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なぜ穴があいているのか?・2:『生存学の企て』序章4

「身体の現代」計画補足・152

立岩 真也 2016/05/07
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1723993811200932

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『生存学』9・表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』の紹介の4。
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
この生存学研究センター編。私はその「序章」と「補章」を書いだ。
 前々回はその最初の部分を掲載した。そしてその掲載に際して、「なにか、研究、というか、書いてまとめたいという人にとっては役に立つ本になっていると思う。これから私が書いた2つの部分を紹介していく。長くかかる。まず本を手にとってもらいたいと思う。何かしたい人には役に立つと思う。」と書いた。
 その第1回のHP版は http://www.arsvi.com/ts/20162140.htm
 第2回のHP版は http://www.arsvi.com/ts/20162143.htm
 第3回のHP版は http://www.arsvi.com/ts/20162151.htm
 今回はその続き

 「■なぜ穴があいているのか?・2
 むろん、業界を背負うことが本業でない学問もある。例えば社会学者は社会で飯を食べているわけではない。人類学者にしても人類を食べているわけではない。何をしてもよいことになっている。ならば、そんな学がやればよいではないかとも思える。実際、私がやっている社会学の方面では、例えば「社会運動論」だとか「医療社会学」といったものには、そんな部分を見ていこうというところがあってきた。実際かなりの蓄積・成果がある。
 さらに例えば「障害学」というのは、より旗幟鮮明に、本人――近頃は「当事者」という、幾分曖昧な言葉が使われることが多い――の立場を打ち出している。実際、私も含め本書に登場する幾人かも含め、そうした学会(日本の障害学会は2003年に設立された)に関係したり、学会誌に論文を投稿したりする人もいる。これ以上学会を増やすなど面倒なことだと思う。いろいろなところに出ていったらよい。
 しかしむしろ、既にある例えばその障害学の、すくなくとも概説書の類に書いてある話はいくらか単調であるように思えるところがある。その「社会モデル」の主張を極端に切り詰めると、それは、自分の身体でできない部分は(社会がしかるべく負担して)「補えばよい」という話である。たしかにそうして補える部分はたくさんある。普通に人が思うよりたくさんある。けれども、そんな場合だけではないだろう。
 例えば私の身体は痛い。身体の一部である精神が苦しい。そのこと自体を代わってもらうことはできない。代替可能な障害をもつ人、その人たちの学だけでは見えてこない部分があるということだ。精神病とか精神障害だとか、同じ名前がつけられるものの中にも複数の要素がある。少しややこしくなっている。しかしそういう少しややこしいことを考えておく必要がある。
 では立場がそこまではっきりしないあるいはさせない学問についてはどうか。その「分析」はすこしややこしくなるから、別の機会にする。ただ意外に、作られてきたパターン、枠組み――その内容は社会に批判的で反体制的なものであったりはするのだが――に従順であってきたようにも思える。そして、尖ったり波風が立ったところに付き合わせられることが少なかったということもあったと思う。
 相手の「現実」の側でも、対立があるがゆえに、意図的でなくとも、あるいはときに意図的に、ある部分が見えなくなるということもある。とくに裁判などが絡むと――生活の保障をとるかあくまで責任を追求するかという厄介な選択も迫られてしまうこともあって――対立は深刻なものになる。しかし、争っている間は、それを「表沙汰」にすることは「利敵行為」になるから公けにはしない。その裁判はやがて終わる。そしてその時には内部に隠されていた対立は忘れられている。そんなことも起こる。
 あるいはまた、なおすのが仕事の人たちがなおすことに疑問をもってしまったことがあるのだが、その自己矛盾的なことをどう引き取るか、どんな落とし前をつけるかわからなくなったりして、なんだか尻すぼみになってしまうこともある。するとその存在は消えかかる、あるいはほとんど消えてしまった。するとそれを対象にすることが難しい。
 しかし、そんなところがおもしろいのではないか。じつは、対立があったり、波が立ったりした部分は、平凡な日常をうまく書くことよりむしろ易しいことがある。そして、あまり知られておらず、「先行研究が」がなく、また次節に書くように、相手が既に頭をしぼって考えてくれてきたところがあり、それをまずはいただけるのだから、「おいしい」。だがそこに出くわすことが少なかったのかもしれない。
 当の業界自体も含め、専門家主義だとか科学主義だとかになにか反省的なことを語って、わりあい単純に「別のもの」に予め肯定的なところがある。自分たちが全面に否定されることがない限り――そんなことはまず不可能だ――使えるものは使うことはかまわないとなる。むしろ歓迎される。「べてるの家」とかそんなものをもちあげることは、なにかよいことであるとされている。出張費で見学に行ったりする。しかし、それでなにかが変わったりはしない。わざわざ尖った話を丸く収める必要はない。(それより、なぜそれが受けるのかを考えた方がよいのではないだろうか。ちなみに、こんなことを言うと、すぐ誤解されるのだが、私はそこの実践に否定的ではない。)」


 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162152.htm


UP:201604 REV:
『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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