HOME

石地かおる氏インタビュー・2

20201218 聞き手:立岩真也 於:兵庫・石地さん宅 Skype for Business使用

Tweet


こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 149分

 ※記録を2つに分けました。
石地かおる i2020 インタビュー・1 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用
石地かおる i2020 インタビュー・2 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用(本頁)




その前の部分
石地かおる i2020 インタビュー・1 2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用

立岩:そうですね。で、その「いいこともあったけど」の高等部で、でもまあやがて終わるじゃないですか? で、そのあとのことってその頃、高等部にいた頃、考えたりしてました? 卒業したあと、

石地:あの、自分はね、あんま頭が賢くなかったので、というか勉強が好きじゃなかったので、大学に行くのは無理やなあと思ってたんですよ。でその、中尾さんは通信制の大学に行ったんですけど、あれってこう自分でこつこつ勉強しないとできないんで、自分には向いてないなっていうふうに思って、それもちょっと無理やなあと思って。で卒業して、何年かな? 3年、4年ぐらいは何もしてなかったんじゃないかな。なんかあの、でも私ゴダイゴのファンだったので、

立岩:はいはい、いかにも80年代ですね。

石地:そうです、そうです。なのでその頃によくコンサートに行ったり、父親と一緒に。

立岩:ゴダイゴのコンサートには行った?

石地:行ってました。そういうのはもうすごい喜んで連れて行ってくれたので。で、それでこう、養護学校では中尾さんしか友だちがいなかったですけど、ゴダイゴのファンではいっぱい友だちがいたんです。

立岩:それはファンクラブ仲間的なもの?

石地:そうです、そうです。今のようにメールとか、スマホとかはなかったので、だいたい手紙でやりとりするんですけど。

[通信トラブル]

立岩:ああ。あ、すみません、また落ちてしまいました。ごめんなさい。何やろな、今日? 今日は何が起こってんねやろ。もう終わらせるものないよな? あるかな?

石地:もしもし? [01:30:46]

立岩:はいはい、すいません。大丈夫です。ゴダイゴファンクラブ仲間と、まあ言うたら文通みたいな?

石地:そうですね。でももう今もつきあってる人いるんですけど。

立岩:そのとき以来?

石地:はい。ええ。なのでだいぶんそこでこう、こう人間との関わりみたいなものはそこから学んだんだろうなと思いますね。それ以外に、その中尾さんとゴダイゴ以外に、私は社会にこう出ていく接点がなかったので。

立岩:基本はうちにおって在宅というか。時々コンサートに行って、

石地:そうです。で、仲良くなった文通の相手が家に遊びに来たりもしてました。

立岩:そんなこともあったんや。19で養護学校を出て3、4年っていったら、22、3とかになりますよね?

石地:そうです。

立岩:で、その一人暮らしっていうのは31歳ってものの、本には書い…、

石地:30歳。30歳で一人暮らしをして。で、その間はこう、パソコンの勉強をしたりもしてました。ちょうどなんかパソコン通信とかいうのが流行ってたころで、

立岩:80年代の後半に差しかかってくるぐらいですよね。ちょうどそうですよね。まだインターネットとかじゃなくて、パソコン通信みたいな時代か、最初は。

石地:そうです。電話回線っていうやつです。

立岩:あのおっそいやつね。

石地:そうです、遅いやつです(笑)。

立岩:ヒュープルプルプルプルっていう音がするやつですよね。

石地:そうです(笑)。はい、はい。

立岩:今から考えるとめちゃくちゃ遅かったですね。

石地:おっそいですよ。そうです。

立岩:でもそれでメールやったりしてましたね、私も。86年、7年て、そういう時代ですよね。パソコン習って、パソコン買って。で、パソコンで何…、そうか、通信してたんか。

石地:通信もやったし、絵本を作ってたんです、中尾さんと一緒に。ただ作ってるだけで、まあちょっとそれテレビに出たりもして、ちょっと売れたりもしたんですけど。

立岩:そうなんですか。え、絵本って、パソコンのグラフィックってことですか?

石地:そうですね。そんなこともやって、

立岩:へー。グラフィックのソフトを使って、

石地:それ、絵を、あの、下絵を、中尾さん絵、得意なんですよ。中尾さんが下絵を描いて、物語は私が作って。で、下絵を描いたものをスキャナーで取り込んで、で、私が色付けをするという、パソコン上で。

立岩:スキャナーに取り込んだファイルに、パソコン上で色を付けるっていうか、そういうことか。

石地:そうですね。そういうことをやってる時期もちょっとあって。で、そのあと、まだ一太郎とかの時代ですよね、ワープロ。

立岩:はい、一太郎の時代ですね。僕もしばらく使ってました。

石地:ね。で、一太郎すごく得意だったので、あの「それ教えたらどうや」っていう話を高校のときの先生が言って。まあパソコン勧めたのも高校のときの先生なんですけど、私が卒業してからもまだこうやりとりがあったので。で、「一太郎教えたらどうや」っていうのがあって、で何人か生徒取って教えてました、一太郎。で、そののち「ワープロやったら何でも教えます」っていって、その生徒さんが持ってくるワープロを私がちょっと触ってみて、それでこう文章の作りかたを教えるとかやってました。[01:35:31]

立岩:そうね、一太郎って今でもありますけど、日本語書くツールとしてはまあようできたものではありますよね。

石地:そうですね。使えます、はい。

立岩:僕もしばらく使ってましたね。それはお金取って教えてたんですか?

石地:お金もらってました。

立岩:ご自宅で?

石地:はい。自宅、まあ自宅いうても店でしょう、うち。そこの店の一角に、なんかそういう私の作業スペースみたいなのを作ってもらってたんですよ。

立岩:なるほど。

石地:うん。で、そのころにはお金をもらって一太郎教えたり、あとはその高校のときのつながってる先生が組合、教職員組合にいたので、その組合のデータの入力とかそれも、

立岩:それを請け負うっていうか、

石地:請け負って、

立岩:依頼されてやったりとか。

石地:はい。

立岩:ちなみに石地さんは、キーボードの操作とかはそう苦にならないタイプなんですか?

石地:そのときは大丈夫だったんですけど、今はもうタッチパネルしかできないですね。

立岩:今はタッチパネルでやっている。

石地:はい。もうほとんどスマホでやってます。

立岩:スマホのそのプチプチというかあれは、それはいける?

石地:それはいけます。

立岩:力が入らへんっていうことですか?

石地:可動域が狭くなってしまって、こう手を…。指は力あるんですけど、それなりに。キーボードを打つ力はあるんですけど、届かないんです。

立岩:なるほど。そのときはキーボードをわりと普通に使ってはって、か。

石地:そうですね。それなりに速かったと思います。うん。それを26か27ぐらいまでやってたと思います。それであの、まあその絵本がちょっとテレビに出たことで、ちょっとそのデータ入力の仕事とか、グラフィック、まあ色をつけるような仕事とかちょっともらえるようになったので。あの、まあ福祉関係の人から仕事もらったり、なんかそういうようなことをやってました。

立岩:じゃあわりとマイペースっていうか、むちゃくちゃ忙しいわけでもなく、そんなに、

石地:そうですね。

立岩:そこそこいろいろ教えたりやとか、人に頼まれてやったりやとか、まあそんな仕事をぼつぼつやってて。

石地:そうです。まああのそんなにたいしたことはできないので、自分の体を壊さない程度ですね。



立岩:うんうん。それなりに安定したというか落ち着いた生活でもあるから、どうなんやろう? そのままでも良かったということはなかったんですか? そのあとの転機というか変化ってものはどうだったんですか?

石地:あの、うん、やっぱり住んでるところが田舎なので、外出ができないんですよ。で、だんだん両親も年老いてくるし、で、こう電動車いすでどこかに行けるっていうような距離ではないんですよね、田舎なんで。で、タクシーに乗って、まあ繁華街行くっていうたら姫路なんですけど、タクシー乗って姫路まで行くと往復1万円いるんですよ。

立岩:そうか。それは大変ですね。

石地:大変なんですよ。なので、月に1回ぐらいしか行かなかったかな。あとは中尾さんも卒業して私も卒業して、2人で5千円ずつ出し合って乗り合いで一緒に行ったり。

立岩:中尾さんも似たようなところに住んではったんですか?

石地:そうですね。彼女はたつの市ですね、確か。

立岩:ああ。「ああ」とかって言ってますけど、よくわかってないんですけど(笑)、とにかくそんなに遠くないところに住んでたっていうことですね?

石地:そうですね。はい、はい。

立岩:行き来わりとできるようなところで。でもまあ姫路に行くのは、往復すると1万円かかったと。

石地:1万円いるんです。

立岩:それはちょっと高いですね、確かに。

石地:もう高いんです。で、まだ年金を自分で管理させてもらってなかったんで。ひと月5万円ぐらいしか持ってなかったんです。

立岩:ああ、5万円の1万円は痛いですね。

石地:痛いんですよ(笑)。そうなんです。

立岩:それでだんだん、田舎から出ようか、みたいな?

石地:そうですね。「ここはなんとも暮らしにくいなあ」と思って。でその、「こうやってもし人生終わっていくんだとしたら、何のために生まれてきたんやろう?」って思ったし。まあうち従業員の人も何人かいたんですけど、その中で「障害をもつかわいそうなかおるちゃん」として、そういう役割でずーっとそこに閉じこもっていたというか、閉じ込められていたというか、そういうままでいて。20歳がきても25歳になっても、「ああ、もうすぐ30歳になるのに、私はいつになったらこう大人として扱われて、一人前の人間として見られるんやろうか」っていうことを、だいたい25、6ぐらいから考え始めるんですよね。
 そう言えば25ぐらいのときにほんとに病んでしまって、本当の、本当にうつ病になっちゃったんです。こう自分の、その行く先がわからないというか。どういう、何を糧に生きていくのかとか、まあ私を誰が一人前の人として、私を認める人はどこにいるんだろうかとか。この障害があるっていうことを、ずーっとマイナスに捉えている自分のその気持ちというものとどう折り合いをつけたらいいかっていうことがわからなくなってしまうんですね。うん。
 で、そういうことがあって、で、そうこうしていたときに、中尾もまあおんなじようなことを思っていて。「どうなるんだろう」っていうようなこと、まあ本当にそういうこと、2人でよく電話で話(はなし)したんですよ。で、26か27ぐらいのときに、中尾がメインストリーム協会の機関紙を「これを手に入れた」って言ってそれを送ってきてたんです、うちに。それがまあ自立生活センターを初めて知ったときなんですけど。あの、井内ちひろさんっていらっしゃるじゃないですか。

立岩:はいはい、最初の代表の方ですよね?

