている」と。だから、自分でやろうと思ったらできるのに、周りに甘えてるだけだと。だから、あいつはちょっとだめだというふうに、非常に冷たくあしらわれると。転校する前の学校では、僕が何ができて、できないかっていうのをみんなが当然のように知ってたと。まあ、幼稚園の時から一緒ですから。例えば、誰かが前を歩いてるとついてく。だけど、消しゴム落とすと拾えない、探せない、ということは、たぶん、僕がそういう人間だっていうのを、みんな分かってたんで、何もなかったのですけれど。やっぱり、転校先で、・・・まあ、僕自身の振る舞いにも問題がたぶんあったんでしょうけど、というのは、当然分かってるもんだと思うから、「ああ、消しゴム落としたん、ちょっと取って」っていうふうに言うと、「え?お前、何見えとんのにそんなこと他人にさせんねん。面倒くさがりやなあ。」みたいなことを言うのですね。それは違うのですよ。ほんとに見えてないから頼んだのですけど。その時に頼み方の問題も、今から考えるとですけど、あったんでしょうけど。まあ、そういう誤解があって。
  そういった問題、つまり、いじめの問題と勉強をしなかった問題とを含めて、総合的に判断して中学校から盲学校まで行くことになりました。
  盲学校の方は、点字または拡大文字による教育をしているので、教材とかも全部確保はしてもらっていて、その辺の問題っていうのは全然、・・・小学校のときはけっこう拡大(コピー)の教材用意したりっていうこと、・・・まあ、用意するっていっても拡大コピーするっていうぐらい、ほとんどそれ以外のことは特に・・・あとは、カラーの地図帳をちょっと特別に他の人に作ってもらったりっていうことはありましたけど、それくらいで、ほとんど特に何かあったわけじゃないのですけども、盲学校に行くと、より快適なというか、そういう視覚の面で不自由をしない環境で勉強することができて。あえて、格好良く言わしてもらうと、勉強することの面白さがある程度わかったのが、中学校に入ってからですね。「お、勉強したらけっこうおもしろい」っていうか。それでも、授業中寝てましたけど(笑)。3人とか4人とかのクラスで寝るというのは大変で(笑)、すごい、前から叩かれました(笑)。
  高等部も、大学に進学をしたいという希望をずっと持って、盲学校の高等部に入りました。盲学校の高等部から大学に行く人っていうのはほとんどいないので、なかなか学校側も対応ができない。一応、選択科目、・・・高校になると選択科目が出てくるのですけど、クラスがただでさえ3人か4人かそれぐらいなのですが、選択科目なんかはもうマンツーマンになったりして。マンツーマンの授業でも寝てました(笑)。ある意味密度の濃いというか、なんでもわからんとこはすぐに質問ができるような環境で教育を受けることができたと。それがよかったかどうかは分かりませんけど、そういう環境で自分は勉強したということです。
  それだけの勉強でいきなり大学に行くことに対して、やはり自分自身で不安があったので、高校の時から予備校に通っていて。予備校の方では、普通のテキストを使って、当然一般のクラスで授業を受けるわけなのですけれども、教材は自分で拡大コピーをして、あと模擬試験とかプリント類も拡大のコピーをしてもらって、座席は一番前の真ん中の黒板が見やすい位置を確保してもらって、勉強をしていました。先生方の方からも、割りと理解のある方々が多くて、「板書が写せなかったら、後でいくらでもサポートするから、とりあえず授業は聞いとけ」という風な感じで、サポートを受けて。実際にそういうふうにして支援を受けて、実際に質問に行ったりして面倒を看てもらっていました。
  そのことが大学に入学してから、非常に役に立ったんだろうなと思うのですけれども。盲学校卒業して大学に入りましたが、自分に必要なサポートがどういうことで、どういうふうにして自分が準備をしていけば、大学の授業を快適にというか、特に不自由なく受け入れることができるのかということが、その時の経験である程度わかっていたので、例えば、よく教科書を使う授業に関しては、あらかじめ拡大をしておくとか、先生に対してどういうものを配慮・要求するかっていう・・・、先生方に対して、「プリント類はこうしてほしい」とか、「板書についてはこういうふうに書いてほしい」とか、「後でこういう質問するから迎えてほしい」とかですね、っていうことを、ある程度まとめて要求することができたんじゃないかなってその時は思っていました。
  あとは、大学になると、ビデオとかスライドを使うことが非常に多くなってくるわけですけれども、ビデオ、特に字幕のビデオなんかの場合、やはり中身が理解できないので、そういうときは先生方が今どういう字幕が出てるっていう画面の説明をしてくれる。もっと親切な人になると、字幕の場合でなくても、いわゆる副音声解説のようなことを先生がやってくれる。先生は、あらかじめどういう内容か、もちろんビデオを分かってるわけですから、それを知った上で、「今こういう場面だよ」っていうことを説明してくれるっていうふうにして、サポートを受けていました。
  僕の関心がやはり視覚障害者支援とコンピュータ関係のことなので、そういう関係もあるのですが、やはりパソコンを・・・、僕が大学の学部に入ったのが1999年ですが、その頃ちょうど大学の基礎科目というか必須科目に、語学と同じような扱いになってコンピュータを扱う授業っていうのが入ってきた時期だったのです。しかし、視覚障害者の場合は、一般のクラスで受講しても全然わかんない。というのは、学校の、あらかじめ用意されたコンピュータで授業を受けると、設定が全部小さいのですね、画面が。画面が小さくて読めない。しかも、設定を変更できないようになっている。それじゃ全然授業にならないので、別のパソコンを用意してもらって。そこに、音声ソフトとか、・・・僕画面拡大ソフトは使ってないのですけど、あらかじめ画面を大きく表示するように設定を変更したりはしますが。まあ、そういう風な設定の変更とかはしてやっていたという感じです。
  学部と大学院修士までは、京都の同志社大学というところにいまして、博士課程から立命館大学っていう、京都ではライバル校なのですが、「ライバル校からライバル校へ移るというのは、お前は裏切り行為だ」というふうに言われたりもしました(笑)。まあ、関東で言うならば、早稲田から慶應に移るというようなもんなのですけれども、そういうことで、今は立命館大学の方にいると。先端総合学術研究科というところにおります。
  立命館は、障害学生支援の制度はありますけれども、まだできたばっかりで、かなりやはり遅れているという現状があります。それを言い出すと、たぶん私は、悪口を30分でも1時間でもしゃべってしまうので、このへんでやめます(笑)。結局、先端総合学術研究科の方で、様々な必要なものを買ってもらって、使っているという現状です、今は。ですから、大学の障害学生支援の予算で買ったものは、あまり使ってないというか、使い物になんない。まあ、使い物になんないというのが、僕の本音なのです(笑)。なので、使ってないという状態です。
  論文を読む場合なんかは、例えば、拡大コピーをしてある程度は読む場合もありますし、テキストデータにして音声ソフトを使って読むこともありますし、画面に拡大して読むこともありますし。その3つのどれかをだいたい使っています。
  今までの生立ちと現状とを、大雑把に言うとそんな感じなのですが。
  
斉藤: 最後に、今、教えてる大学の話してください。
  
青木: 実は、今年からなのですけれども、大阪の羽衣国際大学っていうところの非常勤講師をしておりまして。じゃあ、教える上での支援っていうのはどうなのかっていうことを、最近ちょっと関心の方を持ち始めたのですが。
  その大学は、非常に小さい大学で、障害を持つ学生はいないと。学内点字ブロックもない。エレベーターも一つしかないと。そうすると、車椅子の人がもし入学した場合、使える教室がすごい限定されるという。なんか、おもしろいというか、笑うに笑えないという(笑)、そういう状態なのです。まず、学校自体がそんなに新しくない。元々、短大だったのですね。5年ぐらい前に共学にして、4年制大学に切り替えたような大学なのですが。だから、学校自体は古いんだけども、大学としては新しいと。そういうところなのですけれども。学内に点字ブロックもない。「たぶん、視覚障害者で白い杖を持って歩くのは、あんたが初めてだろう」ということを言われて。まあ、教員の中で、最重度障害者なのですけれども。
  支援がどうなんのかなって、非常に心配だったのですが、なんでも言ったらその通りにしてくれるというか。たぶん、向こうはなんも分かってないのです(笑)。「ま、言われる通りにしとこうか」という感じです(笑)。立場が立場なので、例えば、学生分の教材の印刷を依頼することができるのですけれども、教務の方に。「これは来週使うプリントなので、印刷してください」と言ったときに、ついでに、「1枚、拡大コピーをお願いします」と言うと、当然授業で必要なものですから、拡大コピーをしてくれるとかですね。
  教えているのは、介護福祉関係の学科なのですが、実習助士が雇われていて、その人達が割りとなんでもしてくれますので、割りと細かいことも含めてお世話をしていただいてまして。その意味では、非常にいい環境で仕事をさしてもらってるなというふうに思ってます。
  僕自身が授業をしていて、・・・黒板も少し見えていて書けるので書いたりするのですけれども、黒板を先程のめがねで見ながら、読みながら、黒板も書きながら、けっこう忙しいのです。(笑)黒板を最初書かなかったら、僕は視覚障害ってことを言っているのですけど、学生から「黒板書いてほしい」というリクエストがありまして。こいつら、なにもわかってないだろうと(笑)、思いながらも、しゃあないかと思ってですね。そうしないと理解できないと言われてしまうと、授業もわからないと言われてしまうと、やはりこちらもサービスを提供する側としては仕方ないなと思ってですね。(笑)一応、できなくはないんで、やろうかなとは思ってるのですけど。なんとか今、がんばって黒板書いていて。そうすると、また別の学生が、「先生、無理に黒板書かなくていいですよ」と。(笑)いったい、どうすりゃいいんだろうなと感じて今仕事をしているのですが。(笑)
  立命館はですね、特に自分が学生だからだろうけども、「こういうことが必要なのです。してください。」って言っても、なかなかやってくれないのですが。なんで、お前が言うことをそこまで聞かなあかんねんっていう感じで、けっこう事務方が口うるさいのですけど。その点、割りと、非常勤だろうとも一応教員だからだろう思うのですが、その辺は非常に助かってます。
  
斉藤: あともう一つ。星加君は、高等教育機関に行くっていうことの隠れたテーマとして、一人暮らしをするっていうのがあったみたいだけど(笑)、そのへんはどうなのですか?
  
青木: そうですね。私も今、京都で一人暮らしをしています。今、大学が変わったので2軒目なのですが、全部合わせて、通算7年目になります。大学の途中までは自宅から通ってましたけれども、3年生からはもう一人暮らしを始めました。前の家に4年いて、今の家に3年目です。一人暮らしをしていますが、不自由なことはそれなりにあります。市内で公共交通機関が自由に使えるところなので助かっています。実家は、大阪府下なのですが、ちょっと田舎の方にありまして、公共交通機関ではちょっと生活しにくい、車がないと移動できないような環境です。うちの両親は車を運転しますけれども、その車がないとなかなか電車にも乗れない、出かけられない、というのもあって、非常に窮屈だったのです。現在は、すぐ、地下鉄、バス、電車、なんでも乗れる状態なので、そういう意味では非常に自由になって、いいなあと思ってます。心配なのは、食生活です(笑)。
  ちなみに、掃除に関してですが、公的制度のホームヘルプサービスを利用してまして、週1回、ヘルパーの方が来て掃除をしてくれるので、その辺りは助かっています。ただ、整理整頓はしてくれないので(笑)、いつも呆れられてます。うちの母親がもう一人増えたようなもんです(笑)。うちの母親よりちょっと年上のおばはんが来るのですけど、来る度来る度、「青木さん、もうちょっとここきれいにしたらどないですか」って、いつも言われてるのです(笑)。「そりゃ、片付けへんけどね。勝手に片付けると、場所わかんなくなるでしょうから、それはしないけど〜。もうちょっと、何とかした方がいいですよ」って言われてるのですよ(笑)。そういう人たちのおかげで、快適な環境で生活することができていて。食生活はほとんど外食ですけど。それでも、なんとか生きていくことはできてます。
  
斉藤: 星加君は、「小学校・中学校と統合教育の圧力が」って話だったけど、青木君が小学校行った頃っていうのは、別に大阪辺りでは特に圧力はなかったのですか?
  
