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星加良司『障害とは何か』の1の07

「身体の現代」計画補足・449

立岩 真也 2017/12/
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/1984408625159448

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『現代思想』2017年12月号 特集:人新世――地質年代が示す人類と地球の未来・表紙   立岩真也編『社会モデル』表紙   星加良司『障害とは何か――ディス2017/12/11アビリティの社会理論に向けて』表紙   榊原賢二郎『社会的包摂と身体――障害者差別禁止法制後の障害定義と異別処遇を巡って』表紙

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 「星加良司『障害とは何か』の1」を分載中(連載・第140回)。が、全部を紹介することはない。
 『現代思想』2017年12月号の特集は「人新世――地質年代が示す人類と地球の未来」
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#12
買ってください。ただ、立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。またお知らせします。以下、分載の第7回。

 「■しかし分け隔てるものがある、ようだが
 「インペアメントの存在を〔ディスアビリティの〕要件とすること自体は可能だが、それが不利益を生む他の可能的要件を措定した場合とどのように異なるのかについては何も言えていない」と書かれている。「インペアメントの存在を要件とすること自体は可能」だと言う。「要件」という語の意味如何でもあるが、可能であるとされている。それが「不利益を生む他の可能的要件を措定した場合」と「どのように異なるのか」と進む。
 まず(不利益のあり方が)「異なる」ことが前提にされているのだが、なぜそのように言えるのか。そして異なるところがあるとして、それを言わなければならないのか、それはなぜか。
 星加は、「「体が人並みはずれて大きい人」にとっての不利益や「田舎で生まれた人」にとっての不利益ではなく、「インペアメントのある人」にとっての不利益だけがなぜディスアビリティとして把握され、その解消が特に要請されるのかが[…]不明なのである」と言う([108])。まずここだけを読むと、インペアメントとディスアビリティは接続されており、インペアメント以外の何か(例えば高身長や田舎出であること)と(ディスアビリティ以外の、例えば高身長や田舎出であることに関わる)不利益とは異なるという話になっている。とすると、まず、既にインペアメントとそうでないものは分けることができるものとしてあるはずであり、そして分かれて二種類になる不利益のあり方が異なっていることが予めわかっているということになる。そのように言えるものなのか。
 例に即して見ていく。「体が人並みはずれて大きい人」は身体に関わり、「田舎で生まれた人」は身体に関わらないとまずはされるだろう。前者について。まず一つ、「体が人並みはずれて小さい人」は障害者とされることはある。大きい人にしても、巨人症といった名がつけられることもある。それが遺伝やなにかに関連づけられることもある。小さいからできないことの方が多いかもしれないが、大きすぎて何かができないということもあるだろう。そして実際には多く、できるできないの前に、異なることが感じられる。異なりは、社会で障害と呼ばれる対象、その対象にあるとされる契機でもある。とすると、「体が人並みはずれて大きい人」と「インペアメントのある人」はなぜここで分けられているのか。また(最初から)分けられる必要はあるのか。
 次に「田舎で生まれた人」について。その人が田舎で生まれたこと自体はその人の身体に書き込まれてはいないだろう。ただ、そこで生まれたことによって、その人はその土地の言葉しか上手に話せないといったことはある。その能力/非能力は身体にもはや書き込まれているといってもよいのだが、それは遺伝子の変異や交通事故といった物理的・生理的な経路によるものでないと理解されているので、普通は障害の側には分類されない。しかしその苦難は、耳が聞こえず手話を言語としてきた人たちと似たところが(似ていないところとともに)あるかもしれない。
 このように考えていけば、違うとされるものを同じところにまとめること、違う分類をすることもできなくはない。違いがないと言いたいのではない。多くは分明でない境界線が引かれる。種々の社会にあって線が引かれ括られるというできごとがある。こうした社会的な事態・事実をどう見るかという主題はあると思うが、そこに予め、もっと正確な、別の線を引こうとする営み、それ以前に線があるとする営みにどんな意味があるのかである。私にはわからない。
 むろん私たちはときに、ただ観察だけしていればよいということではすまない場合はある。星加も役に立とうとしている――Tの(1)「解消可能性要求」。自ら(たち)がこれは障害であるとか障害者差別であるといったことを言うこと、そのことについて言うことを求められることはある。ただ、その時もまず、何を求めているのか、求められているのかをわかることだ。たんに名前をつけるとかつけないということではない。実際には、しかじかのもの、例えば社会サービスが得られるようにする、しかじかのことが禁止されるように求めるといったことである。障害とするとかしないとかの前に、問題の本体がこちらにあることをわかっておくことである。
 例えば言語的な困難がある場合に、通訳が必要である、そのための費用を求めるといったことがある。それはさきの田舎出の人の要求であるかもしれない。聾の人の要求であるかもしれない。両者に違いはあるだろうが、この場合にはいっしょでよいかもしれない。この場合に、身体になにか「もと」があるか、インペアメントがあるかないかは関係がないかもしれない。ただ、身体的事情にも応じて、言語的交信に必要な手段は異なるから、制度としては分けた方がよいかもしれない。このように考えていく必要があるし、それ以外に必要なのかということだ。
 そのように論を立てていけばよいと思うのだが、それと別に、その手前で星加は「同定」が必要であると考えているようだ。しかし私にはその理由がよくわからない。しかししようとされる。それはどのようになされるか。うまくいっているか。次回に見る。」


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172449.htm
にもある。


UP:2017 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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