石地:そうです。で、ちひろさんがね、ちょうどバークレー、ダスキンでバークレー行ってて、で帰ってきて、で、バークレーでの様子っていうのをエッセイにして、

立岩:あ、連載してらっしゃいましたよね※。

※◇井内 ちひろ 19810320 「自立生活運動発祥の地バークレー」,『われら人間』056:15-16 ◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのT ピア・カウンセリング集中講座を通して思うこと」,『めいんすとりいむ通信』005:57-59 ◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのU」,『めいんすとりいむ通信』005:59-60 ◇井内 ちひろ 19901101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その1」,『めいんすとりいむ通信』006 ◇井内 ちひろ 19910101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その2」,『めいんすとりいむ通信』007 ◇井内 ちひろ 19910401 「CHIHIRO NOW バークレーだより その3」,『めいんすとりいむ通信』008
石地:そうです、そうです。あれを読んだんです。

立岩:ああ、はいはいはい。

[通信トラブル]

立岩:あ、また落ちました(笑)。ちょっとZoom(ズーム)にしてみようかなあ。何でやろな?
 あ、大丈夫です。

石地:はーい。

立岩:またつながりました。
 そうです、それ覚えてます、井内さんの連載エッセイ。はい、ありました。

石地:そうなんですよ。で、それをまあ読んで、私はすごい★***(01:44:42)っていう物語としてそれを読ん…、「ああ、こんな世界があるのかあ」と思って。で、あのすごく、今でもすごく心に残ってる一文があって。あの、彼女がアメリカで暮らしてるときに、アテンダントはアメリカ人が来るんだけれども、でも、「アメリカ人に私が指示を出して料理を作ってもらったら、私の味の肉じゃがができた」っていうふうに書いてあったんです。それがすごく印象に残っていて。で、今まで介助っていうのは、養護学校でも「何かしてもらったらありがとうって言いなさい」とか、「かわいくにこにこしてないと、あんたの介助は誰もしたくないんですよ」っていうことを教えられたりとかしてきたので。私の親もそうなんでね。「あ、ここ、この考え方で、私もこれでやっていけるのならば、他人に介助をやってもらうってことをやってもらって、もっと自分がやりたいこととか、もっとこう自分が考えていることとかを表現してもいいような、そういう生活をしたい」っていうふうに思ったんです、それを読んで。で、中尾さんといろいろ自立生活センターに関係するいろんなものを2人でお金出し合って取り寄せて、で交換して一緒に読んで、自立生活センターの考え方とかそういうものを学んでいったんですね。

立岩:ということはですよ、中尾さんがメインストリームのを持ってくるまでは、そういうのってまあだいたい80年代の半ばぐらいにはぼちぼちとはじまってるというか、もっとたどればもっと前からありますけど、そういうのがそれまではほぼ何も知らんかった、いう感じですか?

石地:知らなかったんです。なんと私は青い芝の存在も知らなかったですから。

立岩:そうか。まったくに近いほど情報入ってなかったというか、

石地:入ってなかったです。まあ自分からもアクセスしようとしてないですし、知らせられるっていうこともなかったですし。あの機関紙がなかったら知らなかったかもしれないんですよね。

立岩:へえ。中尾さんは、『めいんすとりいむ通信』だと思いますけど、それどっから持ってきたんやろうね?

石地:たぶんね、私も一緒に行ってたんですけど、あの、まあ卒業して何にもやることないので、ボランティアグループみたいなのですか、ひまわり号とかは行ってて。中尾さん、そこで機関紙を作ったりチラシを作ったりっていうようなことを、あの、やってたんですよ。

立岩:ひまわり号のね?

石地:私ひまわり号しか行ってなかったんですけど、中尾さんはマップを作る会とか、外出する会とか、そういうところにも属してたみたいで、たぶんその中から、障害者からもらってきたんやと思います。

立岩:そうなんや。そういうことってあるんですね。

石地:あるんですね。機関紙は出さないとだめですね。みんな今はインターネットの時代ですけど。

立岩:で、そうなってああなって。まあ90年代の初めですよね?

石地:そうです。

立岩:そうやって「姫路まで遠いし」っていうんで、「もうここを離れよう」ってなっていくわけですか? [01:48:58]

石地:あの、そのときに「姫路に自立生活センターを作ろう会」っていうのがあったんですよ。あの、妻賀(めが)さんとかご存知ですかね?

立岩:めが? めがっていう名前?

石地:はい、苗字。

立岩:どういう字書くんやろう、「めが」って?

石地:「妻」っていう字と、賀正の「賀」です。

立岩:字を書くと、「ああ、こんな人おった」って気がしてきますけど、僕たぶんその字をそう読めなかったような気がするな(笑)。いや、でもほとんど知らないに近いです。

石地:そうですか。で、その人が代表で。で、ずーっと山奥に「自立の家」っていう療護施設があるんですけど、そこからまあちょっとわりとこう賢い人たちが(笑)、まとまってこう当事者グループとしてあって。それがのちには自立生活センターにこう発展させるような活動をするようにな…、いうことを言ってたので、「よし、じゃあぜひそこに行きたい」って言って、でまたこれお父さんに送り迎えしてもらって、その例会に通ってたんですね。***(01:50:25)自立生活センターのことをもっと詳しく学ぼうと思って、いろいろそこで勉強会をしたり。あのJCILの、えー、あの人何でしたっけ? えーと、やべさん? やぶさん?