青木: いろいろあったらしいですよ、私の時も。ただ、小学校になる時は特にありませんでした。というのは、幼稚園からそのまま、向かいにある小学校に入ったので、全然問題なく、引継ぎもうまくいって、順調に入れたのです。幼稚園に入る時、ちょっといろいろあったらしいですね。うちの母親が、当時非常にひいきにしていたクリーニング屋のおばちゃんと「この子、幼稚園どないしよう」と話をしていたら、クリーニング屋さんが、「困ってるんなら、その家につないだる」って言って、顧客の議員さんと繋いでくれたのです。その市会議員さんとうちの母親と私と3人で教育委員会に乗り込んで(笑)、「この子は幼稚園に行くことができないのですか」と。そういう口調で、議員さんが教育委員会の担当者に言ったらしくて。そうすると向こうが、「すぐ、園長呼んで、面談します」ということになったのです(笑)。
  その後、うちの母親と私と向こうの幼稚園の園長と、あと担当の方々と面談をしたらしいのですけれども、私は全く覚えてません。母親から聞いたエピソードなのですが、その時にいろいろテスト紛いなことをされたらしいのです。前にジュースを出されて、「どうぞ」と言われてそれを飲むかとかですね。問題なく、つまり、こぼしたりせずに飲めるのか。まあ、少し見えているわけですから、どの程度見えてるのかっていうテストみたいなことを兼ねて。で、「じゃあ、ちょっと遊ぼうか」みたいなことを言って、先生方と玉ころがしをしたりして。ボールを転がしたりして、遊んでたらしいですね。それは全部もうテストなのですけど、僕はもちろんテストやと思てなくて、ただ遊んでるだけやと思ってて。(笑)どうも、その時に、不慮の事故で、ボールが転がってっちゃったらしいのですね。僕のとこにボールが来ないで、なんかの拍子に変なところに転がっていったらしくて。ただ、僕はそれを追いかけてすーっと取りに行ったのですって。それで、幼稚園側も「あれができるんやったら問題ないな」と。安全に玉を拾いに行って返しに来たので、それを見て、「ああ、これならたぶん、幼稚園に受け入れても問題ないだろう」ということになった、というようなエピソードを母親から聞いております。それのおかげでというか、まあ、幼稚園に入れたので、小学校のときは、幼稚園で特に問題なくやってたっていうこともあって、小学校にはすんなり入れたと。だから、中学校も希望をしてれば、たぶん問題なく行けたんだろうなとは思うのですけれども。まあ、自分の方から逆に盲学校の方に行くと判断をしたので、盲学校になりましたけど。
  
福地: 僕は出身は大阪です。保育所は、高槻の保育所に行ってました。青木さんの話聞いて、親はどうしたんかなっていうのをふと。あんまりエピソードを聞かなかったんで、なんか、うまく入れたんじゃないかなと思うのですけれども。とりあえず、保育所の年中さんまで行ってました。父の仕事の都合で、鹿児島に引っ越すことになりまして、私立の幼稚園に入りました。ここでも、親はなんにも言ってなかったんで、問題なかったんじゃないかなって思うのですけれども。まあ、とりあえず、受け入れられました。
  鹿児島で小学校に上がる段になって、さっき星加さんが言ってたように、教育委員会にだめと言われて、「盲学校に行きなさい」というふうに言われました。鹿児島も保守的だったので、星加さんよりだいたい10年ぐらい後になるわけですけども、やっぱり、なかなか認めてもらえませんでした。僕がいた学区の小学校の先生も協力はしてくれたのですけども、校長先生とかはやっぱり教育委員会との板挟みみたいになったので、「どうしても受け入れるわけにはいかない」みたいな感じになっていました。親はだいぶ交渉して、新聞やテレビにも声をかけたみたいですけれども、最終的にはだめでした。実際、一週間ぐらい無理矢理登校してたのですけど、全然僕は記憶はないのですけど、机が外に出されてたとかいうこともあったらしいです。親は、ずっと鹿児島で粘るよりも、だったら元々住んでた実家のある大阪に引っ越した方が早いんじゃないかっていう決断をして、枚方市を選んで、母親の実家が枚方市に引っ越しました。そこでは、ほんとにラッキーなことに、教育委員会からも理解を得られて、入ることができました。実際、たぶん、交流学級っていう枠組みになってたと思うのですけど、実質、普通の教室でみんなと一緒に学んでました。
  教材については、やっぱり最初の方は親ががんばって作ってました。でも、うちの親は、点字っていうより、教科書の絵とか付録的なところに力を入れてました(笑)。数学の教科書で、「貝を買いました」とか、「貝をいくつ買った」とか、「あさりとはまぐりをいくつ買った」とか。小学校1年生・2年生の教科書って、貝とか出てくるのですけど、それに、おままごとに付いてる貝のおもちゃを貼ったりしていたのです。実際、そこの下に書いてある点字が間違ってたりとかしてました(笑)。僕は、「あ、こんなん付いてる」と思って、教科書で遊んでました。
  でも、2年生の終わりぐらいからは、親がそれだけだと付いていけなくなったのか、面倒くさくなったのかもしれないですけども、枚方市内のボランティアの人達が点訳してくれることになりました。すごいラッキーだったのは、小学校の先生達が点字を覚えてくれたことが大きかったかと思います。小学校1年生の頃は、僕もレーズライターを使って、勉強してたのですけれども、レーズライター・・・ボールペンで書くと浮き上がる紙のことですね、星加さんが書いたメモにもありましたが。僕は1年生までは全部レーズライターで書いてたのですけど、レーズライターって時間が経つと薄くなるのですよね。あと、僕、整理整頓が苦手で、小学校1年生から6年生まで、丸と三角しかない通知表で、いつも整理整頓は三角みたいな感じでした(笑)。大学に入った今でも、整理整頓がなかなかあれなのですけれども。そんなわけで、レーズライターの紙ってすごい薄くてぺらぺらするんで、整理整頓が苦手な僕にとっては、授業中書いたらそれを覚えてしまって、後はもうなくなってもいいやぐらいで考えてたのです。
  2年生に入る頃から点字を使い始めました。実際、点字は幼稚園の時から、家の近くにいた盲学校の先生であるとか、親が独学で教えていた関係で、使うことはできました。教科書もその頃にはだいたい点字で、ボランティアの人がなんとか点訳してくれるようになっていたので、使うことができました。小学校6年生までは、一人の先生が国語も算数も教えるってことで、担任の先生と養護の先生が点字を覚えて、サポートしてくれてました。特に算数だとか図工とかっていうのは、ちょっと独学では難しい面もあって。例えば、図形の説明なんかで、黒板で「この三角形ABCの、こことここ」って言われても、やっぱりわかんないんで、そこはやっぱり養護の先生が横にいて、レーズライターで手元に書いてくれていました。そんな感じで小学校6年生までは過ぎました。
  僕は全然記憶がなくて、さっき青木さんと星加さんの話を聞いて、どうだったかなって思い出そうとしてたのですけれども。勉強に対してあんまりそこまで嫌でも・・・、興味なかったわけでもないし、楽しいとも思わなかったし、っていうのが正直なところです(笑)。全然勉強したっていう記憶はないのですけども、かといって、しなかったかと言えばそうでもないかなっていう感じです(笑)。
  小学校のときに印象に残ってるのは、地域の友達と一緒によく遊んでたなっていうことですね。確かに、球技はすごい苦手でした。やっぱり友達は、なんだかんだ言って一緒にやろうとしていろいろやるのですけど、ドッジボールとか、どうがんばっても一人じゃ避けれないし。友達が横にくっついてて引っ張ったとしても、跳んでくるボールがわかんないんで、あんまり僕には楽しめなかったですね。なので、僕は、もちろん球技に参加するために、キックベースであれば鈴入りボールを使って塁に呼んでもらうとか、そういう風な工夫はどんどん提案をしてたのですけども。どっちかっていうと、みんなが球技をしようって言い出す前に、新しい遊びを「これしようぜ」って言って、球技から逃れるみたいな。(笑)まあ、その流れで、秘密基地を作ったり、弓矢とか作って的当てゲームみたいなのをしてました。的当てって意外と見えないとできないかなと思いきや、確認してまっすぐ後ろに下がってまっすぐ投げたら意外と当たるのですね。(笑)それやると、意外とみんなも「これ、おもしろいね」みたいになって、球技からは話がそれると。(笑)
  中学校に入って、教科担任制になるのですけども、教科担任制になって、引継ぎが良かったんじゃないかなと思いますし、枚方の教育委員会の人達や先生が理解があったからっていうのもあると思うのですけども。中学校に入っても、同じように点字で勉強することができました。理科、数学、社会、英語、全部、各教科の先生が各教科の点字を覚えてくれました。
  中学校の時までは枚方市でボランティアの人が点訳して教科書を作ってくれてました。テスト問題も先生が、中学校1年生のときは、がんばって自分で作ったのですけど、その時はなにも思いませんでしたけど、後で読み返したらすごいボロボロの点字だったかなと。(笑)でも、先生達もどんどんボランティアの人から学んで、中3になるぐらいには、ほんとにきれいなテストをくれてました。
  点字で、ノートをとって提出したり、テストを受けることもできましたし、あと、1.5倍っていうのも認めてくれてました。テスト時間は、点字で書くとやはり遅くなるので1.5倍認めるっていうのが通例というか、そういうふうになっていました。ただ、ある信念的なものがあるかと思うのですけれども、別室はやっぱり良くないと。1.5倍、視覚障害の僕が必要だっていうことをみんなでわかって、みんなの中でやってくためにっていうことで、同じ教室で1.5倍で受けてました。だから、どんどんずれていくのですよね。みんなが1時間目やって2時間目の半分ぐらいで、僕は休みになって一人で休憩してお茶飲んで、は〜ってやってて。(笑)やっぱり、みんな気を使って静かにはしてくれていて、教室の外にみんな出て、廊下でこそこそしゃべってるのですけど、やっぱ聞こえてくるのですよね。「あの問題の答え、こうだよね」とかですね。1.5倍で余ってるのですよ。「これ、いいのかな」って思いながらも、聞こえてしまったものはしょうがないと(笑)。まあ、それがこうをそうしたかは知らないですけども、成績はまあまあでした(笑)。
  
アブディン: これがほんとの「学習支援」ですね(笑)。
  
福地: 中学校では、ほんとにラッキーで、ブラスバンドの部活に入っていて、その時の顧問の先生が点字の楽譜を覚えてくれて、楽譜も点訳してくださってました。僕はトランペットを吹いてたのですけども。
  
