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『国立療養所史(総括編)』

国立療養所史研究会 編 19761020 厚生省医務局国立療養所課,732p.

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■国立療養所史研究会 編 19761020 『国立療養所史(総括編)』,厚生省医務局国立療養所課,732p. 4000+ ※ h01

■目次

第1章 総説
 第1節 国立療養所史観
 第2節 国立療養所前史

第2章 国立療養所の創設(昭和12年〜終戦時)
 第1節 国立結核療養所と傷痍軍人療養所の発足
 第2節 傷痍軍人療養所の拡充強化
 第3節 日本医療団とその結核療養施設
 第4節 国立らい療養所の発足

第3章 国立療養所の新発足(終戦時〜昭和22年)
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の発足
 第3節 発足直後の国立療養所
 第4節 発足直後の国立療養所の業務活動

第4章 国立療養所の拡充強化(昭和22年〜31年)
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の転換
 第3節 運営管理上の諸問題
 第4節 国立結核療養所における患者の増大とこれに伴ううごき
 第5節 治療方法の変遷とその効果
 第6節 らい療養所における運営管理の進展
 第7節 診療補助部門における近代化へのうごき
 第8節 新看護体制への移行
 第9節 地域社会に対する協力
 第10節 社会復帰・養護学校

第5章 国立療養所の近代化(昭和31年〜現在)
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の再編成
 第3節 特別会計への移行
 第4節 診療費割引制度の廃止と基準加算制度の実施
 第5節 国立療養所の体質転換の強化
 第6節 国立結核療養所の精神療養所への転換と
 第7節 診療補助部門業務の進展
 第8節 看護の状況
 第9節 施設の老朽度とこれに対する整備の進展および医療機器の整備
 第10節 沖縄に対する国立療養所の支援

第6章 国立療養所の現状
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の変遷
 第3節 国立療養所の組織および定員
 第4節 施設の状況
 第5節 経理の状況
 第6節 治療研究の状況
 第7節 職員の研修・講習
 第8節 統計業務
 第9節 職員の福利厚生
 第10節 職員の団体活動
 第11節 患者の団体活動
 第12節 管理指導機構
 
回想記

資料

■言及


◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

■引用



第1章 総説
 第1節 国立療養所史観
 第2節 国立療養所前史

第2章 国立療養所の創設(昭和12年〜終戦時)
 第1節 国立結核療養所と傷痍軍人療養所の発足
 第2節 傷痍軍人療養所の拡充強化
 第3節 日本医療団とその結核療養施設
 第4節 国立らい療養所の発足

第3章 国立療養所の新発足(終戦時〜昭和22年) [124]
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の発足
  第1.傷痍軍人施設の転換

 1945/11/13 連合国軍最高司令部の覚書。「日本政府は、軍事保護院のあらゆる病院、療養所、患者収容所その他病院施設の監督権を厚生省の一般市民の医療に責任を負う機関に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、退役軍人およびその家族に限定しないこと」(国立療養所史研究会編[1976:124])
 1945/11/19 陸海軍病院に関する覚書
 「日本政府は,内務省が日本陸海軍の全病院,療養所,および他の療養施設の監督権を占領軍司令官より受領した際には,直ちに一般市民の医療に責任を有する厚生省に移管すること,およびこれらの諸施設において行う入院医療は,傷痩軍人及びその家族に限定しないこと」という指示を受けた。ここに内務省と記載されているのは,その当時,占領軍が接収した旧軍施設の返還引渡および処理については,責任官庁として内務省が指定されていたので,一旦内務省に引渡されたものである。
 これを受けた政府は,昭和20年12月1日,医療局官制(昭和20年勅令第691号)を制定し,厚生省の外局として医療局を新設した。そして,移管を受けた傷痕軍人療養所51箇所に保育所2箇所,それに陸海軍病院119箇所,同分院27箇所を,それぞれ国立療養所または国立病院として医療局の所管とし,ひろく国民医療を担当する施設として発足させたの▽125 である。医療局には,庶務課,病院課,療養課の3課を設けてその業務を分掌させ,さらに国立病院の業務指導の中間連絡と地方的調整の事務を推進させるため,全国に8箇所の医療局出張所を設けた。国立療養所の業務については,翌21年8月になって医療局出張所においても取扱うようになった。
 昭和20年12月1日,あたらしく発足した国立療養所と保育所の名称,位置などは次のとおりである。

 国立結核療養所 36箇所 収容定員28700
 国立精神療養所 2箇所 収容定員1300
 国立頭部療養所 1箇所 収容定員500(下総診療所)
 国立せき髄療養所 1箇所 収容定員100(箱根療養所)
 国立温泉療養所 10箇所 収容定員925
 国立らい療養所 1箇所(駿河療養所)
 国立保育所 2箇所

1947/04/01 日本医療団から93箇所の結核療養所が国に移管される。本院とされるものと、既にあった国立療養所の分院とされるものを合わせた数 「移管を受けた93施設の中、33箇所を国立療養所とし告示し、その他の施設はとりあえず既存のまたは新設の国立療養所の分院として運営することとした。」([1976c:128])
 本院としたもの一覧[129]
 分院としたもの一覧[130-131]

 「第3 国立らい療養所の所管換
 戦時,沖縄を除いて全国に9箇所あった国立らい療養所は,昭和20年12月,厚生省予防局の所管から新設の医療局の所管に移された。同時に,軍事保護院のただ1箇所のらい療養所である傷痩軍人駿河療養所も国立療養所に移管されたた。沖縄にある国頭愛楽園,宮古南静園と鹿児島奄美大島にある奄美和光園の3施設は,連合国軍の軍政下におかれた。予防局から医療局に所管転換された国立らい療養所は次の9箇所である。
 国立療養所松丘保養園 青森県東津軽郡新城村
 国土療養所東北新生園 宮城県登米郡新田村
 国土療養所栗栖楽泉園 群馬県吾妻郡草津町
 国土療養所多摩全生園 東京都北多摩郡東村山町
 国土療養所長島愛生園 岡山県邑久郡裳掛村
 国土療養所邑久光明園 同上
 国立療養所大島青松圏 香川県末田郡庵治村
 国立療養所菊池恵楓園 熊本県菊池郡合志村
 国立療養所星塚愛敬園 鹿児島県鹿屋市
 終戦前後の国立らい療養所の実情については国立療養所大島青松園50年史(昭和35年発行)から抜すいして、そのー端を本章の末尾に掲げたが,その記録は,同園の3代所長であった野島泰治の記述したものである。」([134])

 回想記

◇長井盛至 19761020 「かくして得た国立移管への勝利」,国立療養所史研究会編[19760801:162-163]

 かくして得た国立移管への勝利 長井盛至

 職員組合総連合の結成
 終戦と共に,日患同盟と日本医療団産別組合が結成され,その本部を中野療養所に置いた。また,一方,刀根山病院を中心とする日本医療団職員組合総連合が結成された。東京に近いということで私が会長に選ばれ,本部を浩風園に置くことになった。
 四者案をGHQが裁断
 その後進駐軍の命令で,日本医療団は解散し,それをどこへ帰属させるかが,医療制度審議会にかけられた。そして,産別組合から後藤□□,総連会から私が臨時委員として出席させられた。審議は仲々意見の一致を見るに至らず,仕方なく塩田広重議長は, GHQの裁断にまとうということで,舞台はGHQ本部に移された。厚生省からは医務局長の東龍太郎氏と久下勝次次長,医療団からは医療局長の南崎雄七氏,産別組合からは委員長後藤□□君,総連合からは会長の私の四者が出席し,ジョンソン大佐の下に会合が関欄かれた。東案は地方委譲,南崎案は第二医療団の結成,後藤案は農業組合へ,そして,長井案は国立移管と,四者四様の主張で,収拾がつかなかった。
 そこで,最後にGHQ幹部との個別接渉に移り,後藤君は第一日の会見で終ったが,私には,君は横浜からで気の毒だが,明日もう一日来てくれということで,翌日私はジョンソン大佐を中心としたGHQ幹部に,産別組合と総連合との関係などを細かく話す機会が与えられた。やがて,再会された医療制度審議会の席上,塩田議長は,GHQの回答に基づき,日本医療団の帰属に関しては,長井案が採択されて,国に移管することに決定したと発表する。この報で,全国の日本医療団職員組合総連合は挙って勝利を祝し合った。われわれが国立移管を主張したのは,戦時中を通して荒廃しきった施設を,近代的のものに復興させるためには,経済的に疲弊した地方庁ではなく,どうしても,国のカにまたなければならないという構想に基づくものであった。われわれ総連合のスタッフは主に大療養△162 所の所長であったが,GHQの対談のときには,大塚弘,浜崎梅次郎の両君がスタッフとして私を勢付けていてくれたことは今でも忘れられない。考えてみれば,医療団幹部のアドバイスに従って,共産党系の組合と対抗することを思い留まっていたら,われわれの療養所は,現在農業組合病院になっていたかもしれない,少なくとも国立療養所にはなっていなかったであろう。
 医療団の時代に浩風園に関した四大間題
 記念すべき重大間題の多い日本医療団の想い出を,たった800字で表わすことは無理なことであるので,浩風園に関して特筆すべきこととを列記してみた。
1.日本医療団産別組合に対抗して日本医療団職員組合総連合を結成し小生会長に選出され,事務局を置いた。
2.戦後日本医療団施設の帰属につき,GHQ並に医療制度審議会に於いて,長井は職員組合総連合を代表して,国立移管説を主張し,他説を退けて,日本医療団施設の国立移管に成功す。
3.終戦後,食糧事情逼迫のため,全国医療団療養所は退所者続出して。空床が目立ったので,GHQは一番成績のよい療養所に実況放送をさせるようにという命令を医療団に下した。その白羽の矢は浩風園に当り, 「浩風園の1日」というNHKの出張放送をしたが,これが,わが国の最初の療養所実況放送であった。
4.医療団の解散に当り,帯広療養所,春霞園と浩風園の3箇所が最も優秀な療養所として医療団総裁から表彰状を授与された。(南横浜病院名誉院長)
 (関東信越地方医務局発行「関信」61号より転載)


前田勝敏  19761020 「日本医療団療養所の国立移管――地方の小療養所長の回想」,国立療養所史研究会編[1976c:163-166]