立岩:やぶさん、誰だろう? JCILは最初の代表が長橋さんっていう方ですけど。

石地:長橋さんじゃなくて、えーと今、酸素吸入している人、何でしたっけ?

立岩:ああ、骨形成不全の、

石地:そうです、そうです。

立岩:あ、矢吹〔文敏〕さん、山形出身の。はいはい。彼も行ったんですか? 来た? 行った?

石地:来てくれたんです。来てくださった。はい。来てくれて、「自立生活センターとは」っていう講演をやってくれて。「自立生活とは」みたいなことの、いっぱい教えてもらったんですよ。私はさらにこう心惹かれて、もう「この生活を早くなんとかしてやりたい」っていうふうに思って。で、こういろんなものを読んでいると、どうも東京の自立生活センターが先進的な感じで、介助料も24時間出ていると聞いて。もう安易な考えです、「東京へ行こう」と思ってたんですね。で、そのときに、じゃあとりあえず自立生活プログラムを受けようと思ってその、中尾と一緒に町田へ行ったんです。

立岩:ああ、そうか。樋口さんとか。

石地:堤〔愛子〕相手してくださって、でプログラムを受けたんですね。で、そこでピアカウンセリングっていうのを知って、でも私たちは「ピアカウンセリング、いらないです」って言ってたんですよ。「もうあの、よく、よくわかってますから」って言ってたら、「いや、もうこれ絶対に出たほうがいい」って勧められて。ちょっとそこで、ちょっとさわりだけみたいなのをやってくれてね。ほんでまあ「自分が本で読んでたものとはちょっと違う」と思って、もう「正式に受けなあかん」て思って、今度は国立へ行ったんです。そしたらまああのへんの、あの安積遊歩とか、えーと、境屋、

立岩:ああ、〔境屋〕純子とかね、

石地:はい、むらやまみよさんとかがいて、まあその人たちに出会って。で、第1回目の自立生活プログラムは町田で、2回目が国立の自立生活プログラムを受けて。

立岩:町田では堤さんと、あと何人か会ったりしたんですか?

石地:関根さんですね。関根さんはご主人も、どちらも。

立岩:関根夫婦か。

石地:はい。で、それから近藤さん、あの樋口さんの連れ合いですもんね、とお話ししました。

立岩:それで国立、ああ、なるほど。ほんまにその頃や。

石地:でまあそうやっているうちに、あ、それで一回あの、体験室いうのも泊まりましたね。

立岩:それはどっちの?

石地:町田の。そのときに初めて他人介助っていうのを向こうで手配してもらって、で自分がほんとに指示したら、指示したらお風呂に入れちゃったんですよ。「わー、すごいやん」って思って。ほんで、「これ私、もしかしたらほんとに暮らせるんじゃないかな」って思ったんですよね。

立岩:じゃそれまでは、兵庫のご自宅にいたときに、まあ親はいると。そのヘルパー的な人っていうのは入ってはいたんですか?

石地:入ってないです。[01:55:05]

立岩:まったく入ってなしで。

石地:最後のあたりでちょっと、家を出てくるちょっと前ぐらいから。じゃないとお風呂に入れなくなってきたので、入れはじめるんですけど。その時点ではまだ入ってなかったです。

立岩:じゃあそれまでは、なんか他人にしてもらうっていうときは親ですか?

石地:そうです。全部親です。

立岩:それでもなんとかなってたん?

石地:いやー、もうでもよく両親けんかしてましたね。「どっちが介助するか」とか、「もう腰が痛いからできひんわ」とか、「お父さんとお母さんちょっと外出してくるけど、あんた連れていくん大変やから、家におってな」とか、言うようになってきてましたよ、もうそのあたり。それで、あれ集中講座やったかな、長期講座かな、ピアカウンセリングの講座を受けてるときに、「Beすけっと(びすけっと)」の事務局長も来てたんですよ。

立岩:Beすけっとの事務局長ね、って誰?

石地:井奥さんが来てて。でその、まだBeすけっとがきちんと立ち上がっていないというか、震災の直後で、

立岩:そうか、震災の直後ですね。

石地:直後なんですよ。で、自立生活センターとしてうまく機能してなかったんですよね。で、もちろん重度訪問介護、まだないときで。神戸市は介護チケットしかなかったんです。全身性〔介護人派遣事業〕ないときで、お金もぜんぜんなくてっていう状況やったんですけど、「やっぱ自立生活センターを建て直さなあかんと思ってるんや」っていうことを井奥が、私と中尾にして。で、「一緒にピアカウンセリングを神戸でやってくれへんか」っていうふうに言われたんです、その講座中に。でも私と中尾はもう春になったら東京へ行こうと思ってたので、「春までしか手伝われへんけど、それでもよかったら行くけど」っていうふうに言ったんですよ。たら「それでもいいから来てほしい」と言われたので。

立岩:それは震災の年ですか?

石地:いや、2年後かな。うん。

立岩:97年とか?

