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原因論2・星加良司『障害とは何か』の1の09

「身体の現代」計画補足・451

立岩 真也 2017/12/
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1985319145068396

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『現代思想』2017年12月号 特集:人新世――地質年代が示す人類と地球の未来・表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙   榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』表紙

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 「星加良司『障害とは何か』の1」を分載中(連載・第140回)。が、全部を紹介することはない。
 『現代思想』2017年12月号の特集は「人新世――地質年代が示す人類と地球の未来」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#12
買ってください。ただ、立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。またお知らせします。以下、分載の第9回。

 「■原因論
 […]
 まず、社会が要因だと言うのと同様に個人も、と言えるという論について。因果の問題として(だけ)考えるならその通りだ。できごとに関わる因果的要因という限り、そこにあげられる要因には種々様々がある。むろんそのすべてをということになると、地球が存在すること、酸素があること、生きている人間がいること…、といった具合になってきりがない。他の事象と比較したときにとくにその事象に強く関わると思われる要因が通常はあげられる。「障害」に関わる要因として、従来個人的・身体的要因があげられてきたこと、そして個人や医療の水準ですべきことが言われ行なわれてきたことが批判され、社会的要因が言われるようになったという流れになっていることは一般に了解されている。そして星加も、それはそれとして意義を認める。
 ただその上で、要因・条件というだけであれば、個人の身体的要因・条件もある。数限りない要因の中では相対的に大きな要因であるとも言える。だから、因果論として社会的要因しかないといった主張をしているのだとすれば、それは一部だけを取り出しているという指摘は可能であり、また妥当である。そのことを受けて私は、原因論として受け取るべきでないこと、責任・義務の問題として捉えるべきことを述べてきた(→次節)。
 ただその上で、やはり既に書いたことだが(→註01)、例えば「せい」という言葉は日本語でもまた英語でも両方に使う。「あなたのせいで私は…」という時、それはあなたが原因であることだけを言うこともあるが、あなたは私の現在について責任を有することを(ことも)意味することがある。星加が因果を言っていると取り上げた文献・文章にもそう読めるものがある。
 だからこそ責任と因果の問題との差異はときに曖昧にされることがあり、この点をはっきりさせること、そのことに注意を促すことに意義はあるだろう★07。論者たちも、以上を説明され、あらためてどちらの意味で使っているのかと聞けば、帰責の方だと答えるはずではあるのだが、それでもそのことをだめおしておくべきであるとは言える。
 以上はつまり、星加が主張するように、また私も述べてきたように、規範の水準の問題・主題があるということを意味する。ここでは星加に従い、ディスアビリティを不利益だということにしよう。そしてその不利益は、学として運動としてその不正を主張するものである限りにおいて、「ただの不利益」ではなく「不当な不利益」である。不当な不利益は正当(な利益)があって言えることでもある。そこに「規範」はたしかにある。
 ただ、それははっきりしているからあえて言うまでもないという場合がある。実際そんなことが多くあると思う。いちいち全部を言うのは冗長だと思われる。「本来社会には、この我々の困難を生じさせないあるいは除去する義務が、○○の理由で、ある。あるにもかかわらずそのことを実行しないについては社会はよくない。よって対応を改めるべきである」といちいち言うのは面倒で、「我々の困難は社会のせいである」という言い方をする。
 それでも、省略していることわかっておいた方がよいということはある。そして「正しさ」はときに社会が問題であると主張している側においても、自明ではない。例えば仕事ができないとされる人が仕事を得られないことは不当か。不当であると思うのだが、それは(しかじかの条件があれば仕事ができるのに)仕事が得られないことが不当であるのか、それとも別のことを問題にしているのか。そうしたところについて、十分な議論が、障害学といった領域に限らずたいしてなされてきていないことはよくない、そうした仕事が必要だと思い、私もいくらかのことをしてきた。
 「ディスアビリティの原因を社会に求めることによっては、ディスアビリティとは何なのか、それは解決すべきものなのか、といった問いへの回答は得られない」、「社会原因論に代表されるようなディスアビリティの記述的特定を志向するアプローチは、論理的に成功し得ないのである。ディスアビリティが社会において生じる現象である以上、それは何らかの意味で社会的要因によって影響を受けており、その限りで原因帰属を記述的に行うことは可能である。しかし、そのことはディスアビリティ現象が社会現象であると言っているに等しい。[…]それはディスアビリティの同定という課題に対して何ら回答を与えるものではない」([105-106])と星加は言う。歴史的記述は(不当な)事態、不利益を生じさせた要因は何であるのかを記述するのだが、その(たしかに不利益であるような)状態は、社会運動のなかにいたその人たちにとっては不当な状態、不当な不利益がもたらされる状態であったとはされているはずである。ただ、たしかに、それは書かれていないか、すくなくとも背景に退いてはいる。それをときにはっきりさせるべき場面がある。歴史記述・分析自体においては規範は明示されないから、そのことは言ってよい、別途その仕事はしたらよいということだ。
 ただ、問いは、「何について」、どんなことについて何をすべきか、誰がすべきかということでもある。「何について」とは外延の規定とさきに述べたことである。これまでなされてきた歴史記述は、それがどのように、どのような事情で規定されてきたのかの事情を記述するものではなかったか。そしてここで外延が定まらないことは好ましくないことでなく、むしろ、取り出されり、除外されたりするというこのできごとが解析される対象なのであり、介入するべき地点なのである。星加自身の規定はあとでみることになるが、もしそれがある範囲を特定しようとするものであるとすれば、それはかえって対象を、というか障害という主題を、うまく捉えられないことになるのではないか。」

 「★07 規範的なこと、ことのよしあしを直截に言うことがためられわるような土壌で、事実の記述をもって規範的な方向を醸し出させることがあって、それはよくないと述べたことがある(立岩[2004])。」

 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172451.htm
にもある。


UP:2017 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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