『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』の紹介の5。
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
この生存学研究センター編。私はその「序章」と「補章」を書いだ。
前々回はその最初の部分を掲載した。そしてその掲載に際して、「なにか、研究、というか、書いてまとめたいという人にとっては役に立つ本になっていると思う。これから私が書いた2つの部分を紹介していく。長くかかる。まず本を手にとってもらいたいと思う。何かしたい人には役に立つと思う。」と書いた。
その第1回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162140.htm
第2回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162143.htm
第3回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162151.htm
第4回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162152.htm
今回はその続き
「□楽できる、時間が稼げる、が結局考えることになる、それに助言する
「自分で考えよ」と先生たちは言う。おっしゃるとおりだ。しかしそんなことを言われても…、と多くの人は思うだろう。だが、今述べたように、実際に既に考えられたことがある。多くの人たちが長い間、そしてやむをえずまじめに考えきたり、議論し喧嘩してきたその歴史がある。私たちはひとまず(あまり)頭を使わず、それを調べることができる。自分の頭を使う代わりに、あるいはその前に、人(人々)の頭を借りるわけだ。そしてその他人(たち)の方が長く、そして仕方なくまじめに考えてきたということもある。自分の頭を使ってみたって、すぐになにか出てくるなどそうはない。
楽できるなら楽できた方がよい。こうしてまず、あったこと、今起こっていることをもってくる、調べるという仕事がある。そんなことがたくさんできる。だからやろうということだ。そしてそうやって調べている間に、そしてそれが論文になってしまったりしている間に、そして時間を稼いでいる間に、そこから自分が、あるいは誰かが考えることが生まれることもある。
その手前で、人々が何をしてきたのか考えてきたのか、ともかく、その記録・記述が圧倒的に足りていない。日本だけのことではない。今は光州大学の教員をしている鄭喜慶(じょん・ひぎょん)は、センターのある大学の大学院(先端総合学術研究科=先端研)に韓国からの留学生として最初にやってきた人でもあったが、歴史、彼女の場合は運動史研究を始め、そして博士論文(鄭[2012])を提出した。そしていま東アジアという範囲で進めようとしている企画の始まりは、彼女が企画・調整した2008年10月23日の「日韓障害者運動史懇談会」という、とても小さな集まりだった(写真はその時のポスターに使ったもの)。かの国ではそんなに歴史研究が評価されないとも聞く。しかしそれはなされるべきことであり、研究業界はともかく、来日してくれた1960年代前半生まれの活動家の語る歴史はたいへん興味深いもので、その人たち自身がその自らの足取りを大切にしていることがわかった。日本側からはDPI(障害者インターナショナル)日本会議の三澤了(2013年逝去)も参加された。そうした記録・記憶を収めた論文がこの国の研究科に提出されたことは誇ってよいとだと思う。」
今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162153.htm
UP:201605 REV:
◇『生存学の企て』
◇立岩 真也
◇Shin'ya Tateiwa
◇身体の現代:歴史