石地:ぐらいですね。って言われて、でもまあ「来年の春には東京に行くから、そこまでしか行けないけど」って言ったら、「それでもいい」って言われたんですね。

立岩:それは東京に行くっていうのは、住むっていうことではなくて講座に行くってこと?

石地:いえいえ、もうほんとに住もうと思ってた(笑)。

立岩:(笑) そうなんですか。

石地:今思えばほんとに未熟ですけど、イメージ全然できてなくて。中尾さんと2人で暮らしたら、あの、生保も取らなくて、なんとかこう年金と手当てを出し合ってやっていけるであろう試算だったんですよね。

立岩:なるほど。ほんまに東京に住むつもりやったんや。

石地:住むつもりやったんです。

立岩:でも「ちょっとやってくれ」ってBeすけっとの人に言われて、ほんで、やった?

■神戸

石地:それで「じゃあ春までね」っていう約束で、2週間に1回か、月に1回かぐらいで一緒に会議やろうってことになって。「でも実は姫路駅まで行くのに1万円いるねん」っていうことを言ったら、「それも出す」って言うんですよ。で、「交通費は全額支給にするから、一緒にやろう」ってなって。で、「交通費出してくれるんやったら、じゃあ行きましょか?」っていうことになっていったんです。そして行っている間に澤田さんに出会い、こっちの神戸の障害者、のはしに出会い、いろんな人に出会って、神戸すごく楽しいなって思ってきたんですね。それで私があの、ある人とあの、恋に落ちてしまったんです。

立岩:あらま。

石地:そうなんです。ほんで私はもう早く神戸に行ってしまいたいなあと思って、まあ中尾さんが家庭教師をやってたんで、「春までは家を出られない」っていうふうに言ったんですけど、私はそれを待てなくて、恋人がいるから。それで私だけ一足先に、えっと、Beすけっとの体験室に転がり込んだんです。[02:00:30]

立岩:ああ、そういうことだったんですか。

石地:そうです。

立岩:それはちっとも(笑)。そりゃそうですよね、プロフィールには書かないですよね。

石地:書かないですね(笑)。

立岩:そうか、じゃ中尾さんより先に、

石地:実は大っぴらにはね、それは言ってはないんですけど。

立岩:先に出てきたんや。で、だから姫路ではなくて、そういう因縁というか、縁で神戸に来たわけだ。

石地:そうなんです。だから井奥くんと出会ってなかったら、それはなかったと思うんですよね。

立岩:それ以来ずっと神戸でいいんですか?

石地:はい、神戸です。えっとー、今23年目に入ってますね。

立岩:23年目、そうか、98年ぐらいかな?

石地:に、やって来ましたね。

立岩:98年でいいんですか? 神戸に移住したのは。

石地:はい、そう…、そうだったと思いますけど、99年かな。

立岩:でも震災が5年、2年後だと7年。その翌年だとすると8年ですよね。

石地:あ、でも9年かもしれない。

立岩:9年かもしれない。でもそれ以来ずっと神戸で。それで中尾さんはそのあと出てきたいう感じですか?

石地:そのあと、3月に来ましたよ。

立岩:じゃあわりと、あいだをあけずに?

石地:そうですね。それはまあ私が恋に落ちて神戸に来たので、「あなたに付き合ってあげて神戸に来てあげた」って言うてますけどね(笑)。

立岩:それって、「中尾さんが3月」言うた?

石地:3月に来ました。なので中尾が99年、あ、違う、2000年ですかね。

立岩:中尾さんが2000年の3月かな?

石地:うん。で、私は99年ですね、じゃあ。

立岩:99年の何月やったんですか?

石地:私が来たのは11月です。

立岩:じゃあ、あいだあんまりあいてないですね。

石地:そんなにあいてないです。

立岩:そうか。それ以来2人は神戸に住み、か。

石地:それでね、Beすけっとに3年ぐらいはいたんです、2人とも。

立岩:当初はBeすけっとに所属というか、で活動か。

■リングリング

石地:そうです。で、あの2003年を迎えるわけですね、制度が変わるときを。で、その支援費制度に変わるときに、まあリングリングを立ち上げようということになって。Beすけっとをやめて、リングリング立ち上げたんです。

立岩:そのリングリングを独立っていうのは、どういう企みというか思いというか?

石地:あの、その2003年を迎えるにあたって、介助者がみんな、今までボランティアも何もこうごちゃ混ぜに来ていたっていう状態から整理していかないといけなくなったんですよ。この人は資格を持っていない人、この人は今後資格を取ってもらわないといけない人、給与をいくらもらわないといけない人、みたいなふうに、まあこう考え直していかないといけない時期に入っていて。それまでもう何もないじゃないですか。わーっとボランティアが来て、時間数も何も関係なく、あるお金を分配するみたいな。そういうごちゃ混ぜの感じでやっていたのを、きちっと事業所にしていかないといけなくなる、なったんですね。で、Beすけっとといろいろそういう展望を、話し合いをしているときに、まあこうみんなの考えが一つに定まらなくて。その、私たちは事業所としてかちっとやることにまだちょっと抵抗があったんですね、当時は。

立岩:ああ、むしろそうか、石地さんたちのほうがあったんだ、抵抗感。[02:05:00]

石地:そう。全員資格を取らせるみたいな感じとか。今は人間関係でこうつながってる人たちを全部そういうふうに教育し直すみたいな、そういうのがちょっとなんかあんまり、こう受け入れられなくて。どんどん金儲け主義に走っているような、そういう感じもあって。「ちょっと合わないなあ」って言って、まず私がBeすけっとをやめるんです。

立岩:ああ、そうですか。

石地:そうなんです。で、そのあとすぐに中尾もやめて。やめたら、「これは2人でなんか団体を作るしかないな」ってことになって作ったんですけど。自立生活センターを作ったらあまりにもBeすけっとに失礼なので、【土地が】(02:05:53)ねえ、近いところに。申し訳ないから、ピアカウンセリングだけをやろうっていう、そういうセンターを作るって言って作ったんですけど。まあでもそれは流れ、

[通信トラブル]

立岩:また落ちました。[空白 02:06:14〜02:06:43]

石地:もしもし?

