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Pareto Optimality|パレート最適/パレート原理/パレート改善



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8A%B9%E7%8E%87%E6%80%A7(Japanese)

Sen, Amartya 1970 Collective Choice and Social Welfare, San Francisco, Holden-Day, xi+225p.=20000825 志田 基与師 監訳,『集合的選択と社会的厚生』,勁草書房,308p. 3000 ※

 「たとえば、伝統的な厚生経済学では、疑う余地のないものとして扱われるパレート的判断と、「恣意的」として扱われる非パレート的判断とが区別されてきた。この短絡的な二項対立が不適切に見えるのは、第一にパレート原理もまた部分的に恣意的であるからである(第6章)。第二に、他の原理のいくつかも多くの場合疑う余地がないからである(第5章から第7章、第9章)。一方では、パレート的考察にほとんど排他的に関心を集中させてきたことにより、伝統的な厚生経済学はじつに狭い箱に閉じこめられてきた。下方で、こまかく検討すればとても生き残れないほど倫理的に鈍感になっている。」(p.238)

大庭 健 19891015 『他者とは誰のことか――自己組織システムの倫理学』,勁草書房,367p. 2884 ※/三鷹151

 「これが、(信じられないであろうが)今なお近代経済学の根本を支えている<パレート最適>の公理である。最も簡単明瞭に言えば、こうなる。いま、複数の人が、それぞれに一定の分配を得ていたとき、その分配の仕方を少し(p.317)でも変えると、誰かが [・・・]”それなら前のほうがよかった”と文句を言う、としよう。このとき、前のままの分配の仕方が<パレート最適>である、と近代経済学は言うのである。(たとえ、前のままの分配が、如何に不平等であろうとも、である!)そして近代経済学者のいわく、近代の市場システムは、誰もが文句を言って「おりない」ような<パレート最適>を実現しつづけている云々。「文句を言って、おりる」ことが、果たして・誰にとって・如何に可能なのか、という最も本質的な問題は、彼ないし彼女らの頭からはすっかり去勢されている。というよりも、近代経済学とは、そもそも自ら進んでそのように去勢されて微分方程式の技法を取得し、「市場均衡イコール主体均衡」と唱和する[かん]官の世界なのであった。」(大庭[1989:317-318],p.150の注58)

◆<立岩真也 1997 私的所有論→2013 『私的所有論 第2版』(【】内が第2版にあたって加えた部分)

「…われわれがケーキを分けるときのことを考えてみよう。どの人間にとってもケーキは多ければ多いほど望ましい、と仮定すれば、その仮定だけで、すべての分配の仕方はパレート最適である。ある人間をより満足させるようにケーキの分け方を変えれば、他の誰かの満足が必ず減じられるからである。このケーキの分割の問題における唯一の主要な問題点はその分配なのであるから、ここではパレート最適の考え方はなんの効力ももち得ない。こうして、ただひたすらにパレート最適のみに関心を寄せてきた結果として、せっかくの魅力的な一学問領域であるところの厚生経済学が、不平等の問題の研究にはすっかり不向きなものとなってしまったのである。」(Sen)

「◇16 パレート最適自体がどれほどこのましいことなのかを問題にすることもできる。「最小限のリベラリズム」と「パレート原理」との両立不可能性(「自由主義のパラドックス」「リベラル・パラドックス」)、自らその解決案を提示したセンの議論(Sen[1970→1982=1989][1976→1982=1989])がある。cf.岩本健良[1991a:80-83]、川本隆史[1995a:124-127]、メリトクラシーについてセンの証明を用い各所での能力主義的選抜が社会全体としてのメリトクラシーをもたらさないことを証す数土直紀[1996]。【「パレート改善」「パレート最適」を基本的な正当化の基準としてまったく使えないことは『自由の平等――簡単で別な姿の世界』[2004a:53-54,12]等でも述べた。】」

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p. ISBN:4000233874 3400+ ※
 *第2版を準備中です。ご指摘・ご質問ありましたら、また文献の御教示、立岩(TAE01303@nifty.ne.jpまでお願いいたします。

