>HOME >BOOK

『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』

星加 良司 20070225 生活書院,360p.


このHP経由で購入すると寄付されます

星加 良司 20070225 『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690040 ISBN-13: 978-4903690049 3150 [amazon][kinokuniya] ※ ds

星加良司『障害とは何か――ディスアビリティの社会理論に向けて』表紙

※以下で紹介しています。
◆立岩 真也 編 2017/07/26 『リハビリテーション/批判――多田富雄/上田敏/…』Kyoto Books

◆立岩 真也 2017/11/01 「不如意なのに/だから語ること――連載・139」
 『現代思想』45-(2017-10):-
◆立岩 真也 2017/12/01 「星加良司『障害とは何か』の1――連載・140」
 『現代思想』45-(2017-10):-

■生活書院のHPより

 障害とはどのような社会現象なのか? 多くの人が納得してしまいがちな、視力が何々以下だから大変だといった生理学的な障害の定義ではなく、社会現象として障害を捉える立場から、障害を社会的に生成・構築されたある種の不利や困難として描くという大テーマに正面から向き合った精緻かつ誠実な探求。既存のディスアビリティ概念の紹介やその応用ではなく、より適切に障害者の社会的経験を表現するための積極的な概念装置の組み換えを目指す、気鋭・全盲の社会学者による決定的論考。

■著者について[amazon]
 1975年生まれ。東京大学先端科学技術研究センターリサーチフェロー。専門は社会学、障害学。世の中で当たり前といわれていることが全く当たり前だと思えない個人的性格に裏打ちされて社会学を学び、現在の社会を障害という切り口で分析・解析・解釈・説明してみると、これまで見えなかったものが見えるようになり、語られなかったことを語ることができるようになるのではないかという理論的関心に動機付けられて、障害学を研究している。主な論文に「<存在の肯定>を支える二つの<基本ニーズ>--障害の視点で考える現代社会の「不安」の構造」福島智と共同執筆 『思想』2006年3月号、岩波書店など

■【目次】
序章 今、なぜ「障害」を問うのか
 ディスアビリティという主題/本書の構成
第1章 ディスアビリティ理論の現在
 ディスアビリティ理論の到達点/ディスアビリティ理論の行き詰る地点
第2章 ディスアビリティ理論の再検討I
 「社会モデル」の論理構造とその限界/ディスアビリティ理解の再編I:不利益の意味をめぐって/更新される不利益
第3章 ディスアビリティ理論の再検討II
 不利益の規範的特定の試み/立岩のプロジェクト/ディスアビリティ理解の再編II:不利益の位置をめぐって
第4章 ディスアビリティとインペアメント
 ディスアビリティの非制度的位相/新たなディスアビリティ概念
第5章 ディスアビリティ解消の実践と論理
 制度的位相におけるディスアビリティ解消/非制度的位相におけるディスアビリティ解消/ディスアビリティとインペアメントの「社会モデル」
終章 ディスアビリティの社会学に向けて
 ディスアビリティ理論への貢献/社会学に何ができるか


■書評

岡原 正幸(障害学と感情社会学の文化実践家) 2007 「社会学に何ができるのか――ディスアビリティの解消へ」
『図書新聞』

 「障害学」という名称をみなさんはご存知だろうか。障害についての学問だろう、と思ってしまえば、なにやら分かりやすくて、こころ穏やかにもなるだろう。でもそれは、自分が長らく親しんできた自分にとっては座りのよい安楽椅子にとどまることを宣言しているに過ぎないのかもしれない。星加さんの著したこの書はその厚みと深さで浅薄な障害(学)理解を吹き飛ばしてくれるだろう。
 そもそも博士論文として書き上げられたものであるから、いささか理解するのに手間取るような箇所もある。だが全体にわたる構成力のおかげで首尾一貫した主張の筋道を追うことは意想外にたやすい。それは「ディスアビリティ」をめぐって展開される。ディスアビリティとは社会生活にかかわる困難、不便、不利益という文脈での障害をさし、個体の機能的な欠損という文脈での障害をさすインペアメントと区別されるものである。第一章「ディスアビリティ理論の現在」、第二章「ディスアビリティ理論の再検討T」、第三章「ディスアビリティ理論の再検討U」、第四章「ディスアビリティとインペアメント」、第五章「ディスアビリティ解消の実践と論理」、終章「ディスアビリティの社会学に向けて」、「今、なぜ「障害」を問うのか?」と記された序章を除けば、すべての章に「ディスアビリティ」が登場するわけだ。それでも辟易としないのは、この書全体に流れる緊張感のおかげではなかろうか。そしてその緊張感とは、著者の誠実さや真剣さに依拠するのはもちろんのことだが、同時にこの書が、ディスアビリティとは何であるのか、という認識次元においてだけ展開されるのではなく、ディスアビリティは解消されるべきものである、という規範的な命題を前提にして進行するからだろう。
 かくあるべき、という当為性から出発するのは実は勇気のいることだと思う。たとえ障害といったテーマを選んだにせよ、である。まして博士論文となれば「当為性」は論文への過度の批判を呼びかねない「空隙」にもなってしまうだろう。敢えてそれを実行した著者の態度や立場性はこの書の随所にちりばめられている。それを僕の口に代弁させてしまうのは、あまりに野暮だ。みなさんが直接にこの書を手にとって著者の言葉を拾い上げていただければ嬉しい。とはいえ勇気だけではない。著者は規範的な命題を前提にすることを引き受け、そのための緻密な議論を自らのディスアビリティ理論に課している。
 四つの性能と称されたそれらを紹介しよう。一つめは「解消や削減の可能性に開かれた、その意味で実践的な課題に対して貢献しうる理論になっているかどうか」、二つめは「障害者の経験する「問題」を他の「問題」から弁別された特徴的なものとして把握しうるかどうか」、三つめは「ディスアビリティ現象の多様性に開かれ、その間の質的な差異について扱うことのできる枠組みになっているかどうか」、四つめは「ディスアビリティ解消の望ましさが経験的・規範的な根拠によって主張されうるような構成になっているかどうか」、である。障害当事者のリアリティに準拠しつつ、現実的な処方策を理論的に導こうと考える著者は、これらの要求を自らに課しながら、そして随時それを確認しながら、論を進める。
 詳細な議論の紹介をする余裕はないが、筋道を追えばこうなる。障害は社会的な構築物であるという「社会モデル」の主張は、障害当事者に一定の灯火を提供してくれたものの、そこに潜む二元論の妥当性は当然のように疑われ、さらにディスアビリティを問題化する「不利益」というコンセプトについては、障害者固有の不利益を同定することができない。そのため大きな行き詰まりを社会モデルが見せているというのが著者の理解である。そこで彼は消耗戦にしかならない「不利益をめぐる政治」に巻き込まれることなく、ディスアビリティの解消を主張できるような理論立てを準備する。それが不利益概念の再定式化である。その定式において、不利益は関係性のなかにおかれ、ディスアビリティ理解においても不利益の複合性や、相互行為的場面でのディスアビリティ生成などが主題化されることになる。この新たなディスアビリティ理解をベースにして、その解消の現実的具体的な可能性が最後に検討されることになる。たとえば、文化運動とも呼べる、社会的価値の再編が一つの方向性として確認されることになる。この点、自立生活運動を価値の作り変えの社会文化運動と見ていた僕にとってもそれは肯ける見解である。
 「社会学に何ができるか」と真っ向から問う著者の姿に僕は感動する。著者は、社会学的な言葉や概念が純粋な認識行為ではなく、社会を構成する行為でもあること、その点を認め、その点に社会学をすることへの期待を寄せている。社会学的な思考とその表現が当の社会の再編にもつながるという指摘はもちろん目新しいものではないが、星加さんの紡ぎだす言説が感動を呼ぶのは、そこに彼の責任意識を見るからである。言説が社会への介入であるならば、その介入の良し悪しを決めるのは、まずは言説主体の誠実さと責任感以外のなにものでもないだろうと思うからである。


堀田義太郎:紹介と検討

※ 傍線は堀田の独断による

 目次

はしがき
序章 今、なぜ「障害」を問うのか
 第1節 ディスアビリティという主題
 第2節 本書の構成

第1章 ディスアビリティ理論の現在
 第1節 ディスアビリティ理論の到達点
  1 ディスアビリティという問題
   「個人モデル」から「社会モデル」へ/不利益の集合としてのディスアビリティ
  2 認識論としての「社会モデル」
   原因帰属をめぐる認識論的転換/解消可能性による解釈/帰責性による解釈/認識論上の特徴
  3 「社会モデル」への批判と応答
  4 ディさび離ティ理解の基本的前提
 第2節 ディスアビリティ理論の行きづまる地点
  1 障害者の就労と「理に適った配慮」
  2 「統合問題」の投げかけるもの
  3 「自己決定」の価値化

第2章 ディスアビリティ理論の再検討T
 第1節 「社会モデル」の論理構造とその限界
  1 社会原因論の錯誤
  2 当事者の利益と当事者性をめぐる問い
  3 「不利益をめぐる政治」
  4 普遍的利益論――再び「不利益をめぐる政治」へ
第2節 ディスアビリティ理解の再編T――不利益の意味をめぐって
 1 不利益概念の再定式化
 2 再定式化の意義
第3節 更新される不利益
 1 労働をめぐる「不利益の更新」
 2 「自己決定」をめぐる「不利益の更新」
 3 「不利益の更新のメカニズム」

第3章 ディスアビリティ理論の再検討U
 第1節 不利益の規範的特定の試み
  1 規範的社会理論の役割
  2 「障害者差別」という視角
  3 「責任モデル」の射程
 第2節 立岩のプロジェクト
  1 財の公正な分配
   分配の根拠としての「他者」/分配の根拠としての「私」/分配の基準としての「他者」と「私」
  2 機会の公正な分配
  3 機会の分配と財の分配――不利益の増幅メカニズム
  4 立岩理論の意義と限界
 第3節 ディスアビリティ理解の再編U――不利益の位置をめぐって
  1 「不利益の集中」という問題
  2 「重度障害」とはどのような現象か――不利益の複合化
  3 社会構造と「障害」の深化――不利益の複層化

第4章 ディスアビリティとインペアメント
 第1節 ディスアビリティの非制度的位相
  1 差異としてのインペアメント、スティグマとしてのインペアメント
  2 規範の内在化
  3 自己抑制としてのディスアビリティ
  4 介助関係をめぐる制度的位相と非制度的位相
 第2節 新たなディスアビリティ概念
  1 四つの基本的前提の組み替え
  2 ICFとの理論的異同

第5章 ディスアビリティ解消の実践と倫理
 第1節 制度的位相におけるディスアビリティ解消
  1 「バリアフリー」と社会変革
  2 複合化された不利益とアファーマティヴ・アクション
  3 複層化された不利益と不利益増幅の遮断
 第2節 非制度的位相におけるディスアビリティ解消
  1 「自己決定」を支える――非排他的な関係性の可能性
  2 「社会的価値」が再編成される場
   自己肯定と不利益をめぐる意味転換/文化論アプローチの意味
 第3節 ディスアビリティとインペアメントの「社会モデル」

終章 ディスアビリティの社会学に向けて
 第1節 ディスアビリティ理論への貢献
 第2節 社会学に何ができるか

あとがき

はしがき

○ 基本認識= 「障害とはある種の社会現象だ」(3)。では、「障害とはどのような社会現象なのか?」(4)
障害は「社会的に生成・構築されたある種の不利や困難」であると言える。では、非障害者が経験する「社会的活動における不利や困難」に比べて、障害という現象はどのような特徴を持っているのか。
それを明らかにするためには、「障害についての認識の仕方」が課題になる。

○ この課題設定の理由―― 障害者にも負担を求める政策傾向。それは、障害者の負担が小さいものだという想定を前提にしている。他方で、誰もが障害を持っているのだから、全ての人が暮らしやすい社会を、という言い方がある。
⇒ だがこれらは「何かがおかしい」(5)。
まず、負担を求める政策やその前提にある想定は、「「障害」の状態に置かれているという「負担」について社会がどのように取り扱うのか」を考えていない。そしてそれは障害を「個人化」しようとする傾向である。それに対して、「障害問題の「社会化」を支える理論構築をしておかなければならない」(6)
また、誰もが障害を持っている、といった言い方は、「障害の経験」を「非障害者の経験している社会的現実とどのように同じで、どのように違うのか」という問いを消し去る。

○ 「障害」や「障害者」というカテゴリーが人為的で恣意的な構築物である、という立場に対して、それは「障害」というカテゴリーを「特有な現象として取り上げることの意義」を消失させる、という解釈もありうる。だがそれは間違いである。
「「障害者」というカテゴリーがいかに恣意的に設定されたものであろうと、現にそうしたカテゴリー化の機能によって不利を受けている人びとにとっての問題や、そうしたカテゴリー化を構造的に作動させてしまう社会の編成原理について問題化することの意義はいささかも失われないし、そうした問いを設定する上で障害という概念が依然として有効である可能性も否定されない」(7)からである。

⇒ 「社会的活動に関わる不利や困難」を指す「ディスアビリティ」という概念を使って、「障害者の社会的経験を表現するための積極的な概念装置の組み換え」(8)を行う。

序章

第1節 ディスアビリティという主題

○ 障害者の多くが「働けない」状態にある⇒「「経済的に恵まれない」状態に置かれている」⇒ 「「勉強」や「趣味」や「旅行」が自由にできなくなっている」(20)ことへの批判(横塚晃一)。
…… 「社会の構造に向けられた批判の骨子そのものは、残念ながら現在でも基本的に有効である」(21)
⇒ 「障害認識の問い直し」が必要である(21)。

○ 議論の対象――「ディスアビリティ」概念= 暫定的には「個体の機能的特徴に関わる劣位性を表現するインペアメントimpairmentと区別して、社会的活動に関わる不利や困難を表現するもの」(22)と定義できる。⇒ 問い= 「そもそもディスアビリティをどのように概念化しうるのか」(22)

○ 議論の起点――「ディスアビリティは解消されるべきものである」(23)という規範的前提

○ ディスアビリティ理論に求められる性能
@「解消可能性要求」: 「解消や削減の可能性に開かれた、その意味で実践的な課題に対して貢献しうる理論になっているかどうか」(24)
A「同定可能性要求」: 「障害者の経験する「問題」を他の「問題」から弁別された特徴的なものとして把握しうるかどうか」(24)
B「多様性要求」: 「ディスアビリティ現象の多様性に開かれ、その間の質的な差異について扱うことのできる枠組みになっているかどうか」(24)
C「妥当性要求」: 「ディスアビリティ解消の望ましさが経験的・規範的な根拠によって主張されうるような構成になっているかどうか」(25)。「障害者に関する「問題」の解決において、政治的再分配の占める決定的な重要性を念頭に置いた場合に、特に有意味な要請である」(26)⇒「ディスアビリティの解消には、それを可能にする社会成員の様々な水準における不断の取り組みが不可欠であり、したがって、その取り組みの必要性が妥当なものとして受け入れられるものでなければならない」(26)から。

※ 議論の限界――これら四つの要求への「包括的な回答を用意できるわけではない」(26)。「当事者のリアリティを強いて気に分節化してしまう側面」(27)がある。インペアメントの経験を二次的な位置に置くことになる(27)。だがこれらの限界を超えるためにも、本書の作業は不可欠である。

第2節 本書の構成

(……省略……)

第1章 ディスアビリティ理論の現在

第1節 ディスアビリティ理論の到達点

1 ディスアビリティという問題
「個人モデル」から「社会モデル」へ

○ 「社会モデル」――「障害の問題とはまず障害者が経験する社会的不利のことなのでありその原因は社会にあるとする、障害者解放の理論的枠組み」(37)
⇒ 「従来個人の機能的特質に起因する「個人的individual」な問題として扱われてきた障害者問題は、社会的な解決が進んでいないことのみならずその発生が社会に37>38源泉を持つという意味で、きわめて「社会的social」なものとしてクローズアップされてきた」(37-8)
「社会モデル」とICIDH・ICFとの異同= ICIDH(国際障害分類)およびICF(国際生活機能分類)が、「社会的不利益の発生に生物学的/医学的な意味での身体の関与を認める限り、それは別ヴァージョンの医療モデル/個人モデルでしかない」(41〔倉本2002:203〕)。
⇒ それに対して、「ディスアビリティは、個人の外部としての社会に起因するものとして認識され」(41)る。

不利益の集合としてのディスアビリティ
○ ディスアビリティ概念の対象
ICIDH、DPI(障害者インターナショナル)、UPIAS(反隔離身体障害者同盟)における「不利益」や「制約」という語―― 「ディスアビリティを不利益として捉える認識は概ね共有されている」(45)
社会モデルと個人モデルの共通点: ディスアビリティの否定的な意味付け
相違点: 「その原因の帰属先と働きかけの焦点」(43)。「解消努力を誰に要求するのかという問題」(43)。
※「disability」=「できないこと」や「できなさ」を表わす――「その外的な要因である「障壁」をディスアビリティに含める用語法は混乱を招く」⇒「「障壁」のようにディスアビリティの原因となる外的要因については、「できなくさせるもの(無力化するもの)」を意味するディスエイブルメント」がある(45)。

2 認識論としての「社会モデル」
原因帰属をめぐる認識論的転換
○ ディスアビリティの社会モデルのインパクト――原因帰属をめぐる認識論のレベル
問いの転換
「あなたの具合の悪いところはどこですか?」⇒「社会の具合の悪いところはどこですか?」
「あなたが物を持ったり握ったりひねったりすることを困難にしているのは、どん47>48な病状ですか?」⇒「あなたが物を持ったり握ったりひねったりすることを困難にしているのは、瓶・やかん・缶等の日用品のどんな欠陥ですか?」(47-8)
―― 「決定的に重要なのは「否定的な社会的諸経験や障害者が生活を営む劣悪な諸条件をいかに説明するのか」(Oliver1996b: 32)である」(51)

解消可能性による解釈
○ 「解消可能な不利益のみがディスアビリティである」という議論―― 「ディスアビリティとは「社会が負担を負えば解決するような障害」(52)とされる。

○ それは、「解消可能性要求」と同じようにみえるが異なる。「ディスアビリティ概念が論理的な解消可能性を含んでいるということと、現実に存在するディスアビリティが社会的に解消可能であるということとは、似て非なること」(53)だから。むしろ、「ディスアビリティ/インペアメントの分析的区別を現実の社会における解消可能性に還元してしまう」(53)ことは、「現行の技術水準で「解決」することができるのに「解決」していない部分のみがディスアビリティであるということになる」(53)。しかしそれでは、ディスアビリティの範囲の境界設定は、「技術水準に深く依存して変動してしまう」し、また、「不利益の経験とのギャップが生じる」(54)

帰責性による解釈
○ 「ディスアビリティの解消責任の帰属先によって「社会モデル」の意義を説明しようとする議論
「ディスアビリティの原因を特定することと、その解消の方法を特定することとは」別のことである(55)。
「「社会モデル」は障害を補う責任を負うべき」主体として社会を名指すものである」(56)という議論――これは「実践的意義に着目するものとしては一定の妥当性がある」(56)。

○ だが、それにはいくつかの困難がある。
@ 何がディスアビリティか、という認識に関わる水準での「困難」――「「社会が補うべき障害の側面や範囲をディスアビリティと呼」(56)ぶとすると、何について社会が解消責任を負うのかが予め特定されていなければ、ディスアビリティを特定することもできない」(57)帰責されるべき問題としてディスアビリティを特定する基準がない。
A 社会モデルが焦点化した問題とは重ならないという点。「個人モデル」でも、治療やリハビリという医療の対象として「社会問題化」していたと言えるからである。問題は、「誰によって解消されるべきか」よりも、「いかにして解消されるべきなのか」にある(58)。もし「「外科手術」が完全に社会的な責任において行われるとしても、そのことを必ずしも第一義的なものとはしない」ということが重要。

○ 責任帰属にもとづく「社会モデル」の解釈は、「ディスアビリティとは何か、という認識論的な問いへの回答としては必ずしも適切ではない」(59)。だが、ディスアビリティの特定に当たって「規範的な問題へのアプローチが必要であること」を示唆している点は重要である(60)。 ⇒ 責任帰属問題は規範的問題が重要であることを示唆しているが、規範的問題=責任帰属問題ではない。【注13】「記述的」に表現しようとするアプローチは「必然的に失敗する」ことになる(95)。「解消責任の帰属先の特定を超える規範的問題」に取り組む立岩の議論は重要な示唆を含んでいる(96)。

認識論上の特徴
○ 「ディスアビリティは記述的に特定可能であるという想定」(60)
「社会モデル」を、不利益の「原因帰属」によってディスアビリティを記述する枠組みとして解釈しても、「解消可能性」によって記述する枠組みとして解釈しても、いずれも、主観的な価値判断とは独立にディスアビリティを記述可能だという想定が前提になっている。
たしかに、責任帰属による「社会モデル」の解釈は必ずしもこうした想定を置いているわけではない。だが責任帰属に基づく解釈は、「認識論的な水準でディスアビリティを特定する基準を含んでおらず、その点で認識論としての「社会モデル」理解としては完結した枠組みを提示していない」(61)。
――責任論的な解釈の評価を留保すれば、社会モデル理解の特徴として、「記述的な特定」という想定を抽出できる(62)。

3 「社会モデル」への批判と応答
○ インペアメントの経験の位置づけ(軽視)に対する批判――「「社会モデル」によるインペアメントの無視は、障害者に対して否定的・抑圧的に機能する」という主張(63)
○ それに対する「社会モデル」による応答は、「インペアメントの存在を否定しないがそれは理論の射程ではない、というもの」(66)であり、「インペアメントとディスアビリティとの関連の仕方についての議論は十分に展開されて」いない(67)。

4 ディスアビリティ理解の基本的前提
○「「社会モデル」的ディスアビリティ理解が基本的に共有している前提」
 @ 「ディスアビリティの非文脈的特定」(68)――個々の社会的場面が置かれている文脈とは関係なく、そうした社会的場面における一つひとつの不利益の不当性を告発したりそれらの克服が要求されたりする」(68)
 A 「ディスアビリティの記述的特定」――「何がディスアビリティであるのかは一定の手続きを経た「記述的」な分析によって同定されるものであると捉えられている」(68)。だがその背後には規範的な判断が潜在しておりそのことが重要な意味を持っている(69)。「社会のあり方やそれを記述し評価する認識枠組みのあり方とは独立に想定可能な、「個人のニーズ」の充足が、何らかの要因によって妨げられている」という図式(69)。
 B 「ディスアビリティについての二元論的解釈図式」(69)――「個人に内在的なものなのか外在的なものなのか」という主題設定。個人と社会を相互排他的なものとして位置付け、「そのいずれかに原因を帰属しようとする認識の構図」(69)。
 C 「ディスアビリティ理論の制度的位相への限定」(70)――「個人的経験としてのインペアメントとの連続性は認識的に切断されている」。「インペアメントとディスアビリティとの因果的連関を理論的に拒絶するとともに、インペアメントとディスアビリティとの関連の仕方を問うこと自体を戦略的に回避してきた」(70)

第2節 ディスアビリティ理論の行きづまる地点

1 障害者の就労と「理に適った配慮」
○ 職務上必要な本質的機能に関して職務遂行能力が認められた「有資格の障害者」に対して「理に適った配慮」をする義務を雇用者に課すADA――だが、雇用はほとんど増えていない(72)。
⇒ 「有資格の障害者」「理に適った配慮」という概念が目指すものに問題があった。
「採用に当たって「有資格の障害者」を他の有資格者より優先する必要はない」(73)また、他の従業員と「同じ成果・実績基準を守らせることができる」(73)とされている。さらに、「理に適った配慮」の提供が雇用主の規模や試算に照らして「過度な困難」をもたらす場合には、免責される。
そうした事態を解消するために「アファーマティヴ・アクション」を支持する論者は、「逆差別」であるという批判に有効な反論を与えることができていない(74-5)。

○ これらの問題は、「解消可能性要求」や「妥当性要求」にディスアビリティ理論が十分に答えられない状況を示している(75)。
「既存の理論枠組みでは、多くの障害者にとって社会的に受け入れられる「妥当」な解消要求をしたのでは自らの経験している不利益は「解消不可能」であり、それを「解消可能」にするような主張を行えば「妥当性」を失ってしまうような、ディレンマ状況」(75)がある。
また、一部の有能な障害者が雇用におけるディスアビリティを解消しうるとしても、より「重度」な障害者がその恩恵から排除されるならば、「ディスアビリティ間の質的な差異や多様性に対応できる理論構成を求める「多様性要求」にも反する」可能性がある(75)。

○ この問題は、従来の議論の「非文脈的で記述的なディスアビリティの特定という志向性」(75)、つまり、「雇用」という場面だけで「処遇の正当性/不当性を問う枠組み、および、個人の「能力」というものを社会的な文脈とは無関係に措定する認識のあり方と関連しているように思われる」(76)

2 「統合問題」の投げかけるもの
○ 「現行の介護保険制度を障害者運動の側から見て十分な水準にまで改善する要求を行い、それが実現された後に制度の統合を展望するという主張」(83)に対して、「統合」に反対する「障害者運動の側は口ごもらざるを得なくなってくる」(83)。
なぜなら、障害者運動側は、「不利益に質的な差異がないとすれば障害者と高齢者とは一元的な制度において処遇されるべきなのだが、それは現実的に受け入れられない」(84)と考えているからである ⇒ そもそも「不利益に質的な差異がないと考えることに無理があったのではないか」(84)

○ 「障害者の生活における「問題」が高齢者のそれと同様であるとすれば、それは障害者の経験する不利益を他の不利益と弁別することができない」(83)ということになる ⇒ 「同定可能性要求」が満たされていないことを意味する。

3 「自己決定」の価値化
「「自己決定」という理念に関して、それが過度に価値化されることの抑圧性、「自己決定能力」の肯定による選別・序列化の危険性、そして他者との関係性の持つ重要性が看過されてしまう可能性」(89)

⇒「ディスアビリティ理論はその諸前提と関連して、現実に生起する問題状況に十分に対応しきれていないように見える」(90)

第2章 ディスアビリティ理論の再検討T

第1節 「社会モデル」の論理構造とその限界

1 社会原因論の錯誤
「社会モデル」――「個人の外部としての社会に内属する障壁をディスアビリティの原因として捉える考え方」
⇒ だがそれは「妥当なのだろうか」(103)

不利益の原因を二元論的図式で把握するアプローチの問題点
@ この「アプローチは、認識論としての妥当性を欠く」(105)
「障害者の村」の寓話―― 車椅子使用者の不利益は社会に原因がある、ということを示す寓話として使われる。だが同じ寓話は、車椅子の村で健常者が受ける不利益は健常者の身体に原因がある、という「個人モデル」としても使われうる。したがって、「「個人」と「社会」という二つの要素のうち、いずれかを所与のものとして固定した場合に、可変的である他方の要素を変化させることによって、個人の置かれている状況が変化するということを表現しているに過ぎない。すなわち、「個人」の条件を変えても「社会」の条件を変えても、「個人」による「社会」の経験として現われる不利益のありようは変わるということである。しかし当然のことながら、そうであるからといって、不利益の原因が「個人」であるとか「社会」であるとかいうことを、文字通りの意味において含意することにはならない」(104)
⇒ 「「個人モデル」も「社会モデル」も現象の一面をデフォルメして、まさに「モデル化」している」(105)、そのため、「社会モデル」も「ディスアビリティを個人の属性とは無関係な社会の問題だとすることで、それが置かれた文脈に焦点を当てることができなくなっているのである。実際には、不利益は社会の障壁(のみ)によって生じるのでも個人の機能不全(のみ)によって生じるのでもないはずだ。駅の階段がディスアビリティとして経験されるのは、車椅子使用者がいるからでもそこに階段しかないからでもなく、車椅子使用者と階段との関係、車椅子使用者と階段を上って移動することに意味があり価値があるような社会との関係、そしてその階段を自力で上れる人とそうでない人との関係において、その階段を上れないことが不利益として感じられるからである」(105)

A 「ディスアビリティの原因を社会に求めることによっては、ディスアビリティとは何なのか、それは解決すべきものなのか、といった問いへの回答は得られない」(105)
☆ 「ディスアビリティ現象が社会現象である」という議論 ⇒ 「それはディスアビリティの同定という課題に対して何ら回答を与えるものではない」(106)
「「社会モデル」の理論そのものから直接的に導かれる認識は、ディスアビリティに対する社会の関与の仕方についてのものであって、社会に原因を持つという事実によってディスアビリティが記述的に特定可能であるということではない」(107)

2 当事者の利益と当事者性をめぐる問い
ディスアビリティと他の不利益との区別の別の基準――「インペアメントとの関連で捉える見方」(107)がある。
「インペアメントの存在」とディスアビリティとの因果的連関を拒絶しつつも、インペアメントをディスアビリティ弁別のための前提にする議論。
⇒ だが、「インペアメントはディスアビリティの存在から遡及的に措定されるもの」(108)であり、「社会において要求される価値との関連でディスアビリティが生じ、それを個人に帰責するためにある種の機能的特質に対して否定的な価値付けがなされたものがインペアメント」である。
「インペアメントはディスアビリティに先行して存在しているのではない」⇒ 「ディスアビリティをインペアメントとの関連で同定することには無理がある」(108)

たしかに「社会的現実においては両者は並存しているのだから、インペアメントとの関連でディスアビリティを同定する可能性も残されていると言える」(109)⇒ しかし、「それが不利益を産む他の可能的要件を措定した場合とどのように異なるのかについては何も言え」ない(109)。

「「田舎で生まれた人」にとっての不利益ではなく、「インペアメントのある人」にとっての不利益だけがなぜディスアビリティとして把握され、その解消が特に要請されるのか」は不明となる。⇒ 「ディスアビリティの同定に当たってインペアメントの存在を要件とする従来の議論は、論理的な水準においてきわめて不十分なもの」である(109)。

ディスアビリティは端的に不利益であるが、「その解消の主張の妥当性を示す論理が構築されていない場合」(110)、「暗黙の否定的な価値付与が生じやすい。現状では、なぜ障害について我々が特に関心を払わなければならないのかについて、十分な議論がなされておらず、それは同時に、障害を「特別」な「弱者」の問題として捉えようとする社会通念と容易に結びつくことにもなる」(110)。

3 「不利益をめぐる政治」
○ ディスアビリティ解消の主張の妥当性と特権性の根拠を示さないと、「不利益をめぐる政治」に無防備に巻き込まれることになる。
@ 「不利益は社会のいたるところに存在しその解消を目指す主張をする「当事者」は常に想定可能だから、障害の文脈におけるディスアビリティ解消の主張もその一部として相対化されうる」⇒ 「ディスアビリティ解消の必要性について110>111の十分な論拠を準備していなければ、異なる立場からの反駁を容易に招き入れる可能性を開くことになる。」
A 「不利益の質的な差異を問題にしなければ、ディスアビリティ解消の優先順位について論及することができず、結果としてより「重度」なディスアビリティが取り残されるということにもなりかねない」(111)

○ 「不利益の解消を目指す諸当事者の主張」は「往々にして相互に対立する」(111)
――「社会のあり方によって引き起こされる、したがって社会の変革によって解消可能な不利益は、いわゆる障害に関わるものだけではないし、それらについての利害は往々にして相互に対立する」(112)