日本医療団療養所の国立移管
――地方の小療養所長の回想――

                            前田勝敏
 日本医療団の解散は,マ司令部の日本占領政策から当然発生され出たものであったと思われる。戦争の帰趨が略々解り,国民生活が劣悪化して来た時代に,あれだけの病床と全国的組織を作り上げていた事は,測らずも戦後必ず予想される結核患者の激増の処理に大きな効果を上げたことは間違いない。戦中,戦後の混乱の中に,患者の治療と保護に私等は精魂を傾けた丈けで,中央との連絡は殆ど△163 とれなかったし,わざわざ県支部を相手に経費の捻出にひどい苦労をした。支部の組織は,県知事が支部長であり,衛生課長が参事,その下に数名の副参事がいるという小さい世帯で,その点は国家機関であった軍事保護院とは大分趣きを異にしていたと考えられる。
 […]△0164
 敗戦の前, 2, 3日は発電所がやられたのか,停電,従ってニュースも聞けない。この丘の療養所の終戦は数日後になった訳である。
 さて,その後は戦後の混乱期に入る。
 9月10日,本部,近藤宏二結核課長より国庫補助倍増額の情報が入る。
 8月15日,藤原君(現戸馳療養所長)医療団療養所長会議に出席の為上京,国立移管についての会議であろう。
 10月16日,食糧増配について県に陳情。
 11月21日,資金間に合わず,俸給の一部払で,寒くなって燃料底をつく。
昭和22年1月1日,石炭6屯,木炭少し入手,これで何とか息をつけるだろう
 1月10日,「医薬通信」によると,サムス大佐と浜野予防局長の会談として,
  (1)療養所の整備充実
  (2)食糧事情の改善
  (8)厚生省の補助増額
  (4)医療面の技術その他の改善
等の諸頂目が挙げられている。
 1月13日,本部より予算削減を条件としての国立移管の可否を問う電報が入ったが,詳しいことは解らない。
 1月14日,総裁の名義で,院長会議召集の電報,組合のニュースでは,現病床13,000の中, 8,000床のみの予算を認め,本部支部の予算は含んでいないとのことであった。
 1月19日,大きなリュックに食糧を詰め込んで上京,列車の混乱はいう迄もな△165 い。会議は混乱した。本部,参事団,院長側と組合側の分裂ははっきりしていた。然し,移管の予算は22年度の予算に既に組み込まれているとの情報は流れていた。
 その中,ゼネストの影が濃くなって来た。懐中は段々寂しくなるし,東京で立往生したら全く処置なしである。列車も殆ど動かない様子。とに角2月1日迄には帰り着かねばと,東京駅迄行ったが,客車は全然なし,幸い下りの貨物列車が止まっている。その中にもぐり込んで,ひどい震動の中に長い時間をうつらうつらしていたら,ガタンと止まった。そこは京都駅であった。多分その間スト中止の命令が出たのであろう。京都から普通列車にやっと乗り込んだが,これも立ちづくめの難行苦行であった。
 休養の暇もなく,県支部に行ったが,予算は全然送って来ない。恐らく3月いっぱいは駄目だろうとの予測である。2月分の給与はとりあえず半額支給という状態。
 電力不足で昼間はタンクに水も掲げられない。又3月は米の遅配。24日島原の奨健寮で,九州ブロック会議があったが,大した知慧も出ない。29日3月分の給与残額の支払い。未収金が入ったからとメモしているが,多分有料患者の入院料だったかも知れない。
 3月31日,ラジオで医療団の解散は遅れるが,療養所の移管は4月1日より実施と報じている。午後国会解散,貴族院の解体。
 4月4日,園長任命の電報辞令を受ける。但し認証官は,国立熊本病院長である為,一切の書類の印鑑を貰いに熊本迄行かねばならず,事務官はひどい苦労をした。4月9日,県支部にて最後の会議,これで難題をかけ通しだった支部とのお別かれとなった。
 さて,国に移管されて,それで平坦な道が開けたかというと,さにあらず。改めて結核の戦後処理が始まるのである。その上,社会の混乱は,この療養所の中にも波及して,私等はその為にも骨身を削ったが,それは移管後の時期に属する。
 以上医療団から国立移管迄の地方施設の体験を不完全乍ら述べてみたが,史料的価値は至って乏しい。けれども,地方の療養所は,何れも同じ苦労をしたのであろう。(豊福園長)


第4章 国立療養所の拡充強化

 国立療養所の年度別施設数,病床数及び1日平均患者数(らいを除く)[177]
 結核の入院患者数は四九年三五八三二人 五六年 五七二三四人
 五六年合計入院患者数 六〇〇〇六五人
 国立らい療養所病床数及び患者数
 四九年 一〇施設一日平均患者数八一五〇、五五年 一〇四四一 一九五三に奄美和光園300床復帰

 第2節 国立療養所の転換

  第1 国立病院から国立結核療養所への転換

 1947/04/01〜1956にかけて42箇所([180])
 ※下志津病院は1947/04/01 国立下志津病院→国立療養所下志津病院

 国立結核療養所病床利用率,年度別推移[186]
 五一年〜六〇年度。一日平均患者数五三年に最も多く六〇六〇一、その後漸減し、六〇年度には五四四三五。総病床は五五年に最も多く六四五〇〇床、これは六〇年まで変わらず、病床利用率は五三年の九八・〇%が最も高く、以後漸減し、六〇年には八三・一%。[186]

 国立療養所(らい療養所を除く)施設数の推移(年度末現在)[200]
 一九五三〜五四年度に結核の施設が一八三、(らい療養所を除く)総数が一八七、六八年には一四七、総数が一五四。

  第3 生活保護法の基準をめぐる法廷闘争”朝日訴訟”[223]

第4章 国立療養所の拡充強化(昭和22年〜31年)
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の転換
 第3節 運営管理上の諸問題
 第4節 国立結核療養所における患者の増大とこれに伴ううごき
 第5節 治療方法の変遷とその効果

 「第5節 治療方法の変遷とその効果

 第1 結核
 結核殊に肺結核の治療法は,第2次大戦の終結後まで,大気・安静・栄養を基本原則とするサナトリウム療法と,その適応のある患者に対する人工気胸療法が主流で,他に,胸郭成形術がいくつかの療養所で行われるという状況であった。多くの患者は,こういう治療を行っても,腸結核,喉頭結核などの致命的合併症を併発して死亡した。幸い生命を長▽226 らえて軽快しても,退院までには長年月を要し,社会復帰はたえず再発に脅された。そこで,年余に亘る安静療法の後に,時間をかけての歩行作業療法が,再発阻止のために行われた。多くの傷痩軍人療養所ではいわゆる外気小屋が林間に建てられて,軽快した作業患者が療養をつづけた。
 こうして,患者の入院期間は平均2年を越え,昭和27,8年頃には800日に近づいた。結核病床の不足は歴然たるものであった。そのため,厚生省も結核病床26万床計画をたて,その推進に努力したが,その一方,軽快しても退所をためらう生活保護法適用患者に対して厚生省社会局が,結核ベッドの早期回転をねらって打出した対策が,先の入退所基準であった。
 しかし,状況は,行政的にというよりも医学的に打開された。それは抗結核剤の登場であった。昭和24年,日本に上陸したストレプトマイシンは,結核は薬では治らない,という旧来の医学常識を完全に打破した。腫を接してパス,イソニコチン酸ヒドラジドが開発された。これらの抗結核剤による化学療法は,腸結核,喉頭結核,結核性髄膜炎などの致命的な合併症を消退させる一方,戦後,試行されていた肺切除術の成功に貢献した。化学療法と肺切除術が,肺結核治療の王道となった。戦前から行われていた人工気胸療法が下火になり,胸部成形術もゆさぶられた。化学療法と肺切除術は,切れ味の悪かった気胸や成形,まして長期定静療法や作業療法にとって代って,肺結核を治る病気と化した。
 平均入院期間は昭和31年以降は600日前後に短縮し,国立結核療養所に空床が目立ち始めた。昭和32, 3年頃は10%前後であった空床が,36, 7年頃には15%に近づいた。国立療養所の黄金時代の終焉である。入院患者の死亡率も,昭和24年17.78%であったものが,昭和30年には2.81%に下ってくる。新しい抗結核剤が次々に開発されて,長期併用療法を行えば,気胸や成形はおろか,切除術も,さらには,作業療法も,▽227 そして遂には入院安静療法も不要ではないかという研究が発麦されるようになった。欧米では,結核療養所の閉鎖が起きてきた。
 肺結核が,死に至る病ではなくなり,従って社会復帰できる病気となるにつれて,リハビリテーションの運営が加わってくる。
 昭和40年代に入ると,国立結核療養所の空床率は30%に近づいた。そして化学療法はさらに発展をつづける。長期化学療法から初期強化の短期化学療法へ。入院は排菌する短期間のみでよいと云われるようになり多くの患者は6箇月内外で退院して,手術も作業療法も無縁となる。
 しかし他方,旧来の治療法で治癒しなかった患者,新発生でも治療のおくれた患者は,耐性化して療養所に沈澱する。10年以上入院をつづける患者は,現在,入院患者中1O%を越える。これをうけとめて,どう治療するかが,これからの国立結核療養所の重い課題となる。
 空床を抱えて,その処理を,結核以外の慢性疾患患者の収容によって決しようとする動きが活発化する一方,とり残された結核病棟では,高令化し,呼吸機能が低下し,退院のあてもない長期入院患者がひっそりと療養をつづけることになる。
 4半世紀の間に,これほど劇的に克服できた疾患は,他にはないだろう。かつては亡国病と呼ばれた結核症を,国策の一翼をになって扱ってきた国立結核療養所が,まことに見事な治療効果を挙げて,今,閉鎖寸前の状況に近づいた。しかし,昭和48年に行われた結核実態調査の成績では,まだ,日本には治療を要する結核患者が80万人はいるという。いずれはらい療養所の道を歩むこととなるのかもしれないが,その日はまだ遠く,21世紀のことであろう。そしてその日まで,国立結核療養所は,結核養療所として残りうるか,呼吸器疾患病院として生き残るか,あるいは慢性疾患病院として生き続けるか。
 伝染病結核は,誰もが安全になる日までは誰も安全ではない。この国▽228 最後の結核患者が治ゆする日まで,国立療養所は,国のどこかに結核ベッドを用意しておく義務がある,といえるだろう。」([225-228])

 「第2 らい
 らいの浩療には大風子油が唯ーの薬剤として長い間使用されてきた。第二次大戦中に米国においてプロミンが,らいに用いられて,すぐれた効果をとあげたことにより,化学療法剤として世界の注目を浴びることとなった。
 日本でも,戦後プロミンの合成が行われるようになって,数個所の施設で試みられ,その効果が確認された。この成績は昭和23年10月に日本らい学会(第21回,会長林芳信)で発表された。ついで,昭和24年4月からプロミンが予算化されて,全国のらい療養所でー般に用いられるようになった。
 ▽230 これと時期を同じくしてプロミンと同様にスルフォン剤であるダイアゾン,プロミゾールが内服薬として使用されるようになった。プロミンの有効なことが確かめられる反面,それが静脈注射である点が,らいの多い地域で,しかも医療従事者のすくないところでは問題となってきた。そのためプロミンなどの基本になるDDS(Diamino dipheny sulfone)そのものを,単独で使用することが試みられた。プロミンの作用機序は,それが体内でDDSとなって静菌的にはたらくことが明らかになったからである。
 DDSはそれが効果があるということの他に,経口的に使用でき,副作用が少なく,廉価であることから現在ではらい治療の第一選択の薬剤として認められている。
 らい菌の培養が困難なことと,動物実験が簡単にはできないために,薬剤の効果判定は主として臨床所見の改善と,皮疹中の菌の推移をもってするのが一般の方法である。菌の推移は,ー般には菌指数(結核の場合のガフキー号数に似るが,菌数を10進法により評価する)=BI値,=Bacillary Indexと,菌が治療により形態が変化することを利用する形態指数=MI値とによって評価される。DDSは上記のBI値,MI値を改善するので,新しい薬剤の開発にあたってはDDSのBI殊にMI値の改善率との対比から,有効性を判定することが行われている。DDSが広く用いられるようになったのは昭和29年以降であるが,現在もらいの主治療薬としての位置は変らない。
 しかし,化学療法が始まって10年余り経つと,治療に抵抗する例や,副作用のためにDDSなどを使えない例が見られるようになって来た。これに対して,昭和32年頃からチオ尿素系のヂフェニールチオ尿素(CIBA1906)が用いられて改善例が認められるようになった。また,Clofazimine(B663)も,DDSなどに抵抗を示す例に用いられて有効▽231 なことが判った。B663は皮膚に色素沈着を来すことが著しいので,一般に使用することはむづかしいが,一方らいの経過中に現れるらい反応に,しばしば卓効を示す点が注目されている。
 その他,抗結核剤がらいに使用されてかなり有効であると判定されたものがあるが,DDSに代る程に効果は示さなかった。
 最近, DDSやCIBA(1906)その他の治療に抵抗する所謂難治らいに対して,リファンピシソ(RFP)が用いられている。昭和49年「らいに対するリファソピジンの効果」として化学療法協同研究班がその成績を報告した。それによれば,RFPは週2日法でも充分有効であるし副作用も特に多くない。ただ高価であるために一般に使用することは困難である。
 つぎに,らいの治療中に遭遇する問題としてらい反応がある。ことに,らい腫らいにおけるらい性結核節紅斑(ENL)は重要である。ENLの本態については未知の点もあるが,その治療は副腎皮質ホルモソ, ACTHなどにより容易になった。また,サリドマイドが有効なことは世界各国の認めるところであり,前述のB663はその抗炎作用によって効果がみとめられている。
 全国の療養所中の患者について見ると,その80%が菌陰性である。しかし,これらの人々の中から時に皮疹の再発を見る例もあるが,菌陽性の中には長年にわたる治療にもかかわらず菌が陰性にならず,皮疹が消失しない者があり,難治らいとしてその対策に苦慮する場合がある。今後の重要な課題である。
 らいの治療は皮疹の消□,菌の陰性化を計ることはもちろんであるが,らい菌が好んで抹消神経を侵すことによって生ずる顔面の変形,四肢の運動麻簿による障害も重要な問題である。兎眼,眉毛脱落に対する形成外科的な処置,母指対立の再建,ワシ手や下垂足に対する腱移行術▽231 などが特に多く行われる手術であある。
 その他以前は喉頭におけるらい病変で気管切開が行われたが,プロミン以後は,ほとんどなくなった。しかし,らいによる失明は一時停止するかに見えたが,今なお少数ながら発生している。
 治寮こよって退所する者は,昭和30年から40年位までは相当な数に達したが,それ以後は徐々に減少している。これは入所者の老令化と身体障害によることが主な要因である。」(この項全文)

  第3 精神 [232]

 ▽233「国立精神療養所の治療活動にも,またこのような精神障害治療のー般的傾向の反映が見られるのは当然だろう。しかし,この時代の国立精神療養所の治療活動を仔細に点検すると,わが国の精神障害治療に影響を与えた重要な事項を発見することができる。そのーつは,主として国立武蔵療養所で行われた,精神外科療法後の患者の生活指導を根幹とする「生活療法」の実践と体系化の試みみであり,もう一つは,国立肥前療養所の全病棟開放化の試みである。
 今日,そのいずれについても功罪を論ずることはできるが,当時の入院中心の精神障害治療に方法論上の問題を提起し,理論的支柱を形成した歴史的意義は認めてよいだろう。
ショック療法と精神外科は,やがてはじまる薬物療法にその王座をゆずり, 30年代後半から精神障害治療と「病院精神医学」は,地域精神医学と社会復帰へと前進することになる。」

  第4 せき髄

 第6節 らい療養所における運営管理の進展
  第1 らい予防法の制定
  第2 犯罪らい患者の留置
  第3 回復者の社会復帰に対する施策
  第4 高等学校普通課程の設置
  第5 特殊矯正施設の菊池医療刑務支所

 第7節 診療補助部門における近代化へのうごき
 第8節 新看護体制への移行

 第2 付添婦の廃止
 昭和30年ごろまでの国立結核療養所は,胸部外科手律術を中心として,わが国の結核治療の中核体として最盛期にあった。けれども,医療機関として欠くことのできない要素である看護サーピスの部門は,さきにマニトフ少佐も指摘したとおり決して良好な状態にあるとはいえなかった。昭和30年度の国立結核療養所の看護婦定員はll,048名で,定床65,500床に対して約6床に1名の割合であったが,病棟の清掃などビに従事する雑使婦が定員化されていなかったため,看護職員の定数の中から採用するよりほかに方法がなかった。そして,1,304名がこれにあてられ,看護婦の現員は8,698名,看護助手と補助者は569名で,看護婦だけでは約7. 5床に1名の割合であった。
 看護婦が定員を充足することができなかったのは,病棟雑使婦が実際に必要であるのに,その定員がないためもあったが,看護婦の採用が困難であったために,やむを得ず看護婦以外の者を採用したということもあった。このように看護要員の絶体的不足は,いわゆる付添婦によって補完されていたのである。また,これよりさき昭和26年10月には,付添婦の制度が社会保険と生活保護法の給付の対象となり,その基準も明らかにされた。例えば,重症者または手術患者であって,常に医師か看護婦の監視を必要とし,適切な処置をとる必要のあるときは,承認を得れば,付添看護の給付が行われることになっていた。その付添看護者の資格条件については,看護婦を原則とするが,看護婦が得にくいときは,補助者でもさしつかえないこととされてていたのである。
 このような事情を背景として,国立療養所では看護力の不足を,この付添婦で補なっていたが,その結果,昭和30年7月の調査では,国立結核療養所の付添婦数は,家族付添を除いても3,559名に達した。全看護△290 婦数が8,698名であったので,実にその4割を超えるに至ったのである。この付添婦数は各施設必ずしも同一の比率ではなく,患者の症状別構成,手術件数などにもよるが,個々の療養所の看護のあり方に対する考え方によっても大きな格差があった。とくに,はなはだしい場合は,その療養所の全看護職員を超すような事例さえもあったのである。また,これらの付添婦の実態を見ると,看護婦の資格をもつ者が253名(5.8%),無資格者が3,306名(94.2%)であり,さらにその平均年齢は46歳で,その半数以上が療養所内に起居し,管理上からも重大な問題となってい◆.。また,付添婦の業務の内容は,主に食事の世話,雑用,身のまわりの世話などで,患者の生活面についての世話が中心となっていた。付添を必要とする主な理由が患者の不安とともに,日常生活の便利さにあるということで,この面についての療養所側のサービスの不足が当然その前提として考えられた。
 このように,療養所の職員でない付添婦が各病棟で多数働いていることは,それが直接所長の指揮下にないだけに,療養所の管理上,規律保持上,また衛生上からも好ましいことではなかった。また,患者の治寮,看護の責任は,療養所が負わなければならないことは当然であるが,とくに科学的な立場から看護しなければならない手術患者や重症者の看護が,これらの素人の付添婦によって行われていることは極めて不適当であり,無責任であるといわなければならなかった。従って付添婦制度は,科学的な医療と看護に責任をもつ療養所としては許容すること◆よい制度であり,一日も早く廃止されなければならなかった。しかしながら,付添婦制度はそれ自体歴史的には必要性があって生れたものであり,これを廃止した場合,患者の治療上大きな支障が起こることが予想されたのである。そこで,まず患者の看護サービスが療養所自身のカで十二分に責任をもって実行できるような体制を確立し,その結果と△0291 して付添婦制度が不必要となることを期待する線に沿って処置しなければならないという方針がうちだされた。看護体制を立てなおし,医療内容にふさわしいものとするためには,看護婦だけの業務の内容を改めるだけではなく,療養所全体の業務の改善を計画し,全職員が一致協力して実施しなければならないところであった。この改善は,昭和30年7月ごろから行われたが,その概要は次のとおりである。

  看護体系たてなおしを中心とする療養所業務改善計画

  第3 参議院社会労働委員会議事録

 第9節 地域社会に対する協力
 第10節 社会復帰・養護学校

第5章 国立療養所の近代化(昭和31年〜現在)
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の再編成
  第1 再編成の背景
 国立結核療養所年度別施設数,病床数,平均患者数,病床利用率一覧表 [381]
 昭和24〜40
  第3 性格付けと再編成計画の具体化
   一覧[404-405]
 第3節 特別会計への移行
  第1 移行の背景
  第2 特別会計移行のための準備

 1968年「1月19日および20日には,地方医務局長,次長会議が東京において開催され,特別会計移行の経緯および移行に伴う諸準備について指示説明が行われた。また, 1月20日全国国立療養所所長連盟理事会が東京で開かれ,移行の経緯について説明が行われるとともに,特別会計への移行が円滑に行われるよう協力方を要望された。
 1月29日,国立療養所長会議が東京で開催され,国立療養所の運営が特別会計に移行されるに当り,その運営に万全を期することとなった。同会議における園田厚生大臣の訓示の要旨および若松医務局長の挨拶の全文を次に掲げる。

園田直 19680129 「園田厚生大臣訓示要旨」→国立療養所史研究会編[1976c1:414-418]

