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『所有と国家のゆくえ』表紙   稲葉 振一郎立岩 真也 2006/08 『所有と国家のゆくえ』
  日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. \1176

  □目次 □関係項目
  □紹介・言及
  □御注文→gumroad経由:600円(テキスト・ファイル)
  □English



稲葉 振一郎立岩 真也 20060830 『所有と国家のゆくえ』,日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. ISBN-10: 414091064X ISBN-13: 978-4140910641 1176 紙本品切→gumroad経由:600円(テキスト・ファイル) ※ p08. cf.お送りできるもの

  20170811:立岩真也2013/01/01「素朴唯物論を支持する――連載 85」,『現代思想』41-1(2013-1):14-26 を追加収録。

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□目次

まえがき 稲葉 7

第一章 所有の自明性のワナから抜け出す 13
1 社会の基礎に所有がある 14
 福祉国家の概念を壊す 所有という根本問題 いまある仕紐みを批判する
 他者から始まる所有論 政治・経済の基本要 素私有に対する別の私有
 「みんな」を起点にした議論の限界 批判・否定のしかた
 分けてしまえばよいもの/分けられないもの
2 どこまでが自分のものか 37
 人とものとの区別 所有される対象とは何か 身体の捉え方
 切離できないものが分配されない もっと繊細な決まりがある
 左翼はどれぐらいかっこ悪いか

立岩――「分配する最小国家」について 52

第二章 市場万能論のウソを見抜く 65
1 市場のロジックを検証する 66
 人が必ずもつべきもの 人的資産の二重性 「売る」と「貸す」の区別
 譲渡できるもの/できないもの 区別をどのようにつけるか
 平等主義・保守主義市場のダイナミズム 経済学が想定する初期条件
 取引の自由は選べない 現状は現状維持なのか
 ニつのタイプの社会モデル 市場から所有へのフイードバック
 市場社会の不幸な事故
2 分配の根拠を示す 98
 結果の平等はなぜ評判が悪いのか 歴史原理と状態原理
 嫉妬感情の正当性 再分配という発想市場 原理主義の舌矛盾
 社会のダイナミズムと安定性 「物価」は安定していた方がいい
 市場に対する制限 国家がやるべき三つのこと

第三章 なぜ不平等はいけないのか 125
1 平等をどのように規定するか 126
 分配のために、まず国家は要る 分配的正義と搾取論
 ローマーの「機会の平等」論 機会の平等と結果の平等
 効用の個人間比較 フェアネスとは何か ゲームのルールにみるフェアネス
 労働を分割する 能力の差をどう組み込むか アソシエーショニズムとは何か
 「国家が」でも、「自分たちで」でも、うまくいかない
 国境を超えた分配
2 マルクス主義からの教訓 161
 マルクス主義の二枚舌構造 分析的マルクス主義者の青写真主義
 何をするか、しないかを考える 乱暴に考えないこと 実行可能性について
 合意は大切だが合意でしかない 体制変革論の気分的な根拠
 搾取理論の間題点 不平等こそ問題である 人間改造思想への危倶
 マルキシズムおよびマルクス 変革のもとについて 世界主義
3 権利は合意を超越する 187
 ノージックの権利論 規約主義と規範主義
 思いを超えてあってほしという思い ノージックロールズ、立岩理論の違い
 経済学の世代間取引モデル 次世代の問題をきちんと取り込む

第四章 国家論の禁じ手を破る 207
1 批判理論はなぜ行き詰まったのか 208
 国家論の歴史 「国家道具説」から「相対的自律性」へ
 批判理論への閉塞感 フーコー権力論の衝撃 悪者探しの無効化
 フーコーの隘路から抜け出す 国家は単一の実体ではない 仮想から始める国家論
2 国家の存在理由 228
 なぜ国家があるのか ルーマンの憲法学的な構想 権利の基底性
 実定法の外側にはみ出すもの 不平等批判の正しいかたち 肉体レべルに根ざす不平等感
 ドゥウオーキンの補償理論 本当に国家に責任はないのか 責任を問うことの不毛さ
 法的に呼び出される国家 国際秩序について

稲葉――経済成長の必要性について 259
立岩――分配>成長?――稲葉「経済成長の必要性について」の後に 269

註釈 279
参考文献 295
あとがき 立岩 299

 
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■関係項目

搾取
パレート最適/パレート原理/パレート改善
マルクス主義

 

 *20../16 出版記念イベント http://www.junkudo.co.jp/newevent/evtalk.html
  於:ジュンク堂書店池袋本店 http://www.junkudo.co.jp/ 19時〜20時半 4F喫茶室
  塩川伸明さんhttp://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/)をお迎えします。+稲葉・立岩