星加: わあ、僕もトランペットやってました。
  
福地: トランペット、音が好きで始めたのですけど、後で気づいたのが、片手でも吹けるっていう。3つしかボタンがないんで、楽譜を全部覚えなくても、左手で読みながら吹けるっていう特典が付いていて。ずっとそれでやっていたら先生に、「コンクールのときぐらいは、ちゃんと覚えて両手で吹いてくれよ」って言われました(笑)。
  中学校3年生のときは、生徒会をやっていました。生徒会での点字は、会議の資料とか必要なんで、それは同じ生徒会の人達がパソコンで打ち込んで点字にしていました。
  高校受験になって、高校受験は大阪府が試験問題を点訳してくれるってことになりました。高校からは、大阪府が保障するってわけじゃないですけども、ボランティアを集めて教科書を点訳するっていう形ができあがってきたので、地域のボランティアさん達に直接頼んでコーディネートまでしなきゃいけないっていう負担は減ったんじゃないかと。コーディネートは僕がしてたわけじゃないのですけど、親とか先生の負担は減ったんじゃないかなという気がします。
  僕がいたときに、大阪府下に3人か4人の視覚障害を持った高校生がいたので、大阪府はけっこうパンクぎりぎりだったらしくて、僕の高校の先生達はどういった順番で教科書の点訳を頼むのかっていうことに気を使っていたそうです。
  高校に行っても、やっぱり特殊な記号が出てくるので、各教科の先生達が各教科の専門のそういったもの(点字)も含めて勉強して、教えてくれました。例えば、科学の結合の記号であるとか、もう今では忘れてしまいましたけれども、数学のベクトルであるとかっていうのは、普通の人でも知らないし僕も全然知らなかったので、やっぱり先生達は見えないところで努力してくれていたんだなあと思います。まあ、今になって分かるのですけど(笑)。
  高校を選んだ理由っていうのは、僕は、すごい単純で、軽音がやりたかったのです。で、選びました。中学校のときにギターを始めて、高校の学園祭を見に行って、軽音楽部のライブを見て、「これ、かっこいいな」と思って入りました。なので、高校のレベルとしてはそんなに高くありませんでした。なので、僕のアイデンティティとしては、全くペーパーテストは役に立ちませんでした(笑)。立たなかったのですけど、元々、中学校でそこまでよかったわけでもないので(笑)。ただ、そこの学校に入った瞬間に、僕の点数はとっても良くなりました。というのは、高校のレベルがそんなに高くなくて、軽音楽部のために選んだみたいなとこがあったので。
  先生達はすっごい理解があって。球技大会でバレーボールがあったのですけど、その時にフロアバレーの道具を買ってくれたり、卓球で、盲人卓球の道具を揃えてみんなでやってみたり、いろんな取り組みをしている学校だったので。その点でも、選んでよかったなと思ってます。
  軽音楽部では、さすがに先生もギターの楽譜までは点訳することができなかったので、友達に楽譜を全部読んでもらってました。途中からは、自分が好き勝手に弾いていました。
  印象に残ってることはやはり・・・、高校前半、2年生の途中までは、軽音部一色でした。ずっと、ライブやったり、オリジナルのバンド結成したりして、ほんと早く過ぎてしまいました。
  2年生の途中で、ふと受験したいと、大学に行きたいっていうふうに思い立ちました。身勝手な決断ではあったのですけれども、先生にそういうことを相談したら、「よし、サポートするよ」というふうに言ってくださって、特別授業じゃないですけれども、見てくれるようになりました。確かに、僕の学校はそこまで、国立に何人送り込むっていうところじゃなかったので、僕が本気で筑波大を受験したいって言ったときには、学年の先生みんなが「よし、協力する」ってことで、普段の授業は多くて6時間だったのですが、朝、1時間目の前とか、6時間目終わった後とか、先生が特別に見てくれてましたし、他に同じ学年で国立の大学を考えている人達も対象に、僕にもやるんだったらこの人達にも、どうせならオープンでやろうっていうことで、みんなに声かけてやりました。
  高校時代、僕は、今は筑波大で教育学を勉強してるのですけども、将来考える上で、影響を与えることになる2つの体験をしました。
  1つは、タイのスラム街に生まれた人と講演会で出会ったっていうのが大きなことでした。その方は全く健常者、・・・「全く健常者」って言い方もあれなのですが(笑)、とりあえず健常者でした(笑)。彼女は、実際、家庭がとっても忙しくて、親も生活を支えるために働かなければいけない。彼女自身、親の手伝いをしながら妹とか弟の面倒を見なければいけない、という状況にあったのですけれども、日本のシャンティ国際ボランティア会っていうところなのですけれども、そこが作った図書館がスラム街にありまして、そこで文字を覚えて勉強するための示唆を覚えたようです。なので、小学校になんとか通って、帰ってからは親の手伝いをして、夜みんなが寝てから自分の勉強をして、っていうことをやって、タイで有数のチュラポン大学っていうのがあるのですけれども、そこに進学して、僕が会ったときは、外交官を目指してロシアに留学していました。彼女は、将来として、国際政治の視点から、自分と同じように教育を受ける機会がない子供達のために働きたいっていうふうに考えていました。僕はその時にその話を聞いて、言葉で説明することは当時の僕には全くできなかったのですけれども、教育の持つ力っていうのを感じました。何か変える力を人に与えるものなんじゃないかなっていうのを、感じました。
  その後、僕は、朝日新聞の企画でスウェーデンに研修旅行に行けることになりました。それは、12日間か10日間くらいで、同じ障害を持った高校生6人と健常の高校生6人がペアになってホームステイするのですけども、そのホストファミリーっていうのが同じ障害を持ったスウェーデン人のホストファミリー、っていう風な形で、そこでステイしました。各自自分達で、計画を自由に立てられたので、僕は「街の中のバリアフリー」っていうのをテーマにしました。みんな、車椅子の施設だとか、そういうところに行ってたのですけれども、僕とその友達、僕と一緒にペアになった子は、「いや、バリアフリーっていうのは街の中とか博物館とかお城とか、・・・要するに観光スポットに行きたかったのですけれども(笑)、そういうところで何か見れるんじゃないのか」っていうことを打ち出していきました。
  結果、僕が思ったのは、実際、福祉先進国って言われてるスウェーデンが、日本人の視点から見て、バリアフリーが整ってるのかと言えば、そうでもないんじゃないか、というふうに思いました。というのは、駅の点字ブロックは全くなかったし、ホームには警告ブロックが全くないのですね。これ、落ちるんじゃないのかって不安になるぐらいなかったし、地下鉄の音声アナウンスも、「最近入ったんだ」ってホストファミリーが言うぐらいでした。
  ただ、すごいなと思ったのは、やはり法律の面でしっかりしていた、っていうのを感じました。
  もちろん、そういう事実も興味深かったのですけれども、それ以上に、法律の制定に視覚障害者の当事者団体っていうのがだいぶ影響を与えている、すごい影響力のある団体があるっていうことに感銘を受けました。スウェーデンでは、基本的に盲学校は廃止されていて統合教育ということになっていました。もちろん、盲学校での専門性だとかっていうのは必要なことなのですけれども、それ以前に、僕は鹿児島で一回(統合教育を)だめだって言われていたことがあったので、当然のこととして普通学校に行けるっていうのはなかなかいいことだなと思って。それを実現したのが視覚障害者団体だったっていうのが、またおもしろいなって思って、将来、教育と視覚障害、それから国際協力っていう3つの分野を学びたいなと思って、帰ってきてから筑波大に行くことを決めました。
  筑波大に入ってからは、関心のあることは何でも取り組みました。ブラインドサッカー、視覚障害者のサッカーですね、アブディン君もやってるのですけれども、それを始めましたし、筑波大学にある国際系の活動やってるサークルを全部ネットワーク化する活動をしてみたり、あと、障害者スポーツを普及するためのサークルに入ったり、JICAで国際理解教育の勉強会のスタッフもやってました。いろいろやってるうちに、もっと国際協力と障害っていう分野を、もっと広いところから、もっと別の視点から見たいっていうふうに思って、ダスキンの奨学金をもらって海外研修に行くことを決めました。
  ほんとにその直前に、アブディン君から、「このスーダン障害者教育支援の会、の設立っていうわけじゃないのですけれども、何かしたいんだけど」っていう話をして、「とりあえず、点字板送るか」ということを二人で話して、筑波大のお祭りでタピオカジュースを売ったりしてお金を稼いでました。
  それから2ヵ月後ぐらいに、僕はアメリカに行くことになりました。1年間の研修だったのですけれども、4つの研修先を設定しました。
  1つは、アメリカのワシントンDCにあるジョージタウン大学。そこでは、国際協力の理論だったり、教育に関する理論、あと、たまたま授業が・・・ビジッティング・スチューデントっていう身分だったので、あんまり人数いっぱいの授業はあんまり取らせてくれなくて。優先順位が低かったんで。結局、取れなくて取った授業が、社会学の理論を学ぶ授業でSocial and Criminal Justiceっていう授業だったのですけど、意外とおもしろくて。最高裁を見に行ったり、マックス・ウェーバーとか・・・そういった人たちの理論を学ぶ機会を得ました(笑)。
  ジョージタウン大学で僕は、今まで筑波大とは違う支援の在り方っていうのに触れることになります。筑波大では、チューター制度といって、大学はお金を出すので、そのお金で一般学生を有償ボランティアとして雇って、ニーズを満たしてください、という風な体制になっています。それには、筑波大なりの理念があって、一般学生、健常学生はそういうことによって障害者の支援をどうすればいいかを学び、障害学生はどのようにしてボランティアを見つけてうまく理念としていくかを学べと。そういう理念の下に行われています。
  確かに、チューター制度は便利なところは便利ですね。その前に、ジョージタウン大学の説明をすると、ジョージタウン大学では、学習する上で必要な支援っていうのは、大学が責任を持って行いますと。さっき星加さんがおっしゃってた東大に近いのかなっていうふうに感じたのですけれども、そういうふうになっています。なぜかっていうと、アメリカでは法律があって、障害を持つアメリカ人法(ADA)と全障害児教育法。私立大学も含めて大学が学習する上での補助を行わないと、国とか州からの補助金が切られるってことになってるので、ジョージタウン大学にはアカデミック・リソースセンターといって、障害学生や怪我をした学生のための支援をコーディネートするセンターが設置されていました。
  まず、私が高等教育機関で勉強する上で、どういう支援が必要なのかを言いますと、紙で書かれた媒体のテキスト化っていうのが主になります。筑波大ではチューターを使って、図書館で見つけてきた論文をスキャンしてもらって、テキスト化をして校正をする、そして送ってもらう、っていう手順を踏んでいたのですけれども、ジョージタウン大学では、アカデミック・リソースセンターに「これこれこういう本が読みたい」と、図書館で検索だけしてバックナンバーとか論文の名前を送ると、アカデミック・リソースセンターがコーディネートして学生を使ってテキスト化したものを送ってくれる、というふうになっていました。やはりその点で、自分でコーディネートしなくていい分、それに時間を取られない分、とっても楽でした。筑波大では、「この人に今日何を頼もう」「あの人にいつまでにこれをお願いしなきゃいけない」っていう、そこを考えなきゃいけないのが負担でした。ジョージタウン大学の人に言わせると、「そういうことをやるのは、健常学生はやってないんだから、あなたがすることじゃない」と。「それは私達の責任であって、あなたはその時間があったら、他の学生と同じようにもっとソーシャル・アクティビティに参加をするべきだ」っていう風な言い方を、ジョージタウン大学の方はしてました。筑波大では、そういったことも含めて、コーディネートっていうのも学びなさい、というふうに言われていました。
  ただ、ジョージタウン大学はそれですごい楽だったのですけれども、筑波大のチューター制度より楽だなって僕が感じる部分は確かにありますけれども、チューター制度は、一人ひとりのチューターとコンタクトを取るので、ついでの仕事っていうのもいろいろお願いすることができたのですね(笑)。ガス料金のチェックだったり(笑)。ジョージタウン大学のアカデミック・リソースセンターに、アメリカではすごく小切手が使われてて、その小切手をどうしたらいいんだろうって話したら、「いや、それは学生生活と関係ないので、他の社会支援を使ってください」っていうふうにピシッと切られちゃって(笑)、「なるほど、アメリカ的だな」って思ったのですが。
  その後、ジョージタウン大学に1学期間いさせてもらって、その後はアメリカの自立支援センターで、ピア・カウンセラーとしてインターンをしていました。そこでは何をやっていたかというと、生活の相談業務みたいなことなのですけれども、例えば、バリアフリーの家を探したいんだけどどういうリソースがあるのかっていう相談に答えたり、大家さんの理解が得られないので一緒に交渉してくれっていうふうに言われて、交渉に付いていったりしていました。
  日本のピア・カウンセラーとちょっと違うなと思ったのが、障害の受容とか自己肯定とか自己主張っていうのを話すことはほとんどなかったと思います。それはちょっと違うなって感じた点なので、紹介しておこうかと思いました。
  その後、自立生活センターでは3ヶ月間研修を受けて、その後、2006年の4月からはタイのDPIアジア太平洋地域事務所で、また研修を受けました。DPIっていうのは、国際的な障害者の権利擁護団体なので、各国のDPIと連絡をとって情報交換するためのニュースレターを作ったり、タイに国連のアジア太平洋地域の事務所があったり、ILOなんかもあるのですけど、ILOに、コンベンション157っていう障害者と職の平等を謳った条約があって、それの履行を求めるためにデモをしたりしていました。
  その中で、インターン先とは直接関係ないのですけれども、印象に残っていたこととして、タイのプライアット財団という視覚障害児の支援をしている財団の学校に見学に行きました。そこはどういうことをしてるのかっていうと、視覚障害を持った子供達、小学生から高校生までに、宿舎を提供すると同時に、専門的な教育、例えば、歩行訓練とか点字の読み書きを教えて、その学校がある周辺の学校に子供たちを送り出している、ということをしていました。なので、子供達は普通学校で学ぶのですけれども、教材の点訳はプライアット財団の学校でサポートをしたり、もしくはその子供達が行ってる普通学校の先生をそこで研修したりする、っていうことをしていました。国連の統計とか見ても、障害を持った子供達っていうのは教育を受ける対象としてかなり除外されていて、2015年までに識字率を達成する、初等教育を普遍化するっていう目標を達成するには、どうしてもその10%の子供達を無視することはできないって言われている中で、確かその財団には400人ぐらい視覚障害児がいるのですけれども、400人サポートできる体制っていうのはすごいな、というふうに思いました。
  何が良いかっていうと、これは僕の普通学校にいた体験とも少し重なるのですけれども、普通学校に行きつつ、ロールモデル、つまり同じ障害を持って成功している自分の手本、とまではいかないけど、目指す目標になる先輩、を持つことができるであるとか、同じ障害を持って同じ普通学校に行っていて、困ったことってやっぱり出てくるのですよね、例えば、・・・ちょっと話が前後してしまいますけども、普通の友達には理解してもらえないこと、例えば、みんなで話していてどこのタイミングで話し出していいかわからないとか、っていうのは慣れてくると分かるのですけど、やっぱり慣れてないメンバーであるとか、すごい人数が多い、20人ぐらいでがやがややってる時にどのタイミングで話し出していいかはやっぱりわからなくて。そういうのって友達に相談してもわかんないのですよね、絶対に。そういったことを相談できるピア、仲間がいるっていうのは大きいことだと思います。私の場合は、同じ普通学校で学んで、その時神戸大学に行っていた先輩が家庭教師として来てくださっていたので、その意味ではとっても助かっていました。タイの話に戻るのですけれども、普通学校に行きつつピアも確保できる、っていう意味でその制度はなかなか素晴らしい面を持っていました。ただ、教育には統合されてたのですけども、地域の健常児と交流があるのかとか、地域に統合されているのかって言えば、まだまだ足りないんじゃないかなっていうふうには感じました。
  その後、最後に、研修の1年間の締め括りとして、国連の権利条約のためのアドホック委員会、8番目の、最後のセッションになったのですけども、傍聴団に加えていただいて、セッションに参加してきました。いろんな権利の条項があるのですけれども、特に24条では教育に対する権利が謳われていて、そこでは、インクルージョン教育にするのか、文面は覚えてないのですけども、特殊教育の位置付けにあたって、議論が行われていました。結局、どういうふうに落ち着いたかっていうと、特殊教育はやっぱり普通学校で満たせないニーズを満たすための補助的なものとしてある、というふうに決まったと記憶しています。ちょっと怪しいですけど。
  もちろんここで特殊教育と普通学校どっちがいいかっていう議論をするつもりはないのですけれども、選択する権利はやはり認められるべきじゃないかと、僕は思っています。向き不向きもあるし、環境があってるかあってないかっていうのもあるし、時期ももちろんあるので、どちらかっていうよりもその時必要なものに合わせて選べるのがいいんじゃないかと思いました。
  国連の条約を見て、一番印象に残っているものとしては、権利に対する自分の認識が変わったなというところです。それは、今まで学校教育受けてきて、権利っていうのは元々みんなが持ってるんだっていうから、当然のようにあるものだって思ってたのですけれども、国際権利条約を作るときに、各国のNGOだとか障害者の当事者団体が、各国政府とか国連の政府代表団の人に訴えかける中で、さらに政府同士の駆け引きがあって、成立していく、一条ずつ権利が成立していく、認められて、確認されていく、っていうのを間近に見て、権利っていうのは「元々持ってる」って言われてるけど、実際は歴史の中で、政治の駆け引きの中で作られていくんだなと。だからこそ、あるんだって思ってるだけじゃなくて、実行して、行使しつつ、守っていかないと、いつなくなってもおかしくない。いつ認められなくなってもしょうがないものなんだな、っていうことを実感しました。
  帰ってきて、大学に復学するわけですけども、そこでアブディンと、「そう言えばこの間話してたやつ、どうする?」ってなって、スーダンで、むかし点字板をちょこちょこ贈ってたようなものじゃなくて、もっと安定して活動したいね、ということで会を設立することになりました。
  なぜ教育にしたかっていうと、もちろん自分が教育学部だったっていうのもあるし、アブディンが教育関係のことをしたいっていうのもあったのですけれども、やはり高校の時から感じていた教育の持つ力と、今もう少し具体的に教育の持つ力は何かっていうと、自分が、自分と自分を取り巻く社会との関係の認識を理解して、それに働きかける論理だとか考え方とか戦略っていうのを立てる上での力を与えてくれるものが教育だと思うし、高等機関に行って、・・・後で話しに出てくるのかもしれないですけれども、社会をリードする立場にしても、職業的な成功を収めるにしても、どちらの意味においても、抽象的な思考っていうのは必要になってくるので、そのための文字の獲得っていうのはやっぱり必要だと思って。基礎教育、文字を獲得するための基礎教育っていうのを、私達の活動の一つの柱にしようと思いました。
  その後、2つ目は、高等教育機関で視覚障害者が、何度も話に出てきてるように、パソコンを使えるようになることはすごい力になる、のでその2つを加えました。
  