○ さらなる対立の契機がある―― 「深刻な不利益の解消は技術的・物理的に非常に困難」(112)⇒ 「多数派の利害とラディカルに抵触することなく解消できる前者の不利益の方が、「不利益をめぐる政治」の中では優先的に解消されやすくなる」(112)⇒ 「分かりやすさを持たない不利益が無視され、放置されることもある」(113)⇒「ディスアビリティ解消の主張が、不利益の多様な内実を適切に扱う論理を欠いたまま「不利益をめぐる政治」に巻き込まれることになれば、本来最も配慮されるべき「重度」なディスアビリティが取り残されることにもなり得る」(113) 

4 普遍的利益論――再び「不利益をめぐる政治」へ
「ディスアビリティ解消の普遍的な望ましさを語る言説」(113)―― 「障害者にとって住みやすい社会は誰にとっても住みやすい社会だ」(113)
⇒ 「この種の議論には単純な錯誤がある。それは諸主体の利害の対立という基本的な事実を見落としていることである。前項で確認したように、ある人々にとっての不利益から「利益」を得ている人びとがいるということは一般的であり、ゆえに不利益の解消があらゆる人々にとって望ましいというケースはきわめて例外的であるからだ」(114)
「不利益の一般化という問題」――「障害者の経験する不利益を他の不利益から差別化したり内部における質的な差異を把握したりするための基準を欠いていることに起因している」(115)

第2節 ディスアビリティ理解の再編T――不利益の意味をめぐって

1 不利益概念の再定式化
「〈不利益とは、ある基準点に照らして主観的・社会的に否定的な評価が与えられるような、特定の社会的状態である〉」(116)
● 「社会的状態」―― 「諸個人が感得している「社会的価値」の達成度と、そのために払われているコストによって表現される」(117)。「ここでいう「社会的価値」とは、社会において望ましいとされることや、現実に利益が生まれるような活動に付随しているものである」(117)。
⇒ 「ただし、「社会的価値」の達成度のみによって社会的状態aを把握するのは不適切である。その状態を実現するために現実に支払われているコストや、それに伴って犠牲にされた可能的世界についての認識も、特定の社会的状態を構成する要素である」。

● 「基準点」――社会的状態「aに肯定的/否定的な評価を与えるために参照される規範的な状態であり、「社会的価値」の達成度についての期待値のほか、コストと達成度との関連についての規範的な観念をも含んでいる。このうち、達成度についての期待値は、準拠集団との関連性を強く有しており、同一カテゴリーに属すると見なす人びとにおいて現実化している達成度に関する知識や、自らの過去の経験において現実化した達成度についての知識に影響を受けて成立する。また、達成度とコストとの間に想定される「標準的」な結びつきに関する観念も、重要な意味を持つ。我々は社会的状態を評価する差異、達成度やコストの大きさそのものについて判断を行うと同時に、それらのバランスや関連の仕方の適切さについても判断を行う。これはすぐれて規範的な観念であり、たとえば労働とその対価の関係についての社会規範・社会通念といったものによって形作られる」(118)

○ 従来の「社会モデル」の問題点――「基準点Pが現実の社会的過程において生成され、流動化するものであることが看過される傾向にあり、基準点Pは社会的文脈と独立にアプリオリに存在するものであるかのように扱われるか、さもなければ個々の不利益の解消の主張に応じてその都度アドホックに設定可能であるかのように扱われている」(119) ⇒ アプリオリな基準を設定するのは「本来社会によって充足されるべき「個人のニーズ」が所与のものとして存在する」という理論構成であり、「障害者の村」という仮想状態から現実社会を評価する視点を確保しようとする議論が後者の例。

⇒ だが、この「基準点Pは、予め普遍的な定点として存在しているものでもなければ、その都度自由に変更可能なものなのでもなく、当事者の置かれた社会的状況に拘束されつつ社会的過程の中で変容・更新していくようなものなのである。したがって、この基準点Pをめぐって日常的な実践においても社会理論上の論争においてもポリティックスが生じているのであり、こうした規範的な問いを放置することによって「記述的」な理論構成を行っても、それは「不利益をめぐる政治」への免疫力を欠いたものにならざるを得ない」(119)

「評価主体」――「当該の不利益の焦点となっている当事者」(120)

「不利益の生成」に対する個人的・環境的諸要素の関わり――「社会的状態a、とりわけ「社会的価値」の達成度は、基本的に「社会的価値」と「個体的条件」との関係によって規定されている。すなわち、社会的に望ましいとされることを実現するのにどの程度適した個体であるか、ということが、諸個人の有利/不利を基本的なレベルで規定するのである。「個体的条件」とは、生物としての個人に備わった身体的・知的・精神的な条120>121件condition」である」(120-1)

「さらに、こうした「社会的価値」と「個体的条件」との基本的な関係性に、「利用可能な社会資121>122源」や「個人的働きかけ」が影響を与えることによって、一定の変化が生じうる。「利用可能な社会資源」には、広義の社会制度によって裏打ちされた公的サービスや民間サービスもあれば、インフォーマルな関係において調達可能な個人的な支援もある。また、テクノロジー等による技術的なサポートもあれば、ヒューマンサービス等の人的なサポートもある。さらに、諸個人にとっての直接的な利益につながるような狭義のサービスのみならず、「社会的価値」の再編や「個人的働きかけ」への動機を生み出すような文化的資源も含まれる」(121-2)

「個人的働きかけ」―― 「人が意識的にエネルギーを費やして上記の要素に付加する部分のことである。まずは、「できる」ことと「する」こととの間をつなぐ決定的な要素が、この「個人的働きかけ」によって表現される」
「さらには、「できない」ことが「できるようになる」という変化を駆動する要素の一つも、この「個人的働きかけ」に含まれる」(122)

● 「不利益の特定のための評価を可能にするaとPに対して、「社会的価値」、「個体的条件」、「利用可能な社会資源」、「個人的働きかけ」といった諸要素が、互いに関連し合いながら影響を与えており、そうしたダイナミクスの所産として得られるaとPとの間の関係性が問題となるのである。このように考えると、ディスアビリティを構成する不利益は、個人の外部としての社会に内属する障壁に起因するものではなく、個々の主体と社会との間の、あるいは複数の主体間の特定の関係性に関する概念として把握されることになる。」(124)

2 再定式化の意義
「不利益の読み替え」のポイント
@ 「不利益の原因帰属をめぐる二元論的理解を排して、社会的状態を複数の要素間の関係性として把握しようとする点」(125)――その副次的効果:「個人的働きかけ」という要素を組み込んだ点。「このことは、確かに従来指摘されてきたとおり、障害者に不利益の解消のための過度な努力を要求する圧力に転化する可能性を完全に排除するものではないが、その裏面で、「個人的働きかけ」そのものがコストの経験でもあること、そして「個人的働きかけ」を抑圧し、無効化する125>126「社会的価値」や「利用可能な社会資源」の機能によって、不利益が生成されていく局面が存在することに焦点を当てることにもつながる」(125-6)

A 「不利益を本来あるべき(あるはずの)「標準」からのマイナス方向への偏差(「制約」、「阻害」等)として把握するのではなく、評価に当たっての基準点そのものが社会的過程において編成されてくることを踏まえた、社会内的な主題として提示しようとする点」――「不利益を本来あるはずの状態や、仮想的に想定される可能状態からの偏差として記述する限り、あらゆる状態を不利益として同定しようとする「不利益をめぐる政治」の中で、障害者の経験する不利益を有効に差別化する論理は見出しえなかった」(126)

○ 「不利益とは個人と社会との、あるいは複数の主体間の特定の関係性に与えられる評価である」⇒ 「その解消の方途は一様ではない。個人Aにとっての不利益を、社会的状態の改善によって解消しようとするとして、その社会的状態とは「社会的価値」、「個体的条件」、「利用可能な社会資源」、「個人的働きかけ」といった諸要素の関係性によって記述されるようなものだから、それを解消する方法は多様でありうる」(128)

○ 「次に、ある社会的状態を変化させることが、別の当事者にとっての社会的状態や評価の基準点に影響を与え、新たな不利益の局面を現出させるという事態についても、考慮する必要がある。個人Aと社会との関係性を変化させることは、個人Bと社会、個人Aと個人Bとの関係性の変化を通じた、個人Bにとっての社会的状態の変化をも同時に意味するとともに、個人Bにとっての準拠集団に関する期待値にも影響を与えることで、評価の基準点をも変化させる」(128)⇒「障害者にとって住みやすい社会は必ずしも他の人にとって住みやすい社会である128>129とは限らないということだ」(128-9)

第3節 更新される不利益

1 労働をめぐる「不利益の更新」
ADAの問題――労働能力の基準とされるもののなかで、「本質的」とされる諸基準だけが労働能力を評価するために用いられる。⇒ 「新たな不利益を現出させる」(130)
@ 「ある障害者が「できる」ようになったときに「できない」と見なされるようになる人がおり、そのようなかたちで新たに雇用における不利や困難を「不当な」ものとして経験する人がいる」(130)
A 「「できない」状態に留まり、その限りで変化がないように見える人々にとっても、不利益の持つ意味が変容しうる」(130)―― 「重度障害者の切り捨て」(131)……それは「ADAの理念や現実の適用において彼らが新たに排除されるからであるというよりも、むしろその理念が主張される過程で「能力主義的なもの」がより強力な抑圧として機能するという実感に基づいたもの」(131)。「できる」ことの価値化による「できない」ことの「否定性の強化」(132)

2 「自己決定」をめぐる「不利益の更新」
「身辺自立」「職業的自立」を意味する「自己決定」から、「自らの生活を自らコントロールすること」としての「自立」へ、という自立生活運動における「自立」の意味の変化(132-3)⇒ この「自己決定」の主張への批判。「「自己決定」が抑圧的に機能すること」(134)が指摘されてきた。
 たとえば、「「介助者管理能力」の習得といった生活形成に向けての主体的な努力」が要件とされることにより、「それを満たさない状態は否定的なものであるという認識が、暗黙のうちに前提とされるようになる」(136)。
「「決定すべき自己」への圧力に転嫁してしまう傾向を持つこともありうる」(136)

3 「不利益の更新」のメカニズム
○「不利益の更新」=「特定の不利益の解消を目指すことが、ある意味で不利益を生み出す線引きを書き換え、ある人にとっての不利益の否定的な意味を増幅させるという現象を帰結する、という事態が生じること」(137)
「「不利益の更新」は、ディスアビリティが「重度」で、その解消が切迫した課題であるような人をいっそう周辺化する傾向を持つことになる」(138)

○「特定の不利益の解消は、「不利益の更新」を伴うものである可能性を有する」――「このことは、不利益についての二元論的生成論を超えて関係論的な生成論を提示したこと、および、社会状態に対する評価についてその基準点をブラックボックス化することなく、社会的過程において把握しようとしたことによって、明確な形で浮き彫りにされる」
⇒ 「もはや特定の不利益の解消は、無条件に望ましいことであるとは言えず、またそのほうとは多様で複雑な過程を含むものとして理解される必要がある。」(139)
⇒ 「解消されるべき不利益を特定するためには」、「「社会的価値」の達成度についての期待値をめぐる観念と、達成度とコストとの関連性についての観念という、少なくとも二つの規範的含意を持った要素についての検討」(139)が必要になる。

