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松本 茂
まつもと・しげる


・秋田県
日本ALS協会会長*
  *川口武久→松本茂→ 橋本みさお

◆1932    高知県中村市江ノ村に生まれる
◆1983    発症
◆1987/04/  日本ALS協会会長に就任
 その経緯については松本[1995:39-43]
◆1987    気管切開
◆1989/01/20 人工呼吸器を装着
◆1992/06/01 河村好市「主張譲らぬパソコン会話」(連載・[ひと図鑑]福祉を支える・1)
 東京読売夕刊
 http://homepage2.nifty.com/htakuro/newsClip/fukushiwo_sasaeru.html
◆2007 朝日福祉賞受賞

■著作

◆19950901 『悪妻とのたたかい――神経難病ALSと共に』,静山社,318p. ISBN-10: 4915512320 ISBN-13: 978-4915512322 \1890 [amazon][kinokuniya] ※ als n02
 ※この本は書店やインターネットで注文して購入できます。
  &日本ALS協会から特別頒価にて購入できます。
  http://www.jade.dti.ne.jp/~jalsa/info/book.html

◆19870415 「治療法を求めて」
 日本ALS協会編[1987:033-042]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※
◆19910428 「ALS八年の回想」
 『JALSA』021号(1991/04/28):12-13
◆19940515 「ALS患者と人工呼吸器の問題――患者の本音」
 ベンさんの事例に学ぶ会編[1994]*
*ベンさんの事例に学ぶ会 編 1994 『最高のQOLへの挑戦――難病患者ベンさんの事例に学ぶ』,医学書院
◆1997   「総会開会挨拶」『JALSA』41(http://www.nemoto.org/ALS/OLD/JALSA-41/KAIKAI.html)

 

◆19870415 「治療法を求めて」
 日本ALS協会編[1987:033-042]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 ※

 1984年「四月四日、東大医学部整形外科を経て、同神経(p.34)内科へ。井原先生から、はじめてこの病気の疑いがある旨、告知を受けた。発病以来一〇か月目にして、やっと病気の正体がおぼろげながらつかめたのである。その間、たずね歩いた病院や整骨院は、実に一六か所にものぼっている。
 井原先生は、久しぶりに旧友にでも会うような笑顔で迎えてくださり、「この病気はぼくの専門分野だ、筋肉の老化だから治りませんよ」と言われた。先生のお顔が余りにも明るく、その時は、こんなひどい病気だとは思わなかった。
 ただ、治らないことだけはわかった。それでも足がちょっと突っぱる程度で、こんなに元気だから、これで本当に死ぬのかと疑問に思った。そして井原先生から秋田中通病院の滝田先生を紹介され、精密検査の結果、はっきりと病名が確定した。それ以来、自分に残された短い人生をどう生きるかを考えるようになった。」(pp.34-35)

◆19910428 「ALS八年の回想」
 『JALSA』021号(1991/04/28):12-13

 「私は昭和五八年に発病し、転々と多くの病院をたづね、東大の井原先生から、とてもにこやかに「この病気は別名老人病とも言われ、治りません」と告知された。
 私はこんな残酷な病気があることを、全く知らなかった。信じられなかった。再検査を受けた。やがて私は早々と、人生の整理をすることができた。今思えば如何に告知が大事なことであったかと、感謝している。」(p.12)

◆1994   「ALS患者と人工呼吸器の問題――患者の本音」
 ベンさんの事例に学ぶ会編[1994]*
*ベンさんの事例に学ぶ会 編 1994 『最高のQOLへの挑戦――難病患者ベンさんの事例に学ぶ』,医学書院


■気管切開〜人工呼吸器

 19950901 『悪妻とのたたかい』※
 静山社,318p. 1800円

 「二〜三年の命だと診断され、整理を急がねばと思うのだが、いっこうに実感がわかない。とても死ぬなどと思えない。遠いことのように思えるし、死が迫れば、何か予感のようなものがある筈。それなのに、私は生来呑気者なのか、迫り来る死を実感しないのだ。
 ましてや、自ら命を断つなどと一度も考えたことがない。先々、手足が動かなくなり声も出なくなったらどうしようと、そのことを考えるだけで身震いするほど恐怖心に襲われたが、さりとて自殺するほどの勇気はない。」(松本[1995:98])