斉藤: 今、今までやったことっていうのは話してくれたんだけど、福地君にとって、これからこれをやろうっていうときに、それと関連する大学とか周囲の課題みたいなものはないのでしょうか。
  
福地: 今、さしあたって、自分の中で課題になってるのが、高等教育機関と就職のつながりのところですね。大学まではだいぶ保障されてきたけれど、自分自身、就職活動をして結果的にあまりうまくいかなかった、というのがあります。それは、JICAを受けたのですけれども、受けていいって言われるまでにだいぶ交渉が必要だったし、(受けて)いいって言われた後も、JICAの二次試験ってホームページ上でSPIみたいなものを受けるのですけれども、それを点字にしてほしいっていう要求がどうしても通らなくて、介助者を付けてもいいと、スクリーン・リーダーでも読めるかもしれないし、介助者を付けてもいい、というところまで持っていけたのですけれども、実際やってみたら、スクリーン・リーダーは全く歯が立たなくて、キーボード押したらエラーが出るような状況で、全部マウスで選ばなきゃいけない問題だったのですよ。介助者がいくら読んでも追いつけるわけないし、数学の問題なんて特にいくら読まれてもわかんないので。そういうところでの配慮と、・・・もちろん筑波大の就職課の方がいろいろとJICAにもプッシュしてくれたのですけども、そういった面での支援体制っていうのも必要なのかなと。
  
斉藤: むしろ、大学のというのもあるけれども、受け入れ側っていうか、・・・そんなJICAが「人間の安全保障」なんてどの面下げてそんなこと言ってんだってなりますね。
  
福地: そうですね。JICEも受けたのですけれども、JICEに関してはもっとひどくて。まず、一番最初にコンタクトしたのが、国際キャリアフェアっていうところで、JICEの人事の方にお会いして、「受けたいのです」と言ったら、で、「二次試験は筆記なので、その点字とかについても相談したいのですけれども」っていうふうにそこの場で言ったら、「じゃあ、エントリーするときになったら、また話し合いましょう」っていうふうに言われて、JICEの説明会に行きました。行ったら同じ人がいて、「受けることにしたんで、エントリーします」と言ったら、「じゃあ、一次試験通ってから、書類選考通ったら、考えましょう」って言われて。書類選考でばっちり落とされました。もちろん、自分の中身に問題があったのかもしれないのですけれども。っていうところで、もちろんこれは高等教育機関以前の問題で、日本の国が権利・・・
  
斉藤: 単純に言えば、そういうところの採用担当者も、経営方針者も、みんな高等教育機関を経てるからね。国の機関っていうのは、トップはみんな・・・某大学を出てるって言われたりしてるから(笑)。そういう人ばっかりじゃ、やっぱり変わらないよな。
  
福地: そうですね。そういう意識の面でもバリアを取り除いていかなければいけないのと、もう一つは、権利として、平等な条件で試験をするっていうのを実現していく、っていうのがこれからの課題なんじゃないかな、と思います。
  
斉藤: 僕は、昔から聞こえないわけですね。といっても、あんまりひどく聞こえないわけじゃなかったのですが、近年は補聴器を着けています。
  さっき、星加君の「成績が良かったのがアイデンティティ」っていうのにすごく共感したっていうのは、僕がそうだったからで。授業を聞いてないくせして成績が良いっていうんで、とりあえず放っておかれる中学生・高校生っていうのを送ったわけですね。授業なんか聞いてないんだけど、とりあえず成績がいいと。聞こえないっていうのは、そういうとき便利ですね。聞いてない方が便利なわけですよ。余計なこと知らないですむから(笑)。そういうのがあったものですから、ついつい大学行ったおかげで、・・・僕が大学行って大きかったのは、しゃべらずに、「お前何言いたいんだ」っていうのを聞かれる機会がたくさんあったと。自分で動こうとする時に、聞こえないとやっぱりまずいと。特に、大学時代に、同じくらいの難聴のやつがいて、こいつが「お前、よくよく聞きもしないで、うんうんとうなずくんじゃない」とかって(笑)、そんなこと言われたから、それ以来そいつに一生涯頭が上がらなくなってしまった(笑)。でも、それを言われたのは、けっこう大きかったわけです。とりあえず、長いものに巻かれろじゃないけど、ちょっと変わったっていうのは、その三十何年前大学行って、・・・その大学行ったことって後でいろいろ考えましたけど、一番大きかったのはそこら辺りかなと感じています。
  だから、今回のテーマの後半の方の「高等教育機関で学ぶこと」っていうのには、ちょっとこだわりがありまして。そこで、今日の本番、じゃないですけど、アブディン君に、経験とこれからの課題っていう話をしていただきます。
  