 *2005年から2006年にかけて行なった稲葉と立岩の対談を本にしたもの。2006年8月刊行予定。
 *発売(8月末)されたら1000円+送料でお送りします。他の本・冊子と一緒だと書店で買うより安くなることがあります。

 稲葉「トークセッションに向けてのメモ」
 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060826/p4

 
 
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■紹介・言及

◆立岩 真也 2013/07/07
 「『私的所有論 第2版』広告予告+『所有と国家のゆくえ』少し――連載:予告&補遺・14」http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa14.html →登場人物達の学歴に誤りあったようです。誤記憶理由不明。お詫びします。訂正そのうち。
◆立岩 真也 2013/06/10
 お買い上げありありがとうございます。@alicewonder113 @gumroad I just got 『所有と国家のゆくえ』 from @ShinyaTateiwa on @Gumroad: http://gum.co/cBrQ
◆立岩 真也 2013/05/25
 『生の技法 第3版』 http://www.arsvi.com/ts/2012b3.htm 『私的所有論 第2版』と同じく文庫版 http://www.arsvi.com/ts/2013b1.htm。『所有と国家ゆくえ』のゆくえ、多くの方に来店いただきましたが、高いですか… http://www.arsvi.com/ts/sale.htm
◆立岩 真也 2013/05/24
 『私的所有論 第2版』文庫版 http://www.arsvi.com/ts/2013b1.htm の解説書いてくれている稲葉振一郎さんとの対談本『所有と国家のゆくえ』。テキストファイルで販売してみてます→http://www.arsvi.com/ts/sale.htm/http://www.arsvi.com/ts/2006b2.htm
◆立岩 真也 2013/04/27
 『所有と国家のゆくえ』http://www.arsvi.com/ts/2006b2.htm 細目次追加。多数来店感謝。いっときダウンロードできなかったかもですが今は大丈夫。関連して「搾取」頁まずは作成→http://www.arsvi.com/d/e10.htm cf. http://www.arsvi.com/ts/sale.htm
◆立岩 真也 2013/04/27
 稲葉振一郎・立岩真也2006『所有と国家のゆくえ』。書店になくなったのでgumroad経由でテキストファイル提供1000円。http://www.arsvi.com/ts/sale.htm→http://gum.co/cBrQ。勉強できます。cf.http://www.arsvi.com/ts/2006b2.htm
……
◆2012/01/10 http://koisuru21.blog.fc2.com/blog-entry-189.html
◆2010/07/17 http://d.hatena.ne.jp/tkenichi/20100717
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_60825.html
http://diary.tea-nifty.com/blog/20../index.html(8.31)
http://blog.livedoor.jp/moleskin/archives/2006-08.html#20060831
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20060901/1157121175
http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20060902#p2
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060903/p2
http://d.hatena.ne.jp/TamuraTetsuki/20060904/p2
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060904
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060905
http://d.hatena.ne.jp/tenshinokuma/20060911
http://d.hatena.ne.jp/K416/20060925
◆『読売新聞』2006-11-15夕刊:5
 「気鋭の社会倫理学者と社会学者が、平等な社会をどうデザインするかを話し合った。不平等が生じる原点は、「自分の作ったものは自分のもの」というロックにさかのぼる利己的な所有の考え方にあるとし、それに替わる「他者尊重」の所有論を探った。」
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20061210
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20061225
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20061225
http://book.asahi.com/review/TKY200612260250.html
◆みいけ あおい 20070127 「書評:稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』」
 『図書新聞』2807:5 http://www.toshoshimbun.com/BackNumberPages/2807.html
http://d.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100510/1273479397


 
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 以下は後で(2006年6月・7月)立岩が付加した部分の草稿。
 英語版(頁の下の方)
 *あとで刊行された文章に差し替えるかもしれません。

■ 「分配する最小国家」について」※


 ◇人の生存・生活が、そのことに同意しない人がいても、維持されるべきものであるとするなら、強制が求められる。それは一つ、実現可能性を考えるからである。つまり、義務としないなら、その実現が――世話や扶養を自ら担う人、担わざるをえない人たちに「ただ乗り」してしまう可能性も含めて(『自由の平等』一四九−一五一頁)――難しいだろうということだ。もう一つは、人の生存・生活のいちいちが、その周囲の一人ひとりの自発性によって、言葉を変えれば恣意性によって保持されるしかないことを認めないということである。このような意味で強制力は要求され、それが及ぶ範域あるいは強制力を背景にすべきことをなす機関を国家と呼ぶのであれば、それは必要である。(本書●頁、『自由の平等』一四五−一五六頁)
 ◇として、国家が具体的になすべきことの一つは――次に述べるものとはっきり分けられることではないのだが――加害を禁ずることである。刑罰もその一つの行ないであるが、この主題については、今のところ私は論じることができないから略す。(本書では、なんであれ最終的な帰責主体として国家を設定するのは、かえって国家の神秘化をもたらすことにもなるから、やめておいた方がよいと述べたにとどまる(本書●頁)。)
 ◇もう一つ、大きな仕事として分配が行なわれる。(この話はずっとしてきたつもりだ。それを否定する立場への反論は『希望について』所収の文章では「自由はリバタリアニズムを支持しない」等。批判とともに、自らの立場の提起、その理由の説明は『私的所有論』、『自由の平等』。本書ではおもに冒頭の部分。また分配されるものとされないものとの区分については『私的所有論』第4章2節「境界」、本書●頁。)その際、各自に交換するだけの手持ちがあるのであれば、交換は有益であり、市場は有効である(本書●頁)。だからそれは否定されない。
 ◇ただし、とりわけ分配については、その範域が限られていることはよくない。その一つは、人が住む場所に左右されてよく暮らすことができないことが許容される理由はないから、もっと言えば許容されるべきでないからである。もう一つ、財や人の移動を認めつつ、分配を国家内に限るなら、分配を正当に行なう場から財や富裕な人たちが逃げていくといったことが起こるから、また、国際競争下で、国家は分配より投資・生産を優先するがゆえに、分配がうまくいかなくなるからである。(『希望について』所収の「限界まで楽しむ」等。そこでは、様々な「地域」的な「組合」的な「自発」的な試みがまったく否定されるべきものでないこと、ただそこでその限界をふまえておくことが必要だとも述べた。本書●頁で述べたこともこれに関連する。)ゆえに、その範囲は現存の国家の範囲に閉じられるべきではない。たしかに困難であるとしても、基本的には世界を単位として分配がなされるべきであり、そのためにできることからすべきである。(本書●頁、『自由の平等』序章3節7「国境が制約する」。)
 ◇分配は、生産財の分配、労働の分配、所得の分配、以上三つの次元でなされてよい(本書●頁、『自由の平等』序章3節4「労働の分割」、5「生産・生産財の分配」)。なぜそう言えるのか、理由はいくつかあるがここでは略す。(労働の分配については『希望について』所収の「労働の分配が正解な理由」で述べている。本書●頁でもすこし。生産財の分配については同書所収の「所有と流通の様式の変更」でいくらかを述べている。)
 もちろんそれぞれについて困難がある。たしかに第三の分配だけがなされるのなら、その機構はかなり簡素なものになる。それ以上を求めるなら、政治が行なうことが膨れ、市場がうまく機能しなくなることが懸念される。その懸念のいくらかはもっともである。しかし、例えば生産財の所有について、特許権の有効な時間を短くするといったことは、同じ手間しかかからない手続きによって、規則を変更するだけで、可能なことである。(ここで私たちは、所有について規則の設定は常に既になされていること(本書●頁)を忘れてしまうことがある。自然な市場とそれを制約する国家という図式は間違っている。市場のあり方は、それがどんなものであれ、既に規則によって規定されている。問題はどんな規則を設定するかであり、その手間・手続きの煩雑さについて、今ある規則より別の規則の方がより大きいとあらかじめ決めてかかることはない。)慎重でありつつ、できることを行なうことはできる。
 ◇それ以外のことは、あまり、しない。すくなくともしなくてよいのではないかと考えてみることができる。何かがなされてよいことであることと、それが強制されてよいこと、具体的には国家によってなされてよいこととは同じでない。このまったく単純で大きな差異が頻繁に無視されている。このことを確認し、いま国家がしていることについて、その必要があるのかを問うべきである。分配を肯定することは政治の領域が今行っていること全般を肯定することでなく、今ある「福祉国家」を護持することではない。国家は今行っていることの多くから撤退しうるし撤退すべきかもしれない。
 ◇まず、分配はなされるべきだとして、その供給の機構を変えてよい。国家が建物にせよ何にせよ、直接に現物を作ったり、あるいは個人に渡す場合にも現物として与えることがどこまで必要か。それでは何に使うかを個々人が決められない。税を使える用途は有限だから選択が行われるが、これは何が社会的に供給されるかが政治的に決定されるということであり、何を得て暮らすかは一人一人が決めることだという考え方からは批判されることにもなる。また、よく指摘されることでもあるが、政府機関、そこに近いところに財と権限が不法にまた合法的に集中することがある。現物を給付するのでなく、個人には貨幣が渡り、何を得て暮らすかは個々人が決め、営利・非営利の様々な供給組織から選んで利用するという方法は支持される。とすると、私たちが目指してよいものが、よく主張されまた現に実行されているなしくずしの「民営化」とどこまで同じでどこからが違うのかを考える必要もある。
