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『母よ!殺すな』・2

医療と社会ブックガイド・)

立岩 真也 2007/11/25 『看護教育』48-11(2007-11):
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 横塚晃一『母よ!殺すな』の紹介をしている。ただ、この本を私がどう読んだかについては「解説」に書いたので繰り返さない。400字×50枚分ぐらいの量になった。書かねばと思うことは並べたけれども、舌足らずのところもある。書くのになかなか難儀した。この文章は、営業上今はHPに掲載していないが、そのうち、やはり営業上、掲載させてもらおうかと思っている。だから今は買わないと読んでいただけないのだが、以下その「目次」だけ。
 不思議に明るい本/差別は遍くあり、特異にもある/何がよいのか、はあなたの思いと別にある/だが、示すならわかるはずであること/解決の怪しさを知りながら、得になることをする/時代が支え、そして残したこと/馴れ初めと成り立ちについて
◇◇◇
 これは、初版が1975年(増補版は1981年)に出た本の再刊だ。過去に言われたことや行われてことを記録したり保存したり公開したりする営みがどんなことであるのかについて。
 自身はほとんどそのような仕事をしていないにもかかわらず、このところ幾度も、そういうことが大切だと書いてきた。
 また、私たちのところで始まったGCOE「生存学創生拠点」企画が大きく3つあるのだが、その1つめが「集積と考究」というもので、そこでも同じことを書いている。つまり集めること読めるようにすることが大切だから、私たちはやる、そのためにお金を使う、と書いてある。その意味では、私の思いとしては、この本は、出版社から出た本という形では、最初のCOEの「成果」でもある。
 なぜそれが大切なのか。幾通りも答はある。けれど、その前に逆側から述べておく。つまり、このところこんな主張が通りやすい御時勢でもあるように思えるのだが、それがそう嬉しいかというと、私はそうでもないことについて。
 たとえば「ライフ・ヒストリー」の研究が一定流行のようでもある。ただ私には、そのすべてについてそう魅力を感じられてはいない。
 人の営みや思考への興味が人文社会科学の基本にはあるのかもしれない。そして、看護学も含め、本来はそういう部分が必要であるのにそれが取り入れられていなかった領域で、それが注目されているのは当然のことだと思う。
 ただ、一つ、人間にどのぐらいの興味をもてるかという、ひとまずは個人的と言ってよいだろう要因があって、たぶんその点では私は平均値を若干下回っている。そんなに人間のことに興味がない。 ただ、社会科学、さらに社会学に限って、これからという人たちを見ていると、消去法というか、これなら自分にも「研究」できそうかも、といった気持ちがそこにはあるように思う。社会とか組織とか制度とか「固いもの」は近づきがたく、「人」になら、というところがあるように思える。
 それはよしとしよう。動機がなんでも、結果がよければよい。しかしそれがみなうまく行っているかというと、そうでもない。
 その理由の一つは単純だ。簡単だと思ってやっていることが実は難しいからである。「普通の人」から話を聞く。するとまずは普通の話が聞ける。もちろん普通であることはわるくない。ただここでの普通は、私たちが知っている、あるいは容易に思いが至るということだ。他方、研究というものは「新しい」ことを言うことだということに――そのことのよしあしはここではおくが――なっている。この単純な難しさをなんとかするのは時に面倒だということだ。
 そしてもう一つ、語る側について。横塚は若くして亡くなったのだが、そんなことでもなければ七〇過ぎ。その後に団塊の世代の人々が続く。これから自らの歴史を自ら語る人たちがますます多くなるだろう。きっとおびただしい数の自分史が書かれるだろう。それもまたもっともな行ないでもあり、よいことでもある。
 ただまず、なんでも残されてしまったら、ものは増えるばかりだ。そうして増殖していって、いまは紙媒体でなくてもよいのなら、物理的に消去されることもなく、残って増えていく。しかし、そんなものがあっても、それを見ることはしない。できない。読まれることのない書籍が増殖していく図書館を想像してしまう。
 もちろん実際には人はそんなことを想定していないし、望んでもいない。消えていくものは消えていく。人はもっと慎ましやかだ。いくらか身近な範囲に何かがしばらく残れればなどど思っている。