 園田厚生大臣馴示要旨
 […]△414 […]△415
 「次に,国立療養所の問題について申し上ける。
 昭和43年度予算の中で,国立療養所を従来の一般会計から特別会計に移すということは大きな問題であった。
 国立療養所は,戦前戦後を通じてわが国の最も深刻な問題であった結核対策の推進に大きな貢献をされ,特に終戦後の混乱した時代における結核患者の収容治療には,所長以下全職員が種々困難な問題をかかえながらもよくその職責をはたし,化学療法,外科療法と医学医術の普及に努められ,今日のような成果が得られたことに対し,心からお礼を申し上げたい。
 御承知のように,近時結核患者は,年々減少の傾向にあるが,私としては国会においても申し上げているとおり,これで結核対策が終ったとは断じて考えていない。各位の努力によって峠は越したが,手をゆるめると,また元にもどるおそれがある。したがって,この際さらに心的,物的,技術的方法をもって追撃戦にうつり,わが国から結核を撲減させるようにさらに一層努力していかなければならないと考えている。
 しかしながら,国立療養所が現状のままで運営していけるかどうか,年々患者は減少し,施設は老朽化し,医師等医療従事者の確保も益々困難になる等,所長以下職員も,また患者自身も困難しているところにある。そこで早急に何らかの対策を講じなければならないということが,ここ数年来の話題となっており,このことは諸君自身が最も痛感していることであると思う。
 申すまでもなく,国立療養所は,結核医療の最終拠点として,今後なお結核対策の上に適正な医療を担当していかなければならないが,さらに一方結核の分野以外においても国が担当しなければならない新たな医療需要,すなわち,重症心身障害児,進行性筋ジストロフィー,交通災害或いは脳卒中後遺症などの長期慢性疾患に対する対策が急がれてい△416 る。そこで,数年前から国立療養所がこうした医療の動向に対処し得る体制整備を図るため,特別会計移行について検討されてきたところである。私は厚生大臣就任以来,この特別会計の切りかえについては,相当慎重に対処してきた。それは,一般会計から特別会計に移す目的が,逐年累績していく赤字を解消するということであるならば,結局は職員並びに患者に多少でも犠性を強いることとなり,これは重大なことであって,全責任を持つ私としては簡単にふみきれる間題ではなかったのである。
 また一面において,国立療養所の新たな使命と現在の経営の困難な事清を考えるとき,現状のままでは運営が益々苦しくなる。しかも予算の折衝においても,新規事業は勿論従来の予算を確保することも困難となることは明らかである。
 そこでまず第一は,特別会計に移行することにより,老朽化している現在の施設を早急に更新整備する目途がたつかどうか,入所患者の処遇の改善がはかれるかどうか,診療費の割引廃止が直接患者負担の増とならないようにできるかどうか,またさらには,一般会計の繰入れが将来とも確保されるかどうかなどについて十分且つ,慎重な検討を事務当局に命じてきたのである。
 その結果,一般会計から特別会計に移すことによって,今までの種々困難な問題を解決し,予算その他についても十分な見通しがついたので昭和43年度から特別会計に移すことにふみきったのである。したがって,昭和43年度子算案においては特別会計として計上し,また,今国会に特別会計移行のための法律案を提出することとしている。
 昭和43年度予算の政府案が閣議決定した直後,私は厚生省の幹部諸君に大臣室に参集願い,厚生省の予算の伸びは,国の一般会計予算全体の伸びより高くなっている。財政硬直の折ではあったが,諸君の努力によ△417 ってこのように多額の予算を得ることができたが,この予算は一銭一一厘国民から出される血税である。全職員は,体力と知恵とさらに人々に仕えんとする愛情をもって一万円の予算を百万円に使う工夫をしてほしいと訓示した。
 本日の会議の各事項については,局長,次長から詳細にお話しするることになっているので,各位におかれてはよく御理解願い,この問題について部下職員或いは患者の方々に誠意をもってよく説明され,この特別会計移行という大きな問題が,皆の了解のもとに円満に行われるよう心からお願いする次第である。
 また,今回の特別会計移行を契機として,さらに一層国立療養所の使命を自覚され,国民医療のうえに貢献されるよう期待する。

若松栄一 19680129 「若松医務局長挨拶」→国立療養所史研究会編[1976c:418-438]

 若松医務局長挨拶
 […]
 こういうことから,我々としては国立療養所を何とか,ここで再起の方向にもっていかなければいけない。それにはどうするか,国立療養所というものは,結核患者はおそらく将来とも,どんどん減ってまいりまず。結核だけをあつかっていたんでは,当然5年後, IO年後には現在のべッド数は半分でいいというところまでいくことは必然であります。もち論国立療養所は結核対策の担い手として,今後とも,あるいは,結核がなくなるまで結核対策の担い手の主力であることは,これはもう申すまでもございません。しかし,同時に,それ以外の分野において,国立の医療機関として果すべき役割があるであろう。現にでてきております。その方面に着目して,国立療養所というものをさらに別な形で発展する可能性も十分あるのではないか。従って,国立療養所のある意味では,体質転換ということを考えざるを得ない。先程,大臣も云われましたように,ごく最近には,いわゆる重症心身障害児みたいなものもでてきて,これに私は国立療養所の必らずしも本筋だとは思っておりませんが,しかし,現在,政府与党の基本的な方針として,重症心身障害児は約1万7千人というものを,殆んど全員収容という考え方が,だんだん確立しつつあります。おそらく国療が1万数千べッドを引き受けざるを得ない。これは国の要請として引き受けざるを得ないという段階になるかも知れません。1万数千べッドの重症心身障害児の収容施設をかかえ△426  るということは,極めて大きな問題で,その他に筋ジストロフィーも相当数ある。このような純粋にはっきりした政策的なもの以外にも,先程来より話がでますように,長期慢性疾患というものに対しての医療需要がどんどん大きくなって,人口の老齢化,あるいは社会構造の変化というものから,老人の特に長期の療養というものに対する需要が極めて大きくなりつつあります。また,急性疾患病院においては,そのような老人の長期療養というようなものを取り扱う,あるいは引き受けるべき性質のものでは必ずしもございません。そういう意昧で,国立療養所というような国立,公立医療機関がそのような分野で国民の医療事業を引き受ける,国民の要請に応えるということも極めて必要なことであろう。また,最近のように交通傷害等の後遺症が相当増大してくる。あるいは脳卒中等の後遺症患者が相当増大してくる。これらの医療事業も膨大なものになってきます。こういうような医療需要の分野を国の方針として,政策的に引き受けるということは,国立の医療機関がなし得る最も適切な方法ではないかということも考えられるわけです。そういたしますと,結核対策の責任を果しながら,なお新たな分野で,どんどん我々のなし得る仕事があるのではないか,そうすればなにも縮小とか廃止とかいうような馬鹿なことを考える必要がない。国立の医療機関がこれだけの施設職員をもっているということは,私は,これは国にとっても,あるいは国民にとっても貴重な財産である。非常に大きな資源である。この資源をくさらせるようなことは,全くこれは国民に対しても申し訳がない。これだけの勝れた医療陣、医療能力をフルに活用し,さらに拡大していくことこそ,国民医療に奉仕する国の立場ではないか。そういう意味で,国立医療機関の診療能力を廃止,縮小していくのではなしに,拡大再生産の方向にもっていくということがぜひ必要である。このような仕事をやっていくためには,どうしても現在のような国△427 立の医療機関が,すでに全くもう一般医療機関の水準を遥かに下廻って老朽化し,お粗末になっているというこの状態で,いかに逆立ちしてみても,とても新しい任務を遂行し,そして国民が,それを評価してくれるというところまではいかない。どうしても現在の国立医療機関関を,新しい仕事をし,新しい任務を遂行するためには,再整備をやらなければならない。また整備をすることによって,国民の見方,評価が変ってきます。医師,看護婦その他の医療従事者の気持が変ってきます。見方が変ってきます。こういうことが結局,国立療養所の体質転換,起死回生というために不可欠の条件であるとともに,これをやる方法としては,最初に申し上げましたように,自主性をもって,しかもいろいろな能力を与えられ,能力を有効に駆使することのできるような体制にしなければいけない。これは,現在の諸制度のもとにあっては,特別会計に移行することが,最も端的にその目的にかなうものであり,従って,私どもはこの際何とか特別会計に移行させて,とにもかくにも,この窮況から抜け出すことが必要であるというふうに考えたわけであります。

 第4節 診療費割引制度の廃止と基準加算制度の実施
 第5節 国立療養所の体質転換の強化 [476]