第3章 ディスアビリティ理論の再検討U

第1節 不利益の規範的特定の試み

1 規範的社会理論の役割
[「ディスアビリティの解消を目指す主張は、「規範的」であらざるを得ない」(148)⇒「規範という主題ないし対象をいかに扱うか」(149)]
「なぜ規範が問題化されるのか」(149)
@ 「不利益を否定的な社会的状態として評価するための基準点が必要とされ、そこにある種の規範が機能している」(149)から。
A 「個々の特定の不利益について、どのような不利益をどのように解消していくのかという戦略に関わる規範的問題が浮上する」から。――「特定の不利益の解消とは、新たな不利益の更新を相即的に伴う」(150)
「不利益の解消の主張は不可避的に「不利益をめぐる政治」を惹起する」⇒「ディスアビリティに関わる当該の不利益がなぜ解消されるべきなのかを問うことが、ディスアビリティ理論そのものに要請される」(150)

2 「障害者差別」という視角
「障害者の置かれた状況を「差別」あるいは「不当」な「排除」と捉える議論」において「不当性の判断の根拠となっている規範」(152)は何か。
津田(1996)の議論―― 「不当な現象の同定と、その判断基準の提示といった課題」(154)にとって「観察不可能な内的世界に「差別」の「本質」を還元していく議論」(154)は有用ではない。
岩崎(2004)の議論―― 「差別」=「成員資格に応じた相互の権利・義務(シティズンシップ)からの排除」(154)。「「得られる利益」や「機会」の観点から、障害者が「不当」に不利な扱いを受けていること」(155)。
だが、「「不当」な状況を特定するための定義の中に、「平等」、「得られるべき」、「不当な」といった規範的なコンセプトが無前提に用いられている」⇒ 「不当性の基準としての規範の提示に成功しているとは言えない」(155)

3 「責任モデル」の射程
遠山(2004)の議論――障害は本人の責任ではないから、それによる不利益は不当である、という議論。
⇒ しかしそれは不十分である。
@「「責任の有無」を基準にするとすれば、インペアメントの解消可能性がある場合に、それを解消しようとしない「責任」はどのように扱われるのか」(157)⇒「解消努力をするかしないかは、少なくとも部分的には個人の「選択」に属する領域であり、その意味で「責任」のある事柄であると言うことができる。しかし、そうしたことは、個人に過度な克服努力を要請するものとして批判された伝統的な障害観を肯定することになり」(157)かねない。
A「過去への遡及範囲によっては、インペアメントを負うことになった原因についても適用可能である」⇒「後天的に障害を負った場合の多くについて個人の「選択」という要素が介在していると見ることができる」(157)
⇒ 「個人の「責任」の領域として特定されるものがどれほど残るのかは判然としない」(158)
また、「選択」の条件を特定する必要もある。
B「そもそも「責任の有無」によって公的な保障を正当化するような議論が、多くの公共政策を支持するものとして過少または過剰である」(158)

「責任モデル」―― 「一定の条件下にあるディスアビリティの解消について有効であるとしても、ディスアビリティに関わる包括的な規範としては限界を抱えている」(158)。「「責任」の帰属範囲、ないしその基準としての「選択」として特定化される範囲についての議論を欠いた「責任モデル」では、ディスアビリティとして特定される領域は、結局記述者の恣意に全面的に依拠したままで放置されることになる」(159)

第2節 立岩のプロジェクト

取り上げる理由
「制度的位相の問題について、財と機会の分配という観点から、障害者問題を強く念頭に置きつつ論じている」(159)。また、「社会の多くの人々にとって受容可能で説得力を持つ論理構成を目指している」(159)
――「財の分配と機会の分配についての立岩の議論がどのように関連し合っているのか」(161)

1 財の公正な分配
分配の根拠としての「他者」
「私的所有の規則の無効性ないし相対性」の主張(161)
たしかに、「人が行為を制御できること」「人が「利己的」であること」(161)によって、私的所有の「規則は機能的に正当化されることがある」(162)。立岩が示すのは、「私的所有」の規則が、「「基本的な原理」として語られ、特権的な位置を占めていることへの批判的認識」(164)である。
⇒ 「私的所有を支える「私の作ったものは私のものだ」という規則・規範が、本来的なintrinsic価値を持つということを否定しつつ、その道具的instrumental価値は条件つきで肯定する議論」(164)

○ ポイントは、私的所有にもとづく「配分規則を採用し権利を保障した場合に正当化されてしまう帰結が、我々の常識的な感覚に反するという点にある」(165)⇒ 「他者の尊重」という感覚が示している「別の価値・倫理」
○ 「他者」とはまずは、「何らかの充実した内容を持つ概念ではなく、「私でない、私が制御しない」という消極的な契機を持つもの」(166)として措定される。
「世界を制御しないでそのままにしておこうとする欲求」ないし「感覚」に基づく「他者性の尊重」(166)

分配の根拠としての「私」
『自由の平等』――「私の存在の承認」を求める欲求からの分配の支持
○ 「『私的所有論』における「利他→分配」という論理に加えて、「利己→分配」という論理によって、分配の根拠を補強し、「利己的」な感覚と「利他的」な感覚の双方からの人の存在(と自由)のための分配を正当化しようとするプロジェクト」(167)

○ 「利己→利他」の論理
存在のための手段となる能力の差によって、「自らの存在のあり方が左右されること、毀損されることを人は望まないだろう」(168)――「私が任意の第三者Xに「ただの私」として認められたい」⇒「人びとに対して私だけを特別にそのように認めろと要求することにはならない」⇒ 「私の存在に対する承認要求はそのまま、Xが私以外の他者を「ただの私」として承認することをも同時に要求することにつながる」(168)
―― 「承認レベルの欲求を措定することによって初めて、障害者を含むすべての人々に対する分配の必要性が原理的に示される」(169)

● 『私的所有論』における「利他→分配」と『自由の平等』における「利己→分配」の関係
「二つの論理の前提とする「他者」のモデルは、やや異質であるように思われる」(170)。
前者では、「「同じ」という契機を徹底的に回避したところに現われる「他者性の尊重」が分配を支持する根拠になる、という主張がなされ、その点でリベラリズム等の理論的前提との明確な差異が示されていた」(170)
後者では、「ある種の同質性という契機を含むものとして他者が捉えられている」(170)

分配の基準としての「他者」と「私」
両者の違いが分配理論にもたらす意味――「具体的にどの程度の分配がなされるべきかを判断するため」(174)の議論が必要である。

● 「「他者性」を基盤として展開される分配の基準についての議論」―― 「分配の対象とならないのは、「xがAのもとにあるということがAがあることの一部をなしている」場合である」(175)

⇒ この分配基準の「曖昧な点」
@ 「Aからの資源の移動が正当とされる境界を定めることが本当に可能なのかという問題がある」(176)
「何がその人のあり方にとって重要な意味を持つのかを、外部の視点から直接的に知ることはできない。あらゆる人のあり方を尊重するためには、それを可能にするだけの資源の必要量を、場合によっては強制的に徴収することが前提となるのであり、そのとき徴収される資源が、その人のあり方にどのように関わっているのかを個別に考慮することが求められるはずである。しかし政治的再分配の過程で行われる強制的な徴収は、そのような人の主観的な世界への考慮を欠いたものであり、その人のあり方にとって主観的には非常に重要な意味を持つものを切り離してしまうことも起こりうるだろう。だからといって、その分配機能を個人の自発性の領域に委ねてしまえば、分配は十分に機能しなくなる。
また、xがAにとって制御を超えたものとしての「他者性」を帯びているか否か、あるいは生存のための手段として不可欠なものであるか否かを、分配に先立って決定する基準は必ずしも提出されているとは言えない。立岩は、「事実、それを自らのもとから切り離すこと、他者に譲渡することができず、それをその者のもとに置こうとする場合」にのみ、XがAのもとに置かれることが許容され、その他の場合にはxは分配の対象としてもよいというのだが、「譲渡しようのない」ものであるか否176>177かを申告によってではなく現に譲渡がなされるかどうかによって事後的に判断するとすれば、そもそも再分配のために徴収を行う機会は失われる。既にxが譲渡・交換された後になってはAからxを徴収してBに分配するという政治的介入の余地はないからだ」(176-77)

A 「Bがあることの条件」の確保の困難。「「他者性の尊重」から導かれる再分配の基準はどこに置かれる」のか。(177)

● 『自由の平等』における「より積極的な基準」
「高価な嗜好」と「安価な嗜好」をめぐる問題⇒ 人は一般にだいたい「一律の水準でなんとかなる」(178)。
「人はそれぞれ変った趣味・嗜好をもっていたりするが、それが並外れて多くの費用を要することは実際にはそうはない」(『自由の平等』178)。
この議論を支える想定 =「同一の社会内にある個々人の欲求形成には相当の類似性が認められ、その充足が個々人にもたらす効果の多様性も一定の範囲におさまっているという想定」(181)
⇒ この展開が示しているのは、「具体的な分配の基準を提示しようとする際には、「他者性」といった内実を特定しない概念に依拠することには限界があり、ある種の「同じ」という契機を含む同質性の想定が必要とされ」る(181)ということである。

2 機会の公正な分配

「様々な社会的場面において人々にどのような機会181>182が分配されるか、という問題」に対する立岩の回答―― 「まず不利益の正当性の基準として「存在の承認」を立て、それがやむを得ず侵害される場合に「限定的な機能性」を補完的に参照する、という構図になっている。「存在の承認」からは、他者の存在を毀損しない限り基本的にいかなる不利益も許容されないが、必要なものの生産という目的に限って機能的な観点からある種の不利益は許容しようというのである」(184)

⇒ 「しかし、このようにして「不当」な不利益を同定するアプローチの正否は、社会的に必要なものの生産をどのように捉えるかに依存する。社会的に必要とされるものの中には、人間の生存の物理的条件があること(食べ物があること等)のようにほぼ絶対的なものもあれば、その社会、その時代において特に価値があるとされるもののように文化相対的なものもある(立岩1997, 2002)。このように社会的に必要とされるものの範囲に幅があるのだから、生産にとっての機能性から許容される不利益も多様でありうるということになる」(184)