 「広田先生が血液を摂って調べる。「気管切開をしましょう」とのこと。(p.48)
 これには勇気がいる。いろんなことが頭の中を駆け巡る。
 気管切開しなければ、命はない。死ぬのはいやだ。世間では「人工呼吸器を付けてまで生きなくても」という声もあるが、足の悪い人は車いすを使うし、他人の心臓ももらって生きようとする人もいるではないか。[…]
 しかし一歩翻って患者の心理に戻ると、複雑な思いに駆られる。手も足も動かず、話すことも食べることもできず、この上さらに人工呼吸器につながれれば、もう何の役にも立たない人間になってしまうのではないか。存在価値がなく、家族に介護で迷惑ばかりかけるのなら、死ぬべきではないのか。それが家族への思いやりではないか、と考(p.49)える。
 でも死んだらすべて終わりだ。生きたい。この世に居りたい。
 […]
 「人工呼吸器を付けたら、最低五年は生きるよ」と妻にも相談する。妻は「当然なこと、死なせてなるものか」と力む。ありがたくて目頭が熱くなる。
 […]
 「では、意志の伝達ができなくなったら、呼吸器をはずしてくれ」とパソコンで伝え、気管切開に踏み切る。」(松本[1995:48-50])

〇松本るい*
*松本るい 1995 「悪妻の弁」、松本[1995:289-302]

 1983年?
 「夫から、ALS(筋萎縮性側索硬化症)らしいと聞かされた時は、「まさか」と思いました。書棚の医学全書をちょっと調べて驚きました。「ALSは難病中の難病、二〜三年で死ぬ」とありました。まさか、まさかの繰り返し、町へ行っては書店で立ち読み、隠れ読みにふけりました。」(「悪妻の弁」,松本[1995:289])

 「絶望的な日々が続きましたが、ある日、田圃からの帰りの車のラジオで、今は亡き川口武久さんの闘病記『しんぼう』のことがちらっと報道されました。「アラ」と思って、『しんぼう』を探してほしいと農協に頼みましたら、探してくれました。入手できた日は、夜を徹して二人で読みました。
 『しんぼう』の中で川口さんは、この病気のつらさ、苦しさ、病気の現状を社会に理解してもらい、誰もが安心して闘病できるようになりたい、そのためにはまず同病者や関係者の組織を作り、交流しあいたいと、切々と訴えておられました。全く同感、感動しました。私はさっそく川口さんにお便りしました。」(「悪妻の弁」,松本[1995:292])

 「昭和六二年、発病四年で気管切開しました。「切れば五年と生きる、これ以上お前に難儀させたくない」と夫から相談がありましたが、呼吸器で生きてゆける時代、現に生きている人もいる時代、当然、生きられる限り生きてほしいと、私は気管切開を強く勧めました。」(「悪妻の弁」,松本[1995:297]) 

〇廣田紘一*
*廣田紘一 1995 「いのちの賛歌――難病ALSと闘う松本さん」、松本[1995:1-5]
 「そんな松本さんが唯一弱気を見せたことがあった。昭和六二年夏、気管切開をするか否かが迷っていた頃であった。「人間には尊厳死の権利があるはずだ。自然にこのまま死なせてほしい」と主張された。その時奥さんのるいさんは納得せず、「まだまだ生きられるのにもったいない、たった一つの人生でしょう。頑張らにゃあ」と励まされた。その一言で、松本さんは本気でALSとたたかう決意を固められたのである。」(秋田赤十字病院神経内科部長・廣田紘一「いのちの賛歌――難病ALSと闘う松本さん」,松本[1995:2])