  「第1 重心,筋ジス病棟の設置
 心身障害児の療育は,昭和38年7月の事務次官通知によって開始された。しかるに,その対策はなかなか進まず,昭和40年当時これら障害児を収容する施設は,全国で民間により設置運営されている6施施設536床にすぎなかった。昭和40年の身体障害者実態調査Eによると,在宅の重症心身障害児(者)は,全国に19,328名おり,このううち,1,650名が重症心身障害児(者)施設に要入所と推計された。このため,昭和41年度より,重症心身障害児に対する総合的な対策が実施されることとなり,その一環として年次計画により重症心身障害児を収容する施設を整備することとなった。
 当時,国立療養所は結核の減少にともない,その体質の転換がせまら▽477 れており,また,従来結核医療という国の大きな政策医療をになってきたその性格等から,国の重要な政策の一つになった重症心身障害児対策の一環を国立療養所でになうことは,国立養療所としてふさわしいものと考えられた。そこで,昭和41年度から年次計画で,病棟の整備を行い,その療育を開始した。このことは,結核中心できた国立療養所の医療に大きな変化をあたえるとともに,その後に続く難病対策等の政策的医療を国立療養所がになう緒ともなった。
 昭和41年度には,まず,八雲,西多賀,秋田,新潟足利,下志津,長良,福井,松江,香川の各療養所にそれぞれ40床(西多賀,足利は80床)計480床が整備され,国立療養所として,はじめて重症心身症害児の療育医療を開始したのである。その後,昭和42年度に560床,昭和43年度に880床,昭和44年度に960床と毎年その整備が行われた。
 この重症心身障害児病床の整備計画は,昭和42年8月児童福祉法の一部改正を機に,同年8月29日の事務次官の決定によって,全国16,500床のうち,国立療養所で10,351床を昭和49年度までに整備することが決定された。その後,昭和45年の障害者実態調査,入所希望者の実態,公立・民間の重症心身障害児の施設の整備状況等から,その計画病床数は数次にわたって手なおしがなされ,昭和49年度現在では,昭和50年度までに国立療養所で8,080床の整備が計画されている。昭和49年度現在では,76の国立療養所に7,520床の重症心身障害児病床ができており,全国の重症心身障害児病床に対し,国立療養所の占める比率は非常に大きくなってきている。これら重症心身障害児病棟は,すべて鉄筋コンクリート建により建物整備が行われ,昭和41年当時多くの木造病棟を有する中にあって,国立療養所の建物の近代化にも貢献するところとなった。
 また,職員の面でも従来の国立養療所の定員よりもはるかに多くの人員配置がなされ, 40床単位で医師,看護婦の他に保母,児童指導員,理▽478 学療法士,心理療法士,栄養士等がセットとして配置される方式がとられた。とくに,看護婦定員については,40床にっき昭和41年度当初10名であったが,その後増員され,昭和45年度には16名,昭和48年度には19名と増員され看護の強化がはかられた。また,その仕事の特殊性にかんがみ,昭和42年3月の人事院規則改正により,重症心身障害児児病棟に勤務する職員に対し,特別に俸給の調整額がつけられることとなった。
 さらに,国立療養所にとって重症心身障害児の医療は新しい分野でであり,しかも,重症心身障害児は抵抗力がきわめて弱く,感冒その他の伝染性疾患にかかりやすい等,その医療管理の面で特有の間題が色々とあるので,これら患児に対し最良の療育を行うため,とくに職員の研修は,医療開始当初から強力に行われ,その後も新たに開始する施設の職員に対しては,かならず研修を行っている。
 ◎新しい分野の医療をはじめる上に,医師をはじめとして医療従事者者の研究活動は,きわめて重要問題である。このことは,重症心身障害児児の医療においても例外ではない。このための医療開始と同時に,重症心身障害児の発生予防の面をふくめて治療,看護,栄養,生活指導等に関する研究が行われ,その療育の改善に役立っている。すなわち,昭和42年度に42万9,000円の研究費が国立養療所で初めて予算化された。その後,昭和43年には国立療養所重症心身障害共同研究班班が編成され,「重症心身障害の成因と病態生理」等の研究が行われ,昭和44年度度からは厚生省の特別研究「脳性麻ひの成因に関する研究」の一部をこの共同研究班が分担して研究を行ってきた。昭和46年度には,この特別研究費は,児童家庭局で心身障害研究費に発展的解消され,大型化し,他方に国立療養所の特別会計に新規に重症心身障害に閏する特別研究費が584万9,000円つけられ,その研究の推進がはかられた。国国立療養所の共同研究班による研究はその後大きく発展し,その行う研究内容も病因に▽479 する研究から,看護栄養とその療育全般にわたって行われており,昭和49年度には1,500万円におよぷ研究費が児童家庭局の科学研究費の内からこの研究班に出されている。
 また,国立療養所に入所している患児の実態を調べ,療育内容の改善をはかっていくため,昭和44年度から毎年,重症心身障害患者調査を行っている。
 重症心身障害児の療育は昭和38年7月の事務次官通知「重症心身障害児の療育について」(昭和38.7.26児発第146号)で初めて正式に行政上とりあげられ,昭和41年5月の事務次官通知(昭和41. 5.14児第91号)によって,国立養療所で重症心身障害児の療育を行うことが認められた。重症心身障害児施設が,児童福祉施設として正式に児童福祉法に規定されたのは,昭和42年8月の児童福祉法のー部改正(昭和42.8. 1法法律111)によってである。しかし,国立療養所に設置された重症心身障害児(者)病棟については,児童福祉施設とはせず,都道府県知事が重症心身障害施設への入所の措置に代えて,国立療養所に当該児童の治療等を委託することができること(委託病床)とされた。
 重症心身障害児施設は,医療法に定めるところの病院であって,設備については,児童の特殊性を考慮したものを整備し,職員も医療法に定める病院としての職員のほか,その療育に必要な職員を置かなければならない。この重症心身障害児施設,または国立療養所の委託病床に入所した児童の医療費は,国が8割,都道府県が2割を公費負担することされているが,児童の扶養義務者はその収入に応じて,一定の金額を納入するることになっている。
 国立療養所の重症心身障害児病床についての今後の課題としては,手あつい療育によって,従来比較的短命であった障害児の生命が延長され,この結果,成人の重症心身障害者となってきているため,児童を対▽480 ▽481写真 ▽482写真 ▽483象として作られている病棟が,早晩手ぜまになることが考えられ,養護施設化などなお多くの課題が残されている。また,昭和46年頃から,身体障害は比較的軽度であるが,知能障害の他に各種の精神症状を伴う,いわゆる「動く重症心身障害児」を収容する病棟を国立精神療養所に設けているが,この療育については,従来の重症心身障害児とはかなり異なっていることが考えられ,今後の課題となっている。

 重症心身障害児(者)病床設置状況 [482-485]
 ……
 41 42 43 44 45 46 47 48 59年度 計
 46都道府県 76箇所 480 560 880 960 880 880 640 1,04 1,200 7,520

 進行性筋萎縮症患者については,昭和39年当時において,全国に約5,OOO人いると推計され,その70〜80%は16歳未満の児童であるとみられていた。当時わが国では,これら患者のための専門病棟はなく,2,3の大学病院で若干入院させていたにすぎず,肢体不自由施設には入所を拒否され,患者およびその家族は非常に困却している状況であった。このため,これら患者家族によって,昭和39年3月全国筋萎縮症児親の会が設けられ,専門施設を作る運動が起こされた。
 これに対し,昭和39年10月から国立療養所では進行性筋萎縮症患者,特に児童を対象とした専門病床を設け,これら患者の療育を開始した。当時,名古屋大学村上教授(遺伝学)の調査により,全国に約5,000人の患者がいると推計された。一方,昭和40年に文部省研究班は,進行性筋▽486 萎縮症患者を機能障害別にみると,軽度のものが約60%,中等度および重度のものが40%であると発表していたが,これらの資料をもとにして,昭和41年7月7日の厚生省の局長会議において,これら患者の収容対策としては,機能障害の中等度および重度のものを収容するることとし,所和39年から昭和45年度までの7年計画で国立療養所に2,020床の進行性筋萎縮症専門病床を整備することとした。
 昭和43年7月17日の医務局の課長会議において,国立療養所ににこれらの病床を設置する場合の原則として次のことが決定された。
(1) 重症心身障害については, 1県当り1施設,病塔床数は人ロ1万対1床とする。進行性筋萎縮症については, 1地区(ブロック)当り1施設とずる。
(2) 病床規模は,職員の適正配置,立地条件を考慮して,1施設当り200床以内とし,重症心身障害,進行性筋萎縮症のみを対象とする単独施設とはしない。
(3) 看護単位当りの病床数は40床以内とし,病棟は平屋建とする。
(4) 他の病棟の整備計画を著しく変更することはさける。
 これらの基本条件により,進行性筋萎縮症については,昭和46年度までに1,500床を,昭和48年度までに当初計画の2,020床を整備することが決定された。この時,進行性筋萎縮症の成人患者の入院が問題となったが,この時点ではあくまで児童を中心に入院させることとになった
 まず,初年度の昭和39年度には,進行性筋萎縮症の病床を各ブロック毎に1箇所,全国8箇所の国立療養所に100床(西多賀,下志津は20床,他は10床)を設置し,昭和40年度には,200床,昭和41年度には,120床をこの8施設に結核病床の転用で逐次増床を行うとともに,人口,広域性を考慮して昭和42年度には関信地区(新潟),近畿地区(刀根山),和43度年には東北地区(岩木)に病床を新設した。その後,専門病床▽487 を設置する施設の数および病床数を年次計画で増やしていった。当初の計画では昭和45年度までに2,020床を整備する計画であったが,その後の調査により,整備病床数は手なおしされ,昭和49年度現在では,昭和51年度までに2, 260床を整備する予定である。
 昭和39年から昭和41年度までは,結核病床を転用して,進行性筋萎縮症病床を設けたため,その設備は不十分なものであったが,昭和42年度からは鉄筋コンクリート建により建物整備が行われ,病棟構造も進行性筋萎縮症の療育にかなったものになり,次第に設備等についても充実されていった。
 昭和42年,進行性筋萎縮症児の病棟が鉄筋コンクリート建で整備されたのにあわせて,職員の面でも重症心身障害児病棟と同じように40床単位で医師,看護婦,保母,児童指導員,理学療法士,栄養土等の職員がセットの形で配置されるようになった。また,国立療養所に入所した進行性筋萎縮症児に対しては,当該施設に併設されている養護学校または養護学級において義務教育が行われており,通学困難な児童については,病室内において教育ができるように設備されている。
 進付性筋萎縮症児の療育については,昭和40年11月の事務次官通知「進行性筋萎縮症にかかわる児童に対する療育について」(40.11.30厚児第183号)によって昭和40年10月1日より実施されたが,昭和42年8月の児童福祉法の一部改正により,これら児童についても児童福祉法上り肢体不自由児として処遇されることとなり,重症心身障害児の場合と同様に国立療養所への治療等の委託の制度が設けられた。
 また,昭和44年度からは,進行性筋萎縮症の成人患者に対する措置費が出されるようになり,これにともない,従来からある国立療養所の進行性筋萎縮症病棟内に,成人用の病室を設け,その収容を開始した。以上のような経緯で進行性筋萎縮症の患者については,その大部分が国▽487 立療養所において入院治療を受けており,昭和50年2月現在その数は1,449名におよんでいる。
 これら患者の病態を明らかにし,その治療方法の解明ならびに療育内容の改善をはかるため,昭和44年から毎年国立療養所に入所している進行性筋萎縮症児(者)の実態調査を行っている。
 進行性筋萎縮症については,その病因はなお不明であり,その治療法も解明されていない。このため,本疾患の成因と治療についての研究は,昭和39年度から医療研究助成補助金が150万〜200万円程度出されて,その研究が行われてきたが,昭和43年度からは2,000万円の特別研究費が沖中東京大学名誉教授を中心とした研究班に出されてきた。国養所にたいしても,これら研究費の一部が昭和41年度から出されてきた。これは最初は7万円程度にすぎなかったが,昭和46年度以降「心身障害研究費」による進行性筋萎縮症に関する研究は大型化し,昭和46年度には,沖中研究班の内に,国立療養所を中心とした臨床社会学的研究班(班長,徳島大学整形外科山田憲吾教授)が設けられ,急速に国立療養所に支出される研究費が増大し,昭和49年度には3,800万円に達し,沖中研究班が基礎的研究を行うのにたいして,国立療養所の山田研究班は臨床研究を行うところまで発展した。その研究内容も,臨床医学自的研究から,心理学研究,看護,栄養,疫学研究,リハビリテーション機器の開発まで,その療育全般にわたっている。
 国立療養所における進行性筋萎縮症児の療育によって,従来比較住的短命であった患児の生命が延長され,学齢期をすぎた患者が次第に増加しつつあり,また,成人患者の入院もふえているため,これら学齢期を過ぎた患者の取り扱いが新しい間題となってきている。このため,これら学齢期を過ぎた患者に生きがいをあたえるための生活指導,作業療法を行うため,昭和50年度からこれら成人患者を対象とした作業療法棟建築▽489 表▽490 写真▽491 写真▽492 の予算がみとめられ,年次計画で進行性筋萎縮症病棟を有する各施設に整備されることになっている。
 筋ジス病棟における各装置の中,480頁に掲載した写真の,下志津井院で開発したロータリーリフト入浴装置について,同病院の看護婦長福田フサが,研究者の1人として関東信越地方医務局の広報紙「関信」に発表した報告を次に転載する。」

進行性筋萎縮症児(者)病床設置状況 [489]
都道府県名 施設名 年度別整備状況 39〜49 計
……
21都道府県 22力所 100 200 160 240 280 280 280 200 160 80 計2,100

