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原因論1・星加良司『障害とは何か』の1の08

「身体の現代」計画補足・450

立岩 真也 2017/12/
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星加良司『障害とは何か――ディス2017/12/11アビリティの社会理論に向けて』表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   『現代思想』2017年12月号 特集:人新世――地質年代が示す人類と地球の未来・表紙   榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』表紙

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 「星加良司『障害とは何か』の1」を分載中(連載・第140回)。が、全部を紹介することはない。
 『現代思想』2017年12月号の特集は「人新世――地質年代が示す人類と地球の未来」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#12
買ってください。ただ、立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。またお知らせします。以下、分載の第8回。

 「■原因論
 もう一つ批判される「原因論」について。星加はこれを二箇所で紹介し問題にしている。二度、二つに分けて議論がなされる必要があったかどうかはわからない。
 まず今どきの理論を紹介するUであげられる。(1)「原因帰属」、(2)「解消可能性による解釈」★06、(3)「帰責性による解釈」と並べる中の(1)である。ここではオリヴァーらの障害学の議論がディスアビリティに関わる原因論において社会を主張したことが――(2)(3)は紹介された上で批判されるのだが――まずは紹介だけされる。
 もう一つは、さきにXの(1)(2)とした(1)。従来の理論が「障害者の経験する不利益を特有なものとして同定する」ことができないことを示した上で、不利益を特定しようという流れの議論のうちにあって、(1)「社会原因論の錯誤」を言った上で、(2)「インペアメント」をもってくる議論もうまくいかないという筋のなかにある。(2)は前節で検討した。以下こちらの(1)を見る。
 車椅子使用者に適したようにできている村で使用者は便利だが健常者は不便だという、社会モデルの意義を説明する「障害者の村」の寓話(Finkelstein[1981])が紹介される。「ディスアビリティの原因は個人の側にはない」、「現行のディスアビリティを生み出しているのはとりもなおさず現行の社会であるというのである」。「しかし、これと同型の論理は、「個人モデル」を支持する立場からも主張しうるのではないか。現行の社会は健常者にとっては不利益のない社会であり、「障害者の村」は車椅子使用者にとっては不利益のない社会である。つまり、不利益が存在するか否かは、その社会の成員がどのような個人であるかに依存しているのであり、ディスアビリティの原因は個人の側にあるというわけだ」。
 「「個人」の条件を変えても「社会」の条件を変えても、「個人」による「社会」の経験として現れる不利益のあり様は変わる[…]。しかし当然のことながら、そうであるからといって、不利益の原因が「個人」であるとか「社会」であるとかいうことを、文字どおりの意味において含意することにはならない。/「個人モデル」も「社会モデル」も現象の一面をデフォルメして、まさに「モデル化」している[…]「社会モデル」もまた、ディスアビリティを個人の属性とは無関係な社会の問題だとすることで、それが置かれた文脈に焦点を当てることができなくなっているのである。実際には、不利益は社会の障壁(のみ)によって生じるのでも個人の機能不全(のみ)によって生じるのでもないはずだ」([104-105])。
 また、障害学の論者による歴史記述が紹介され、限界が指摘される。「障害学の理論家たちは、ディスアビリティの生成に社会がどのように関与しているのかについて、記述的な説明を与えてきた。資本主義的生産の必要から「障害者」というカテゴリーが発明され、さらに個々の障害が医学的に分類されていったことを指摘する等は、それぞれ社会史的な分析として一定の説得力を持つ。ただし、これらは現行の資本主義的な社会体制におけるディスアビリティの特質に関する説明を与えるものであって、ディスアビリティという社会現象の輪郭を示すものではない。[…]ディスアビリティが特定の社会において特定の形式で構築されることを言っている」。「ディスアビリティが社会的に構築されているという「社会モデル」の主張は[…]不利益を解消すべきディスアビリティとして特定するものであるというよりも、現行の社会がある種の特定の形式においてディスアビリティを作り出していることについて記述・分析するものである」。「こうした社会モデルの理論から導出される認識は、ディスアビリティに対する社会の関与の仕方についてのもので[…]ディスアビリティが記述的に特定可能であるということではない」、「ディスアビリティ現象を原因帰属の議論によって特徴付けることが可能であると想定されていることが多いのだが、これは誤りである」([102-107])。
 まず、社会が要因だと言うのと同様に個人も、と言えるという論について。[…]

 「★06 ここでは石川准の「社会が負担を負えば解決するような障害のことをディスアビリティと呼ぶことにしたのだから、社会が負担を負っても解決しない障害はディスアビリティではない」(石川[2002:27])という記述があげられる。解消が望まれているが、(いまは)不可能なものを入れないというのは、言葉を使う使い方として、具合がよくはない。ただ、この呼び名の問題は別として、現実には、困難ではあっても可能なものしか相手にしても仕方がないということはある。社会的に解消・軽減可能なものをディスアビリティとし、それを問題にしてゆくというのは、自然な道行きでもある。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172449.htm
にもある。


UP:2017 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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