■パソコン 1986

 「六一年一〇月には、すっかり言葉をなくしてしまった。私はこれまで書く方はさっぱり駄目で、もっぱら口に頼っていたので、言葉だけはと祈る思いだった。別れは何でもつらいが、言葉との別れは格別つらく、未練が残った。
 手足も駄目、そして言葉も駄目となると、自分の意思伝達ができない。万事休す。もはやこれまでかと、さすがにがっくりきた。
 そんなある日、本部の松岡事務局長から電話があり、スイッチ一つで文字を打てるパソコンがあると聞き、さっそく導入することにした。一〇〇万円も出せばすぐに使える立派なのがあるとのことだが、できるだけ経費節減といきたいので、いろいろ調べてみた。」(松本[1995:35])押しボタンスイッチ、ソフト、MSXパソコン、プリンター一式、一四万五千円で購入。

■人工呼吸器 1989 在宅療養にあたり

 「厄介なのは人工呼吸器のことだ。病院から借りられるとよいのだが、貸してもらえない。私が使っているのはベネット七二〇〇という器械で、コンピュータ付き、これに取り替えの回路三セットを併せると,八〇〇万近くするとか。安くないなあと考えこむ。  先生が、試してみてはと、携帯用の「コンパニオン」を持ってきてくれる。この器械はバッテリーが内蔵されていて、停電になると自動的に切り換わり、一時間作動するという。小型で音も小さく、家庭向きだ。付属品を入れて三〇〇万円、安くはないが、ベネットに比べるとはるかに安い。だが、肝心の呼吸が今一歩で、コンパニオンは器械をつけていることを意識するのに対して、ベネットは付けていることを忘れる。どうしたものか……。
 悩んだ末、小型のコンパニオンを買うことにした。「そうしましょう」と言って先生が病室を出るや妻が、「苦しんで、死んでも知らないよ」と脅かす。
 「呼吸器は”命綱”だよ。その大事な器械を買うのに、ケチってどうするの。お金はこんなときにこそ使うものだよ」(p.75)
 妻に言われて、五分もしないうちに変更。結局、ベネットとコンパニオンの二台を購入することにした。」(松本[1995:75-76])


 「私はALSになって「殿様」になった。[…](p.256)頭が侵されないのはありがたい。この頃は、病気がALSでよかったと思うようになった。妻はこれまでこちら任せで何一つやらなかったが、私の病気のために全部やらざるを得なくなった。「後家さんと同じ」「こうやって女も強くなるのだね」「あんたのおかげで天国から地獄に堕ちた」とぼやく。」(松本[1995:256-257])

 


〇目について

 「「目は口ほどにものを言い」というが、話すことができなくなった今日では、私の目は口ほどにものを言う。いや、目だけが頼りなのだ。イエスもノーもすべて目ですませるので、見るという役目のほかに、話すという大事な役目も果たさなければならない。
 その目がつぶりにくくなる。無理につぶろうとすると、白目になる。妻は「いやらしい、白目をしないで」と言う。本人はつぶったと思っているので、始末が悪い。また白目をしてと言われて、”ああそうか”とわかるのだ。
 瞼の開閉で意思表示をするのだが、それがうまく出来ない時がある。ALSは目は侵されないと医学書には書いてあるが、人工呼吸器をつけ、長生きするようになると、目も侵されるようだ。本の通りであってほしいと思うが、そうは問屋がおろさない。
 苦しい時など、ますます大きい目になり、かあっと見開いたまま、いくらつぶろうと(p.87)してもつぶれない。苦しんでいると、妻はあわてて、痰か、寝返りか、口かと矢継ぎ早に聞く。目をつぶって合図しようとするが、できない。妻はますます狼狽して、わからない、しっかりしなさいと怒りだす。」(松本[1995:88])

