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日本ALS協会 編 19870415 静山社,278p. 1200 ※ ■日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※ b ◆椿 忠雄 1987 「序文」 日本ALS協会編[1987:1-4] [B] ■第一章 新しき運命のはじまり ◆柚木 美恵子 19870415 「「生」を見つめて」 日本ALS協会編[1987:020-022]* →柚木 美恵子 ◆亀山 晴美(岡山県) 19870415 「再出発」 日本ALS協会編[1987:023-032] →亀山 晴美 ◆松本 茂 19870415 「治療法を求めて」 日本ALS協会編[1987:033-042] →松本 茂 ◆近藤 晴美 19870415 「フォークがしっかり握れない」 日本ALS協会編[1987:043-047] ◆塩崎 清江(新潟県) 19870415 「病気の記録」 日本ALS協会編[1987:048-055] 「診断結果、先生が「筋萎縮症……」と呟かれ、ぎくりとした。そのあとで、 「CTにも異常なく、脳中枢の小さな損傷からくる球麻痺だと思いますが……」 と続けられた。二週間の精査入院を言い渡され、診察室を後にしたが、筋萎縮のみ頭にのしかかり、不安になってM先生を訪ねるが、あいにく留守。どうしても気分が収まらず、ご自宅に奥様を訪ね、事の次第を聞いていただいたらスッキリし、お昼までご馳走になって帰った。」(p.50) 「二週間の精査の結果、私には脳中枢の異常があり、今後、治療を月一回の受診のうえ進めることになった。主人には先生から説明があったが、あえて私は聞かなかった。決して(p.50)筋萎縮の疑いが消えたわけではなかったが……。」(pp.50-51) 1984年:「休職のための診断書で、初めて本当の病名を確認した。当初より自分では認識していたつもりだったのに……。愕然とし、目の前が真っ暗になった。」(p.52) ◆長岡 紘司 19870415 「針の息穴」 日本ALS協会編[1987:056-080] →長岡 紘司 ◆菅原 和子 19870415 「生かされて生きる」 日本ALS協会編[1987:081-097] →菅原 和子 ◆定金 信子(岡山県) 19870415 「父さん、ありがとう」 日本ALS協会編[1987:098-104] 1985年5月8日人工呼吸器装着。 「彼に、これ以上負担をかけるのかと思うと、たまりませんでした。私は言いました。 「呼吸器つけるの、断って」 彼はとても悲しい顔をして、「どうして?」とたずねます。私はとっさに、(p.99) 「自分の最後ぐらい自分で決めたいもの」 と答えていました。 「人間誰も、みな死ぬんだよ。いつかわからんけど。ぼくだって明日はどうなっているかわからん。つらかろうが、最後まで生きてくれ。子どもたちも、お前が頑張ってくれていることが励みなんだ」 と、彼は悲しい目を向けたまま、静かに言いました。 子どもたちのことを思うと、胸が張り裂ける思いです。ひねくれた考えにとらわれていた自分を恥ずかしく思いました。そして、もう一度生きてみようと思いました。第二の人生の始まりです。 呼吸器をつけた。空気が、身体のすみずみまで入っていくのがわかる。呼吸するだけで精いっぱいだったこれまでのことを考えると、夢のようです。何でもできそうな気がします。」(定金[1987:99-100]) *立岩の文章における言及 [187]定金信子(岡山県)は一九八五年五月に人工呼吸器装着。「彼に、これ以上負担をかけるのかと思うと、たまりませんでした。私は言いました。/「呼吸器つけるの、断って」/彼はとても悲しい顔をして、「どうして?」とたずねます。私はとっさに、/「自分の最後ぐらい自分で決めたいもの」/と答えていました。/「人間誰も、みな死ぬんだよ。いつかわからんけど。ぼくだって明日はどうなっているかわからん。つらかろうが、最後まで生きてくれ。子どもたちも、お前が頑張ってくれていることが励みなんだ」/[…]/子どもたちのことを思うと、胸が張り裂ける思いです。ひねくれた考えにとら われていた自分を恥ずかしく思いました。そして、もう一度生きてみようと思いました。」(定金[1987:99-100]) [194]「もう一度生きてみよう」[187]と思い、八五年に呼吸器をつけた定金信子。「第二の人生の始まりです。/呼吸器をつけた。空気が、身体のすみずみまで入っていくのがわかる。呼吸するだけで精いっぱいだったこれまでのことを考えると、夢のようです。何でもできそうな気がします。」(定金[1987:100]) ◆小林 富美子(新潟県) 19870415 「白い小さなお城で」 日本ALS協会編[1987:105-114] →小林 富美子 ◆木村 正宣(鳥取県) 19870415 「ALSと私」 日本ALS協会編[1987:116-122] 1985年10月頃・現在の国立病院松江療養所で「主治医と話す機会を得、夜八時ごろから、消灯時間をすぎた一〇時半ごろまで話し合いました。 「あとどのくらいもちますかねえ」 と尋ねたところ、主治医は、筋肉の収縮がどんどん進み、一〜二年のうちに、言葉はもちろん、身体の動きもうんと限定される(寝たきり)が、生命だけは、人工呼吸器で強制的に空気を送り込むことにより、七〜八年以上生存できると思う、と言われました。誠意ある先生の態度、言葉に、一人の患者として、感激で身体が震えるほど嬉しく思いました。(p.121) 私は人工的な延命は望んでいません。にもかかわらず、なぜ、こんなことを聞いたかというと、肺活量は健康な人の四分の一以下になっても、生きることへの意義をもう一度考えてみたいと思ったからです。」([121-122]) ■第二章 闘いの日々 ◆西 和子(三重県) 19870415 「われ身障者となりて」 日本ALS協会編[1987:145-159] 「入院してから間もなく、家庭の事情で、夫とは離婚させられました。三歳と一歳の時別れたままの子どもたちは、どんなに大きくなっているだろう。ここでくじけてはいけない。良くなってもう一度子どもたちに会いたいと、思い続ける日々でした。」(西[1987:150]) …… ■第三章 共に在りて ◆関根 文子(東京都) 19870415 「夫と共に一〇年…」 日本ALS協会編[1987:187-195] 一九七八年七月。夫が「虎ノ門病院に入院。種々検査の結果、家族の人に話があると言われ、ハッとする。私一人で話を聞く。難病で脊髄性進行性筋萎縮症とのこと。ピンとこない。難病……治るのかしら? これからどうなるか、ボーっとしてしまう。」(関根[1987:188]) ◆丸山 正樹(島根県) 19870415 「離婚話」 日本ALS協会編[1987:201-210] 「いつものように顔をふいてやったり、差し入れの食べ物や飲み物をやっていると、妻が突然、こう言った。 「離婚しない?」と。」(丸山[1987:201]) *このファイルは文部省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあります。 作成:立岩真也 UP:20020803 REV:0805,0812,1003,10,1204 ◇日本ALS協会 ◇ALS ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK |