石地かおる氏インタビュー・1
20201218 聞き手:立岩真也 於:兵庫・石地さん宅 Skype for Business使用
◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 149分
※記録を2つに分けました。
◇石地かおる i2020 インタビュー・1 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用(本頁)
◇石地かおる i2020 インタビュー・2 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用
立岩:石地さんの現在のご活躍は、ネットなんかでも読めたりしますので、今日はどっちかっていうと半生の中の前半、中盤あたりまでのわりと古い話あたりから、というふうに思ってます。石地さんご存知のように今、本格的には2年ぐらいでしょうか、筋ジストロフィーとかSMAとかそういう人たちが国立療養所にいるっていう中で、「それをどうしよう?」っていうプロジェクトがあって、それの関係ということと。あとそれにも面会のこととか直接関係してるんですが、コロナの関係でたまたまというか、学校のほうで「コロナと社会」みたいな感じで研究費が取れたので、今日のインタビューもその枠で行ないますので、ちょっとそういう話もあとのほうでは忘れなかったらうかがおうと思います。よろしくお願いします。
石地:はい、お願いします。
立岩:1967年の12月生まれでよろしい?
石地:はい、そうです。
立岩:ちなみに何日ですか?
石地:21なので、もうすぐ53になります。
立岩:あと3日とかですね。
石地:そうです。
立岩:僕はちょうど60年生まれなんですけど、だからどうってことはないです。それで、詳しく分類するとどうなるかわかりませんけど、SMA〔脊髄性筋萎縮症〕っていうことでいいんですよね? 大きくは。
石地:はい、SMAのⅡ型だと思います。
立岩:それはだいたい発症が早い人が多いと思うんですけれども、ネットで見ても、1歳半でしたっけ? ぐらいに診断されたっていうふうに、
石地:はい。でも生まれたときから「様子はおかしいな」っていうふうに母とかは思ってたみたいです。体がこう、だらんと。
立岩:ちなみに今、お住まいは神戸市?
石地:はい、神戸です。
立岩:お生まれは?
石地:生まれは兵庫県の西の方の、今はたつの市になってしまってるんですけど、合併したのでたつの市なんですけど、揖保郡っていう、はい。素麺の「揖保の糸」あるじゃないですか。その産地なんです。
■
立岩:そうなんですか。生まれたときに親は「ちょっと体が」っていうことは思っていて、病院に連れてったとか、あるいは検診があったとか、どんな…? まあ1歳半だから覚えてらっしゃらないと思うけど、本人は。
石地:親から聞いてるのは、いろんな病院を転々としてるらしいんですけど、でも原因が分からなくて。で、県立こども病院にも行ったみたいなんですけど、それでも原因がわからなくて。ある日なんかその、姫路で有名な、普通の個人でやってる、開業医でやってるさとう小児科っていうところがあるんですけど、そこへ行ってわかったみたいなんです。
立岩:そうか、こども病院わからなかったんだ。
石地:わからなかったんです。
立岩:数は多くはないけど、そんな極端に珍しいものでもないですよね?
石地:そうなんですよね。
立岩:でも1歳半で診断がついて。そのあと、僕がちらちらっと調べた限りだと、もうばーっと飛んで、「31歳に自立を始めました」っていう(笑)。その間の話は僕はぜんぜん予備知識なく今日おうかがいするんですが。それから石地さんの人生はどうなっていくんですか?
石地:まあ診断がついてというか、さとう小児科で「たぶん脊髄性進行性筋萎縮症じゃないか?」っていうふうに。たまたまその先生がインターンの時代にその研究をしてたらしいんですよ、この病(びょう)…、で、「みた感じはそういうふうにみえる」っていうふうに、まあ症例をたくさん診てきていたのでそう思ったと思うんですが、「きっちり調べるためには岡山医大へ行くように」って言われて。岡山医大に入院をして、筋肉細胞の検査とか、脊髄液ですか、それを抜いて検査をするっていう検査をして、で診断がついたみたいなんです。だから最終的に診断がついたのは岡山医大。
立岩:岡山医大で。筋生検やるっていいますよね、筋肉取って。あれ痛い…、まあでも1歳半とかだったら覚えていないかな?
石地:もう全然覚えてない(笑)。あの、でも傷はあります。
立岩:筋生検のときのってことですか?
石地:はい。えーとね、右のふくらはぎに傷が、5センチぐらいの傷があります。
立岩:あれは痛いってみんな言いますね。筋肉取ってくるんだからね、そりゃ痛いだろうと思うんですけど。
石地:痛いですね。覚えてないですけどね(笑)。
立岩:で、岡山医大の方で診断がついて、その頃のこともあとで親に聞いたから知ってるっていうことですよね?
石地:そうです、そうです。
立岩:そのあとどうなっていくの? その、たとえば、
石地:その後まあ岡山医大で両親が言われたのは、「3歳ぐらいまでしか生きられないので、もう好きなようにしてあげてください」という。ほんとに好きなように、大事に大事に育てられて。でまあ、通う病院がこのあたりでは三田にある兵庫病院、そこが専門の病院になるので、「そこに1か月に1回ぐらい通うように」っていうふうに指導されたみたいなんですね。でもう、私が覚えている頃、ちょっとだけ覚えてます。
立岩:じゃあそのときもまだ揖保郡のほうにいらして、僕はぜんぜん兵庫の土地勘というか地理感覚がわからないんですけど、三田と揖保郡の間を月一、たとえば親の車で往復したみたいな、そういうことですか?
石地:そのときに、私が物心ついてるときには、父親のほうの実家である佐用郡、さらにもっと山奥なんですけど、佐用郡のほうにもう引越ししてたんですよ。
立岩:じゃもっと遠い…、いや、ほんとよくわからないんだけど(笑)、
石地:そうです、もっと遠いです。
立岩:そうですよね、三田だと。それで「月一通ったらいい」って言われて。基本的に佐用郡のご実家のほうにいて、月一ぐらい。どういう交通手段で通われたんですか?
石地:父親が仕事を休んで、母親と私と3人で、で父親が運転して。当時高速道路なかったので、あの2時間半ぐらいかかってたと思います、片道で。
立岩:それはちょっとした旅行ですね。往復したら5時間かかるじゃないですか。1日がかりですね。
石地:そうです。なので、もう朝早く5時とか6時には起きて、で母親がお弁当作って、車の中でお弁当を食べて、9時の診察に間に合うようにっていう感じで行ってました。
立岩:それは診察以外に何かした記憶、経験はおありですか?
石地:うーん。いや、なんかこう足を動かしたり、座位を取ったり、まあ聴診器をしたりみたいな、それぐらいしか覚えてない、
立岩:基本的には体の様子をみる。
石地:そうですね。で、あとなんか、症状が軽くなるかまたは進行を止めるかなんかっていう理由でホルモン剤を処方されてました。それを私の記憶では4歳ぐらいで飲んでいたと思うんですけど、「それを飲むと体毛が濃くなりますよ」と言われて。
立岩:男性ホルモンみたいなものですか?
石地:そうだと思いますね、たぶん。それをね、けっこう長い間服用していて。実際ほんとに体毛が濃くなって。そんな幼少期にたとえば腋とかは毛は生えないですけど、全部大人とおんなじような感じに、
立岩:へえ。何ホルモンだっていうのは記憶にないっていうか、
石地:それがちょっとわからないんですよ。
立岩:男性ホルモンっぽいですけどね。どうなんだろう?