 国際援助と呼ばれる領域にもそれを拡張することができる。実際の国際援助の多くは事業に対するものであり目的を定めたものだった。また多くは政府や組織を介したもので、直接に個人に渡ることは多くない。そしてその多くは現物の支給だった。もっと直接的な、個人に対する分配の方が、もちろん貨幣を渡す場合には、ものが貨幣で買えるという条件が現に当該の社会にあった上でのことだが、望ましい。
 ◇分配の最も簡潔な形態は、世界の財、財を購入手できる貨幣をを人数分で割ってしまうことである。ここでは、政府は徴収と割り算と各人の口座への振込をすればその仕事が終わることになる。ただ同じ状態を得ようとしても、その人の身体のあり方やその人が置かれている状況によって必要なものが異なる。また違いがあるからこそ分配が要請される。だから均等割りという単純な方法の全面的な採用は難しい。結果として得られるものが各人でそう違わないように、人の違いに応じた差異化された分配が要請される。
 ただし、一人一人に対応すべきことと、分配の基準を設定すること、また個々の違いを測定しそれに応じた基準を定めることとは別のことである。提供の基準、提供量の上限の設定はやむをえずなされる。比較したり基準を設定する必要がない場合もある。例えば制限しなくても需要がそれほど不当に膨張しないなら、予めの「ニーズ」の査定はつねに必要ではない。その人が必要と思うだけを受け取ること、実際に使った分について費用を支給することも可能であり、実際行われてもいる。(『弱くある自由へ』二九二−二九七頁。供給量の基準を設定しない場合、上限を決めない場合には、その供給を貨幣で行なうことは――貨幣であれば他の用途に使うことができるから――困難になり、現物支給やクーポン券等の使用を導入せざるをえないことがある。)
 ◇他方、「公共財」として供給されてよいものがあることも否定しない。ただ、貨幣を個人に渡す、現物を個人に渡す、現物を社会に置くというその各々の境界について、じつはたいしたことが考えられおらず、まずこのことの確認から始める必要がある。「大きな政府」と「小さい政府」とを立て、そのいずれがよいかという問いはたいへん愚かな問いである。
 ◇国民に人気があり十分独立採算でやっていける人々の税金による扶養など、不要なこと(というより、負担の強制について正当性を調達できない行ない)は多々あろうが、大きい費目としては経済政策がある。すくなくともこの国のような国で強制的に徴収される税を用いた成長策は不要である(『希望について』所収の「停滞する資本主義のために」、『自由の平等』序章3節3「生産の政治の拒否」他)。ただ、市場において景気変動が必然であり、そこで経済の安定性を確保する政策を行なうことを認めるなら、経済の調整と成長策とをどのように区分けするのかといった問題は出てくる。(稲葉はその著書『経済学という教養』の中で、成長策を公共財として捉え、肯定する。そのことについて議論ができたらと仕向けてみようともしたのだが、今回は論じられなかったのは残念なことだった。おそらく、経済の調整策と成長策とを厳格に区分することはできない。しかし後者の策も多くの場合にはどうしても禁じられねばならないほどの悪ではないから、このことは実際にさほど大きな問題にしないことができると考える。)
 ◇以上を参照枠として考えていく。基本的にこれでよいはずだという立ち位置を決めておくことは、それが容易に実現されなくとも、意味がある。採るべき原則、立つべき立脚点自体が明らかでないのが今日の状況であるからでもある(『希望について』所収の「希望について」)。
 ◇私は合意されたものが正しいという立場を採らない。しかし、人々の意思を尊重すべきではあるし、また人々の意思が社会の作動に関わっている以上はそれを無視することもできない。民主制は維持される。ただ、人々の現在の意思・価値を問わず、それを所与において、そこから可能になるものだけを認めるといった立場を、基本的には採らないこと、採るべきでないことは明言しておく。(『自由の平等』第4章「価値を迂回しない」、本書●頁。まったく唐突に思えるだろうが、「安楽死」「尊厳死」のことを考えていっても、どうしてもそのように言わざるをえない。『弱くある自由へ』『希望についてに』に収めた幾つかの文章でこの主題について述べている。)
 ◇いったんできてしまっている機構を急に大きく変えるのは厄介なことではある。方法として漸進主義、改良主義が採用される場合がある。すると行なうべきことを行なうにはそれなりに長い時間がかかる。ただ、基本的な方向をはっきりさせた上でそれらを行なうなら、なすべきことか途中で見えなくなり、中途半場なところで止まってしまうことはないはずである。そして同時に、いったん獲得された水準が低下させることのない機構を組み入れておく必要がある。時々の状況や人々の意向によって容易に獲得されたものが変更されることがないようにする必要がある。
 ◇以上のような制約のもとで、まずなすこと、なすことのできることは、まったく慎ましいことである。例えば、租税徴収の累進率を、以前より引き下げられたままになっている今より――先述した国境の制約を、それが現に存在してしまっている以上、いくらかは考慮にいれつつ――高めるといったことであり、ことでしかない(『希望について』所収の「どうしようか、について」)。また、取り引き、あるいは恩恵としてしかなされていない「国際援助」を義務の水準に置くことであり、置くことでしかない。しかしそれでも、しないよりよい。