立岩:はい、オッケーです。あ、大丈夫です。

石地:はーい。

立岩:一瞬、席を外してました。すいません。
 ピアカウンセリングだけやろうって思ってた、あたりからですよね?

石地:そうですね。そうです。でもまあそんな業種は成り立たないんですよ。

立岩:そうですよね。

石地:お金入ってきませんから(笑)。

立岩:そうですよね(笑)。

石地:それで、まあ正式に自立生活センターにしようっていうことで。でその前に、2003年に変わる、あ、2003年になってた…、いや違う、前ですね、2002年の9月ぐらいから、2003年になることを見越して、介助ほんとに24時間お金が出るようにしようっていうことで。チケット4時間と、ヘルパー時間数が3時間、5時間ぐらいしかなかったので、それではやっていけないので、で交渉始めたんです。あの、大野さんのところに指示を仰ぎながら、支援を受けながら。で、半年ぐらい交渉して、初めて神戸市で24時間出たんですね。で、「これでじゃあ事業所やっていけるやろう」ということで、それで正式に自立生活センターになりました。

立岩:そうか。じゃあ神戸市と交渉して、制度が出るという見込みがついてから始めた?

石地:そうです。まあついてからっていうか、もう絶対出るって、もう決めた通りでもう絶対出るんだと、絶対出させるぞという勢いでやっていってたので。もうあの、この前の年の夏ぐらいから準備を始めてましたけどね。だから職員、どの人にするって決めて。

立岩:前の年いうのは、2003年の4月から支援費始まりますよね。その前、2002年ってことですかね?

石地:そうです。2002年の夏に、もう、えーと、2人雇っていたかな? そんときに生保の他人介護がお互いに15万ずつあったんで、月給15万で2人雇ってました。

立岩:ああ、2人の他人介護料を出し合って、それで2人雇った? [02:10:05]

石地:2人雇ってたんです。「もう1人15万しか、月、払われへんけど、週5日入ってほしい」っていうふうに言って。よくあんなんでやれてたと思うんですけど。

立岩:そんときはやってた。で、2003年ということになってくるわけか。

石地:はい。そうしたときに、そうですね、で2002年の3月の末ぐらいに24時間成立したんですよ、交渉の結果。で、もうそれで2か月後にお金入ってくるので、そのときに合わせてもうちょっと職員を増やそうということで、ってやってますね。

立岩:ああ、そういう流れか。わかりました。それから少なくとも18年とか経つわけで、その話は長いですけど(笑)。まあ今日はどっちかいうたら半生の半分というか、「私の半生の半分ぐらい」っていうので、立ち上げあたりの話までうかがえればありがたいなということで。もう2時間は経ちましたので、次の話はまたにとは思うんですが。
 あの、これちょっと僕の思い込みかもしれないんだけど、いくつかの自立生活センターっていうのが、なんか結果なのかなんかわからないけど、わりとこう神筋系っていうかの人が多いところがあって。で、わりと女性が多かったりとか。何なんだろうって、前からちょっと思ってて。そうでもないですか? たとえば京都だと「アークスペクトラム」って、ちょっとそんな感じなのかな。

石地:ああ、そうですね。

立岩:それって何なんだ? まずそういう傾向っていうか、そういうこともあるんですか? で、リングリングもちょっとそんな感じ? そんなでもない?

石地:、いや、あの、そうですよ。ここに寺田さち子がおりますので、ここはSMA、3人いますから、集まってますけどね。まあやっぱしこう、友を呼ぶんでかね? それとね、できる、能力はあるけど体が動かない、めちゃくちゃ重度やけどやることをいろいろ考えたり、工夫したりっていう勉強したりっていうことは一生懸命やれるじゃないですか。でも体がもたないので、できないことが多いんだけれども、自分たちのペースでやれるんやったらやるんですよ。でも誰かに雇われるのはすごく難しいんですよ。給料もらって一般就労するとかは、やっぱりそれ重度すぎて。まあ中にはおりますけどね。それはちょっと過酷すぎて、できないんですよ。で、そういう人たちが自立生活センターにこう流れてきたんじゃないかなあと、私は思ってるんですけどね。

立岩:わりとそういう似たような境遇というか状態にある人が、互いの立場とか状態をわかりあえるから、集まって作ったらできましたっていうとこもあるのかなあ?

石地:なので、ちょっと前はやっぱり脳性麻痺の人がJIL(ジル)の中には多かったけれども、今は神筋系と頸損の重い人、ここはそういう感じなんです。うん。



立岩:うん、リングリング、そうですよね。これはたぶんあらためて、また2時間とか取ってもらって、もう1人なり2人なりにお話するのがいいと思ってるんですけど。その神筋ネットってどういう…、その主張の中身自体はまあ伝え聞くので、まあそれはそれでわかるんですけど。そのネットの成り立ちっていうのは、どういういきさつやったんか? っていうのだけうかがえれば、今日はお腹いっぱいかなと思ってるんですけど、それはなんかどう…、

石地:あの、今、神筋系の人で自立生活センターをやってる人が多いって、ほんとにその通りで。あの、2000何年かぐらいに、埼玉の二人ご存知ですね? あの、見形さんと上野さんといるんですけど、

立岩:はい。見形さんには3日前にインタビューさせてもらいました※。[02:15:22]

見形 信子 i2020a インタビュー 2020/12/13 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用
 見形 信子 i2020b インタビュー 2020/12/13 聞き手:立岩 真也 Skype for Business使用

石地:ああ、そうですか(笑)。そのときに、いよいよ私がピアカウンセラーとしてひとり立ちをする講座をあちこち全国回ってやるぞ、っていうときだったんですよ。で最後にもう一回、安積遊歩たちの講座を見て、もう一回勉強しようと思ってそれを受けに行って、そのときに上野さんと出会ったんですね。で、やっぱりおんなじ障害なので意気投合して、ほんでもうすごく仲良くなって、「くれぱす」とはもうほんとにきょうだいみたいに、リングリング仲良くしてきたんですけど。でその中で、まず「ピアピア」っていうグループを作ったんです。ピアの中のさらにピアな人たちっていう、私と中尾と見形さんと上野さんと、最初たぶん4人だったと思います。で、それでいろんなとこ旅行したり、あの、介助者ようさん引き連れて。旅行したり、集まって話(はなし)したりみたいなことを、2年かそこらやったのかな?
 そのときに慶應大学で、デュシェンヌ型の着床前診断をやったっていうのがニュースで入ってきて、「これは私ら動かなあかんのちゃう?」ってことになって。自分らのその生きてきた証みたいなものを消されてしまうし。あの、これはやっぱり当事者として、その消される筋疾患系の当事者として、やっぱりノーっていうことをこう表に出さなあかんということになったんですよ。じゃあそれと同じような考えを持つ人を全国から集めようっていうことになって。で、みんなで手分けして、その神筋系の人たちがいそうな自立生活センターに一斉にメールを送ったんです、自分たちの思いを書いて。で、「こういうことになったら、もうSMAの人も筋ジスの人も生まれてこられなくなってしまうんだ」と。で、「それはその、自分たちが生きてきた証みたいなものを抹消されてしまうっていうことと一緒だから、一緒に反対の声をあげましょう」っていう、そういうことを呼びかけて集まってきた。または自分たちが入ってほしいと思ってる人たちに直接声をかけて実行委員会を結成した、それが始まりです。

立岩:そのピアピアはいつできたってのは覚えてますか? 何年だったってのは、

石地:何年でしょうねえ。リングリングできてたんで、2004年とか2005年ですかね。

立岩:そのぐらいか。女4人で旅行とかしてた期間と、着床前診断で何か言わなあかんっていう、その間の時間ってどのぐらいあった記憶があります?

石地:いやあ、ちょっとこれ、私記憶が、あんまり定かじゃないんで調べないとわからないです。

立岩:たぶんそれ、そのうちわかると思いますわ。

石地:ああ、そうですか?

立岩:誰かが調べて、僕じゃなくて誰かが調べ回ったらわかることやと思うんですけど。じゃあわりと最初ちっちゃい、埼玉と神戸の女4人のつながりからそっちにいったっていうことか。

石地:そうです。あの、ほんとに旅行してたんですよ。伊豆へ行ったり、九州行ったり。で、夜中までしゃべって、みたいなことをやってるグループやったんです。

立岩:埼玉、神戸、女性のリーダー多いのは、ピアカンもやっぱり女性多いですよね、何だかんだ言うて。

石地:そうですね、女性多いですね。

立岩:そういうことってあるんだろうなって思います、思ってきたんですけどね。

石地:またこう女性だから、よりピアな感じになるっていうのもあるんだとは思いますね。[02:20:16]

立岩:あると思いますよ。「男ってさ」っていうのも乱暴ですけど、あんまりしゃべるの得意ではないっていうかさ(笑)、ちょっとそういうとこあるから、関係あるんだろうなと思ってます。

石地:もうあの、この4人が集まったら、ほんとに朝までしゃべるんですよ。

立岩:めっちゃしゃべりそうですね。

石地:そうなんですよ(笑)。

立岩:そうやと思うわ。男ついてけへん、ていうか。

石地:いや、そうかもしれない。すごい楽しかったです。

立岩:でもそれだって、もうそういうことが始まってもう15年も経ってるわけやから、もうある種の歴史ですよね。

石地:そうなんですよ。で、まだ今も細々やってるのでね。

立岩:まあね、世の中でいろいろ起こってしまうので、その都度何か言わなあかんっていうことやと思いますけど。

石地:どうしても東京に行くことが多いんで、見形さんばっかりにそれをやらせてしまうことになっちゃうんで申し訳ないですけど。

立岩:そうですね。それはそれでほんまに、そういうことに関心を持ってる人も、数はないけどぽつぽつはいるから、それはいっぺん、この15年ないし20年とかのことは調べてもらったらいいと思いますね。

石地:そうですね。どっかに記録はあるような気がするんですけどね。ちょっとわからないです。

立岩:じゃあ今は、リングリングとはどういう関わり方ぐらいの感じなんですか?