〇食

 「[…]ついに鼻からチューブを入れて経管食となる。これは味も香りもなく、どんなまずい物でもよいので非常に経済的だ。妻が、珍しいものがあると、食べさせないと言うが、美味しさがわからないのでいっこうに食欲がわかない。食べたくない、無駄なことだと否定する。
 経管食は、食べながら仕事ができて実に便利だ。仕事に忙しくて、経済観念のある方はぜひ試してみるとよい。
 横道にそれたが、今は何を食べても(ミキサーにかけ、茶漉しでこして管に入れる)味がわからない。妻は可哀相に思うらしく、さかんに食べさせたいと言う。美味しい魚や珍しい食べ物が手に入った時、「食べたいでしょう。美味しいよ。食べさせてあげたいね」と言い、ついに涙して泣き出す。いくら食べたくないよと説明しても、いっこうに効き目がない。何かあるとすぐ、「食べさせたい」と泣き出す。
 どうしたことか、経管栄養になってから、本当に食べたいと思ったことがない。あまりにもむせて苦しい思いをしたせいか、一生食べる分を食べてしまったからか、食べた(p.95)いと一度も思ったことがない。自分でも不思議に思う。負け惜しみではない。妻は、本当は食べたいのでしょう、といっこうにわかろうとしない。」(松本[1995:95-96])

 「座禅は人為的にALSにして、精神を集中させる。調べれば調べるほど、ダルマさんはALSではなかったかと思われる。世界的宇宙物理学者のホーキング博士も、あれだけの研究ができたのはALSのおかげではないだろうか。……」
 さすが印度哲学者、伊藤さんの話には説得力がある。つい、ダルマさんやホーキング博士に自分をあてはめて嬉しくなる。何だが勇気が湧いてくるから不思議だ。」(p.181)



「協会設立には、松岡さんの功績が大きい。彼は患者の家族でもないのに、ALS患者(p.42)のことになると目を真っ赤にし、今にも泣き出さんばかりになって訴える。住まいを事務所に提供し、自分の仕事を放り出して協会のことをやってくれたり、自費でどこまでも出かけてくれる。普通の人なら少しは損得を考えるものだが、神様か仏様か、それともよほどの変人か、協会活動に没頭してくれる。」(松本[1995:42-43])

 

■19951001 「わが家の壁書「看護学生さんへのお願い」――人工呼吸器をつけた患者からの希い」
 『難病と在宅ケア』Vol.1, No.4,1995年10月号,pp.18〜19

「看護学生さんにお願い」
1.検温するとき:体温計の先に人差し指を背て袖口側から。
2.呼吸器をつけるとき:蛇腹が引っ張られないように。
3.痰の吸引:看護教程にあるようないきなりチューブを折って奥の方へ入れ,
  噎せ させて,根こそぎ取る方法はALS患者には決してやらないで。
4.コミュニケーションは気長にやって。
5.目線は水平にして。
6.手洗いの習慣をぜひ。
7.いつも患者の顔を見て。
8.お尻やアソコはいつも清潔に頼む。
9.寝返りはシーツを使って。
10.カニューレのカフの空気は注意して。
11.呼吸器の使い方。
12.リハビリを手伝ってやって。

 

『JALSA』21

はるまだとおし

だんとうのあとにかんぱがきた
きょうもゆきだ
きたぐにのはるはおそい
えーえるえすのはるも
さっぱりこない
みんなのこりすくない
いのちをきざみながらまっている
なんごくのはるのように
はやくきてもらいたいものだ
はあーるよこい
はあーやくこいと
うたいたくなる

『JALSA』22

きぼう

ALSがみつかってから
ひゃくすうじゅうねんたった
そのかん、せかいでひとりも
なおったひとがいない
そうきはっけんもかんけいない
ふしぎなびょうき
いま、いでんしのかいめいで
なおるかもと、ぜつぼうから
きぼうにかわった
こきゅうきをつけてでも
ないがいきをしないといけない
いきていてよかったというひが
きっとくる
きっとくる、きっとくる

『JALSA』23

たいふう

一九ごうたいふうは
みなみからきたまでふきぬけ
にほんれっとうを そうなめにした
いなほは たたきおとされ
りんごやなし
くだものは ふるいおとされた
みのりのあきを
いちやのうちに ひょうへんさせた
きぎはおれ
なみきは ねこそぎたおれ
いえは やねをはがれ
ひとのいのちまでももっていった
わがやも ていでん一五じかん
はつでんきで こきゅうきをうごかし
きゅういんきをうごかして
なんとか いのちをとりとめた
もうたいふうは こりごりだ
くわばら くわばら