「まず、全員の合意を条件とした場合、そんな合意が存在しうるか、どんな場合に存在するのか、存在するとしてそれはどのような合意なのか、こうした基本的な問題点があることを先に確認した。ここでは、誰もが同意すること、「パレート最適」的な条件◇12をつけること自体の意味を考える。
 この条件は、状態の変更に反対する人がいたらその人の意向に反してはならないという条件である。初期の状態から利益を得ている人がいるなら、その人の同意も取りつけなければならない。だから、合意という条件は最初の状態における有利・不利の関係を大きく動かすことにならないだろう。つまり、結果として導出された状態が「正しい」と主張するとすれば、それは、「自然状態」という状態を、そこから利益を得ている人の同意も要するという条件を介在させることによって是認していること、それを「正しい」としているということ、ただそれだけのことだ。そしてそれは先に見たように正当とされない状態が正当化されるということだから受け入れることができない。
 例えば、理由は不明だがともかく国境があって、それを境に二つの国があり、その間に戦争があり、例えば一方が一方を滅ぼした。これは今述べた二つのうちの前者の方である。あるいは、双方とも疲れてしまって、交渉があり合意が達成され、戦いが終わり国境が引き直された。それは戦争がなされていた状態よりも(この場合には双方に)ましな状態ではあるかもしれない。これが後者の方である。しかし、どちらも正しいと言えるのか。問題はそういう問題である。
 自由をよしとするところから、強制を避け、同意を要するとしたのだろう。しかし、この初期状態、過程、結果において、実際に自由でない人がいる。ここでの自由とはそもそも人がそこそこ自由に暮らすという自由ではなく、公権力による強制がないという意味での自由だと言えばよいのか。しかし規則が作られるなら、強制は存在し始める。そして(今述べた意味での、暮らしていく上での)自由がなくとも、それでも(権力が介在しないという意味での)自由がよいとあくまで言うのであれば、初期の状態にいつまでもとどまっていればよいということになる。そのような論を立てないのだから、やはり普通に使われる意味での自由を基準に見るべきであり、すると、ここに生ずる状態は人々が自由な状態ではない。だから、一見問題が少ないように見える前提と手続きから何かを導き出し、それを立脚点としておこうというこの主張も、結局使えず、使うべきではない。」

「◇12何がどれだけよいかは人により様々だから比較しないことにしよう、だが当事者が皆同意しているのならそれはけっこうなことだからよしとしようというのが基本的な発想である。それで問題ないのではないか。だがそうか。第4章以降でもう一度論ずる。パレート最適についての的確な指摘として大庭[1989:317-318]、Sen[1987b=2002:chap.2]等(cf.[1997:41-43][1998c→2000g:16-17])。」(立岩[2004:300])

稲葉 振一郎立岩 真也 20060830 『所有と国家のゆくえ』,日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. ISBN-10: 414091064X ISBN-13: 978-4140910641 1176 →gumroad経由:600円

「稲葉 立岩さんが今おっしゃったような話のベースラインになっているのは、おそらくは意外なことに、ミクロ経済学の教科書に載っているような「厚生経済学の基本定理」っていう話があるわけですけど、ああいう教科書的な話で想定されている状況と、根本的にあまり変わっていないわけです。
 「厚生経済学の基本定理」が考えてるような初期条件っていうのは、ある意味非常に非現実的っちゃ非現実的なんですけれども、まず人は市場で取引に参加する以前にすでに存在している、生きている、という状況です。だから、そのような人々が取引に乗り出すからには、少なくともそのことによって、取引しないでいるよりもいい結果がもたらされるか、あるいはしてもしなくても現実的に同じなんで、じゃあちょっと気分的にしてみるかという状況にあるはずですね。つまり、取引に参加しなくたって生き延びていける、ある種自給自足に近いような条件が想定されている。これはトリッキーといえばトリッキーですよね。
 ▽085あるいは市場取引に参加しない自給自足ではなく、すでに市場的な取引の中で生きている人が、その取引パターンが昨日も明日もえんえん変わらないようなルーティーン的な取引を続けているような状況について考えてみましょう。今のルーティーン的な取引――ご近所の商店街だけ買い物に行く――じゃなくて、たまには遠くのスーパーに行きましょうということをあえて人がするのは、スーパーに行くことによって新しくいいことがありそうだ、おそらくあるはずだと思うときにのみするのであって、別にしなくてもいい。今、近所の商店街というもの自体が日本じゅうからなくなりつつあるんで、こんなたとえ話していいのか悩んだんですけど、遠くのスーパーまで行かなくても近所の商店街で死ぬまで買い物してそれで終わったとしても、人は十分生きていける、というようにまず出発点の現状が、少なくともそこで人は最低限生きていけるし、そこにおいて満足してますという状況なんですね。取引してもいいし、しなくてもいい。
 つまり、経済学の教科書に書いてあって、市場経済バンザイ、オッケーという議論が展開されるときに想定されているのは、実はそういう状況なんです。だから、彼らは非常におめでたく市場を「パレート最適(6)」を実現するメカニズムとして肯定できるわけですね。初期条件というのは、ある種幸福な条件であるわけですね。それはつまり、踏み出さないと取引できない、取引しないと後がない、死ぬか取引するか、ではないわけですね。
立岩 ぼくは非常に奇妙だと思うんだけど、確かにそういう話になってるんですよね。そういう話があることはわかったと。それで、ですよね、問題は。
▽086稲葉 「厚生経済学の基本定理」のような話が、おめでたく受け入れられるようになるためにこそ、立岩さんが要求するような条件が満たされていなければいけないはずだということですよね。
立岩 それはそうです。