 「第3 難病対策

 スモンの問題に端を発し,原因不明で治療方法もなく,ほとんど一生涯闘病生活をっづけて行かねばならない病気であって,さらに軽快しても,視力障害や手足の運動障害などで社会や職場に復帰することの困難な病気,いわゆる難病に対する対策が45年頃から社会問題となってきた。このため,昭和47年7月に厚生省の公衆衛生局に特定疾患対策室が設けられ,これら難病に対する原因の究明や,治療方法の解明などの研究およぴ患者に対する医療費の補助などの対策がとられることになった。
 昭和47年度にはスモン,べーチェット病,重症筋無力症,全身性エリテマトーデス,再生不良性貧血,多発性硬化症,サルコイドージス,難治性肝炎の疾病が調査研究対象疾病としてえらばれた。また,実質的に医療費自己負担を軽減する目的の治療研究対象として,スモン,ぺーチェット病,重症筋無力症,全身性エリテマトーデスの疾病が決定し,調査研究費として2億2,000万円,治療研究費として3億1,000万円が予算化された。
 昭和47年10月に難病対策要綱がまとめられ公表されたが,その対策の骨子となるところは,(1)調査研究の推進,(2)医療施設の整備と要員の確保,(3)医療費の自己負担の解消を3本の柱とし,このほかさらに福祉サービス面も考えて行くべきだとしている。
 この医療施設の整備については,国立施設を中心に整備し,これらは治療とあわせて研究の促進をはかり,医療従事者の研修も可能なように研究,研修の施設等もあわせて,昭和48年度から5箇年計画で整備してゆくとともに,医療従事者の養成も行うこととした。
 また,この難病対策のー環として行う医療対策の対象としては,前記難病のほか,腎不全,小児の慢性腎炎,ネフローゼ,小児ぜん息等も加▽500 写真 ▽501 えて行うこととなった。
 この方針にしたがって国立療養所においても,これら難病のうち,長期慢性的に病状が進行し,介護あるいは生活条件等について,長期にわたる配慮の必要なもの,および養護学級の併設により教育が必要なもの等についてその医療を引き受けることとして,昭和48年度から昭和52年度までの5箇年計画で,新築6,890床,既存建物転用5,200床,計12,090床の難病病床を整備することとした。
 すなわち,重症筋無力症,多発性硬化症,筋萎縮性側索硬化症等のいわゆる神経筋疾患については,新築960床,既存建物の転用800床,計1,760床を,サルコイドージスについては,新築200床,既存建物の転用50床,計250床を,小児異常行動については,新築680床を,小児の慢性腎炎,ネフローゼ,小児ぜんそく等の小児慢性疾患については,新築3,600床,既存建物の転用1,1OO床,計4,700床を,せき髄損傷については,既存建物の転用50床を,脳卒中等にたいするメディカルリハビリテーションについては,新築1,450床,既存建物の転用1,000床,計2,450末を,慢性気管支炎,気管支端息等の慢性呼吸器疾患については,既存建物の転用2,200床を整備することとした。その後,この計画について.患者の実態,社会状勢等から一部手なおしが行われた。
 また,これら各疾患につき,それぞれ基幹施設を作って,研究およぴ医療従事者の研修を行うこととしたが,この基幹施設の計画は,国立療養所においては昭和50年度になってはじめて,呼吸不全症の基幹施設として南福岡病院に,また,脳血管障害の基幹施設として宮城病院に研究検査,特殊診療棟の整備が行われることとなった。また同年,難病対策こは入っていないが,その社会的重要性にかんがみ,アルコール中毒症の基幹施設として久里浜病院に研究検査特殊診療棟を整備することとなった。
 ▽502 これら施設の整備と平行して,医療従事者の養成計画が立てられたが,このー環として作業療法士,理学療法士の養成のためのリハビリテーション学院の増設が計画され,既存の東京病院と近畿中央病院のほかに,昭和50年度には犀潟療養所にあたらしく学院が整備されることとなった。
 この難病対策については,昭和44年4月からは特定疾患対策室が難病対策課となり,研究対象疾患も年々増加し,昭和50年度には40疾患が難病の調査研究疾患に指定され,調査研究費も6億8,000万円にまで培増額されている。国立療養所関係からも,サルコイドージス,重症筋無力症,筋萎縮性側索硬化症,ネフローゼ,悪性関節リウマチ,結節出性動脈周囲炎,肺線維症等の研究班に彦加して,これら難病研究のー端をになっている。」([499-502])

 第6節 国立結核療養所の精神療養所への転換と
 第7節 診療補助部門業務の進展
 第8節 看護の状況
 第9節 施設の老朽度とこれに対する整備の進展および医療機器の整備
 第10節 沖縄に対する国立療養所の支援

第6章 国立療養所の現状
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の変遷
  第1 国立療養所施設数の年度別推移表[577]
 第3節 国立療養所の組織および定員
 第4節 施設の状況
 第5節 経理の状況
 第6節 治療研究の状況
 第7節 職員の研修・講習
 第8節 統計業務
 第9節 職員の福利厚生
 第10節 職員の団体活動

  第3 全日本国立医療労働組合 [662-663]
 終戦後,全国の各地に労働組合結成の機運が急激に発生した。傷痩軍人療養所の国立療養所への転換とともに各国立療養所に職員組合が結成された。昭和21年8月,東京療養所,新潟療養所など10箇所の組合で,全日本国立療養所職員組合(全療)を結成,同22年日本医療団の結核療養所が国立療養所に移管されるとともに,それらの療養所の組合である全日本医療団従業員組合(全医従),日本医療団職員組合総連合(総連合)も全療に参加した。
 一方,陸海軍病院から転換された国立病院においても,各地に職員組合が結成され,全国立病院労働組合(全病)へと発展した。全療,全病ともに,昭和22年8月,厚生大臣と労働協約を締結し,団体交渉,組合員の組合事務専従,運営協議会が認められ,各支部もそれぞれ療養所と協約を締結するようになった。昭和23年11月,全療と全病の合同の機運が熟し,全日本国立医療労働組合(全医労)が結成された。合同当時の全療の組繊人員は12, 000名で,委員長は堀江信二郎であった。
 新発足の全医労は,組合員は全職員の約70%の25,000人であり,翌昭和24年,組合活動を規制する人事院規則が相ついで制定され,その年の12月,全医労は,第3回臨時全国大会の決議に基づいて,人事院に登録して,法内組合となった。そして,年を経過するとともに支部組合員の数が別表のとおり変化して今日に至っている。
 現在,全医労は,議決機関として全国大会を毎年1回開催し,中央委員会を組織している。そして,業務は東京都新宿区四谷4-10--3にある本部に常駐する10名の中央執行委員会によって運営されている。さらに,各施設にある支部のほか,本部との連絡と地方的統制のため,都道府県単位に地区協議会,地方医務局単位に地方協議会がそれぞれ設けら△662 れている。
 表 全医労の支部数,組合員数の推移
   支部数  組合員数
 昭和25  191  22,418
 〃 30  173  17,203
 〃 35  192  21,092
 〃 40  202  20,424
 〃 45  210  23,300
 〃 48  215  25,723
 (注)昭和30年に減少したのは,昭和24年のレッド・パージーによる。
 機関紙「全医労新聞」はブラケット判の週刊で,現在までに1,288号を発行している。

 第11節 患者の団体活動――日本患者同盟

 戦後における日本の労働運動,氏王主義思想が,さかんな勢いで燃えあがる中で,長期在院(所)患者たちも団結する必要を感じた。そして,一日も早く治って社会復帰をしたいという切実な欲求のもとに患者自治会というかたちでスタートした。患者自治会のうごきは終戦直後の昭和20年秋ごろから,東京,岡山を皮切りに全国的に波及した。その年の10月東京都で9箇所の病院療養所の患者が,東京都患者生活擁護同盟を結成した。そして,結核患者に主食の一合加配や車の携帯食糧,衣科の放出物資の配給を促進して,成果をおさめた。△663  この教訓にもとずいて,患者自治会の組織を全国的にひろげる気運が高まって,昭和22年には,全日本患者生活擁護同盟(全患同盟),傷痩軍人療養所関係の自治会が集って国立療養所全国患者同盟(国患同盟),陸海軍病院系統の患者自治会が集まって,全国立病院患者同盟(国病同盟)があいついで結成された。さらに,これらの全国組織は翌昭和23年に統合して,日本国立私立療養所患者同盟,つまり,いまの日本患者同盟が誕生した。  日患同盟は,戦後の困難な社会状勢の中で日常生活の要求から出発し,制度の改善まで幅ひろい運動を展開してきた。そして,4半世紀の経過を辿り,多くの成呆をもたらしている。1,000号を超えた機関紙「療養新聞」の発行をつづけ,昭和24年には東京都に日患同盟会館を建設している。その25年のあゆみの中で,さまざまな形態の運動が行われそれらの中で主なものをひろうと次のようなことがある。  昭和29年には,生活保護法入退所基準,同36年には,結核予防法の公費負担制度拡充同32年からは10数年かかった"朝日訴訟、同43年には国立療養所の特別会計移行などについてそれぞれ運動を展開した。  日患同盟では,昭和49年に「25周年をむかえた日本患者同盟」という冊子を発行して,それらの運動の経過を詳しく記述している。  結核治療の進歩に伴う入所患者の短期間での退所などによって,日患同盟はいま曲り角に来ているところである。なお,この日患同盟の歴史については,この国立療養所史の各論編(結核)に東京病院の副院長島村喜久治が「患者自治会の活動」と題して述べている。
 第12節 管理指導機構

▽560 □回想記

◇中村京亮 1976 「国立療養所の統廃合、とくに全国最初のケースを回想する」,国立療養所史研究会編[1976c:560-562]