『JALSA』24

ケアブック

まちにまったケアブックができた
せんもんしょくとしてもずばぬけている
しかもよみやすい
ないようもほうふである
ドクターは、こくちがしやすくなった
かんごふは、かんごがしやすくなった
あるいぞくは、
このほんがはやくでていたら
おとうさんもしなずにすんだのに
と、おたよりをくださった
かんじゃは
もうまるたんぼうにならずにすむ
にんげんらしくながいきするために
やくだつことだろう

『JALSA』25

研究基金

この憎きALSを退治するため
募金運動をはじめました
これは協会設立以来の悲願でした
お金の多寡にかかわらず
「心」を寄付して下さい
知人や友人に呼びかけ
みんなで積み上げて
一日も早く原因究明、特効薬
看護の充実ができるように
頑張りましょう

『JALSA』26

期待

一〇〇年もすぎて
やっと薬ができはじめた
世界の研究者がざわめいてきた
こんどはALSの番だ
多くの人が
研究基金の賛同者になってもくれた
拍車がかかる
治るよ きっと治る
治ってみせる
治ったときは
馬鹿にした人を
ただではおかないと
がんばりましょう

『JALSA』27

きぼう

アメリカで
薬がマウスに効いたと報道され
今度は原因の一部がわかった
と報道された
全くの暗黒の世界に光がさしてきた
嬉しさがこみあげてくる
希望がわいてきた
希望は勇気につながる
勇気は力だ
力がみなぎれば、病気がひっこむ
希望を持とう
勇気を出そう
力をわかそう
ALSなんか吹き飛ばせ

『JALSA』28

協力に感謝

ジャルサ基金も
やっと軌道に乗ってきた
各地で展示会やコンサート
バザーが行われている
多くの人が集まってくれて
見てくれる
うれしい
お金も集まるが
何よりもALSを知ってもらえる
理解者になってもらえる
何をするにしても
沢山の方の協力がなくてはできない
協力してくれる人
これこを 強い味方だ
ありがたい 感謝である
大事にしなくてはと思う

『JALSA』29

一〇年ぶりに
コンバインに乗る
ごうおーとうなりながら
稲刈りをする
発病して一〇年
呼吸器をつけて五年
手も足も動かず
食べることも話すこともできず
頭だけで稲刈り
うれしくて、うれしくて
心の中でばんざい
ALSは 手足になってくれれば
何でもできると自信がつく
ALSは 呼吸器をつければ
何年でも生きる
楽しい人生があるのだから
死んではいけない
死んではいけないと
繰り返し 繰り返し
胸にたたきこむ

『JALSA』30

感謝

ALSの原因究明
特効薬の開発
看護の充実のため
基金設立に取り組んで 一年
沢山なごむ好意を感謝
おかげで 目標の半分に到達
患者は
どうかしてと 無言で訴えながら
待ちきれず バタバタと倒れていく
まだ生きられるのに
むごい 可哀相
金があったら 少しでも延命できる
早く 基金を充実したい

『JALSA』31

ゆき

東京は二〇数年ぶりの大雪
怪我人も沢山出た
大潟村は三〇センチほど積もったが
すぐ融けた
以前は一二月の雪が根雪となって
三月まであった
風の時は 雪が下から降る
歩いている隣の人が見えない
南国生まれの私は恐怖にかられた
この頃はすぐ融ける
ALSも雪のように
融けてくれることを祈る

『JALSA』32

呼吸器ばんざい

先生方に誘われて
千葉支部総会に出かけた
一〇人を超える患者がきていた
五人も人工呼吸器をつけて参加
みんな生き生きとしている
呼吸器をつけた人が
五人も並ぶと勇ましい
やはりALSは
呼吸器をつけてからが本番だ
呼吸器をつけることを
みんなで応援してほしい