※ 『私的所有論』には「再分配しかしない最小国家」という語がある(三四七頁)。また「分配する最小国家」という言葉は、一九九八年の『社会学評論』(日本社会学会、特集:福祉国家と福祉社会)に掲載された文章の題名でもある。その文章は、他の文章でも記した論点を列挙したものであるので、著書に再録することはしていない。http://www.arsvi.comで全文を読むことができる。むろんこの言葉は形容矛盾である。リバタリアン(であった時期)のノージックが著書『アナーキー・国家・ユートピア』に記した「最小国家(minimal state)は分配をしない。積極的に拒絶するといってもよい。しかし私は、強制力を介した分配は、自由のためにも、必要だと考えるから(『自由の平等』)、分配はする。同時に、国家は余計なこともしている。それはしない方がよい。そのように考えた。
 また『私的所有論』では「冷たい福祉国家」「機械的分配」といった言葉も使っている(三四七頁等)。この時には、財の分配の機構のあり方も含め、政府が不要な介入を行なっているという認識と、また(ときに国家による分配と対比させ)「自発性」「紐帯」「愛着」を持ち上げる言説に対して、むしろ分配を簡潔に義務とし、機械のように、粛々と、すべきことをする機構の方がよいのではないかと言いたかった。
 そして「停滞する資本主義」という標語もあって、同じ題の文章を『希望について』に収めた。また『私的所有論』には「冷たい市場」という語もある(三三四頁)。人と社会を生産・成長に扇動する装置、とりわけ国家が装備するその装置を取り外してしまった方がよいことを言おうとした。
 とすると分配に応ずる「動機」がどのように調達されるのかという問題があると言われる。それ以前に、生産に向かう「動機」が必要だとされる。そこで、まず後者について、分配原理としての貢献原理は必要だし、価値としての能力主義は必要だと言われる。また前者について、「ケアの心」や「連帯」や、はては「愛国心」が必要だと言われる。
 これは、人間の現実についての、またそれと連動する社会とその機構の現実的な可能性の問題であるから、その水準において、この種の問題があることは認めよう。つまり、指摘されることを全面的には否定しない。ただまず、前者と後者とがうまく寄り添うものでないことを確認しよう。前者では、自分のために人は行動するのだから、その心性を前提にせざるをえないのだから、働きに応じた分配はやむをえないとされる。また、その心性を使って、あるいは強くして、人を生産に仕向けることが必要だとされる。後者では、人が分配に応ずるために「人を思いやる心」の涵養が必要だと言われる。
 ここで話を整理した方がよい。まず人が生き暮らすためのものが必要であり、そのために生産が必要であり、それには人が働かねばならない。働くためには働く気にならなければならない。このことは動かせない。として、第一に、働ける者が働く義務はあるとする。これは最初の◇から直接に導かれることでもある。第二に、働く人はそれだけ苦労もするのだから、すくなくともより多く苦労した人はそれに応じて――しかし実際にその苦労を量ることは困難だから、それに代えて、例えば、働いた時間に応じて、というあたりに、それに幾つか不都合があることを認めつつ、収めざるをえないかもしれない――得られることは認められるとしよう。するとその人は働いただけよいこともあることになるから、ある程度は、働くことになるだろう。第三に、働くことに、幾つかの意味で――それが楽しいとか、人のためになっているとか――意義を感ずることはある。さらに、いったい、現在の技術の水準と働ける人の数とを考え合わせたとき、どれほどの一人当たりの労働が必要かと考えるなら、すくなくとも現状に上乗せをするほどのものは不要であると考えられる。より多くの人に働いてもらいたいなら、労働を分割して、それを実際に可能にすることが求められる。以上、第二、第三、第四点を認めるなら、現実には、第一点を認めながらも、労働そのものを強制する必要はないだろう。また、「利己」的なものであれ「利他」的なものであれ生産に向かう動機を増強する必要もさしてないだろう。また格差を拡大することによって人を働かせる必要もないだろう。このように考えられる(『希望について』刊行に当たって新たに付した注・一六六−一六九頁)。
 そしてここで重要なのは、手段として、仕方なく用いられる道具、例えば格差の設定を、なにかそれ自体が正しいことであるかのように考えないことである。しかし現実には、業績原理・能力主義はこの社会で正統で正当な教義の位置に置かれている。ゆえにそれは批判されねばならない。そして、それを批判し、妥当な位置に落ち着かせ、代わりに、第一点として記した、人々の生存・生活のための義務を優先させることは、分配とそのために必要な生産をより容易に実現させることになるだろう。(逆に、生産に応じて取れるという教説と規則を強化することは、むしろ、より多く働くためにはより多くが取れて当然だということになり、格差の設定による生産の増大の効果を減じさせ、さらに大きな格差を要請し、それが無効化するという連鎖を呼び起こすことにもなる。また、分配を作動させるためには、「ふれあい」であるとか「道徳教育」であるとかいった付加的な、そして結局は本気にもされない装置を要することにもなる。)だから、言説・言論の水準において考えるべきことを考え、言うべきことを言うこと自体にも、相応の実践的な意味はあるのだと考える。もちろん、それは、人と人の具体的な関係のあり様から人が受け取るものがあること、そうしたものがあって、人が社会的分配に同意することがあることを否定しないし、それが大切であることをまったく否定しない。
 その上で三つ加える。一つ、ここで主張される広域の分配の実現が人と人との関係を疎遠にさせ、連帯に向かう心性を弱くするという議論があるのだが、それはいささか乱暴な話だということである(『弱くある自由へ』所収の「遠離・遭遇」)。一つ、人々の連帯に向かう心性が、常に、身近な自らと共通性を有する人に向かうはずだと考えるのもまた、いささか、乱暴な見方だということだ。たしかにそのような傾向も一方にはある。しかしそれだけではないはずだと考えることができる(本書●頁の補記とそこにあげた文献を参照のこと)。一つ、さきに広い範囲で分配はなされるべきだと述べ、それを支持する心性もまた実在すると述べたのだが、その際、むしろ紐帯の範囲を国家なら国家に限って、それを強化しようとすることはよくない(『希望について』所収の「市民は当然越境する」他)。むしろ、そうして限局しようとする営み自体が人々の心性を限局したがっているのだとさえ言える。