中村京亮

 国立療養所の整理統合は,今では,その妥当性さえあるならぼ,以前ほど骨を折らずに行えるであろう。しかし,全国での最初の時は,組合や患者の反対が強く、統合=Aという言葉を使うことにも気をくばった。統合は縮小につながるというニュアンスが強かったからである。それで,われわれは合同≠ニいう言葉を用いるようにした。施設の統合ということがいかに困難なものであるか,これは経験したものでないと到底理解し得ないであろう。
 月日が経つのは早いもので,国立療養所福岡東病院が生れて本年末で丸13年となり,院長は,初代中村京亮,二代三野原愛道,三代瀬川二郎とうつり変った。そして,昭和42年12月に,国立療養所福岡東病院5周年記念誌が発刊されたが,同誌の序文の一節に,次のようなことが述べてある。
 思えば苦難の長い道であった。古賀にある3つの木造療養所はいずれも耐用年数が20数年を経過,このままで行けば、いつか,朽ち果てる時期が到来するであろう。といって, 3施設を次々と新しい建物に近代化するわけにもゆかず,幸い,職員は隣同士の知り合った仲な(1)ので,この際,いっさいの個人的感情を捨て(2),国家百年の計のために合同しようと話が煮つまったのが,昭和35年頃(3)であったろうか。
 そして,その年の10月には当時の水田大蔵大臣あてに国立療養所近代化の必要性(胸部疾患センターの構想)を説いた陳情書を提出(4)している。最初,我々は3療養所の総べット数1,700床のマンモス病院を立案計画したが,結局,その内の1,000床前後を鉄筋化しようという話になり,最終的には800床と決定された。
 ところが,合同は結核ベットの縮小につながると,全医労や日患同盟は強く反対し,本省は800床ができ上るまでは,みだりに,定員定床減など行わない,でき上がった暁でも,ベット数が足りないようなら増床をもあえて辞さないと説明し,我▽561 々所長(中村,三野原,瀬川)は,その間の調整と合同の具現化にどれほど苦労したことか。それは,涙なくしては語れない血のにじむような日々であった――以下略。
とある。
 以上の文面でわかる如く,この統合は,国立療養所としては初めてのケースでが特筆に価いすると思う。
 そうでなければ,一足飛に3つの病院が一諸になるというようなことは到底実現しなかったであろう。
 以下,棒線を引いた部分の事項について,更に,補筆あるいは書類を添付し,記録として残すことにした。
(1) 隣同土の仲といっても,互に自分の病院を向上発展させようとする競争心はある。競争は敵対につながるので,これを別の方面から緩和する意味で,毎年秋には3院合同の体育祭を行い,年末には3院合同の医局忘年会を行ったりして親睦をはかった。
(2) 3院には,おのおの院長がおり,医務課長がおり,事務長(庶務課長)がおり,総婦長がいる。統合すれば,それらは一人に限定される。誰が,それぞれの長となるかは重大関心事だが,それを考えては統合は実現しない。国家百年の計のためには,一切の個人的感情を捨て去ろうと,3院の幹部達は誓い合った。
 そして,統合の結果,2人の院長は,1人が副院長に降楓他の1人は医長に降格他の幹部もそれぞれこれに準じた。
(3) 福岡市出身の簡牛凡夫氏(故人)が,大蔵省政務次官の要職におられたので,3院長同道で上京,お目にかかって,われわれの考え方を述ぺ,今後の協力方をお願いした。
(4) 別紙として添付,われわれはこれを「出師表」になぞらえた。
(5) 3院のべット数は計1,710床であったので,我が国としての代表的胸部病院を立案企画し,鉄筋高層建1,700床の設計図を作成,当時の療養所課長橋本寿三男氏と折衝した。そし\て,討論の末,不満ではあったが,1.000床前後ということに落ちついた。
 なお,国立療養所福岡東病院と名称が決定されたことについても,いろいろと経緯があり,二転三転して現在の福岡東病院となった。そして,この東とか西とかの頭文字は,福岡東病院をきっかけとして,その後,統廃合によって新しく生まれた施設に付けられるようになった。
 因みに,当時の九州地方医務局長(当時は地方医務出張所長)は島崎祐三氏で▽562であり,福岡東病院の基礎設計は東京大学建築学教授吉武泰水氏の労作に成るものである。
 また,当時の国立福岡療養所庶務課長正岡景孝氏と清光園事務長山野寄常雄氏の「思い出」は次の如きもので,これを参考までに添付した。
 […]

▽563 別紙
  陳情
 曽て結核は亡国病といわれ,その絶減を国是として取り上げた時代もあったが,化学療法の出現及び外科療法の発達等により死亡者が激減したため,国の施策から置き忘れられんとする兆しが見え始めたことは極めて遺憾である。しかし,昭和28年を第1回として,前後6回に亘った実態調査により,我国における結核の要医療者は,なお300万を数え,結核の新発生者は,年間20万人を下らず,しかもそれが壮老年層化しつつあることが判明した。更に自然界における結核菌と治療薬との関係は,菌が薬物に対して,耐性を獲得し,今以て赤痢の蔓延を防ぎ得ないのと同様に,今後結核患者が年を追って激減するものとは到底考えられない。
 而して,結核と云う伝染病がその国の人口密度と富の程度に密接にからまる最大の疾患であることに思いを至すならば,国として今こそ医療保障の拡充を図り,その防圧に全力を注ぐべきで,この具体的対策の一つとして大きな役割を果すものは,秀れた専間医を有する国立結核療養所の強化整備である。
 翻って,当古賀地区3療養所の現状を顧ると,福岡療養所は傷痩軍人療養所,清光園は県立療養所,福寿園は北九州市療養所として発足したが,既に何れも20数年を経過,老朽その極に達し,あまつさえ大気安静時代の古風な長廊下で結ぶ粗雑な木造建は,非効率的のみならず近代の結核治療施設としての形体を成していない。一朝天災,火災に見舞われんか,瞬時にして壊滅の危険に瀕し,患者の保安も期し難い。
 私共は, 3療合同の構想下,早くからその改善を要求,耐火建築の必要性を主張,共の間, l年間整備費をも辞退して今日に至ったのであるが未だ実現に至らされず。
 されど3療による医師及び職員は,ひたすら結核への情熱を燃やして専ら診療内容の充実に努め,かくて治療,研究,看護その他の実績は,名実共に九州の中心となった。一例を挙げると,昭和33年度における九州34力所の国療の肺切除総数は1,323例であるが,その内,古賀療での実施数は, 377例で実に総数の28.5貼を占めている。
 周知の如く,難治結核は遂年増加しつつあるが,その大部分は,外科療法に依るほかなく,施術に際しても複雑な機能検査と極めて高度の技術を必要とする。而して世界の趨勢をみるに,近代療養所は,ひとり結核のみならず,肺腫瘍,肺膿瘍,気管支拡張症,肺気腫,硅肺,端息等の呼吸器疾患,更に食道,心臓疾患の治療にまで進展しなくてはならなくなった。また他の医療機関では従来敬遠され勝ちである骨関節結核,小児結核(義務教育を併行)の診療も一暇医療機関に期▽546 待し難いので,当該施設において近代的な治療の場を提供することが急務となった。以上の理由から,私共は,古賀3療の総力を結集して□(玄玄)に耐火構造のChest Hospitalへの発展的合同を念願する次第である。
 その構想は,年次計画として,胸部外科病棟300.小児病棟100,骨結核病棲100,非結核性胸部疾患病棟200,成人結核病棟1,000,計1,700床を新設する。之に要する経費は概算10億で,なお完成の暁には,種々の技術を修得した人々を,他施設に配置するサプライセンターの役割も果たしたい。福岡県は,全国で第6位(昭和34年度)の多数の結核患者を有し,しかも当古賀地区は福岡市と国銑電車,パスで30分前後の至近距離,また北九州工業地帯とも一時間内外の至便距離にあり,白砂青松,好箇の療養環境と相倹って上記1,700床は最底必要数である。
 最後に私共国立療養所長としての最大の心痛事は,経験を積んだ専門医が最近次々と国療を去って行くということである。現在3療を合して医師15名の欠員をみているが,医師の確保なくして,どうして結核対策が成り立つであろうか。医師の待遇が民間のそれとはるかにかけはなれていることがその大きな原因とも考えられるが,医師の良識は決して待遇だけに左右されるものではない。
 要は,結核治療の最終拠点である国療の医師として,やり甲斐のある治療や研究のできる完備した施設が与えられるならば,若き医師は自づと集ってくるであろうし,現在その去就に迷っている経験医もまた踏み止まるのであろう。一般建築がマンモス化へと発展しつつある時流が,やがては医療建築の面にも押し寄せてくるであろうことは必然で,この際,魁けて,他国療に誇り得る近代的総合療養所が実現することを,私共は渇仰する次第である。
 昭和35年10月
   国立療養所清光園長 中村京亮
   国立療養所福寿園長 三野原愛道
   国立福岡療養所長  瀬川二郎
大蔵大臣水田三喜男殿
 (本稿の軌筆者・中村京亮は,元福岡東病院長である。)

 【「松籟荘の精神療養所への転換の経緯
 岩田真朔
 昭和36年4月,地方医務局へ呼ばれて,松籟荘長栗林君の退官に際して,松籟荘長を兼務することになった。田中君を松籟荘の医務課長として,週二回,松籟荘へ出勤した。当時,松籟荘には100人足らずの結核患者がいるのみであった。考えてみると,当時,松籟荘付近の土地の価格は, 300坪10万円位で,松籟荘の土地全部を売却しても600万円位にしかならない。もし,国が精神病院を作るから買収しようとすれば,反対が多くてとても大変なことになる。近畿には,国立精神療養所がないから,精神療養所に転換するに如かずと,秘かに,しかも相当根強く,松籟荘精神転換の運動をしていた。しかし,全医労は,当町結核病床の精神転換は,原則として反対の態度をもっていた。
 昭和39年早々東京で,アメリカ大使ライシャワー氏が精神異常者に刺されるという事件が起きた。国会で,かくの如き精神異常者を野放しにして,今度のような事件を起されては,誠に困る。国はこれに対して何等の対策を持たないのかとの質問に対して,厚生大臣は,対策は立てている。例えば,近く松籟荘は精神転換するはずだと答弁した。これを知った全医労中央幹部は,反対のために,大挙して松籟荘に来るというニュースが2月22日に入り,松籟荘の幹部は色を失った。そこで私は,全職員を会議室に集め,私一人中に入り,「君達は結核病学に興味を持つのか,千円札に興味を持つのか」より説き起して, lOO床ばかりの結核療養所の運命を説き,坐して奈良療養所に合併されるのを待つより,この際,精神療養所になって,将来の発展を計った方が良いではないかと,l時間余に互って説得した。終了後,組合大会を開いて相談し,組合は「松籟荘精神転換に賛成である。方法はー切荘長に任せる」との決議書を持って来た。このコピーを地方局と本省に送った。これで松籟荘の精神転換も本決りとなった。】
 (国立療養所西奈良病院長)」
 全医労は全日本国立療養所労働組合。