アブディン: 私は、スーダンっていう国の出身で。みなさんと違うところもあれば、似てるところもあるなあと、話を聞いて思いました。
  まず、違う部分についてをちょっと話したいと思います。まず、みなさんは、3人共ですね、小学校に上がる段階で、普通教育を受けるか、それとも特殊教育、盲学校に行くか、っていう大きな壁にぶち当たったわけですけども、私の場合は全くそういうのはなかったのですね。というのは、僕は、近くの小学校にすんなり入れたのですよ。ただ、それは、スーダンの教育委員会が、理解があるからという話だからじゃなくて、教育委員会自体が障害のある子供が入ってきてるかどうかもチェックしてないし、自動的に6歳になった子供が近くの小学校に行く、というわけであります。ベビーブームだったりすると、・・・たまたま、私、自分の年がベビーブームだったので、教室はもういっぱいいっぱいになります。だから、40人限定とか、そういうのは全くなくて、来るものは拒まずっていう感じでした(笑)。前の学年は50人だったのに、自分のところは70人だった。いっぱいいっぱいだったのですね。
  私は、今はもう光しか分からないですけど、弱視と全盲の両方の体験をしているので。まず、小学校に入った時は、明るいところでほとんど見たりしてましたけども、暗い教室の中では見えなかったりしていました。
  文字は、手書きは読めないけども、はっきり書かれた文字、プリントされた文字は読めました。うちの学校の造りを考えると、教室、非常に暗いですね。というのも、スーダンは日差しが強いので、教室の窓を小さくしたりしないと、日差しが入って非常に暑いので、暗くなってしまうのですね。まあ、電気を点ければいい話ですけれども、僕が小さい時はほとんど夏は停電だったりしたので、扇風機が動かない上、45℃とか50℃近くの環境で70人がびっしり、という形で勉強する、っていう厳しい環境で勉強していました。
  70人なので、机を増やして、もう先生が歩くスペースは1メートルしかないのですね、前の。まあ、それが幸いして、一番前に座れば黒板が読めたっていう。まあ、ぎりぎり読めました。ただ、今思い出すと、その時に、筋ジストロフィーだと思うのですけれどね、難病の疾患を持ってる同級生がいて、車椅子に乗ってたのですけれども、スペースがないので、学校の、クラスの外に座らされてたのですね。時間帯によっては、もうすごい灼熱の下に座っていなきゃいけないっていう状況だったのですね。それを考えると、自分は彼と比べてまだ恵まれてたんだなと思ってますけれども。
  勉強してて、どんどん、どんどん視力が下がっていく、どんどん、どんどん文字が読めなくなっていくので、非常に大変だったのですけれども。ただ、先程アイデンティティの問題で、小さい子供はやっぱり自分ができることを一つ主張しなければ、子供の共同体の中で、コミュニティの中で、生き残りは難しくなってしまうのですね。スーダンの場合は、勉強ができたり、あるいはサッカーでうまかったり、あるいは腕っ節が強くてっていうふうに、どちらか持ってないと、やっぱり居場所を作るのは難しくて。自分はサッカーが非常に上手だったので、・・・ただ、それが徐々に見えなくなってくると、やっぱりうまくできなくなってしまう。腕っ節も強くないので、そっちの方でも勝負できない。だから、勝負できるのは勉強しかなかったのですね。勉強にかけるしかないっていうことで、兄も同じ病気持ってるので、兄もそういう考えを持っていました。幸いに、兄といろいろ話できたりしてたので。
  もちろん、支援体制というものはなかったし、それだけじゃなくて、盲学校っていうところ自体が知らなかったし、点字という文字も、たまあにテレビで聞くものの、具体化したものは全くわからないし。これはごく一部のスーパー視覚障害者ができるものであって、一般的にできるものではないと思っていましたし。盲人というものは、視覚障害者というものは、全く見えなくならないと、視覚障害者と呼んでもらえないと。自分が視覚障害っていう位置付けをされたくなかったのもあると思うのですね。なぜ、(位置付け)されたくなかったかというと、スーダンでは、視覚障害を持ってる人達っていうのは乞食の代表にされてるのですね。町の中心では、見えない人っていうのは、乞食を、物乞いをする場面が多くてですね。私の友達で、視覚障害を持った人に聞いたら、「けっこういいお小遣いになる」っていうことを言ってました(笑)。私は、それはとても嫌で、そういう仮定をされたくなかったのですね。だから、意識的に、無意識的に、視覚障害の世界から逃げてたわけですし。親も、そういう世界に放り込みたくはなかったのもあるので、積極的に盲学校に行くとか、点字を学ぶっていうこととかはしなかったですね。それは、私に限ったことではなくて、スーダンは、まず、盲学校っていうのが全国で一個しかないので、自動的に近くの小学校に行くっていうことになります。
  私の時は、中学校に入る時も、公立も受験があったのですね。落ちたら行けないのですよ。中学校も高校も、全部受験があるので。だから、12歳でもう切羽詰ってしまうので、中学校行くために勉強しなければいけないので、みなさんみたいに勉強が嫌いでものほほんと中学校に上がれるわけではないのですね(笑)。小学校5年生から、もうちゃんと勉強しなきゃいけない。
  でも、その時、私はもうほとんど文字が読めなくなってしまってたので、どうやって試験を受けるかということを、教育委員会と話したら、「誰かに文字を読んでもらえれば試験は受けれる」と言うのです。でも、先生とかはだめで、下級生に、自分が書いたものを写してもらうことになったのです。なぜかというと、下級生なら教えられないからですね、勉強の面で。それはいいのですけども、下級生が習ってない記号が出てきても、読めなくても、誰もフォローしてくれないという。傍にいる先生方は何にも言わない、しゃべらないという、非常に厳しい、不公平なやり方だったのですね。ただ、自分が点字というものをできないし、「点字で受けさせてください」と言っても自分ができないので、そういったことも下手に言えないのですね。
  それで、まあ、無事に中学校に入って。中学校の時は、周りの仲のいい友達がどんどん不良化していったのですね。自分もちょっと不良というものに興味を持って、一時期やったのですね(笑)。ただ、やっぱり視覚障害を持ってると、そこではなかなかトップに上がれないのですね(笑)。ええ、どうしてもですね。悪いことした時とか、逃げ遅れるのは自分なのですよ(笑)。安全保障はなかなか確保できないので(笑)、こういった世界で、私は、ちょっと居場所を作るのは無理だろうなと思って、勉強するっていう道しか残されてなかったのです。消去法的に、勉強をやっていこうと思いました。
  高校受験についても、大学受験についても、同じように、口頭で問題を読んでもらってやってたのですけれども。ただ、先程もみなさん言ってたのですけれども、やっぱり文字化の必要性、・・・やっぱり理科とか数学とか、そういったものはやっぱり文字化して、いろんな記号読んだりしながらしないと、もう理解不可能になってくるのですね。
  それで、私は理科というものを中学校1年生から蹴って、そういった授業の時は、おやつ食べたり、あるいは持ってきたサンドイッチ食べたり、そういう時間にしてました(笑)。
  数学はやっぱり必須なので、大学受験に。どうにかしなきゃいけないですね。どうにかしなきゃいけないけど、どうにもならない状況だったので、ほっとんど覚えてたのですね、問題の解き方とかを。過去の問題の40年くらいの問題を、全部読んでほとんど覚えてたのですよ。過去の40年間ぐらいの問題を読んだら、ほとんど、数字は変わるけどやり方は似たような問題が、試験に出てくるのですね。他の子と比べてインプットがいいのですね。
  僕は非常に記憶力は良かったなと思っています。なぜかというと、周りの友達は不良化してきたので、「本を読んでください」と言っても、試験前とか、人道的には読んでくれるのですけども、いちいち毎日「じゃあ、読んであげよう」とか、そういうわけにはいかなかったと。なぜかというと、もうみんなあんまり勉強したくないので、私に勉強を、本を読んであげようという気分にはならないのですね。でも、まあ、試験前とかだったら、読んでくれたりしてくれました。
  親は共働きだったし、5人兄弟なので、なかなか親にいろいろやってもらう、面倒見てもらうというのは難しかったので。ただ、母親は働いてたのに、大学受験とか高校受験とか、そういった大きな試験の前、2ヶ月前にですね、有給じゃなくて無償休暇を取って、ずっと本を読んでくれた、・・・僕は学校の授業を休んで、本を読んでもらってたのですね。そういった面で、家も経済的に困ってたし、僕は授業を休んでそういうことをやらなきゃいけないという、厳しい状況だったのですね。
  今考えると、自分の親も高学歴だったので、こういうこともできたのですね。視覚障害を持ってて、親が文字読めない人はいっぱいいるのです。なぜかというと、スーダンの識字率は50何パーセントなのです。だから、2人に1人は必ず文字が読めないというのが現状です。視覚障害を持ってて、こういった周りがフォローしてくれる環境っていうのは、ほとんどないに等しいんじゃないかなと思うのですね。そうすると、やっぱり、どんどん、どんどん、勉強に付いていけなくて、小学校から中学校に上がる時、中学校から高校に上がる時に、設けられたバリアを突破せずに、学校を離レーズるをえない状況になのです。
  視覚障害者は、学校を離れる場合、どういうことをやってるかというと、もちろん家族というもので、弱いものを守るということで、面倒見てもらったり、何もしなくてもご飯は食べれるっていう人もいます。ただ、その分、自分が言いたいことも言えないし、自立できない状況なので、生きがいはなかなか見つけにくいですね。これは、偏見かもしれませんけども、視覚障害者でアルコールをスーダンで飲むというのは、社会的に禁止されています。社会的に良くないことである、反社会な行動であるけれども、僕が知ってる視覚障害者でアルコール飲む人もけっこう多いのです。
  その他、すごく才能があって音楽できる人がバンドを作って暮せるとも言われています。僕はそういう才能はなかったので、できなかったのです。それとか、イスラム教のコーランを全部暗唱して、日本の中でいうと牧師みたいなのになったりして。そういう人もけっこういます。けっこう近所にいる人達は、(僕が)そこに行けば、「僕にも」ってずっと言ってたのですね。僕の親に言ってたのですけれども、親はそういう考え方持ってなかったので、幸いでした。
  そういうわけで、私は、ハルツーム大学の法学部というところに入学しました。スーダンの入学試験のシステムでは、高校卒業試験と大学入学試験は一つの試験なのです。センター試験みたいなものです。成績の上の順から、自分が希望校出して、例えば、100人取るとするじゃないですか。希望出した、成績の上から100人が入ると。そういうことで、僕は法学部に入りました。
  大学は、誰が入ってくるか、どういう学生が入ってくるか、全くわからないのですね。だから、入学試験の時点で、「この人は見えない」とか、そういうことはわからないので。蓋を開けてみたら、2人の視覚障害者がそこにいたと。「困っちゃったな。また面倒くさいのが来たな。」という感じでした(笑)。まあ、そういう待遇を受けたのですね。
  入学するときは、すごい拒まれて。「明日来て下さい」「明後日来て下さい」と手続きをしてくれませんでした。授業始まって1ヶ月くらい経って、やっと入学の手続きができたのです。何でそんなに拒んでるんだろうと思ったら、「いや、うちは教材保障とか、そういった特別な配慮は全くできないから」と。「いや、そもそも頼んでないから」っていうことで。「じゃあ、それを誓約書に書ける?」と言われて、それを書かされたのですね。「何も頼まない」っていう。それを基に、大学に入学の許可をしてもらいました。
  大学に入ったものの、先程、星加さんの話にもあったのですけれども、これまで課せられた問題にちゃんと先生の意図通りに勉強してくればできたものの、大学では、やはり自ら進んで研究テーマを見つけたり、それを研究するための多くの資料を大量に読まなければいけないですね。ただ、そこでやっぱり支援体制がないという状況で、しかも周りの学生も自分のテーマあるいは法律の勉強を、・・・法学部の勉強はものすごい暗記しなきゃいけない、というかいっぱい勉強しなきゃいけないので、やっぱりそれどころじゃないと。
  
斉藤: 基本的に官吏養成学部なのですか?官僚になる人がその学部で学ぶのですか?
  
アブディン: 官僚になる人、弁護士になる人、裁判官になるとかいう人がいます。僕は弁護士志望だったのですけれども。ただ、弁護士になった時に、点字ができないわけですから、例えば、裁判に行ったときなんかに、いろいろ自分のケースについて暗記してないとやっていけないわけですから。やっぱり、読まないといけないし、覚えないといけないのですね。「このままやっていけるかなあ」と思っていました。
  ちょうどその時は、大学の学生運動があって、南部で起きてる紛争に対する反戦デモをやってて、もうすごい大変なことになって、大学が6ヶ月ぐらい閉鎖されてしまったのです。ちょうどその時に、国際視覚障害者援護協会というところから募集があって、日本で針灸の勉強しないかと案内がありました。スーダンの盲人・視覚障害センターっていうのがあるのですけれども、そこに行ったのですね。ちょうど僕はその時、大学に入った時に同級生で同じ視覚障害を持った学生がいて、点字を少し教えてくれて、・・・その人は盲学校に行っていましたけども、点字を教えてくれたりして、(僕は)興味範囲でまたは趣味の範囲で読んだりしてました。その情報も彼から得て、「これはおもしろいな」と思って、興味津々で行ってみて、応募しました。
  面接試験のときは英語と点字だったのですけれども、4人でいって、3行ぐらいの点字を読まされるのですけども、・・・他の人は本当にあっという間に読んじゃったのですけれども、僕はおそらく5分か10分ぐらいかかって読んで。もう、溜め息が聞こえるのですね、教官の溜め息が。「早く読まないかなあ」みたいな。
  英語の試験になったときに、自分が一番英語の面接の成績が良かったので。面接官曰く、「点字はがんばれば、すぐ1ヶ月か2ヶ月ぐらいで速く読めるようになるけども、英語はやっぱりすぐに身に付くものじゃないので、英語できる人を優先する」ということで、私が選ばれたのですね。
  盲人センターの人たちが、・・・すごい狭い世界です。みんなやることないので、盲人センターでたむろするのですね。「そこに2・3回しか来てない人が何で選ばれるんだ」っていう(笑)、非常にブーイングを受けながら、日本に来たわけです。
  じゃあ、私は針灸の勉強がしたかったかと言われると、正直な話、私は、視覚障害者が針灸の勉強できるかっていうことも半信半疑だったのです。ただ、点字を学んだり、あるいは、日本に行けば点字とかコンピュータを使って勉強できるよっていう、ほんとかどうかわからないようなことを言われてたので(笑)、とりあえず行ってみて、だめだったら、すぐ逃げて帰ってくればいいかなと(笑)、話のネタにもなるしと思っていました(笑)。
  
斉藤: 来日したのは、何年にですか?
  
アブディン:1998年です。
  来たのはいいですけども、日本語はやっぱり、1ヶ月ぐらい習った日本語では1分も経たないうちにネタが尽きる。全く会話が通じなくなってしまう。そこで、ぐっとがんばって勉強して。点字と日本語の勉強を併用して勉強して、盲学校の入学試験を受けたわけですけども。いろんな盲学校の試験を受けても、やっぱり「この人は点字もそんなに速く読めない上、日本語全くできないので、これは困るな」ということで、結果は絶望的でしたね。
  これまで、自分が勉強できるっていうことで、いろんな試験を突破して大学にも入れて、非常に自分にプライドを持ってたのですけれども、落ちるっていうのは初めての経験だったのです。ものすごく大変だったので、「勉強しなきゃ」と。まあ、それで勉強してたのですけども、全国の盲学校の試験が全部終わった頃に、福井県立の学校の窪田先生という方が、「学校に当たってみる」と言ってくれました。彼は、・・・後で他の先生から聞いたのですけれども、教職員の会議で、「こんな遠い日本にわざわざ来て、チャンスを与える前に返すのは、恥じゃないか、おかしな話じゃないか」と主張したそうです。「とりあえず1年間、試験的に受け入れようじゃないか」、「それでだめだったら返せばいいじゃないですか」ということで、みんな渋々だったと思うのですけれども、受け入れてくれました。
  学校に入れたのはいいのですけれども、また3ヶ月ぐらいそれまでに日本語をやってきたのですけれども、学校が始まると、「東洋医学の哲学」とかあるいは「介護学定理」なんていう、・・・本当に科目のタイトルしか分からない科目がありました。授業中、接続詞しかわからなかったり。すごい接続詞の勉強にはなったなと思うのですけどね。「しかしながら」とか(笑)、そういうのしかわからないのですね。だから、反応するのですね、分かるところは。
  窪田先生は、これはまずいと思って、いっつも補習してくださってたのですね、授業が終わった後。そのおかげで、やっと勉強についていけるようになったのです。ただ、まだ日本語がろくに分からないのに専門用語ばっかり勉強してると、使い分けができないのですね。だから、日常でちょっと「膝が痛い」って言いたいのに、「膝蓋骨が痛い」って言っちゃうのです(笑)。だから、周りはほんとに困っちゃうわけです。だから、変なところから日本語に入っていったっていうのが、自分の体験です(笑)。
  私は、点字を習って、自分が好きな時に勉強できる、っていうのは日本に来て初めての体験だったのですね。それまでに、周りの人に本を読んでもらうっていうのは、・・・まあ、試験前にしかやってくれないですけども、ただ、例えば、試験当日の朝に一番最後の悪足掻きがしたくても読んでくれる人がいないと。そういう経験をずっとしてきたのですけれども、点字があると、例えばふっと夜中に目が覚めても、布団の中でも勉強ができるっていうのは、非常に便利な文字の媒体だなと思って、すごい楽しく勉強してました。
  それと、パソコンを使って普通の文字が打てるっていう必要性も感じて。やっぱり、点字だけだと社会に出た時に、周りが点字が分からないとコミュニケーションができないので、パソコンを使って普通の文字を書くっていうためのパソコンの勉強を、筑波短期大学のほうで2年間程勉強して、東京外語大に入学したわけです。今、修士にいて、研究テーマはスーダンの和平プロセスのことなのですけれども、全くと言ったら変ですけれども、障害の研究とはちょっと違うのですけれども、支障はありません。
  ただ、僕が思ったのは、一番大切な支援っていうのは、自分がやりたいことを、・・・障害者といっても一括りじゃなくて、みんな針灸の勉強がしたいんじゃなくて、それぞれ勉強したいとか、あるいは勉強じゃなくてしたい仕事とか、あると思うのですね。それをはっきりさせるために、教育を受ける必要性があるのですね。教育を受けるためには、文字の読み書きができるっていうことですね、まあ、単純化すればですね。だから、その道だけひいてけば、それぞれ目標に向かって、自分の極みに向けて、がんばっていけるんじゃないかと思います。だから、その部分を、道を舗装するっていう部分で、スーダン障害者教育支援の会っていうものを作って、スーダンの障害者教育を支援し、スーダンの障害者のスポーツといったものを、・・・まあ、やっぱり勉強だけじゃなくてですね、遊びも大事っていうことで。スポーツを支援するっていうことで、この会を始めました。
  ちょっと急ぎ足で、時間がないっていうことで、ここまで来たのですけれども、質問とかあったら受けたいと思います。
  
斉藤: もうちょっと、アブディン君の個人的な体験に即した話を聞きたいですね。
  スーダンの中で小中高と、・・・書いてあるものを見ると、聞くっていうことを通して覚えたと。
  
アブディン: はい。耳学問ですね。
  
斉藤: 記憶力で勝負という。(笑)その時に、70人の学級・・・、小学校は70人だったけど、中学校は・・・?
  