石地:えっと私、去年体調すごく壊したんですよ。インフルエンザになって、そこから肺炎になってすごく体調が悪かって、で、もう事務局長を続けられるこう体力がなかったので、事務局長を寺田に渡して。で、介助のことに関係する会議だけ出てるんです。だから籍は残ってるんですけどね。

立岩:なるほど。そんな感じでってことですね。

石地:そうです。

■COVID-19

立岩:僕はこのぐらいまで聞ければ充分に充分で。ほんとに残り15年分ぐらいは、ほんまに誰か、これは関係者、石地さんだけじゃなくて何人かにつなげて聞いてもいいことだと思うんですけど。まあそんな機会はたぶんあるだろうから、それはそっちに残しますけど。ありがとうございます。で、そのインフルエンザは大変やったと思いますけど、お金の出どころっていうのもあって(笑)、最後ほんまちょろっとでいいんですけど。

石地:もう、じゃあと10分ぐらいでいいですか?

立岩:あ、もう全然、2分でも3分でも。コロナ的な状況って、身の回り的にどうですか?

石地:コロナは、今のところ介助の人は全員、まあマスクした状態で来てくれてるんですけど。まあ消毒を完全にやるっていうこととかで、なんとか今までは過ごせてきたんですけど。まだ陽性者も濃厚接触者も出てないですけど。

立岩:周りにはね。そうですか。

石地:はい。介助者一人ひとりに1か月ぐらいかけて聞き取りをやったんですよ。そしたら、まあ濃厚接触者に私がなった場合は、介助に入れないって言ってる人がほとんどで。まあそのときはもうコーディネーター3人と、あとまあパートナーとで介助を回すしかないな、という状況に今なってますね。そこをどう…、

立岩:具体的には、実際には起こってないけど、起こったらけっこうきついやろうなっていう感じですね。

石地:そうです。今あの、起こるかもしれないっていうことを見越してミーティングをやってるんですけど。いろいろフォーメーションして、専門家の意見を入れたりとかしてやってはいるんですが。で一応、道具とかも、防護服とかも揃えてあるんですけど、「さあどうしましょう」って感じですね。実際働ける人がいないので。

立岩:わかりました。まあ今、在宅は在宅でね、ですし、今メーリングリストでやり取りしているように、国立療養所、石地さんはほぼ2週間しかいなかった(笑)、そこでも面会のこととかいろいろあって、これからだと思いますけど。

石地:そうですね。ほんとそうです。

立岩:メインストリームがわりと筋ジスの男性っていうか、ちょっとそういう感じで男臭い感じで、国療の人たちとのつながりもあってきたんですけど。そのリングリングは、これからそこらへんとはどうかなりそうか、そういう話が今、出てるのかどうか、

石地:あの、細々と、細々と国療に潜り込んでるんですよ。あの、出前ピアカンもやりに行ったことありますし。

立岩:そうなんですか。

石地:そうなんです。あの、国療から出たいって言われて、国療にILPやりに行ってたこともあるんです。ただ出られなかったんですけどね。

立岩:そのときは受け入れ自体は、そんな嫌な顔されんと、そこでできたって感じですか?

石地:入るのは入れました。はい。出前ピアカンやったときは、私は三田市の主催するピアカウンセリング講座をやりに行ったことがあって、そのときに関係性を三田市の職員と作ってたんで、「実は私、国療に入りたいんやけど」っていうふうに言ったら、「ああ、じゃあ僕がパイプになりますよ」って言ってくれて、ほんで入れた。

立岩:そういうつてっていうか、つなぎ役みたいなのがおったわけやね、そのときにね。

石地:はい、はい。

立岩:まあこれからどうなるんかなと思いますけど。でもこの間(かん)けっこう数がね、多くの人が関わってくれてて、うまいこといったらいいなって思ってますけど。そういうことも含めて今後とも、私が今後ともとかいうそういう立場には私はいないんですけど、私は後ろのほうにいるだけなんで、まあよろしくお願いしたいと思います。
 今日はほんとになんかこっち、Skype for Business(スカイプ・フォー・ビジネス)、わりと大丈夫だったんですけど。はい。あ、もう終わりですね、そろそろね。すいません、今日はありがとうございました。長い時間付き合わさせてしまいまして。でも全然知らないこととか、たくさん聞くことできてありがとうございました。というのは聞こえましたか? 石地さん。今マイクはミュートになってるみたいですけど、

石地:ああ、ごめんなさい、はい、聞こえてます。

立岩:ほんとに時間オーバーしてしまいまして、どうも長い時間ありがとうございました。

石地:はーい、ありがとうございました。

立岩:最後ちょっとだけ顔出して。もう夕方になって、なんか黄色くなってますけど。はい、そんなんで、またデータとか見ていただいたり、そのときはまたお世話になりますけど。どうもありがとうございました。これで失礼いたします。どうもありがとうございます。

石地:ありがとうございます。失礼します。


UP:20210205 REV:
こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇石地かおる  ◇脊髄性筋萎縮症(SMA)  ◇筋ジストロフィー  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)