石地:たぶんうちの母親もそんなような、「これ男性ホルモンちゃうかなあ」っていうようなこと言ってましたけどね。
立岩:そうですか。当時はそういうのがあったんですかね。
石地:そうだと思います。で、あの、母は飲ませたくなかったみたいなんですけど、父が「それを飲んだらちょっとでもよくなるんやったら続けよう」ということで、わりと長いこと飲んでたと思います、3年とか。
立岩:そうですか。今そんなことするのかな?
石地:いや、今聞かないですね。
立岩:僕も今日初めて聞きましたけど。まあでも当時はそういうのあったんでしょうね、たぶんね。で車中でお弁当食べて、9時に着いて、体ちょっと動かしてみたりとか、診察というかしたら、それで終わり?
石地:それで終わりだったと思います。で、どこかでお昼を食べて帰ってきてたと思います。
立岩:なるほどね。その頃のことで、時間かけて行って帰ってきたっていう以外に、小学校に入る前ぐらいの時期、僕なんかぼーっとしてたんで何も覚えていないんですけど、何か覚えてらっしゃることっておありですか?
■
石地:私の…、そうですね、えーと学校、入るところどこもなかったんですよ、田舎だし、普通校は受け入れないですし。当時支援学校っていうと姫路市の書写まで出てこないと。書写はたぶんみなさんいっぱい行ってはる、古井〔正代〕さんとかも出てるとこなんですけど。
立岩:あ、古井さんもそうなの?
石地:そうです、そうです。古井さんとか、福永〔年久〕さんとか、澤田〔隆司〕さんもそうですね。
立岩:そうそうとした人たちがいた養護学校なんですね。
石地:そうです、そうです。そこしかなかったんですけど、そこは遠すぎるん…、もちろんそんな佐用郡にスクールバスも来てないですし。それでまあいよいよ行くところがないということで、そうしたらその中央病院に入院をして、併設されてる上野ケ原養護学校というのが、あの中に分校みたいな感じであるんですけど。今もあるんですかね?
立岩:あるみたいですよ。そのパターンは基本変わってないみたいですね。病院があって横に、前でいう養護学校、今は特別支援学校っていうのが、ほぼ敷地内併設、廊下でつながってるみたいなのは、なんか日本中おんなじみたいですね。
石地:そうなんですね、やっぱり。なので行く学校がなかったので、そこに入院しましょうということになるんです。で、「入院することになりますよ」っていうのは、言われたのは覚えてます。お医者さんから説明されたの、
立岩:したときに、石地さんは「しょうがねえな」みたいな?
石地:いや、私はあんまり意味がよくわかっていなくて。その、「1年生になるからうれしいな」と思ってたんです、そのときは(笑)。
立岩:1年生になること自体はうれしくて、どういうとこかってあんまり考えて…、想定できない、わからないですよね? 名前聞いただけでは。
石地:わからないです。はい。で、それで両親と離れないといけないということもわからなかったんです。ちゃんと説明を受けてなかったのか、私が子どもすぎて意味が理解できなかったのか、ちょっとわかりませんけど。
立岩:じゃあその寄宿っていうか病院に入院するっていうのも、もう学校入ってからわかったぐらいの感じだったんですかね?
石地:感覚的にはそうですかね。ただでも母親が、もう何日か前からずっと泣いてたんで、
立岩:ああ、入学の前から、
石地:そうです。私の荷物を作りながら泣いてて。あの、下着とかも全部新しいのを買いそろえて、おばあちゃんと一緒に荷づくりをしてくれてたんですけど。で、ずーっと泣いてて。で、あの、「もしさみしくなったらお父さんとお母さんの写真がいつでも見れるように」って言って、昔よくあったあのロケットペンダントっていうのがあるんですけど(笑)、
立岩:(笑) はいはい。こう開くと見えるやつですか?
石地:そうです、そうです。開くと写真が入ってて見られるっていうやつなんですけど、あれを買ってくれて。で、これにお父さんとお母さんの写真を入れて、いつでも首からぶら下げとこうということになって。で、なんかこう、でも私はそれでもまだあんまり意味がわかってなくて、「いったい何が起きるんだろう?」っていうふうに思ってたんですよね。[00:15:49]
立岩:ああ。その頃はもう6つとかじゃないですか? 6歳7歳ですよね? で、SMAもまあ型によって違うってことかもしれないんけれども、数日前聞いた人はSMAだって言われたあと、「この体の状態は進行しないし、ずっとそのままいくよ」みたいな、そういうこと言われたっていう人もいるんですよね。
石地:ああ、そうなんだ。
立岩:でも石地さんの場合は「3歳」って、これ親びびりますよね?
石地:いや、かなりびびってました。なので、冬は絶対外へ出しませんでしたし。あの、「風邪ひいたら命取りになる」っていうふうに岡山医大のときに説明されてきているので、「絶対外に出すな」っていうふうに。
立岩:じゃあ、わりと大事に大事にというか、
石地:そうです。
立岩:でもまあ3歳は全然超えてというか、6歳にはなった。そのときの体の状態ってものはどんな感じだったんですか?
石地:えっと、もう私は1回も歩いたことがなくて、はいはいもしていなくて。かろうじて短い時間であれば、こうもたれるところがなくても座位は取れるっていうぐらいの感じでした。で、食事も用意してもらえれば自分で食べれるぐらいで。で、あと着替えとかトイレとかお風呂とかはもう全介助です。
立岩:じゃあそれはわりと、たとえばデュシェンヌ、筋ジスの人なんかだと6歳、7歳までは歩いてて、小学校入ってだんだん、走ったら転ぶようになってみたいな、わりと進行していく感じだけど、SMAだとやっぱり初期から、でも逆に言えばそんなに大きくは進行しないというか変わらない状態で来たってことですかね?
石地:うーん、ゆっくりなんで。ただまあ、たとえば背中の側弯がだんだん曲がっていくとか、首がしっかりしていたけど倒れやすくなるとか、呼吸がちょっと浅くなるとか、そういうのはありますけどね。でもそんな私二十歳ぐらいまで、まあそんなふうにあんまり「ああ、悪くなってるな」ってふうには、そんな感じずにきましたね。
立岩:そうなんだ。たとえば子どものときって、僕だったら言わない言えないと思うんだけど、親から余命というか寿命というか、そういうものが短いんだ的なことを医者に言われた的なことは聞いたことってあります?
石地:あの、私に直接言ったんではないんですけど、母親とかおばあちゃんとかが、自分の知り合いとか近所の人にそれを話(はなし)するんですわ。「実はこういう病気やって、3歳までしか生きられへんって言われたから、もう大事に大事にせなあかんと思ってるんや」みたいなことをいろんな人に説明をするので。私そのときに一緒にいるんですよ、そこに(笑)。
立岩:はいはい(笑)。じゃあ聞こえるというか、
石地:そうです、そうです。わかりますよ、もちろんね。なので小さいときから知ってました。でも3歳過ぎたころですよね、知ってるのはね。
立岩:言われたときは、もう超えちゃってるわけだもんね。
石地:そうです、超えてるんです。
立岩:そして学齢期になって、近くになくて、だったら病院併設のっていうことで中央病院行くと。それから小中高といたんですか?