★補記
 途上国は労賃が安いから、その分有利だから、やがて高いところに追いつく、正確には両者の間に落ちつくという話がある。しかしその土地、土地に住む人に与えられている不利は残るだろうという指摘がなされる。しかしさらにそれに対しては、人はよりよい条件を求めて移動するから、資本もよりよい条件を求めて移動してくるから、格差はやがてならされるという話がある。この話に一定の説得力があること、現実的な妥当性があることも認めよう。しかし、格差はなくなっていない。これは、人がすくなくとも自ら自身の労働力は保持しており、その力について本来は差がないのであれば、やがて取得するものについても差はなくなるだろうという話の国際版である。この社会の機構のもとで、同じになるなら同じになることはひとたび認めるとして、その上で言えることを言うことになる。差はなくならないし、また、その一部についてはなくすべきでもないことを言うことになる。「国家と国境について」(『環』五・六・七号、藤原書店、二〇〇一年)ですこしのことを述べたが、考え足し書き足して、ずいぶん前に依頼された小さな本にしたいと思ってはいるが、仕事は途中で止まっている。また、『現代思想』(青土社)に、二〇〇五年十一月号から毎号書かせてもらっている「家族・性・市場」でも、一つに、男と女が同じなら同じになるはずだが、同じになっていない、どうしてかという問いについて考えてみている。