アブディン: 中学校はもっと少なかったですね。なぜかっていうと、落ちるから(笑)。60人だったのです。
  
斉藤: 高校っていうのはどうなのですか?
  
アブディン: 高校は50人だったのですけど、高校の時は、まあ、いろいろありました。スーダンの公立学校の先生は給料が少なくて、しかも支給されない時があるのですね。で、みんな公立学校から逃げて私立学校でバイトしたり、あるいは塾でバイトしたりするのですね。だから、学校へ行ってもほとんど授業がない状態だったので、ほとんど高校行ってなかった、自分で勉強してたっていう気がするのです。
  自分が文系に行くことがわかってたので、理数とかそういうのははっきりいって、自分で勉強すればどうにかなるものでですね。数学だけ塾みたいなところに行ったりしてました。
  
斉藤: 高校の進学率っていうか、学校行った時に周りに障害者っていうのはいたのですか?
  
アブディン: 私は、大学入るまでは、見えない人は自分の兄弟以外はテレビでしか見たことなかったです。5人兄弟中3人が視覚障害者で。自分の兄弟以外では視覚障害者にあったことはなかったのですね。
  
斉藤: 大学で点字を教えてくれた人が初めての家族以外の視覚障害者との対面だったのですか。
  
アブディン: そうですね。
  彼は、「あなたは視覚障害者ですか」っていう質問をしたのですけれども、「いや、私は人の影は見えます」と、…僕はどんどん目が悪くなっていく病気なので、「人の影は見えます」と言ったのですが、「文字は読めるのですか」と聞かれて、「いや、読めないです」「じゃあ、立派な視覚障害者じゃないですか」と言われました(笑)。まあ、そこから、私は諦めて、視覚障害者とカテゴリー化されることに抵抗をしないようになりました。
  自分の体験としては、いくらそういった勉強をしても、耳学問にしても、仕事につなげれるか、就職につなげれるかって言われると、そうでもないですね。会社に入るには、その会社が求める能力っていうのがあるので、例えば、基本的には、文字の読み書きっていうのはできないといけないということと、あとはなんだろう…。
  
斉藤: そっちっていうよりは、さっき、ロールモデルっていう話をしてたのですけれども、周りにイマームになってる人はいたと。いたっていうのは、直接知り合いがいるっていうんじゃなくて、どこかでいるって聞いたのですか?
  
アブディン: 自分の兄は先に同じ大学の法学部に入っていましたので、もうそれに沿っていくように勉強していましたので、どっちかというと兄の方がロールモデルがなかったっていうわけですね。だから、兄に話を聞くと、もっとおもしろいネタが出たかもしれませんけども。僕は兄を見習うようにずっとやっていました。
  やっぱり、見えないとなると、…じゃあ、どっちが先なのか、健常者なのか障害者なのか、っていうことで、どっちが先なのかって言われたときに、僕が思うには、高等教育を必要としない、例えば重労働といった就職先もあるのですけれども、そういった面では障害者は競争できないので、どちらかといえばやっぱり高い教育を受けて、そこで差別化を図る必要性があるんじゃないかなと思うのです。
  
斉藤: お兄さんは何をなさってるのですか?
  
アブディン: 今、弁護士をやってます。
  
斉藤: スーダンで、視覚障害の弁護士っていうのはお兄さんだけになるのですか?
  
アブディン: いや、けっこういますね。僕らの後に、どんどん、どんどん、障害者が学校に入れるようになってきて。というのも、僕は大学に入って日本に来たのですけれども、その後1年間ぐらいでスーダンで法律ができて、例えば、スーダンのダルフール、いわゆる未発展地域の出身が、大学受験においては、…パーセンテージでやるのですけれども、例えば、法学部は80%からしか入れないとなったら、そういった地域の人達は75%から入れると。それと同時に障害者も同じように入れるということになってて。急に、障害者が急増殖したのです(笑)。僕が大学に入った時は、3人か4人しかいなかったのですけれども、一番大きなハルツーム大学で。それが、2年後は60人になったのですね。
  その人達に対して、何らかの支援はしなければいけないっていうふうには学校側も思ってはいるのですけれども、それを具体化する予算とモチベーションがなかなか湧いてこない。そこで、私たちがちょっと手を出して「一緒にやっていこう」と。全部、一からやっていくんじゃなくて、「こういうノウハウがあるのですよ」と、「ちょっとぐらいはやりますが、その後の責任はあなた達でやってくださいよ」っていうのを、やっていこうかなとは思っています。
  
斉藤: その法律っていうのは、まあ、アファーマティブ・アクションなわけですよね。
  
アブディン: そうですね。まあ、残念ながら、去年廃止されたらしいのですけれども。
  ただ、大学に入ってくる障害者は、去年か2年前を見てると、アファーマティブ・アクションで入れたんじゃなくて、本当に成績で入れてる人が多いのですね。パーセンテージが多くなってきているので。やっぱり、見えないとなると、やることないのですよ。スーダンは基本的に、中・高校生の時にはサッカーだっかりやってるのですね。それができなくなると、暇でしょうがないのですね。(笑)みんながサッカーやってて勉強してない間に、ちょこっとでも勉強すれば、成績がぐんと上にいきます。そういたことで、たぶん、大学における視覚障害者が非常に増えてきたのには、そういう・・・、これは視覚障害者だけじゃなくて、女性が増えてるのですね。僕が入った年は、女性は52%だったのですね。男性より多いですね。やっぱり、それを見ても、男性は外でサッカーばっかりしていて(笑)、女性はやっぱり保守的な社会なので外でスポーツやったりとかをすることはできないので、家にいる時間が多いと。勉強する時間も多いということで、女性が増えているんじゃないかと。
  
斉藤: 後半は推測ですか?(笑)
  
アブディン: いや、昔はほとんどいなかったのですよ、ハルツーム大学の女性は。もう10%にも満たない状況だったのが、急に10年間の間で女性の方が多くなってきたっていうのは、そういったことがあるんじゃないかなと。
  
斉藤: いろんなとこでお話しするっていうかアピールするのに、個人的な体験を重視した方がいいっていうのは、前半のロールモデルがあるかとか職業に結びつくのかとか、そういう割り合い具体的な話のところで。他に、これぞっていうのがないんだったら、むしろ、教育でっていう辺りをアピールするっていうのは、1つの戦略として有用だなと思って聞いていました。
  
アブディン: そうですね。やっぱり、僕もいろいろと試したのですけども、やっぱり教育しかないですね。すごい優れた才能があって音楽をやるのは、ごく少数派で、一般的にみんなができるものではないと思いますので、だったらやっぱりしっかり初等教育からちゃんとした支援を受けられて勉強ができれば、もうちょっと高等教育に行ける障害学生が増えるんじゃないかなと思います。
  
斉藤: (話は)戻るのですけど、お兄さんは弁護士で、盲の弁護士さんはけっこういるみたいだと。他にどんな仕事についてる人がいるのですか?周りに。
  
アブディン: ハルツーム大学の助手が、今3人います。1人は経済学部なのですけれども、その人は本当に、・・・先程センター試験があるといいましたよね、高校から大学に受験する時、高校卒業試験と同じようにセンター試験があって、成績のトップから大学に入れますけれども、その人はその時の試験の時に、スーダンの十何万人の学生のうちの上から3番目だったのですね。本当は生物・物理を勉強したかったのですけれども、入学はもちろんだめだということで、しかたなく経済学部にしたのですね。経済学部って統計学っていうすごいビジュアルなことをいっぱいやらなきゃいけないところを、あえて選んで、頑固だったからですね、やったのですね。この30年でない、いい成績で卒業して、そういう人は助手になる権利があるのですね。ただ、大学はもうすごいそれを拒否して、「だめだ。できないし、教えられないだろ。」っていうことで、すごい拒否してて、2年間経っても採用しないっていうことで。やっと、いろんな圧力をして、彼が教えたかった統計ではなくて、開発系の付属研究所に配属されたのですね。
  ここでの不公平性っていうものの裏には、やっぱり彼は実際に教えられないという現実があるのですよ。彼は、その時まではパソコンを使って、例えば、学生に資料を配ったりとか、そういうことはできなかったのは事実なのですね。だから、「雇ってくれ」っていう前に「これぐらいできるんだ」というところを、できるところまで持っていかないと、やっぱりコンペティティブなものになれないと思うので。彼は、いろんな支援があって雇われたと。大学はたまたま音声ソフトが入ったパソコンを買ってくれて、今彼は仕事をちゃんとやってます。
  では、なぜ大学はそのパソコンを買ったのかというと、大学設立100年記念があって、大学学長がばーんとでかいことを記念の講演会で言ってて、「私たちは障害学生も雇いました」みたいなのを成果に挙げたのですね。それをした後に、1000人ぐらいいる大きなホールで、大臣とかもいっぱいいるところで、その雇われた助手が立って、「雇われたのですけども、勉強できる環境は全くありません」とかって、ばーんと言ったらしいのですね(笑)。「こういう音声ソフトが入ったパソコンがあるのに、なんで買ってくれないのですか。2年間も言ってるのに。」みたいなことを言ったら、やっと、そういう気後れさせて、学長はやむを得ず、「はい!買います!やります!」みたいなことを言ったのですね。そういった勝負をしかけないとやっていけないぐらいの厳しい環境なので。やっぱり、そうじゃなくて、そういった無駄な・・・無駄といったら変ですけども、そういった運動も必要だとは思うのですけれども、そういったところで労力を使わなくても、勉強できる環境を整備していかなきゃいけないんじゃないかというのを、僕はつくづく思います。
  やっぱり、いくらその大学で成績が良くても、実際に入手し得る情報の量は非常に限られてしまうので、やっぱり社会に出ても通用しないんじゃないかなと、私は思います。
  
斉藤: ハルツーム大学でチャンスをちゃんと活かしていかないといけないですね。
  
アブディン: はい。そうなのですね。だから、今、ハルツーム大学で、私の団体は、障害支援室というのは名前だけはあるんで、そういうものをいかに活かして、コンピューターセンターを、リソースセンターを作って、障害のある学生が入ってきた時に、情報リテラシーの授業が今義務化されたので、そういう授業は障害者も受けれる権利があるので、そういったところで情報リテラシーやって、レポートは自分達で調べて、書いて、出す。いろんな情報を調べる。そしたら、情報センターがその大学の学生だけじゃなくて、スーダンの視覚障害者のモデルになるように、あるいはリソースセンターになるように、やっていきたいなと思うのですね。
  自分たちが、例えば、スーダンで団体を作って、自分達で事務所を作ってそういう勉強するところを作る労力よりも、今ある教育機関でやっていく必要性があると思うのですね。みんなが見えるところでやってく、やらなきゃいけないと思うのですね。で、みんなの目にさらされなきゃいけないと思うのですね。
  
斉藤: その辺で、今日の3人から聞いていると参考になる部分があったり、あるいは他の国の事例でこれは、レポートとかにするんだったら、やっぱり盛り込もうっていう、そういうものは何かありますか?今日の話はともかくにしても、今まで・・・もう、何か調べて、こういう形でやろうというのはあるのですか?
  