⇒ 「さらには、この論理の内部では、社会生活全体の中で不利益がどのように、またどの程度経験されることになるのかを問題にすることはできない。これはあくまでも個別の状況における不利益につい184>185ての正当性の規準を与えるものなのだ。個別の状況における不利益が「正当」なものであったとしても、社会の構成のされ方によっては特定の人が集中的に不利益を経験するということが起こりうるのだが、それはどのように考えるべきなのか。たとえば、身体的に「有能」であることがいたるところで求められるような社会では、インペアメントのある人はいたるところで「正当」に不利益を経験しうることになるのではないか。特に、この点はこのアプローチの抱える重大な難点であると考えられる」(184-5)

3 機会の分配と財の分配――不利益の増幅メカニズム
○ 「立岩理論においては、財の分配問題と機会の分配問題とはどのような関係にある」のか(185)
⇒「機会の分配と財の分配とを基本的に切り離すという」方向(185)――「機会の分配は部分的に「機能的」な観点からなされる必要があるが、財の分配は、生産の総量を確保するための労働のインセンティヴを与える目的で導入される最小限の格差は許容するとしても、基本的には「必要」に応じてなされるべきである、ということである」(185)。
○ つまり、「立岩は必ずしも機会の分配と財の分配との完全な切断を主張しているわけではない」(186)
⇒ これらの「二つの分配問題を結び付けて考える非明示的な前提」の「相対化」が必要である。
○「ないにこしたことはない、か」の議論――「(1)手段のレベルでは「できる」のが私である必要はなく、ある特定の手段である必要もないこと、そしてさらに(2)当人にとっては「できない」ことがよい場合がありうることが主張される」
⇒ (1)について、立岩は「手段のレベルでの「できないこと」の価値付けは多様であることを論証している」が、「目的のレベルでのそれ〔価値付けの問題〕は依然として残っている」(187)

⇒ だが、(2)の意味での「できること」の相対化は成功しているとは言えない(189)。なぜなら、
「障害者にとって「できないこと」が「善いこと」となりうるという結論が成立するためには、全体として「できること」の必要量が満たされていることが前提となる。ところが、その前提は非常に危うい。障害者にとって「できないこと」が「善188>189いこと」でありうるのとまったく同じ意味で、周囲の人々にとっても「できないこと」(あるいは「しないこと」)は「善いこと」でありうる。そこで「できないこと」(「しないこと」)を選択する人が増えた場合には、「できること」の必要量は調達されなくなる。」(188-9)からである。
⇒ そして「「できること」の必要量が調達されない可能性がある以上、「できること」への動機付けはあるレベルまで必要とされるはずであり、障害者だけがその「できること」を免れる理由は提示されていないからである。」(189)。「むしろ、一定の留保を置いた上で、やはり「できること」は「善いこと」であると言わねばならないようにも思われる」(189)

○ ともあれたしかに「過剰に「できること」が要請されることは「善くないこと」」(190)である。――「一つは必要量を越えて「できること」を要求されないこと、もう一つは「できること」に必要を満たすこと以外の余計な価値付けをしないことである」(190)

○ 立岩が示しているのは、「我々の社会にはある領域における不利益を他の領域に拡張していくイデオロギーや、それを前提とした仕組み」(190)=「不利益が増幅していくメカニズム」(190)であり、とくに「生産活動に関わる機会の分配が財の分配へと変換される局面」である。また社会には、「財の分配から機会の分配への影響関係」も存在する(190)。

4 立岩理論の意義と限界
○ 意義
@「障害者の生の条件を規定する財の分配のあり方について、現状の分配原理の相対化と新たな原理の根拠の提示を行ったこと」(191)
A「財と機会がどのように分配されるべきなのかについて、了解可能な基準を提示したこと」――「同質性の契機をめぐる理論的展開を経ながらも、再分配過程において負担する側と受け取る側の双方に対して共通に適用可能な、その意味で不偏的な基準の提示が一貫して試みられている」(191)
B「障害者」が「「不必要に」多くの不利益をこうむることになる存在であること」を示している点。

○ 限界
「障害者の生産への寄与という主題をどう扱うのかが不明確」(191)
――立岩の議論では、「機会の分配と財の分配との「不要な」結びつきの切断と、機会の分配における機能的観点からの選別の191>192限定によって、障害者が生産活動に関して「できない」状態の改善と、「できない」ことの否定的効果の縮減が期待される」(191-2)
⇒ だが、「「できること」と「すること」、「できないこと」と「しないこと」との間を結ぶ「個人的働きかけ」の領域については、ブラックボックスにされている」(192)

また、「各人に不利益がどのように分布しているかを問うことが困難になっている」(192)
「個人がどのような文脈で不便を経験しているのかは各項目だけを見ていたのでは分からない」(193)

第3節 ディスアビリティ理解の再編U――不利益の位置をめぐって

1 「不利益の集中」という問題
「ディスアビリティの同定のための新たなアプローチ」(194)―― 「社会生活全般にわたって、また人生の多くの期間を通じて様々な不利益を集中的に経験することそのものが、深刻なディスアビリティとして経験されているのではないか」(194)

○ 「〈ディスアビリティとは、不利益が特有な形式で個人の集中的に経験される現象である〉」(195)
⇒「「不利益の集中」の回避」としてのディスアビリティの解消
「少なくともきわめて深刻な「不利益の集中」に関して、そうした状況を改善する必要があるという感覚は、日常的に我々が共有している規範である」(195)。
○ 従来の議論は「不利益を一般化する傾向を持って」いるため、「「不利益の集中」の回避」は「過渡的で不十分なもの」と位置付けられている(196)
⇒ しかし「本書の立場では、何らかの不利益の存在は常態として前提されているから、「不利益の集中」の回避こそが目指される目的であるということになる」(196)
○ ディスアビリティの「社会モデル」の意義の明確化―― 「不利益を集中させるメカニズムこそがすぐれて「社会的」な196>197のであり、それはもはや「個体的条件」を媒介することなく作動する」(196-7)

2 「重度障害」とはどのような現象か――不利益の複合化
○ 「不利益の集中」の二つのメカニズム(197)
@「ある個人にとって価値のある様々な事柄がそれぞれ苦手で、その結果として多くの不利益を被ってしまうような場合」
A「一つの「できない」ことが他の領域にまで拡張されていく社会の仕組みのために、本来は苦手でない事柄にまで不利益が及んでしまうような場合」(197)

「重度障害」――「不利益の「複合化」」=「個々の社会的状況における諸々の「社会的価値」と「個体的条件」との関連に規定されて生じる不利益が重なる状態」(198)
⇒ 「障害という「一つの」カテゴリーにおいて、様々な文脈における不利益が複合化するという状況」(198)。
「特定の個人に不利な「社会的価値」のリストが、我々の社会に存在していることの現われ」(199)――「生産能力を要求する「社会的価値」」のもとでは、「不利益が「障害者」に集中的に経験される蓋然性が高い」(199)

3 社会構造と「障害」の深化――不利益の複層化
○ 「いったん特定の社会的活動において「できない」状態になると、そこから自動的に他の社会的活動に関しても社会的状態が悪化し、不利益が生じてくるということがある」⇒「不利益の増幅」(200)=「不利益の複層化」

○ 「領域を超えた「できないこと」の拡張」―― 「ある財の所有が広範囲にわたる他の領域の財の支配権へと転換されること」=「優越」(201)。
○「働けること」が優越している社会では、「働けないこと」が「様々な社会参加における不利益や「自己決定」に関する不利益へと変換されていく」(200)
○ 「確かに不利益の「複合化」も「複層化」も、障害者に対して固有に生起する現象ではない。しかし、生産能力を要求する「社会的価値」を基底に諸々の「社会的価値」のリストが編成されていること、また主に機能的な観点からそうした諸価値が階層的に連結されていることを踏まえれば、障害者に対して不利益が集中する傾向が強いということは言えよう」(202)

第4章 ディスアビリティとインペアメント

第1節 ディスアビリティの非制度的位相
○ 非制度的位相=「不利益の価値的評価」は、「一方ではある種の規範的な社会理論によって当たられる規準に照らして、また他方では当該の状況に参与する当事者の主観的な状況定義や価値評価との関連において把握される」(213)
○ 「インペアメントに関する自己と他者の意味づけが交錯する場としての非制度的位相において、どのような社会的経験が産出され、それがディスアビリティとどのように関連しうるのかについての分析は、きわめて重要な意味を持つ」(214)

1 差異としてのインペアメント、スティグマとしてのインペアメント
○ 「インペアメントの経験」
「認知された〔身体的機能・形態上の〕差異に対して社会が与える特定の否定的サンクションによって、障害は立ち現れることになる」(217)⇒ 「スティグマとしてのインペアメント」(217)
否定的な「性格を有する差異は他と区別される特別な意味を持つことになる」⇒ 「差異としてのインペアメント」(218)
○ 「インペアメント」が社会的にスティグマとして捉えられていても、「差異としてのインペアメント」として自己理解の中で「別様の解釈を与え」る(222)ことを通して、「肯定」可能である。⇒ それが「重要な意味を持つことがしばしばある」(223)

2 規範の内在化
○ 「スティグマとしてのインペアメント」に付与される否定性の構築過程と、それが障害者のアイデンティティに与える影響(223)
まず、「労働(とそれに適した「個体的条件」)は価値223>224化されるのみならず規範化されてもいる」⇒ 「障害者を否定的に価値付ける」(224)
また、「障害者は、ある行為を遂行する能力、または社会的な役割を遂行する能力が制約された存在だが、そこで発揮することが期待される能力の種類や程度は社会・文化依存的である」(224)
こうした「否定性」が、「障害者の全人格的な「否定性」へと拡大されて適用される」
○ 「障害者には当該の身体的特性や能力に無関係な領域に対しても、「弱者」・「不完全な存在」という規定が適用されることなり、障害者はその人生全般にわたって「弱者」・「不完全な存在」であることが期待される」(226)
「障害者がある活動において能力を発揮できなかったとすれば、それは「当然のこと」として受け止められる」(226)
⇒ 「規範の内在化」によって、「こうした否定的な価値付与が、障害者自身にとっても自らの生を根本的に規定するものとして経験される」(227)ことになる。

3 自己抑制としてのディスアビリティ
○ 「スティグマとしてのインペアメントや、否定的な意味付けを伴う差異としてのイン229>230ペアメントは、その「否定性」とそれを常態化させる規範の内在化を通じてディスアビリティとの関連を有する」⇒ 「インペアメントが非制度的位相においてディスアビリティへと変換されるメカニズム」(230)