■脱走
石地:いえいえ、あの、脱走するんです。脱走をするんですよ。結局いたのは2週間ぐらいやと思うんですけど。
立岩:え?(笑)
石地:2週間ぐらいなんですよ。なので授業は1回しか受けてなくて。
立岩:僕はてっきりこれから12年間の長い長い物語が始まるのかと思ってましたけど、2週間だったんですか
石地:たぶんこの脱走する話がおもしろかったので、井上〔武史〕さんが立岩さんに紹介したいっていうふうに言われたんだと思います(笑)。
立岩:あ、そうか。授業も1回?
石地:たぶんね、3月の末から入院したんだと思うんですね。で、4月の1週目に初授業が1回あって、その、たぶん2週間か10日かそれぐらいだと思うんですけど。まず最初家族全員で行って、で夕飯を食べるまでは一緒に家族はいたんですけど、お父さんとお母さんとおばあちゃんとおじいちゃんと、帰るって話になって、「あ、じゃあ私も一緒に帰る」って言った。「あんたは帰られへんねん」っていうことになって初めてわかったんですけど。この「親と離れて、私はここにい続けなければならないんだ」っていうことがやっとわかって、で、そのとき大泣きをして。それはもう覚えてます。みんなで、
立岩:そうか。行った日の最初の、施設というかの中での夕飯があってってこと?
石地:そうです。
立岩:それで、「もう帰んなきゃいけない」ってことになって。でも、親たちは帰っていった?
石地:帰りました。
立岩:帰っていって、一人残されて、みたいな?
石地:帰って、たぶん泣きながらごはん食べてたと思います。で、なんかお箸とかスプーンとかが大人用ですごく大きいので、「こんなのじゃ、ごはん食べられへんわ」って言って、なんか次の日だか、次の次の日だかに、ちっちゃいスプーンとお箸を母とおばあちゃんが持ってきた記憶がありますね。うん。
立岩:それが2日目みたいな感じか。それでそのあと10日の間には何が起こったんですか?
石地:授業に行ってる間とかに、母親は、私が里心がつくということで、会わずということで、会わなくてもいい時間に来てたみたいなんですよ。訓練の時間とか、授業に行ってるときとか、体力測定をしているときとか、そういうときをねらってほぼ毎日来てたんだと思うんですけど。
立岩:ああ、来てたは来てたけど会ってはいないというか、会わせないというか、わざと。
石地:そうです。それであの、たぶん5人部屋にいたと思うんですけど、女子の部屋はそこだけだったんですね。で、あの、3時、まあ午後ですね、午後になるとおやつが運ばれてくるんですね。て、あの当時、40何年も前なんで、瓶に入った牛乳と、なんかクッキーかスナック菓子かみたいなものが配られてきて、ベッドサイドのところに置いていかれるんですね。で、その人は持ってくるだけなので、当然介助はしないんですよ。私が飲みたいと思ったら、それは看護師さんを呼ばないといけないんですけど、なんとなくそのすべが、私は小さすぎてよくわからなくて。で、そこに牛乳とお菓子がたまっていったんです。で、古くなったものも捨てるとか片付けられるとかいう行為もなくて、
立岩:(笑) え、牛乳瓶が並び、みたいな感じ?
[通信トラブル]
立岩:あ、いっぺん落ちちゃったみたいですね。ゆっくりしてください。たぶん今、なぜか落っこちました。[空白 00:24:54~00:25:38]
あ、また入ってこられましたね。ありがとうございます。
石地:切れちゃいました。ごめんなさい。
立岩:もう大丈夫です。音ちゃんと聞こえてます。画像も入りました。
で、牛乳瓶並んじゃったってことですよね?
石地:はい、並んじゃって。それを見たおばあちゃんが「こんなところに置いといてはいけない」と、「ちゃんと食べさせてもらってるかどうかもわからんし、ほったらかされにしてるんじゃないか」というふうに思ったらしいんですね。それはあとから聞いた話なんですけど。で、ある日あの、あ、やっぱり授業1回じゃないな、何回かは行ってるかもしれない、ちょっと記憶がおぼろげですけど。あの、授業に行ってたときに、「おばあちゃんとおじいちゃんが来てるから、会いましょう」って言われて。授業受けてるのにそっちに連れていかれたんですよ。んで、「会いに来たわ」って言って、いろいろお菓子とか持ってきてくれて。でももうそのときにすでにおばあちゃんは、おばあちゃんとおじいちゃんは脱走計画をして、会いに来てたんですね。で、あの、「すごい遠いところから会いにきてるから、初孫ですごく可愛い孫なので、今晩一晩だけ泊めてほしい」と、病院に、
立岩:あ、おじいちゃんおばあちゃんの方が病院に泊まるっていうことね。
石地:そうです、そうです。「泊まらせてほしい」ということを言って、で、もうもちろん「ノー」って言われるんですけど、「そこをなんとか頼みます」って言って。そしたら、「大部屋に寝てもらうわけにはいかないから、個室を空けます」っていうふうに言われて。で個室をあけて、私とおばあちゃんは一つのベッドで一緒に寝たんですけど。おじいちゃんは夜遅くまでいて、「男性はどうしても泊めることはできません」って言われて。で、おじいちゃんは、わかんないです。どっか近所の旅館に行ったのか、野宿をしたのかわからないですけど。そしたら明け方です、まだあの、何時ぐらいかちょっとわかんないんですけど、外からドアをトントンっておじいちゃんが叩いたんです。
立岩:ああ、その病院の個室の、
石地:あ、ドアじゃない、窓です、窓。1階なので。で、窓を叩いて、でおばあちゃんがその窓を開けて、で私を抱っこしておじいちゃんに渡したんです。
立岩:(笑) それ、すごいですね。
石地:そうなんです。で、おばあちゃんもその窓から出て、外に。おじいちゃんがおばあちゃんの背中に私をおんぶさせて、もうおんぶするための紐も全部持ってきてたんです。それでおんぶさせて、もう走って、走ってバス停まで、ずーっと走って逃げたんです。で、私のかすかな記憶では、看護師さんがそのあと走って追っかけてきてたんですけど、もうでもね、バスに乗ってたんですね、そのときには。
立岩:(笑) 振り切ったって感じなんですね。
石地:振り切って出てきたんです。
立岩:僕、脱走って聞いて…、でもそれほんとの脱走ですね。比喩とかじゃなくて、物理的に脱走ですね。すげえ。
石地:はい、そうです。だからたとえばその、ちゃんと出るんだったらば、何にせよ親が来ないといけないじゃないですか、なんか書類書いたりしに。そういうものは全部なしで、完全に脱走なんで。
立岩:その病院と、ご実家っていうか住んでたとこの間はすごいかかるわけじゃないですか? その最初の10日間っていうのは、その遠いのを行き来してたんですかね? 何回か来て泊まったりしたのかな?
石地:その脱走させたおばあちゃんは母方のおばあちゃんなんですね。で、父方は佐用なんですけど、母方はまあ姫路に近い方の揖保郡っていうとこなので、佐用から行くよりはぜんぜん近いです。[00:30:23]
立岩:ああ、そのおじいちゃんおばあちゃんはお母さんのご両親ってこと?
石地:そうです。
立岩:比較的近いので直接行って。
石地:ただ母はその間ずっと、その自分の実家の方にいたんだと思います。
立岩:ああ、なるほどね。お母さんとお母さんのご両親と、そんなに、遠いっていってもものすごく遠くはないから、わりとしょっちゅう行き来して。で、そのおじいちゃんおばあちゃんが強奪してくるって話を、お母さんは了解なさっていたのかしら、その時点で? その日、
石地:それは、たぶん、知らなかったと思いますけどね。そのへんは聞いてないですね。
立岩:うーん。たぶん事前の相談っていうよりは、想像するに二人の共犯で、帰ってきたら子どもを連れて戻ってきたみたいな、そういうことだったんですよね。
石地:そうだと思います。うん。たぶんおばあちゃんにしても、もうそんなに長く、私がそんなに長く生きれるわけではないから、そんなところでこう放置されて生活してるよりは、連れて帰ってきて好きなものを食べさせて、介護が行き届くようにしてやったほうがいいと判断したんだと思うんですよね。
立岩:なるほどね。へえー。これはでも、僕わりとこの間(かん)いろんな人にインタビューをしてきたんですけど、このパターンは初めてですね。
石地:そうですよね(笑)。
立岩:いやいや、びっくりしました。でも気持ちはわかりますよね、おじいちゃんおばあちゃん。うん。じゃあ10日とかまあせいぜい2週間とかしかいなかったから、上野ケ原病院、たぶん筋ジス病棟って、筋ジス、男性多いので、やっぱり女性の部屋って1個で6人部屋とかで、定員いっぱいいるときもあれば、5人ぐらいのときもあるっていう話みたいなんですけど。10日しかいなかったから同室のみなさんというか、子どもたちがどういう人だったかっていう記憶はないですかね?
石地:いや、覚えてます。
立岩:覚えてる? すごいな。
石地:覚えてますね。名前は覚えてないんですけど、エピソードはいろいろ覚えてます。
立岩:ああ、そんな短い間に? 同じような年齢層だったのかな? けっこう病院によっては大人の人もいたりとかいろいろ聞きますけど、どんな感じでしたか?
石地:もう全然上…、あの、もう学齢期は終わってて、えーと、何歳ぐらいやったんでしょう? 一人は中学生だったと思うんですけど。二人はもう学校は終わってて、なんかこう手芸をしたり、なんかそういうようなことをしてましたね。
立岩:じゃあ、そんなおんなじ年齢層だけってわけじゃなくて、
石地:じゃなかったです。
立岩:病名なんか聞かないだろうから、聞いてもわからないかもしれないし。けっこう脳性麻痺っぽい子がいたとか、いなかったとか、そういうのはなんか記憶にありますか? どういうタイプのこう体っていうか、
石地:たぶん今思うと、一人はシャルコー・マリー・トゥースだったのかなあと思います。一人はそうだったかなあと。で、もう一人は脳性麻痺っぽかったです。で、もう一人は、ちょっと障害わからないけど歩けてたんで、ポリオみたいな歩き方だったんですけどね。でも身辺自立はできてましたね。
立岩:ポリオの人も、まだその時期だったらぎりぎりいたかもしれないですね。でもよく覚えてらっしゃいますね。僕小学校1年の頃のこととかってほぼ何にも覚えてないよ。
石地:まんま、まんま覚えてるんですよ、あのときのこと。
立岩:じゃあちょっとは、短い期間に話(はなし)したりなんかした?
石地:話(はなし)しましたよ。まあ私ちっちゃかったので、そのお姉さんたちにけっこうかわいがってもらってて。
立岩:そうか、中じゃ一番ちっちゃいみたいな?
石地:一番ちっちゃかったです。で、たとえば夜中こう「お母さーん」って泣いてたりすると、隣のベッドのお姉さんが看護師を呼んでくれて、で看護師さんに抱っこされて、あの、そうそう、暗い部屋だと泣くので、ステーションに連れていかれて、そこでお菓子もらって泣きやませてもらったんです。そういうのとかありました。
立岩:ああそうか。でも同室の人たちも唖然ですよね。
あ、さっきからネコが出没してまして、どうもすみません。オンラインでなんかやると必ず出てくるっていうネコでして。
石地:(笑) 登場したいんですね?
立岩:登場したいみたいですね。邪魔なんですけど。すいません。
石地:いえいえ。
立岩:そうか。ある日、一番下の子がいなくなってびっくりだったでしょうね、同室の人たちも。
石地:そうだと思います。
立岩:で、いっぺんとにかくバス乗って、看護師が追いかけてきたけど逃げて。それでお母さんの実家のほうに行かれたってことか。そのあと正式の手続きみたいなものを親たちがやったっていう、そういう流れなんですかね?
石地:それはしに行ったんですかね? 聞いてないからわからないですけど。
立岩:ただ逃げてきただけとかっていう、まあわからないと、なるほど。それであっという間にその生活は終わり。それからどうなっていくんですか?
■
石地:それからまあ学校、受け入れ先がないので、ずっと家で遊んでいました。母親に読み書き教えられたり、折り紙したり、絵を描いたりっていうことをずっとしばらくして。その間の、それは何か月間で母親のほうの実家にいて、またあとすぐ父親のほうに行くんですけど、行ったら家庭教師をつけられました、うちで。で、国語と算数と図工を教えてもらっていて、たぶん週1か週2か先生が来てて。で、読み書きと計算はたぶんできるようになってたと思います。
立岩:何日か前に聞いた人は、やっぱり週に1回か2回とかだったけど、それはどこの町だったかな、市というかが派遣するみたいな人だったらしいんですけど。そうか、石地さんのところは家庭教師っていうか、じゃあ親たちがお金を出してたっていうそういうことですかね?
石地:親たちというか、うちの親しかいなかったので、うちが独自に探してきたんじゃないですかね。
立岩:どんな年齢というか、どういう人だったか覚えてらっしゃいますか?
石地:顔は覚えてるんですけど、年齢がわからないけど。あの、頭の禿げた人で(笑)。
立岩:じゃ、そんなに…、ほら都会だと家庭教師ってやっぱり大学生とかのアルバイトじゃないですか。じゃあ大人ってことですよね? たぶん。
石地:大人です、大人です。
立岩:大人の男性か。
石地:男性です。おじさんでした。
立岩:おじさんを、まあ言ったらお金払って来てもらったってことか。それがずっと続くんですか? そういう在宅、プラス家庭教師生活みたいな?
石地:いや半年ぐらいだと思います。その翌年に、その佐用の地域の小学校に特殊学級ができたんです。
立岩:ああ、それまでなかったものができたってことか。
石地:はい、はい。で、できて、そこが受け入れるってことになったので、そこに入りました。それは、母親が自転車に乗っけて送り迎えをして、で、そこに入った。だから1年遅れてもう一回、小学校1年生やったんですね。
立岩:1年遅れの1年生っていうことか。
石地:はい、はい。
立岩:そこの特殊学級って言っていいんですかね、それはどのぐらいのサイズっていうか、子どもの数がいました?
石地:えーと、縦割りなんでいろんな年齢層の子がいて、私を含めて5人ぐらいやったと思いますね。
立岩:1年生から6年生まで含めて、そのぐらいってことですね。
石地:そうですね。
立岩:ちなみに僕は田舎の出なんですが、小学校そのものはどのぐらいの規模の学校だったんですかね?