『JALSA』33

支部の誕生

宮崎に支部ができた
九州で初めて
私も九州に
一五日間の旅をした
福岡 大分も
今にもできそう
支部ができれば
よこの連絡がとれる
全国の支部が本部を核に
助けあってゆきたい

『JALSA』34

安楽死 反対

東北大学で
電極を埋め込んで
手が動くようになる
世界ではじめて回復したのだ
日本で開発された
本当にうれしい
オランダの安楽死
あんなに元気なのに早まった
エーエルエスも
きっとなおる日がくる
安楽死 大いに反対 反対 cf.安楽死

『JALSA』35

コンサート

山本直純氏の指揮で
チャリティコンサートが開かれた
満員の盛況で、大いに湧く
仙台、東京、広島が終わり
九月には横浜でも行われる
呼吸器を付けた患者が
舞台に上がり 感動を呼ぶ
多くの方々に
ALSを理解してもらった
応援してもらった
感謝である ありがとう

『JALSA』36

アンケート

入院拒否や
呼吸器をつけるのを断られて
命を絶つ人が多い
介護費用がなくて
苦しんでいる人
貯金を使いはたした人
生活に困っている人
たくさんいる
世界第二の経済大国なのに
ALSにはあまりにも冷たい
ALS患者も人間だよと
大声で叫びたくなる

『JALSA』37

電気刺激法

世界ではじめて
東北大学でALSにも
手や足に電極を入れる
治療法がはじまった
治るのではなく
維持するだけだが
ひとつトンネルをぬけたのだ
私も足にやってもらった
スイッチを入れれば足が動く
かすかではあるが
いいように思う
私にとっては画期的な出来事
旅もしたい 患者も訪問したい
「まだねたきりではないぞ」と
いきごむ

『JALSA』38

一〇周年記念大会

日本ALS協会ができて
早や一〇年になった
四月二十一日に記念行事を
盛大に行った
呼吸器を着けた患者さんも
たくさん参加
皆んな、呼吸器を着けて
長生きしてもらいたい
一〇年後のビジョンも決めた
今日から
新しい目標に向かって出発
協会を法人化し
会員を一万人以上に増やして
世界に通じるような
飛躍の一〇年にしたい

『JALSA』39

正月

正月が来た
今年も無事に迎えることができ
うれしい
生命があったのだと、感謝
ALSになってから
正月が「生きる証」となり
うれしい
今年こそ
協会を法人化し
在宅患者も投票できるようにし
療養施設の整備に乗り出すなど
永年の課題を実現したい

『JALSA』40

団結

協会も一一年になった
国会や、厚生省も
やっと本気になってきた
今こそ「たが」を諦めて
運動しなければならない
本部・支部が一丸になってあたれば
岩をも崩す
団結を強くしよう
心を一つにして
エーエルエスに
勝ちたい

『JALSA』41

生きる力

エーエルエスは
頭が生きているから
表現をしたい
その手段は
唯一パソコンである
手間がかかると
やらさない
生きる力だから
家族も、病院も
やってあげてほしい
人権問題
憲法にもふれる
人間らしく生かしてほしいと
願わずにはいられない

 

■言及(by 立岩)

 「それは言い過ぎだ、私たちはそんなふうに思っていないと言うかもしれない。しかし言い過ぎではない。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病がある。からだ中の筋肉が徐々に動かなくなり、やがて死に至るとされる病気である。「日本ALS協会」の松本茂は次のように述べる。★04

 「人工呼吸器を着ければ、私のように、五年、十年と生きられる。頑張っていればそのうち薬ができて、治る日がくるかもわからない。ALSは呼吸器を着けてからが本番で、例外を除けば、着けるまでが三〜四年、着けてからが十年と生きる。いかに呼吸器が大事なものか、ALSは呼吸器を抜きにしては考えられない。
 患者はだれしも生きたいと願っている。それなのに、家族や病院の都合で人工呼吸器を着けずに、「自然死」ということで殺している現実を私は数多く知っている。
 命は地球より重いと言われるのに、ALSの命は何と軽いことか。軽んじられることか。ペースメーカーや、臓器移植が宣伝される時世に、なぜALS患者に人工呼吸器を着けてはいけないのか。
 ある患者は、『家族や医師の都合で殺されてたまるか!』と悲痛な叫びを上げている。自然死という言葉の殺人ではないか。」