@ 「障害者が自らの選択を通じて、社会的活動によって得られる利益から遠ざかる過程」(230)
A 「否定性」が「障害者の本人の内的解釈の過程を経て連鎖的に増幅すること」(235)。たとえば、介助を必要とする重度障害者にとって、「自らの生活の存立に不可欠な存在」である「「重要な他者」の言動は、障害者の自己理解のあり方を強く規定する」(235)
⇒ これらにより、「社会的活動に関する期待値の低減によって、当該の社会的活動に「社会的価値」を付与することそのものを回避するようになり、主観的には不利益の経験として感得されないということすら起こりうる」(236)

4 介助関係をめぐる制度的位相と非制度的位相
○ 「非制度的位相におけるディスアビリティの生成過程に対して、制度的位相の問題はどのような影響を与えるの」か(236)――「介助関係におけるディスアビリティの生成に介助システムが関与する事例」

○ 「介助関係に構造的に内在する非対称性」(237)
@ 「介助行為が人間の身体に関わる特殊な領域に属する行為であることに起因する非対称性」(237)――「身体規則(身体距離や身体拙速に関する規範)、その場の感情規則」の「侵犯を経験することになる」。
「この種の身体的接触を伴う行為は、「羞恥」や「当惑」といった感情を喚起する」(237)。
また、「こうした否定感情を経験するのは、障害者だけではない。介助者の側も同様に、介助行為に伴う「羞恥」や「当惑」、「嫌悪感」などを経験する。むしろ、行為の能動性が高い分だけ、否定感情も強力なものになるとも考えられる。他人の身体に触れたり、裸体を見たりすることは、通常許容されている身体規則を大きく逸脱するものであり、さらに整理的な嫌悪感を伴う場合もある。さら237>238に、感情の表出を抑制する規範は、障害者よりも介助者に対してより拘束力のあるものとされている。介助とは、弱い立場にある障害者が人間らしく生きるための援助をする活動であり、それに携わる者には自分の感情を押さえて障害者の立場に寄り添うことが求められる、といった道徳的な規範が並存しているからである」(236-7)

○ しかし、「否定的な感情」が双方に対称的に感受されるからといって、介助関係において介助される側/する側は対称的ではない。

「否定感情は、一般にそれを喚起する行為に対する消極性をもたらしやすい」⇒「両者の否定感情はともに介助行為の遂行の機会を減少させるように機能している」(238)が、「そのことが持つ意味は両者の間でまったく異なるものである。介助とは、そもそも障害者のニーズに基礎を置く行為であり、その行為は、障害者の生存にとって不可欠な要素となっている。つまり、否定感情の経験によって両者が介助行為に対して消極的になるということは、障害者の生存の基盤を脅かす問題となる」(238)

A 「主体性の発揮に関わる問題」――「介助場面における介助者は、介助という行為に関する限りは文字通り行為の主体として現れ、障害者はその行為の客体(受け手)の位置にある」(239)⇒ 「援助を「介助行為」と捉えると、行為の主体は介助者ということになる」。「この関係性の中では、障害者の意思決定の自由度は相対的に低下しており、主体的な立場を確保することが困難になる。なぜなら、障害者が介助行為に対して主体性を発揮しようとすれば指示を与えることによって介助者の行為をコントロールするという過程が介在するからである」(239)。

B 障害者にとって、「介助者の存在は生活の必要条件として求めざるを得ない」。だが、「介助者の側にはそのような必然性は存在しない」(240)
⇒ 「自由に関係を解除し新しい介助者を探すことができるだけの十分な介助供給体制が整っていない状況の中では、障害者は自己主張を控え介助者の意思に順応することで、最低限の介助を確保する必要がある」(241)

○ 「介助の有償化」のインパクト―― 「介助は被雇用者によって提供されるサービスとなる」(241)。
それにより、B「行為に参加・撤退する自由と他者の存在の不可欠性に関する非対称性」に変更が加えられうる。
「介助者の側に不可欠性が与えられるか、障害者の側に不可欠性を消去する手立てが与えられれば状況は好転する」(241)。
⇒ 「障害者の側の不可欠性を消去するための手段」⇒「介助者に十分な介助料を支払うことができれば、市場原理に基づいて介助の供給は需要に見合う所まで拡大するはずである。こうして介助が量的に十分確保されれば、障害者が特定の介助者の存在に固執する必要はなくなる。」(242)
有償化により、「十分な介助の供給量が確保され」る可能性がある(243)。
○ だが、「実際には介助は有償化によっても量的に十分な水準で供給されるには至っていない」(244)。
○ また、「介助が「仕事」として位置付けられること」による問題も指摘されている。
――【注22】「「仕事」として行う部分とそれを越える部分との境界が生まれ、しかもそれらが混在することで、それぞれのケースでどのように対応すればよいのかについて迷いが生じ、心理的ストレスが生まれる場合もある(西浜2002)。有償介助とそうでない部分との線引きが曖昧な状態は、介助関係における対象との距離の取り方に関して介助者に負担を強いる。やらなければいけない260>261こと、やっていいことの境界が不明瞭でその都度決定を迫られる。両者の間には関係性に質的な差異があるにもかかわらず、「介助」という特殊な行為領域の中でそれがうやむやにされている感覚がある」(260-1)

○ ともあれ、「介助関係という非制度的な位相の関係性や相互行為の中で生じる不利益」に対して、有償化という「制度的位相」の位置づけの変更が影響を与える可能性の一例ではある(244)。

第2節 新たなディスアビリティ概念

1 四つの基本的前提の組み替え
○ 「不利益」の原因を個人/社会の二元論に基づいて「社会」に求める理解を批判して「特定の関係性への評価」として把握した。また「不利益の特定」には記述的水準のみならず規範的な問いへの解答が要請されることを示した(245)。
従来の「二元論的な原因帰属によっては常に社会現象の一面しか捉えられないことを踏まえて、社会的過程におけるダイナミックな不利益の生成プロセスを視野におさめよう」とした(246)。
また、従来の議論では、「否定的評価の基準となるはずの参照点についてはブラックボックス化されていた」のに対して、「評価にあたっての基準点そのものが社会的過程において編成されてくることを踏まえ、不利益の特定の試みを社会内的な主題として取り扱おうとするのが、本書の立場」(246)――基準点の特定に関する「規範的な問いの検討が要請される」(246)

○ ディスアビリティ= 「不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象」(246)と捉えることで、「個々の不利益の不当性/正当性のみならず、社会生活全般にわたる246>247不利益の分布のあり方をも問題にする」ことができる。「障害者のリアリティの中で、生全般を通じて様々な不利益を集中的に経験することが否定的な経験」だからである。
「不利益の集中」=社会的に価値のある活動ができないという経験(247)⇒ 「その状況の改善には、社会的に了解可能な妥当性がある」(ibid.)
また、不利益を複合化複層化させるメカニズムは「社会的」である。つまりそれは、「個体的条件を媒介することなく作動する」(247)

○ また、「不利益やディスアビリティ」の制度的側面に特化するのではなく、それが、「自己の内的過程やミクロな相互行為過程といった非制度的位相において生成・構築・増幅されるものでもある」(247)ことに着目している。
「特定の社会的活動を価値付ける「社会的価値」にせよ、社会的状態を評価する際の基準点にせよ、これらが構築される過程には個人の意味づけや解釈が含まれており、それは他者と自己自身との日常的な相互行為によって形作られる。また、他者によって付与された否定的なラベルを内在化することで、「社会的に価値のある活動」への意欲を失ってしまうこともあれば、社会的場面で示される否定的なサンクションのために、当該の場面からの撤退が「合理的に」選択されることもある。このようにして、ある種の非制度的位相における経247>248験は不利益を生み出し、それが常態化することによって制度的位相における不利益へと連動化する」(247-8)
⇒ 「ディスアビリティの問題」は「インペアメントに関連する「個体的条件」を日常的に焦点化する枠組みにおいて現出している」(248)
○ 「非制度的位相」は、「インペアメントに関する自己と他者の意味づけが交錯する場」として重要である。

2 ICFとの理論的異同
○ ICFとの共通点
「様々な要素間の関係性としてディスアビリティ(あるいは不利益)を特徴づけようとする点」(250)
「すべての人に関して観察可能な社会的常態の中で、否定的な、その意味で何らかの対処が要請されるような態としてディスアビリティを位置付けようとする点」
「諸要素の相互作用」においてディスアビリティ現象を理解しようとしている点。

○ 相違点
@ ICFでは、「ディスアビリティの生成過程における「社会的価値」の関与や、ある社会的常態に否定性を付与する際の基準点そのものの社会的構築性といった点に焦点が当てられていない」が、それらは重要な要素である。ICFでは規準手は、「集団内の「標準的な」個人の社会的状態によってほとんど機械的に表現されるようなものとなっており、「期待」という心的過程に含まれる規範的・主観的な要素については扱われていない」(251)。⇒「ディスアビリティの生成においては「社会的価値」やそのリストによってどのような「活251>252動」や「参加」が焦点化されるのか、ということ自体が社会的な過程として重要な意味を持っている」(251-2)
A ICFはインペアメントを「純粋に生理学的・解剖学的に定義」しており、「依然としてインペアメントが、標準からの偏差として医学的・生理学的に定義されている」(252)
⇒「インペアメント」は「「環境因子」を含む他の要素や次元との関連において規定される必要がある」(252)
B ICFでは、ディスアビリティが「内的過程を経て産出され、増幅されていく次元が、まったく看過されている」(253)⇒ 「相互行為場面における不利益の生成」に関する「自己抑制としてのディスアビリティ」の側面は理解する必要がある(253)。

第5章 ディスアビリティ解消の実践と論理

第1節 制度的位相におけるディスアビリティ解消

「制度的位相においてディスアビリティの解消に寄与する思想や理念、運動」の検討(265)

1 「バリアフリー」と社会変革

○ 「バリアフリー」――「高齢者や障害者が社会生活を送る際に妨げとなる社会的障壁をなくしていこうとする営み」(266)
→ 「では、こうしたバリアは、なぜ障害者や高齢者に関して問題になるのか」(267)――「誰にとって、どのような場合に経験されるバリアであるのかをはっきりさせておく必要がある」

@ 「同一の外的要因」(ex 階段、入試制度)が有する意味は人によって異なる(267)――入試制度が「目的の実現に対して促進的に働く人」もいるが、バリアになる人もいる。
A 「同じ人であってもときと場合によって同一の外的要因が違う意味を持ちうる」(268)――視覚障害者にとって、進行中の自動車の発する音は「ノイズ」にも、「歩行に不可欠な情報源」にもなりうる。

○ バリアフリー・アプローチの意義
「誰にとってのバリアなのか」という観点(268)→「障害者や高齢者のバリアの経験」と「それらのカテゴリーのマイナー性」との連関(269)
「マイナー」であるという事実のみにおけるバリア(日本語話者の集団の中に英語話者が一人だけという例)
「少数派のニーズは実現され難い」という構造