アブディン: はい。そうですね。スーダンと日本の違いは、・・・スーダンの母国語はアラビア語ですね。アラビア語というのは20カ国ぐらいしゃべる地域があるので、周りの国、例えば、サウジアラビアとかエジプトはスーダンよりも視覚障害者教育の面では進んではいるのですね。もちろん、サウジアラビアはお金があるので、そういったものに対して進んでいますね。だから、教育モデルを、支援モデルを、日本からでもいいのですけども、それよりも、周りの国を参考にしながらやっていった方が持続性があるんじゃないかなとは思いますね。なので、今、サウジアラビアの、あるいはエジプトの大きな視覚障害者支援団体とコンタクトをして、どういった教育が可能であるかというコーディネーション役もやっていきたいなと思いますね。
  日本の場合は、視覚障害者は針灸あんまの仕事に従事するっていう部分は、これまでに伝統もあって、視覚障害者の2割か3割ぐらいですか、そういったものに従事している事例はあるのですけれども、こういった事例はやっぱりスーダンではできないので、私は思うにはやっぱり本人がどういうことをやりたいか、それに必要な支援を与えれば、後は本人でやっていくべきだと思うのですね。本人にはそういった、・・・優遇するのではなくて、他の人と同じ、まあ、立てるかどうかはわからないけど、スタートラインに立たせることまでいって、その後は自由競争なのですよ。スーダンという国は、失業率は何十パーセントであって、視覚障害者を優先に雇ってくれるとか、そういったことを言っても説得性はないので。そうじゃなくて自分が、ずば抜けて、あるいは差別化できる能力を、個人個人で考えていかなければ生き残りは図れないと、私は思うので。それを達成するための道を整備していこうっていうのが、私達の団体の主な活動内容です。
  
斉藤: 最後のところはけっこういろんな議論の対象にもなりそうなところなのですけど、手前で言っていた、「失業利率が高い社会の中で・・・」なんて部分が、この間の星加君の『障害とは何か』の最後に課題として出てきた話につながりそうなのですけど、その辺で聞いてみたいこととかないですか?限られた資源の奪い合いっていうところで。
  
星加: ああいう本も書いておいていうのはどうなんだという気もしますが、障害の問題について、何を優先していくかとかあるいはどういう規範に依拠して主張を展開するかっていうのは、その社会がおかれている状況とか、あるいはその社会の中で障害者がおかれている状況によって、違ってくると思うのですよね。僕が念頭においているのは、日本のような社会ですよね。ある程度、立岩流に言うと、物は十分そこそこに足りていて、そんなに競争という仕掛けを用いて強迫的に生産に駆り立てなくても十分食うものはあるという社会において、障害者が経験している不利益とか困難をどういうふうに解消していくか、あるいは平等化していくかっていう話と、まさに今あるパイの分配ということに関しても競争が起こっているし、あるいはそのパイ全体を増やしていくために競争という仕掛けを組み込まざるを得ないような社会の状態において、障害者の問題を語る時には、今アブディン君が仰ったように、そこでアピール能力っていうのを何らかの形で身に付けていくことが、障害者個人にも必要だし、それを仕組みとか制度の文脈に移し替えて考えると、障害者・・・たぶん障害種別によって全然違うと思うけど、障害者が他と差別化できるような能力を身につけて発揮するのに適したフィールドに重点的に資源を投入していく。障害者施策の中で、特にそういった他と差別化できる能力を育てるような領域に資源を投入してくっていうこと。そういうプライオリティの置き方が必要なんだろうと思うのですよね。その意味で、少なくともアブディン君の話を聞く限りでは、スーダンの視覚障害者が置かれている状況を考えた時に、高等教育を含めた教育一般かもしれないけども、特に高等教育で、その能力に関して他より抜きん出ることが職業にもつながるし、あるいは視覚障害という障害特定を考えた時には、競争に頼るフィールドなんだということであれば、そこに資源を特化して投入していくっていうことには、合理的な理由があるだろうと、僕は思って聞いていました。ただ、本当にそうなのかっていうところについてはいろいろ思うところはあるのですけれども。
  
アブディン: 教育に力入れていくって言ったときに、じゃあ、本当に勉強の方でやっていけないのか、あるいは勉強に不向きな障害者もけっこういますよね。環境もそうさせることもあるのですね。その体制に対してどういうアプローチをするかっていう問題が、・・・一般でも識字率が50何パーセントだといったときに、例えば、障害者がそれと同じ割合だったとしても、2人には1人勉強ができないっていう環境ですね。だから、それをどうするか、つまり、勉強でやっていけない人達に対して(どうするか)。
  そこで、私達の小さな団体は、そこまでのアプローチはたぶん今のところはできないですね。例えば、そういう人達は職業訓練といったものが必要になってくるのですけれども、職業訓練というものは膨大な予算を持ってないと、あるいは膨大なリサーチをしていかなきゃ非常に厳しいので。とりあえず今の段階は、視覚障害者が勉強できる、乞食というイメージがあるのですけれども、何もできない人達であるというイメージを消すために、「こういった視覚障害者もいるのですよ。勉強できればこれぐらいできるんだよ」というアピールですね、はっきり言って、やり方は汚いかもしえないけれども、PR的なことを兼ねてやっていかなきゃ、やっぱりイメージが消えないし、社会が動いて「視覚障害者が少し勉強すれば、何かできるようになるんだ」って、・・・例えば、親も、「この子は勉強すれば何かできる」っていうことを思わないと積極的に教育の現場に送り込もうという気にはならないし、障害児を外に出した時にかかるリスクもけっこうあるので、「それよりも家の中で守っていこう」という親の考え方を変えていかなきゃいけないので。なので、そのために、メディアでも何でも使って「こういう障害者もいるんだ」っていう紹介が必要なのですね。そこに、僕らは特化していこうという、そこが第1フェーズの取り組みだというふうに思うのですね。
  
斉藤: 周辺情報というのか、そういう(スーダンの)情報が入ってくる仕組みが今まで日本になかったから、やっぱりわからないのです。一番気になるのは、アラビア語圏の社会の中で、高等教育を経た視覚障害者がどんな仕事をしているのか、ということ。そういう情報がもっと入ってくれば、さっきのロールモデルとか、「エジプトのスタイルを参考に」、っていうのが考えられるのですけど、僕らはそういう情報を持ってないので。
  
アブディン: アラブ社会では、「視覚障害者はものすごい言語能力に優れている」という、本当かどうかわからないけども(笑)、そういう先入観があるのですね。実際に友達とか見てても、そういう人は多いですね。そうしたら、通訳者の道があるのですね。そこで、パソコンがあって音声ソフトがあれば、どこかの会社に属しなくてもこういった仕事はできる、というのは、人間の安全保障の観点から考えれば、そんなに難しいことじゃないし、需要度も高いので、本当にできれば仕事はまわってくるのですね。
  僕の兄を見てて、兄は英語ができるのですね、弁護士でも英語ができない人もいるのですよ。最近、多国籍企業がどんどんスーダンに入ってきて、現地のコントラクターとのいろんなトラブルによるケースが出てきてるのですね。彼は英語ができるので、そういった会社からけっこう「引き受けてください」という依頼が来て、けっこう売れてるのですよ。だから、弁護士で目が見えない、見えないのは(お客側からしたら)はっきり言って面倒くさいですよね、英語ができなかったら。ただ、彼が(他の弁護士と)差別化できるのは、弁護士でありながらも英語ができるという魅力があるためで、他の健常者が持ってない能力があるから、彼を選ぶわけですね。だから、そういった個人それぞれに合った能力をいかにアピールしていくか。でも、彼は、僕の兄は、パソコンができなければ、たぶんそういったチャンスもまわってこないですよね。パソコンできて、そういった英語でのやりとりできたり、裁判に行くための資料準備をしたりとかできなければ、こういった仕事もまわってこないわけなので。ですから、3年前からパソコンをやり始めて、できるようになったので。それがあったから、今仕事を多少見つけてるのですよ、社会生活を営めているわけですね。だから、弁護士になったからといって仕事があるわけでもないですね。
  
斉藤: そういうことを含めて、要求される水準っていうのがどんどん高くなっていきそうですね。
  
アブディン: だから、逆に言えば、大学に行かなくても、英語をがーっと専門学校か何かで勉強して、あるいは独学で勉強してれば、そういった仕事もあるのですよ。
  
斉藤: もう一回り下準備をしてからもうちょっと話を聞きたいなという感じなんだけれども。
  
アブディン: やっぱり日本の場合は、そこそこいけるっていうのは、例えば、何もしなくても障害者年金という基礎年金というものがあるのですね。それで、ある程度、最低の水準の生活はできるわけですね。スーダンはそういったものはないです。どんどん今市場経済で、ものすごく競争原理が導入されて、過去に盲(めくら)と言われていた人達は貧困層に転落していくっていうところで。じゃあ、そういった厳しい状況で、家族が障害児に対してどういう待遇をするかっていうと、やっぱりどんどんと悪化していくのですね。それまでに余裕があっていろいろ「いいよいいよ」と言っていたのが、やっぱり切羽詰った時に、そういう部分は削られていくと思うのですよ、私は。やっぱり見ていてね。ただ、そうならないように、その人が逆に家族を救う、・・・自分が持ってる能力を活かして、仕事を見つけて、逆に家族に必要とされる存在になっていかなきゃいけないと思うのですね。
  
斉藤: かつての日本の盲学校での三療っていうのは、ある種のそういう得意技能っていうもののことを言っていましたよね。
  
アブディン: そうですね。ただ、それはやっぱり競争がなかったのでやっていけていたわけであって、最近、晴眼者が針灸あんまをようやくできるようになって、・・・彼らには機動性があって、車に乗っていろんなところへ行けるわけじゃないですか。そうすると、やっぱり他人の仕事を奪ってるというところで、やっぱり競争原理が導入されたことで、かつて自分達だけが独占していた市場もどんどん減っていっているので、三療もそんなに魅力的なものではなくなってきたのですね。だから、そういったところで、ある意味で日本の視覚障害者も新たな道を見つけていくためには、これからやっていかなければいかないかなと。そういった意味では、スーダンの視覚障害者と共通する部分もあるなと思うのですよ。
  
斉藤: 課題にあたるものっていうものがいくつかあるような気がするのですね。
  一つは、社会保障の問題っていうのが出ましたよね。社会保障の問題っていうのは、確かに、日本に暮していればそれは前提条件、少なくとも僕らの世代以降では前提条件なので、「今既にあるものを奪われるな」という取り組みの線で捉えるけれども、でも、そういう前提条件がないところでの話っていうのは、やっぱり聞いてるとなかなかびっくりしてしまってそこで止まっちゃうのですね。
  
アブディン: やっぱり現状は厳しいですね。例えば、社会生活っていうのは、「仕事見つける」とか「生きること」だけじゃないなくて、人間は、例えば、「パートナーを見つけて結婚する」とかそういった欲もすごい大事なものじゃないですか。「障害を持ってて、かつ収入がない」となると全く競争相手にならないっていうところで、やっぱり、「障害を持っててこれがだめだ」、だけど、「何十パーセントの失業率の中で、この人は仕事を持ってる」。そうすると、やっぱり、ちょっとは競争に戻ってこれる、土俵に戻ってこれる、ということになるので。社会生活を営む上でも、そういった「結婚相手を見つけ」たり「家族を築いていく」上でも、とても重要なことなんじゃないかなと思うのですね。
  
星加: 僕自身はアブディン君が言ってる問題意識っていうのは非常に共有できるところがって、面白いテーマ、・・・面白いっていう言葉は本当は適切ではないのかもしれないのですけれども、まあ、少なくとも研究者の視点から見ても面白いテーマだと思ってるのですよ。僕自身も、もちろん文脈は違うけれども、日本の社会において、障害者の社会参加を促進していくために、どこに重点的に施策を打っていくというか、あるいは資源を投入していくことが、効果的なのかっていうことについては関心を持っていて。高等教育との関連で言うと、日本の文脈においてはアファーマティブ・アクションっていうのはけっこう重要なんじゃないかなと、私は思ってるのですけど、まあ、それはそれとして。スーダンの視覚障害者のおかれている状態を好転させていく、効果的な、まあ、ボトルネックになっているというか、それが何なのかっていうところをもう少し僕自身の中でも整理できると面白いかなと思うのですね。お話を伺っていても、ある種のロールモデルとして非常に成功している視覚障害者の水準を引き上げて、それをきちんと社会にアナウンスしていくっていう部分を通じて、そういう方法論で何か動かしていくっていうことと。あと、もうちょっと広い、あるいは対象を広げて、多くの人が社会参加をしていくために、この部分に働きかけることが重要だ、それは例えば文字っていうことだったりあるいは言語的な能力っていうことだったりするのかもしれないけれど、そういう実際に多くの人の社会参加を実現していくために必要な資源投入っていうこと。たぶん、そういう方向性もあるんだろうなと。それぞれについて、どの部分に働きかけることが、現状のスーダンの文脈の中で効果的だっていうふうに考えられるのかっていうところ、を整理してもらえると話がわかりやすくなるかなって気はします。
  
アブディン: そうですね。私、駆け足で話してしまったので。
  私達の広い文字のアプローチ、あるいは広い法に対してのアプローチについてなのですけれども、僕達は初等教育に支援の面を言っていますけれども、ただ、その面では、僕達はアドボカシーの面でやっていこうと思ってるのですね。どういうことをやろうとしてるかというと、例えば、教育学部のある学生に働きかけて、先生の卵になるその学生に対して、例えば点字あるいは手話の義務化とか。それは、やっぱり、先生が分かっていれば、配属された学校にそういった障害を持った生徒が入ってきた時にそれなりの対応ができるのですね。しかも、非常に効果的ですね。集中的に教育学部でこうされればそれぞれが配属された先で、スーダン全土で、・・・少なくとも情報のある先生がね、私の個人的な体験から見れば先生が全く情報がなくてどうすればいいのかわからない状況だったので、これで私は非常に損したと思うのですね。やっぱり例えば先生が点字ができて、点字でそういった情報を提供してくれたら、私は例えば理科あるいは数学の面でもっと高い教育の水準を受けられたんだろうなと、今でも思うのですね。なぜかというと、私はこんなに高等教育・・・マスターまで行ったのですけれども、やはり学術的な研究をする時に、例えば統計あるいは数学といったものは必要になってくるのですね。その時僕はやっぱり非常に苦手な分野であって、いつも避けて研究をやってる気がするのですね。これぐらい上に上がってきても、こういった大事なベーシックなところで欠如してる部分があると、やっぱり質の高い研究あるいは質の高い成果を上げることは非常に難しくなってくるわけですので。やっぱりそこで、初等教育はちゃんとやっていくっていう必要性があるのですね。そのために、先程言った先生に対するアプローチですね、学校の先生が譲歩を持つっていうことが大事なんじゃないかなと思うのです。
  
斉藤: 今日はここで、最後にって言うと変ですが、もう一回ここでアブディン君の個人的な体験に立ち返るようなとこまで来たとこで、一回区切りにしたいなと思います。
青木君なんかも今日がスーダンの話は初めてということですから、この機会に、次やるところの準備もあるし今日ここで聞いておこう、というのはないですか?
  