資料

 「あとがき
 国立療養所はここ数年めまぐるしい変ぼうをとげつつある。しかし,変ぼうとはいいながら「国として特殊な政策医療をになう」という国立療養所の役割にはいささかの変更もない。むしろ,第二次大戦前の治療の困難な時代における結核,らい,精神障害,せき髄損傷といった疾患に対して多くの職員が傾倒された幅広い社会的な考え方と情熱は,今日の新しい命題である慢性の諸難病に対して引きつがれて発揮され,わが国の医療の分野の中における国立療養所の伝統的な特殊性をますますきわだたせることになっている。国立療養所が新しい命題をかかえ,苦闘している今日ほど,療養所創設のころのことが思われ,ふりかえられる時はないのである。
 昭和49年の初めに,国立療養所村山病院の小坂久夫院長,国立箱根療養所の久保義信所長,国立療養所東京病院の島村喜久治副院長の三氏に厚生省へお出でいただき,国立療養所史編さんの事業について御意見をおうかがいしたところ,「第二次大戦後の結核療養所が多忙をきわめた頃の諸先輩が最近つぎつぎと物故され,貴重な資料も散いつする恐れがあるから,この際,国立療養所史としていそぎとりまとめておくことは後代のために有益である」と賛意を表された。そこで,同年3月に「国立療養所史研究会」が発足することとなり,三氏の他に,精神療養所から武蔵療養所の秋元波留夫所長,らい療養所から高島重孝園長に世話役としてお加わりいただき,世話役代表には小坂久夫院長があたられることになった。そして,地区別と疾病別に世話人と編集幹事を委嘱して編さん事務が開始された。編集事務室を村山病院の中に設け,各地区の世話人を通して,資料の収集と軌筆の依頼をはじめた。ー方,厚生省医務局においても,国立療養所課が中心となり,各地方医務局の協力を得ると▽732ともに,とくに関係のある国立療養所に依頼して,資料の貸与,提供を得て,編さん事務の推進に積極的に協力した。
 なお,これより前,国立療養所課においては,昭和43年国立療養所が特別会計に移行した際の歴史を散いつさせないため,一応の資料の整理と記述を終っていたのであるが,国立療養所史編さんの参考資料とするため,厚生省医務局国立療養所課掲「国立療養所の歩み(未定稿)」としていそぎ印刷に付し,関係者に配付した。この冊子自身も貴重な資料として後世に残るであろう。
 さて,たび重なる編集幹事会,編集事務局会議を経て,編さん業務を進め,国立療養所史研究会が発足してからわずか一年の間に編さんを終って,ここに発行するはこびとなったのである。内容の都合上,総括編,結核編,精神編,らい編の4部作とし,本書はその総括編である。本書総括編の完成は,小坂院長をはじめとして国立療養所史研究会の方々が中心になっての努力と,厚生省の関係各課,各地方医医務局,各国立療養所の協力の賜によるところであるが,とくに,編集実務にたずさわった佐野文彦,横山茂,中村潤三の三氏の休日を返上してまでの絶大な努力によるところが大きい。また,田村三夫,小川清次郎の両氏には庶務的な仕事の面で協力していただいた。国立療養所課においては,辻昭二,高沢滝夫,大森文太郎,新野博司の各補佐,渡辺洋子,原正俊両専門官,大久保明,市山勝彦両係長,その他課員一同が煩忙な業務の間にあってよく協力した。記して,深く謝意を表する次第である。
 なお,今回の編さんにあたり各地からよせられた記念誌写真,参考資料等はすべて国立療養所村山病院に資料室を設けて保存し,閏係者各位の閲覧に供することとしている。御関心のある方は御利用いただければ幸いである。
  (昭和50年3月31日 厚生省医務局国立療養所課長大谷藤郎)

◇国立療養所山陽荘 1976 「国立埴生療養所廃止のいきさつ」,国立療養所史研究会編[1976c:573-574]

国立埴生療養所廃止のいきさつ
  国立療養所山陽荘
 国立埴生療養所は,昭和19年3月に創立され,当時は陸軍病院の分院として地面積1万5千坪,3個病棟で患者収容130床の結核療養所として設立された。
 瀬戸内海の海岸を眼下に眺め,風光明媚で澄みきった空気は療養に最適である。
2.昭和20年10月,終戦により国立下関病院埴生分院となる。
3.昭和24年4月,国立療養所山陽荘分院となる。▽574
4.昭和26年4月,国立埴生療養所となる。当時当療養所としては医師の確保に非常に困難で,患者の収容についても相当の努力を払った。
そういう理由から,手術等が行われないので,安静と化学療法を主とした長期療法が行われていた。
5.昭和30年に入り手術場等の改造が行われて,国立療養所山陽荘の応援により手術が行われるようになる。
 然し,諸設備はなかなか改築等ができず,定着した医師が次第にいなくなり,運営に著しく支障を来した。
6.昭和32年に入り,従来九大系の医師が援助を行っていたが,遂にこれも絶える。
7.この問,国立療養所山陽荘より医師が交替で援助を行う。一方,山大医学部の援助を要請,教授など多数の方々の来所を求め,内容を調査してもらう。
 その結果,一部X線科関係および研究検査科関係の設備改善要求があり,改善が行なわれることにより援助を行う旨の意思表示をうける。
7.昭和34年度において,本省においては既に廃止の方針を打ち出した。理由として
 イ 医師の補充が困難である
 ロ 施設の考朽化
 八 安静療法にのみの治療では立ちおくれる
 患者数において既に昭和33年度に1日平均入院患者79人程度となる。
8.当療養所は地理的に国立下関病院の診療圏と国立療養所山陽荘の間に位置し誠に条件の悪い所にあった。
9.昭和34年5月になって廃止の意志が披露された。
 このことにより,全医療労働組合は廃止反対の運動を開始した。
 反対運動は入所患者と山陽町の町ぐるみの運動へと展開し,日増しに織烈さを呈しつつあった。加えて入所患者の共闘も伴い,全国療養所,病院の中に有名となる。俗に埴生闘争≠ニ言われるにいたった。同年7月に入り,更にその度を増し,患者のハンストなども起きる。
 以上のようないきさつを経て,昭和35年12月16日,国立埴生療養所は廃止された。

第6章 国立療養所の現状
 第1節 概説
 第2節 国立療養所の変遷
 第3節 国立療養所の組織および定員
 第4節 施設の状況
 第5節 経理の状況
 第6節 治療研究の状況
 第7節 職員の研修・講習
 第8節 統計業務
 第9節 職員の福利厚生
 第10節 職員の団体活動

 第3 全日本国立医療労働組合 [662-663]
 終戦後,全国の各地に労働組合結成の機運が急激に発生した。傷痩軍人療養所の国立療養所への転換とともに各国立療養所に職員組合が結成された。昭和21年8月,東京療養所,新潟療養所など10箇所の組合で,全日本国立療養所職員組合(全療)を結成,同22年日本医療団の結核療養所が国立療養所に移管されるとともに,それらの療養所の組合である全日本医療団従業員組合(全医従),日本医療団職員組合総連合(総連合)も全療に参加した。
 一方,陸海軍病院から転換された国立病院においても,各地に職員組合が結成され,全国立病院労働組合(全病)へと発展した。全療,全病ともに,昭和22年8月,厚生大臣と労働協約を締結し,団体交渉,組合員の組合事務専従,運営協議会が認められ,各支部もそれぞれ療養所と協約を締結するようになった。昭和23年11月,全療と全病の合同の機運が熟し,全日本国立医療労働組合(全医労)が結成された。合同当時の全療の組繊人員は12,000名で,委員長は堀江信二郎であった。
 新発足の全医労は,組合員は全職員の約70%の25,000人であり,翌昭和24年,組合活動を規制する人事院規則が相ついで制定され,その年の12月,全医労は,第3回臨時全国大会の決議に基づいて,人事院に登録して,法内組合となった。そして,年を経過するとともに支部組合員の数が別表のとおり変化して今日に至っている。
 現在,全医労は,議決機関として全国大会を毎年1回開催し,中央委員会を組織している。そして,業務は東京都新宿区四谷4-10-3にある本部に常駐する10名の中央執行委員会によって運営されている。さらに,各施設にある支部のはか,本部との連絡と地方的統制のため,都道府県単位に地区協議会,地方医務局単位に地方協議会がそれぞれ設けら▽663 れている。
 表 全医労の支部数,組合員数の推移
   支部数  組合員数
 昭和25  191  22,418
 〃 30  173  17,203
 〃 35  192  21,092
 〃 40  202  20,424
 〃 45  210  23,300
 〃 48  215  25,723
 (注)昭和30年に減少したのは,昭和24年のレッド・パージーによる。
 機関紙「全医労新聞」はブラケット判の週刊で,現在までに1,288号を発行している。

 第11節 患者の団体活動
  ―患者の団体活動日本患者同盟―

 戦後における日本の労働運動,民主主義思想が,さかんな勢いで燃えあがる中で,長期在院(所)患者たちも団結する必要を感じた。そして,一日も早く治って社会復帰をしたいという切実な欲求のもとに患者自治会というかたちでスタートした。患者自治会のうごきは終戦直後の昭和20年秋ごろから,東京,岡山を皮切りに全国的に波及した。その年の10月東京都で9箇所の病院療養所の患者が,東京都患者生活擁護同盟を結成した。そして,結核患者に主食のー合加配や車の携帯食糧,衣科の放出物資の配給を促進して,成果をおさめた。▽664
 この教訓にもとずいて,患者自治会の組織を全国的にひろげる気運が高まって,昭和22年には,全日本患者生活擁護同盟(全患同盟),傷痩軍人療養所関係の自治会が集って国立療養所全国患者同盟(国患同盟),陸海軍病院系統の患者自治会が集まって,全国立病院患者同盟(国病同盟)があいついで結成された。さらに,これらの全国組織は翌昭和23年に統合して,日本国立私立療養所患者同盟,つまり,いまの日本患者同盟が誕生した。
 日患同盟は,戦後の困難な社会状勢の中で日常生活の要求から出発し,制度の改善まで幅ひろい運動を展開してきた。そして,4半世紀の経過を辿り,多くの成果をもたらしている。1,000号を超えた機関紙「療養新聞」の発行をつづけ,昭和24年には東京都に日患同盟会館を建設している。その25年のあゆみの中で,さまざまな形態の運動が行われそれらの中で主なものをひろうと次のようなことがある。
 昭和29年には,生活保護法入退所基準,同36年には,結核予防法の公費負担制度拡充同32年からは10数年かかった朝日訴訟%ッ43年には国立療養所の特別会計移行などについてそれぞれ運動を展開した。
 日患同盟では,昭和49年に「25周年をむかえた日本患者同盟」という冊子を発行して,それらの運動の経過を詳しく記述している。
 結核治療の進歩に伴う入所患者の短期間での退所などによって,日患同盟はいま曲り角に来ているところである。なお,この日患同盟の歴史については,この国立療養所史の各論編(結核)に東京病院の副院長島村喜久治が「患者自治会の活動」と題して述べている。」

 第12節 管理指導機構

■言及


◆立岩 真也 2016/05/01 「国立療養所・2――生の現代のために・12 連載・123」,『現代思想』44-(2016-5):

◆立岩 真也 2016/04/01 「国立療養所――生の現代のために・11 連載 122」『現代思想』44-(2016-4):-

◆立岩 真也 2016/03/01 「生の現代のために・10(予告) 連載 121」『現代思想』44-(2016-3):-

◆立岩 真也 2016/02/01 「国立療養所/筋ジストロフィー――生の現代のために・9 連載 120」『現代思想』44-3(2016-2):14-25

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社



*作成:安田 智博立岩 真也
UP:20160116 REV:20160218, 0302, 20180622
医学史・医療史  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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