その意義は、まず、「個別・具体的な課題に解決を与えていくことを求める」ことにより、「バリアを経験する主体の置かれている個別的で多様な状況に焦点化するに当たって有効性を持つ」(270)ことにある。
また、「現在障害者や高齢者が実際に経験しているバリアの切実さに光を当てる効果が期待される」(270)
そして「解決すべき「問題」の取り組みへの優先順位を規定すること」ができるという点が重要である。
⇒ 「障害者や高齢者が置かれている特有な社会的位置270>271を浮き彫りにする」

○ バリアフリー・アプローチの限界
バリアの除去を求める言説は、それによって特定の少数派に対してアクセスが排除されている「当該領域の活動……の価値や重要性についての主張が、ほぼ例外なく含まれている」(272)
⇒ 「バリアを有意味なものたらしめている「社会的価値」を、基本的に共272>273有」している。ある活動に「社会的価値」があるということはデフォルトになってしまう。

○ 障害学的な社会変革アプローチとの相違点
バリアフリー・アプローチは「主に「利用可能な社会資源」に働きかけるアプローチであるのに対し、障害学のアプローチの一つの特徴は、「社会的価値」への働きかけを強く志向する」(273)
⇒ たとえば「「働けない」ことによって不利益が生じていることを問題にし、それを社会的に解決しようとするアプローチのうち、必要な環境整備・支援体制によって「働ける」状況を作り出そうとするのが「バリアフリー」の視点、「働く」ことに価値が273>274置かれていることそのものを「疑う」のが障害学の視点である」(273-4)

マクロな社会制度における変革ではなく、たとえばIT化による「移動の持つ「社会的価値」の相対的な低下」によって、「移動できない」ようにするバリアの経験が「不利益として現出」する可能性の低下もある(275)。
「バリアフリー」は当該のバリアを文字どおりの意味において除去することのみならず、バリアの意味そのものを変容させていくことによっても可能になる」(275)

2 複合化された不利益とアファーマティヴ・アクション

○ 「不利益の集中」という観点による「アファーマティヴ・アクション」の理論的根拠の刷新の可能性(275)。
雇用の機会に関して、就労という「個別の状況に定位して考える」アプローチと、他の不利益も含めた不利益全体の分布に関する差異を重視する「不利益の集中」を問題にするアプローチとの違い。

⇒ 「障害者と高齢者についての処遇の差異をめぐる問題(本書第1章第2節)にも援用可能である。日常生活において介助・介護が必要である状態そのものは、両者の間に差異はないとしても、それが人生のどの程度の期間において経験されるのか、すなわち時間的な幅の中で不利益がどの程度「集中」しているのかを考慮に入れるとき、両者に対する異なる処遇は必ずしも「不合理」なことではなくなるだろう」(277)

※ ある特定の基準に基づく排他的な処遇がもたらす「不利益」をみれば同等である場合にも、一方だけが他の場面で「不利益」を受けていることは、特定の処遇が排他的に不利益をもたらす場面で選別基準がない場合に、一方を優先する理由になる。別のところであなたは我慢しなくて済んでいるのだから、ここでは我慢して譲るべきだ、と言えることになる。

3 複層化された不利益と不利益増幅の遮断

○ 「不利益を増幅させていく制度的位相のメカニズム」の解体の主張はあった(278)⇒ だが、「個別の不利益の正当性/不当性に焦点を当てる従来のディスアビリティ理論においては、こうした「解体」の主張は機能的な観点から容易に反駁され得た」(278)――「労働インセンティヴの調達」などなどによって。

○ しかし、「「不利益の集中」が確認されるケース」では、そうした「不利益の機能的正当化は基本的に意味をなさない」(278)
――「集中した不利益のうち、解消可能なものが優先的に解消されていく278>279ことが求められる」⇒「当該の不利益の正当性/不当性は二次的な問題となる」(279)
「不利益の集中の回避としてのディスアビリティ解消にとってより有効なのは、不利益の「複層化」により大きな役割を果たしている不利益(たとえば、その部分で躓いてしまえばその後の社会生活全般に悪影響を及ぼしてしまうような活動における不利益)を解消することだから、本書の立場からはそうした重要な社会的活動における不利益の解消を、その個別的な正当性判断はいったん脇において優先すべきだということになる」(279) 

第2節 非制度的位相におけるディスアビリティ解消

○ ディスアビリティの「解消過程に非制度的位相における実践がいかに関与しているのか」(280)

1 「自己決定」を支える――非制度的な関係性の可能性
○ 「「自己決定」が問いに付される場面」(281)――「介助者を「手足」と見る「自己決定」の主張には一定の意義があったとしても、同時に「自立」にとって重要な「もう一つの側面」である「周りの人との関係」が看過されてはならない、とされる」(282)。「逆に言えば、介助者を「手足」と捕らえる「自己決定」観には他者との関係のあり方を問う契機が存在しない」(282)
⇒ 「「自己決定」の主張が排他性を帯びていることへの懸念」

○ 「他者の能力の一285>286部を決定の対象に含めること」(285-6)――「他者は決定の内容を実現する手段としてのみ意味を持つ」ことになる。「このとき参入された他者の能力は、既にその他者に帰属するものではない」(286)。

○ 「他者による介助が介在する領域」――「その内部における独占的な決定権を付与するものではない」(287)
「障害者にとっての「自分のこと」と介助者にとっての「自分のこと」が重なる所に、障害者の「自己決定」が実現される」⇒「ここに「他者性」が現れる余地が生まれる」(288)
――「介助者の視点から見れば、障害者が「自分で」決めることは介助者の自由を奪うものと映る反面、それは障害者自身にとってむしろ辛いことではないか」(290)

○ 介助者の両義性――「そこでは介助者を常に道具化してコントロールすることが求められるわけではないし、介助者を道具化し得なかった場合に常に不満が感じられるわけでもない。つまり、排他的な行為としての「自己決定権の行使」が常に求められるのではなくて、あくまでも特定の状況において、他者にコントロールされていないという感覚を持つことが重要なのであり、そこでは「決定しない自由」も担保されることになる」(296)

○ だが危険性もある。「自己決定をめぐる不利益」を顕在的な行為として現れるものではなく、「当事者の解釈行為に内在」(296)するものであり、「制約されているという主観的な認識を伴う状態」(296)としてしまうと、我慢している状態でも制約されていない、と主観的に感じていさえすれば「不利益」は解消された状態である、と言えてしまう可能性もあるからだ(297)。
しかし「「他者性」を含みこんだ「自己決定」が可能になる状態」の条件が探究課題になることはたしかである。

2 「社会的価値」が再構成される場
○ 「ミクロな社会関係における「社会的価値」」の組み換えによる、非制度的位相におけるディスアビリティの解体の可能性(298)

● 自己決定と不利益をめぐる意味転換
「ピア・カウンセリング」における「自己信頼」――「障害者が皇帝的なアイデンティティを形成していくための不可欠な基盤」(302)であり、「自らの社会的状態に対する評価の基準点の書き換え、ないし「回復」の過程」(303)

● 文化論アプローチの意味
「逸脱者の文化学習過程」――「障害に着いて障害者自身が肯定的で独自の意味づけを行っていく過程」(306)
――「文化としての集合的アイデンティティ形成」(310)

第3節 ディスアビリティとインペアメントの「社会モデル」

○ 「インペアメントについての新たな視点」(311)
「ディスアビリティとインペアメントの双方向的な影響関係」(313)
一方で、「相互行為場面や内的解釈の過程におけるインペアメントへの意味付与が、ディスアビリティ現象に反映する」(312)。ディスアビリティの生成にインペアメントに対する否定的な意味付けが関与している。
他方、ディスアビリティを浮かび上がらせる社会の編成・社会規範は、「インペアメントに対する当事者の意味付けに強く影響している」(313)

終章 ディスアビリティの社会学に向けて

第1節 ディスアビリティ理論への貢献

@ 「個人の外部としての社会に原因を帰属することによって特定さ321>322れるものではない。また、原因帰属による不利益の特定という試みを拒絶することと関連して、ディスアビリティが記述的に特定可能であるという想定も修正される。」

A 「不利益を特定するためには、社会的状態に対する評価のための基準点が必要とされるはずだが、ディスアビリティを「記述的」に特定しようとするアプローチにおいては、その基準点が現実の社会的過程において生成され、流動化するものであることが看過される傾向にあり、それがあたかも社会的文脈と独立にアプリオリに存在するものであるかのように扱われるか、さもなければ個々の不利益の解消の主張に応じてその都度アドホックに設定可能であるかのように扱われるのである」(322)
⇒ 「本書ではこの基準点が社会的に生成されるものであることを前提に、当該の状況に置かれている当事者における評価基準のあり方や、その状況を分析しようとする理論化の規範的前提を含めた、高度に規範的な主題を、ディスアビリティ理論が扱う必要性が主張された」(322)

B 「個々の社会的状態を切り取ってその不当性を確認しようとするアプローチ」にはたしかに「意義と成果」がある(322)。だが、それは現に「障害者が経験する不利益を十分に解消するための理論的枠組みを提供しえていない」(322)。
⇒ それに対して「特定の関係性への評価として現れる不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象、としてディスアビリティを捉える視点」が提示された(323)。
「不利益の集中」―― 「生活の多くの場面で、また人生の多くの期間を通じて、「社会的に価値のある活動」が「できない」という経験」である(323)。

⇒ 「確かにこれら〔不利益が複合化し複層化することで集中していくという現象〕は、障害者に対して固有に生起する現象ではない。しかし、生産能力を要求する「社会的価値」を基底に諸価値のリストが編成されていること、また主に機能的な観点から諸価値が階層的に連結されていることを踏まえれば、障害者に対して不利益323>324が集中する傾向が強いとはいえる」(323-4)

C 非制度的位相への着目――「ある種の不利益は非制度的位相を経由して増幅し、制度的位相における不利益の経験へと連動する」(324)⇒ 障害者はスティグマとしてのインペアメントを内面化し、「積極的な社会参加から遠ざかる生き方」「相互行為場面からの撤退」を選択することがある。これは非制度的位相における「不利益の増幅」である。
だがこのことは同時に、非制度的位相には、「ディスアビリティの生成」だけでなく、自己信頼の獲得や脱スティグマ化によりディスアビリティの増幅を反転させる経路がある、ということをも意味する。
⇒ 「社会的価値の再編成」による不利益の経験の一部の解消・緩和の可能性(325)。

第2節 社会学に何ができるか

課題 ――「不利益の複合化が障害者において特に生じる327>328メカニズムの解明」(327-8)。


UP:2007 REV:.. 20170817
星加 良司  ◇障害学  ◇テキストデータ入手可能な本  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)