★補記
 「比較できる」とはどういうことだろうか。普通の意味では、二つのものになにか共通の尺度で見ることのできるものがあり、その多少を計ったり、順番をつけることができるということだろう。人間の満足や幸福の度合い等についてはどうか。できるとも言えるし、できないとも言える。両方にそれなりにもっとな理由がある。そして、「比べられない」と言うのがこのごろの流行ではある。ただそのことだけを言うのもずいぶんと乱暴ではあると思う。
 まず、人と人とを全体として比較すること。これは多くの場合に不遜で不当なことであると言えそうだ。しかし、このことは、常に比較することがよくないことを意味しない。いまあげた、水を得られないことがもたらす二つの事態のどちらが深刻か、比べることはできる。あるいは、比べることができるはずだと、むしろ、比べられるべきであると思っている。二人を見比べている人がそのように思う。それは間違っているかということだ。
 英語圏の分配的正義論のある部分は、この辺りで妙な議論を始め、そして続けてしまっているのではないかというのが私が思ったことであり、そのことについて考えてみたのが『自由の平等』の第4章「価値を迂回しない」。例えば、どうしても毎日風呂に入らないと我慢ができないという人がいたとする。「高価な嗜好」をもっているなどと言われる。その人の言うことを聞いていたら、もっと水を必要とする(ように思える)人たちに水が渡らないのかもしれない。そこで、主観的な満足度などといったものを分配の基準から外すべきだといった具合に話が進行する。しかし、その「高価な嗜好」をもつ人の言うことをすべて真に受ける必要はないということと、何かが人にどのような意味を有するのかを考慮したり比較しないこととは別のことである。真に受ける必要がないという思いを、その人の嗜好・選好が間違って形成されてしまっている、あるいは、他人の嗜好・選好をどのように受け止めるか、自分のそれとの優先関係を考えるか、どう考えるかについてどこかでその人は間違ってしまっているという言い方によって表現することもできる。(ここではその選好・嗜好が社会的に形成されたこと自体を問題にしているのではないことに注意。このことについては『希望について』所収の「社会的――言葉の誤用について」。)私はそのように言えばよいと述べた。
 ただ、リベラルな人たちは、それは個人への干渉であり、個人的なものを他人が評定することであり、不当であるとして認めないだろう。つまりその人たちは、不可侵な大切なものであるがゆえに、それにさわらない方法をとるべきだと言うのである。しかし、それはいくつものの意味で奇妙なことだ。例えば、高価な嗜好を主張する人の言い分をすべて認められないと思うとして、それは、嗜好を考慮することが不当だからだろうか。そうではないだろう。その人の嗜好を知った上で、それをどの程度考慮したらよいのかと考えてのことではないだろうか。その人の言い分を聞かないという道筋を採ること自体に、既に評価、本人の評価についての評価は含みこまれているのである。


★補記
 労働を(労働も)分けることがよいことについては、『希望について』に収録された「労働の分配が正解な理由」にも記した。分配に同意する人たちの中にも、労働の分配については、市場への好ましくない介入になるとして賛成しない人たちがいる。その懸念にはもっともなところがあることを認めよう。しかし他方に、労働を分けた方がよい理由もたしかにある。とすれば、ここから考えどころである。つまり、どのようにしたらうまく分けることができるのか。そうした議論もまだあまりなされていない。なお、最初『グラフィケーション』(富士ゼロックス発行)に掲載された「労働の分配が正解な理由」を拙著に収録するにあたって、ここ数年間の間に出版されたワークシェアリングについての本を列挙し、ごく短く紹介した注を新たに付している。


★補記
 まったく働けない人と働ける人としかいないのなら、話は簡単である。前者の人たちに働きに来てもらっても仕方がない。しかし実際は、とても多くの場合、そうではないということだ。それでどうするか。そのことについてもそれほど多くのことが考えられたわけではない。労働の分配(の困難)にも関係することだが、この社会において、どのような仕組み・仕掛けによって一人分の労働、一人前の仕事というものが決まっているのかである。市場メカニズムのもとで自然とこうなっているのだから、それを下手にいじらない方がよいと言われるだろう。それを全面的に否定しようとは思わない。しかし、例えば家族の中で一人だけが長い時間外に出て働くという体制の成立にしても、それにはそこそこに複雑な要因が絡んでいるはずだ。また、そういう体制がいったんできてしまえば、こんどはその条件のもとで市場は作動するから、それほど簡単にはその体制は変化しないということも起こる。『現代思想』(青土社)に連載中の「家族・性・市場」で関連することを考えてみている。また『希望について』に収録された「できない・と・はたらけない」にもいくらか関連する記述がある。


