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なぜ穴があいているのか?・1:『生存学の企て』序章3

「身体の現代」計画補足・151

立岩 真也 2016/05/05
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1723174804616166

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『生存学』9・表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』の紹介の3。
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
この生存学研究センター編。私はその「序章」と「補章」を書いだ。
 前々回はその最初の部分を掲載した。そしてその掲載に際して、「なにか、研究、というか、書いてまとめたいという人にとっては役に立つ本になっていると思う。これから私が書いた2つの部分を紹介していく。長くかかる。まず本を手にとってもらいたいと思う。何かしたい人には役に立つと思う。」と書いた。
 その第1回のHP版は http://www.arsvi.com/ts/20162140.htm
 第2回のHP版は http://www.arsvi.com/ts/20162143.htm
 今回はその続き

 「□なぜ穴があいているのか?・1
 しかし、それにしても、である。例えば「障害者」や「病人」や「高齢者」についてはそれぞれについての学問がきちんとあるではないか。たしかにある。そこで既になされているのであれば、新たになにか名乗ったりする必要はない。けれど、すきま、どころではない大穴が空いている。だから、「学」だとか、でないとか言う以前に、するべきことがある。だからやっている。それにはわけがある。
 なおしたり、よくしたり、補ったりする実践がありその実践の学がある。それは供給の側の学、「業界」の学であってきた。その学は必要である。すくなくともたくさん必要な部分がある。「技」はきちんと伝承されるべきであり、磨かれ発展するべきであるからだ。医学、社会福祉学、看護学、作業療法学、等々――既に大学院生として関わったことのある人たちのもともとの専門を並べている――は基本そうした学問である。この人たちはやがて、国に資格を作ってもらったり自分たちで作ったりし、業界を形成し、客をとり、本人や家族や社会・国家から金を払ってもらってそれを職業にした。その業界を維持し拡大することも目標になる。自らの「専門性」が主張される。
 もちろんそこでも、お客さん第一、本人第一ということは言われはする。そして、お客にとってよいことが自分たちにとってもよいという、双方に益のある幸福な場合があることは否定しない。それはよいことだ。しかしいつもそうなるわけではない。
 まず、どんな人も様々な部分をもっているが、支援する側は、支援する相手の、支援を必要とするその面を見る。それ以外の様々な部分は見られない傾向がある。それ自体は悪いことではない。はしからはしまで他人に見らねばならないいわれはないからだ。ただ、供給側が見るのは、多くどのぐらいうまくいったかであり、ときには(目の前からいなくなってしまえば)それも見ないことがある。相手(利用者)の側にかかる負荷は、さらに気にしないことが多い。たまに自分たちの知識や技の過去について、また人や組織の足取りについて書くことがあるが、それは多く、だんだんと立派にだんだんとよくなってきたという話であることが多い。医学は失敗の連続の歴史であってきたなどと言われることもあるが、それは今がよりよいことを言う際の前置きのようなもので、具体的なところは(振り返っても無駄なことであるとされ)多くの場合に忘れられる。
 失敗された側は、弱ってしまうかもしれず、そのまま死んでしまうかもしれない。そんなに深刻でなくとも、よけいなことをされているかもしれない。さらに、それをよけいなことと思えなくされているかもしれない。自分たちの側のことが消えていくと、さらに弱くさせられてしまうことがある。これでは困ることがある。だから、商売にならなくても、あるいはならないからこそ、ほおっとおけば等しくない関係が維持され強くなってしまうからこそ、供給側の学でないものが必要だということになる。
 そして提供し利用する、提供者と利用者が接触するその場における非対称性がある。その非対称性には様々な要素があるが、ここではわかりやすいものを一つ。供給者はそれを仕事にしている。学校があり、学費をとって教育をし、そして就職して収入を得ているし、業界・学界を維持するためにその収入を使える。個人にしても、学会費を払うのだって、その給料の中から払う。研究費から払う人だっている。出張費で出かける。
 他方お客の方はどうか。病の多くは一時的なもので、なおれば終わりで、忘れてしまう。あるいはすぐに亡くなってしまうこともある。慢性の病の人、なおらない障害をもったままの人もいるが、それで稼いでいるわけではない。むしろ払っている。それでかまわないこともあるが、それでは不利になることがある。そこで、共通の利害があって集まったり組織を作ったりすることもあるが、たいがいそう金もないなか、それはそれでたいへんで、本業にはなかなかならない。そして忙しかったりする。振り返ったりする仕事をする余裕がない。未来について大風呂敷を広げてみたいとも思うが、明日明後日のための当座のことを言ったりしたりすることに追われる。
 だから、そうした毎日からこぼれて落ちているものを拾い集めるという仕事がある。そこから、なにか役に立つことも言えるかもしれない。すぐには現実的でないが、可能な、まだましな道を描くことができるかもしれない。
 それが別の人たちによってでなく、「実践」に関わってきた同じ人(たち)によってなされることもある。例えば本業の方が定年になって少し時間ができたから、そして/あるいは、大学院などに入ってしまって、学費を払うので無駄にするのももったいなく、無理やり時間を作って、書こうという人もいる。あるいは別の人であることもある。その人(たち)は相対的に時間があるから、後ろについて拾って歩くことができる。また、距離があること、距離をとれることで、かえって見られる部分があることもある。」


 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162151.htm


UP:201604 REV:
『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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