 そう、人工呼吸器をつけずには生きていけない人たちが、自らが希望しても、人工呼吸器を利用することさえ、実現されてはいないのである。
……
★04 ベンさんの事例に学ぶ会編[1994]所収の松本[1994]。」

◆立岩 真也 1998/01/20「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学) 25枚
 →立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録

■立岩の文章(→『ALS』)における言及

 [23]一九八三年・「「ALSは難病中の難病、二〜三年で死ぬ」とありました。」(「書棚の医学全書」、松本[1995:289])
 [40]松本茂(秋田県)[23]は一九八三年に発症。現在も日本ALS協会の会長を務める。二〇〇二年には十九年ということになる。
 [119]松本茂[40]は一九八四年「四月四日、東大医学部整形外科を経て、同神経内科へ。井原先生から、はじめてこの病気の疑いがある旨、告知を受けた。発病以来一〇か月目にして、やっと病気の正体がおぼろげながらつかめたのである。その間、たずね歩いた病院や整骨院は、実に一六か所にものぼっている。/井原先生は、久しぶりに旧友にでも会うような笑顔で迎えてくださり、「この病気はぼくの専門分野だ、筋肉の老化だから治りませんよ」と言われた。先生のお顔が余りにも明るく、その時は、こんなひどい病気だとは思わなかった。/ただ、治らないことだけはわかった。それでも足がちょっと突っぱる程度で、こんなに元気だから、これで本当に死ぬのかと疑問に思った。そして井原先生から秋田中通病院の滝田先生を紹介され、精密検査の結果、はっきりと病名が確定した。それ以来、自分に残された短い人生をどう生きるかを考えるようになった。」(松本[1987:34-35])
 「私は昭和五八年に発病し、転々と多くの病院をたづね、東大の井原先生から、とてもにこやかに「この病気は別名老人病とも言われ、治りません」と告知された。/私はこんな残酷な病気があることを、全く知らなかった。信じられなかった。再検査を受けた。やがて私は早々と、人生の整理をすることができた。今思えば如何に告知が大事なことであったかと、感謝している。」(松本[1991:12])
 [144]松本茂[40]は一九八四年にALSと知る[119]。「二〜三年の命だと診断され、整理を急がねばと思うのだが、いっこうに実感がわかない。とても死ぬなどと思えない。遠いことのように思えるし、死が迫れば、何か予感のようなものがある筈。それなのに、私は生来呑気者なのか、迫り来る死を実感しないのだ。/ましてや、自ら命を断つなどと一度も考えたことがない。先々、手足が動かなくなり声も出なくなったらどうしようと、そのことを考えるだけで身震いするほど恐怖心に襲われたが、さりとて自殺するほどの勇気はない。」(松本[1995:98])
 [186]「先々、手足が動かなくなり声も出なくなったらどうしようと、そのことを考えるだけで身震いするほど恐怖心に襲われたが、さりとて自殺するほどの勇気はない」(松本[1995:98])と記した[144]松本茂は一九八八年に気管切開。「廣田先生が血液を摂って調べる。「気管切開をしましょう」とのこと。/これには勇気がいる。いろんなことが頭の中を駆け巡る。/気管切開しなければ、命はない。死ぬのはいやだ。世間では「人工呼吸器を付けてまで生きなくても」という声もあるが、足の悪い人は車いすを使うし、他人の心臓ももらって生きようとする人もいるではないか。[…]/しかし一歩翻って患者の心理に戻ると、複雑な思いに駆られる。手も足も動かず、話すことも食べることもできず、この上さらに人工呼吸器につながれれば、もう何の役にも立たない人間になってしまうのではないか。存在価値がなく、家族に介護で迷惑ばかりかけるのなら、死ぬべきではないのか。それが家族への思いやりではないか、と考える。/でも死んだらすべて終わりだ。生きたい。この世に居りたい。/[…]/「人工呼吸器を付けたら、最低五年は生きるよ」と妻にも相談する。妻は「当然なこと、死なせてなるものか」と力む。ありがたくて目頭が熱くなる。/[…]/「では、意志の伝達ができなくなったら、呼吸器をはずしてくれ」とパソコンで伝え、気管切開に踏み切る。」(松本[1995:48-50])