★補記
 『自由の平等』の第3章3節1「普遍性・距離」でもそんなことを述べている。また『希望について』に収録された「信について争えることを信じる」に新たに付した注(二五四−二五五頁)でも、関連する文献をいくつかあげている。そこにあげた文章の一つの見出しでもあるが、私たちは、「思いを超えてあるとよいという思いの実在」という位相を忘れたり、軽くみたりすべきでない。なにか具体的なものを共有したりしていることによって仲良くなれることは確かにあるだろう。しかし、そんなことが多々あることとまったく同時に、自分がどのような自分であれ、認められたらよいという感覚もまた、現に、具体的に、存在する。であるのに前者だけを強調するのは間違っている。私がこれまで、「他者」と「私」について述べてきたことは、基本的に、普遍性につながっていく。
 個別の特性や関係を越えて在ろうとする思いは、自分がしかじかの特性を有することを認めてほしいとか、あるいは他人がしかじかであるがえゆに好きであったり嫌いであったりすることと同時に存在する。ただ、しばしば人生にとって大切であることは後者の契機であるから、前者において、抽象的・普遍的に私が認められたとしても、ふられた私はすこしもうれしくない、なんのなぐさめにもならないというのはその通りである。だから世界から悲しみは決してなくならない。また、二つがあることを言ったとして、両者が並存・両立することを言えるとして、それは普遍的な権利が優先されることを意味しない。
 しかし、これらをみな認めた上でも、やはり依然として、どのようにであっても大丈夫な方がよい、とは言える。それは世の不幸を取り去ることはないが(それが取り去られるのなら、そのときには幸福の相当の部分もまた取り去られることになるだろう)、しかし、なくすことができ、なくすべきでもある不幸は減る。だから、どのようにあっても、という欲望の現実性、強さを知り、それを言うことは意味のないことではない。
 以上は、私の私についての欲望の側から言えることだった。このことを『自由の平等』の第3章2節1「私のために、から届く」で述べた。このことと、他者が自分の範囲にないことの快とは、どのように同じなのか、あるいは違うのか。このことについては次の補記で。


★補記
 二つの関係について、『自由の平等』の一部でもそのことにはすこし触れたのではあるが(一三五−一三六頁)、すこし足しておく。
 この他者への関係は、私と別にその人がいるというところにある関係だから、むろんその人と私の間に様々の差異とともに共通性はあるのだが、それはそれとして、基本的に属性の共有や差異に負荷はかかっていない。その点でこれは、ただの私を生きさせよという要求と共通している。またそれが欲求としてある限り、私も、他者も、私の力能と別のところに存在する、存在したらよいということなのだから、私に対する負荷はない。
 その上で、他者を肯定することと私が肯定されることとは別のことではある。ただ、私がどのようであっても生きられることを欲することは、他者がどのようであってもその他者を認めることに――いざというときのために互助組織に入っておいた方が得だといった保険の発想を介さずとも――つながるはずである。
 私がどのようであっても生きていけるのがよいと思うときに、それを自分についてだけ要求することがあるだろうか。その私は、第一に、それを他人(たち)に対して要求している。そうでなければ実現されないから、この条件は動かせない。
 第二に、その要求において、他の人のことはしらないが、私を、と欲することはあるだろう。これはもっともな欲望である。しかしまず、このこと自体に、他の人たちについての積極的な要求は不在である。他人を自分と違うように扱えという契機は、私を留保なく認めよという要求にはない。
 次に、私だけをそのように扱えということは、その私を、他の人(たち)と異なる私として扱えということに、必ず、ではないが、容易につながる。それは無条件にという自らの要求を裏切ることになる。このようにして、ただの私を認めることを求めることは、他の人たちをもまた認めることに接続するだろう。
 また、人々が、自分ではない誰かを認めないなら、そしてその誰かにはそのように対するが自分のことは認めたとしても、そこにある承認・肯定は条件つきのものであるのだから、それは自らが求めるものと異なる。こうして、私を承認せよという要求は他者の承認と結びついている。
 では他者を他者として認めることは、私にどのように関わるか。たしかに私が他者のことを思っているのではあるが、そのこと自体においては私の存在自体は積極的に意識されていない。ただ、そのときすでに、私は私を肯定しているのだと言える。すなわち、そこでは、私に服さない私、私にとって不如意であるかもしれない私が肯定されている(『私的所有論』第4章1節3「他者である私」)。
 このように両者は関わり、つながっているだろう。


★補記
 ただ基本理論の構築に当たっては、その最初に置かれる人間は現実の人間というわけではなく、ある特性をもつものとして想定された人間、例えばヴェールをかけられてあるものは見えないことになっている人間であったりする。とすると、そのような想定、仮定の位置が問題になる。なぜある仮定を置くのか。なぜその仮定を置いた結果として帰結する社会の状態や社会の規則がなぜ正当とされるのかである。ところが、その点について明示的に語られることが少ないように思う。それは不思議なことである。このことを『自由の平等』第1章2節「ゲームから答はでない」で述べた。

http://d.hatena.ne.jp/satofu/20060830


UP:  REV: ... 20170811
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