取引の自由は選べない

稲葉 で、現実はなかなかそうはいかないってことも事実であるわけですよ。「取引したくなきゃ取引しなくていいよ」と言えたとしたら、それは実はかなりユートピア的な状況である。だからこそ立岩さんの問題提起は重要なんですけれども。
 しかし、なぜ現実には「取引しなきゃ死んじゃうよ」とかという状況の方がふつうで、「取引したくなきゃ取引しなくていいよ」とは言えないのか。現実には、いきなり会社をリストラされることもありうる世の中で、同じ相手とばかり取引して、同じ会社でずっと働いて、同じ店で買い物し続けて、死ぬまでやっていけますよとは言えない状況であるならば、なぜわれわれはそんな不安定な世界に、実は無視できない人々が生きているような状況に……。
立岩 あるのかってことですよね。ナゾナゾみたいなものだよね、経済学が、市場というのはみんな得する世界なんだから、得するか、得も損もしないのどちらかだから、それを続けていれば、みんなハッピーになってっていう話をする。今よりはよいことがあるから取引するっていう話は、なるほどそうかな、と。したくなかったら、何もしないでさぼってればいいんだから。すると、だん▽087だんよくなるって話が一瞬本当に思える。でも、実際にはそうじゃない。小学生向けのナゾナゾのような気もするし、もうちょっと高級なような気もする。そのナゾナゾにどう答えるかですよね。ぼくの答えもあることはあるんですが、稲葉さんの答えはどういうものなんですか。

 […]

立岩 その話の続きはだいたいわかって、そういうことがあるのはわかるんだけど、もうちょっとマイクロなふつうのレベルで考えてもいいと思うんですよ。つまり、人間が生きている世界の中で、パレート改善ならうまくいくじゃないかというのは、それは明らかに現実に反していると稲葉さんが考えているのか、そうじゃないのかそれはわからないけれど、ぼくは明らかに現実に反していると思っています。
 ぼくは基本的に頭が単純な人間なので、単純に言います。人間生きていくわけじゃないですか。生きていくってことは消費してるってことですよね。だんだん得していくって話は、人間が時間の中にいて、消費して、すでにあるものを減らしながら生きている、というものすごい単純な現実を場合によっては忘れてる可能性があります。実際には差引でマイナスになることがあります。というか、ゼロを下回った時点で人間は死にます。時間の中に人間は生きており、消費しながら生きていく人間である、という誰でも知っているような当たり前のことです。それが一つ。
 その上で、生産するためには、人間の身体は生産するための一つの資源ですし、ほかに自然の物体がある。するとまず前者について、身体を動かして取ったものはその人のものと決まっているなら、身体が動かない人は取れない。それから後者、それ以外の自然物。その中には土地もあるし、原料もある。そこのところもよくわからないわけさ。経済学者が所有の初期条件として何を考えて▽090いるか、俺にはとってもわからないっていうのはそういうことでね。土地なら、自分が耕す土地として所有が認められなかったら、その土地を耕せなかったりするわけじゃない。それが足りなければ、あるいはそれがなければ、そして自分が必要な消費より現実の生産の方が下回れば、人間は死んじゃうよ。すぐ死ななくてもだんだん生活は圧迫されていく。それはとりあえずシンプルに言えそうな気がするんだけれど、そのへんはいかがですか。」

■文献

稲葉 振一郎立岩 真也 20060830 『所有と国家のゆくえ』,日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. ISBN-10: 414091064X ISBN-13: 978-4140910641 1176 →gumroad経由:1000円
大庭 健 19891015 『他者とは誰のことか――自己組織システムの倫理学』,勁草書房,367p. 2884 ※/三鷹151
Sen, Amartya 1970 Collective Choice and Social Welfare, San Francisco, Holden-Day, xi+225p.=20000825 志田 基与師 監訳,『集合的選択と社会的厚生』,勁草書房,308p. 3000 ※
◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p. ISBN:4000233874 3400+ ※


UP: REV:20130427, 28, 1227
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