 「松本さんが唯一弱気を見せたことがあった。昭和六二年夏、気管切開をするか否か迷っていた頃であった。「人間には尊厳死の権利があるはずだ。自然にこのまま死なせてほしい」と主張された。その時奥さんのるいさんは納得せず、「まだまだ生きられるのにもったいない、たった一つの人生でしょう。頑張らにゃあ」と励まされた。その一言で、松本さんは本気でALSとたたかう決意を固められたのである。」(廣田[1995:2]、当時秋田赤十字病院神経内科部長)
 「「切れば五年と生きる、これ以上お前に難儀させたくない」と夫から相談がありましたが、呼吸器で生きてゆける時代、現に生きている人もいる時代、当然、生きられる限り生きてほしいと、私は気管切開を強く勧めました。」(松本るい[1995:297])
 [277]松本茂[186]。「「ALSになると、どこも動かなくなって全部の神経が頭に集中するので、頭が冴えてくるのではないですか」/と伊藤さん。私は頭が鈍くなったと嘆いていたが、病気のせいではなく、元々頭が鈍かったのだと思うことにして、伊藤さんの話を信じることにしよう。その方が、何だか都合がよさそうだ。さらに伊藤さん曰く/「座禅は人為的にALSにして、精神を集中させる。調べれば調べるほど、ダルマさんはALSではなかったかと思われる。世界的宇宙物理学者のホーキング博士も、あれだけの研究ができたのはALSのおかげではないだろうか。……」/さすが印度哲学者、伊藤さんの話には説得力がある。つい、ダルマさんやホーキング博士に自分をあてはめて嬉しくなる。何だが勇気が湧いてくるから不思議だ。」(松本[1995:181])
 [279]松本茂[277]。「私はALSになって「殿様」になった。[…]頭が侵されないのはありがたい。この頃は、病気がALSでよかったと思うようになった。妻はこれまでこちら任せで何一つやらなかったが、私の病気のために全部やらざるを得なくなった。「後家さんと同じ」「こうやって女も強くなるのだね」「あんたのおかげで天国から地獄に堕ちた」とぼやく。」(松本[1995:256-257])  [302]松本茂[279]は一九八六年九月にワープロを打てなくなる(松本茂[1985:16])。「一〇月には、すっかり言葉をなくしてしまった。私はこれまで書く方はさっぱり駄目で、もっぱら口に頼っていたので、言葉だけはと祈る思いだった。別れは何でもつらいが、言葉との別れは格別つらく、未練が残った。/手足も駄目、そして言葉も駄目となると、自分の意思伝達ができない。万事休す。もはやこれまでかと、さすがにがっくりきた。/そんなある日、本部の松岡事務局長から電話があり、スイッチ一つで文字を打てるパソコンがあると聞き、さっそく導入することにした。一〇〇万円も出せばすぐに使える立派なのがあるとのことだが、できるだけ経費節減といきたいので、いろいろ調べてみた。」(松本[1995:35]、松岡は当時日本ALS協会事務局長の松岡幸雄)押しボタンスイッチ、ソフト、MSXパソコン、プリンター一式、一四万五千円で購入。
 [306]松本茂[302]の著書(松本[1995])は四〇章からなるのだが「各章は短いものでも三〜四日、長いものは二週間以上かけて打った」(松本[1995:20])とある。  *19950401 「安楽死 反対」、『JALSA』34:13

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・作成:立岩 真也
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ALS  ◇日本ALS協会  ◇WHO

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