 だから、やはりそれはよいことだ。そうした営みも結局は空しいなどとうそぶくことはできようが、そんな超然としたふりをする人の言うことを聞かねばならないわけではない。「物語」へのの欲望に文句を言われるいわれはない。
 たださらに、意味ある人生であったと思えることはよいことではあるとして、都合のよいように物語を書き換えることもまったくかまわないとして、しかしそれでも、生は物語を裏切るから、やはり、語ること、まとめること、筋をつけること等々は、ときに、現世を生きていくのに不都合でもある。
 このようなことについて、つまり人の語りを記したり、人が語ることについて書いたりする本は、このごろおびただしくあり、いつかそれらについてもうすこし何か言うことがある、かもしれない。ただここは横塚の本の話だった。
 おもしろい話にするのが難しいことはある。そうがんばって人生まとめたりしなくてもと思う。そとの上でなお、人がなにか言ったり書いたりことを、もう一度読んだり、そして考えたりすることが大切なことがあると考える。記録がまったく不足している。覚えていないこと、忘れてしまいそうなことがたくさんあると思う。
◇◇◇
 では拾っていけばきりがない現実と言葉の何を取り出したり残したりするのか。
 もちろん私がよいと思う本とあなたが思うよい本とは違う。それはいつまでも折り合いがついたりはしないだろう。そして、残るものは残る。その結果は、たとえば私には納得できない結果であったりする。私は私がよいと思うものが残ればよいと思う。
 この本はどうか。以前から知っている本であるために、かえって評価が難しいところはある。初めて読む人はどう思うのだろう。距離感がつかめない。そして一つひとつはとても短い文章だ。難解なところはなにもない。けれどもここにはやはり、「学問」の業界にある言葉たちより、考えるに足ることが書いてあると思う。
 学問にはドグマ(教義)がある。そこまで強く言わなくても作法のようなものがある。社会学等はそんなものから比較的に離れている、はずではあって、ゆえに学問であるかどうか疑わしいのだが、それにしても、いささか戯画化すれば、様々なものに「社会」という札を貼って歩くというのが社会学がやっていることであるともいえよう。「障害学」にもそんなところがある。それは、ごく簡単にすれば、損をしているのは自分のせいではない、社会のせいだ、終わり、と言う。それで私は基本的に正しいと思う。ただ、その手前でいろいろと考えておくべきことはあるとも思ってきた。
 比べて、横塚はそういうお定まりから自由だ。たとえば差別するのは人間の「業」だと言ってしまったりするのだ。しかしそれは、学生が期末のレポートに「誰にでも差別する心はあると思います。だから教育が大切です。」みたいなことを、苦しまぎれか、ごくすなおにか、書いてしまうのと違う。どこが違うのか。
 横塚は「(社会)運動」に関わった人だ。そしてこの本は、まったくその運動の中で書かれた本だ。学問が、「これはこうとも言えるが、ああも言える」といった姿勢でものを言うのに対して、運動は一本気であり、一本調子であるように思えるかもしれない。実際、そんなものがわりあい多い(そしてだからいけないということにもならない)。ただ、ある程度まじめに運動をやろうとすれば、あるものとあるもの、例えば自分がよいと思うものと実際とにあるもの、様々な二つの間の距離だとか落差について考えざるをえない。
 対して、そんな場面に学問の多くは届いていないのではないか。もちろん、「ディシプリン」も不変のものではなく、ときに「バラダイム・シフト」が起こるかもしれない。しかし、それも実際には能天気なものであって、すこし一方に振れすぎたからこんどは別の方へ、といったものでしかない。
 だから二つ(以上)がぶつかる場所にいて逃げられない人の考えることの方が確かなのだ。むろん、みなややこしいこの世を生きているからには、「普通の人」からも何かを取り出すことはできる。ただその方が難しい。横塚には社会が顕現している。本人がそれを把握しようしている。それを引き継いで考えることができる。


横塚 晃一 20070910 『母よ!殺すな』,生活書院

◆立岩 真也 2007/10/25 「『母よ!殺すな』」(医療と社会ブックガイド・76),『看護教育』48-10(2007-10):-(医学書院)


UP:2007 REV:
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