石地:1クラスしかなかったので、そんな、150とか180とかそんなもんだと思います。
立岩:1クラスで6学年でってところで、学年通して特殊学級が1個。そうすると、それからは6年間いたわけだね。
石地:これが父親の仕事の関係で転校するんです。
立岩:そうか、なるほど。
石地:そうなんです。仕事の関係というよりか、その間(かん)父親はサラリーマンをやってたんですけど、うちの母方のおばあちゃんたちから、「サラリーマンはやめたほうがいい」と。あの、「家におられへんからやめて、一緒に、母親と一緒に介護せなあかん」と。「自営業になったほうがいい」って感じですね。で、「学校の送り迎えも、まあ中学校まで行ったら12年間せなあかんし」、あ、12年間ちゃう9年か、「9年間しなあかんし、送り迎えはお父さんがやってっていうふうに、そういうふうにして介護していかな回っていかへんから、こっちの揖保郡のほうに出てきて、おばあちゃんが店を出したるからスーパーをやりなさい」ということになって。それであの、引っ越しするんです。
立岩:(笑) なかなか揖保郡のおじいちゃんおばあちゃん、すごいですね。
石地:すごい。で、お父さんは長男なんですけど、自分の母親とかを全部捨てて、で一緒に母方のほうの、まあ別の家なんですけど買ってくれたお店の中に部屋を作って、で、そこで暮らすことになって。で両親はスーパーを経営することになるんです。
立岩:へえ。いや、なかなかやりますね。ちょっとさっきから感心してるんですけど。それの引っ越しっていうか揖保郡に戻ってきたっていうか行ったのが、小学校でいったら何年生?
石地:えーとね、もう1年生の夏休みには来てました。
立岩:なんか行動早いですね。
石地:早いんです。夏休みに入る前にその佐用郡のほうの小学校でお別れ会をしてもらったので、夏にはこっちに越してきてましたね。
立岩:じゃあそこにはほんの半年しかいなくて、あとは揖保郡のお父さんお母さんが経営なさるスーパーがある家で、それでずっといくんですか?
石地:それでえっと、新宮町というところの小学校のまた特殊学級に通うんですけど、そこは6年生までいました。で、特殊学級行きながら、たまに親学級にも行く、行き来をする学校生活で。まあでも車いすの子どもは私だけでした。
立岩:そこはもといた学校よりは大きい学校だった?
石地:そうですね、600人ぐらいいたかな。
立岩:600人だと、1学年3クラスぐらいですかね。
石地:3クラスのところと2クラスのところと、
立岩:ああ、ところがあって、
石地:感じでしたね。
立岩:その特殊学級っていうのはどのぐらいいました? [00:45:05]
石地:えとね、6年間で一番多いときで10人いたと思います。
立岩:そこの中で車いすの人は一人というか、
石地:はい、私。でね、特殊学級2つあったんですよ。あの、知的障害を持つ人たちのクラスと、病弱学級っていう、たとえば喘息とかネフローゼとかそういう子どもたちがいる学級と2つあったんですね。それで私は病弱学級のほうにいました。
立岩:その小学校の生活はどうでした?
あ、なんか音が、今、マイクにスラッシュがついてて。ちょっと今、通信環境がよくなるか、ちょっとやってみますね。ちょっと今日、調子悪いかな。
石地:もしかするとうちのWi-Fiかもしれません。
立岩:わかりません。まあちょっと、今、動いているソフトを1つ消しました。あとこっちですることあるかな?
石地:立岩さんの画像が止まってます。
立岩:そうですね、ちょっとコマ送りにみたいになってますね。なんかちょっとこっちでやれることあるかな? [環境調整 00:47:21~00:48:13]
あ、また入っていただきました。うまくいくときもあるんですけど、今日は時々遅くなるっていうか、そんな感じがします。どうもすみません。ちょっとじゃあいっぺん試しに少しカメラを休んでみますかな。
石地:はい。
立岩:で特殊学級が2つあったと、そのあたりまでお聞きしたんですけど。その生活ってどうでした?
石地:えっとー、楽しかったです、そこは。友だちもたくさんいたし。親学級のほうにも友だちがいたし、自分のクラスの病弱学級にも友だちいたし、楽しく過ごしました。ただ一緒に登下校することができなかったので、父親に送り迎えしてもらってて。で、
立岩:その自宅と学校の間の距離ってどのくらいだったんですかね?
石地:あのね、自宅、正確には揖保郡じゃなくて、ちょっと林田町ってとこになってるんですけど、まあまあ近いんですけど。車でね、10分、15分ぐらいですかね。
立岩:じゃあ車か。で、ご両親のおじいさんおばあさん言うように、お父さんが送り迎えをした? 送りも迎えも?
石地:そうです。送り迎えもお父さんです。[00:50:02]
立岩:小学校はそうやって終わっていくわけですか? 中学校…、
石地:そうですね。ただまあ、あの、教室移動の問題があって、高学年になると親学級が2階3階になっていくんですよ。だから、3階建てか4階建てかだったと思うんですけど、それでまあ先生が抱っこして、で1階と2階に車いすが置いてあって、で2階に行ったらその車いすに座って親学級で授業受けるっていうかたちでやってたんですけど、先生が手が空いてないときがあって。授業終わっても迎えに来ないとか、そういうようなことがあって、まあ困ったりもしたし。あと運動会のときに、運動会は出ないんですけど、まあ高学年のときは放送部をやってて。まあある日、「出たほうがいい」ってことになって、で私が「出たくない」っていうので、それで学級会を開かれたり。そういうことをされるのはちょっと嫌でしたね。
立岩:「出ろよ」ってなって「出たくない」って言って、学級会あって、どうなったんですか?
石地:出なかったです。
立岩:出なかった(笑)。その放送部の仕事は、運動会に出るっていうのとは違うのか。
石地:いやいや、運動会のときに放送部をやるってことです。
立岩:そうでしょう? そういうんで参加した、ということでもなかったのか。
石地:なんかね、プラカードを持たせたかったみたいなんです。
立岩:ああ、車いす乗って、
石地:そうです、そうです。あのね、『友だち』っていう教科書ご存知ですか?
立岩:『友だち』って言う教科書? いや、
石地:あのね、道徳の授業の教科書なんですけど。たぶんうちの地域は被差別部落があるので、そういう授業があったんですけど。『友だち』っていう教科書があって、で、その中に『プラカード持ち』っていうタイトルの物語があるんですね。で、それが足の悪い子がプラカードを持って運動会に出たっていう内容のものなんですよ。それを親学級の先生が子どもたちに指導してるときにたぶん私のことが頭によぎって、「かおるさんがおるよね」っていう話になって。で、「プラカードを持って出てもらったらいいんじゃないか」みたいな話になったんだと思います。
立岩:じゃ、それは先生が言いだした的な流れだったんですかね?
石地:そうです、そうです。
立岩:でも、かおるさんはあくまで「嫌だ」って言いはってって感じ?
石地:そうです。それで放送部。放送部は5年生と6年生のときとやりました。
■書写養護学校中等部・高等部
立岩:ふーん、そういうこともあったと。それで中学校はどうなっていくんですか?