青木: スーダンっていうのは、特に僕はコンピューター関係に興味がありまして、最初に申し上げましたけど。パソコンを大学に買ってもらったという話がありましたよね、さっきのお話の中で。そういうこととかも含めて、(スーダンについて)どういう状況かも全然分からなかったので、いろいろと勉強させてもらいました。
  ソフトウェアについては音声が出てっていう・・・、実は僕は音声ソフトは日本語のものしか使ったことがないのですけども、そういう研究とか開発、ソフト面の開発というのは、けっこう進んでるのですか?あるいは、大学じゃなくて個人的にもソフトウェアが、いわゆる他の盲人に対して、視覚障害者に対して音声で使えるソフトウェアとかパソコンが普及しているのかどうか、っていうことについてはどのような状況ですか?
  
アブディン: これは、僕達が直面してる1番辛いところです。アラビア語の音声ソフトウェアが5・6年前に開発されました。開発したところがサッスルソフトウェアといって、アラビア語のアプリケーションを作ってるところなのですね。例えばWindowsだったらアラビア語の、たぶんMicrosoftからいろいろ下請け的にword作ったりとか、けっこう大手なのですね。会社のイメージをよくするために、そういったソフトを作ったのですね。ただ、造りも粗い上、音自体は良いのですけれども、読めない部分があったり、例えばPDFが読めなかったりとか。そして値段も高いのですね。3000ドルぐらいですよ。だから、非現実的な値段なのですね。個人で買えるような物じゃなくて、「ただ作ったよ」みたいな。だから、そこで、僕は日本で、石川准さんじゃないけども(笑)、そういったアラビア語の音声ソフトの開発に関わってくれる団体や会社をこれからも探していかなければいけないなと思うのですね。もうちょっと値段の面で手に入りやすいものを開発する必要性はあると思うのですね。僕達はハルツーム大学に置きたいのですね。そのために、例えば助成金使ったりJICAのプロジェクトを使って、そういったものを獲得して作りたいのですよ。ただ、やっぱりパソコンというのは視覚障害者にとっては、パソコン室に置いてあるだけじゃなくて、みなさんにとっての用紙とペンなのですね。だから、1人が1台は持っていなければやっぱり難しいと。ということで、そういった面で、新たなソフトが開発、それとも現在開発されたソフトがいかに会社を説得させて値段を下げる、という圧力もかけていかないといけませんね。ただ、圧力をかけるために他の競争するソフトが開発されないと商売がなかなかできないので。それが私が一番悩んでるところなのですね。
  
斉藤: 最後のところも、実に視覚障害者には馴染みの深いテーマですね。
  
青木: 生活者の話が先程ありましたが、社会保障が、・・・まあ、われわれは社会保障を前提としてるけど、それは前提としてないというお話があったので。では、どういうふうに、社会保障が不十分な状況において、個人が必要なものを、しかも障害者にとってパソコンは必要だってお話があって。とすると、どうやって手に入れるのかなっていうところがやはりちょっと疑問に思ったわけですね。
  
アブディン: そうですね。個人では買えないですね。
  
青木: 買えないと。では、例えば、せっかく大学で買って勉強してそのときはよかったけど、卒業したらもうないとか、家に帰ったらないというのではちょっとやっぱり不便だし。
  
アブディン: そうですね。ただ、今私達にできることは、・・・やっぱり、視覚障害者はこういったソフトを使わなければ必要性がわからないのですよ。やっぱり、1回使ってみて、「ああ、これもう止められない」となって、「これはなくてはならないものだ」ってなった時に、彼ら障害者自身が行動をし始めると思うのですよ。ただ、そういった体験がないとなかなか踏み込めないというか、やっぱりそこまでは・・・。やっぱり当事者も、自分たちはパソコンできると思ってないですね。「いや、できるんだよ」と、しかも中毒をさせれば(笑)、後は本人達が自分からやるんじゃないかと私は思うのですね。逆にやらなければ、それは彼らの選択肢であって、それ以上私達はプッシュできないと思うのですね。
  
斉藤: 僕がやっぱり印象に残ったことは、今、アブディン君がマスターで勉強してて、どうしても統計数字を扱ったりすると。社会科学系だったら、絶対に必要になると。でも、それを避けて避けて避けてきたというあたりです(笑)。
  
アブディン: そうですね。やっぱり思うのですね、「ああ、あの時の話だろうな」って思い出すのですよ。「高校のときのその辺の話でこういう勉強したんだろうな。でも、その時私はおやつ食べてて。」しかも、数学となると先生がどうしても指示名詞を、「これとこれは」とか「ここからあそこまで」とか、そういうのしか使わないと、もう僕は蚊帳の外になってしまうわけですね。だから、やむを得ず。
  
斉藤: それに似たような話で、日本でも、・・・生物に関わる話っていうのが社会科学にいろんな意味で絡んでくるのですが、僕はたまたま大学で、必修で生物実験っていうのを受けたことがあります。ちょうど変わり目の時期で。そういうのもあって、今も生物をやってるやつは知り合いでけっこういるのですね。だから、そういうことがちょっとでも耳に入ると、やっぱり生物っていうものがそんなに遠い話じゃなくなるから、物事を考える時もじわり専門家幻想みたいなものがあったとしても、「あいつらが言ってることなんてどうせ」って思えるわけなのですよね。
  
アブディン: いろんな分野の知識の幅っていうのは、非常に必要だと思うのですね。私の場合は、やっぱりこういうのを避けて、やりやすい例えば歴史の勉強や社会の勉強といった偏った分野の勉強しかしてこなかったのです。それは、今になってやっぱり自分がどれほど・・・、その時すごい苦しんでおくことが大事だったんだろうなって、そこでちゃんと文字を使った教育を受けられていたら・・・。
  
斉藤: というか、今からの課題でもあるわけじゃないですか。君個人にとっても、さっきの数字の話はこれからも逃げて通れないんだからどうするのか、っていうのが個人的な課題としてもあると思うのですね。まあ、それは、さっき言ってた「遊びも含めて」とか、・・・今日はあんまり話には出なかったけれど、星加君が大学に入って一人暮らしをしたっていうのはけっこう大きな隠れたテーマかなっていうふうに思うのですね。そういう意味での、高等教育機関に入るっていうのは、それまでの学校と違うっていう意味合いで、一方で、課題を自分で設定しなくちゃいけない、もう一方で、年からいってもだいたいティーンネイジャーの最後から二十代に学ぶと。社会の中の自分というか家族と一回離れた自分というか、そういうことを経験する機会があると。それは一方でいえば、教育研究とかの大前提にあると思うのですよね。しいて個人的な体験にこだわるっていうんであれば、そういう幅のある学び、特定のことだけっていうんじゃなくて、もっと幅のある学び。それは、ちょっとこじつけがましく言えば、さっき学校の教師になる人達が点字を学んでいれば視覚障害者をうまく受け入れられるんじゃないかと、それにはちょっと疑問もあるけれど、そういう可能性が高まるだろうっていうのは分かるわけね。
  
アブディン: 例えば、点字ができなくても情報自体は、・・・僕は、点字というものが本当にこの世にあるかどうかっていうこと自体に、高校に入る時まではそういう疑問に答える人がいなかったのですね。だから、各学校に、「こういうところに行けば点字が学べるよ」といった情報を提供してくれるところがあれば、また話は違うんじゃないかなと思うのですよね。何も知らないよりはいいと思います。そこから、家族が如何に学校の先生に圧力かけたり、・・・圧力かけるというか、「そういう協力してください」というね、・・・こんなに進んでも日本で今苦しんでるわけだから、普通教育に入ったらかなり邪魔がられてしまって、市議会議員ぐらいを連れて行かなきゃ受け入れてもらえないぐらいですからね(笑)。それを考えるとやっぱり、スーダンで先生から少しでも情報があれば、また違うんじゃないかなと思います。
  
斉藤: 時間もかなり押したので、今日はここで一回切らしてください。
  最後に、せっかく来週JICAがやるアフリカ障害者研修のセミナーに合わせて、スーダン障害者教育支援の会としてのリーフレットを作って持って行こうというんで、その原稿だっていうものを読ませてもらったときに、もう一押し迫力が足りないなというふうに思ったわけですよ。今日最後に話した「あの時ちゃんと数学を学んでいれば」っていうのが、これがこの紙面から出てこないのですよね。
  
アブディン: 筆不精なので。(笑)
  
斉藤: そういう情念に訴えるようなアピールがないと・・・。
  
アブディン: ギャラリーがないとでかいこと言えないのですよ、私は。文章になると、本当におもしろいことが書けないのです(笑)。だいたいこれは何でかって言うとですね、私は耳学問して文字書いてこなかったのですよ。全部つながると思うのですね。だから文字を書き始めたのは、10歳までは書いていたのですけれども、自分が書いた文字も読めないからあんまり書くっていうことに慣れてない上、大事なティーンネイジャーの時っていうのは、つまり人格形成の段階では、文字を書いてなかった、耳学問ばっかりしてた、っていうのがあって、文字を書く自由っていうのもなかったのですね。だけど、点字を学びパソコンを学びだしてから、19歳あるいは20歳からまた文字を書けるようになったので、ある意味私はこういった面でかなり苦しんでるところでもあるのですね。もちろん、外国語っていうのもあるかもしれませんが、かといって「じゃあアラビア語で何か文章書いてくれ」と言われたら、僕には十何年ぶりのことになるのでそんなに上手に書けないと思うのですね。だからこそやっぱり、小さい時からずっと連続的に文字を書いていくちゃんとした方法がないといけないんじゃないかと思います。
  
斉藤: というところで、まあ、これ(リーフレット原稿)を書き直すのはどっちにしても次の課題にしてください。
  今日は、記録係の方々も、いろいろ興味深いところもあったかと思うので、せっかくだから質問などあれば一声聞いてみてください。
  
記録係A: みなさんはどのように生計を立ていらっしゃるのですか?
  
アブディン: 僕は奨学金で、今ロータリーのお世話になってます。来年は大ピンチなので、どうにかよろしくお願いします(笑)。仕事支援をするって言っていても、自分が仕事を手に入れてないので説得性がないと思うのですけども。ただ、自分もかなり悩んでるところではあるので、逆にその必要性は余計に感じています。
  
福地: 今は親の仕送りです。
  
星加: 今はみなさんの血税です(笑)。少し前までは、親のすねをかじってました(笑)。どこかに寄生して暮しています(笑)。
  
青木: 今はですね、まず一つは大学院の方に在籍があるので、その分の奨学金があります。奨学金って言うと聞こえがいいのですけど、まあ、実のところ要は借金なのですよね。返さなきゃいけないんで、つまり借金生活をしているということです(笑)。今のところ取立てはないので、たぶん大丈夫です。将来どうなるかは知りません(笑)。それとあと、大学の非常勤講師をしてて、あれは大した収入にはならないので、一応ちょっとだけお小遣い程度にもらってます。
  実は私の収入源のかなり大きな部分を占めているのが、ホームページ作りのアルバイトで。私の指導教授である立岩真也先生は、実は彼は私の雇用主でもありまして(笑)、職場の上司というか雇い主でもありますので、雇ってもらってるというか。研究指導を受けながら、仕事ももらいながらというような生計を立ててます。一日に大量にメールが来るのですが、それをちょっとずつ一個のファイルに乗せていってる、・・・メーリングとかのバックナンバーとか載せていくっていう、非常に機械的な仕事を毎日毎日やってます。あと、どっかのメールマガジンを載っけるとか、情報を整理するといった仕事をして、とりあえず飯食わしてもらってます。どれぐらいの時間働いたかでまとめて精算って形になるので、慣れてくると仕事が速くなってくるので、一件あたりの単価がどんどん下がっていくわけですね(笑)。以前は3分ぐらいかかった仕事が今は1分ぐらいでできてしまうのです(笑)。だから、お茶飲みながらだらだらやってるときの方がたくさん給料もらえるという矛盾があります(笑)。
  
斉藤: とりあえず、今日はこれぐらいで一区切りつけさせていただきます。どうも、ありがとうございました。


座談会「大学における視覚障害者支援の現状と課題 スーダンで今求められていること」 (2008年6月21日 立命館衣笠キャンパスにて開催)

UP:20071120
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