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小林 富美子

こばやし・とみこ


・新潟県

◆小林 富美子(新潟県) 19870415 「白い小さなお城で」
 日本ALS協会編[1987:105-114]
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※

 「自分で死を選べないなら、せめて食事が細くなり、体力がなくなれば、自然と静かな眠りにつけると思い、ひそかに頑張ってきたつもりです。
 でも息苦しくなり、手足が冷たくなって、意識がもうろうとしてきました。あれほどこい願っていた死がすぐそこまでやってきたというのに、苦しさには耐えられず、救急車で病院へ……。最後に耳にした声は、先生と看護婦さんのかすかな言葉でした。
 […]
 先生は、このままの状態にしておくか、それとも気管切開するかと、息子の章浩にかずねられたそうです。のどに穴をあけて、直接レスピレーター(人工呼吸器)につなげば、あと何年かは生きられる。声は出なくなるけれど、飲んだり食べたりすることもできる、と。
 子どもたちは父を失ったばかりで、私にはどんな状態でも生きていてほしいと思い、即座に手術をお願いしたそうです。(p.106)
 目を覚ました時、私はのどに管を差し込まれ、二本のホースで横の器械につながれ、呼吸をしていました。傍には子どもたちの顔がありました。その顔にホッと安堵の色が浮かぶのを見た時、私は、生き返ったのだ、と思いました。その間、どれだけ空白の時があったのか、何一つ覚えていません。
 生きてしまった……。自分に問いつめる。これで良かったのかと……。答えは?……
 やはり、生きていてよかった。私の”宝”であり、希望である子どもたちと一緒に生きていられる素晴らしさを、何倍にも強く感じています。
 私は本当に幸せです。でも、子どもたちはどうでしょう? 聞いてみたいけど、聞けません。」(pp.106-107)

 「先生の努力で、ポータブルレスピレーターを病院で購入してもらいました。これほど行動範囲が広くなるとは考えもしませんでした。
 春先、車いすに器械を積み、病院内を見学したあと、待望の外へ出てみました。私が入院している燕労災病院は、周りを田んぼ、畑に囲まれ、環境に恵まれた病院です。」(p.110)
 「今度は、花見をかねて一泊の外泊。一〇月目のわが家。まさか生きて帰れるとは、夢のようです。」(p.111)


◆「Mさんへの手紙」,『JALSA』023号(1991/10/25):34-35

 「自分はもう時間の問題だと思っていました。/飲み込みもできず、夜も眠れない日が三日続いた翌日、意識もうろうとしてきて、望んだ死が目前にきたときでした。/子供の声がかすかに、病院へ? 救急車? 苦しまぎれにうなずいたのでしょう。その後は何もわからず。/七日後意識をとりもどした時は、器械につながれて生きていました。レスピレーターがあることさえ、だれも知らず。先生の説明を聞き、たいへんさを承知で子供が私の命の選択をしたそうです。/[…]死だけ考えた私もレスピレーターを装着して、もう七年になります。/今では、生きていてほんとによかった。一つしかない命を粗末にせずよかった。子供達に救ってもらった命大切にしたい。ただ生きていてはすまない。病気に負け、病人になりたくない。身体はだめでも、母として生きたい。」(p.34)

 
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■立岩『ALS――不動の身体と息する機械』における引用・言及

 [177]小林富美子[103]は、自分では呼吸器をつけないつもりだった。そのことがどれほど家族に知られていたかはわからない。苦しく意識が朦朧とした状態のもとで救急に同意したらしく、本人の意識のない状態で子どもたちが呼吸器の装着を決めた。「自分で死を選べないなら、せめて食事が細くなり、体力がなくなれば、自然と静かな眠りにつけると思い、ひそかに頑張ってきたつもりです。/でも息苦しくなり、手足が冷たくなって、意識がもうろうとしてきました。あれほどこい願っていた死がすぐそこまでやってきたというのに、苦しさには耐えられず、救急車で病院へ……。▽最後に耳にした声は、先生と看護婦さんのかすかな言葉でした。/△[…]先生は、このままの状態にしておくか、それとも気管切開するかと、息子の章浩にたずねられたそうです。のどに穴をあけて、直接レスピレーター(人工呼吸器)につなげば、あと何年かは生きられる。声は出なくなるけれど、飲んだり食べたりすることもできる、と。/子どもたちは父を失ったばかりで、私にはどんな状態でも生きていてほしいと思い、即座に手術をお願いしたそうです。▽(p.106)/目を覚ました時、私はのどに管を差し込まれ、二本のホースで横の器械につながれ、呼吸をしていました。傍には子どもたちの顔がありました。その顔にホッと安堵の色が浮かぶのを見た時、私は、生き返ったのだ、と思いました。その間、どれだけ空白の時があったのか、何一つ覚えていません。/生きてしまった……。自分に問いつめる。これで良かったのかと……。答えは?……/やはり、生きていてよかった。私の”宝”であり、希望である子どもたちと一緒に生きていられる素晴らしさを、何倍にも強く感じています。/私は本当に幸せです。でも、子どもたちはどうでしょう? 聞いてみたいけど、聞けません。」(小林[1987:106-107])
 別の文章では次のように書かれる。「自分はもう時間の問題だと思っていました。/飲み込みもできず、夜も眠れない日が三日続いた翌日、意識もうろうとしてきて、望んだ死が目前にきたときでした。/子供の声がかすかに、病院へ? 救急車? 苦しまぎれにうなずいたのでしょう。その後は何もわからず。/七日後意識をとりもどした時は、器械につながれて生きていました。レスピレーターがあることさえ、だれも知らず。先生の説明を聞き、たいへんさを承知で子供が私の命の選択をしたそうです。▽/[…]死だけ考えた私もレスピレーターを装着して、もう七年になります。/今では、生きていてほんとによかった。一つしかない命を粗末にせずよかった。子供達に救ってもらった命大切にしたい。ただ生きていてはすまない。病気に負け、病人になりたくない。身体はだめでも、母として生きたい。△」(小林[1991:34])
 *▽△で囲ってある部分は、雑誌では省略してあります。
 [285]小林富美子[177]。「先生の努力で、ポータブルレスピレーターを病院で購入してもらいました。これほど行動範囲が広くなるとは考えもしませんでした。/春先、車いすに器械を積み、病院内を見学したあと、待望の外へ出てみました。私が入院している燕労災病院は、周りを田んぼ、畑に囲まれ、環境に恵まれた病院です。[…]今度は、花見をかねて一泊の外泊。一〇月目のわが家。まさか生きて帰れるとは、夢のようです。」(小林[1987:110-111])


※おことわり
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・このページは、文部科学省科学研究費補助金を受けている研究(基盤(C)・課題番号12610172)のための資料の一部でもあり、本から引用されている部分等はその全体を紹介するものではありません。その記述、主張の全体については、当該の本・文章等に直接あたっていただきますよう、お願いいたします。
・作成:立岩 真也
UP: 20021003 REV:1004,15,20030409,12
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