石地:中学校はね、あの、まあ地域の中学校にも特殊学級があったので、そこを希望すればそこに行くことはできたんですけど。私はそっちに行きたかったんですけど、当時校内暴力というのがすごい流行ってたというか(笑)、そういう時代なんです。あの、80、79年ぐらいかな。
立岩:ああ、そうだったかもね。
石地:そうなんです。その地域の中学校がとても荒れているときで、でまあ特殊学級といえども親は「そこに入れたくない」と言ったんですね。「怪我させられたら困るし、自分でよう防げんし、ここに入れたくない」ということになって。
で、あの、まあ担任の先生が学校をいろいろ考えてくれて、「書写養護学校だったら行けるんじゃないか」っていうことで、書写養護学校を、担任と私と母親と父親と4人で見学に行ったんです。6年生のいつぐらいかね? 3学期だと思いますけど。に行って、そしたら教頭先生と校長先生と出てきたんですけど、書写養護の。で、あるていどまあ、「どんなことが好きですか?」とか「趣味は何ですかとか?」とかそういうこと聞かれて、「教科は何が好きですか?」とか聞かれたんですけど、私とお母さんが「一回外へ出てください」って言われて出されたんですね。でその間、父親と担任が話を聞いてたんですけど、私はそのあと何の話をしてたかっていうことを父親に聞いたら、あの、「筋ジス系の病気なので受け入れたくない」と言っていると。
立岩:はあ。
石地:「筋ジスの子は三田に入所して行ける養護学校があるのに、なぜうちを選んだんだ」っていうふうに言われたって言って。で、でもそのいきさつを話すんですね。なんで施設に入れたくないかということを話したらしくって。たぶんそれで何日間か担任とかうちの親とも話し合いが続いてたと思うんです、詳しくは知らないですけど。それなら、それやったらば、一回一緒に三田の病院にその書写養護の先生もついて行って、一緒に行って診断をしてもらって、「大丈夫やと言われたら受け入れます」と。それでたぶん行ったと思います。[00:57:06]
立岩:またというか。で、どうなったんですか?
石地:それで、まあオッケーが出たんでしょうね。でも私は行くとき、すごく怖かったんですよ。「またあそこに入れられるんじゃないか」と(笑)。でも7歳、6歳かそのぐらいのときなんで、トラウマとして残ってて。このまま、まただまされて、あそこに置いてこられるんじゃないかっていうすごい不安で。で、あの、そもそも私はその地域の特殊学級のほうに行きたいということを希望していたのに。なぜかっていうと、自分の友だちは全部その学校に行くからなんですよ。
立岩:うんうん。荒れていようが何だろうが、まあしょうがないから行くわね。
石地:そうです。で、その友だちとこう離れ離れになるのは嫌だったので、嫌やったのに、それなのにまたこう三田に引き戻されるかもしれへんっていう不安がすごく大きくて、行くのが怖かったです。
立岩:うーん、そうだよね。そこはわりとちゃちゃっとっていうか、体だけ診てすぐ戻ってきたみたいな感じだったんですか?
石地:そうですね。それはもう何にも、ほぼ体も診なかったと思いますけど(笑)。もうその何年も経ってるんで、「脱走してる」っていうようなことが、そもそもカルテ残ってないですし。
立岩:そうか。「脱走したすごいやつ」みたいな、そういうことにはなってなかったわけね。
石地:なってなかったです、全然。
立岩:で、戻ってきて、書写養護学校に入るわけですか?
石地:はい、入りました。そこは高等部まで行きました。
立岩:それはご自宅から、ほんと距離感まったくわからないですけど、どのぐらいあるんですか?
石地:それも車で10分、15分です。
立岩:じゃあ近いですね。自宅からじゅうぶん通えて、ということか。
石地:ただスクールバスが来てる地域ではなかったので、父親がこれも6年間送り迎えをしてくれました。
立岩:そうか。脱走させた祖父母は先見の明というか、お父さんそれで何だかんだ言って、12年間運転手として役に立ったわけですよね?
石地:そうです、そうです。まあ何かあるときにずっと両親が家にいるっていうことは、母親一人だけの負担になることもないですし。その点ではすごくおばあちゃんがいい選択をしてくれてたんやなっていうふうに思いますね。[01:00:04]
立岩:じゃ中高まとめて聞きますけど、書写養護学校、6年間はどうでした?
石地:もうね、嫌でしかたなかったんです、これが。
立岩:あ、それは嫌だった?
石地:なんか学校行きたく…、あの、私のクラス、私を入れて9人でしたかね。でね、私見たことなかったんですよ、それまでいわゆる障害者っていう人を。
立岩:ああ、そうか(笑)。
石地:あの、特殊学級といいながらも、見た感じは普通の人たちがたくさんいたところなので。隣のクラスにまあ知的障害の人たちがいる、みたいな。でもその知的障害の人も、今思えば最重度じゃないです。あの、歩いてたし、話(はなし)してたし。
立岩:僕のところの小学校もまあそうでしたよ。それで? 小学校のときはそうだったけれども、中学校行って、
石地:そうです。初めて見たんですよ、あんなにいっぱい車いすに乗ってる人がいるとか、脳性麻痺でしゃべりにくそうな人たちがいるとか。私のクラスは特に最重度って言われてるクラスで、みんな重複の脳性麻痺の人ばっかりやったんですね。で入学式の日、初めて行ったとき、私はなんか、まあ制服がないので、母親がなんかブレザーとスカートとみたいなん用意してくれて、それを着て行ったら、私のクラスは全員カーペットの上に寝転がってるんですよ。
立岩:はいはいはいはい。
石地:で、みんなジャージ着て寝転がってて。で、それを見てそのとき私は衝撃を受けてしまって。知らなかったので。で、話ができるような人まあいないって、そのときそう思ってしまったんですよね、知らなかったので。まああとから思うと間違いやなと思いますけど。なので中学校の3年間は、もうほんとにもう死にたいと思うぐらい嫌でした。もう毎日、何とかして行かんでもええ方法はないかなあと思って。で、学校に行っても、もうほとんど先生と口を聞かないっていう、笑わないっていう感じで行ってました。
立岩:生徒とも口聞かない、先生とも口聞かないって感じ?
石地:そうです。
立岩:学校行って、ずっと黙ってるっていうことか?
石地:ずーっと黙ってました。そもそもそこに行くこと自体が私にとっては不本意なので。ずーっともうそういうことをやって反抗するしか、自分のその気持ちをどんなふうに表したらいいかわからなかったので、3年間ずーっとそうでした。
それでね、立岩さんもご存知の中尾悦子、
■中尾悦子
立岩:あ、はい、中尾さん、
石地:中尾悦子とそこで出会うんですけど、
立岩:あ、そうなんですか。
石地:そうなんです。
立岩:養護学校仲間なんですね。
石地:そうなんです。で、私が中1で入ったときに、彼女は中学2年生やったんですね。で、ほんとは、私は1年遅れてるので、ほんとは中尾とおんなじ年齢なんですけど。
立岩:歳はおんなじやけど、学年1個違うってか。
石地:そうです、そうです。それで「隣のクラスに石地さんみたいによくしゃべれる頭の賢い子おるよ」っていうふうに言われてたんですけど、で、いざ会ってみると、中尾はすごく楽しそうに養護学校になじんでたんですよ。で、それで「ここになじむような子と私は仲良くなれんわ」っていうふうに思っちゃったんです、
立岩:(笑) はい。
石地:そのときに。で、なんかこう養護学校特有のこう「頭がいい人がえらい」みたいな感じのとか、えっと、「歩けない人より歩ける人の方がえらい」とか、みたいなそういう空気感みたいなものがあって、こう中尾はこうたくさん子分を引き連れて、
立岩:(笑)
石地:いたんですよね。[01:05:03]
立岩:うん、なんとなくわかるような気がしますけどね。
石地:(笑) そうです。で、みんなからこう「えっちゃん、えっちゃん」って呼ばれて、すごく溶けこんでそこにいたんですよ。で、その中には入れへんなと思って。中学校の3年間はもうほんとに真っ暗けというか。
立岩:じゃ中尾さんを知ったけど、中学校のときは特に友だちになることもなかったってことですか?
石地:なかったです。
立岩:へえ。じゃあ、じーっと黙って。学校嫌やったけど、毎日行ったは行ったですか?
石地:親にもね、なんで行きたくないかってことをうまく言えなかったんですよ。どう説明していいかわからなくて。で、そのなんか、何て言ったらいいかなあ、せっかく毎日送り迎えするって言ってこう状況を整えた人たちに、学校行かんかったら悪いなっていう気持ちもあったですね。
立岩:そやね、親が連れて車に乗っけて、車に乗っかったら学校着いちゃいますもんね。
石地:そうです。そうなんですよ。
立岩:でも嫌やったと。
石地:嫌やったんです。まあでもそれ、先生はわかってたと思うんで。家庭訪問に来られたときに親に言われてしまうんですけど、もう「学校に来て一切口も聞かないんですけど」っていうふうに。でまあ、「なんでなん?」って聞かれて、なんでか言えなかったんですよ、うまく理由が。なんか言えなくて。で、そのままですね。それで、あのもう3学期はだいたい風邪ひいてるんで。風邪ひいたそのあともこう予後がね、あんまり良くないので、3学期はほぼ学校に行ってないんです。
立岩:3年間ともってこと?
石地:そうです。だいたい
立岩:冬はやっぱり良くないというか、大事を取ってってこともあったんですかね?
石地:そうですね。あの、「またぶり返したらあかんから」みたいな感じで、もう3年…、あの、「冬は家におろう」というかたちです。うん。
立岩:で、勉強は?
石地:勉強はね、最初、養護学校も能力別に分けてクラスをやるんですけど、最初上から2番目のクラスに連れていかれたんです。で、
立岩:それは学年で、かつ能力別にさらに分けるっていう、そういうこと?
石地:えーと、中学部で、中学部全体で能力別に分ける。
立岩:はいはい、そういうことね。
石地:はい。で、中学校の文字式とか英語とかやってるようなクラスがまあ1番目にあって、それをたぶん、何て呼んでたかな? A班とか、C班、B班ってあって、私は最初B班に連れて行かれたんですね。で、そしたらまああの、えーと、筆算の3桁の掛け算とか割り算、
[通信トラブル]
立岩:あ、また落ちたか。Skype(スカイプ)そんなにこれまで悪いってことなかったんだけどな。もう一つ何か止めてみようかな。ブラウザをもう1個落として、あとほかにすることはあるか? [01:09:36]
あ、また入られました。
石地:はい。切れちゃいました。
立岩:ありがとうございます。どうもすみません。わりとうまいこと行く日もっていうか、あんまりこれまで落ちることなかったんですけど、今日は調子悪くて、すみません。
石地:いえいえ。
立岩:で、上から2番目のクラスで、3桁の掛け算とか、
石地:はい。でB班で、まあ筆算とかがすぐできてしまって、何でも書けちゃったので、でA班にその日に連れていかれて。で、A班はもうみんな、やってる勉強はバラバラでした。あの、3年生の子は…、ああ、でもどうかな? でも勉強やっぱり遅れがちですよね、だいぶんに。訓練重視の学校なんで、うん。それでなんか私が一番衝撃的だったのは、あの、英語の時間に先生が「養護学校の子なんかが英語なんか勉強せんでええねん」って言ったんですよ(笑)。でもうすごい衝撃やって。
立岩:(笑) それえらいはっきりしてるね。へー。
石地:そうなんです。で、「ここの先生は勉強教えへんのや」って思って。あの教え、まあもちろん勉強教えられはしたんですけど、圧倒的に時間数が少ないんですよ、勉強する。1日3時間あるかな、ぐらいなんですけど。あとはだいたいホームルームやってるか、音楽やってるか、訓練やってるかなんです。
■訓練
立岩:その訓練なんですけど、その訓練って実際なさったんですか?
石地:えーとね、一応母親が学校のほうに、まあ「病気はこう訓練したからっていってよくなるもんじゃないし、して疲れさせて風邪ひかせるよりは、ほんまに穏やかなことしかせんといてください」っていうことを言っ…、「疲れるようなことはしないでほしい」というのを言ったので、私がやってた訓練って、なんかこう握力をつけるバネのなんか握るやつとかそういうのとか、砂袋をお腹にのせて呼吸をするのとか、あとはその拘縮している足首とか膝をちょっと軽くマッサージしてもらうとか、そういうようなことをやってました。うん。
立岩:あの、二手っていうか、まあいろいろなんですけど、「けっこう嫌やった」っていう人と、「わりと体ほぐす系で、それはそれで悪なかったよ」って人と聞くんですけど、石地さんとってはそういう体の時間というのはどうでした?
石地:まあ痛いことはされなかったので、かといってマッサージが気持ちいいかというと、そうでもなかったですけど。
立岩:そうか(笑)。
石地:あと、私的にはちょっともう反抗期に入ってきてるんで、「この無駄な時間どうしてくれるんや」っていうような感じで、
立岩:「ちぇっ」って感じですよね。
石地:そうですね。「それでどこかがよくなるわけじゃないし」っていうふうな感じでしたね。まあ、
立岩:で、学校はわりと授業は数も、時間数も少ないしっていう中で、たとえば独学っていうかそういうのに走る人もいるじゃないですか。学校まあ退屈は退屈ですよね、時間持て余すっていうか。
石地:退屈です。
立岩:で、それで何してたっていうか(笑)、
石地:私にとってはあの、危機感を感じて、こんなに勉…、えっと、「私はばかになってしまうんじゃないだろうか」と思ってるけど、だいたい歌うたってるんで。で、あの、あれいつぐらいか忘れましたけど、中1の半ばぐらいか終わりぐらいかに、「ちょっとこれはあかん」て思って、帰って親に「あの学校勉強せえへんから、家庭教師をつけてほしい」って。で、そしたら、その私が住んでる町内の中では一番有名な家庭教師なんですけど、
立岩:(笑) はい。
石地:家に来てくれて。ひと月5万か6万円ぐらいかかるという家庭教師でね、その人を頼んでくれて、週2回英語と数学と勉強をしていました。それは何年ぐらいかな? 高2ぐらいまでやったんですかね。
立岩:偏見なような気がするんですけど、でもなんか、「SMAの人って、なんか勉強できるよね」みたいな(笑)。偏見かなあ。
石地:でも私、勉強はね、勉強あんまり好きじゃないんですよ(笑)、私は。好きじゃないんですけど、でも「あまりにもこれはちょっと、あかんやろう」って思ったんですよね。うん。わかってもわからなくても中学校でやるようなことには、こう経験しとかなあかんっていうふうに思ったんです。
立岩:そうか、危機感感じて、中学校は嫌やったけど、終わり。でもおんなじ学校の高等部ですよね? 残り3年というか、高等部の3年はちょっとはよくなったんですか?
■仲尾・2
石地:残り3年はだいぶんよくなったんです。あの、がらっと、まあ担任も全部がらっと変わって。それであの、「この子とは仲良くなれんわ」って言ってた中尾と仲良くなるきっかけを与えられるんです。
立岩:ふーん、高等部に入ってからね?
石地:そうです。なので彼女が2年生で私が高1ですよね。
立岩:そうかそうか。学年は相変わらず1年違いで、ずっといくからね。
石地:そうです、そうです。それで、学校の中で生徒会の役員みたいなもの、高校生になるとそういうのがあるので、こう生徒会役員になるというと中尾と私しかいないんですよ、やる人が。で、その生徒会で一緒になっていろいろ話をしたときに、あの、「実は小学校のとき普通校に行ったんだ」っていうこととか、「普通校、こういうところは楽しかったけど、こういうとこはしんどかった」ということとか、そういうことを話すようになるんですね。で、「ここの学校に来てどう思った」とか。で、中尾も「最初の日はご飯食べられへんかったわ」っていう、中尾が言って。「ああ、私も実はそうやったんや」って言って、「3年間すごい苦しかった」っていうような話をして。まあ今思えばあれがね、そうピアっていう意味やったんやなと思うんですけど、こうおんなじ経験をしてきてて、そういうことを話してるうちに、すごくもう。それであの、まあ中尾は卒業していってしまうので、私はまたこう孤独にいかないといけないんですけど。でもそのときにはもうちょっと私の心も、こう何て言うか、ちょっとこう解放されてきていて、だから1年間そんなにさびしくはなく。高校3年間は、まあ、まあ楽しかったです。
立岩:うん。最初の2年間ね、中尾さんとそうやって話したり何やかんやして。最後の1年はいなかったけど、その2年分ちょっと元気になったんでっていう、そんな感じやね?
石地:そうですね。でその、いつもは3学期休むのに、高校1年生のときは3学期全部行ったんですよね。それはやっぱり、何て言うかな、学校に、中尾さんに会うのが楽しくて、高校行かなくちゃって思って行ってたんで、風邪をひくこともなく。あの、機嫌よく行ってましたね。
■生徒会
立岩:その生徒会って、何やってた記憶あります?
石地:何やってたんでしょうね?
立岩:僕も高校のとき、ちょっとそういうのやってた記憶があるんですけど、主に何したかっていうと、まあたいしたことはしてなくて、生徒会室みたいなのがあってそこでだべってたというか、
石地:私もそういう記憶ですね。
立岩:そういう記憶しかないに近いですけど。
石地:で、何かあの、何か行事ごとがあるときには挨拶しないといけないので、それを一緒に考えたりとか。でも私たちは生徒会室はなかったんで、図書室でだべってるんですけど。[01:20:21]
立岩:特になんかこう「対学校」みたいな感じでっていうよりは、まあ行事の挨拶をしたりとか、なんかそういう感じかな?
石地:ああ、でもね、1回だけボイコット事件を起こしたことがあるんです。中尾と私と、もう一人ですけど、3人で。で、どちらかというと私と中尾が結託をして、もう一人はそこにこう引き込まれた感じなんですけど。あの、普通校の学校の子と交流会をする授業ってのがあったんですけど、で私たち高校生やのに、相手中学生が来るんです。
立岩:え、来るのがどういう人だって? 中学生って言った?
石地:中学生。中学生で、私たちが高2とか高3とかでも、中学校1年生の子たちが来るんですよ。で、「まずそこがおかしいやんか」っていうことで。あと、なんか交流学習でクリスマス会をするっていうときに、その準備をするときに、その交流をする相手の普通学校の子たちが、「準備の段階から一緒にやりましょう」っていうことで何人か来たんですね、代表して、ちょっと賢そうな人たちが。それで一緒に作業をしたら、先生がその子たちに「ごめんな、よう来たってくれたな。ありがとう」って言うんです。
立岩:(笑) はいはい。
石地:それでそれが終わって、で、「また来たってな、またこの子らと遊んだってな」いうふうに言うんですよ。で、それが終わって、「あの子らにはコーヒー買うたろかなって思うけど、おまえらには買うたらんわ」って言われたんですよ。
立岩:(笑) はい、はい。
石地:それで私と中尾はもうブチギレて。そんでそのときはもう何も言わんかったんですけど、家帰ってから2人で電話をして、「なんかこれは作戦起こさなあかん」って言って。「あの先生たちをぎゃふんと言わせる、謝らせる何かをやろう」っていうことになったんですね。ほんでまだ作業が、クリスマス会の飾り付けとかを作らなあかん作業が残ってて、それをやってるときにこの仕事自体をボイコットして、先生と一切口聞かんとこっていうことを結託してね、やったんです。そしたら先生が、違う学年の先生までもが慌てふためいて、あの、大騒ぎになったんですよ。で、「おまえら、朝からなんで口ひと言も聞かへんねや」ってなって、「何怒っとるのか言え!」っていうふうに言われて。ほんで、「先生、それわかってへんのおかしいと思うわ!」っていうふうに私と中尾が言って、ほんで何に腹が立ってるんかっていうことをずーっとしゃべって、先生3人ぐらいを謝らせるっていうのをやったんです。
立岩:へー。それは石地さんが高1で、中尾さんが高2とか? それとも高2、高3ってこと?
石地:私が高2…、はい、高2だったと思います。
立岩:高3、高2。じゃあそのときのクリスマス会の準備が、普通校から来てる子たちプラス3人だったってこと? もっといたの? 養護学校サイドのクリスマス準備委員みたいな人は?
石地:主たるメンバーは3人だったと思います。3人か、4人やったかな? 4人かもしれない。
立岩:で、そのへんが結託して、あるいは従わせてというか(笑)、ボイコットしたら、で教師が、
石地:慌てて、
立岩:教師が最終的には謝った?
石地:教師が謝りました。
立岩:どういうふうにすまなかったって?
石地:あの、申し訳ない、
立岩:何がすまんかったと言うたんですか?
石地:それは具体的にはすごく、申し訳なかったって言いました。あの、「そういうふうに聞こえとった、で、そういうふうに傷つけていたっていうことは気がつかなかった」っていうふうに言いました。で、私が「ばかにしないでほしい」って言ったら、「今後一切ばかにはしません」っていうふうに言いました。
立岩:それでなんとかクリスマス会は実施されることになったわけですか?
石地:はい、実施しました。
立岩:なるほど。まあそういうんで、「言うこと言うたこともあったぜ」っていうことですね。
石地:そうですね。うん。あの、今思うと養護学校って、やっぱり差別的なところなんですよ。誰かこう外の人に会うと、「うちらの子かわいそうやから、かわいがったってな」みたいな雰囲気をかもしだすし。で、まあたとえば訓練のときとかやったら、「おまえらは何もできひんねんから、『ありがとう』言うて『ごめんなさい』って言うて生きなあかんねや」いうふうに教えられたりとか。そういう変なことを植えつける場所なんですね。で、もう「施設に行くか、親やきょうだいに面倒見てもらって暮らすか、どっちかしかないやろ」っていうふうに言われたり。将来、そういうことを一切聞いてくれないし。あと「何にもできひんのやから、何にもできひんのやから」っていうことを言われて、自分がほんとにこう価値のない人間やということを私は養護学校でだいぶ植えつけられてきたと思います。うん。
その他の重複の障害の子たちには、もっとひどい扱いをするじゃないですか。それ私いっぱい見たので。虐待ですよね、言ったら。叩いたり蹴ったりはしないですけど、放置するとかはもうざらにあったんですよ。
立岩:ああ。
石地:給食をちゃんと食べさせないとか、おかずもごはんも薬も全部混ぜて口に入れるとか、そういうのとかいっぱい見てきたので。あの、中尾との時間は楽しかったですけど、それと同時にそういう、なんか障害者差別みたいなものはそこで植えつけられたなっていう感じはありますね。うん。
立岩:そうですね。で、その「いいこともあったけど」の高等部で、でもまあやがて終わるじゃないですか? で、そのあとのことってその頃、高等部にいた頃、考えたりしてました? 卒業したあと、
続き↓
◇石地かおる i2020 インタビュー・2 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用